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【大航海時代のおと】

なぜ「ペトロ岐部カスイ」は挫けなかったか [その5]

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                    (写真撮影 三上信一氏)






彼の強靭な人格はすでに出国前に形成されていたのではないかと思い付いて、幼少期、セミナリオ時代を見てきました。

前回は「セミナリオ時代」に関し、以前に解釈の付かなかった「イエズス会入会請願文作成」について,考え付いた私の解釈を書かせて頂きました。

今回は、セミナリオ修了時から出国までの「同宿時代」について考えていきます。今回もまた、岐部についての話にはよく出てくるけれど、それが彼にとってどういう意味があったのかはあまり語られていない事柄について、私なりの解釈をお伝えしたいと思います。



3.同宿時代


岐部は、セミナリオ修了時イエズス会への入会が認められず、やむなくイエズス会の正会員である外国人宣教師の手足となって働く「同宿」として生活していきます。

〈同宿とは〉

「同宿」というのは、本来、仏教寺院で僧侶になるために修業する者を呼んだ言葉ですが、キリシタン教会内でもこの言葉を使いました。イエズス会は将来の修道士・司祭候補として彼らと契約して(契約の内容は定かではありませんが)雇用したのです。


彼らの仕事は、聖器室の係、使い走り、茶の湯の接待、ミサの侍者、埋葬や洗礼その他の教会儀式の手伝いをして神父を助けることなどで、キリシタン教会で働いていた看坊・小者と呼ばれていた他の日本人の使用人に比べると、より神父に近い宗教的な活動を担当していたようです。


同宿はカトリック教会が正式に聖職者として認めた神父と同じように祈り、修行、奉仕の生活を送っていたのですが、聖職者ではありませんから結婚することも認められていました。そういう生活の中で、岐部のように修道士・神父になることを希望する者は、いつの日かは聖職者候補として選ばれることを励みとして、独身を守って働いていたことになります。

〈ヴァリニャ-ノは同宿を評価していた〉

ヨ-ロッパ人宣教師のために、その手足となって従順に働く同宿(伝道士)の存在をキリシタン教会が必要としていた状況を、日本管区を監督・指導する立場にあった巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、1583年に書いた「日本諸事要録」の中で、次のように率直に認めています。


「第一、当初から今日に至るまで日本人修道士の数は不足しており、言語や風習は我等にとって、はなはだ困難、かつ新奇であるから、これらの同宿がいなければ、我等は日本で何事もなし得なかったであろう。今まで説教を行い、教理を説き、実行された司牧の大部分は彼等の手になるものであり、・・・。」


〈同宿は何人ぐらいいたか〉


それでは、日本のキリシタン時代にどのくらいの数の同宿や看坊・小者などの日本人被雇用者がいたのでしょうか、またそれは布教団全体のどのくらいの割合を占めていたのでしょうか。


五野井隆史著「徳川初期キリシタン史研究」(吉川弘文館)p.369に以下の記載があります。

「1609年11月12日付の『日本イエズス会のカ-ザ、人員、収入、経費に関する短い叙述』によると、イエズス会は、1609年に 神父(65)、修道士(75)、同宿(304)、小者(427)の計871名を扶養していた。看坊についての記載はないが、1604年当時160名であった看坊は、1609年には恐らく若干の増員を見ていたであろう。」

これを基に、1609年のキリシタン教会の布教団構成を推定してみると以下のようになります。

神父(65)、修道士(75)、同宿(304)、看坊(160)、小者(427) 計1,031名

一般的に、キリシタン時代のカトリック教会の活動は、渡来したヨ-ロッパ人宣教師が行ったものというイメ-ジがありますが、実際は、神父はイエズス会の布教団全体の約6%を占めていたに過ぎないのです。

神父・修道士を合わせたイエズス会正会員でも約14%に過ぎず、キリシタン教会の実態は、ヴァリニャ-ノが述べているように、残り86%を占める日本人被雇用者によって運営されていたと言っても過言ではないでしょう。


〈頼りになって便利だった同宿〉


また、同宿は神父の約5倍の人数いただけではありません。日本の言語や習慣を習得することの難しさ考えると、教会の活動において最も重要な要素のひとつと考えられる一般信者との意思疎通は外国人宣教師にはほとんど不可能であったでしょうから、宗教的活動の大部分は同宿によって進められていたと言うことも出来ます。


その上、同宿は同じ日本人被雇用者である看坊・小者とともに正会員でないために、教会を取り巻く状況によっては人員削減の対象になりました。同宿は充分利用価値のある労働力であるとともに、いざというときには、首を切れる便利な存在と考えられたのでしょう。ここでも、何だか現代企業の人の使い方に似ています。


〈なぜ同宿は多くて、修道士・神父は少なかったか〉


そういう事情から、同宿(伝道士)には高い評価が与えられていた一方、同宿を終えてイエズス会に入会した修道士に対しては厳しい評価が下されていました。修道士は、傲慢になって充分に働かないと見られていたのです。日本人は司祭に向かないという評価もヨーロッパ人宣教師によってなされていました。また、そのような評価を根拠にして、日本人の入会が意図的に抑えらたのです。


このような状況の下、岐部は同宿時代を送ります。
書いてきましたように、同宿は教義や祈りや教典・典礼の内容も理解し、教理指導も説教も行って、日本語の不自由な神父を補佐するという重要な役割を果たしていたはずですから、彼も、忙しい中にも充実した毎日を送っていたと考えたいところですが、そんなに事は単純でないのが世の常です。


〈上司との関係〉


まず、上司である外国人宣教師との関係が問題です。

同宿としては、希望通りに入会や昇格を果たすためには、おそらく上司である宣教師に良く評価してもらうことが必須だったでしょうから随分気も使って仕えたことでしょう。

宣教師にすれば、同宿は日本語の不自由な自分に代わって教義指導から説教までこなしてくれるだけでなく、一般信者や教会内の看坊・小者といった日本人使用人との意思疎通も助けてくれる有難い存在でしたが、なまじ専門教育も受けて相応に知識もあるだけに扱い難い面もあり、気の許せない相手でもあったでしょう。

そんな中で、厄介なことやトラブルの責任や業務拡大のノルマはしっかり部下に押しつけ、何か成功があれば自分ひとりの手柄のように本部へ報告するような上司はいなかったのでしょうか。


〈通辞ロドリゲスの正直な見解〉


遠藤周作の『銃と十字架』に引用されている通辞(通訳)ジョアン・ロドリゲスの日本人に対する見方を読むと、よくここまで意地悪な見方ができるものだと感心するとともに、もしこんな上司に仕えなければならないとしたら、さぞかしたいへんだっただろうと思わずにはいられません。

「これらの(神学校を卒えた)日本人の特徴は偽善です。彼等は天性、外側は謙虚で冷静を装えますから、わが会士はそれに幻惑され、この連中の信仰心がヨ-ロッパ人ほど強くなく、修徳も不完全なことを知らず、また見抜けないのです」

通辞ロドリゲスと言えば、『日本大文典』・『日本小文典』を著述するほど日本語に堪能で、豊臣秀吉の外交顧問も務めるほど日本の事情に通じたイエズス会士であったはずです。その人物がこんな言葉を残しているくらいですかから、日本人の神学校卒業生に好意的でない外国人宣教師は少なくなかったどころか支配的であったとさえ言えるのではないかと思います。

もっとも、ロドリゲスは幼い時にポルトガル人商人か宣教師の使用人として来日し、後にイエズス会に入り門閥などのバックもなく手八丁口八丁でのし上がったような人ですから、若い時に会内外の日本人に相当に虐められその恨みを秘かに持っていたのかも知れません。


〈岐部にとっては、どうだったか〉


1606年から1609年までの3年間、秋月のレシデンシアに配置された岐部は、上司としてポルトガル人神父 ガブリエル・デ・マトスに仕え、1609年12月から1615年3~4月までの7年間余りは、イタリア人神父 フランシスコ・エウジェニオに仕えたと考えられています。

この10年の間に、岐部を修道士・神父に昇格させるべく正規の会員とする動きはもちろんありませんでした。だからこそ、後に出国してから5年後にロ-マで会員となる必要があったわけですが。

私は、彼が仕えた二人の上司は要するに通辞ロドリゲスと同じようなヨ-ロッパ人であった、ということではないかと思っています。


〈その他の超えるべき障害〉


先に、キリシタン教会の布教団構成に関して見た報告と同じものと思われますが、
1609年にマカオで作成された報告があります。

その報告には、「秋月(福岡県西部・朝倉市の一部)のレシデンシア(修道院宿舎)には、神父1名、修道士1名、学生つまり同宿5名、小者12名が常駐している」とあります。

この同宿5名のうち1名が岐部であったと考えられますが、1名の上司に対し5名の同宿が仕えていたのですから、同宿間の競争もあったのではないかと思われます。

同宿の中には、既に妻帯している者もいたでしょうから、5人全員で競争していたわけではないかも知れませんが、入会・昇格のために上司エウジェニオ神父の推薦を得ることは相当困難なことだっただろうと想像します。


〈ふたたび、なぜ岐部は目標をあきらめなかったか〉


もし、入会・聖職者という長年の目標をあきらめるのであれば、まず同宿を辞めることが考えられます。また、同宿は続けるとしても、妻帯をし他の目標なり生き甲斐を支えに生きていく道も有り得ます。

しかし、岐部はそういう選択はせず、ひたすら子供のときから抱いていた夢に向かって歩き続けていたようです。

何故でしょうか。

信仰のある方なら、「岐部の信仰がそれほど強いものだったから」とお答えになるかも知れません。しかし、信仰の薄い私はそれでは納得できませんでした。

もっと何か身近に実感できるものがあったのではないかと思ったのです。けれど、それが何であるのか見当が付かないまま、長い時間が過ぎました。

そして、今回この記事を書くために考え直しているうちに、これではないかと思い当たることが出て 来ました。


〈殉教・奇跡・聖遺物〉


それは、岐部に関する本に書かれていて、私も読んだことはあるけれども、苦手な分野のことなので今まで避けてきたことです。

殉教や奇跡や聖遺物に関係することなのです。

私には「信仰というものは、粛然と心の中に抱くべきものだ」という観念が子供のときからあります。目に見える形で表わされる殉教や奇跡や聖遺物はその観念とはどうも、合いません。その言葉を聞いただけで抵抗を感じてしまうのです。

それで、長い間触れないで来たのですが、今回改めて見直してみたというわけです。


〈聖遺物に関するペトロ・カスイの証言〉


岐部の同宿時代の活動を示唆する資料があります。
それは、1620年に彼がロ-マについてから作成した『聖遺物に関するペトロ・カスイの証言』と題する文書です。

その文書には、二つの証言が含まれています。



証言Ⅰ

ひとつは、「至福なるマティアスの指について」の証言です。


マティアスとは、1614年3月筑前(福岡県西部)・秋月で殉教した同地域のキリシタンの中心人物 七郎兵衛のことであることが分っています。

岐部はその遺体を自分の手で墓から取り出し、長崎の司祭の下へ届けましたが、死後20日が経過していたにも拘らず、遺体から新鮮な血が流れていたことと、彼が遺体から指を切り離しロ-マに持参して、ポルトガル管区補佐ヌ-ノ・マスカレニャス神父に渡したことを、証言しているのです。



証言Ⅱ

もうひとつは、「(不思議な小麦の)穂について」の証言です。

1614年12月、肥前(長崎県島原市)・口之津で殉教した24人のうちミゲルという男の蒔いた(麦の)穂を彼の死後妻が耕したところ、麦が一晩に約30センチ伸びたので、人々が集まって来て高い値段で穂が売れた。その麦の穂は摘み取られた後も、何度もすぐに穂が生じてくるので、皆が驚いた。

この奇跡は、日本全体で評判となり、たくさんの人がその穂を大切に保管していた、というものです。


この証言は次のようなことを意味すると言われています。


(1)証言Ⅰが意味すること

・岐部がセミナリオ修了後に、秋月(福岡県西部・朝倉市の一部)のレシデンシア(修道院宿舎)に派遣され、秋月と甘木のキリシタン教会に関わって同地方の宣教活動に従事していたこと。

・「マティアスの指」を出国する際に持ち出したということは、1614年11月に遺体から指を切り離した時点で、既にローマに赴こうという遠大な計画を立てていたのではないかということ。


(2)証言Ⅱが意味すること

1614年11月、宣教師や高山右近と多数の同宿・小者らが、マカオ・マニラ・シャムに向けて出航ししましたが、岐部はこのときは出国せず日本に残っていたこと。


けれども、私はこれら以外に、何か見えてくるものはないかと考えているうちに思い当たることがありました。
それは、岐部がこの証言で何を伝えたかったかということです。


〈岐部はこの証言によって何が言いたかったのか〉



「マティアスの指」のマティアス七郎兵衛は、彼が担当し世話をした信者だったのではないかと私は思います。

だとすれば、彼が言いたかったのは、「こういう敬虔な信者と共に、また彼らの信仰のために自分たちは働いてきた」、また「これら信者と自分たちの信頼と努力が培ってきたキリシタン教会であるからこそ、これだけ殉教や奇跡に恵まれているのだ」ということではないでしょうか。

必ずしも彼に好意的でない上司の指図と厳しい同僚との競争の中にあっても、自分の夢に向かってまた自分の果たすべき使命に忠実に陰日向なく働き続ける岐部に信者たちは気付いていたでしょう。

前回も書きましたが、カトリック信者は神父を特別な人間だと考えているのが普通です。ですから、それだけまた厳しくも見ているのです。キリシタン時代は同宿が神父の働きをしていたのですから、同宿の言動も信者はきっと注意深く見ていたことでしょう。


「マティアスの指」の七郎兵衛は、その地方の有力なキリシタンだったと言われています。“有力”という言葉が何を示すのか定かではありませんが、私はそれは「武士ではないけれど社会的影響力を持った」という意味ではないかと思います。ということは、岐部は同宿としての任務を通じて、担当地域のキリシタンの重要人物から認められ神父を目指す生き方に共感を得ていたかも知れません。


こういう信者たちから得た共感や支持が厳しい境遇に在った岐部をどれだけ力付けたか分りません。きっと、さらに真剣に信者のために尽力しより大きな充実感と喜びを得ようとしたのではないかと私は考えます。

そしてまた、将来、司祭職を得た暁には、この信者たちが自分に示してくれた共感・支持に酬いるために、この信仰心篤い信者たちのことを、必ず本部に伝えようと、岐部は心に誓ったのだろうと思います。


こういう背景を前提とすれば、「なぜ出国する際に『マティアスの指』を持ち出したのか」、「なぜローマで『聖遺物に関する証言』を書いたのか」について説明がつきます。


聖遺物「マティアスの指」の奇跡・「不思議な麦の穂」の奇跡・マティアスとミゲルという二人の殉教者は、彼にとって、彼が同宿時代に日本で担当しまた彼を支持してくれた信者たちとその信者たちの素晴らしさを象徴するものだったのです。


岐部はロ-マに到着してから約半年後、司祭職を授けられ、それから1年4か月後に帰国を決意したと言われています。その決意の理由として、イエズス会の創始者イグナティウス・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式に参加したことがよく挙げられます。


けれども、もし同宿時代に、信者のために働き、信者から感謝・共感・支持を得て充実感を味わい苦難を乗り越えていくという経験をしていなければ、帰国を決意することはあり得なかったし、それから8年以上をかけて帰国するということも有り得なかったのだろうと私は思います。



次回は、最終回として岐部が残した手紙の内容と、岐部の生涯が語るものについて、考えるところを書かせて頂こうと思っています。


(つづく)


〈参考文献〉

ペトロ岐部カスイ 五野井隆史著 大分県先哲叢書
大航海時代と日本 五野井隆史著 渡辺出版
徳川初期キリシタン史研究 補訂版 五野井隆史著 吉川弘文館
銃と十字架    遠藤周作著  新潮社
日本巡察記    ヴァリニャ-ノ著 松田毅一他訳 東洋文庫


















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by GFauree | 2015-04-10 13:41 | ペトロ岐部カスイ | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。