“生ける車輪”南蛮医アルメイダの実像 [その2]


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前回[その1]では、「伝説の名医修道士」と呼ばれるルイス・デ・アルメイダの日本での足跡を辿りました。

ところが、イエズス会入会以前のアルメイダについては、母国で医師免許を取ったにもかかわらずインドへ行き、ポルトガル船貿易商人としてかなり成功していたらしいということと、新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)だったことぐらいしか、それまで読んだ本には書いてありません。

「こういう時は、どうすれば良いのかな」などと、つらつら考えながら、以前に買った本を開いてみると、そこにアルメイダに関連する興味深いことが色々書かれてあるではありませんか。お蔭で、いっきに気分が晴れました。

それは、岡美穂子著「商人と宣教師 南蛮貿易の世界」(東京大学出版会)という本です。


3年ぐらい前、「1620~30年ごろのイエズス会貿易や長崎の状況について解説されている本があればいいのに」と思って、久し振りに「キリシタン時代本」を物色していたところ見つけて、面白そうだったので入手したのです。ですが、その頃は、キリシタン時代初期には興味がなかったので、ザビエルやアルメイダについて書かれていることは気が付かなかったのです。

ある書評に「学術書だけど面白すぎる」と書かれていましたが、本当でした。当地の日本人には考古学研究者の方が多いように感じますが、その中の一人である友人は、第三章の「南蛮貿易の商品リスト」が凄いと言って感動してました。

値段は高めですが、それだけの価値はあると思います。自分の経験では、内容のある良い本は古本でも新本でもだいたい高いようです。ということは、少し意外なことですが、本の値段というものは内容の価値も考慮して決められているということでしょうか。

ある程度の図書館であれば、置いてあると思います。とにかく、一度実際に手に取って目次だけでも読んでみて頂くことをお勧めします。



とここまで書いたときに、上述の本の著者である岡美穂子氏が、ご自分のブログ(南蛮の華-岡美穂子の研究ブログ-11月10日付http://mdesousa.exblog.jp/23856326/)の中で、このブログの6月20日付記事(何だか怪しい「岡本大八事件」http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)についてコメントして下さったことを知りました。


私は、ある理由によって、「キリシタン時代」の人と社会について知りたいと思うようになりました。
(理由を訊いて頂きたい気持ちも正直なところ少しあるのですが、話せば長くなってしまうので次の機会に)

そして、巷間語られている「歴史」というものには、「なんだかおかしい」・「すっきりしない」とか、逆に「すっきりし過ぎている」というような違和感を感じさせるものが少なくないことに気が付きました。その違和感をそのままにすると歴史がリアルに感じられなくなって、つまらなくなるのです。

そこで、私は違和感を感じたり、リアルに感じることができないときは、「本当はこうだったのでは」と自分で推測したり、仮説を立ててみたりすることにしました。すると、それによって、かえって以前より面白く感じられるようになったのです。

例えば、「岡本大八事件」の場合は、こういう経緯があります。

私はカトリックの家庭に育って、信者同士の強い信頼感・連帯感のようなものを子供心にですが感じていましたので、実は以前は、「家康が、晴信と大八がキリシタンであることに衝撃を受けた」と聞いて、キリスト教信者いじめに繋がったことですから大きな声では言えませんでしたが、「さすがは家康、鋭いな」などと秘かに感心していたのです。

つまり、「家康は、周りが信者ばかりであることに気が付きぞっとして、キリシタン取締りを始めた」という話は、信者じゃない人にはもちろん信者の人にも、妙に説得力があると思うのです。ですが、今回「おたあジュリアの件で家康が衝撃を受けた」と言われていることはおかしいと感じ始めて、岡本大八事件も同じではないかと思ったのです。

それで、それをそのままにするのは気持ちが悪いので、「事件の真相はこうだったのでは」という推測をしてみたところ、「家康が謀略による抹殺を図らざるを得ないほどの何かを晴信が持っていたのではないか」という疑問というのか、解釈というのか、にたどり着いたという訳です。

ただ、この場を借りて言わせて頂くと、仮にこの事件が家康と正純の謀略だとしても、私は彼らが極悪人だとか言うつもりはありません。戦国時代という武力闘争による覇権の時代を終わらせ、天下泰平のうちに長期安定政権を樹立・維持するために、特にこの時期に「謀略」という手段が徹底的に使われ、また有効だったということではないかと思うのです。その証に、本多正純も結局は濡れ衣とも考えられる罪状によって失脚しています。

             
ところで、素人である私の場合は、推論や仮説に根拠や立証が求められることはない(本当は、何かを発信する以上は根拠を示したり立証したりすべきなのかも知れませんが)のですが、研究者の方の場合は、一般に根拠や立証が当然の仕事のように考えられているので、気楽に推論や仮説を立てたりすることは出来にくいのではないかと思いますが、どうなのでしょうか。

そんな私の拙(つたな)い推論や仮説ですが、それを読んで下さって、また面白がって下さる方がいらっしゃれば、それに優る励みはありません。お礼を申し上げる方法がここ以外にありませんので、採り上げて下さった岡氏と、またこの機会にこのブログを読んで下さった方々に、お礼を申し上げたいと思います。

ひとつ、お断りしておきたいことは、今回上記の本を参考にさせて頂こうと思ったのは、前回(11月8日付)の記事を書いていたときで、全く偶然のことであり、そうであることは以下に書きます内容を読んで頂ければ分って頂けるのでは、と思います。

キリシタン時代史に関して、他の場でも書きましたが、最近どうもこういう「嬉しい偶然」のようなことを、多く経験するようになっている気がします。これは、もしかして「あの世」が近くなっているということかも知れません。






さて、本題に入りますが、「伝説の名医修道士」ルイス・デ・アルメイダが、イエズス会に入会する前に生きていた世界を表わしていると思われる事項を、岡 美穂子著 「商人と宣教師 南蛮貿易の世界」の内容から抽出してみました。

それは、以下の三つの事項です。

1.ザビエルの中国使節計画を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ
2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント
3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


これら、三つの事項の内容をまとめると、以下の様になると思います。


1.ザビエルの中国使節計画を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ



1551年秋
、日本を発ったザビエルは日本での布教活動の経験を踏まえ、日本に対して宗教的・文化的影響力のある中国での改宗事業が先決であると判断し、その着手を決意していた。

インドへの帰途、上川島で旧知の有力なポルトガル人貿易商ディオゴ・ペレイラと遭い中国への使節派遣計画に賛同を得た。ザビエルの意図は、中国・ポルトガルの国交を成立させ、安全に布教活動を展開することであったが、ディオゴには、また別の狙いがあったと考えられる。

1520年頃から中国沿岸部には、盛んに密貿易を行うポルトガル人グル-プが存在した。その中に、華人商人との間に金銭トラブルを起こしたり、掠奪行為を行ったりする者もあり、それが、1548~49年の中国官憲による大掃討を引き起こす要因となった。

ディオゴは大掃討の結果捕縛され虜囚となっていたポルトガル人たちの首領的立場にあったから、配下の虜囚たちを解放するために、私財を投じ自らが大使となることを前提に、インド副王使節派遣計画に賛同したのである。

ザビエルは、インド副王の承認を得るためゴアに戻るべく、ディオゴと共に上川島を発ちマラッカに向かった。マラッカでは、次期長官に就任予定であったアルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマと面会し中国使節計画を相談したが、アタイ-デがザビエルの知己の人物であったこともあってか、積極的支援の約束を取り付けることが出来た。

ところが、ゴアで副王との交渉を済ませ、マラッカへ戻ってみると、次期長官アタイ-デがディオゴの出港を阻止、ザビエルは上川島に着いたものの、密入国さえ果たせず、1552年12月に死亡した。

アタイ-デの妨害行為は海商の首領ディオゴ・ペレイラとの確執に起因していたと考えられる。ディオゴの排斥を目論んだアタイ-デは、ザビエルによって教会からの破門を宣告され、インド副王令によって逮捕され、司令官職を罷免され、全財産を没収され失脚した。




2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント



〈メンデス・ピントの経歴〉


1509~1511年、または1514年
、ポルトガル、大学都市コインブラ近辺に生まれた。
1521年、リスボンへ上京、船員や貴族の使用人として働く。
1537~1539年、インド方面で従軍。
1539~1554年、インド・マラバ-ル海岸、マラッカを拠点として、東アジア海域を商人として移動。
1554年4月、私財(5千ドゥカド)をイエズス会に寄進し修道士となる決心をする。



(イエズス会バレト・ベルショ-ル・ヌネス神父、アイレス・ブランダオン修道士の書簡の内容を整理すると、)


①ルイス・デ・アルメイダ
とともに、ドゥアルテ・デ・ガマの船の乗組員であった。
 ガマは、1550年から1555年まで、主に上川島⇔平戸のルートをほぼ毎年往来した私的貿易海商である。

②1547年
マラッカで、1551年日本でザビエルに会い、日本ではザビエルに布教資金(山口の修院建設費用300クルザ-ド)を貸し付けた

ゴアに帰還直後のザビエルの遺骸に接しイエズス会への入会を決意。

日本の領主たちは自分の友人であると語り、日本の領主改宗を目的としたインド副王使節派遣の費用と教会建設に私財を投ずるとし、自ら大使に志願した。



・1554年
バレト・ベルショ-ル・ヌネス率いるイエズス会日本渡航グル-プに参加した。

・1540年代に、日本及び中国沿岸部を往来する商人であったとすれば、
上記1.で述べたポルトガル人グル-プ同様リャンポ-の密貿易拠点に出入りしていた可能性は高い。

・1558年2月、ゴアに帰還してイエズス会を脱会し、同年9月リスボンに帰着した。
イエズス会に対する奉仕やインド副王派遣大使としての日本での働きを理由に、宮廷に年金支給を請求したが受理されず、
アジアでの体験と伝聞をもとに、『遍歴記』を執筆した。

・1583年7月死亡。

ピント研究の権威レベッカ・カッツは、彼が改宗ユダヤ人であったとしている。




3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


(ディエゴ・パチェコ著「長崎を開いた人」・東野利夫著「南蛮医アルメイダ」の内容も合わせてみました。)


1554年4月インド管区長バレト率いるイエズス会グル-プがインドから日本に向けて出発。
(1554年、日本から帰航したポルトガル人に日本布教の有望なることを示唆され、また大友義鎮(宗麟)がインド総督にあてた親善書簡により、日本視察を実行する計画を立てた。)

((バレト)ヌネスは多数の部下の意思に反し、突然の霊感に従って印度を出発し、もし必要ならば日本に留まろうと決めていた。その立派な希望にもかかわらず、日本の布教にとってほとんどなすところがなかった。)


1554年、マラッカで長官から中国渡航用のカラヴェラ船を提供されたが、その艤装費用800クルザ-ドをメンデス・ピントとその船の船長コスメ・ロドリゲスが捻出した。


1555年4月、そのグル-プがシンガポ-ル海峡付近で遭難し、その後マレ-半島ジョホ-ル付近で原住民に襲われていたところ、付近を航行していたナヴィオ船長ルイス・デ・アルメイダに救出された。


救助された後、一旦、アルメイダと別れたが、ランパカウに到着してから、彼と再会する。
そこで、アルメイダも同行して、ポルトガル人虜囚解放のため広州に向かう。
(ルイス・フロイスの書簡には、アルメイダが明朝官憲からの信頼が厚いことにより、特別にバレトに同行することが許されたとある。)


上記1.で述べたようにザビエルの中国使節計画は失敗に終わったが、海商の首領ディオゴ・ペレイラの狙いであった広州のポルトガル人虜囚解放のための折衝は、こうしてインド管区長バレトに引き継がれたことになる。


最終的には1555年、バレトの交渉により、広州の牢にいたポルトガル人のうち少なくとも三人が解放された。


バレト自身の書簡によれば、彼は二度広州へ行き、一回ごとに一か月滞在している。
一度目は龍ゼン香を、二度目は保釈金1500パルダウを持参した。
保釈金は複数のポルトガル人からの貸付と喜捨でまかなわれた。

バレトの交渉は、おそらくディオゴ・ペレイラの要請に応じたもので、保釈金の大半はディオゴによって用意された可能性があると考えられる。


・その後、アルメイダは日本に向かい、同(1555)年晩夏、平戸に上陸し、“霊操”をするために豊後へ行き、イエズス会に入会する。

1555年末、バレト一行はランパカウで越冬する。


1556年7月、バレト一行は府内に入港する。一行にはガスパル・ヴィレラ神父、ギリェルモとルイ・ペレイラの二修道士がいたとされているが、メンデス・ピントも含まれていた筈である。
(結果として、インド・ゴアを出発から2年3カ月が経過していた。


次回[その3]では、以上三つの事項について、私の思うところを書かせて頂きます。


〈つづく〉

[参考図書]

商人と宣教師 南蛮貿易の世界            岡 美穂子著 東京大学出版会
南蛮医アルメイダ 戦国日本を生きぬいたポルトガル人 東野 利夫著     柏書房
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯 パチェコ・ディエゴ著   中央出版社





 


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by GFauree | 2015-11-22 07:49 | ルイス・デ・アルメイダ | Comments(0)

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