【大航海時代のおと】

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なぜ「ペトロ岐部カスイ」は挫けなかったか [その4]

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                    (写真撮影 三上信一氏)






今回は、
「ペトロ岐部カスイ」が13歳のときから6年間在籍したセミナリオとはどんな所であったか、そしてそこで彼がどんな困難に遭遇し、それをどのように克服していったかを考えてみたいと思います。


2.セミナリオ時代


セミナリオとは、カトリック教会の神学校(聖職者養成機関)です。1600年、岐部は長崎のイエズス会のセミナリオに入学し、翌年セミナリオが有馬(現在の長崎県南島原市)へ移転したため残りの5年間を有馬で過ごします。


(1)入学資格


1580年、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが定めた「セミナリオ規則」には入学資格について次のように述べられています。

・座敷において殿に目通りすることが出来る貴人(武士)や地位ある人の子弟であること。

・教会に長く仕える意志を持って、両親がセミナリオに入学させるか、あるいは教会に捧げようとする者であること。



(2)セミナリオの生活


セミナリオの生活は、朝4時半の起床から夜8時以降の就寝まで、1日10時間程度の勉強と祈りの毎日です。学習の中心はラテン語と日本語であり、特にラテン語教育が重視されましたが、第二外国語としてポルトガル語、上級生になると基礎宗教学や倫理学が加わったという話もあります。


生徒たちは、日本の僧侶と同じように剃髪し、制服である青い着物を、またその上に青か黒のマントを着用し、外出の際は列をつくり二人ずつ並んで歩くことが決められていたように、規律正しい生活を送っていました。


と、こう書いてくると、規律正しい祈りと勉学の毎日を送る育ちの良い利発そうな坊主頭の少年たちの集団が眼に浮かびます。けれども、それはあくまでこの学校を運営する組織が希望する条件であったということも考えてみる必要があると思います。



(3)生徒の構成


まず、入学資格についてですが、「有力な武士や地位のある人の子弟であること」という条件は、将来のキリシタン教会を担う人材を安定的に確保・養成するために、また生徒を通して教会が日本社会の有力者層と強く結びつくために必要だと考えられたものでしょう。


しかし、実際には、安土(現在の滋賀県近江八幡市)の神学校の場合に生徒がなかなか集まらず、高山右近などが半強制的に重臣の子弟を応募させたという話があります。


親として息子に「教会に長く仕える意志を持たせ」たり、息子を「教会に捧げ」たりするということは、「生涯独身を貫く」ことを選択させることになる以上、容易に決断できることではなかったでしょう。まして、1587年にバテレン追放令が出されて、キリスト教布教の基盤の脆弱さが露わになってからは、なおさら息子たちを神学校に入れることをためらう親が増えたことだろうと思います。


このようなことから、生徒として「有力な武士の子弟」を集めることは、それほど容易なことではなかったと思われます。


一方、「武士ではないけれど地位ある人」としては、長崎の有力者が該当します。実際に、長崎頭人(町年寄)総代 後藤宗印の次男ミゲル・後藤や、以前にこのブログで採りあげた長崎代官 村山等安の三男フランシスコ・村山もセミナリオで学び後に司祭になっています。


南蛮貿易を教会が左右していたことを考えると、これら長崎の有力商人にとって教会との結び付きを強めるためにも子弟を聖職者養成機関に送ることは必要なことであったと考えられます。


逆に、学校経営というのは資金を必要とする事業です。イエズス会が常に財政的に窮迫していたことを考えるとこれら富裕な商人の子弟は学校経営にとって必要な存在だったとも考えられます。


次に、直接セミナリオの生徒に関して言及したものではありませんが、布教長であったフランシスコ・カブラルは日本人信者について「彼等が共同の、そして従順な生活ができるとするならば、それは他に何等の生活手段がない場合のみである」と書いています。

また、天正少年使節の首席であった伊東マンショについて、「孤児同然に着の身着のままでいたところを教会に拾われセミナリオに送られた少年である」ことをペドロ・ラモン神父が総長にあてた書状の中で報告しています。



これらのことから、セミナリオの生徒の一部には、戦争のために家や土地を失い生活に窮した侍の子弟や司祭になることで出世を果たそうとした者もいたと考えられています。岐部の場合、このどちらにも該当する可能性があります。


以上、イエズス会としては極力「有力な武士や地位ある人の子弟」を集めたかったところでしょうが、実際には「様々な階層の多様な事情を持った武士や商人の子弟」が集まって来ていたということだろうと思います。




(4)ラテン語・ポルトガル語



ロ-マ・カトリック教会の中で、ラテン語は全ての典書・典礼・聖歌に使われる実質的な公用語でした。ですから、日本でもミサの中の祈りや聖歌は全てラテン語で行われていました。それは、今から50年前の1962~65年の第2バチカン公会議まで続いていたのです。

従って、今もそうかも知れませんが、カトリックの聖職者である司祭になるためには、ラテン語の習得は必須のことだったのです。

日本語で書かれた教科書も辞書もなく、文字も語彙も文法も全く違う言語を学習することは、どれだけ難しかっただろうかと想像します。現在でも日本語で書かれたラテン語の教科書は多くないのですが、学習の難易度について言えば、今の方が当時と比べものにならないほど楽でしょう。

このセミナリオはいわばラテン語の語学校のようなものだったでしょうから、仮にラテン語の授業に随いていけなければ辞める他はなかったでしょう。そして、そのために辞めて行く生徒は少なくなかったのではないかと想像します。

そういう中で、岐部は最後まで残り、後年に彼が書いた書簡をみるとラテン語は相当の水準まで習得できていたのではないかと思われます。

また、ポルトガル語は外国人宣教師との意思疎通のために学ばされたものと思われますが、後年ヨーロッパでの生活で不自由していなかった様子からみるとこれも充分習得できていたと考えられます。

もっとも、ポルトガル語・スペイン語・イタリア語はラテン語の子供のようなものですから、ラテン語に習熟していたのであればポルトガル語習得は苦にならなかったかも知れません。



(5)神父(司祭)になりたいという願望はどのくらい強かったか


次に、彼がどのくらい神父(司祭)になりたかったのか、ということを考えてみたいと思います。

カトリックの司祭は、祭司の権限を持ち、神の恵みを与え罪を許す権威を授けられている特別な人間です。

信者の子供にとって、親よりも学校の先生よりも知識も教養も権威もある偉い人と思われるのが普通です。

従って、カトリックの家庭で育った人の半分以上は一度は神父になることに憧れたのではないかと思います。

岐部の場合は、彼の誕生以来、厳しさを増していく周囲の環境にも耐える敬虔な信者である親の教育を受け、困難に直面するほどそれを克服することで、幼い時からの憧れをより強いものにしていったという感じがします。

ですから、彼の「神父になりたい」という願望は既にセミナリオ時代から「鉄よりも強い」と言えるぐらいのものだったのではないかと思います。



(6)セミナリオにおける岐部の位置付け


書いてきましたように、セミナリオ入学の際の岐部の父親は、主君の敗戦により住み慣れた土地を離れた「牢人」の身であり入学者資格にある「有力な武士」には遠く及ばず、また、長崎の要人たちのように教会を助成する財力も期待できない状況でした。

評価できるものがあるとすれば、15年前に140名の改宗に貢献した実績だけであり、その実績を学校側がどれだけ岐部に対する評価に反映させたかは分りません。


なぜ彼に対する学校の評価を気にするかと言うと、その評価がその後の彼の進路や処遇に影響しただろうと思うからです。評価が高ければ、セミナリオ終了後、正式会員となり更に上級の神学校コレジオに進み修道士や神父になる道が開けるかも知れません。逆に充分評価されなければ、憧れの神父になる道は閉ざされ、正式会員になれずイエズス会に雇用される伝道士(同宿)として働くことになるのです。

彼の親が有力者であるか否かは彼に対する評価のうちのいわば持ち点のようなもので、そこに学業成績の評価が加わる形で評価がなされていたのではないかと思われる節があります。


もうお気付きかも知れませんが、私は彼がラテン語も充分習得し学業の成績が良かったのに、セミナリオ終了後、上級の神学校へ行ったり正規の会員にさせてもらえなかったのは、彼の親の社会的地位や社会的影響力などの持ち点が低かったからではないかと考えているのです。

そして、組織としてはそんな冷徹な評価がなされる一方で、例えば教師たちの中には彼の不撓不屈の努力を認め見守り励まし続けた人がいたのだろうと思えるのです。それが、あとで出てくる請願文の話です。


(7)生徒たち


学課の内容にしろ生活の規律にしろ厳しい学校だっただろうと思います。

特に後半3年間は、今の日本で言えば高校に当たります。前半は皆に遅れないようにと夢中で過ごしたかも知れませんが、後半になれば自分の能力の水準も限界もだいたい分ってきます。

そこで考えるのは、自分に下されるであろう評価と想定されるセミナリオ終了後の進路のことでしょう。
また改めて気付くのは、自分に対する評価は、学課の成績だけではなく、親の社会的地位や影響力など本人の努力だけではどうしようもないものも考慮されて下されるということではないでしょうか。

そういうことを考え、意気消沈して落伍する者もいたかも知れません。また、自分の能力の限界を悟って、「入学したときの神父になるという夢にはこだわらず、伝道士としてそれなりに生きて行こう」というように気持ちを切り換えた者も少なくなかっただろうと思います。

そんな生徒たちの中で、なぜ岐部は自己の目標に向かってひたすら学業に励むことができたのでしょうか。

それは、セミナリオの生活がいくら厳しくても、彼が入学する前に経験してきた生活に比べればはるかに楽だったからではないかと私は考えます。

そして、確信に満ちて冷静に努力し続ける岐部を見守る教師たちの目が確かにあったと思われます。




(8)修養会


セミナリオには、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノノの指示で修養会というグル-プが作られました。このグル-プに選抜された生徒は、自分たちが節約した食事を近辺の町の貧者に届けたり、らい病患者の世話をするなどの社会的奉仕活動を通して謙遜と愛の修業をしていたということです。


これは、遠藤周作が岐部の評伝「銃と十字架」に書いていることです。以前これを読んだときは私は何だか唐突な感じを受けただけで、筆者が何を言いたいのかが分りませんでした。


けれど、今回改めてその部分を読んで気が付きました。
それは、もし岐部がセミナリオ時代に、この修養会活動というものを経験していたとすれば、その経験は後に布教活動を実践する段になって大いにに役立ったのではないかということです。


キリスト教布教活動と社会的奉仕活動とが歴史的にも深い関係をもってきたこと
をご存知の方は少なくないと思いますが、私は7年前に当地に来てからしばしばそれを感じさせられています。


修養会活動の経験によって、岐部のセミナリオ修了後の、同宿(伝道士)としての活動がより広範に、強力に、また彼に大きな喜びを与えるものとなった可能性があると、私は思うのです。




(9)ポルトガル(関係事項担当)顧問マスカレニャス神父作成の請願文


岐部は、1620年11月20日イエズス会に入会し修練院に入る際に「自身の出自と召命に関する小報告」というものを書いています。その中に、イエズス会への入会について次のように記しています。


「入会(を希望すること)の動機は、私自身の意思である。すでに14年前に自発的に望んだことであり、(それを表明するために)ポルトガル担当顧問マスカレヌス神父作成の請願文様式を使用した。」



この請願文の件も、以前に読んだ五野井隆史著「ペトロ岐部カスイ」に書かれてあったのですが、私は、ずっと意味が分りませんでした。


「小報告」に書いてある14年前とは、セミナリオを修了して同宿(伝道士)として働き始めたときですが、
「なぜ、何のためにそんな請願文というものを書いたのか」、


請願文には、決められた様式があったようですが、

「なぜ、請願文の様式が決められていたのか」、


イエズス会入会の際の小報告に関しては、
「なぜ、イエズス会に正式に入会できる段になって、わざわざ14年前に作成した誓願文の様式について書いたのか」、また「なぜ、請願文様式を作成した人の名前を書いたのか」


などと疑問が浮かぶばかりで、どう解釈したらいいのかさっぱり見当が付かなかったのですが、今回やっとひとつの解釈が浮かびました。


それは、こういうことです。


セミナリオを修了したとき、将来はイエズス会に雇用されて働く同宿(伝道士)ではなく、修道士・神父となれるようにイエズス会の正規の会員となることを強く希望していましたが、その望みは叶えられませんでした。


学力的にも人格的にも周囲から相当に高く評価され彼自身も多少の自信があったかも知れません。しかし、彼の入会は認められず、今後も教会のために働くとすれば同宿として雇用される道しかないことになりました。
セミナリオに入学したとき、すでに「牢人」であった父親と家族の境遇がその後どうなったかは確かではありませんが、いずれにしても安易に親の元に戻ることも出来なかったでしょう。


全ては、会が彼に下した評価によることです。なぜそのような評価が下されたのかは分りませんが、私は既に「彼の位置付け」のところに書いたように、彼の学力や人格に対する評価以前に、彼の親の社会的地位や社会的影響力によって彼に与えられていた「持ち点」が低かったためなのだろうと思っています。それ以外に、運営上の、または政策的な理由もあったかも知れません。


こう書くと、何か現代日本企業の人事評価の話をしているようでおかしな気がするのですが、実際、この時代のイエズス会の活動を見ていると現代企業と変わらないと感じさせることがよくあります。そういう意味で、私は自分の企業人としての苦い経験を活かせていると感じるときがあるのですが、それは余談です。


さて、理不尽な評価によって岐部は深い失望を味わい、今後の進路にも迷う苦境に陥ります。その時、有難いことに、彼の苦悩を理解し何とか彼を苦境から救い出したいと考える人がいたのです。それは、ふだんから彼の不撓不屈の努力を見守り励まし続けてきた教師たちの何人かです。


彼らとても、一旦下した決定を容易に覆すことはないこの組織の厳しさを知っています。なにしろ、彼らの組織は「服従」を主要な規範とする修道会の中でもその厳格さは群を抜いているとの定評がある程です。組織の決定に反抗したと見なされれば、今度は自分の立場が脅かされます。それでも、彼らは何とかしたいと知識・経験の豊富な組織内の人物に相談します。


すると、出てきた答えは次のようなものです。


岐部と同じように、学力も人格も優秀と認められ、セミナリオ修了後には当然入会を許可されるものと周囲から思われていた者が何らかの理由で入会を認められなかった例が過去にも少なからずあった。


1592年2月、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノによって長崎で開催された第1回日本イエズス会管区総会議において、処遇に不満を抱き教会から離れていく日本人の同宿(正規会員でない伝道士)が多いことが問題となり、同時に岐部のように現状は入会が認められていないものの引き続き教会に留まり布教活動に従事させるべきと考えられる者をどう扱うかについても議題に挙げられた。


結局、この件についてはその場で結論の出なかった諸問題と共に、日本管区を代表してヒル・デ・ラ・マタ神父が同年ローマに赴いて本部の指示を仰ぎ、その結果は1598年日本へ持ち帰られた。


持ち帰られた、本部の指示の内容は以下の通り。

セミナリオの修了予定者で、学力・人格とも優秀と認められるが修了時までに会から入会を承認されない者のうち、本人が真に入会を希望しているとセミナリオ責任者が認めるものについては、所定の様式による本人自筆の入会請願書をセミナリオ責任者に対し提出させるものとする。

入会請願書は、日本管区担当アントニオ・マスカレニャス神父作成の様式によるものとする。

入会請願書の性質はあくまで異例のものであり、対象者についてはセミナリオ責任者の責任において厳選し,また提出させた書面の内容を公表することはなく厳重に保管すること。   

岐部のケースもこの過去の本部指示に従って対応してはどうか。』


これを聞いたセミナリオの教師たちは、正直なところ落胆したことでしょう。「入会請願書」と言っても、内容は入会希望者に確かに入会を希望していることを表明(宣言)させるだけのことで、会の側はなにも約束しておらずただ入会希望者自身に宣言させて精神的義務を負わせるためだけのものに思われたのです。

会員として受け入れないとの決定はもはや覆すことができないのは確かでした。しかし、そこでひとつの考えが浮かびます。それは、「将来再び彼の入会が検討されることがないとは言えないのだから、その時のために彼がセミナリオ終了時点で確かに入会を希望していたという跡を残すことは意味があるかも知れない。」ということでした。さらに、「入会請願書」という形を残させることは、入会を誰よりも強く希望してきた彼の努力を改めて認め、励ますことにもなり得ると考えられたのです。


そういう考えのもとに、「入会請願文」提出を岐部に勧めてみると、意外なことに、彼は素直にその勧めに従いました。すでに、会に雇用され伝道士として働くことに気持ちを切り換え始めていたのかも知れません。また、セミナリオに入る前の食うや食わずの生活を思い返して、憧れの司祭職に向かってどんな苦労も乗り超える覚悟を新たにしていたのかも知れません。


教師たちが、自分のことを評価しそこまで気にかけてくれていたことに感じ入り、感謝の念を強く持ったとも考えられます。さらに、自分と同様な境遇にある者に対して種々の考慮を重ねてくれた担当がローマの本部にもいたことを知って心強く感じ、感激し、アントニオ・マスカレニャスというその担当者の名前をしっかり記憶に刻み込んだのではないでしょうか。


私のように信仰薄き者でも、それなりの苦労の後に自分の心に響くような「めぐりあわせ」を感じた時には、神の賜物という言葉が頭に浮かぶことがあります。岐部がロ-マに到着し対応してくれる担当者の名前がヌーノ・マスカレニャスであり、それがアントニオ・マスカレニャスの弟だと知った時の感激はどれほどのものだったでしょうか。


その感激が、ついにロ-マで司祭職を得てイエズス会に入会した際に書いた「小報告」の中に、「(すでに、十四年前に)マスカレニャス神父作成の請願文を使った。」と記させたのだろうと私は考えます。


私がなぜこの「請願文」のことにこだわるかというと、「請願文」を書いたセミナリオ修了時、岐部は18~19歳です。そんな「請願文」を残すというような知識も知恵もまだ持っていなかっただろうと思うのです。ということは、誰かが彼にその対応を教え勧めたのでしょう。


それは、彼の周囲にいて、彼よりは会の内情を知る立場にあって彼に忠告を与え得る人ですから、おそらくは彼を指導してきた教師のうち誰かでしょう。

私が何を言いたいかと言うと、「請願文を残した」という彼の行動は、セミナリオ時代の彼が、周囲の人たちに不撓不屈の努力によって共感や支援を得ていた証しではないかということです。


そして、その「周囲の共感や支援」こそ彼がセミナリオ時代の苦難を克服する原動力だったのではないかと思うのです。この「周囲の共感や支援」は、また次の同宿時代にも彼が苦難を乗り超えるための最大の力となったのでは、と私は考えています。


以上、岐部のセミナリオ時代について書いてきた事のうち特に、セミナリオでの岐部の評価のされ方、入会が否定された理由、「自身の出自と召命に関する小報告」に書かれた内容などについては、下記の参考文献に書かれてある事柄に、私の推測をかなり加えた解釈を書きましたことをご了解頂きたいと思います。


次回は、彼の人格形成の上で、私が一番重要だと思いかつ興味深い「同宿時代」です。この時代の岐部がどのような困難を経験しそれを乗り超えようとしたかについて考えることはまた、日本のキリシタン時代の実情に少しでも近付くことになるのではと、期待もしています。


〈つづく〉



[参考文献]

ペトロ岐部カスイ   五野井隆史著     大分県先哲叢書
大航海時代と日本   五野井隆史著        渡辺出版
銃と十字架       遠藤周作著         新潮社
日本巡察記    ヴァリニャ-ノ著 松田毅一他訳 東洋文庫




















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Commented at 2015-04-05 14:12 x
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by GFauree | 2015-04-03 10:43 | ペトロ岐部カスイ | Comments(1)