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なぜ「ペトロ岐部カスイ」は挫けなかったか  [その6]


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               (写真撮影 三上信一氏)
                          







岐部は、四通のラテン語書簡を残していますが、これらは全て大分県先哲叢書 ペトロ岐部カスイ 資料集 に日本語訳とともに収められています。


余談ですが、私は2001年に岐部の故郷、大分県東国東郡国見町へ行く機会を得て資料館へも行きました。その時に、この資料集が3冊ばかり置かれてあるのに気が付きましたが、高そうな本なので欲しいと言い出せず、後になって買っておけば良かったと後悔していました。

ところが、5年ぐらい経ってから、当時住んでいた所に近い横浜・伊勢崎町の古書店で偶然見つけたのです。非売品との表示がありましたが、たしか3千5百円だったと思います。もちろん、即買いました。私は、古本についてこれ以外にも「不思議な出会い」のようなものを何回か経験しています。


さて、岐部の残した書簡と主な内容は以下の通りです。


(1)1623年2月1日付、リスボン発、ロ-マ修練院長補佐宛
(2)1630年5月7日付、フィリピン・ルパング島発、イエズス会総会長宛
(3)1630年5月7日付、フィリピン・ルパング島発、イエズス会総会長補佐宛
(4)1630年6月12日付、フィリピン・ルパング島発、マニラ・コレジオ校長宛


書簡(1)の内容

・インドからの情報

オルムズという主要な町が、英国の支援を受けたペルシャ人によって占領され、ポルトガルは甚大な損害を蒙った。しかし、(インド)ゴアの(ポルトガル)副王によって、オルムズに近いマスカット港へ、大艦隊の援軍が送られることになっている。また、ポルトガルからは、より強力な兵員、武器その他の援助が送られた。この損害はポルトガル人のというより、キリスト教徒共通のものであることは明らかだから、願わくは、神が再び勝利をもたらすように。


・日本での迫害の情報

1621年に日本から発信された他の神父たちの手紙をマドリッドで読んだ。その手紙によれば、神父たちが隠れることが出来ないように、家が一軒ずつ捜索されているとのこと。

さらに、教皇パウロ5世の時代にフランシスコ会士がロ-マへ使節を連れて行った(慶長遣欧使節を派遣した)奥州地方で、新たな迫害が起っている。

大名 伊達政宗は、家臣、商人その他自分の支配下のキリスト教徒を皆、領地から追い払うよう命令し、布教することは出来なくなった。


書簡(2)の内容

・「あなたが、手紙の中で私に示して下さったご好意は、いわば先を急ぐ馬にさらに拍車をかけるようなものでした。まことに、日本の武士の習いは、仕える主人のただ一言によっても、自分の命を投げ打とうと考えるものだからです。」

・「列福された日本人殉教者の守護によって、日本全体がやがて平和になり、聖なるロ-マ教会に委ねられ、主キリストにふさわしい花嫁となって欲しいという大きな希望を持っています。」


書簡(3)の内容

1627年2月、日本に渡航する手がかりを探すために、マカオからシャム国へ派遣された。

マカオからマラッカ経由シャムへ向かおうとしたとき、シンガポ-ル海峡付近でオランダ船に遭遇し、陸地伝いに逃亡して14日後にマラッカへ到着。結局、シャムに着いたのは同じ年の7月末だった。

シャムでは、2年間、首都アユタヤの日本人町に潜伏して日本へ渡る方法を探したが、それは無駄に終わった。というのは、日本に渡航するためには、仏教の何らかの宗派に属することを宣誓しなければならないとの、将軍の命令が布告されたからだ。

このため、シャムからマカオに戻ろうとしたのだが、そのときマニラ総督の船がシャムに送られてきたため、その戻りの船に便乗して、マカオではなくマニラに向かうことが出来た。そして、1630年3月マニラを出発し、ルパング島で航海に適した天候を待つことになった。


書簡(4)の内容

ルパング島から日本へ向けた渡航に必要な物は全て準備し、立派な船を建造し、航海に適した天候を待っている間に、船が虫に食われてしまった。

この地には、修復のための材料もないため、船に内側から板を固定し航行してみることにした。



[書簡の内容について考えたこと]


書簡(1)


・インドからの情報
を読んで、最初私は意外な感じを受けました。まるで、ポルトガル人が書いたような文章だなと感じたのです。英国に対する敵愾心もむき出しだとも感じました。ポルトガルと英国の戦いの話ですから、岐部が、日本人としてまた宗教人としてもっと客観的に状況を捉えたのではないかと私は期待していたのです。

けれども、よく考えてみれば、その時の彼の最大の関心事は、無事に日本へ渡航することができるかどうか、ということであった筈です。それは当時のポルトガルの制海権に依存することですから、彼がポルトガル軍を応援したくなるのも当然と言えば当然なのです。

まして、ポルトガル人宣教師の多いセミナリオで教育を受け、ポルトガル王室と深い関係を持つイエズス会の会員となることを長い間切望して、やっとそれを果たした岐部にとって、ポルトガルは少なくとも第二の祖国であり、ポルトガルの敵である英国は彼にとっても敵になっていたとしても不思議ではありません。

この時代の海外布教が、カトリック教会と国王(世俗)権力によって「教俗一致」の体制で進められた「国家的プロジェクト」であったという事情によって、布教地に送られたヨ-ロッパ人宣教師たちがパトロンである国家に対して抜きがたい帰属意識を持っていた、という指摘があります。

岐部のポルトガルに対する意識は、その帰属意識の変型とも考えられるのではないでしょうか。




・日本での迫害の情報について、遠藤周作は「岐部が日本へ帰国後、他の地方よりは安全な東北地方で布教することを前もって考えていたようである。」と書いています。確かに、岐部は帰国して九州・関西方面に3年間潜伏した後、東北地方へ移動し6年後にそこで捕縛されています。けれども、東北地方に関するこの部分は、別の意味があると私は思っています。

それは、慶長遣欧使節派遣については、東西二司教区制への改組と東日本司教区の司教に任命されることを狙うフランシスコ会神父ルイス・ソテロによって企てられたものだとして、イエズス会は終始批判的であったとされているからです。

使節団がスペイン国王フェリペⅢ世、法皇パウロⅤ世に拝謁しながら何らの成果も得られず帰国せざるを得なかった背景にはあらかじめイエズス会によって使節団に関する疑義と布教の進展を楽観視できない日本の情勢が伝えられていたと考えられているのです。

そういう意味で、イエズス会内部では使節団帰国後の日本の情勢、特に仙台藩・伊達政宗の動向については注意深く見守られていたと考えられ、それがこの比較的正確な記述に表れているように思われるのです。


書簡(2)


・「日本の武士の習いは・・・」

この部分を採り上げて、岐部が武士階級の出身だからとか言われることがあるのですが、私はあまり納得できません。既にみてきたように、岐部の幼少期から彼の家族は武士とはいえ、はっきり言ってしまえば、主流から外れた落剝の身でした。それでも、なおかつ武士の誇りに拘ったでしょうか。

私は、海外で暮らしてみて予想以上に多くの人が、「武士道」という言葉を知っていたりその話題を喜ぶことを知りました。そんなことから、これは単に、日本の事情に多少とも通じているイエズス会総会長に対する岐部の「挨拶代わりの言葉(社交辞令)みたいなもの」ではないかと私は思うのです。


・「日本全体がやがて平和になり、聖なるロ-マ教会に委ねられ・・・」

これは、「いつか日本でも、キリシタン迫害が止み、聖なるカトリック教会の教えが従順に受け容れられ・・・」という意味でしょうか。こういう言葉が出てくるということは、キリシタン迫害の原因がイベリア両国の国家事業の一環として布教が行われていることにある、とは岐部は露とも思っていなかったということではないかと思います。

ただ、現代の我々にとって、大航海時代のキリシタン布教がイベリア両国の国家事業の一環として行われたものであることはいわば常識ですが、あの時代にどれほどの日本人がそのことに気付くことができたでしょうか。

まして、岐部のようにキリシタン教会内部に生きてきた人間にとって、それに気付くことは至難の業であり、また仮に気付いたとしても、それを口に出せば外国人宣教師たちは真っ向から否定したでしょうから、それを口外することは大変に勇気の要ることだっただろうと思うのです。

ただ、トマス・アラキという岐部と同時代にローマで司祭に叙階された日本人は、それをしています。しかし、アラキは日本へ帰国してから4年後に捕縛され棄教しています。


書簡(3)


この手紙から、1627年のシンガポ-ル近海では、オランダ船の出没によってポルトガル船の航行が脅かされる状況であったことが分ります。

少なからぬ人々にとって、日本のキリシタン教会の魅力はポルトガル船貿易がもたらす利益でしたし、また、数十万人の信者を抱えるようになっていたキリシタン教会を経済的に支えてきたのは、このポルトガル船貿易でした。

ポルトガル船の航行が困難になっていたということは、岐部が戻ろうとした日本のキリシタン教会は、もはや、多くの人にとっての現世的魅力も経済的基盤も失っていた、ということです。

岐部の身になって考えると、胸の詰まる思いのすることですが、ポルトガル・スペイン両国の凋落とオランダ・イギリスの勃興という世界覇権をめぐる歴史の転換を、そこに見ることもできます。


また、1627年~1630年のアユタヤ日本人町の長は山田長政です。そして、岐部がアユタヤを離れたのは、長政が暗殺された1630年の前年でした。岐部はアユタヤに滞在していた期間、日本人町に潜伏していたとのことですから、山田長政と接触することもあったと考えられます。

長政の失脚・暗殺後、アユタヤの日本人町も次第に衰退して行ったようです。アユタヤに限らず、ルソン(フィリピン)、コ-チ(ベトナム)など東南アジアの日本人町は、一時、相当の隆盛を誇ったようですが、これも時代の流れの中に埋没して行ったのです。


書簡(4)


日本への渡航に使おうとした船が虫に食われてしまい修復も満足にできない状態で出航しなければならなかったことは、7年をかけた日本への帰途の苦難と消耗をよく表しているように見えます。




[終わりに]


1.
岐部が、彼自身に重くのしかかったはずのカトリック教会内部の問題や、さらにその背後にある教会とスペイン・ポルトガル両国家との関わりについて、何の考察も指摘も残していないことは、個人が生きている立場や環境や時代を超えて物事を考えるということが如何に難しいかを示していると思います。

また同時に、それを彼の個性として認めることも必要なのだろうと思います。


2.けれども彼が、キリシタン教会という場で幼い時からの夢を刻苦して実現し、その夢を理解し応援してくれたであろう信者たちに尽くすために幾多の困難を乗り越えて帰国し、信仰の正しさを身を以て示すことで自分の生涯を貫いたことも間違いないことであり、価値のあることだと私は思います。

彼は信仰を示すために自分の考えを貫き通した、つまり、自分の考えを貫き通した生涯全体が彼の信仰を表わしていることになります。


3.
平戸オランダ商館長 フランソワ・カロンの公務日記に、岐部に対する拷問について、以下の記事があります。

「このようなすべて(拷問)の苦痛の間、彼は絶えずその信仰について尋問されたが、これに対して彼は、貴下たちには これらのことを了解することも、理解することもできない。従って、貴下たちに説明しても無駄である、としか答えなかった。」


岐部としては,「自分の信仰は全生涯をかけて貫き通すことによってはじめて表わすことのできるものであり、自分はそのために生きてきた。だから、拷問の最中に尋かれて語れるようなものではない。」と言いたかったのだろうと思います。


4. 残酷極まりない拷問による岐部の殺され方は、彼の苦難に満ちた生涯を象徴しているようです。けれども、彼自身は、「日欧文化衝突の時代」を、決して恵まれているとは言えない境遇の下ではあったけれど、逆に周囲の人たちの共感と支持を得ながら精一杯生きたことに満足していたのでは、と私は考えています。



〈おわり〉



[参考文献]

大分県先哲叢書 ペトロ岐部カスイ 資料集  大分県教育委員会
ペトロ岐部カスイ       五野井隆史著 大分県先哲叢書
大航海時代と日本       五野井隆史著 渡辺出版
キリシタンの世紀       高瀬弘一郎著 岩波書店
キリシタン時代の研究     高瀬弘一郎著 岩波書店
銃と十字架          遠藤周作著  新潮社
支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇 大泉光一著  中公新書


































by GFauree | 2015-04-18 11:35 | ペトロ岐部カスイ | Comments(2)  

Commented by bqbnp401 at 2015-07-14 01:38 x
記事、拝見しました。
今まで当時のキリシタンの事を考えたことは全くありませんでした
妙貞問答ですか、禅僧でキリシタンになり、その後棄教して、本を出した人がいましたね
それについて山本七平氏の書かれた本を読んだことがあるぐらいで、後は高校の歴史程度です。
色々考えさせられます
当時のヨーロッパは、カトリック批判の嵐が吹き荒れ、カトリック側の盛り返しのようなものもあり、
いわば、戦乱の中にあったのでしょうが、日本は日本で戦国時代の最中です
そんな中で、キリスト教の修道士となるというのは、どういう事なのか
一つの「なるほどなあ」と思える人物像を見せていただき有難うございました。
今後も、どういう記事を書かれるか、楽しみにしています。
Commented by GFauree at 2015-07-14 09:11
> bqbnp401さん
仰っておられる不干斎ハビアンについては、ハビアンに関する山本七平氏の見解を偶々最新の記事で採り上げました。http://iwahanjiro.exblog.jp/21418363/ ご一読下されば幸いです。キリシタン時代史は、日本史上でも世界史上でも最も面白い時代の「文化衝突」を日本人やヨ-ロッパ人がどう生きたかを見せてくれます。
明らかになっている史実は極力尊重しながら、「その人物が何故そのような行動を取ったか」について、自分が合理的と思えるような解釈をたとえ僅かでも加えて書くようにしています。それが、面白い所ですが難しいところでもあります。今後は、もっと光を当てられて欲しい人物を採り上げていきたいと思っています。どうぞ、ご意見・ご感想をお聞かせ下さい。
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