1613年、ペル-のリマ市に日本人が20人いた。[その2]

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Photo by Juan Goicochea



前回、「20人の日本人」が「1613年のリマ・インディオの人口調査」に記載されていて、
その調査記録は国立サン・マルコス大学文学部によって古文書解読され1968年に出版されていたことを書きました。


そこで、「20人の日本人」に関してそこに書かれてあることを抜き出してみました。


〈20人の構成〉


             既婚    独身    少年      計
        男     4     4     1      9
        女     4     7     0     11



〈属性〉 属性について記載があるのは以下9名だけで、残りの11人については記載はありません。


1.男・独身・襟職人
  

政府長官の住んでいる通りに、日本生まれでディエゴと名乗る男が居る。
当市在住3年、継ぎ当てと襟加工の仕事を持ち、24歳独身で子供も資産もない。

2.男・独身
  

1.と同じ店に日本出身だという、もう一人のインディオが働いていた。
当市在住は1年、継ぎ当ての仕事をし独身、18歳である。

3.男・既婚(ポルトガル領出身のインディオ女性と結婚)
  

サン・アグスティン通りの教会正面に襟加工の店を持っている。
マンガサテと呼ばれる日本の町出身である。そこには、カシケ(地主)も征服地支配者もいない。
副王マルケス・デ・モンテスクラ-ロ殿が来た年(1607年)から当市に居り、襟職人であり26歳だと言っている。
  

アンドレア・アナという女性と結婚している。
彼女はポルトガルのマンカサ(これは出身町の名称)カストの出身で、当市に10年在住し、ペトロ・テノリオの奴隷であったが、今は自由の身である。彼女の夫が308ペソで彼女を身請けしたからである。

彼らに子どもは居らず、彼女は24歳。

4.既婚の日本インディオ 男・女
  

ジュゼッペ・デ・リベラ殿の家に使用人として、ゴア市の日本カスト生まれだという、ポルトガル領インド出身のインディオが居た。
名前はトマス、顔に焼印がされている。
前述のポルトガル領ゴア・カスト出身の日本人インディオ女性と結婚している。彼らには、7歳のフランシスコという息子がいる。
彼らは全てジュゼッペ殿の奴隷である。彼は28歳ぐらいだろう。

5.二人の独身女性
  

アナ・メヒア未亡人に二人の日本インディオ女性が仕えている。

6.日本インディオ女性・独身
  

エンカルナシオン通りのディエゴ・デ・アヤラ殿の家で、アントニアという名の日本カスタ出身のインディオ女性が仕えている。


【思うこと】


1.
この「20人の日本人」が、どういう経路で何故リマにたどり着いたのか、そしてリマでの暮らしはどのようなものだったのか、を知りたい所ですが「1613年の人口調査」に書いてあるのは上記のことまでです。


2.
「日本人インディオ」とか「ポルトガル(領)のインディオ」という言葉に引っ掛かりを感じますが、この時代のスペイン人・ポルトガル人は、アジア・アメリカの先住民と、自分たちの領土の中のアジア・アメリカに出自を持つ住民をすべて「インディオ」と呼んでいたのですから仕方のないことなのでしょう。


3.
上記3.男・既婚の欄に「マンガサテと呼ばれる日本の町」と書きましたが、これはナガサキのことではないかという見解を読んだことがあります。

16世紀末、長崎はポルトガル船貿易の拠点でしたから、そこから海外に運ばれた人だったということは、大いに考えられます。

また、「そこには、カシケ(地主)も征服地支配者もいない」という記述については、当時のスペイン植民地を支配していたのは、先住民地主(カシケ)か(スペイン人)支配者でしたから、「マンガサテでは先住民地主も征服地支配者もいない」と聞いて奇異に感じ書き留めたと考えられます。

それとも、単に、そこが植民地でないという意味かも知れません。


4.
コメントされている9人のうちに、奴隷身分の女性(アンドレ・アナ)を身請けし結婚している男性と顔に焼印のある男性(トマス)がいるという記載があるために、「日本人インディオ」の多くが奴隷であったような印象が残ります。

ポルトガルが世界的に展開していた貿易取引において奴隷が主要な商品であったことを考えると、「日本人インディオ」のアジアからリマへの移動に奴隷売買が関係していた可能性は充分にあります。

けれども同時に、日本国内の戦国末期・江戸初期の権力も財力もない民衆の生活が、海外に売られた奴隷に比べてどうであったかも考えてみる必要があると思います。「奴隷として海外に出ることでやっと活路を見出したということがあったのではないか」ということを思うのです。


5.また、出身地に関して、「ゴア市の日本カスト生まれ」だとか「ポルトガル領ゴア・カスト出身」だとかの表現があります。

この表現の意味するところは、当時ポルトガル領インドの都市ゴアには、日本に出自を持つ人々が集住していて、社会階層のひとつを形成していたということでしょう。

その階層が奴隷に相当するものであったか否かは、その時期のゴアの歴史を探れば答えが出るかも知れません。

ポルトガルにとって、1510年に陥落したゴアは海洋帝国展開上の重要な拠点であり、そこに日本人が集住していて、その人たちが何らかの理由でペル-・リマまで渡ったということになります。


6.
この時代に、南米に居た日本人の記録として「リマの20人」以外では以下の人たちについて聞いたことがあります。

(1)1597年、アルゼンチンのコルドバ市で「自分が奴隷として売買される謂れはなく自由を要求する」として訴訟を起こし勝訴した人。

(2)1600年代初め頃、メキシコ・グアダラハラで活躍した商人ルイス・デ・エンシオと その娘婿で後にグアダラハラ大聖堂財産管理人となったフアン・デ・パエス。(二人とも外国人名ですが、日本からメキシコへ渡った人たちであることは確実なようです。)

(3)1585年、8歳のとき長崎でポルトガル商人ペレスに売られたガスパ-ル、1594年スペイン領マニラでポルトガル奴隷商人からペレスに売られたミゲル、来歴不明なベントゥ-ラ、の3人。
3人は、ペレスが隠れユダヤ教徒として逮捕されたため、1597年に異端審問のためマニラからアカプルコへペレスとともに移送された。


7.
これらの人たちと比べると、「1613年の人口調査」に書かれているリマの人たちの生活が落ち着いていたのではないかと思うのは、私のひいき目というものでしょうか。

「1613年の人口調査」のコメントを見ると、彼らはまだ若いけれど職人や使用人としての仕事を着々とこなしながら、結婚もし子どももいる安定した生活を目指していたのではないかなどと想像します。



2回にわたって「1613年、リマ市の日本人20人」について書いてきましたが、
次回は、同じ1613年に日本からメキシコに向かった使節団の団長「支倉常長」について書いてみたいと思います。









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by GFauree | 2014-12-18 14:18 | リマ市20人の日本人 | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。