ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その4]
2015年 09月 29日
(Ⅱ)1549年8月から1551年11月まで
1549年8月、ト-レスを含むザビエル一行は鹿児島に到着します。
この時点から、1551年11月ザビエルが豊後を発ちインドに向かうまでの2年3か月間、ト-レスはザビエルの考えや計画通りに行動していたと考えても間違いではないでしょう。
・ザビエルとト-レスの関係
よく、「ザビエルの同僚の神父トーレス」というような言われ方がされますが、実際は二人に対するイエズス会の中での位置付けには明確な差があり、「同僚」というより「上司と部下」と言った方が良いような関係だったのでは、と思われます。
その差は、まず、ザビエルが会の創設者イグナティウスが直々に勧誘した創立メンバ-の一人であったのに対し、ト-レスはイエズス会とは関係なくスペインの一地方都市バレンシアで15年も前に教区司祭となり、ほんの1年前にインドのゴアで入会したばかりの「中途入社」の、それもスペイン人だけれど「現地採用」されたローマ本部ではほとんど知られていない人物だったという違いから来るものでしょう。
イエズス会内部の司祭の最高の階位は「盛式四誓願司祭」と呼ばれる階級です。
「盛式」とは「荘厳」というような意味です。「誓願」というのは、修道者が神に対して自発的に立てる誓いのことです。どの誓いまでを立てることを許された者であるかによって、その司祭の会のなかでの階級が表わされるのです。
入会後、修学と瞑想を積んで司祭に叙品され、「単式誓願司祭」となります。この単式誓願司祭のなかから一部の者が「盛式三誓願司祭」となり、さらに「盛式三誓願司祭」のうちのきわめて限られた人物だけが清貧、貞潔、従順、ロ-マ教皇への絶対服従の四誓願を立て「盛式四誓願司祭」に昇格します。
これは、ちょうど現代の日本企業において、部長とか課長とかいう職務の裏付けとして、参事とか主事とかいう職階(階級)があるのと同じ事です。従って、ある職務に就くためには、決められた職階以上の資格がなければなりません。例えば、管区長や院長など会の中での統括的な要職に就任するためには「盛式四誓願司祭」であることが必要でした。
ザビエルについては、通辞ジョアン・ロドリゲスが「日本教会史」の中で、「フランシスコこそ真実に教皇パウロ三世〔在位1534-49〕の命令で、ポルトガルの国王によってインディアに派遣された使徒であり、教皇に対して〔イエズス〕会の他の立願修道士と同様に第四の盛式誓願による義務を負っていた。」としていますので、1541年インドに派遣された時点で既に「盛式四誓願司祭」であったと考えられます。
一方、ト-レスは、パチェコ・ディエゴ著「長崎を開いた人」(中央出版社)によれば、1563年8月に、やっと「盛式三誓願司祭」となっています。
因みに、会のエリ-トとして育成された後日本に渡り、棄教した神父として遠藤周作の小説『沈黙』にも登場するクリストヴァン・フェレイラは、37歳で日本管区長秘書を務めていた時に「盛式四誓願司祭」になっています。
一方、この時代、イエズス会で叙階された日本人司祭は23人いましたが、「盛式四誓願司祭」となった者は一人もいません。
・鹿児島でのザビエル一行
さて、当時の鹿児島では、明・琉球・朝鮮などとの貿易が盛んに行われ、富の蓄積が進んでいたため中央の文化も流入し、領内には禅寺も多く、新しい宗教を受け入れるに相応な土壌があったと考えられています。領主 島津貴久もザビエル一行を厚遇し布教を許し、家臣に対しキリシタン入信を許可したとのことです。
ところが、ザビエルには、「出来るだけ速やかに京都へ行き『日本国王』である天皇から許可を得て、国の指導層を入信させ上からの改宗を実現したい」という強い意図がありました。
それは、「日本の政治体制は、将軍が天皇の委任を受けて日本全土を統治しているものである」との情報を、インドのゴアで既に日本人アンジロ-から得ていたからです。
貴久は、戦乱のために京都が荒廃していることなどを挙げて引き留めようとしたようですが、ザビエルは日本全体を改宗しようとの意気込みで来航しているのですから、京都へ行くことを主張して聞き入れません。
結局、到着の翌年1550年9月,平戸にポルトガル船が来航したのを機会に、ザビエル一行は貴久の仕立てた船で鹿児島を離れ平戸に移ります。
つまり、平戸まで送ってもらったわけで、一部で言われているようにザビエル来航の目的が宗教上の目的に限定されていたことを知って、貴久が冷淡な扱いをし追放したということでは、ないようです。むしろ、将来的に見込まれる貿易上の利益を考慮してか、貴久が相当気を使って丁重にザビエルに接していたことが窺がわれます。
・平戸から山口・堺を経由して京都へ
平戸でも領主 松浦隆信から歓迎され布教を許可されましたが、全国制覇の野望に燃えるザビエルが平戸に留まる筈もなく、翌月10月ザビエルとフェルナンデス修道士は、トーレスを残して平戸を発ち都に向かいます。
都への旅の途次、「山口の大内義隆は日本で最強の領主である」と聞き、11月に山口を訪れ宣教活動を開始し、大内義隆にも謁見しますが、翌12月山口を発ち京都に向かいます。
なぜ、一旦宣教活動を開始しながら僅か一か月で山口を去ったか、について、「男色を罪とする教えが義隆の怒りを買ったから」という説がありますが、定かではありません。
山口から京都へ向かう途上、知り合った日本人からの紹介状を頼りに、後に上方の代表的なキリシタンとなった堺の豪商日比屋了桂を訪ねます。
翌1551年1月、ザビエルは京都に到着しますが、戦乱に荒廃しきった情勢に失望し、10日間程度滞在しただけで京都を去ります。
・京都から山口経由平戸に戻るが、再度山口へ
1551年3月、山口を経由し(首都・京都には多くを望めないと判断した以上、改めて山口を活動拠点とすることを考えたのでしょう)一旦平戸へ戻り、大内義隆に面会するための書簡や贈答品を携えて平戸を発ち、再度山口に入ります。再び義隆に謁見し、布教の許可と廃寺になっていた大道寺を住居兼教会堂として与えられます。
《ザビエル来日の目的は銀鉱山を押さえることだった?》
島根県のインタ-ネット・サイトの「世界遺産 石見銀山遺跡」の部には、
1568年、ポルトガル人製作者がインドのゴアで作った日本地図上の「石見」の位置に、ポルトガル語で「R.AS MINAS DA PRATA」(銀鉱山王国)と記載されている旨、記されています。
また、ザビエルが同僚シモン・ロドリゲス神父にあてた手紙(1552年4月8日付ゴア発)に、「カスティリャ(スペイン)人は、この島々(日本)をプラタレアス(銀)諸島と呼んでいる。このプラタレアス諸島の外に、銀のある島は発見されていない。」と書かれてあるとしています。
これらによって、ザビエルが日本渡航前から石見銀山の存在を承知していて、銀鉱山を押さえることを狙いとして来日したという説を読んだことがありますが、ザビエルが2年3か月にわたる日本滞在の後インドのゴアに戻ったのが、1552年2月です。
上記の手紙が書かれたのも、地図が作成されたのもその後ですから、これらによってザビエルが日本への渡航前から石見銀山の存在を知っていたとは言えないのではないか、と私は考えます。
・ザビエルは豊後からインドへ発ち、ト-レスとフェルナンデスは山口に残る
1551年9月、ザビエルは、豊後府内(現在の大分市)にポルトガル船が来航した旨の知らせを受け、ト-レスとフェルナンデスを山口に残して豊後へ行き,守護大名大友宗麟に迎えられます。
ところが、山口が9月30日、挙兵した家臣 陶隆房(晴賢)に攻撃され、義隆は長門大寧寺で自害させられます。街では戦闘が続き、掠奪や放火が横行し、残されたト-レスとフェルナンデスにも身の危険が迫り、二人は市内の有力者内藤氏の妻の実家に匿われます。
豊後にいたザビエルは、そのまま11月、日本人青年4人とともにインドへ向け出発します。
(ザビエルがインドから派遣したバルタザ-ル・ガーゴ神父と二人の修道士ドゥアルテ・デ・シルヴァとペドロ・デ・アルカソ-ヴァは翌年8月に府内に到着します。)
因みに、インドに戻った後のザビエルは直ちに日本へ上記の通り支援要員を派遣するとともに、日本での活動によって痛感した中国布教の必要性に対応すべく、休む間もなく中国へ向かいます。
そして、疲れ果てのことだったのでしょう、マカオ付近の上川島に到着して僅か5カ月後に他界します。
1552年 2月 インド・ゴア到着
4月 バルタザ-ル・ガ-ゴ神父と二人の修道士(上記)を日本に派遣
5月 マラッカ到着
7月 中国・上川島に到着
12月 死去
(Ⅲ)1552年から1559年まで
・山口と豊後で
1552年
1552年12月
山口―トーレス、ダ・シルヴァ
豊後―ガ-ゴ、フェルナンデス
1554年
1555年夏
・隣国・毛利氏の襲撃による危険を避けて、ト-レスとダ・シルヴァは山口から豊後へ
1556年初め
ト-レスはダ・シルヴァとともに豊後へ避難し、比叡山に送っていた日本人修道士ロレンソとベルナ-ベも戻り、全員が豊後に集結しました。
・山口と豊後で実践されたト-レスの方針(日本の習慣の重視)
ト-レスは、山口において「慈善事業のひとつとして、死者の埋葬に協力すること」を主張、豊後では「日本人が葬儀等の死者に関わることを重視すること」を前提として布教活動を展開していました。また、次に述べるベルショ-ル・ヌ-ネスは「ト-レスが、7年間日本人の習慣に合わせ、肉食をせず、塩魚や野菜だけの粗食に徹していた」ことを報告しています。
この「日本の習慣の重視」の方針はザビエルの「現実(適応)主義」に沿うものですが、確かなことは、それが当時のヨ-ロッパ人の限界を超えた考え方であったことです。
《三カ月で逃げ帰ったヌ-ネス管区長はアルメイダの「人生の師」》
1556年
ヌ-ネス神父は、日本の食事や生活環境に合わず三カ月で日本を去ります。同神父は功名心にかられ周囲の反対に抗して日本行きを決行したものの、日本の生活に順応することが全くできず、その機会を無駄にしたと、会の内部事情であるにもかかわらず、珍しく公然と批判されています。
ところが、その後の日本イエズス会の活動に多大の貢献をすることになる上述のポルトガル人商人兼南蛮医ルイス・デ・アルメイダが生涯の処世方針を決断するにあたって、人生の師と仰いだ人物が他ならぬこのヌ-ネス神父だというのですから、世の中分からないものです。
・豊後の病院運営と博多の教会建設
1557年
同年9月
・博多の反乱と平戸からの追放
1559年初め
その結果、神父三人と修道士六人の全員が、再び豊後に集結することになりました。
アルメイダは外科医学を教えながら、日本の薬品を学び、ドゥアルテ・ダ・シルヴァは病人を治療しながら要員の教育を続けていきます。
同年8月
その後、ヴィレ-ラは京都に5年留まり、都での活動の端緒を築きます。
(Ⅳ)1561年から1567年まで
・横瀬浦→福田浦→口之津
1561年
この年、豊後の大友、佐賀の龍造寺、平戸の松浦と領地を接している大村の領主 大村純忠から「横瀬浦港を教会に提供し、ポルトガル貿易の自由港にしたい」という申し出があり、トーレスはアルメイダとベルショ-ルを横瀬浦に送ります。
7月、アルメイダは数名のポルトガル人を伴って純忠を訪問し、以下の内容で交渉が成立した(パチェコ・ディエゴ著「長崎を開いた人」p.96)とされています。
(純忠の要請事項)
・神父の許可なしに非信者を港に居住させない
・ポルトガル船のもたらす商品はいっさい免税とする
・全て申し出事項は10年間有効とする
・譲渡は教会に対しなすもので、ポルトガル人に対するものではなく、支配権は大名が保有する
1563年
8月15日 トーレス、「盛式三誓願司祭」に昇格
8月17日 大村家 家老伊勢守の兄弟新助が 他の家臣針尾氏によって殺害され反乱が勃発
11月下旬 純忠の義弟・後藤貴明により横瀬浦は焼打ちに遭い、教会は港を放棄
A.「焼打ち後、ポルトガル商人たちは再び平戸への入港を望んだが、大村氏の利益優先を図るイエズス会は難色を示し、おなじ大村領で外洋の角力灘(すもうなだ)に面した西彼杵(にしそのぎ)半島西岸の福田浦が開港された。」
B.1565年、「松浦氏の水軍と堺商人の大型船が福田浦を襲い、ポルトガルの黒船二隻が応戦する『福田沖の合戦』がくりひろげられたが、襲撃側は敗退した。」
C.「その後、1567年には島原半島の南端の口之津が貿易港になった」
(以上A~C、安野眞幸著「教会領長崎」p.6 より)
この年、ト-レス、ザビエルとともに18年前鹿児島に上陸した修道士フェルナンデスが,平戸で死去します。(享年41歳)
(Ⅴ)1568年から1570年まで
・この時期のト-レスの活動について
この時期のト-レスの活動を記したいくつかの文書の内容をまとめたものが、
パチェコ・ディエゴ著「長崎を開いた人」(p.226)にありますので、その部分を抜粋します。
―1567年春、口之津にいる時に、大村純忠の訪問を受けた。おそらくその訪問の結果であろう、数か月後にアルメイダを長崎に派遣した。
1568年、志岐から口之津へ行き、9月に志岐から長崎へ渡る。
長崎から福田に、福田から10月に大村へ行って、そこに1570年4月まで留まる。
長崎へ行ってそこで大村純忠の訪問を受ける。病気になって、7月末まで長崎に滞在。
パ-ドレ・カブラルと会うために志岐に渡り、死去する(10月)までそこに留まっていた。―
これだけでは、ト-レスが長崎周辺を移動していたことと、大村純忠との間に接触があったことぐらいのことしか分りませんが、1571年の長崎開港に向けてこの時期種々の準備が進められ、そこにト-レスが一方の責任者として関わっていたことは間違いないことでしょう。
大村氏の寄進による「教会領長崎」の成立は、この長崎開港の約10年後の話です。
・後任布教長(原理)原則主義者 フランシスコ・カブラル
さて、上に名前が出てきたパ-ドレ・カブラルとは、トーレスの後任の布教長フランシスコ・カブラルのことです。カブラルが日本人を嫌悪し「私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民を見たことがない。・・・」と公言し、ザビエル、ト-レスの「現実(適応)主義」に対し、「(原理)原則主義」を貫こうとしたため、日本イエズス会は大きく変わったと言われています。
何故このような人物が後任布教長に任ぜられたのか、それまでのザビエル、ト-レスの努力を考えると残念な気がするのは私だけではないでしょう。
でも、ザビエル、ト-レスの「現実(適応)主義」が当時のヨ-ロッパ人の限界を超えた考え方だったとすれば、ロ-マの会本部には「適応主義」の必要性や有効性が理解されることなどは、ほとんど不可能だったでしょうから、たとえ布教長の後任に「適応主義」と全く相いれない考え方をする人物が選ばれたとしても、それはむしろ当然のことと考えるべきなのでしょう。
やっと、トーレスが布教長職を後任のカブラルに引き継ぎ、他界していくところまでたどり着きました。
私事ですが、実はこの2週間、咳が昼も夜も止まらないという恐ろしい風邪を引いて寝込んでしまいました。齢のせいか、当地の低温・多湿(当地の冬は90%以上の高い湿度のため、体感気温は5度以上低く、関節や呼吸器を傷める年寄が多いようです)の気候のせいか分りませんが、一時はどうなることかと思いました。幸いお医者さんの話では肺は傷めていないようです。
お陰で、温暖な気候のバレンシアに育ちながら、寒暖の差が激しく気候の厳しい日本で次第に衰弱していったト-レスの苦労の一端を偲ぶことが少しですができました。
以前、キリシタン時代の人物のなかで、ザビエルについては「聖人」とされているためもあって、礼賛・崇拝されることが多くリアルな人物像が結べず興味が持てないと書いたことがあります。ところが、今回この一連の記事を書いている中でザビエルのイメ-ジもだいぶ変わってきました。というより、ザビエルについて、リアルなイメ-ジを持てるようになってきたと感じています。その辺のことも含めて、次回、ザビエルとト-レスについて感じたり、考えたりしていることを書かせて頂きたいと思います。
《つづく》
[参考図書]
キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで―高瀬弘一郎著 岩波書店
教会領長崎 イエズス会と日本 安野眞幸著 講談社選書メチエ
イエズス会の世界戦略 高橋裕史著 講談社選書メチエ
長崎を開いた人―コスメ・デ・ト-レスの生涯― パチェコ・ディエゴ著 中央出版社
日本巡察記 ヴァリニャ-ノ 松田毅一他訳 東洋文庫 229 平凡社
by GFauree | 2015-09-29 02:43 | ザビエルとト-レス | Comments(0)