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【大航海時代のおと】

何だか怪しい「岡本大八事件」

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                                  (撮影 迎田恒成氏)





「岡本大八事件」
は、その3年前の「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」に端を発しています。

両事件の概要は以下の通りです。(前回の記事の内容に一部付け加えた事項もあります。)




1609年
 〈ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件〉

      長崎に入港したポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号のカピタンモ-ルであるアンド    
      レ・ペッソアと長崎奉行長谷川左兵衛との間に、争いが生じた。
      
      この時、前年自分の朱印船がマカオでトラブルを起こし、その処理に関してアンドレ・ペッソア            
      に恨みを抱いていた有馬晴信も奉行に加担、家康の承認を得て長崎湾で有馬軍がポルトガル船を
      ペッソアもろとも自爆させた。                          



1612年 〈岡本大八事件〉
      
      ポルトガル船攻撃の功績に対する恩賞として、以前、龍造寺氏に奪われた旧領が戻されるよう工 
      作するとの名目で、家康の補佐役本多正純の家臣岡本大八が有馬晴信から多額の賄賂を受け取っ
      ていたことが発覚した。

      さらに、取り調べの過程で大八が獄中から、晴信が長谷川左兵衛の謀殺を図ったと訴えたが、晴   
      信はこれに弁明できなかった。

      大八は処刑され、晴信も贈賄の罪を問われて、甲斐国へ追放、死罪となる。



「岡本大八事件」と「おたあジュリアの追放」




日本のキリシタン教会を決定的な壊滅状態に追い込んだと考えられている1613年1月の全国的なキリシタン禁教令発布の重要な契機として、この「岡本大八事件」と同時期の「おたあジュリアの追放」がよく挙げられます。

「おたあジュリア」というのは、江戸城大奥にいたひとりの女性です。
朝鮮の貴族の出で、「秀吉の朝鮮侵攻」の先鋒であった「キリシタン大名」小西行長の軍に捕えられ、日本に連れ帰られて「ジュリア」の洗礼名で受洗したと言われています。行長が関ケ原で敗れたため、江戸城に仕えることになったのでしょう。人望もあり、その影響をうける大奥女中も少なくなかったということです。

大奥での「おたあジュリア」の存在に気付いた家康は、ただちに棄教することを求めましたが、おたあは拒否し、初めは伊豆大島、最後は伊豆諸島の神津(こうづ)島に流され、そこで亡くなったと伝えられています。

そもそも、小西行長軍が連れてきたキリシタン女性が大奥に入ったということが意外です。どういう経緯があったのか知りたいところですが、その記録はないようです。

さらに、江戸幕府開府から10年近くが経ったこの時期まで、大奥の他の女中にも影響を及ぼすようなキリシタン女性がお膝元に残っていたということも私には意外です。ただ、行長の妻ジェスタが家康の赦免を得て助かったという話がありますので、その関係でおたあも家康の世話を受けるということになったのかも知れません。

家康は、「おたあの件」でキリスト教の幕府内部までの浸透ぶりを改めて知り衝撃を受けたと言われていますが、上に書きました事情や家康が非常に用心深かったはずであることなどから、「おたあ」の存在などは既に良く知っていたと考える方がむしろ自然ではないかと私は思います。

大坂の陣を控えたこの時期、家康が一番恐れたことはキリスト教勢力が豊臣勢と結びつくことだったでしょう。そのため、全国的な禁教令発布を検討し、既によく承知していた「おたあの件」からキリシタン潰(つぶ)しを始めたということだったのではないかと考えます。


晴信・大八の両名がキリシタンであることに家康が強い衝撃を受けたというのは本当か?


そう考えてみると、「岡本大八事件」で家康が、有馬晴信・岡本大八両名がキリシタンであることに強い衝撃を受けた、と言われていることも疑ってみる必要があるのではないかと思えてきました。

というのは、「キリシタン大名」有馬晴信がキリシタンであることは当然知られていることです。また、岡本大八がキリシタンであることは、事件の取り調べの過程で判明したことになっていますが、大八は本多正純に仕える前は長崎奉行 長谷川左兵衛藤広の家臣として長崎に駐在していたのです。

長崎奉行の家臣としての役目がら、ポルトガル人・ポルトガル船・宣教師・キリシタン信者と接触もあったでしょうし、キリシタン信者となる可能性は相当あった筈です。ところが、大八がキリシタンである可能性を、長谷川左兵衛も本多正純も全く考えなかったし、追求もしていないことになっているところがおかしいのです。

幕府としては、家康が有馬晴信・岡本大八両名がキリシタンであることを(初めて)知って強い衝撃を受けたことにする必要があったということではないでしょうか。そのためには、左兵衛も正純も大八がキリシタンであることは思いもかけなかったことにすることが必要です。

それを考えたとき、私は「岡本大八事件」は有馬晴信を陥れるための罠だったのではないかと思い始めました。


有馬晴信は本多正純に本当に贈賄を告白したのか?

事件の経緯を見ると、晴信がその後の工作の進展を大八の主家である正純に確認したことによって露見したということになっていますが、いくら多額の賄賂を贈ったからといっても、当時家康の側近的な存在である正純に直接、自分の贈賄の事実を告白するようなことを晴信がするでしょうか。

もし、晴信がそんなことをしたのであれば「バカ殿様」でしょう。

前回見てきたように、晴信は龍造氏を倒すためには、島津氏と内通しイエズス会も利用した策略家です。更に、島津氏と手を切って豊臣勢に加わり、関ケ原の戦では、今度は豊臣勢を裏切って同じ「キリシタン大名」小西行長を攻撃し生き残った海千山千の存在だったはずです。その晴信が、そんな間抜けなことをしたというのは不自然ではないでしょうか。


他にも、おかしいと感じさせるところが


1.晴信・大八両名対決の下での吟味で大八の非が明らかになり、すぐに大八が処刑されたようです。そして、処刑前に「晴信が長谷川左兵衛の謀殺を図った」という他の罪状を大八が獄中から訴え、それに晴信が弁明できなかったとして晴信に追放・死罪が下されたと言われています。

ということは、幕府は晴信に贈賄の罪を認めさせることが出来ず、大八の逆恨みの結果とも取れるような他の罪状を引き出し、やっと晴信を有罪に出来たということになります。

大八は「晴信が長谷川左兵衛の謀殺を図った」などとは言っていないかも知れませんし、もしそうだとしたら、いやにあっさりと、大八が処刑されてしまったことにも合点がいきます。



2.
前回の記事で書いたことですが、1609年、家康の指図により晴信は朝貢を促すために台湾へ出兵・渡海しましたが追い返されています。「岡本大八事件」はその3年後です。

そこで、思い出すのが長崎代官 村山等安が、1615年、幕府から台湾渡航を命じられたことです。
幕府の狙いは、等安一族の勢力削減にありました。その3年後の1618年、等安は長崎代官を罷免され、全財産を没収され、その翌年、斬首されました。

これは、村山等安に対しても、有馬晴信に対しても、幕府が幕府にとって邪魔な存在を消すために似たような手順を踏んだということなのではないでしょうか。



3.この時期、家康を補佐していた本多正信・正純親子に対し、秀忠を補佐していたのが大久保忠隣です。当事者の一方である岡本大八が本多正純の家臣であることから、「岡本大八事件」の取り調べは大久保忠隣の与力(家来)筋にあたる大久保長安によって行われました。

与力(家来)と言っても、大久保長安は家康によって金山・銀山奉行に登用され幕府に莫大な富をもたらし、幕府天領の惣代官にまで登りつめた人物です。

この大久保長安は、「岡本大八事件」の翌年1613年6月に病死したのですが、死後、生前に不正蓄財をしていたという理由で7人の男児全員が処刑され、金・銀山経営に関わる一族の膨大な資産が徹底的に剥奪されたと考えられています。これが、「大久保長安事件」です。

また、長安の寄親(主家)にあたる年寄筆頭職大久保忠隣も1614年1月、京都においてキリシタン取締り中に改易(士族の籍を除き、領地を没収)されてしまいます。

この「大久保長安事件」と「大久保忠隣改易」とはともに家康と本多正信・正純親子が企んだ謀略と考えられています。



以上を総合すると、「本当はこういうことだったのではないか」と


家康は予てから「キリシタン大名」有馬晴信の朱印船貿易家としての活動を注視し(実際に、家康は晴信の貿易家としての手腕を高く買っていたという話もある。)、抹殺の機会を狙っていた。(国内体制の安定と幕府の貿易の独占を実現するためには「キリシタン大名」抹殺は喫緊の課題だった。)


・有馬晴信の朱印船がマカオでトラブルを起こした際のカピタン・モ-ルであるアンドレ・ペッソアの船が長崎に来航したとの情報を得て、有馬軍がポルトガル船を攻撃せざるを得ないように仕向けた。
 
   
   晴信は、確かに前年のマカオでのトラブルの処置についてアンドレ・ペッソアに対し怨恨を抱いてはい
   たが、「キリシタン大名」としての立場と今後の朱印船貿易の展開を考慮すれば、武力行使には慎重だ
   った。

   そこで、家康・正純は奉行長谷川左兵衛に取引のことでペッソアと争わせ、有馬晴信が長谷川を支援せ 
   ざるを得なくする(つまり、ペッソアを敵視せざるを得なくする)一方、晴信に対し左兵衛との競争心をあおった。
   (実際に二人は、家康への伽羅木の納入のことで争う。)


長谷川左兵衛の与力(家来)岡本大八を諜報係として使い、晴信・左兵衛の動静を正純へ逐一報告させ、晴信・左兵衛を監視するとともに、ポルトガル船攻撃をけしかけさせた。

同時に、晴信に対し競争相手左兵衛への敵愾心をあおり、悪口雑言を吐かせる。大八が聴いたとする晴信の腹立ち紛れの暴言は、後に「晴信が左兵衛の謀殺を図った」という罪状の根拠として利用される。

大八を諜報係として充分機能させるため、キリシタンとなるよう本多正純が仕向けた可能性もある。


・ポルトガル船自爆後、岡本大八は本多正純に召し抱えられ、大八は「旧領取戻し工作」を晴信へ持ちかける。これは、全て正純の指示によるもので、事件が明るみに出た際には、大八は無罪とするよう約束されていた。(実際は、捕縛・詮議後、直ちに処刑され釈明の機会もなかった。)


ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件の当初、家康・正純は、晴信に対しポルトガル船攻撃を命じたが、実は有馬軍の攻撃が成功するとは予想していなかった。むしろ、有馬軍の攻撃が奏功せず幕府の指示を遂行できなかったとして、晴信を処罰しその勢力を削減する機会となることを期待していた。

ところが、ポルトガル船が自爆してしまったためにその機会は失われたばかりか、晴信の功績に報いる必要が生じてしまった。そのために、その後かなりの時間と手間を要することとなったが、結局、「岡本大八事件」という形で「晴信抹殺」という課題に決着をつけたことになる。



私が有馬晴信という人物の印象を薄く感じたり、彼が武将として欠落しているところがあったのではなどと考えたのは、晴信が正純に旧領返還の件の進捗について尋ねたことで事件が発覚したとされているからです。

今回想定したように、晴信が正純に工作進捗について尋ねてなどおらず、初めから家康・正純によって全てが図られ大八すらも騙されていたのだとしたら晴信に対する印象も変わってきます。また、家康にとってそれほど排除したい存在であったと考えることも出来ます。


有馬晴信を、優れた政治家・事業家ではあったけれど、歴史の奔流に巻き込まれ消えていかざるを得なかった人物と見ることもできるような気がします。



〈つづく〉


〈参考文献〉

キリシタンの世紀 ザビエル来日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著 岩波書店
徳川初期キリシタン史研究            五野井隆史著 吉川弘文館
逆説の日本史 13近世展開編 江戸文化と鎖国の謎 井沢元彦著 小学館
大久保長安 家康を支えた経済参謀         斎藤吉見著 PHP文庫














       




 




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by GFauree | 2015-06-20 11:01 | 有馬晴信 | Comments(0)

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