名前はよく出てくるけれど、なぜか顔の見えない「キリシタン大名」有馬晴信





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                                    (撮影 迎田恒成氏)



前回の記事で採り上げた小説「出星前夜」の中に、「『島原の乱』は(肥前・日野江藩初代藩主)有馬晴信が領地没収の上、甲斐へ追放処分された1612年の『岡本大八事件』、に端を発している。」という趣旨が書かれている所があります。

私はそれを読んで、『島原の乱』の根が『岡本大八事件』にあることに、今更ながら「そうだったのか」と納得する思いがしました。『岡本大八事件』は、1614年の全国的なキリシタン禁教令の直接的な契機になったとされている出来事です。

そして、改めて見直してみると有馬晴信という人物がこの時代の実に様々なキリシタン関係の事件に関わっていることにも気付きました。それ故に、晴信こそ代表的な「キリシタン大名」と呼ばれるにふさわしい存在なのでは、とも考えました。

ところが、有馬晴信という人物のイメ-ジがどうも浮かんできません。
安直な方法ですが、インタ-ネットで肖像画を探してみましたが見つけることは、出来ませんでした。
これだけ、著名な歴史上の人物なのに、なぜでしょうか。


それを考えるために、有馬晴信の生涯を辿り、彼が関係した様々な事件を書きだしてみることにしました。


〈有馬晴信の生涯〉



1567年
 長崎・茂木をイエズス会に寄進した大村純忠の兄・有馬義貞の次男として生まれる。
      1570年に父親・義貞から家督を譲られた兄・義純が翌年に早世したため、4歳で家督を継承した。

1580年
 洗礼を受けドン・プロタジオと名乗る。
      
      イエズス会によって有馬・日野江城下に建てられたセミナリオ(聖職者養成機関)のために敷地を与える。
      (地所・建物は既存の神社仏閣を取り壊したもの。)
      
      この頃、圧迫を受けていた龍造寺氏に対抗するために、イエズス会から資金・弾薬・糧食の提供を受ける。

1582年 大友宗麟、大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣したとされる。
      (実際、派遣はイエズス会が企画・実行したもので、3人の大名は、無断で名前を使われたと考えられる。)

1584年 島津義久と内通し、沖田畷(おきたなわて)の戦いで、龍造寺隆信を滅ぼす。

1587年 秀吉の九州征伐において、島津氏と縁を切り豊臣勢に加わる。

1600年 関ケ原の戦で、西軍から東軍に寝返り、同じ「キリシタン大名」小西行長の居城を攻撃、その功
      績で旧領を安堵される。
  
1603年 征夷大将軍となった家康から、朱印状を得、現在のカンボジャ、ベトナム、タイなどを舞台とし
      た朱印船貿易を展開する。

1609年 家康の命により、台湾へ朝貢を促すために出兵・渡海したが、追い返される。

1609年 〈ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件〉

      長崎に入港したポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号のカピタンモ-ルであるアンド    
      レ・ペッソアと長崎奉行長谷川左兵衛との間に、争いが生じた。
      
      この時、前年自分の朱印船がマカオでトラブルを起こし、その処理に関してペッソアに恨みを抱     
      いていた有馬晴信も奉行に加担、家康の承認を得て有馬軍がポルトガル船を攻撃し、長崎湾で自
      爆させた。


1612年
 〈岡本大八事件〉
      
      ポルトガル船攻撃の功績に対する恩賞として、以前、龍造寺氏に奪われた旧領が戻されるよう工 
      作するとの名目で、家康の補佐役本多正純の家臣岡本大八が有馬晴信から多額の賄賂を受け取っ
      ていたことが発覚した。

      大八は処刑され、晴信も贈賄の罪を問われて、甲斐国へ追放、死罪となる。



〈有馬晴信の生涯について考えること〉




1.
晴信がセミナリオのために、自分の城下の土地を提供したという話は、「キリシタン大名」として教会に対し如何に協力的であったかを示すものとして語られています。

けれども、こうして同時期の出来事とともに並べてみると、それが、イエズス会からの資金・弾薬・糧食などの物質的支援の代償として当然の協力であったとも考えることが出来ます。



2.
また、セミナリオや住院などの建築に、取り壊された寺社・仏閣の資材が使われたことには、「偶像崇拝撲滅」と称して仏像の廃棄や寺社仏閣の破壊が宣教師たちから要請・奨励され、それを有馬氏が容認したり、同調したという背景があります。なにしろ、当時のカトリックにとって、どこの国の宗教であろうと、キリスト教以外の宗教は全て、撲滅すべき「偶像崇拝」なのですから、宣教師の要請は実に確信に満ちたものであったことでしょう。



ただし、これらの時点では、晴信はまだ13~4歳であり、実際にはそれぞれの決定や指示は、有馬一族または家臣団によってなされたと考えるべきでしょう。ただ、晴信がそういう環境の中で育ったとは言えると思います。


いずれにしても、ポルトガル船貿易や対立する諸侯との戦(いくさ)にむけて資金・弾薬・糧食提供などの経済的・物質的利益を受け、上層・支配階級から民衆(上から下)へという当時のイエズス会の布教方式を受け入れて自らが洗礼を受け、寺社・仏閣の破壊を容認または推進したという意味で、有馬晴信が典型的な「キリシタン大名」であったということに間違いはないようです。



3.
1584年以降、島津と内通し龍造寺を滅ぼしたり、その島津と手を切って豊臣勢に加わり、関ケ原の戦ではその豊臣勢を裏切り「キリシタン大名」仲間であった小西行長をすら攻撃するあたりから、「なんでもあり」の戦国大名の中でも特に強かな曲者(したたかなくせもの)ぶりを発揮していったもの、と思われます。



4.
1603年、幕府から朱印状を得て朱印船貿易を展開しますが、朱印船貿易というのは膨大な資本を必要とする事業です。その資本としては、口之津港が有明海の海上交通の要衝にあることから、有馬氏が古くから現在のベトナム・カンボジャ・タイなどを舞台とする貿易に乗り出していて、既に蓄積していたものが相当あったことが考えられます。

晴信は、この豊富な資本を縦横に駆使することで有能な朱印船貿易家として家康に強い印象を与え、初期の幕藩体制のなかに地位を築きつつあったという見方もあります。



5.長崎湾で有馬軍の攻撃によってポルトガル船が爆発・炎上した「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」ほど、キリシタン教会に様々な打撃を与えた出来事は無かったのではないかと思われます。


その打撃の内容を挙げてみると、


(1)「キリシタン大名」がポルトガル船に攻撃を加えたことによって、従来、少なくとも建前上は一枚岩となってキリシタン教会を支えていることになっていた「ポルトガル商人・イエズス会・キリシタン大名」勢力の分裂が露呈した。


(2)沈没船には相当量のイエズス会の船荷が積載されており、それを喪失した結果、イエズス会は甚大な損害を蒙り、従来から窮迫していた財務状況はさらに悪化し大幅な負債を負うことになった。


(3)この船には、マカオのポルトガル人商人から日本で銀に替えるよう委託された金が積まれていて、日本に到着した時点で金から銀に交換された。

(日本での金⇒銀の交換率は、マカオでのそれに比べて金に有利であったため、マカオから金を持って来て、銀に替えマカオに持ち帰るという取引が一般に行われ、イエズス会もそれに関わり、それが収益機会になっていた。)

ところが、日本側のイエズス会士は、マカオに送り返すべき銀を船に積み込まず、マカオのイエズス会に同額の銀を委託者に渡すよう指図するつもりであった。

結果的に船は沈み、マカオの委託者は銀の支払いを求め、イエズス会側は「海損(航海中の事故によって受けた、船荷などの損害)は委託者の負担とする」との慣行をたてに支払いを拒んだ。イエズス会側の主張は理論的には一応筋が通っているが、対価である金は受け取っているのだから、銀の支払いをしなければ「ただどり」である。それでも、イエズス会側は譲らず争論は10年以上に及んだと言う。

いずれにしても、これによって、マカオのポルトガル人のイエズス会に対する不信感が一挙に増大したと考えられる。


(4)イエズス会内のヨーロッパ人会士と日本人会士との分裂が顕在化したこと。

「日本人の修道士はペッソア司令官が逮捕されるように教会へ祈りに行く始末で、爆発が起きたためにその大船が沈没すると、ヨ-ロッパ人は嘆き悲しんだが、日本人は喜びに湧き立った。」
(「通辞ロドリゲス」マイケル・ク-パ-著)

これは、素直な感情表現の記録の少ない日本人イエズス会士に関して珍しい記述です。この記述の根拠は不明ですが、マイケル・ク-パ-はイエズス会士ですから、イエズス会にとって不都合なこの記述内容は信頼できると思われます。何よりも、日本人会士の態度がやけに朗らかで読む者の笑いを誘います。


(5)そして、この事件によって1614年の全国的な禁教令発布の決定的な契機となったと言われる『岡本大八事件』が、1612年に惹き起こされたこと。

ただ、『岡本大八事件』は有馬晴信と家康の補佐役本多正純の家臣岡本大八との間の贈収賄事件として内容が一見とても明白なものの様に見えますが、それだけにかえって何やら疑わしい点も何点かありますので、次回それだけを採り上げてみたいと思っています。


〈むすび〉


有馬晴信が関わった様々な出来事から、晴信の人物像を掴もうとしたのですが、その過程で彼の性格の一端のようなものは浮かび上がってきました。
それは、
典型的な「キリシタン大名」
なんでもありの戦国大名のなかでも特にしたたかなくせ者
・有能な朱印船貿易家
ここから、強大な権威には従順だけれど、常に優位に立つことを狙って行動する、並はずれて有能なスケ-ルの大きい事業家を私はイメ-ジしますが、どうでしょうか。

それにしても、彼の人物像を示す逸話などがほとんどないのは何故なのか不思議です。この一連の出来事を見直しながら、その理由を考え続けていました。そして、二つの理由らしいものに思い当たりました。

一つは、江戸時代、キリシタン禁制の中で、彼に関する記録は後世にも決して修復しえないほど徹底的に抹消されてしまったのではないか、ということ。それくらい、有馬晴信は警戒すべき人物だったということかも知れません。


もう一つは、明治以降、キリシタン禁制が解除された後には、現世利益(げんせいりやく)というよりもっと直接的な経済的・物質的利益を狙いとした改宗や「上から」の布教や寺社・仏閣の破壊など「キリシタン大名」が抱えていた問題性が明らかになり、「キリシタン大名」を擁護しようとすれば大名個人の人間性には触れず、その信仰をひたすら美化する傾向が強くなってしまったためではないか、ということです。


先に書きましたように、有馬晴信が死罪に追い込まれた「岡本大八事件」について、私はどうもおかしいなと感ずることがいくつかありますので、次回、それについてお話します。

〈つづく〉



(参考文献)

キリシタンの世紀      高瀬弘一郎著           岩波書店
日本巡察記-ヴァリニャ-ノ 松田毅一他訳           東洋文庫
通辞ロドリゲス       マイケル・ク-パ-著 松本たま訳 原書房
イエズス会と日本 二    大航海時代叢書          岩波書店
銃と十字架         遠藤周作著            新潮社








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by GFauree | 2015-06-08 09:49 | 有馬晴信 | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。