清くも正しくもなかったけれど本物の臭いがする長崎代官 村山等安 [その3]

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〈村山等安の生涯〉

1.その頃の長崎


1580年 大村純忠、長崎・茂木村をイエズス会に寄進。
1587年 豊臣秀吉、宣教師追放令を発布。
1588年 豊臣秀吉、長崎周辺を没収。

1592年までに整備されていた区域(23町)が内町と呼ばれ、その周囲に新しく建設される区域(51町)は外町とされた。


2.等安の生い立ち
 


出身地は、尾張・安芸・博多と諸説あり不明。
1588年 兄を頼って長崎へ転入。
ポルトガル商人に仕え、南蛮料理・南蛮菓子を造り、ポルトガル語を話したと言われている。
イエズス会士により洗礼を受け、アントンと称した。


3.秀吉との出会いと代官職


1594年、長崎の町役である乙名たちやルソン壺を扱っていた商人たちが秀吉から呼び出しを受け、その中に等安がいた。その集団が秀吉と面談することになった際、交渉力のある等安が代表に選ばれ、秀吉に気に入られた。等安という名は、秀吉から名前を尋ねられ「アントン」と答えると、「ト-アン」とするように命じられたものだという。

等安は秀吉から、外町(51町)を差配する代官職に任ぜられる。
その後、長崎の商人として朱印状を受け、貿易船を渡航させることで財を貯えて行ったと考えられている。


4.徳川幕府開府以降


徳川幕府の支配が開始されると、長崎は幕府の直轄地とされ奉行が置かれた。
奉行の職務は主として、港の治安維持と貿易の管理。
1604年、等安はイエズス会のジョアン・ロドリゲスとともに徳川家康に謁見し、引き続き長崎代官として外町の行政にあたることを承認された。


5.堕落した生活


1605年1月、等安はイエズス会の喚問に応じ同会の側に立って、スペイン托鉢修道会に不利な証言を行う。

1607年3月、等安はイエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスを解任するために、貞潔の問題についての証言を行う。

1610年、ジョアン・ロドリゲスは長崎駐在プロクラド-ルを解任されマカオに転出させられる。


(以下、アビラ・ヒロン『日本王国記』による)


1607年、アビラ・ヒロンがシャムから戻った時、等安は多大な富と権力を一手に収め、その中で生活が堕落し、妻や子供に散々不快な思いをさせ、金を湯水のように使っていた。

1612年、囲っていた女性のことで、その女性と、その夫である若者と、女性の両親他10人以上の親族を殺した。しばらく後、何人かの家来が悪事を働いたという理由で、7~8人を去勢しその他の者も殺した。

同じ年に、別の女性のことで、妻や子供と激しく争った。

ハレムの中のトルコ人さながらの生活を送っていた。


6.キリシタン禁制が出されてから


1614年、全国的なキリシタン禁制が発布される中、長崎でも奉行長谷川左兵衛が迫害を開始。

等安は、神父たちが日本から追放され、キリシタンが迫害されているのを知り、生活態度を改めた。

囲っていた女性たちに金を与えて家から出し、妻や息子たちと和解し、財産を整理し、信仰の為には生命すら捨てる覚悟で数々の苦行を始めた。

同年 5月、『贖罪のための大行列』が挙行され、等安は家族と共に先頭に立って参加した。


7.「長崎シスマ(教会分裂)」の黒幕


1598年以降、府内(長崎)司教区内に四つの小教区が設けられ、等安の支配する外町には、そのうちの三つの教会が建てられ、さらにドミニコ会とアウグスチノ会の教会も建てられた。

外町の三つの小教区のうちの一つの主任司祭は、等安の息子 アントニオ・フランシスコ・村山であった。アントニオはイエズス会系の司教セルケイラが創設し運営したセミナリオで学び叙品を受けた教区司祭であったがスペイン系托鉢修道会に走ったのである。

等安は、小教区の教会を建てたり、主任司祭の生活費を含む小教区教会の維持費を一部負担するなど経済的貢献までしている。

1614年、司教セルケイラの死去に際し、教区司祭7人のうち5人は司教代理としてイエズス会管区長を否認しフランシスコ会司祭を選出した。

これが、「長崎シスマ(教会分裂)」呼ばれた動きであるが、その一連の動きの陰には等安の存在がある。


8.追いつめられる等安


1615年、幕府は等安の勢力を削減するため、奉行長谷川左兵衛を通じて台湾渡航を命じた。
次男長安(ジョアン)を隊長とし、兵船13隻 兵員3~4千人を率いる大規模な渡航だったが、海上で暴風雨に遭い艦隊は壊滅し3隻だけが交趾シナに漂着したとされている。

伝統的な地区である内町の商人たちは、従来から等安の隆盛を快く思っておらず、彼らの代表となった末次平蔵は、等安を敵視するイエズス会に接近することで教会の分裂を利用する一方で長谷川左兵衛の後任奉行 長谷川権六に接近、権六と平蔵の共同作戦が進められた。


9.一族の絶滅


1618年1月、等安は将軍秀忠から、長崎代官を罷免され、平蔵がこれにとって代わることになる。

更に、平蔵は幕府に告訴状を提出。

①等安が大坂の陣で豊臣方に加勢したこと
②宣教師を匿ったこと
③多数の奉公人を殺害したこと

を訴えた。

捕えられた等安は、キリシタンか否かを尋ねられ、当然のこととして肯定。
有罪が確定し10月に全財産が没収され、1619年12月斬首された。

1622年9月までに、他の子供たち・孫・親族が処刑された。



以上、村山等安の生涯をたどってきましたが、次に、これについて私が思うことを書いてみたいと思っています。















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by GFauree | 2015-02-10 05:02 | 村山等安 | Comments(0)

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