a0326062_08005620.jpg





「岡本大八事件」
は、以前龍造寺氏に奪われた旧領の返還を求める「キリシタン大名」有馬晴信と、家康の側近である老中本多正純の家臣岡本大八との間の贈収賄事件として知られている。賄賂を贈ったのが有馬晴信、受け取ったのが岡本大八である。

この事件は1613年1月の全国的な禁教令発布の重要な契機の一つとして、よく挙げられている。しかし、一見単純明白なこの汚職事件の展開には種々不自然な点がある。にもかかわらず、一般にその点はあまり追及されず、ほぼ同時期の大奥の女中「おたあジュリア追放」の件と並べて、ただ全国的な禁教令発布のきっかけとされてきたように、私には思えた。


そして、その種々不自然な点について考えているうちに、この事件は実は家康・正純による「キリシタン大名潰し」の謀略だったのではと考えるようになり、そのことを記事に書いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)約400年前のこの事件についても、御多分に漏れず、同時代及びそれ以降の権力や権威にとって都合の悪いことは隠蔽・抹消されてきたであろうから、それが不自然な説明に現われているのではないか、と思ったからだ。

すると、そんな記事を書いた所為で、事件について他の人はどんなことを言っているのかとか、何処かに何か決め手になるようなことが書いてありはしないかとかが、いつも気になるようになった。また、どうも、この事件は私だけでなく多くの人にとって気になる出来事であるらしいことも分かってきた。



最近、たまたま「カルヴァ-リョ弁駁書」という文書を読んでいて、その中に「岡本大八事件」に関して書かれた箇所があるのを見つけた。
(その文書の日本語訳は、大航海時代叢書「イエズス会と日本 二」に収められている。)


「カルヴァ-リョ弁駁書」
は、正式には、「フランシスコ会パ-ドレ・フレイ・セバスティアン・デ・サン・ペドロによって作成された、日本の皇帝が彼の諸王国からすべてのパ-ドレを追放するに至った諸原因の摘要、と題された論文への弁駁と回答」という長々とした題名が付けられているだけあって、日本語訳の分量も約300ページと長大な文書である。

内容は、江戸幕府によるキリシタン禁教の原因がイエズス会の布教方針にあったとするフランシスコ会士セバスティアン・デ・サン・ペドロの主張に、イエズス会日本管区長ヴァレンティン・カルヴァ-リョが反論したものである。


その主張・反論の中に、有馬晴信・直純親子の関係やイエズス会の関与などそれまでに私が知らなかったこの事件の様々な背景や展開が語られている。もちろん、デ・サン・ペドロの主張もカルヴァ-リョの反論も、日本における布教方針をめぐって当時激しく対立していた各修道会の立場から書かれたものである。また、書かれていることの情報の出所や根拠も示されていないから、それをそのまま真に受ける訳にはいかない。

しかし、そこには事件の当事者に近かった者であるゆえに知り得たと思われる事柄が種々述べられている。また、対立する二者の主張と反論によって、少なくとも事件の状況がよりリアルに浮かび上がる面があるようにも感じられる。そんなことから、両者の主張と反論及び付されている解説のうち「岡本大八事件」に触れた部分を抽出して整理してみた。
(なお、一部人名や表現は解り易くするために、日本語訳原文のものから変えてある。)




[セバスティアン・デ・サン・ペドロが主張する事件の経緯]


恩賞として家康の曾孫を与えられた息子直純
有馬晴信はマカオからのガレオン船を攻撃し自爆させるという軍功を立てた。そこで、家康はその恩賞として、晴信の息子直純に自分の曾孫(ひまご)国姫を与え、キリシタンとして教会での婚姻をしていた妻マルタ(小西行長の姪)と離縁させた。

賄賂の目的
晴信は、肥前の国の藤津という、自分の領国に隣接する地方が与えられることを願い、家康の側近本多正純の家臣岡本大八に賄賂を贈った。

追い込まれていた晴信
晴信はイエズス会に対してのみならず、自分の主要な家臣たちにも、手に入る筈の領地からの収入や土地を配分する約束をしてしまっていた。

長崎奉行に訴えた直純
藤津割譲の件が一向に進まないため、晴信が本多正純に進捗を訊き合わせると、家康はその土地を与えると言った覚えはないとの回答があった。そこで、息子直純は、この件は不正であるとして、長崎奉行長谷川左兵衛に訴えた。左兵衛はイエズス会の敵であるばかりか、他の修道会の者も含め宣教師全員を追放した人物である。

直純・左兵衛を殺害しようと図るに至った晴信
岡本大八は、晴信とイエズス会に対し、直純が左兵衛にこの件を通報したために、事がぶち壊され、もはや手の打ちようがないと知らせた。このため、晴信は息子直純と左兵衛に対し激怒し、両者を殺害しようと図るに至った。この事に関し、晴信は大八に何通かの手紙を書き、それは事件が発覚した後に大八自身から示された。

イエズス会は修道士を派遣した
イエズス会京都地区長パ-ドレ(ペドロ・モレホン)が日本人修道士レオイン・パウロを派遣して、晴信と大八を和解させた。左兵衛はその地区長パ-ドレに腹を立てついにはマニラに追放した。

父晴信と大八の和解は、直純にとって不都合なものであり、過去晴信が自分を殺そうとした経緯もあったことから、直純はイエズス会を手酷く非難した。また、友好関係にあった長谷川左兵衛と協力して、一部始終を本多正純や家康自身に知らせた。


家康は全ての顛末を知った

家康は事の顛末を知り驚き、更に次のことを知った。
晴信が自分の息子を殺そうとしていること。その全てがイエズス会のパ-ドレたちの手で操られてきたこと。さらに、二人を和解させるためと、家康自身は出そうとも考えていなかった(藤津割譲のための)勅令について交渉するために、修道士レオイン・パウロが駿河に赴いたことである。

その結果、家康はその関係者全員に対して激怒し、左兵衛と既に自分の曾孫(ひまご)の夫になっている直純の意見を大幅に取り入れ、晴信と大八を駿河に呼び寄せ取り調べた。晴信は、直ちに一部始終を語り、イエズス会パ-ドレたちと彼の妻がそれを企んだと付け加え、大八ばかりでなく修道士レオイン・パウロにまでも罪を着せた。

「これは悪魔の法である」
家康はそのような陰謀を知り、パ-ドレたちやキリスト教徒たちにに対し、激しい非難の言葉を浴びせた。ことを企んだのが皆キリスト教徒だと知ったからである。特に、晴信が息子の、それも家康自身が純粋無垢と考えていた者を殺そうとしていたことが確かになったので、「これは悪魔の法である」と左兵衛に向かって言った。そして、激しい怒りを見せて、直ちに大八を火刑に、晴信を斬首に処することを命じた。



[カルヴァ-リョの反論]


有馬晴信が望んだもの

デ・サン・ペドロは、有馬晴信が藤津を望んだと述べているが、本当はそれ以上を、つまり彼の父親(有馬義貞)が肥前の領主(龍造寺隆信)によって奪われた土地を望んでいたのだ。だから、晴信の望みは正当なものだった。

さらに、晴信がイエズス会のパ-ドレたちを仲介にして大八と交渉したと述べているが、パ-ドレたちがその件に加わったことはなかった。晴信がイエズス会のパードレたちと結託して定収入や土地の配分をしたと言うが、パ-ドレたちは決してそのような配分に関与していなかった。

家康や正純がこのことを知らなかったかどうか
また、家康はその件を知らなかったと述べているが、我々は(その点について)知っていることを述べる訳にはいかない。
本多正純についても、そのことを知らなかったと述べているが、それも我々としては、時が来れば真実が分るであろうと申し述べておく。

イエズス会パ-ドレに操られたと言っていること
デ・サン・ペドロは、晴信が自分の息子を殺そうと企てたこと、およびこれが全てイエズス会のパードレたちの手で操られたことを確認するに至ったと述べているが、それらは全くのでっち上げである。

修道士が動いた理由と直純の反応について
修道士レオイン・パウロは、晴信の要請を受け、京都地区長パ-ドレの許可を得て、左兵衛には知らせずに、大八に会いに行った。修道士がその件に介入したのは、両者の間の和睦のためであった。けれども、晴信の息子直純は、父親の領土をわが物にしようとしていたので、腹を立てたのだ。



[解説に挙げられている事項]


岡本大八・本多正純とイエズス会の関係
大八はもと長谷川左兵衛の家臣で、長崎に住んでいたか、または頻繁に長崎を訪れ、長崎で海外貿易に携わり利を上げていた人物である。
正純も長崎貿易に深く関わっており、家臣である大八を介してポルトガル船による委託貿易を行わせていた可能性は充分ある。
このことから、両者ともイエズス会とは元々親密な関係であったと考えられる。


1605年の長崎換地の件
「長崎天領と大村領との交換問題」である。

(これについては、解説に書かれてある内容が当初私にはよく理解できず、そのまま放置していたのだが、たまたま最近読んだ小説「NAGASAKI 夢の王国」で採り上げられていた。そして、どこかで読んだことがある気がしてきて探してみると、青山敦夫著「天正遣欧使節 千々石ミゲル」〈朝文社〉にも書かれていた。そこで、それらを総合してみると、以下のようなことのようだ。)


大村純忠が寄進したイエズス会領は秀吉に没収され、後に幕府の天領となっていた。ところが、秀吉に没収されず周辺に残されていた大村領の土地の方が、開発が進み町として栄えるようになった。


通辞ロドリゲスの関与
そこで、大村領を外町の一部として長崎に組み込み、その代わりに浦上村とその周辺のまだ開発されていない天領を大村に与えるという、幕府に都合の良い案を、イエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスが家康に提案し了承を得たと言われている。
(イエズス会は、これを強く否定しているが、ロドリゲスが幕府方に長崎の図面を提供したことは認めているのだから、彼が全く関与しなかったということでもなさそうである。)

大村喜前(よしあき)の激怒
この案は、圧倒的に大村側に不利なものだったから、これを一方的に通告された大村喜前は激怒し、全てはイエズス会の陰謀であるとして、棄教を宣言し領内からの宣教師追放を命じた。これにより、キリシタン教会はその時まで残っていた「キリシタン大名」二人の内一人を失い、有馬晴信一人を残すのみとなった。

ロドリゲスと等安の結託
他方、この案は長崎町政上の混乱を除去し、長崎外町を支配する代官村山等安を利するものであったから、当然ロドリゲスと等安が結託して推進したものと考えられている。後に、敵対することになる等安とイエズス会の関係は、この1605年当時は未だ良好であったということであろう。

ロドリゲス失脚・追放へ
この領地交換問題にロドリゲスが関与し、結果的にかつては有力な後ろ盾であったキリシタン大名の支持を失ったことは、イエズス会内部でも深刻に捉えられたようである。以後、急速にロドリゲスに対する批判が増していき、5年後の「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」直後に彼はマカオに追放される。因みに、その際ロドリゲスの失脚・追放を工作したのが、奉行長谷川左兵衛と代官村山等安だったと言われている。



[私の思うこと、考えること]


1.フランシスコ会士の主張する経緯は幕府側発表に手を加えたもの

フランシスコ会士デ・サン・ペドロが主張するこの事件の経緯は、概ね世間に流布されていた情報を基にしたものであるためか、不自然さは余り感じられない。幕府側から意図的に流されたものに、イエズス会の関与という事項を組み入れると、このような経緯になるのではないだろうか。



2.カルヴァ-リョの反論は面白い

むしろ、興味深いのはイエズス会のカルヴァ-リョの反論である。


(1)イエズス会の関与について

修道士レオイン・パウロを派遣したのは、単に晴信・大八両者の和解のためだと述べているが、信者同士の争いごとを収めるだけのために、直純と共にこの件を不正として暴く立場をとる筈の奉行左兵衛に断わりもなく派遣したというのは不自然である。ということは、自分たちの関与が疑われる危険を冒してまでも、是非和解させておかねばならない理由があったのである。

それは、デ・サン・ペドロが言う「手に入る筈の領地からの収入や土地を配分する約束」があったと疑われても仕方がないということである。つまり、この事件の端緒、贈収賄の発生時点から、既にイエズス会の関与があったと考えられるのである。そうだからこそ、カルヴァ-リョは「贈収賄の目的である晴信の望み(旧領の返還)は正当なものだった」と述べる必要があったのだろう。


(2)皆、イエズス会を媒介にした金儲け仲間だった

そこで、興味を引くのは解説に挙げられている、岡本大八・本多正純とイエズス会の関係である。大八も、その主家である正純もポルトガル船貿易に深く関わっていたから、元々イエズス会とは密接な関係があったということである。

しかし、そもそも、家康も生糸や金・銀や香木の取引でポルトガル船貿易に関わり、蓄財に励んでいたということは知られており、イエズス会と経常的な接触はあったのである。ということは、有馬晴信はもちろん、大八も正純も家康も、皆、ポルトガル船貿易に手を染めイエズス会と浅からぬ関係を持った仲間なのである。

それを考えると、家康、正純がこの件を知っていたか否かについて、カルヴァ-リョは言葉を濁したような妙な言い方をしているが、要するに両者とも事件が公に発覚する前に既に知っていたということだろう。

イエズス会を媒介にした仲間なのだから知っていて不思議はないのである。というよりむしろ、どの段階でかは定かではないが、それを知ったイエズス会が、絶対的権力を持ちつつある正純・家康に対する組織防衛のために、かなり早い段階で知らせたとも考えられる。

そして、正純・家康は、事件の発生を知りながら、晴信を泳がせ、その後どのように彼の抹殺を進めるかを考えたのではないだろうか。そこから、手前味噌になるが私が以前の記事に書いた「最後のキリシタン大名」抹殺のための謀略に繋がっていくことになるようだ。




3.有馬直純は徹底的に利用された


晴信の息子直純は、15歳のときから家康に側近として仕えた。それは、晴信が関ヶ原の戦いで西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り旧領を安堵された年、1600年のことだから彼は自分の勢力伸長を助けるものとして、息子を駿府に送り込めたことにさぞかし満足し、期待したことだろう。

しかし、結果的に直純の存在を徹底的に利用したのは、家康の方だった。
まず、この息子は、父親と大八を長崎奉行に訴え、奉行左兵衛と組んでイエズス会を非難し、一部始終を報告してくれた。

ただ、家康・正純にとって、晴信・大八はともにポルトガル船貿易で儲けた仲間である。特に、家康は晴信の貿易事業家としての手腕を高く評価していたと言われている。つまり、晴信に随分儲けさせてもらった義理もあるのである。しかし、国内政情の安定化(つまり豊臣方対策)と幕府の貿易独占推進のためには、キリシタン大名抹殺は喫緊の課題である。

そこで、家康が持ち出したのが、伝家の宝刀「人倫の道」である。

晴信と大八は、互いにそして周囲の者までに罪をなすり付ける醜態を演じてくれている。その上、晴信は罪なき自分の息子を殺そうとまでしている。それらの者どもがキリシタンであることから、「キリシタンは、人の道を外れた『悪魔の法』である」と言えるのである。

実は、家康自身、織田信長との提携関係を守るために、長男信康に切腹させたという経験があるのである。
自分の場合は、やむを得ない事情があったと考えたのであろう。そのくらいでないと、天下は取れないということか。

ともかく、家康は義理もある金儲け仲間たちを抹殺する大義名分を、晴信・直純の親子関係に見出したのである。そして、いつもそういう場合にしてきたように、怒り心頭に発したふりをして抜け目なく、素早く二人を処刑した。



4.家康がイエズス会を非難したもう一つの理由


しかし、この機会に家康がキリシタンを、特にイエズス会を公然と非難しておかねばならない理由が他にもあったのである。
それは、領地問題へのイエズス会の介入を牽制する必要である。

解説で挙げられている「長崎換地の件」への通辞ジョアン・ロドリゲスの介入は、考えてみればとんでもないことである。この時代、幕府が大名に領地を分け与え治めさせることが社会制度の根幹であった筈である。したがって、大名に対して如何に領地を与えるかは、幕府以外の何者も踏み込んではならない問題なのである。それを、あろうことか一宣教師如きがその領域に介入してきたのである。

ただ、通辞ロドリゲスの提案は幕府にとって有利なものであったために受け入れられたのだろう。結果として、大村喜前の怒りを買いイエズス会内部にもロドリゲスを批判する声が上がったということであるが、当然幕府内部にもこれは看過すべきではないという意見があったとは考えられる。が、それは聞こえてこない。幕府としては、領地問題という幕藩体制の根幹に触れるような問題に踏み込まれたことを大々的に取り上げる訳には行かなかったのではないだろうか。

「岡本大八事件」も発端は、「旧領の返還」という領地問題であり、そこに当初からイエズス会の関与があったことは濃厚である。幕府関係者にとっては、またかという思いがしたことだろう。と同時に、そこまでイエズス会の影響力が浸透していることに改めて危機感を膨らませたのではないか。しかし、今回も一宗教勢力が社会制度の根幹に触れるような問題への影響力を持ち始めていることを認める訳にはいかない。

「岡本大八事件」の結末が、「悪魔の法」であるキリシタンの為せる業として、家康がいきなり倫理・道徳の問題を持ち出して処理したように語られていることに違和感を覚える私は、そんな理由を考えている。



5.全国的禁教令の契機になった理由について


「岡本大八事件」を「おたあジュリア追放」と並べ、これらが全国的禁教令発布の契機となった理由として、周囲が皆キリシタン関係者であることに家康が愕然として、というような言われ方がよくされるが、それは殆どあり得ない。

まず、上に述べたように、家康自身ポルトガル船貿易で儲けたイエズス会仲間だったのだから、周囲がキリシタン関係者であろうと驚く筈がない。そして、幕藩体制の根幹であり、幕府・諸大名にとって最大の関心事である領地問題にイエズス会が噛み込んできたことに、家康は何よりも脅威を感じ、キリシタン早期一掃の必要性を改めて強く意識し、それが全国的禁教令発布の一つの契機になったとは言える、と私は考える。それが、今回の結論である。



〈おわり〉







































[PR]
# by GFauree | 2017-03-12 07:33 | 有馬晴信 | Comments(2)

日本語個人教授のその後

                                    
a0326062_11015376.jpg
                       
                                          (写真撮影 三上信一氏)



私が日本語を教えるようになってから、もう5年が経った。
ある国立大学の経済学部にアジア諸国研究のグル-プがあって、そのグル-プの学生たちが主催する日本語講座をやらせてもらったのがきっかけだった。講座は週1回(4時間)で6か月間、と言っても大学のストライキなどもあったから20回ほどである。


物珍しさで生徒が集まった


この国に暮らす日本人は、たいてい官公庁・大企業の駐在員か、考古学研究者か、ジャ-ナリストか、若い頃から当地で仕事をしてきた方である。私のように、定年まで日本で働いていたような者はまず居ない。

ずっとサラリ-マンをやっていた普通の日本人から日本語を、それも無料で教えて貰える機会というのが珍しかったからだろう。学生グル-プがfacebookで募集すると150人以上の応募があり、それを40人に絞って貰った。自分がやる以上、6か月間の最後には出席者はほとんどいない、なんていうことになって欲しくなかったからだ。


「日本語を教えてくれ」というのは、「友達になりたい」ということ


この国に来て意外だったのは、よく日本語を教えて欲しいと 言われることだった。ところが、こっちがその気になってもなかなか具体的にならない、始めてもすぐにやめられてしまうのがほとんどである。そのうち、「日本語を教えてくれ」というのは「日本人であるあなたと友達になりたい」という意味の挨拶代わりの言葉だということが分かってきた。

そもそも、私自身、日本語教育を正式に勉強したこともないのだから、それを教えるなどということはおこがましい。それに、変に期待させ責任を負わされるのも嫌だったから、そういう話は断っていた。が、その日本語講座の話は期間限定で責任もなさそうだし、アジアに興味を持っている学生たちというのが面白そうなので引き受けた。

講座の方は結果として、約半分の生徒は最後まで残ってくれたので、私としてはそれで充分だった。初歩的な事しか教えられなかったが、私にとっては、学生たちを通してこの国の一面に触れることのできる新鮮で楽しい経験だった。



ここから先は、今はもう教えていない二人の生徒Aさん、Bさんのことをお話ししようと思う。
二人とも上に述べた講座の参加者であり、女子であり、日系人ではない。



Aさんのこと


Aさんは、大学での講座に参加していたある日、思いつめたような表情(後で分ったことだが、この人は緊張するとそういう表情になる)で、その講座以外にも教えて欲しいと言ってきた。彼女が予習をしてきて、教えたことは完全に覚えていて、答えられるような生徒だということは感付いていたから、講座の内容にあき足らないのだなと私は思った。

彼女はその時点でもう読み書きもかなりできていた。彼女が幼い頃、ペル-人男性と結婚した若い日本人女性が家の近くに住んでいて、近所の子供たちを集めてボランティアで日本語を教えてくれたのだそうだ。その先生は、予習・復習とかを含めて勉強の仕方もきっちり教えたらしい。そういう教え方をしたという先生にも、またその教えを身につけた彼女にも私は感動した。先生と彼女の努力が無駄にならないようにしなければと思って、講座以外に教えることにした。

講座が終わった後も、彼女は大学での専門を生かした勤めをしながら、3年間私の家に通って来て日本語の勉強を続けた。
一年前日本に行き、高校時代から付き合っていた日系人の男性と結婚して、日本に住んでいる。
よほど以前から、それを決めていたのだろう。だから、日本語学習もあんなに一生懸命だったのだろう。
そう言えば、日本語能力試験の準備としてやらせたテストの結果に悔しがって泣き出して、私を慌てさせたことがある。

Aさんは、時々私とか妻に連絡をくれる。引っ越しをしたとか、正社員になったとか、日本語の勉強をまた始めたとかである。
私も妻も彼女に日本で幸せになってもらいたいと思っている。だから、少し心配になることもあるし、連絡を貰うととても嬉しい。


Bさんのこと


Bさんは、大学の日本語講座を主催したグル-プの幹事で運営責任者の一人だった。冒頭に書いたように大学のストライキで講座が急に潰れることもあって、運営責任者の学生に頼らねばならないこともあったのだが、いざとなると「そんなこと、私は知らない」などと平然と答える責任者もいた。(そういうことは、この国では普通なのだが)そんな中で、彼女はいつも最後まで責任を果たしてくれた文字通り有難い(つまり、なかなかいない)存在だった。

だから、講座が終わって何か月か経ってから、また日本語を習いたいと言って来た時は私も妻も喜んだ。というのは、講座を終始手伝っていてくれた妻も、Bさんの責任感のある態度に感心していたからだ。そしてBさんも、3年間、週2回私の家に通ってきた。

時間に遅れてはいけないし、早く来ては迷惑だと思ったのか、いつも少し早く来てアパ-トの建物の前で待っていて時間通りに現われたのも彼女である。質問されて、私が明確に答えられないときに彼女は「これが試験に出たらどうするのですか」と言って怒った。

よく予習をしているからなのか、注意深いのか、習った表現の例文をつくるのがうまい。すぐに、上手な例文を作って笑わせる。例えば、「~は、まだまだです」という表現の例文を作れと言ったら、すぐに「あなたのスペイン語は、まだまだですね。」と返された。

私に日本語を習っていた間も、より良い条件の仕事を狙って何度か転職し、経済関係の官庁に勤めるようになってからは、さすがに日本語を習っている時間も体力もなくなって、習いに来ることも出来なくなった。聞いていると、その官庁勤めはかなりハ-ドである。

それでも、時々挨拶代わりに連絡してくる。そして、妻と私に食事を奢ってくれる。それは、言いようもなく嬉しい。
就職した子供に奢ってもらう親はこんな気持ちなのかとも思う。


私が学んだこと


Aさんも、Bさんも本当によく勉強してくれた。そして、今でも何かと連絡をくれる。
そういう経験を通して、私も色々と学ばせてもらった。
そのひとつに、若い人に何かを教えると、教えた事柄だけでなく相手のその後が気になり、心配になるということがある。
だから、どんなことでも時々連絡してくれると、それだけで嬉しくなるのだ。

そこで、私は自分の小学校・中学校時代の先生たちも同じように考えていたのかも知れないということに気が付いた。それなのに、私はつい最近までそのことに全く思い及ばず、先生たちには失礼のし通しだった。そのことが今更ながら悔やまれる。全く、後悔の種は尽きない。

今教えている生徒は二人だけだ。その二人については、またの機会にお話したい。


〈おわり〉














                                                    

[PR]
# by GFauree | 2017-02-26 14:25 | 日本語個人教授 | Comments(2)


a0326062_22542312.jpg





1月にマ-チン・スコセッシ監督の映画『沈黙』が日本で封切りされ、事前の予想以上に話題になっているようである。
そのせいか、原作の小説『沈黙』についても、その作者遠藤周作についても、また小説の陰の主役であるクリストヴァン・フェレイラについても、最近になって初めて知ったり、思い出したり、考えたり、教えて頂いたりしたことが色々あった。

そこで、それらの事どもをここに書き留めておこうと思い付いた。


1.講演「『沈黙』について」


小説『沈黙』を発表した1966年の遠藤自身による講演の録音を聴いた。結構語り口がうまいというか心地よく、適度に面白い。
40分間笑わせながら飽きさせず、小説『沈黙』のポイントを要領よく語ってくれている。

「遠藤周作の小説『沈黙』の題名には二つの理由があったということである。ひとつは、人間の苦しみに対する『神の沈黙』への疑問である。そして、もうひとつは、棄教者の苦悩に対する、後世の人々の蔑視や黙殺に対する批判である。」
ということを前回の記事に書いたが、それは、この講演でも語られている。


この記事の冒頭に掲載させて頂いた写真は、『沈黙』の草稿の翻刻が収められた本の表紙である。その本には、原稿用紙の裏側に鉛筆で書き込んでいた遠藤自筆の草稿の写真版も収録されているが、それを見ているとこの小説の執筆が彼にとって如何に体力・精神力を消耗させるものであったかが少し痛々しいまでに感じられる。

それだけにこの講演をした時期の遠藤は、作品を書き上げた後の達成感、虚脱感とともに反響への期待や満足感に浸っていただろうと想像できるから、講演の語り口を聞いて感ずる心地よさはそのせいかも知れない。


「2017年3月末まで期間限定無料公開」なんだそうだ。ということは、4月になったらお金を払わないと聴けなくなる、ということらしい。https://www.youtube.com/watch?v=ykJKaM3lfys



2.小説『沈黙』の内容は、キリシタン史研究の発展とはあまり関係が無い



私は過去の記事の中で、「遠藤周作の『沈黙』も『侍』もこの(高瀬弘一郎氏の「キリシタン時代の研究」という論文集が刊行された)頃に発表された作品であり、キリシタン史の研究の発展はそういう面にも影響を与えているようだ」などと書いてしまった(http://iwahanjiro.exblog.jp/23274041/)が、それは誤りなので訂正させて頂きたい。



『沈黙』が発表されたのは1966年、「キリシタン時代の研究」に収められた諸論文は1971年から1977年に発表されたものである。内容的にも、『沈黙』では「キリシタン時代の研究」に書かれているような、「キリシタン布教とスペイン・ポルトガルの国家政策の関係」や「キリシタン布教の実態」や「宣教師の軍事計画」などといったことは一切触れられていない。

『沈黙』で描かれているのは、迫害・拷問によって棄教を迫られひたすら苦しむ信者と宣教師であり、それは「キリシタン時代の研究」以前に描かれていたある意味で清く美しい「キリシタン史」の世界である。だから、『沈黙』を今読むとどこか古臭く感じられるのは、そのせいかも知れない。

しかし、そもそも作者遠藤周作は歴史研究者ではないのだから、史実を書かねばならないということはないし、小説なのだから史実の一部を改変したり省略したり強調したりして如何なる状況を設定しようと自由なのである。したがって、小説『沈黙』には歴史研究の成果である史実が盛り込まれていないから価値が無いなどと言うつもりは私にはない。むしろ、50年前のあの時代によくぞここまで書けたものだと感嘆し、その勇気を讃えたいと思っているくらいなのである。


それは、上に述べたこの小説の題名を『沈黙』とした二つの理由、「神の沈黙」と「棄教者の苦悩に対する後世の人々(教会と言って良いかも知れない)の沈黙」は、どちらも教会の中ではタブ-とされてきたことだと私は思うからである。そのタブ-をこの小説はテーマとして採り上げ、答えを探ろうとした。作者が探り当てた答えが、納得いくものであるかどうかの判断は人によって様々だろう。

ある人々は、作者が提示した答えがあるまじき考えであり異端であると決めつけている。私は、「踏むがいい」と言われたとする話の筋は、棄教者に光を当てたいと願いながら彼らが弱者であるとの考えから結局脱けきれなかった作者の及び腰の産物だと考えてきた。


しかし、なぜ遠藤周作は信者でありながら教会のタブ-に挑戦するようなことができたのだろうか。それは、彼自身の信者としてのある意味で特異な経験が可能にしたことではないか、と私は考えている。



3.教会に帰属意識をもてず、聖職者の人間的側面をみせつけられるような経験までしていたからこそ



遠藤周作は、日本では珍しくカトリック信者であることを自認し、それが広く知られ作品にもそれを反映させていた作家だった。それで、カトリック作家の代表であるかのようにみなされ、本人も彼に対するそういう世の中の位置付けを了解して対応しているように見えた。しかし、遠藤の生い立ちをよく観てみると、彼が育った環境は決して典型的なカトリック信者のそれではない。


彼は、両親の離別により満州から母親とともに帰国し、母親の姉の下に身を寄せていたという。そして、その叔母の影響で洗礼を受けた母親の指示に従って、彼も12歳の時に受洗した。カトリック信者は生後すぐに洗礼を受けるのが一般的である。また、私が子供の頃通っていた教会の熱心な信者の中には大学生ぐらいの年齢になってから、いわば生き方の選択の一つとして洗礼を受けたというような人も結構いた。しかし、遠藤はそのどちらでもない。


教会というところは、信者の子供にとって生活の場だから友達もいて学校の次に多くの時間を過ごす場所である。そういう場所では、何と言っても赤ん坊の頃からそこで育ったような子が幅を効かせる。私の周囲にも、小学校の高学年になって洗礼を受けた子がいたが、皆がその子を、まるでお客さんのように扱っていたような気がする。


さらに、今はそんなことは無いかも知れないが、昔はカトリック教会では離婚などあり得ない事だった。だから、両親が離別したという事情があれば、またそれだけ教会の中に溶け込むのは難しかっただろうと私は推測する。そんなことから、遠藤は子供の頃、教会の雰囲気に溶け込めず教会に帰属意識のようなものは持てなかったのではないか、と私は思っている。


次に、遠藤の母親は、あるドイツ人のイエズス会司祭に深く傾倒していた。その司祭は学識豊かで教会の中の誰からもエリ-トと仰ぎ見られるような存在だったらしい。彼は東京にあるカトリック系の大学の教授となり遠藤の母親によって翻訳された彼の著書が出版されたこともある。ところが、彼は遠藤の結婚式を司式した2年後、突如失踪し司祭職を辞して日本人女性と結婚、日本に帰化した。遠藤が『沈黙』を発表する9年前のことである。遠藤は『沈黙』を発表した2年後、この人物をモデルに小説『影法師』を書いている。


以上から言えることは、遠藤周作が幼い頃は教会の雰囲気に溶け込めない事情を抱え、長じては聖職者や教会について醒めた目で見つめざるをえないような経験をしていたということである。それゆえに、遠藤にとって、多くの信者のように教会という場で信者同士の繋がりや聖職者との関係を手に入れそれを享受するようなことは難しかったのではないか、と私は考える。しかしまたそういう人間関係のしがらみのない立場にいたからこそ、他の人々が人間関係を崩したくないがために出来れば避けて通ろうとするタブ-にも立ち向かうことが出来たのではないかとも思っている。

そして、そう思うようになったとき、主人公ロドリゴが「踏絵を踏むがいい」という声を聞いたという『沈黙』の筋が作者の「及び腰」の産物だとばかり考えてきた私は、それが子供の頃から教会の中で遠藤が感じ続けていたであろう「孤独」の産物でもあることに初めて気が付いた。




4.井上筑後守(ちくごのかみ)政重について



トマス・アラキに関する記事に対し、osakadaさんと仰る方から、井上筑後守は興味深い人物なので調べてみてはどうか、とのアドバイスを頂いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/23554978/


井上筑後守は、どこまでが本心か分らないような複雑な性格を持った元キリシタン信者の老獪な奉行として小説『沈黙』に登場する。映画『沈黙』では、イッセ-尾形が演じてリアルで怖いとかで評判になっているようであるが、井上筑後守政重は実在の人物である。


元キリシタン信徒であった井上は幕府の大目付となった後、宗門改役を兼ね、島原の乱に上使として赴きキリシタン禁教政策の中心人物となった。文京区小日向にあった彼の下屋敷は、宣教師や信者が収容されたことから「切支丹屋敷」と呼ばれ、『沈黙』の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルであるジュゼッペ・キアラが終生幽閉されていた場所である。


さて、osakadaさんが下さったアドバイスの中で私が興味を引かれたのは、井上が「キリシタン取締り」の知識や経験を自己の職務遂行の引いては出世の切り札として活用したと考えられる点であった。(考えてみれば、出世のためなら何でも使おうというのは当然なのだが)
そこで、少し調べてみると「政治的には『オランダ人の保護者』と評され、当代一流の諸科学の受容者でもあった」〈世界大百科事典〉とされている。西欧の科学的知識の吸収に非常に努力し貢献した人らしいのである。


私は、棄教した後のクリストヴァン・フェレイラが、南蛮(ポルトガル)・紅毛(オランダ)両国系の学問・知識の吸収・普及に活路を見い出したのではないか、と考え、そう書いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)棄教者の苦悩に光を当てることを標榜しながら、小説『沈黙』の中に「『私はこの国で役に立っている』と語るフェレイラが、ロドリゴには、他人に自分が有益でありたいという昔の思い出にすがりついているように見えた。」などと書いている作者の「及び腰」に反発を感じたからだ。しかし、フェレイラがどういう経緯で西欧の学問・知識の吸収・普及に貢献しようとするようになったのかは、想像が付かなかった。


フェレイラは、西欧の学問・知識に強い関心を持つ井上筑後守から、その吸収・普及に貢献するという役割を示唆されたのでは、ないだろうか。それとも、学問・知識の吸収・普及の必要性やその進め方を提案したのは、フェレイラの方だったのかも知れない。

いずれにしても、「キリシタン取締りの元締め」と「棄教したポルトガル人司祭」との間に、西欧の学問・知識の吸収・普及に関して交流があり、両者ともがそれによってその後の人生を切り開いていったと考えると何だか楽しい。


osakadaさん、有難うございました。


〈おわり〉










[PR]
# by GFauree | 2017-02-21 10:42 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(0)

                           
a0326062_03543115.jpg
典厩(てんきゅう)五郎作 NAGASAKI 長崎 夢の王国




「すすむA」さんという方が、図書新聞やamzon.co.jpにこの小説に対する書評を投稿されていて、その中で「『清くも正しくもなかったけれど本物の臭いがする』というタイトルは、彼(村山等安)に最もふさわしいと感じる」とコメントして下さったのを見つけた。


http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/dokusya_display.php?toukouno=415
https://www.amazon.co.jp/NAGASAKI-%E5%A4%A2%E3%81%AE%E7%8E%8B%E5%9B%BD-%E5%85%B8%E5%8E%A9-%E4%BA%94%E9%83%8E/dp/4620107921


細々と書き綴っているようなブログだからそういうコメントを頂くことは滅多にないので、嬉しかったし励まして頂いている気がした。直ぐにでもその小説を読んでみたかったのだが、諸般の事情により半年近く過ぎてやっと入手した。


お蔭で気が長くなった


ブログを書き始めて約2年が経って大分気が長くなったようだ。(年寄の短気は年甲斐がなくてみっともないと思っているので、本当に気が長くなったとすれば嬉しい。)というのは、私のブログ記事に反響を頂くには、なぜか投稿してから半年から1年半の期間が必要なことが分ってきたからだ。ということは、仮に投稿して直ぐには何も反響がなくても、1年半ぐらい経つと何処かの誰かが反応して下さる可能性があるということだ。(と、私は考えることにしている。)

最近、約1年前に書いた「背教者クリストヴァン・フェレイラ」に関する記事を多くの方が読んで下さるようになった。遠藤周作の小説「沈黙」が映画化され先月封切りされたからだろう。「すすむA」さんがコメントして下さったのも、「長崎代官 村山等安」に関する記事を投稿してから1年半後だ。この数日、なぜか1年半前に書いた「天正遣欧使節 千々石ミゲル」に関する記事を読んで頂いているようだが、何か理由があるのだろう。他にも、似たようなことがあった。

とにかく、今書いている記事に関して1年半ぐらい経てば何かが起きるだろうと思えるのは楽しいことだ。記事を書くことが、先々の楽しみの仕込みをすることになるからだ。それで、気が長くなってきたのだろう。こんなことは、ついせっかちに目先の結果ばかりを気にして生きて来てしまった私にとって、人生で初めての経験である。



「NAGASAKI 夢の王国」について



さて、肝心の「NAGASAKI 夢の王国」だが、とても読みやすい小説なのでお勧めしたい。

作者は、30年前にサントリ-ミステリ-大賞を受賞した後、多数のミステリ-や歴史小説を書き続けてきた人だというので、文章の読みやすさと内容の分りやすさを期待したが、その期待通りだった。


文章が分りやすい


まず、文章について言えば、私は多くのキリシタン小説に出てくる恭(うやうや)しい言葉の羅列と気取ったような文体が苦手である。そういう表現が、舶来の宗教に関する内容にふさわしいと考えてされているのかも知れないけれど、そういうのを読むと気恥ずかしいというか、背筋がゾクゾクしてそのうち腹が立ってきて投げ出したくなる。

若い頃、仕事の仲間で英語で話すと声まで変わってしまう人がいたが、それを聞いた時の気恥ずかしさに似ている。恥じらいを忘れたら日本人じゃないよ、と言いたくなる。

この小説は、普通のまともな日本人の言葉と文体で書かれているから、読んで恥ずかしくなる心配はない。


内容も分りやすい


次に、内容であるが、例えばイエズス会というと、今でも秘密結社とかスパイ組織のように書かれてしまうことが少なくない。そんな地下に潜っているような組織でなく、五百年近く表に出て堂々と活動してきた組織であるからこそ問題なのに、どうもそこが理解されにくい様だ。

その点、この小説は歴史研究に基く文献を参考にしているので、書かれていることが全て史実だなどとは言えないが、荒唐無稽なことは書かれていない。したがって、上滑りな空想や妄想に付き合う必要はないので面倒でないし分りやすい。


作者の創作部分について


もちろん、小説だから作者が創作した部分はある。特に、秀吉によって長崎代官に取り立てられるまでの等安については、分っている事柄は殆どないから、僅かな手掛かりを膨らませて、彼が生きてきた環境や人柄が語られている。

一方、話の展開上、代官村山等安と奉行長谷川左兵衛とが幼い頃から親密であったことが軸になっているのだが、左兵衛個人については妹の於奈津が家康の側室だったことぐらいしか書かれていない。おそらく、左兵衛について分っていることは更に極めて少ないのだろう。


なぜこの小説は面白いか


先ず、等安が1594年に長崎代官に任ぜられてから、1618年に失脚するまでの25年間は、キリシタン教会と長崎とが一体になって発展を遂げ、衰退を辿って行った時期である。それはまた、90年にわたる日本のキリシタン時代のうち、最も華やかでまた深刻な多くの問題が露わになった時期でもあった。その舞台の上で、等安は商人、武士、宣教師、背教者といった日本人だけでない、それも一筋縄ではいかない強(したたか)な人々と交錯する。

しかも、等安自身も代官職を梃子に危ない“顔役”として実力を蓄え、イエズス会すら敵に回し、ついには幕府にとってさえ邪魔な存在となってしまったのだから、その一代記が面白くなかろうはずがない。

しかし、この小説の作者は、そんな等安に意外に静かな終焉を迎えさせる。そこが、渋くまたリアルであっていいと私は思うが、どうだろうか。


残念なこと


ところで、この小説の中で「岡本大八事件」(幕府の禁教政策の切っ掛けとなったと一般にされている、「キリシタン大名」有馬晴信と本多正純の家臣岡本大八の間に起きた増収相事件。この事件については記事を書いたことがあるので、ご参照頂きたい。http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)に関連して、正史(国家等の権力が編集し、事実を正確に記したとされている歴史書)について言及した部分がある。


「正史とは、あるいは歴史とは、つねに時の勝者のご都合主義か、もしくは死人に口なしで、生き残った者が歴史の証人面をして書き継いできたものと疑ってかかるべきだろう。」

「『岡本大八事件』は、岡本大八という品性下劣にして邪悪な男が強欲さから起こした単純な事件として正史に定着している。しかし、等安(へ)のいわれなき誹謗や中傷とおなじく、歴史の表側だけを見て裏側への想像力を欠いては、なにも見ていないと言い切ってよいのではないか。歴史とは複雑怪奇であり、つねに裏の顔を持つ生きものなのである。」

こう書いている作者の、この小説の中での元天正少年使節千々石ミゲル(清左衛門)と元日本人司祭トマス・アラキの採り上げ方が私には納得し難い。(トマス・アラキについては、153ページに「トマス・アキラ」と表記されているが、誤植だろうか、それとも何か意味があるのだろうか。)

加えて、「トマス・アラキと千々石ミゲルがよく似ていると等安が思った」とのくだりまであるのである。


棄教者についてどう考えるか


遠藤周作の小説「沈黙」の題名には二つの理由があったということである。ひとつは、人間の苦しみに対する「神の沈黙」への疑問である。そして、もうひとつは、棄教者の苦悩に対する、後世の人々の蔑視や黙殺に対する批判である。


千々石ミゲルに関しては、キリスト教社会的価値判断を脱却せずそのまま引き摺ってしまった日本社会の精神的怠惰を私は感じている。
http://iwahanjiro.exblog.jp/21418363/
トマス・アラキについては、幕府権力と教会権力に利用され尽くした存在と考えている。
http://iwahanjiro.exblog.jp/23554978/


ここまで、大衆の心理が読めているのであれば


この小説の中に、「罪人引きまわし」について次のように述べられている箇所がある。

「しかも町なかでの罪人引きまわしは、見物するだけでなく、石つぶてを投げ、唾を吐きかけて参加してしまう人々が大勢いた。
罪人へのこうした行為は、絶対封建主義社会で息苦しい庶民たちにとっての、鬱屈した感情の捌け口であり、権力側もそれを意識しての引きまわしなのだった。さらには庶民たちの意識は高いとはいえず、罪人を積極的に痛めつけることによって権力側に阿諛追従し、あるいは権力側の一員になったような錯覚も持てたのであろう。」


棄教者を十羽ひとからげに扱い、からかい蔑(さげす)んできた人々の意識は、罪人引きまわしで権力側に阿諛追従し、権力側の一員になったような錯覚を楽しんだ庶民のそれと変わらないものだと私は思う。

ここまで、大衆の心理を読めている作者なのだから、棄教者についてもユニ-クな捉え方、採り上げ方出来たであろうにと思うと残念である。私はこの小説を単に面白おかしいだけのものとは考えたくなかった。



〈おわり〉







[PR]
# by GFauree | 2017-02-14 13:47 | 村山等安 | Comments(0)

a0326062_05071220.jpg
                                         (写真撮影 三上信一氏)





今回は、トマス・アラキの生涯全般について私の考えるところを書いてみよう。




1.まず、なぜアラキはイエズス会の枠を外れてまで、独自のル-トでロ-マへ行ったのか、である。


アラキは渡欧する際、1602年頃フィリピンを、1603年頃メキシコを通過した。ということは、彼が日本を発ったのは1601~2年頃のはずである。


1601年、司教ルイス・デ・セルケイラは長崎に司祭養成のための神学校を開校した。
その神学校には、当初ポルトガル人2名と日本人6名が選ばれ入学したが、彼らは皆、多年セミナリオで教育され最優秀とされた者だったとのことである。また、日本人たちは、既に経験を積んだ伝道士(同宿)から選ばれたともされている。


私は[その1]に書いたように、その頃までに、アラキはイエズス会のセミナリオの課程を順当に修了し、既に同宿として働いていたのではないかと思う。司祭となることを希望していたアラキは当然必要な学力も有し神学校入学を強く希望したが、その希望は何らかの理由によって受け容れられなかった。その理由の一つとしては、イエズス会内に「日本人司祭登用制限の方針」があったことが当然考えられるが、ともかく結果としてアラキは日本での神学校入りをあきらめ、他の修道会関係者のつてを頼ってロ-マで学ぶべく出国したのだろうと、私は考える。


それでは、なぜアラキは同宿の仕事を棄てて司祭になることに、それほどまでに執着したと考えられるのか。

同宿については、ペトロ・カスイ・岐部に関する記事の中で述べたので、ご参照頂きたい(http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/)が、ただその中で充分に言及していないことがある。

それは、キリシタン教会の運営の重要な部分を担っていた同宿に対する処遇、いわば身分制度についてである。
「同宿はパ-ドレ(司祭)、ついでイルマン(修道士)を敬意をもって遇しなければならなかった。物をかぶって長上と話すことはできないし、道で会ったら下駄や草履を脱いで膝に手をつけて応対しなければならなかった。」(キリシタニズムの比較研究 古野清人)

司祭や修道士は正式なイエズス会士である。教会の運営に欠かせない存在であったはずの同宿は、会士たちの家来か使用人のような処遇に甘んじさせられていたのである。こんな身分制度があったのだから、イエズス会の枠を超えて何が何でも司祭になりたいとしてアラキが行動したとしても、不思議ではないと私には思える。

そのアラキの願望を、何かよほど悪辣な手段に訴えてまで妨害しようとした宣教師がいたようであることは次に述べるが、概して従順な日本人信者や同宿たちに比べ、アラキはもうこの段階からヨ-ロッパ人宣教師たちにとって要注意の厄介な存在となっていたことは想像できる。



2.アラキはどのような境遇に育ったのか


1613年10月4日付け京都発、チェルソ・コンファロニエリの総会長補佐宛て書翰

「・・・、彼は身分低い生まれで、母親は自分の労働で自らを養っていた。またこのピエトロ・アントニオ(アラキ)は、能力が示されなかったためにセミナリオに入ることが許されなかったか、または入学は許されたがそこに留まることが出来なかったかのいずれかである。・・・。したがって、われわれは彼がこの地にもどってくることを恐れている。・・・。」

主旨のはっきりしない奇妙な書翰であるが、次のようなことを言いたいようだ。
「アラキは、身分の低い貧しい生まれの人物(だから、配慮するに値しない存在)である。彼がセミナリオで学べなかった理由が分らないぐらい、自分は彼と関係がない。しかし、彼が日本に戻って来ると何を言われるか分らないという恐れがあるので、決して帰国させないようにして欲しい。」

このような報告がなされる修道会では、「清貧の美徳」や「金持ちが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがずっとやさしい」というイエスの言葉などは、何の意味も持たず誰も顧みることがなかったのだろう。報告者は自分とアラキの関係が露わになることを恐れ、また、アラキが日本へ戻ることつまりアラキの報復を異常に恐れているようだ。


この書翰を書いたチェルソ・コンファロニエリは、1590年代から1600年代初めにかけて、コレジオとノビシアド(修練院)の教育に関わったことがあるイタリア人司祭であるという。私は、コンファロニエリこそ、アラキが独自にロ-マへ行くこととなった理由を作った張本人だったのではないかと思う。

神学校へ行き司祭になりたいというアラキの希望を何か余程悪辣なことをして妨害したのだろう。そうでなければ、これほどまでにアラキの帰国と報復を恐れる必要はないはずである。それが分ったところで今さら何ができる訳でもないが、四百年も経っているのにここまで分ってしまうとは、悪いことはできないものである。



話が逸れてしまったが、アラキの育った境遇についてに戻る。

コンファロニエリの書翰の日付けの5年前、1608年10月10日付けイエズス会準管区長フランシスコ・パシオのトマス・アラキ宛て書翰では、アラキの母モニカは志岐(熊本県天草郡)の教会の近くに健在であるとされている。そのことから、アラキが志岐に生まれ育った可能性は高いと言われている。

また、1615年1月3日付けトマス・アラキの総会長宛て書翰によると、アラキはマカオで、幼少時から接触していた彼の師である神父達や修道士達、そして信仰のために日本から追放された縁戚の者数人に偶然にも出会った、ということである。

このことから、アラキの幼少時、彼の家庭が裕福であったか否かは別として、神父や修道士たちと親しく接する宗教的に恵まれた環境に育ったことは分る。また、彼の縁戚者達がマカオに追放されていたということは、彼等がある程度社会的地位の有る者だったことを想定させ、アラキの出自も決して軽視されるものではなかったと推測されている。



3.アラキが語り、警鐘を鳴らした事柄について


・マカオで司祭になるための勉学を希望しながら、イエズス会の方針でそれが叶わぬことが分り不満を募らせていた日本人伝道師(同宿)たちに、以下の事項を語った。

(1)イエズス会を去って教区司祭になる道に進むべきこと。
(2)托鉢修道会士がスペイン国王に日本征服を企てるよう働きかけたことをマドリ-ドで知ったこと。

・1611年ロ-マで教皇宛てに書いた書翰に、また1615年マカオでイエズス会総会長宛てに書いた書翰に、次のことを記した。
(3)日本で激しい迫害が行われているさ中に、修道会間の紛争が信者に混乱を与えていること。




(1)
については、まず勉学の機会を求め日本を出たにもかかわらず、マカオでもその機会が与えられないことが分り落胆する同宿たちを見かねて、自分の経験を語って励まそうとしたのではないかと私は思う。やり過ごすことも出来ただろうが、自分の辛かった経験からも理不尽な扱いに途方に暮れている者たちを見て黙っていられなかったのだろう。もともと、そういう性分だったのかも知れない。

修道会司祭でなく教区司祭をめざせとの忠告には、イエズス会の「日本人司祭登用抑制の方針」への対抗策という意味以外にも、[その1]に書いたように、修道会主導の教会運営から脱却するという積極的な意味を持たせていたのかも知れない。また、[その2]で述べたように、修道会司祭よりも教区司祭の方が叙階されやすいという事情を含んでの忠告だったのかも知れない。


(2)については、托鉢修道会士のその働きかけに対しイエズス会士が反対したと、アラキが語ったとのことであるが、イエズス会士が反対したのはスペインが征服することにであって、ポルトガルならイエズス会士も反対しなかっただろうという意味らしい。

秀吉以降の日本の為政者がキリシタン宣教師を国家征服の尖兵と考えたことが当たっていたことを裏付けるようなことを、アラキは知り語っていたことになるが、それはその頃、ヨ-ロッパの一部の人々の間では、いわば常識となっていたことなのではないかとも私は考える。


(3)の修道会間の紛争については、[その2]に書いたように、世界の各地で起きていた問題なのだから、ロ-マで6年以上学び生活していたアラキは、それが日本だけの問題でないことは知っていただろう。ただ、日本の場合は迫害がまさに風雲急を告げていた時期であったために、なおさら、その近親憎悪的な抗争の弊害を教皇にも総会長にも明確に知らしめておく必要を感じたのではないだろうか。


アラキの勇気


以上(1)、(2)、(3)とも、その内容は、まずアラキの見識の広さ、深さを感じさせるが、同時に、どれもマカオや日本にいたヨ-ロッパ人宣教師にとっては触れられたくない話であったはずである。その宣教師たちが主導権を握っていた日本への帰国を控えての言動であったことを考えると、一般に従順で当たらず障らずの行動を執っていた印象のある日本人聖職者の中に在って、アラキの勇気を感じざるを得ない。

しかし、司祭になりたいという願望を果たすために、多くの困難・障害を乗り越えて単独でロ-マに渡り学んだアラキであれば、これしきの勇気は当然のことだったのかも知れない。

加えて彼の言動は、苦境にある日本人同宿たち、征服の対象として議論されている祖国日本、自己中心的なヨーロッパ人修道会士たちに振り回される日本の信者たち、を見るに見かねてというような心情から発したものであると私は思う。

海外で暮らすと、日本や日本人の素晴らしさに改めて気付かされ、その日本や日本人のためになりたいと思うようになるものである。アラキの日本、日本人信者に対する思いやりは、そういうところから生じた自然なものだったような気がする。


ロザリオの「祝別」



帰国後のアラキが、当時イエズス会が仕切っていたロザリオの「祝別」に関し、自分は教皇から「祝別」をする権能を与えられたと称してロザリオを「祝別」して回り、イエズス会士たちの怒りを買ったという逸話を[その4]に書いた。

実は、1615年マカオでイエズス会総会長宛てに書いた書翰の中で、迫害の不安の中にいる日本の信者を慰めるためとして、メダルを送ってくれるよう総会長に依頼しているのである。帰国したアラキは、ロザリオを「祝別」することも、信者を力付けるものとなると考えそれを進めようとしたところ、イエズス会から横やりが入り、その妨害を無視する行動に出たのではないかと私は思う。

信者が何よりも力付けられることを必要としている時に、ロザリオの「祝別」についてまで他修道会を抑え自分たちのいわば利権を確保しようとするイエズス会士にはあきれる思いであっただろう。純真に救いを求める日本人信者を有難味で釣って勝手な規則を押し付け平然としているヨ-ロッパ人宣教師たちの姿勢は、彼らが日本人同宿を自分たちの使用人であるかのように扱っていた姿と重なったことだろう。


アラキにとって、幼いころから自分が信じ、その為に行動し生きてきたことの中で、何が間違っているのか、何を自分は大切にしていかなければならないのかが次第に明確になっていった過程だったのではないかと私は思う。



4.長崎代官 村山等安とのこと



村山等安については、前回[その4]で“教会分裂”に関して採り上げた他に、過去に記事を書いたことがあるので、ご参照頂きたい。(http://iwahanjiro.exblog.jp/20869393/)(http://iwahanjiro.exblog.jp/20887207/


長崎外町を差配していた等安は、内町の商人を代表する末次平蔵と敵対し、奉行長谷川権六と手を結んだ平蔵によって、1618年1月、代官の座を罷免された。更に、ドミニコ会司祭であった等安の息子が大坂の陣に際して大坂城内におり、等安が大坂方を支援したことが露見したために、等安の罪科が決定的となり、その一族が処刑されるに至ったとされている。


アラキの密告


その、等安一族の破滅を決定づけるような情報を奉行の権六に密告したのが、アラキだと言われているのである。しかも、密告した時期は、まだ逮捕される以前のことだったらしい。

wikipediaでは、等安が大坂方と通じていたとの嫌疑は、娘を等安に手打ちにされたことを恨んだ料理人三九郎が平蔵に告げたことによるとしており、情報源はアラキだけではなかったのだろう。しかし、アラキが奉行の権六にそのことを告げた可能性は充分ある。

まず、等安の息子フランシスコ・アントニオ・村山は、アラキと同じ教区司祭だったのだから、アラキがこの息子から情報を得ていたことが考えられる。しかも、アラキが村山父子とかなり交渉を持ち、布教事業に関して相当深い議論が交わされていたことを窺わせる記録もあるのである。


ただ、仮にアラキが等安一族に関する情報を奉行に提供していたとしても、私にはそれは致し方のないことと思われ、そのアラキの行動にあまり後ろ暗い印象は持っていない。等安は、ひたすら“清く正しく美しく”語られるキリシタン信者たちの中で珍しく“顔役”・”悪代官”の貌を覗かせ、キリシタン社会の成熟を感じさせる魅力的人物である。

しかし、スペイン系托鉢修道会に密着し、それを利用して自己の利権の確保・拡大を図った等安の生き方は、キリスト教布教を純粋な宗教的要素だけから考えていたと思われるアラキの考え方とは、全くかけ離れたものだった。そういう意味で、イエズス会より遠い存在だった等安をアラキが敵対視したとしても、それは致し方ないと思われるからである。


ところで、等安の息子アントニオは、アラキが入学させて貰えなかった(と私が考える)司教セルケイラが設立したイエズス会の神学校で学び叙品を受けた教区司祭である。


日本人司祭は養成しないと言っていながら有力者の子弟は受けいれるイエズス会と親馬鹿


そうであれば、イエズス会は、「日本人司祭登用制限の方針」を盾に多くの勉学志望者の受け入れを拒否しながら、こういう有力者の子弟はしっかり入学させていたことになる。それに、こんな時代にも、情実入学に教会内での自分の影響力を行使した親馬鹿な有力者がいたらしいことが、私には興味深い。

そして、若い時から自分の実力で勝負しロ-マまで行ったアラキがそんなことに引っ掛かりを感じ、それが村山父子に対する反感に繋がったなどということはなかったのかなどと考える。



5.アラキを利用した人たち


長崎奉行 長谷川権六が、ヨ-ロッパの事情やキリスト教についての情報提供者として、また国内のキリスト教徒に対する穿鑿の協力者として、アラキを利用したことについては、妙に詳細に語られている。

しかし例えば、アラキが「日本いる凡てのパ-ドレの名簿を提出し、どこの国のどこの家にいるかを明らかにした」とか、長崎のキリシタン捜索において、アラキが「今一人のユダであるかのように、スパイや司直たちの頭目になっている」とかの報告には、いかにもありそうな話ではあるが首をかしげざるを得ない。

一教区司祭に過ぎなかったアラキが、日本いる全てのパ-ドレの所在を知っていたなどということは、よく考えれば殆どあり得ないことだ。また、外国帰りの神父にキリシタン捜索を頼らなければならないほど、幕府の官憲は無能ではなかったはずだ。また、一介のカトリック神父の意見で、幕府の対外政策が左右されたはずもない。

では、なぜこのような言辞が弄されたのだろうか。


アラキを利用し尽くした長崎奉行


それは、実際にアラキが提供した情報がある程度役立った面もあっただろうが、奉行としてはアラキを取り込んだことで、キリシタン取締りが成功していることを幕府にアピ-ルする必要があったのだろう。また、キリシタン信徒への警告として、意図的に捜索の経緯を多少の作文を交えながら開示していたことも考えられる。

もうひとつは、後になって、残虐なイメ-ジを持たれやすいキリシタン取締りが、元信者の「裏切者」の協力によって進められたということにできれば、幕府にとってイメ-ジダウンを軽減できるという考えもあったのではないだろうか。


他にも、アラキを利用した意外な人たち


そして、キリシタン弾圧がアラキの協力で進められたことが強調されれば好都合な人々が他にもいた。それは、教会である。

アラキが教区司祭として行ったキリシタン教会運営の問題の指摘・警告は的確だった。布教地先住民司祭登用の制限、宣教師の他国征服への関与、修道会間の競合といった問題は、日本のキリシタン教会のみならず、その時代の世界の教会全体の問題でもあったのだ。

アラキの裏切りで弾圧が進み、清く正しい宣教師たちは処刑されるか追放され、キリシタン禁教は徹底されたことになった。自分たちは沈黙していれば、全ては悪辣な裏切者と残酷な幕府の仕業であると官憲自身が宣伝してくれる。教会には何の問題も責任もなかったことに出来るのだから、こんなに楽なことはない。

こうしてアラキは、その後も幕府権力と教会に存分に利用されてしまったと私は思う。



6.アラキの最期について



アラキは、キリシタン布教は植民列強の国策ではないかという強い疑問を持っていた、と一般に考えられているようだが、私は少し違う考え方をしている。


アラキはこう考えていたのでは


アラキと等安のやり取りに関し、次のような事が言われている。

・[トマス・アラキは]等安の長子に対して、「パ-ドレたちが説教している法は良いが、彼等の意図はこのような手段で日本を自国の国王に従わせることにある。」と語った。

・また、[トマス・アラキは]等安の家で-(その場にいたある重要人物の言う所によれば)-「キリストの法は真実であるにしても、これを日本で広めようとするパ-ドレたちの意図は、日本を自分たちの国王に従わせようというものである。」と語った。


これらのアラキの発言から、彼の考え方は以下のようであったと推測する。

・教会は植民列強の国策に乗って海外布教を進める方針を採ってきた。
・また、その方針が宣教師たちの姿勢を歪めており、多くの宣教師の意図は日本を自国に従わせようというものだ。
・ただ、本来のキリスト教の教えはそのようなものではないはずだ。

つまり、植民列強の国策に乗らない本来のキリスト教布教があるはずであり、教会はそこへ戻るべきだとアラキは考えていたのではないか、と私は思う。


ここでも、アラキの洞察力と先見性が


上記のアラキの発言は、1615年にアラキが帰国してから1618年に等安が失脚するまでの期間になされたものと考えられる。それから数年後の1622年、[その1]で述べたことだが、ローマ教皇庁内に布教聖省が設置され、アラキが提起した諸問題は、従来の布教体制の問題点として認識され、実効性は兎も角として対処方針が立てられている。

布教聖省の問題認識と対処方針の内容については、クリストヴァン・フェレイラに関する記事をご参照頂きたい。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)それを見ると、アラキの問題認識の的確性を改めて感じさせられるが、彼がそういう洞察力や先見性を持ち得たのも、10年近くヨ-ロッパで学んだことに加え、指導者に恵まれたという面もあったのではとも私は考える。




彼の死亡の年は、1646年または49年とされている。
彼は、1601年ごろ日本を出国したときに既にセミナリオを修了し20歳を超えていたと私は考えるので、亡くなったのは、65歳から68歳を超える年齢、つまり70歳前後だったということになる。

彼が、信仰を取戻し殉教者として死んだとする記録は、オランダ史料と教会史料の双方に見られる。


アラキは信仰を取り戻して死んだ


クリストヴァン・フェレイラ(沢野忠庵)の場合は、棄教時に実質日本管区長という重要人物だった為、教会は面子にかけても彼が殉教したことにする必要があったはずだから、殉教したと言われてそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。


逆に、アラキは教会の不倶戴天の敵であったはずであり、彼が信仰を取り戻したなどと考えたくないはずの教会が信仰を取り戻したと言っているのだから、それは信憑性があるのかも知れない。私は、アラキが殉教と言える死に方を本当にしたのかどうかは分らないが、信仰を抱いて死んだのではないかとは考えている。

ひとつは、既に述べたように、国策に乗って海外布教を進めた教会の方針は間違っていたけれど、教えそのものは間違えではないと彼が考えていたと思うこと。

もうひとつは、幼少時の彼が宗教的に恵まれた環境に育ったと考えられると先に書いたが、幼い時のそういう経験は、老い先短くなってきた時にこそ甦ってくるものではないかと私自身が最近思うようになっているからである。


アラキの生き方・逝き方は一貫していた


こうして、アラキの一生を振り返ってみて気付くことは、彼が若い時から、自分がなすべきだと考えたことは、多くの困難を乗り越えながらもあくまで成し遂げ、語るべきだと考えたことは勇気をもって発言していたということである。おそらく、それは教会を離れる時もそれ以降も変わらなかったのではないか、と私は思う。そして、最期も、幼い時からの信仰を素直に抱いて、安らかに旅立つことが出来たのではないか、と思えるのである。

そう考えると、アラキの生き方・逝き方は幼いころから最期まで一貫しており、彼について変節漢というイメ-ジは湧いて来ない。



〈おわり〉




[参考文献]


「キリシタン時代対外関係の研究」 第十三章 転び伴天連トマス・アラキ        高瀬弘一郎著 岩波書店                            
「キリシタンの世紀」-ザビエル渡日から「鎖国」までー 第十六章 長崎教会 他    高瀬弘一郎著 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について                     五野井隆史
キリシタン研究 第十輯 日本における最初の神学校(1601年-16014年)Hubert Cieslik S.J.  吉川弘文館

















[PR]
# by GFauree | 2017-01-17 11:46 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(5)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。