【大航海時代のおと】

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なぜ「ペトロ岐部カスイ」は挫けなかったか [その2]

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                              (写真撮影 三上信一氏) 




-彼の生涯-



1.幼少期


・1587年、父岐部ロマノと母マリア波多の子として豊後国(現在の大分県)浦辺に生まれる。

父ロマノは、豊後国伊美地方の領主の一人であり、岐部一族の頂点に立つ岐部左近太夫の親族であり臣下であった。岐部左近太夫は大友宗麟の嫡男大友義統(よしむね)に側近として仕えた人物である。

1585年、岐部ロマノが府内(現在の大分市)のイエズス会に対し宣教師派遣を要請し、浦辺地方で140名の改宗が実現されたことが「イエズス会日本年報」の中に報告されている。

岐部の誕生と同年の1587年4月、大友義統は主要な領主・重臣のほぼ全員とともに受洗し、キリスト教に改宗したと伝えられている。ところが、そのわずか3か月後の7月、豊臣秀吉によって伴天連追放令が発令されると義統は一転して棄教し、1588年3月 家臣と領民に対しキリシタン棄教を命じた。

しかし、1589年度「イエズス会日本年報」のルイス・フロイスの報告には「岐部左近殿の妻は夫と善良なキリスト教徒である親族の岐部ロマンから、我らの聖なる教えのことを聞いてキリスト教徒になることを決意し・・・。」とある。


・1593年、秀吉による朝鮮半島への侵略戦争に参戦した大友義統が「臆病者」とされ改易されて豊後国を没収される事態が発生し、岐部氏一族も同時に所領を失ったと考えられている。


・1600年、関ケ原の役の後、大友義統は石垣原において黒田孝高の軍と戦って敗れた。

岐部左近太夫もこの合戦で亡くなり、岐部氏一族は逃れて、伊美・中村の円浄寺跡に隠れ住んだと言われている。


2.セミナリオ時代


・1600年、秋ないし冬に、長崎のイエズス会のセミナリオに入学する。

・1601年、セミナリオが移転したため残りの5年間を有馬で過ごす。

・1606年、セミナリオ修了時、イエズス会への入会を強く希望したが認められず、将来イエズス会に入る決意を表明する意味の誓願書を残したと考えられる。



3.同宿時代



セミナリオ修了後、正式(イエズス)会員ではない伝道士(カテキスタまたは同宿)としてイエズス会に雇用されヨーロッパ人宣教師の指図の下に働く生活を始める。

同年、筑前(現在の福岡県西部)秋月(現在の朝倉市の一部)のレジデンシアに配属される。
・1611年、甘木のレジデンシアに移り、秋月・甘木地方で活動する。



4.長崎-マカオ-ゴア-ダマスカス-エルサレム



1615年、長崎からマニラへ。同年秋、マニラからマカオへ渡る。

マカオでは、「カトリック要綱」やラテン語の講義には参加したものの、司祭になるために必要な哲学は受講させてもらえないなどの扱いに失望した日本人同宿グル-プの中に含まれていたと考えられる。

・1616年 11~12月、ミノエス・ミゲルと小西マンショと共にマカオからマラッカ経由インドに向かう。
1617年5月、ゴアに到着。
1617年 秋、ミノエス・ミゲルと小西マンショはゴアを出帆、リスボンへ向かう。

・1618年 9月以降、岐部、ゴアを出発、ホルムズ島を経由。
・1619年 2月頃までに、岐部、ペルシャ湾岸ウブツラに到着。
       4月半ば~5月、シリア・ダマスカスへ到着。

ダマスカスからゴラン高原を横切り、ヨルダン川沿いにガリラヤ湖岸経由、エルサレムに至る。



5.ローマ-リスボン



・1620年 5月中旬~6月中旬、ロ-マに入る。
       11月15日 「司祭職」を授けられ、ロ-マ教区の教区司祭となる。
       11月20日 イエズス会への入会を許可され、アンドレア修練院に入る。
              
・1622年 3月12日 イエズス会創始者イグナティウス・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式に                    参加し、急遽帰国を決意する。

・1622年 6月6日 ロ-マを出発。
       9月7日 ポルトガル、エボラ着。
            数日後、リスボン着、市内オリヴェテ山修道院に入る。



6.リスボン-ゴア-マニラ-マカオ-シャム-マニラ-坊ノ津-長崎



・1623年3月25日  リスボンを出発 

・1624年5月28日  インド、ゴアに到着。
      8月     マニラに着く。
      10~11月 マカオに着く。

・1627年7月   マカオからマラッカ行の船によりシャムへ渡航。             

(日本に帰航する朱印船や中国船に乗船しようと2年間その機会を待つが、結局その機会は得られず。)

・1629年7月 アユタヤからマニラへ渡る。

・1630年6月20日前後 ルパング島を出発。
      7月中旬    薩摩の坊ノ津へ到着し、長崎へ向かう。




7.潜伏から捕縛、焼殺まで



・1639年5月 仙台藩において捕縛され江戸に護送される。
         尋問と説得の後、「穴吊るし」の拷問が加えられ、焼殺される。





-彼の生涯について、思うこと-





こうして、彼の身に起きた事柄を列挙しそれを俯瞰してみるとき、まず私たちが想うのは、禁教令による出国から聖地エルサレムを経てロ-マに至るまでの5年間の道程の途方もない困難さではないかと思います。

そして、次に想うことは、ついに司祭職を得たロ-マでの晴れがましさの一方で、禁教・迫害の激化する日本へ戻っていくことを決心したときそしてそれからの心の動きでしょう。

さらに、日本へ帰り着くための7年間の波乱に満ちた道程、帰国してからの9年間の潜伏生活、その後の捕縛・尋問・拷問の間に、彼はいったい何をどう思っていたのかということが知りたくなります。

このように、彼の生涯について私が想うことや知りたいことは、出国してから惨殺されるまでの約25年間に集中していましたが、結局それは「その期間の苦難の連続の中でなぜ彼が挫けなかったか」という疑問に関係しています。それが私にとって最大の疑問だったということになります。

そこで、私はその「なぜ挫けなかったか」という疑問について考え始めました。そして、気付いたことは、「彼の苦難は1615年の出国の時点のもっと前からあったのではないか」ということです。

そういう観点から、私は彼の同宿時代・セミナリオ時代・幼少期を見直してみました。
すると、既にそれらの時期から彼が相当の苦難を経験し、またそれを克服することで稀にみる強靭な人格を形成していった可能性があることが見えてきたのです。

それは、資料的な根拠のある話ではありません。そういう意味で「歴史」とは言えない「仮説の塊」みたいなものでしょう。でも、将来どなたかが立証して下さるかも知れません。

次回、それをご説明したいと思います。



つづく



[参考文献]

「大航海時代と日本」 第五 殉教者ペトロ岐部カスイ神父の生涯 五野井隆史著 渡辺出版
「ペトロ岐部カスイ」 五野井隆史著 大分県教育委員会 大分県先哲叢書

        


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by GFauree | 2015-03-24 08:11 | ペトロ岐部カスイ | Comments(0)