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「天正遣欧使節」千々石ミゲルは、なぜ離脱したのか [その3]


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                    日本巡察記-東洋文庫 平凡社より



3.「対話録」の内容について考えたこと



前回、ヴァリニャ-ノ著「日本使節の見聞対話録」の日本語訳「天正遣欧使節記」から、千々石ミゲルが語ったとされている対話内容のうち特徴的と思われるものを抜粋しました。


見事なまでの、ヨ-ロッパ・キリスト教社会への一方的な礼賛、非ヨ-ロッパ人・非ヨ-ロッパ社会への偏見・差別・蔑視,非ヨ-ロッパ文化に対する無理解、解決困難な問題についての責任回避の言辞でした。


「何故、このような内容を、ヴァリニャア-ノは千々石ミゲルに語らせたのだろうか」それが私の疑問でした。


そして、気が付いたことは、それらはヴァリニャ-ノにとって、「対話録」の中でどうしてもミゲルに語らせたい語らせなければならない事柄であったのだ、ということです。


さらに、そういう観点から「対話録」の中のミゲルの発言を見直すことによって、それをミゲルに言わせたヴァリニャ-ノが「日本や日本人に対して、本当は何を考えていたのか」、つまり彼の内心を突き止めてみようと思いました。



(1)ヨ-ロッパの理想化



「ヨーロッパは、叛乱も戦争もない理想郷だ」とミゲルに語らせていることについて、「なんと事実からかけ離れたことを・・・」と感じて不快感すら催したのは私だけではないでしょう。

実際、16世紀のヨ-ロッパには、ハプスブルグ家(神聖ロ-マ帝国・スペイン)とヴァロア家(フランス)がイタリアを巡って争ったイタリア戦争(1521~1559)やフランスのカトリックとプロテスタントが40年近く争ったユグノ-戦争(1562~1598)など数多くの戦いがあり、「叛乱も戦争もない理想郷だ」などとはとても言えない状況であったことは今なら簡単に分ることです。

それでは、たとえ当時の日本人がそれが事実でないことが分らなかったからと言っても、なぜヴァリニャ-ノはそんな事実からかけ離れたことをミゲルに語らせたのでしょうか。

それは、それを語らせる必要があったからです


というのは、「ヨ-ロッパが叛乱も戦争もない理想郷だ」ということが、当時のキリシタンの教えを支える大事な要素だったのです。


禅僧からキリシタンへ改宗し、イエズス会の理論的主柱として活躍しながら、後に棄教した不干斎ハビアンという人物がいます。このハビアンが著した『妙貞問答』というキリシタン伝道書のなかに、以下のくだりがあります。

「・・・、キリシタンノ国ナドニハ、千年ニアマッテ此方(このかた)、兵乱と云う(いう)ヤウナル事モナク謀叛心ナドト申事(もうすこと)ハ、マレニモ有(ある)事ナシト申(もうさ)レサフラフ(さぶらう)ヲ聞侍(ききはべる)。・・・」


キリスト教が受け容れられた時期、戦国末期、は“粗暴な個人主義と物質主義”が横行した時代であり、この状態に耐えられなくなった人びとが何らかの社会秩序の基本になる宗教、いわば確固たる「統治神学」を求めても不思議ではない。(山本七平 日本人とは何か。17章 キリシタン思想の影響 祥伝社)

キリシタン教会は、そういう確固たる「統治神学」を求める人びとの要求を満たすことで教勢(教会勢力)拡大をはかろうとしていた面があるのです。そのためには、「キリスト教社会であるヨ-ロッパは叛乱も戦争もない理想郷だ」ということにする必要がありました。そして、教勢拡大の大義のまえにあっては、多少の歪曲もかまわないと考えたのでしょう。


ただし、山本七平氏が述べているように、日本の歴史上、他国の実情について事実と異なることが伝えられたのは、キリシタン教会の例に限りません。日本にとって新しい社会思想というものはこういう事実を歪曲化した宣伝とセットで入ってくるようです。それは、つい最近まで我々が社会主義・共産主義について経験させられていたことです。



(2)風俗・習慣・文化までヨーロッパが最も勝れていると強調していることについて



実は、この点についてヴァリニャ-ノは誇り高い西欧人として耐えがたい屈辱感を味わう経験をしているのです。それは、ヨ-ロッパ人宣教師たちが、日本の礼法に通じないために、日本人から軽蔑されていることを彼が知った時のことです。


ある大名に、「異なった風習の中で育ったのだから、外国人宣教師が日本の礼法を知らないのも止むを得ないと考えて欲しい」と申し入れたところ、無残にやり込められてしまったのです。

ポルトガル船貿易の恩恵を与え、他領主との戦いのために資金・武器・弾薬・糧食まで提供している相手だからと、高を括っていたのかも知れません。

領主自ら受洗することで集団改宗実現に協力し、“偶像崇拝撲滅”の名のもとに奨励した神社・仏閣の破壊に素直に従ってくれたことで気を許していた面もあったのでしょう。


回答は次のようなものでした。

『我らの国(日本)に住んでいるヨーロッパ人司祭たちが、日本人の美しい習慣や高尚な態度を、学ぶようほとんど努力せぬことは、まったく無知なことと思われる。』
(日本巡察記 ヴァリニャ-ノ著 東洋文庫)

『日本の風習を覚えられないほど、あなた方に知力と能力が欠けているのであれば、日本人はそれほど無能なあなた方の教えを受けるべきでない、と考える。』
(天正遣欧使節 松田毅一著 講談社学術文庫)



結果的に、ヴァリニャ-ノは日本の風習への順応主義を打ち出さざるを得なくなりました。もちろん、日本の風俗習慣が優れたものと考えたわけではなく、西欧の風習が人類の千差万別の風習の中で、最も高度な洗練されたものであるとの認識は変わらなかったのです。ただ、布教政策上、日本人に一歩譲るのが得策だから、そうしたまでのことだったのでしょう。


そして、いつか日本人にヨ-ロッパの世界が如何に世界に冠たるものであるかを分らせてやろう、と心に決めたのでしょう。その表れが「遣欧使節派遣」であり、「使節対話録」はその意義を知らしめる貴重な機会でした。ヴァリニャ-ノは、当然、その機会に自分の思いのたけをぶちまけたのだろうと考えられます。




(2)アフリカ・アメリカの先住民に対する侮蔑的・差別的見方について



1583年に執筆した「日本諸事要録」、第一章 (日本の風習、性格、その他の記述)の中で、ヴァリニャ-ノは以下の通り記述しています。


「人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨ-ロッパ人より優れている。


国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をすべてよく学びとり、ヨ-ロッパの子供達よりも、はるかに容易に、かつ短期間に我等の言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我等ヨ-ロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。」


これと、前回抜粋したアフリカ・アメリカ先住民に関する言辞とを比較して頂きたいと思います。

それにしても、この違いは、どこからくるのでしょうか。


イエズス会はアフリカでは1560年頃から、(南)アメリカでは、ザビエルの日本到着と同年の1549年にブラジルへ到着し布教を開始しています。従って、この「対話録」を書いた1590年頃、ヴァリニャ-ノは同じイエズス会士がアフリカや(南)アメリカで布教に奮闘していたことを知っていた筈です。彼は一体何を考えていたのでしょう。


彼等の中に、非ヨ-ロッパ社会にたいする「格付け」のようなものもありましたから、「日本には非ヨ-ロッパ社会のなかで、これだけ高い『格付け』を与えているのだから満足しなさい」という考えがあり、それを伝えておきたかったということかなとも思います。


また、「対話録」のなかに書かれている先天的奴隷人説を唱えた「あるヨ-ロッパの哲学者」というのはアリストテレスのことですが、その説を根拠としてインディオ奴隷化が主張されたり、「インディオは人間か否か」ということが大真面目で議論されたりし始めたのは、この「対話録」が書かれるほんの数十年前のことです。
(新世界のユ-トピア 増田義郎著 中公文庫)


そう考えると、今の私たちには、偏見・蔑視・差別と見えても、ヴァリニャ-ノにとっては疑問を感ずる余地のない当然の考え方だったのではないかとも思えてきます。



(3)世界に散在する日本人奴隷について



世界に散在する日本人奴隷について、千々石ミゲルは「対話録」のなかで、「この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。」と言わされていますが、ことはそれほど単純ではありません。


岡本良知著「十六世紀 日欧交通史の研究」によると、日本人奴隷については以下のような経緯があります。


1570年 ポルトガル国王が日本人奴隷取引禁止の勅令を布告しています。

これは、1567年以前に、平戸・横瀬浦・福田経由、日本人が輸出されていたことに対し、布教に支障をきたすとしてイエズス会がこれを抑止するようポルトガル国王へ働きかけたものと考えられます。

ところが、その後約30年間、その勅令は、実施・履行されなかったと言われています。

その理由として、

1.ポルトガル人にとって、事業を展開するために、日本人奴隷が必要だったこと。
2.戦乱の頻発等の日本国内の社会の窮状により、日本で子女を売る者が増加したこと。
3.イエズス会の考え方は、自己の布教事業を展開することに不都合であるというだけで、奴隷売買自体が社会倫理に反するという強固な考え方がなかったこと。

が挙げられています。



1587年、豊臣秀吉がこの問題をイエズス会に詰問した際、布教長ガスパル・コエリョの回答は,「日本側の諸領主に対し、禁止を勧告すべし。」というものでした。つまり、「奴隷を売る者(日本人)がいるから買う者(ポルトガル人)も出て来るのだから、日本人が奴隷を売ることを禁止すればよい」とコエリョは反論したのです。

常日頃、ポルトガル商人を管理・統制する立場と能力を誇示し、貿易取引にも介入しながら、いざ、ポルトガル商人の奴隷売買について管理責任を追及されると、途端に、「それはポルトガル商人と取引する日本の業者や領主たちの問題であるから、その日本人を取り締まれ」と回答することは、ポルトガル船貿易を取り巻く諸事情を考慮すると責任回避ととられても仕方ありません。

そのコエリョの回答を、「対話録」ではミゲルの口を通して蒸し返していることになります。


実際には、その後1596年のサン・フェリ-ペ号事件、翌年の二十六聖人殉教事件など、キリシタン教会を取り巻く状況が厳しさを増していったなかで、まず、1596年にドン・ペドロ・マルチンス司教によって「奴隷貿易者破門議決書」が出されましたが、その内容は今日残っていません。


さらに、「破門議決書」は、次の司教ルイス・デ・セルケイラ着任直後の1598年にも出されその中に、「(1587年に秀吉からの詰問があるまでは、)少年少女を買って国外に輸出するに際し、業者のためにその労務の契約に署名し、彼等のうちの或る者に署名させて認可を与えていた」旨が書かれています。


「対話録」が書かれた1590年の時点では明らかにされてはいませんでしたが、奴隷売買取引へのイエズス会の関与があったことは明らかであり、日本の領主たちを取り締まれなどと主張するまえに、自分たちとして先ずなすべきことがあったのです。


ヴァリニャ-ノがその実情をどのくらい承知していたかは分りませんが、実情が「ポルトガル人には、いささかの罪もない」などと言えるものではなかったことは確かです。




4.「対話録」と千々石ミゲルの離脱の関係


(1)「対話録の内容をミゲルは知っていたかどうか」ですが、
もちろん知る機会は充分あったと思います。

「対話録」は、マカオで1千部刊行されたとのことですが、当然日本へ持ち帰られたでしょう。
使節の随員であった日本人修道士ジョルジェ・デ・ロヨラ修道士がその邦訳をてがけていたとのことですが、その修道士はマカオで病死してしまい邦訳は進められなかったようです。

ミゲルのラテン語学力は、1593年3月の在日イエズス会名簿によれば、二級で、おなじ年配のかつての有馬セミナリオの同級生と同等もしくはそれ以下でしかなかったようですが、仮に自分で読めなくてもイエズス会の中に、それを読んで日本語訳をしてくれる人は、いくらでもいたでしょう。

もちろん、自分が言わば主役として書かれている本ですから、その内容を知りたかったに違いありません。ですから、遅くとも1593年7月に天草で2年間の修練を終えるまでには知っていただろうと思います。

そして、2年の修練期を終えイエズス会の修道士としての誓願は立てたものの、以下に書きます理由によって、その後比較的短期間のうちに会から離れたのではないかと思います。

従って、1601年に伊東マンショと中浦ジュリアンが、他の15名の修道士とともに司祭になるための教育をうけるべくマカオに派遣された際に、ミゲルが同行しなかったのは、既に退会していたためでしょう。


(2)「内容についてミゲルはどう 思ったか」
ですが、対話の内容は我々が見てきたとおり、冷静に考えれば疑問を持たざるを得ないものです。

特に、「ヨーロッパ社会に対する一方的な礼賛」や「日本人奴隷問題に関する記述」には反発を感じたのではないかと思います。


そもそも、「少年使節行」は、ヴァリニャ-ノが日本人に西欧世界を見聞させ、ヨ-ロッパ・キリスト教社会の偉大さ、卓越性を頭に叩き込み、日本人に証言させるために企てたものですが、逆の結果が生ずる危険もありました。派遣された人間が、ヴァリニャ-ノから見れば不都合な物を見て、望むようには考えてくれない危険です。


帰国時、ミゲルは21~2歳です。当時、その年齢であれば、大人としての判断力はもうあったと考えられます。ミゲルは、使節の中で最も出身・素性の明らかな人物ですから、使節となる前に既に然るべき教育を受けていたことも考えられます。


そういうミゲルですから、旅行中に見聞することも、それについて考えることも、他の少年と比べると自立したものがあったのでしょう。そのため、ヴァリニャ-ノもミゲルに関しては注意を払っていたし、そういう事情を反映させて、「対話録」の主人公もミゲルとしたのでは、と私は思います。



ミゲルの側にしてみれば、「対話録」での自分の発言は知れば知るほど、馬鹿げています。まるで、自分が猿回しの猿にされたような侮辱を感じたのではないでしょうか。


大村純忠・有馬晴信といえば、「ヨーロッパ人宣教師たちが、日本の風俗・習慣を習得できないのであれば、無知・無能であり、そんな人たちの指導を受けるいわれはない」とヴァリニャ-ノを厳しく叱責・非難した誇り高き「キリシタン大名」たちです。


ミゲルには、自分が影響力のある大名の近親者であるとの自覚も、また出自相応の誇りもあったでしょうから、自分に対するヴァリニャ-ノの仕打ちは、耐え難くまた甘受すべきでもないと考えたのだろうと私は思います。



(3)『妙貞問答』というキリシタン伝道書を書いた、不干斎ハビアン
は1608年に脱会し、棄教します。そして、晩年、『破堤宇子』(ハダイウス)というキリシタン批判書を著しています。


その一節に、千々石ミゲルの心情を表わすのではないかと思われる部分があります。


「慢心は諸悪の根源、謙遜は諸善の基礎であるから謙遜を専らとせよと、人には勧めるけれども、生まれつきの国の風習なのであろうか、彼ら(伴天連 バテレン)の高慢は天魔も及ぶことができない。この高慢のため他の門派の伴天連(バテレン)と勢力争いをして喧嘩口論に及ぶことは、俗人そこのけのありさまであって、見苦しいことはご推察のほかだとお考え下さい。」
(海老沢有道訳『南蛮寺興廃記・・・破堤宇子』)



(4)脱会後のミゲルについては、病弱であったとか、大村喜前や有馬晴信の家臣からも虐待され不遇のうちに亡くなったと言われることが多いようです。

私がいつも不思議に思うのは、キリスト教を排斥した日本の社会が、キリシタンを離脱した人たちを「転び者」などと呼んで蔑(さげす)み、不幸のうちに死んでいったとしたがることです。キリスト教が邪(よこしま)な教えを授ける邪教であると考えるなら、それを離脱した人々は幸せになったと考えるべきでしょう。

千々石ミゲルについても、悲惨さを強調するような末期が語られています。

病弱で貧困のうちに生涯を終えたかも知れないけれど、自分の信条に正直に生き満足して死んでいったと、私は考えたいと思っています。



私はこの記事を書くために、松田毅一著 「天正遣欧使節」講談社学術文庫に全面的に依存しています。殆ど丸写しにしているところもあります。それもこの話題について私なりにその本の内容を理解しお伝えしたかったためであることをご理解頂きたいと思います。


長々とお付き合い頂き有難うございました。



〈完〉



〈参考図書〉


天正遣欧使節                   松田毅一著 講談社学術文庫
日本巡察記                 ヴァリニャ-ノ著 松田毅一他訳 東洋文庫
日本人とは何か。                 山本七平著 祥伝社
不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者        釈徹宗著 新潮選書
新世界のユ-トピア スペイン・ルネッサンスの明暗 増田義郎著 中公文庫
十六世紀日欧交通史の研究             岡本良知著 六甲書房














by GFauree | 2015-07-06 11:03 | 千々石ミゲル | Comments(0)  

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