【大航海時代のおと】

iwahanjiro.exblog.jp

ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その1]



a0326062_04582555.jpg



1.ザビエル渡来


(1)イゴヨク広まるキリスト教



フランシスコ・ザビエルが、1549年に日本に来てキリスト教布教を始めたことは、中学の歴史の教科書に出ていたことですから、覚えておられる方は少なくないだろうと思います。私は若い頃、歴史に殆ど興味を持てなかったのですが、教科書に載っていたザビエルの肖像画と年号語呂合わせ(「イゴヨク広まるキリスト教」だったか)のお蔭で、「ザビエル渡来」は記憶に残りました。

その「ザビエル渡来」が私の記憶に残った理由として、もう一つ考えられることがあります。


(2)戦後の歴史教育の中で


私が育った時期は、戦後の「唯物論的進歩主義知識人」(ああ、なんと懐かしくも気恥ずかしい呼び名でしょうか)が言論をリードしている印象のあった時代です。そんな時代の公立学校の歴史の授業で宗教が、それもキリスト教のうちの新教(プロテスタント)でなく旧教(カトリック)が、話題にされるなどということは後にも先にもこの時だけでしたから、カトリック信者の家庭に育った私にはとりわけ印象深かったのかも知れないと思うのです。

ちなみに、このブログでも採り上げたことのある「慶長遣欧使節 支倉常長」も歴史の教科書に載っていましたが、その使節派遣とカトリック布教との関係は確か一言も触れられていなかったと思います。

また、ついでに言えば、戦後のあの頃には「プロテスタント(新教)は腐敗した権威に抵抗した新しく清潔な考えだから正しく、カトリック(旧教)は古く封建的(?)で厳しいからそれだけで駄目」というように考えている人が多かったようですが、今はどうなんでしょう。

ともかく、珍しく印象に残ったザビエルですが、その後長い間、その印象が深まったり広がったりすることはありませんでした。でも、その間、ザビエルに関する話題に触れることがなかったわけではありません。
ザビエルがカトリック教会が認定した「聖人」であるせいでしょうか、奇跡話や逸話が時々話題になるのです。



2.ザビエルの奇跡と逸話


(1)『蟹の奇跡』と『奇跡の右腕』


奇跡については、先ず、『蟹の奇跡』というのがあります。

インドネシア・モルッカ諸島を航海中、乗っていた船が暴風雨に襲われ、ザビエルがいつも首から下げていた十字架を海水に浸して嵐を鎮めようとしたところ、波がそれを奪い去り、海底に沈んでしまったそうです。その後、風雨が静まってある島に上陸し岸辺を歩いていると、蟹が十字架を運んで来たというのです。

その話が、助けた亀が再び現れる浦島太郎の話に似ているということも、どこかで読みました。

次に、『奇跡の右腕』というのがあります。

ザビエルの右腕は、死後50年経っていたにもかかわらず、鮮血がほとばしり出たそうです。
その右腕は、1949年と1999年に、ザビエル日本渡来400年と450年を記念して日本に持って来られて展示されました。


(2)『噛み切られた足指』と『聖母に捧げられた日本』の逸話


それから、逸話ですが、そのひとつは『噛み切られた足指』です。
ザビエルの遺体は、1554年3月16日から三日間、インド・ゴアの聖パウロ聖堂で一般への拝観が許されました。すると、参観者の一人の婦人が右足の指2本を噛み切って逃走してしまいました。結局、足指は彼女の死後家族によって教会へ返されたそうです。

もう一つの逸話は、『聖母に捧げられた日本』です。
ザビエルが鹿児島に到着した8月15日は聖母マリア被昇天の祝日(聖母が亡くなって昇天した日)です。
そこで、ザビエルは上陸したときに、日本を聖母マリアに捧げて感謝を表わしたということです。

司馬遼太郎はこれを知って「なんとお節介な」と笑ったそうですが、私はそれを笑えるほど心が広くはなく、「他人の物を捧げるとは、どういう神経かな」と思うだけにしておきました。それ以上考えると腹が立って来そうだったからです。

こういう奇跡話や逸話は「聖人」に親近感を抱かせようとの意図から誰かが採り上げ、伝えられてきたものなのでしょうが、このような話題が出るたびに、ザビエルの存在は私の中でますます薄いものに成っていった感じがします。

そんな私にとって、ザビエル渡来の印象が変わってきたのは、ほんの3年ぐらい前からのことです。



3.ザビエル渡来の印象が変わった



それは、以前このブログで採り上げた、ペル-からマカオ経由で日本へ行き豊臣秀吉と会見したフアン・デ・ソリスという人物について知りたくて、フェルナンド・イワサキという日系人作家が書いた Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI (十六世紀の極東とペル-)という本を読んでいた時のことです。


(1)『太平洋を越えた対峙 日本と新大陸スペイン語圏』


その本の中に、盛んに参照・引用されている本がありました。
Lothar Knauth 著 Confrontación Transpacífica el Japón y el Nuevo Mundo hispanico 1542-1639
(太平洋を越えた対峙 日本と新大陸スペイン語圏 1542年~1639年)、という本です。

著者はドイツ生まれで国立メキシコ自治大学の教授です。
そのせいで、著者の名前はどう発音すべきか私には分りませんのでカタカナ表記は出来ません。
本の題名の中の、1542年は鉄砲伝来、1639年は鎖国体制が完成したとみられる年です。
つまり、この本は、日本のキリシタン時代史をメキシコ他南米とフィリピンという旧スペイン植民地(新大陸スペイン語圏)との関係から捉えて書かれたものなのです。

キリシタン布教が様々な面でポルトガル船貿易によって支えられていたことは事実ですから、ポルトガルの拠点であったマカオの視点から日本のキリシタン時代史を観た本は少なくないのですが、フィリピンやメキシコなどのスペイン語圏からの観点で書かれた本は希少なようです。

この本は1972年に出版されています。日本のキリシタン時代史の研究が1970年代半ばから大きく発展して行ったことと、関係があるかも知れません。

この本に、ザビエルと一緒に日本に来た神父 コスメ・デ・ト-レスとザビエルとの出遭いが書かれていたのです。


(2)ザビエルとコスメ・デ・ト-レスの出遭い


ザビエルの日本渡来については、アンジロ-(ヤジロ-)と呼ばれる日本人が連れてきたとよく言われるのですが、実際はアンジロ-とザビエルを含めて、少なくとも8名の集団できたようです。

内訳は、フランシスコ・ザビエル  神父(44歳)
     コスメ・デ・ト-レス  神父(39歳)
     フアン・フェルナンデス 修道士(23歳)
     パブロ・デ・サンタフェ(アンジロ-の洗礼名)・ジョアン・アントニオ 以上 日本人3名
     マヌエル -中国人
     アマド-ル-インド人


ザビエルはスペイン・ナバラ王国の生まれであるのに対し、トーレスは同じスペインではありますがバレンシア地方の生まれです。ザビエルがイエズス会の創立者の一人であり、ポルトガル王によってインドへ派遣されたのに対し、ト-レスは修道会に属さない司祭としてスペインを出てメキシコに向かったのです。


二人は、日本に渡来する3年前に、現在のインドネシア、モルッカ諸島のアンボン島で出遭っています。

アンボン島に至るまでの二人は、ザビエルがアフリカ・インドを経由したのに対し、トーレスはメキシコから太平洋を経由していますから、ちょうど地球を逆方向に進む航路を辿ったことになります。そして、それらの経路は、この時代のポルトガル・スペイン両国の海外事業展開をそのまま示しているのです。


上述の歴史書『太平洋を越えた対峙 日本と新大陸スペイン語圏』は、そのような観点から、ザビエルとトーレスの「出遭い」とその後の「日本渡来」の背景を説明してくれています。私は、そこに書かれた背景を読んで、ザビエル渡来が起きた時代と、ザビエルの存在自体も初めてリアルに感じることが出来たような気がしました。


その、二人の「出遭い」・「日本渡来」の背景の内容については、次回述べさせて頂こうと思います。


〈つづく〉




 














[PR]
by GFauree | 2015-08-05 09:40 | ザビエルとト-レス | Comments(0)