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「島原の乱」には、「奇跡」も「殉教」もなかったけれど


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飯嶋和一著「出星前夜」(小学館文庫)を読みました。
「出星前夜」は、江戸時代初期の第三代将軍家光の時期(1637年)に起きた「島原の乱」とその乱に関わった人々を描いた小説です。



〈「島原の乱」と「ペトロ岐部カスイ」〉

1637年と言えば、3月から4月にかけて採り上げた「ペトロ岐部カスイ」が幕府に捕縛されたのが、その2年後の1639年です。

これは、幕府が「島原の乱」を機に、改めて全国的にキリシタン検索を命じた結果、仙台藩領内で逮捕された三人のイエズス会神父のうち一人が岐部だったということです。



〈「島原の乱」は知名度が高いけど〉

ところで、キリシタン時代史上の事件の中で、この「島原の乱」の知名度は抜群に高いのではないか、と思います。というのは、私がキリシタン時代の歴史に関心を持っていると話すと、「『島原の乱』についてどう思うか。」というような質問をいきなりされるという経験を何度かしてきたからです。それも、「それなら、当然何か意見をもっているでしょうね。」という調子で訊かれるのです。

そんなとき、「そんなに勝手に決めつけないで」と内心反発したり、「せっかく、私の得意そうな方向に水を向けてもらったのだから、何とかうまく答えなければ」と焦ったりしてきました。と言うのは、これまで、「島原の乱」にはあまり興味が無かったし、それについて本を読んだことも殆どなかったのです。



〈「島原の乱」は他の事件とちょっと違う〉

私がキリシタン時代史に関心を持った理由を煎じ詰めると、「その時代のローマ・カトリック教会や修道会やヨ-ロッパ人聖職者たちとその影響を受けた日本人たちは、本当のところ、どんな考えや気持ちで生きていたのかを知り、それをリアルに感じたかったから」ということになります。

「島原の乱」は確かにキリシタン時代の事件ではありますが、それが起きた時期にはもう禁教・鎖国体制が殆ど確立されていて、その事件の経緯や展開の中には教会や宣教師は過去の記憶や記録としてしか現れません。



〈苦手な奇跡・殉教の話が出てくるところが・・・〉

加えて、「島原の乱」が語られるとき、必ずと言ってよいほど、蜂起した人たちについて私の苦手な奇跡や殉教の話が出てきます。

私は奇跡も殉教も当事者の心の問題だと思っています。誰かが、自分に奇跡が起こったとか、自分は教えに殉じて死んでいくとか思えるのであれば、それはそれで幸せなことではないかとは思います。ただ、当事者と神以外の誰も、それが奇跡であるとか、殉教であるとかを決めることは出来ないと考えます。

ですから、もし奇跡や殉教があったと言い立てられたりしたら、かえって疑わしい気持ちになって、「ああ、そうですか。」というしかないような気がします。まして、現世的な組織である教会が、それを「認定」するなどというのはおかしなことだと考えているのです。(教会を現世的な組織だなどと考えているから、信者ではいられないのかも知れませんが)


〈そんな私がなぜ〉

そんな私がなぜ今回、この「出星前夜」を読もうと思ったかという理由のひとつは、10年ぐらい前に同じ作者の「黄金旅風」という小説を読んだことがあることです。そこには、長崎の朱印船貿易家 末次平左衛門(末次平蔵茂貞)をモデルとして、ひたすら真面目で気の毒なだけでない生き生きとしたキリシタン時代の人物が描かれています。

ちなみに、末次平蔵茂貞は、以前にこのブログでも採り上げた長崎代官 村山等安を追い落とし後釜に座った末次平蔵政直の息子で、二代目末次平蔵とも末次平左衛門とも呼ばれた実在の人物です。この「出星前夜」にも、幕府諸藩とも一線を画し唯一まともな見識を持った有力者として登場します。

読もうと思ったもう一つの理由は、私自身の変化に期待するところがあったのです。

私が現役を離れ当地に転居してからもうすぐ7年になります。そんな生活の条件や環境の変化が影響してか、自分の考え方がだいぶ変わったような気がします。その変化のおかげで、前回「ペトロ岐部カスイ」の生涯についてそれまでに思い付かなかったような解釈が浮かんできました。それに味をしめて、今回も何か出て来るかも知れないと期待したのです。

そして結果は、有難いことに期待通りでした。


〈奇跡について〉

蜂起勢の総大将 ジェロニモ(天草)四郎は、美貌でカリスマ性があり奇跡も起こす人物として語られることが多いのですが、この小説では「五尺そこそこの上背しかない、痩身で、浅黒い顔には瘡を患った痕(あばた)が残っている」少年で、キリシタンへの立ち返りのための「再洗礼」を施すとは言われていても、「奇跡」を起こしたとは言われていないのです。

この小説の中で「奇跡」という言葉が使われているのは、私が気付いた限りでは、次の場合だけです。

一つは、外国人宣教師が医師として,如何に優れた症状把握や対処法決定や医療技術の応用をおこなったかを表わすために「奇跡的な」という言葉が使われています。

もう一つは、主要な登場人物がある行動を選択した結果、自分に与えられた使命を知ることになったことについて、その行動を選択する可能性が非常に低かったにも拘わらずその選択をしたことを、「奇跡的に」と表現しているのです。

要するに、この小説での、ジェロニモ四郎は「奇跡」などというものからは程遠い存在なのです。

ところが、そんな地味で目立たず次第に信望を失っていく四郎の姿は、そうであるからこそまた逆に、最後に民衆からも背を向けられてしまうキリストの姿と不思議なことに重なって今の私たちに説得力を持つようになっていきます。(それが、作者が意図したものであるかどうかは分りませんが、私にはそう読めてしまいました。)


〈殉教について〉

殉教に関しては、外国人宣教師の処刑について、「嘔吐感を催させる鯨脂を焼いたような強い臭い」とか「角張った薪の上に斜めになって黒こげの人体らしき輪郭が・・・」というような表現があるだけで、それが美化されたり礼賛されたと感じさせる文脈はこの小説にはありません。

むしろ、蜂起の首謀者である庄屋の娘の死に関し、以下の表現があります。

「地域の娘たちにとって、それ(庄屋の娘の死)は『殉教』にほかならなかった。
そこでは、ロ-マ教会が『殉教』と認めようと認めまいと、ローマ教会によって聖なる人に列せられるかどうかなど全く問題でなかった。」

さらに、「原城跡に籠もるキリシタンも、キリシタンでない者も、2万7千余の誰もが共通して抱いていた願いはただ一つ、人としてふさわしい死を迎えることにあった。」とあります。

「島原の乱」の蜂起勢の中には、教会に認められるような「殉教」を望む者などはおらず、誰もがただ「人としてふさわしい死をむかえること」を願っていただけだ、という作者の見解がここに示されていると私は思います。

〈諸藩も幕府も情けない〉

討伐軍に加わるこの機会に少しでも幕府の覚えをめでたくしたいと、功を焦って抜け駆け争いをする諸藩は滑稽でさえあります。また、新教とは言えキリスト教国であるオランダに、武器・弾薬の提供のみならず、砲撃による加勢まで依頼してしまう幕府の無定見さにはあきれてしまいますが、これが実情だったのでしょう。

こういう権力側・体制側の体たらくを示されて笑っていられれば良いのですが、自分の勤め人時代を思い出してだんだん嫌な気分になってきてしまうのは私だけではないでしょう。そんな時、以前は「だから日本はだめなんだ」などと思ったこともありましたが、こちらで生活してきたお蔭でそういうことは思わなくなりました。

それは、こちらでは、もっと酷い話はいくらでもあるからです。

スペインの植民地時代の南米は、国王の派遣する副王以下の官僚によって治められていましたが、その官僚たちが問題です。

地位を通じて得られるあらゆる機会を自己の蓄財のために利用しようとする姿勢や身内でポストを固める縁者登用(ネポティズム)は際限が無かったようです。もっとも、この小説に出て来る松倉家城代家老 田中宗夫・藤兵衛親子や幕府上使 板倉重昌・重矩親子などは最初から縁者登用の典型でしょうけれど。

少なくとも、「江戸時代初期の日本だけが駄目だったということではない」ことだけは確かです。
要するに、どの時代のどこの国でも体制・権力というものは、そういう恥知らずなものだ、ということなのかも知れません。


〈結び〉

以上、「奇跡」や「殉教」について私でも納得できる解釈の下に書かれた歴史小説に出遭うことができました。そのうえ、私自身の考え方もこの数年の経験で少し広がってきて、以前であれば読めなかったことも読めるようになってきているようです。まずは、それで満足することにしています。






























by GFauree | 2015-05-24 15:22 | 島原の乱 | Comments(0)  

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