“生ける車輪“南蛮医アルメイダの実像 [その1]





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〈伝説の名医修道士〉



ルイス・デ・アルメイダ
の名前は、小説『出星前夜』の第一行目に「伝説の名医修道士」として出てきます。
『出星前夜』は「島原の乱」を題材にした、飯嶋和一の作品です。

「島原の乱」の七年前、寛永七年(1630年)の春、主人公 外崎恵舟(とのざき けいしゅう)はフランシスコ会の修道士ガブリエル・マグダレナと出会います。

「七十年前に、有馬領 口之津港にやってきたルイス・アルメイダ以来、噂や伝承では何度も聞いていたが、彼らが起こすという『奇跡』というものを恵舟は目のあたりにした。」

「その(マグダレナの)慈悲にあふれた清廉な人柄と、分け隔てのない献身的な治療は、天よりの使者そのものだった。彼の手によって生命を助けられた日本人は数えきれないほどである。」

言うまでもなく、ガブリエル・マグダレナのモデルは、七十年前の「伝説の名医修道士」ルイス・デ・アルメイダでしょう。

アルメイダは、ポルトガル船貿易商人として蓄積した莫大な財産を持ってイエズス会修道士に転じ、医師としての知識や技術を医療と病院建設・運営に注ぎ込んだ人物として知られています。

また、彼の入会時の“持参金”は、病院経営のみならず、日本での布教開始後間もなかった会の活動そのものを支えたという面もあったようです。

その他、彼が新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)であったことに絡み、医師の免許を持っていながらなぜ祖国を遠く離れて生きようとしたのか、貿易商人として成功しながらなぜ聖職者へ転身しようとしたのかなど色々と謎の多い人物でもあります。

まずは、比較的記録の多い、来日してイエズス会に入会したあたりから、彼の足跡を辿ってみようと思います。




〈インドでト-レスに会っていたアルメイダ〉



1552年
は、フランシスコ・ザビエルが離日しインドへ戻った年の翌年ですが、この年に、アルメイダはポルトガル船々長ドゥアルテ・ダ・ガマの共同経営者として、ガマの船で鹿児島に着き、平戸を経由してコスメ・デ・ト-レスに会うべく山口に向かっています。

アルメイダがリスボンからゴアに着いたのが1548年の秋ごろで、ト-レスを含むザビエル一行が日本に向けゴアを発ったのが1549年4月ですから、アルメイダとト-レスはゴアで会っていた可能性があるのです。



〈全財産を慈善事業と布教活動に提供したアルメイダ〉




1555年夏
、ドゥアルテ・ダ・ガマの船が平戸に着き、その船にアルメイダが乗っていました。彼はこの時三十歳であり、自分の人生の進路をはっきりさせたいと考え、イエズス会の“霊操”と呼ばれる精神修養を行うために豊後へ向かいます。

“霊操”を行っていたとき、アルメイダは豊後において飢餓と貧困による嬰児殺しの悪弊が横行していることを知ったようです。彼は、見棄てられた孤児の収容施設の開設を申し出ます。

この後、アルメイダはイエズス会に入る決心をします。入会する前に、貿易商人として蓄積した自分の全財産のうち、一部を豊後における慈善事業つまり孤児の収容施設(後の病院)に、残りを布教の維持のために使われることを前提にイエズス会に引き渡したということです。

ところが、施設に収容した乳児に牛乳を与えたことが、当時の日本の食習慣に合わなかったため、「赤子を畜生同然に扱っている」とか、「外国人宣教師が赤子の生血を吸っている」などの噂が立ったことや、また運営にあたったミゼルコルディア(慈悲の組)の信者の体力負担が過重になったことなどによって、孤児の収容施設は約1年後に廃止のやむなきに至ります。



〈“人生の師”インド管区長ベルショ-ル-ル・ヌ-ネスの来日〉



1556年7月
、イエズス会インド管区長ベルショ-ル・ヌ-ネス神父とガスパ-ル・ヴィレラ神父及びギリェルモとルイ・ペレイラの二修道士が府内に到着しました。

このヌ-ネス神父は、日本の食事や生活環境に順応できず三カ月で日本を去ったのですが、元々はアルメイダが“人生の師”と仰いだ人物であったことを採り上げて、前回ザビエルとト-レスに関する記事の[その4]で、「世の中、わからないものだ」などと軽率にも書いてしまいました。

ところが、ヌーネス神父がインドのゴアを出発したのは1554年4月ですから、出発からなんと2年3カ月を費やし、日本に着いた時には心身ともに疲れ果てていたという事情があったのです。

他人のせいにしてはいけないのですが、「長崎の人」の著者パチェコ・ディエゴ氏はそんなことにはまったく触れずに、ヌ-ネス神父に対して批判的な口調で書いていますので、うっかり信じ込んでしまいました。イエズス会士の歴史家の仰ることは、例え同じイエズス会士に対する批判であっても、気を付けなければいけないという良い(悪い)例だと肝に銘じなければなりません。

このヌ-ネス神父の長旅には、ザビエルや、貿易商としてアルメイダより遥かに格上だったと思われるディオゴ・ペレイラや、アルメイダ自身も絡んで、もっと複雑で興味深い事情があることが分りましたので、次回[その2]でその事情を説明させて頂くつもりです。



〈病院の開設〉



孤児のための施設は廃止せざるを得ない事情があったのですが、その後も北部九州の争乱の収まる気配はなく、社会不安の中で苦しむ病人を見て、アルメイダは病院開設の必要性を痛感したのでしょう。ところが、病院開設には、宗麟配下の重臣や社寺の神官・僧侶の猛烈な反発や妨害があり、それを乗り越えて領主宗麟の認可を得る必要があったのです。

どのような工作によって領主宗麟の認可を得たかについて具体的な記録はありません。ただ、戦わずして九州一円の覇権を手にしようとした宗麟の戦略にとって、アルメイダがもたらした貿易の利益こそ、将軍足利家に貢ぐ多額の献金の資金源として最も重要なものだった可能性があります。

1557年、このような困難を克服しながら病院は開設され、次第に収容する患者も増していきました。ところが、1560年7月、豊後府内に入港したマヌエル・メンド-サの船便で、「医療禁令」の通達がイエズス会本部から届けられた、とされています。



〈医療禁令〉



この「医療禁令」というのは、1558年、イエズス会本部で行われた「最高宗門会議」で決議されたもので、「聖職者の地位にあるものは、人間の生命に直接かかわる医療施術、生死の判決に関わる裁判官(法律家)の職についてはならぬ」という特命であった。

聖職者は、死すべき宿命をもった人間の魂の永遠の救済こそが真の職務であって、現世での肉体の生死に関わる医療行為に携わったり、生殺与奪の権をもつ裁判官になったりしてはならぬというのが、この禁令の主旨であった。

「医療禁令」によって、アルメイダはじめイエズス会士たちは、府内病院から一切手を引き、あとは日本人の医療従事者に任せた。しかし、日本人の医療従事者の技量や評判は悪く、病院は次第に衰退して行った。

以上が、東野利夫著「南蛮医アルメイダ」(p.171~172)に書かれている内容です。


私は、この「医療禁令」について、以前にどこかで読んだことがあるような気がして、色々探してみたのですが見あたりません。また、「人間の魂の救済こそが、聖職者の真の職務なのだから、現世での肉体の生死に関わる医療行為を行ったり、人の生殺与奪の権をもつ裁判官に成ったりしてはいけない」という理屈は、一応、筋が通っていると思うし、これも読んだことがある気がします。

けれども、1558年イエズス会本部で行われた『最高宗門会議』という部分に私は違和感を感じているのです。



〈『最高宗門会議』という名称について〉



まず、『最高宗門会議』という名称は「いかにもそれらしい」のですが、本当に、そんな会議があったのかどうか、私は疑問を感じています。

ウイリアム・バンガ-ド著「イエズス会の歴史」(原書房)に次のようなことが書かれています。

「イグナティウスは1556年7月31日に死去した。イグナティウスの死後2年間、『総会』が招集されなかったが、1558年6月に20人の荘厳誓願司祭がロ-マに集まり『総会』が招集された。」

当時、最高の議決機関は総会でしょうから、『最高宗門会議』ではなくて『総会』なら話は分かります。『最高宗門会議』という「いかにもそれらしい」言葉の元の言語での名称を知りたいところです。


〈「医療禁令」について一言も触れていないパチェコ・ディエゴ氏〉


イエズス会士である歴史家パチェコ・ディエゴ氏は自著「長崎を開いた人」(中央出版社)の中で、この「医療禁令」について一言も触れていません。

ただ、「府内の病院はもう彼がいなくても困らなかった」と書いてあるだけです。

私は、以前にその部分を読んだとき、それを「自分が育てたポジションに安住させない」というイエズス会の方針の現われと考えて、人使いの粗さは現代企業並みだと思ったりしたのですが、パチェコ・ディエゴ氏が「医療禁令」に触れていないことには、何か別の意味があったのかも知れないと、今は思います。



〈「医療禁令」はアルメイダの病院に対する妨害だったのでは、それとも、イエズス会内部以外の場所から出されたものだったのでは〉



中西啓著「長崎のオランダ医たち」(岩波新書)によれば、
アルメイダは、1559年11月頃、インド・ゴアのコレジオの修道士やコチンのコレジオ長ヌネスにあてた書簡に「病院経営に関する援助を受けたい」と書き送っていたということです。

こういう連絡で、アルメイダの病院の成功がイエズス会内でも知れ渡り、妨害が入ったのではないかということをまず思いました。なにしろ、何処の組織でも自分が成功したときに、まず気を付けなければいけないのは、仲間の嫉妬・羨望です。

また、そもそも、聖職者が医療行為に従事したり、裁判官職に就くことに疑義が呈されるとしたら、それは、イエズス会内の聖職者に対するだけでなく、他の修道会も含めたカトリック教会全体の問題だった筈であり、そうであれば「医療禁令」が出されたのはイエズス会以外の場(例えば、ロ-マ法王庁内など)であったのではないか、とも考えます。



〈開拓伝道士アルメイダ〉


病院から手を引いたアルメイダは、1561年初夏の頃から、「開拓伝道士」としての活動を開始します。

それは、過労のため病床に伏すとき以外は、各地を転々として布教活動に没頭する生活です。訪れた土地の名前と洗礼を授けた人の数だけを羅列しても、“生ける車輪”と呼ばれた彼の活動ぶりを表わし尽くすことは出来ないでしょう。

そこで、ここでは、この時期の彼の活動の中で代表的なものを抽出してみることにします。


〈薩摩布教〉


1561年
、薩摩の泊(とまり)に停泊中だったポルトガル船の船長マヌエル・メンド-サが、「布教活動の自由を約束するから、宣教師を常駐させて欲しい」旨の領主島津貴久の書簡を託されて豊後に来たため、アルメイダはト-レスから薩摩行きを命じられました。

薩摩に着いたアルメイダは島津貴久と対面しましたが、期待した反応は得られませんでした。ただ、貴久の依頼に応じて、ポルトガル貿易船を誘致するためのイエズス会インド管区長宛書簡を翻訳したようです。


〈横瀬浦開港〉


1562年
、大村領主純忠を訪れるようト-レスから指示があり、アルメイダは薩摩から豊後に戻り横瀬浦に向かいます。

横瀬浦にはポルトガル船が入港しており、純忠からは今後もポルトガル船を常時入港させるための条件が提示されました。

1.横瀬浦の数カ所に教会を建て、これに収入を与えるために周囲2レグア(12キロ)の土地と農民を教会に供出する。
2.横瀬浦には宣教師の許可なく異教徒を居住させない。
3.ポルトガル船と貿易する商人に対しては十年間、税を免除する。

ト-レスも豊後から横瀬浦に赴き、今後ここに布教本部を置くことを決定する一方、アルメイダを豊後の大友宗麟のもとに派遣し、宗麟の理解を求めています。

宗麟からは、ト-レスに早期に豊後に戻って欲しい旨の伝言があったとのことですが、
ト-レスが去れば、もはや、数多の経済的利益をもたらすポルトガル船が豊後に寄港することがないことは自明のことでした。



〈当時の九州の情勢の概観〉


アルメイダは当時の九州の情勢を次のように分析しています。

「九州には、最も強力な領主が三人いる。
第一は豊後の大友氏、第二は薩摩の島津氏、第三が有馬の領主義直である。」

アルメイダは、有馬の領主を味方に引き入れるために数回訪問しました。
義直は、自領内の有力な港(口之津、島原)を布教の拠点として、ポルトガル船が来航することを希望していたということです。

1563年に、大村純忠が受洗しました。
(有馬義貞の受洗は1576年、大友宗麟は1578年です。)



〈横瀬浦の焼打ち〉


1563年8月
、横瀬浦は純忠の義弟・後藤貴明によって焼打ちされます。

1564年、有馬の領主義貞からの招きを受けて、ト-レスはアルメイダを派遣します。
その年の夏、ト-レスは有馬領内の口之津に布教本部を置き、3年後には2~3艘のポルトガル船が入港するようになりました。



〈福田沖の合戦〉


1565年
、ポルトガル船が大村領福田に入港します。
横瀬浦に入港しようとしたのですが、港が壊滅していたため平戸に向かったところ、平戸にいた宣教師がその船を福田に誘導したのです。

平戸領主松浦隆信の水軍と堺商人の大型船が福田浦を襲い、ポルトガルの黒船二隻が応戦し『福田沖の合戦』が繰り広げられましたが、襲撃側が敗退しました。

福田港に駆けつけたアルメイダは、イエズス会の委託投資の財貨を処分するとともに、大村氏・大友氏・有馬氏などイエズス会を支持する領主たちに有利な取引条件を指示したと考えられています。



〈宗麟への軍事援助と戦争調停〉


1569年
、大友宗麟は決戦の年を迎えます。
中国、山口を支配した毛利元就が北九州に進出しようとし、薩摩の島津や肥前の竜造寺も攻撃の機会を狙っていました。

まず、大友と毛利の決戦は、イエズス会の命運を決する重大な意味を持つことから、絶対に宗麟に勝たせなければならないとの考えがあったでしょう。アルメイダは、その2年前から大友氏の火器弾薬の調達をしていたと考えられています。

「良質の硝石(火薬)を他に渡さず、自分のみに与えること」や「既に送られた大砲が船の沈没で届かなかったため、大砲を再送すること」を要請する宗麟の海外在住司教たち宛の書簡を仲介したのは、アルメイダだと思われます。

アルメイダが宗麟との密談後大内輝弘を訪問し、その後、輝弘が宗麟から授けられた七千の兵で、毛利軍の後方周防(山口)を攻撃したために毛利軍が退却し宗麟が勝利した戦闘もあります。

また、大友勢の侵攻を中止してくれるように純忠から懇願されたト-レスの指示によって、アルメイダが宗麟のもとに駆けつけ、宗麟とその臣下の武将たちに、大村領への攻撃をしないように根回しをしたこともありました。


〈新布教長カブラル着任〉


1570年6月
、長くアルメイダとコンビを組んできたトーレスに代わる新任布教長フランシスコ・カブラルが着任します。カブラルは、アルメイダが成し遂げてきた数々の経営上の貢献に全く無理解な態度を示します。

1571年9月頃から、アルメイダの足取りが消えてしまいます。その後3年間、書簡など一切の史料が欠如しているのです。何らかの理由によって書簡が紛失したことも考えられます。

島原・天草地方の布教活動に従事していたとの推測もありますが、堅固な組織であればあるほど、外側からは計り知れないところがあるのが普通です。イエズス会だけが例外であるという根拠はありませんから、何か特殊な事態が発生していたのではないかと、私は思います。


〈司祭叙階と他界〉


1579年、アルメイダは巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノによって、他の3名の修道士と共にマカオに送られ、翌年1月、ついに司祭に叙階されます。(1555年のイエズス会入会から25年後です。)

その年6月、新司祭たちは長崎に帰着しますが、同時にマカオを発った多数のジャンク船が大量の武器弾薬と食糧を積んで口之津港に入っています。有馬領を攻略していた龍造寺隆信は、この武器弾薬を受けて優勢に転じた有馬軍によって駆逐されたということです。


それから3年後、天草河内浦(現在の河浦町)の茅葺きの貧しい住院で、アルメイダは、“生ける車輪(ヴィヴァ・ロ-ダ)”と呼ばれた生涯を閉じました。



〈つづく〉



次回[その2]では、来日する以前のアルメイダがどのような人たちと、どのような環境で生きていたのかを考えてみたいと思います。


[参考図書]

南蛮医アルメイダ 戦国日本を生き抜いたポルトガル人    東野利夫著    柏書房
長崎のオランダ医たち                   中西 啓著   岩波新書
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯   パチェコ・ディエゴ著  中央出版社
教会領長崎 イエズス会と日本               安野眞幸著 講談社メチエ
キリシタンの里                      遠藤周作著   中公文庫






























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by GFauree | 2015-11-08 14:10 | ルイス・デ・アルメイダ | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。