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【大航海時代のおと】

清くも正しくもなかったけれど本物の臭いがする長崎代官 村山等安 [その4]

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                              (写真撮影 三上信一氏)






1.等安の人物像


[その3]で、等安の生涯を書きました。

その生涯を概観したとき、私はまず、手八丁口八丁で手に入れた長崎代官の要職を梃子に、朱印船貿易も手掛けて、金も力も握った相当なやり手の姿を思い浮かべました。
そんな「やり手」であったからこそ、江戸幕府の治世に入ってからも、引き続き代官職に座り続けることができたのでしょう。


ともかく順調な仕事面に比べて、父親として夫としての面ではかなり苦労していたらしいところが人間らしくも、いじらしくも感じられます。でも、その家庭人としての苦労も彼の出世を支えた代官職のもつ危なさ故のことだったかも知れないなとも思います。


(1)三男フランシスコのこと


・1601年、イエズス会は実践的な聖職者を養成することを目的として長崎に神学校を開設しています。その学校の目的が、司祭としての活動に充分な知識を与えることだったために、学生は皆、有馬のセミナリオの過程をすでに終え、経験を積んだ伝道士(同宿)から選ばれた人たちだったそうです。

三男のフランシスコは、その神学校で学び1606年に叙品を受け司祭になっています。
( キリシタン研究 第十輯 日本における最初の神学校(1601年~1614年)吉川弘文館 )

息子の一人がセミナリオで学び、伝道士としての経験を積んでから神学校へ行き司祭になったのですから、家庭における等安が信者として子供の教育に気を配っていたことは推察できます。


長崎の外町に建てられた三つの小教区の教会のうち、一つは三男フランシスコのための教会です。等安はその教会の建築費や司祭の給与を含む維持費まで負担したそうです。

反イエズス会の小教区を育成しようとの思惑でそうしたのかも知れませんが、息子可愛さゆえのことだったとすれば、親として少し過保護かも知れません。

けれど、過保護な親というものは、ちゃっかり自分の狙いというものを持っているものです。等安も息子の教会を援助することで、キリシタン教会の中での自分の影響力を強めようとしたと考えられます。そして、その行動が「長崎シスマ(教会分裂)」での黒幕的な行動につながっていくのです。


1618年、等安追い落としのために末次平蔵が幕府に提出した告訴状に、「等安が大坂の陣で豊臣方に加勢したこと」が挙げられました。それは、「ドミニコ会の司祭であった三男フランシスコが追放され流罪になったのを、密かに長崎港外の島で下船させ、大坂城の豊臣方に送り込んだ」という嫌疑でした。


これに対して、等安は「息子は以前から自分に対して反抗しており、息子が安全にマニラへ行けるように、船を買いポルトガル人航海士を付けてやったのに、息子は勝手に下船し大阪へ行ってしまった。」と釈明したということです。


もし、この等安が言ったことが本当だとすれば、悲劇のかたまりのように語られている「キリシタンの国外追放」の際、追放された人々の中に、流罪のための船を買い安全のために外国人航海士を雇う裕福で心配性の親を持った日本人司祭がいたことになり、少し力が抜けます。


それに加えて、息子当人は親心を理解せず途中で下船して大坂城へ入ってしまい、親は息子が戦死した後になってその一切を初めて知ったという話は、親馬鹿の結果として何処かで聞いたことがある気の毒な話のようで、妙にリアルです。



(2)女房に頭が上がらない


(妻を含めた家族との関係)


・等安と妻ジェスタの間には息子が8~9人、娘が2人いた。
・ある女性のことで、妻や息子たちと激しく争い、息子たちは母親を守ろうとして武器を取るに至った。妻は、その女を力ずくでものにしようとする等安に抗ってかばったのだ。
・キリシタン禁制発布後、1614年5月の「贖罪の大行列」に彼と妻子たちは敬虔な態度で参加した。

(アビラ・ヒロン『日本王国記』)


(ルイス・フロイスが書いた同時代の日本女性の特徴)


ほぼ、同時代のイエズス会宣教師ルイス・フロイス(1532-97)の『日欧文化比較』に以下のような記述があります。それが、この時代の女性の一般的な性格を表わしている面もあるかもしれないので、挙げてみます。

32.(ヨーロッパでは)汚れた天性に従って、夫が妻を離別するのがふつうである。日本では、しばしば妻が夫を離別する。

35.ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている。


(妻ジェスタとジョアン・ロドリゲスの関係)



・1615年12月6日付マカオ発マノエル・ディアスのイエズス会総会長宛て書簡

ジョアン・ロドリゲスは長崎で同伴者なしに一人だけで等安の妻を訪ねることを常としていた。非常に親密な間柄で、時折小用をする時に彼女と一緒に便所に行った程であった。そしてしばしば彼女の着物の中に手を入れて胸にさわった。それを彼女の召使たちが見ていた。彼女たちを通して、彼女の夫がそのことを知った。それ以後、夫は彼女を虐待し、他の妾たちをおいた。そして同パ-ドレとの仲を断然絶ち、これを日本から追放させることまでした。もっとも、彼が同パ-ドレを追放するよう掛け合った時には、他の理由を挙げた。

(高瀬弘一郎著『キリシタン時代対外関係の研究』 第十三章「長崎代官村山等安をめぐる一つの出来事」)


この書簡を書いたマノエル・ディアスはイエズス会士です。

この書簡の内容は、イエズス会士である歴史家 マイケル・ク-パ-の「通辞 ロドリゲス」(原書房)にも、長崎でどのような敵意をはらんだうわさが流れていたかを示すものとして書かれています。


以上から、妻ジェスタについては、かなりはっきりした自分の考えを持ち決然と行動する女性であったのではと思いますが、それに対し等安はそんな妻にかなり影響され続けたのではなどと想像します。



(3)奇怪ではない残虐性


「1612年、等安が囲っていた女性の親族を10人以上殺し、家来の7~8人を去勢した以外に数人を殺した」という記述に違和感を感じられた方はおられないでしょうか。私も俄かには信じられない気がしました。

でも、等安がどのようにして生きて来たのかを考えたとき、だんだんそれが驚くほどのことでないことが分ってきました。それは、彼の仕事です。

彼の仕事は、長崎の古くからの土地の周囲に建設された外町を治めることでした。

その内容は、まず税金の徴収が考えられます。代官と言うと、貧しい農民や町人から厳しく年貢を取り立てる悪役のイメ-ジがあります。でも、取り立てる側が優しい顔をしていればおとなしく税金を納める人などいないでしょうから、物理的な力も必要になるでしょう。他に代官の仕事といえば、公共工事や住民同士の利害の調整や紛争の解決です。これも、時にはというか常にというか、物理的な力の行使が必要な仕事です。


そういう仕事を25年も続けて財を成したということは、等安は財力も物理的な力も保有する「顔役」になっていったのではないかと思います。

それは,危ない世界です。
普通に考えると「奇怪な残虐性」も、彼にとっては日常的なことになっていたのだろうと思うのです。



2.なぜ、イエズス会から托鉢修道会へ切り換えたか


当初イエズス会士から洗礼を受け、その後もイエズス会と非常に親密な関係を保っていた等安が、「なぜイエズス会から托鉢修道会に乗り換えたのか」は今も大きな謎として残されています。

上記の短編で、高瀬弘一郎氏は、「イエズス会が長崎での貿易や政治のことにあまりに深く関与したので、これがために代官である等安の利害と衝突することとなり、そのため長崎からイエズス会勢力を排除し、代って托鉢修道会とスペイン船の基地にしようと図ったのではないか」という考えと、上述の「ジョアン・ロドリゲスと等安の妻との関係」とを理由として挙げています。

私は、異なる修道会同士でも、また同じ修道会内でも、常に中傷合戦が繰り返されていたと考えたほうが間違いないぐらいに思うようになっているので、「ロドリゲスと等安の妻の関係」も単なる中傷だろうなどと思っていたのですが、今回等安の夫婦関係などを考え直してみて、やっぱり「ロドリゲスと等安の妻の関係」は実際にあったのではと思うようになっています。

「自分とイエズス会の利害が衝突することが増えて長崎を托鉢修道会とスペイン船の基地にすることも選択肢として考えるようになっていた」ところに、「ロドリゲスと妻の関係」の問題が起きて、実際に「ロドリゲス排除」に向かって動きだしたと考えるようになりました。それが、無理のないところではないでしょうか。


3.だから、本物


私は[その1]で、「キリシタン時代の信者は清く正しく真面目だったと書かれる場合が多くリアルでなく面白くない」と書きました。言うまでもなく、村山等安はその逆の存在です。

どうして、こういう人物が現れたのでしょうか。

・ひとつは時代。
等安が長崎代官になった1594年は、ザビエル来日から45年目、1549年から1639年までのキリシタン時代90年間のちょうど真ん中で、1587年に秀吉の宣教師追放令が出ていたとはいえキリシタン教会の成熟期と言っても良い時期です。

・もうひとつは長崎という場所。
イエズス会とポルトガル貿易の拠点として成長し繁栄していたところに、この時期、托鉢修道会とスペイン船が進出してきたこと。

・長崎代官という仕事。

・妻と家族そして何よりも本人の個性。


私は生まれたときに洗礼を受けたのに、葬式と法事以外は教会と縁をなくしてしまった者ですが、そんな自分を棚に上げて、私なりに抱いてきたカトリック信者ならこうあって欲しいという条件があります。それは、

・善人ぶらない。(自分の感覚で笑い・怒り・泣く)
・自分の言葉で語る。(神や聖書の言葉は出さない)
・自分の人生を大事にする。(やりたいことを、やる)

村山等安なら、この条件満たしそうですが、どうですか?


〈完〉















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Commented by bqbnp401 at 2015-07-31 03:17 x
投稿2回目になります。
面白く拝見させていただいております。
もう少し饒舌に語ってほしいような気もしますが、というのも
当方があまりにも知らなすぎるので歯痒いところがあるからです。
でも、普通の人の感覚の《宗教》は、そんなもんだよなあ、とはおもいます。
カトリック信者と日本の仏教徒はかなり似ていますものね。

当時の長崎の様子が朧げに見えてきました。今後の記事に期待しています。

少し寒暖の差が激しくなって来ました。
お体ご自愛下さい。

Commented by GFauree at 2015-07-31 08:50
> bqbnp401さん
コメント有難うございます。カトリックでも日本には少ない托鉢修道会系の信者で、武士階級の出身でないのに長崎代官を勤めた有力者であり、艶聞もありまた公然とイエズス会に抵抗した等安こそ日本のキリシタン社会の成熟を表わす人物なのではという思いからだけで書いてしまったようなところがあり反省しています。饒舌に語れないのは、私自身よく分っていないからなのです。特に、当時の長崎社会の特殊さや複雑さについては、もっと勉強すべきだし、またそれだけの価値のあるものであることを最近になって改めて感じています。そういう勉強の成果をたとえ僅かでも記事に反映させていきたいと思っておりますので、これからも宜しくお願い致します。
by GFauree | 2015-02-14 14:04 | 村山等安 | Comments(2)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。