【大航海時代のおと】

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ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その5]



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ここからは、1546年3月モルッカ諸島のアンボン島で出遭ってから、日本でともに活動した間、ザビエルがトーレスの眼にどのように映っていたかを考えてみたいと思います。

そのために、まず、ザビエルの日本での活動はどのようなものだったのかを振り返ってみることにします。


1.ザビエルの日本での活動はどのようなものだったか


以下に、彼の日本での活動について気が付いたことを挙げてみます。


(1)滞在期間の短かさと移動の多さ

ザビエルは、1549年8月に鹿児島に着き、1552年11月豊後を発っていますから、滞在期間は僅か2年3カ月です。

この2年3カ月の間に、鹿児島→平戸→山口→堺→京都→山口→平戸→山口→豊後、と移動を繰り返します。

旅の手段は徒歩か船でしょうから、移動のための体力負担だけでも大変なものです。

1551年3月、京都から平戸に戻ってきたザビエルは、「以前よりやつれ、頭髪はほとんど白くなっていた」(パチェコ・ディエゴ著「長崎を開いた人」p.24)とされています。

そもそも、ザビエルは1542年5月にゴアに到着以来、インド国内を初め、マラッカ(シンガポ-ル)、モルッカ諸島などへの旅を繰り返していますから、席の温まる暇がなかったのは日本滞在時だけの話ではないのです。それだからこそ、モルッカ諸島・アンボイナ島でのト-レスとの出遭いや、マラッカでの日本人アンジロ-との出会いも起こり得たわけですが。

ザビエルは、豊後を発ってから3カ月後にゴアに着き、その2か月後にマラッカへ、またその3カ月後に中国沿岸の上川島に着き、上川島到着から5カ月後つまり豊後出発から約1年後に亡くなっています。

死因は心身の衰弱、要するに『過労死』です。


(2)綿密・周到な情報収集


①京都を目指した理由

ザビエルが鹿児島から京都を目指したのは、インドのゴアにおいて既に、日本の政治体制に関する情報を得ていたからであったことは、前回[その4]に書きました。

ザビエルは、ゴアのコレジオで日本人アンジロ-の指導にあたったイエズス会士ニコラオ・ランチロット神父に日本に関する情報をアンジロ-から聴取させ、『日本情報』として編纂させています。

ザビエルがゴアで得ていた情報の中には、上記の「日本の政治体制」に関するものの他に、「中国と日本との関係」に関わるものもあります。両国間の文化のつながり、とくに仏教が中国を経て日本に伝わったことなどです。ザビエルが日本からゴアに戻った後、直ちに中国・上川島への渡航を実行したのは、この情報と日本への渡航によって、中国布教の必要性を痛感させられた為だと考えられています。

また、これ以外にも、ポルトガル人商人ジョルジュ・アルバレスに対し日本に関する情報を求め、アルバレスは1547年に『日本報告』を執筆しています。
(高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」 p.25~26より)


②堺の有力者を訪ねた経緯


ザビエルが、「(山口から京都へ向かう)旅の途中で知り合った或る日本人からの紹介状をたよりに、上洛の途中、堺で豪商日比屋了珪を訪ねており」(「キリシタンの世紀」 p.29より)と読むと、「ザビエルが堺の有力者を訪ねたこと」が何か偶然であったような気がするのですが、それは決して偶然に起きたことではなかったと考えられます。

それは、「堺は、応仁の乱(1467から77)のあと、遣明船の発着港とされ、・・・、瀬戸内海航路と土佐から南九州、沖縄にいたる南海路との交易の主導権を握って、めざましく発展した。そして、戦国時代にそこの豪商たちが自治権を得るまでになっていた」こと、
(武光誠著「海外貿易から読む戦国時代」PHP新書 p.40)

そして、「(堺は)日本の流通の中心であり、国内でもっとも豊かな町であった」(同書p.159)ことや、豪商たちの存在も、既に海外に知られており、ザビエルもそれらのことを、来日前に知っていたと思われるからです。


③日本での滞在・移動中の情報収集と得られた情報への対応


「平戸から京都へ向かう旅の途上、大内義隆の噂を聞いて山口に寄った」という話は、ザビエルが布教の拠点とすべき土地に関する情報取集に如何に注意を払い、得られた情報に如何に迅速に対応しようとしたかを物語っているように思います。

(ただし、山口・大内氏や石見銀山に関しても、ザビエルが既に海外で情報を得ていた可能性はあります。)

1550年9月、平戸にポルトガル船が来航したとの情報を得て、鹿児島から平戸へ移動し、
1551年9月、豊後・府内にポルトガル船が来航した情報で、山口から豊後へ移動しています。

ザビエルがポルトガル船到着地に駆けつけた理由は、ポルトガル人乗員のミサや告解などの宗教的要請に対応するためだけでなかったことは明らかです。到着地の領主にイエズス会の影響力を示す絶好の機会として、ザビエルは存分にその機会を活用し、平戸・松浦隆信からも豊後・大友義鎮(宗麟)からも布教許可を得ているのです。

ザビエルのことですから、船で来日するポルトガル人たちが、到着したら遠隔地にいる自分の所へ連絡を送ってくる様に、事前に手配をしておいたことが考えられます。



(3)一旦決めたことをやり通す意志と責任感の強さ


①鹿児島・島津貴久や平戸・松浦隆信の慰留を振り切って京都へ向かったこと

-首尾よく布教許可を得ても、その地に安住せず、あくまでも頑固なまでに当初の方針を堅持してその地を離れた感じがします。

②インド・ゴア到着2カ月後に、神父一名・修道士二名の応援要員を日本に向けて派遣したこと。

-支援要員の派遣などは、どこの組織でも後回しにされるのが常でしょう。
 到着から2か月後に要員が送られたということは、到着直後に手配したということです。
 (それだけザビエルの日本という新規市場への期待が強かったか、またそれだけザビエルの組織内での権限が強かったとも考えられます。)


以上、日本滞在中のザビエルの行動から、注目される点を抽出してみました。
これをお読みになって、ザビエルの行動にどんな印象を持たれたでしょうか。

私は、ザビエルの活動が現代企業の「新規市場開拓」といった類の活動にとてもよく似ていること、そしてザビエル自身はその種の活動の「有能かつ模範的な推進責任者」のイメ-ジに重なることに驚いています。



それでは、ザビエル自身はこういう活動を展開しながら、どんなことを考え、何を目指していたのでしょうか。



2.ザビエル自身の考えと彼が目指したもの


ここに、ザビエルが鹿児島に着いてから約2か月後の日付の二通の書簡があります。

一通は、ゴア在住のイエズス会神父宛て、もう一通はマラッカのポルトガル長官宛てのものです。



[Ⅰ] 1549年11月5日付鹿児島発(イエズス会神父)アントニオ・ゴメス宛書簡


神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親書とともに献呈できるような相当な額の[金]貨と贈り物とを携えて来てもらいたい。

もしも、日本国王が私たちの信仰に帰依することになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと、神において信じているからである。

[堺は]非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町である。日本の他の地方よりも、金や銀がたくさんある[ので]この堺にポルトガルの商館を設けたらよいと思う。

私がインドで経験したところでは、[物質的な利益に]関係なく、神への愛だけで、神父たちを渡航させる船を出す者は、誰もいないと信じている。



[Ⅱ] 1549年11月5日付鹿児島発(マラッカ長官)ペドロ・ダ・シルヴァ宛書簡


もしも閣下が私を信頼してくださって、[この地方に]送る商品の管理を私にご一任くださるなら、私は『一』から『百』以上に増やすと断言する。

これは、今までマラッカの長官が誰もしなかった確実な方法で、信者になる貧しい人たちにすべての商品を与えるのである。
利得は確実で、少しも危険はない。


以上、書簡[Ⅰ]・[Ⅱ] (高橋裕史著「イエズス会の世界戦略」p.78より)




各書簡の意味するところは、以下の様なことと考えられます。

書簡[Ⅰ]

・キリスト教の布教は国王同士の関係の中で進められるべきものであるので、宣教師は、日本国王宛てのインド総督の親書と、相当の価値のある貴金属と品物を持参すべきである。

・日本国王が改宗すれば、ポルトガル国王は莫大な経済的利益を得るのだから、それによって上記の貴金属と品物の経済的負担を補うことが出来る。

・堺は日本中の金銀の集まる豊かな港だから、ここに商館を設置すべきだ。

・経済的な利益が得られる見込みなしに、神への愛だけで宣教師を運ぶ等の協力をする商人はいない。


書簡[Ⅱ]

・マラッカから日本へ送る全商品の(販売)管理を自分に委託してほしい。
・信者になる貧しい人々に販売するという、斬新な手法がある。
・その手法によれば(信者を対象とする以上)利益は確実で、全く危険はない。



《5.7トンの良質胡椒の話》

これらの書簡に加えて、ザビエルは日本に渡航するに当たり、マラッカ長官から最良の胡椒30バ-ル(5700キロ)の贈与を受け、これを日本に持って来て売り、経費に充てた可能性が高い(「キリシタンの世紀」p.35)という話があります。

布教活動にも生活費は当然必要ですから、私はこれを問題視しても仕方がないのではと考えていたのですが、今回改めて、貴金属並みだったと言われている当時の良質胡椒の価格や5.7トンという相当な量と、上記の書簡[Ⅰ]の内容を考え合わせると、胡椒を現金化して得た多額の金は一体何に使われたのかという疑問も湧いてきます。

鹿児島・島津貴久、平戸・松浦隆信、山口・大内義隆からの布教許可が得られたのは、良質胡椒の効果だったのかも知れません。



書簡のことに戻りますが、日本での布教開始直後のこの時期に既にザビエルがここまでのことを考えたり、書いたりしていたということに、少し驚きました。ザビエルは、一体何を考え、また、なぜこのようなことを書簡に書いたのでしょうか。

その疑問に対する答えを得るためには、彼が置かれていた状況を知る必要があります。
彼が置かれていた状況とは、彼が行おうとしていた海外布教活動の枠組みのことではないかということに思い当たりました。そこで、彼の時代の海外布教の枠組みを見直すことにしました。



3.大航海時代の海外布教の枠組み


大航海時代の海外布教は、教会法に基いて、ポルトガル・スペイン両国家の後援の下に、カトリック修道会が行ったものです。

イベリア両国の後援とは、ロ-マ教皇が両国王室に対し布教保護権を与え、両国王が布教地の教会運営に保護者として関与することです。

布教保護権による両王室の権利と義務の内容は以下の通りです。

〈権利〉 司教区の設置を決め、司教、教会役員、教区司祭を指名・推薦することができるこ
     と。
〈義務〉 司教区とそこで働く教会聖職者を経済的に支えるほか、カトリック信仰宣布に尽力
     すること。


インドについては、1534年、ポルトガル国王を布教保護者としてゴア司教区が設置されました。
これによって、インドにポルトガルの「布教保護権」が及ぶこととなり、ポルトガルという国家とイエズス会という修道会とが、一体となってインドのカトリック布教を進めていく体制が作られたことになります。

ザビエルは、ポルトガル国王ジョアン三世のローマ教皇とイグナティウス・ロヨラに対する要請によりインド派遣要員として選抜された三名のうちの一人であり、1541年4月リスボンを発ち、翌年1542年5月ゴアに到着したのです。



4.大航海時代の海外布教の枠組みの観点から、書簡[Ⅰ]・[Ⅱ]の内容について考える

     
書簡[Ⅰ]は、イエズス会同僚神父に対し、今後の布教の進め方について見解を示したものです。

(1)教会と国家が「教俗一体」となって進める以上、ポルトガル国王を前面に出して、相手国国王に直接働きかけるべきである。
(2)その際、ポルトガル国王が費用を負担することが必須であるが、その負担費用以上の経済的利益が将来必ずもたらされる。
(3)王室の経済的負担は、また「教俗一体」となって取り返す考え方が必要であり、その考え方から、自分は「堺の商館設置」を提案したい。


書簡[Ⅱ]は、マラッカ長官に対し、今後の貿易取引の進め方について提案しているものです。

(1)自分は教会側の人間であるが、ポルトガルの貿易取引と利潤の拡大については、積極的に取り組んでいくつもりである。
(2)貿易取引と利潤を拡大するために自分が考案した手法を提案し、その手法を推進することを自ら買って出る


以上の書簡に表れたザビエルの考えから、ザビエルが目指したものが浮かび上がって来ます。


5.ザビエルが目指したもの


(1)ポルトガルの国家利益への「貢献者」、ポルトガル国王の「能吏」を目指したザビエル

海外布教を「教俗一体」の体制で進めるべき国家的プロジェクトと捉えるとすれば、王室側に布教に関わる負担を求める以上、教会側も国家の貿易取引や利益拡大に積極的に尽力すべきであると考えたのでしょう。ザビエルは国家的プロジェクトに積極的にかかわることを心がけるなかで、次第にポルトガルの国家利益増大への「貢献者」ポルトガル国王の「能吏」を目指すようになっていったとも考えられます。


これは、様々な面で最もザビエルの後継者と呼ぶにふさわしいと考えられるイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの1582年12月14日付フィリピン総督宛書簡(ザビエル書簡から33年後)について、そこに示されているヴァリニャ-ノの姿勢が、
ポルトガル国王の『能吏』としてのそれであり、ポルトガルの国家利害の『代弁者』のそれである」と指摘されている(高橋裕史著「イエズス会の世界戦略」p.80)ことと、共通します。


(2)ポルトガル国王交付金・ロ-マ教皇交付金をあてにできなかったイエズス会

ポルトガル国王は、王室布教保護権の制度に基き、イエズス会の布教活動に対して経済援助おこなう義務がありました。また、イエズス会には、そのポルトガル王交付金に加えて、ロ-マ教皇からも交付金が支給されることになっていました。

ところが、実情は、それらの交付金の支払いは滞りがちで、有力な資金源とはなり得なかったのです。その結果、イエズス会は自らの経済戦略を国王や教皇などに対する「他力本願」から「自力本願」へと、方針転換せざるをえなくなっています。(「イエズス会の世界戦略」p.155)


(3)「ポルトガル商館の関税収入によって活動資金を確保する」提案


前述の書簡のうち、(Ⅱ)ペドロ・ダ・シルヴァ宛てのものにはテキストが三種類ありますが、その中で最も詳しい内容をもつものの中に「ポルトガル国庫の損失を防がんためには、堺港に税関規則を設けて収税の途を立つべきである」とあるのです。

その意味は、「国王からの援助の代りに、『ポルトガル商館』のなかに『税関』を作り、そこに『ポルトガルの関税法』を移植・適用する」ということです。

(安野眞幸著 「教会領長崎」イエズス会と日本 p.22~26)

ザビエルはポルトガル国王が布教保護権にもとづきイエズス会を財政的にもっと支援すべきなのに〈不十分だ〉とかねてから不満に思っていました。

(そこで、)日本上陸当初から、貿易の仕組みのなかの「税関規則」を通じて、イエズス会の活動資金を捻出する計画を持ち、それをいつの日か実行することを目指したのでしょう。

つまり、「堺へのポルトガル商館設置」の提案には、関税徴収の仕組みを導入することによって、ポルトガル国王やロ-マ教皇からの交付金に依存せずにイエズス会の活動資金を確保するという意図が含まれていたのです。

実際に、「ポルトガル国王交付金には、大きく分けて現金支払いのものと現物支給によるものがあったが、現金支払いのものは、マラッカ、コチンにあるポルトガル税関から-それは、おそらく(税関が徴収した)関税収入の一部だったとおもわれるー支払われていた。」(「イエズス会の世界戦略p.154)ということです。


6.トーレスの眼に映ったザビエルの姿


(1)以上により、ト-レスの眼に映ったはずのザビエルの姿をまとめてみると、

   ・心身の疲労をいとわず献身的に働き続ける
   ・布教地に関して広範囲かつ綿密に情報を収集する
   ・移動中も情報収集を絶やさず、得られた情報へ機動的かつ迅速に対応する
   ・活動方針を堅持し組織的課題を確実に履行する

既に書きましたように、これは、まるで現代企業の新規市場開拓マニュアル上の課題項目ですから、これらの課題を律儀に消化していたザビエルは、上司も部下も組織もが望む「有能かつ模範的な新規市場開拓推進責任者」ということになるでしょう。

もしこれが、偉人伝のような書物に書かれたものであれば、かなり割り引いて受け取る必要があるでしょうが、残された客観的な記録をつなぎ合わせると、こういうイメ-ジが浮かび上がるのですから、ザビエルは本当に「有能かつ模範的な新規市場開拓推進責任者」であったのでは、と思えてきます。

加えて、離日してからわずか1年後に心身の疲労によって亡くなっている、つまり『過労死』していることが、また、それを裏付けているようです。


(2)一方で、日本到着の2か月後にザビエルが書いた書簡から、また別の面も見えてきます。

・ザビエルは、当時の海外布教が、カトリック修道会とポルトガル国家の「教俗一体」の体制の下、国家的プロジェクトとして進められていることを十二分に理解し、自分がその担い手であるこも強く自覚していたこと。

・「教俗一体」という以上、布教について、国王が経済的負担を負うことは当然であるが、教会側の人間である自分も、その経済的負担を軽減するための手法を考案したり、実行したりすることによって、ポルトガルの貿易取引と利潤拡大に積極的に取り組む考えであったこと。

・ポルトガル商館を堺に設置し、商館の関税収入によって、国王やロ-マ教皇からの交付金に依存せずに、イエズス会の活動資金を確保しようとの考えがあったこと。


このようなザビエルの姿はトーレスの眼にどう映ったでしょうか。
また、それによってト-レスはどのような考えを持ったのでしょうか。
それは、次回考えることにしたいと思います。


〈つづく〉

[参考図書]

長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯-パチェコ・ディエゴ著 中央出版社
キリシタンの世紀-ザビエル渡日から「鎖国」まで-  高瀬弘一郎著 岩波書店
海外貿易から読む戦国時代                武光誠著 PHP新書291
イエズス会の世界戦略                 高橋裕史著 講談社選書メチエ
教会領長崎 イエズス会と日本             安野眞幸著 講談社選書メチエ























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by GFauree | 2015-10-08 10:38 | ザビエルとト-レス | Comments(0)