【大航海時代のおと】

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“生ける車輪”南蛮医アルメイダの実像 [その4]


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                    〈メンデス・ピントの肖像〉




前回[その3]では、「伝説の名医修道士」ルイス・デ・アルメイダが、イエズス会に入会する前に生きていた世界を表わしていると思われる以下三つ事項のうち、1.について、私の思うところを書きました。


1.ザビエルの「中国使節派遣計画」を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ
2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント
3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


今回[その4]では、2.および3.について、私が考えるところを書いてみたいと思います。



2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント



(1)メンデス・ピントとルイス・デ・アルメイダの比較

     
     ①ポルトガルでの職業  ②従軍経験        ③商人経験
                    
ピント   船員や貴族の使用人  インド方面で2~3年間  1539~54(15年)
アルメイダ 医師または医学生     なし         1548~55 (7年)

     
     ④イエズス会入会年齢  ⑤持参金         ⑥在籍年数
 
ピント   40~45歳        5千ドゥカド    1554~58(4年)
アルメイダ    30歳      4~5千ドゥカド    1555~83(28年)



①、②、③
ポルトガルでの職業・従軍・商人と経験が全く違いますから、考え方も違っていたことでしょう。

ピントがこの歳になって、全く違う世界に入るには、それなりの理由があったでしょう。

持参金は、ほぼ同額です。これが、相場だったのでしょうか。
(これが、現在の貨幣価値にしてどのくらいのものになるか、次回[その5]で検討したいと思います。)

在籍年数の違いが、まさに二人の考え方の違いを表わしているのではないか、と思いました。



(2)メンデス・ピントの修道士経験


・ピントは、1544年および1546年にポルトガル人船長ジョルジ・アルヴァレスの船で種子島経由山川に来航していますから、まさに鉄砲伝来の時期に来航したポルトガル人の一人です。(アルヴァレスは、日本人アンジロ-をザビエルに紹介したとされている、人物です。)

・ピントは、また、1547年マラッカで1551年日本で、ザビエルに会っています。

1554年3月、ゴアに帰還したザビエルの遺骸を見て、翌月、バレト・ベルショ-ル・ヌネス率いる日本渡航グル-プに加わり、ゴアを出発しています。

・バレトの渡航グル-プへの参加に際し、私財を投じ大使を志願しています。
これは、何処かで聞いた参加の仕方です。そうです、ディオゴ・ペレイラも大使として参加することを条件に、ザビエルの「中国使節派遣計画」に賛同していました。



〈大使になるのは投資事業を管理し、将来的なビジネス・チャンスを掴むためだったのでは〉



・マラッカ長官アタイ-デが「海商ディオゴが中国大使とは身分不相応」と罵ったと言う話がありますが、ディオゴもピントも大使として参加したいと申し出たのは、別に名誉が欲しかったからという訳ではないのでは、と私は考えます。


大使として参加すれば、まず自分が出資する案件を自分でリードすることが出来ますから、一般に事業遂行に確実性が増し、成功する可能性は高くなり、投資の安全性も増します。第二に、その案件が将来の事業に繋がる場合は、有利な立場が得られます。現代でも、投資家としての行動の原則は、極力現場に立ち会うことでしょう。


ディオゴは将来の対中国取引を、ピントは将来の対日本取引を狙って、出資し大使となろうとした面もあったのだろうと思います。そして、この人たちに、そのアイディアを囁いた人がいたはずです。それはザビエルだったのではないでしょうか。そのアイディアを彼らが受け容れてくれれば、ザビエルには積極的な出資を受けられるというメリットが生じます。



〈商人は大事な貸し手、宣教師は良質な借り手〉



海外布教活動というのは、お金のかかる事業です。ですから、国王、教皇からの交付金は必須ですが、その支払いは滞りがちだったということです。つまり、国やカトリック教会は意外と充てにならなかったということです。

まして、インドから見て、日本などの新規に開拓すべき布教地での活動には、相当の費用がかかりますから、日本を目指す場合は宣教師はまず後援者・出資者を探したのではないかと思います。

ザビエルは、ピントから山口の修院建設費用300ドゥカドを借りたとのことですが、借りたのはそれだけということはないでしょう。ピントからの借金も他にあったかも知れないし、他の商人からも借りていたかも知れません。そのように、商人というのは大事な資金提供者だったのではないでしょうか。

逆に、商人にとって、宣教師は経常的に資金需要が発生し、踏み倒したり逃げたりしない良質な借り手だったかも知れません。
(実際には、どうだったのか、例えば300ドゥカドの借入金はきちんと返済されたのか、返済原資は何だったのか、知りたいところです。まさか、相手が聖職者だったので「あるとき払いの、催促なし」でそのままになってしまったとか、後で入会したときの“持参金”と相殺された、などということはなかったでしょう。)

ところで、「マラッカ長官アタイ-デが海商ディオゴ・ペレイラに借金を申し込んだが断られ憤慨した」、という話がありますが、もしザビエルがディオゴに借金をしていて、それをアタイ-デが知ってのことだったら、自分だけ貸して貰えないのですから、アタイ-デが憤慨するのも尤もなことです。

さらに、アタイ-デがディオゴに要求したのは、借入金名目の賄賂だったかも知れません。(そういう例が、近年あったことを思い出しました。)もしそうであれば、それを断られたのですから、アタイ-デのディオゴへの、更にザビエルに対する憎しみは、何層倍も激しく募ったことでしょう。



〈ザビエルに有力な商人が付いたわけ〉



ザビエルの場合、しばしば資金を借りて、きちんと返済してくれるというだけでなく、他にも商人にとって妙味のある相手だったのではないか、と思います。

それは、ザビエルは新規の布教事業の計画を立てながら、常に、そこに出資者にとって妙味のある参加のさせ方を考え、それを教えたのではないかということです。ですから、商人は、出来るだけザビエルに接し、早い段階から彼が検討しているプロジェクト案件を察知し、より有利なプロジェクトに参加しようとしたのでしょう。その話の中には、その後の対中国取引があったでしょうし、その後の日本に対する南蛮貿易の始動につながる話もあったかも知れません。

また、それにも増して大事なことは、そのように接しているうちに、商人たちがザビエルと、人生や生き方についての話をするようになっただろう、ということです。分りやすく言えば、商人たちがザビエルに取り込まれて行ったのではないかということです。



〈ザビエルと話すと、誰でもなぜか自信が出て来て、あとで思い出す〉



なぜ、ザビエルには「人々が強く引き付けられた」という話が多いのか、皆さんは、どう思われますか。
私は、以前からそれを不思議に思ってきたのですが、今回ピントの話を読んで、ひとつの答えが浮かびました。それは、ザビエルが自分に近寄ってくる人たちと、どんな話をしたかということです。ザビエルは、自分の方から、神や天国の話をすることはなかったのではないかと、私は思います。彼は、まず相手の経験を凝っくり聴いたと思うのです。

ある程度の決して楽ではない人生経験を積んだ(大概の人が皆そうだと思いますが)人にとって、何が一番嬉しいことだと、あなたは思いますか。

それこそ、人によって様々だとは思いますが、敢えて言えば、自分の決して楽ではなかった経験が価値のあるものだと思うことが出来て、かつ、これからその経験を存分に活かせる生き方が、まだあると確信できることではないかと私は思っています。

ザビエルは、それを知っていて実践していたのではないか、と私は思うのです。彼は、相手の話を凝っと聴き、その人の楽ではなかった人生を理解し、その苦しかった経験が価値あるものであることを気付かせ、それをこれからの人生に活かす生き方を一緒に考えようとしたのではないでしょうか。

そう考えれば、コスメ・デ・ト-レスが、日本人アンジロ-が、ディオゴ・ペレイラが、そして大友宗麟までもが、なぜザビエルに強く惹かれたのかが分るような気がします。これらの人は皆、苦しい経験をし、迷い、悩んだすえにザビエルに会い、その苦しい経験が価値あるものであり、それを存分に活かせる生き方があることを、知らされた人ではないかと思うのです。

ピントの場合も、まさにそれだと思います。



〈ピントとザビエル〉



上で見てきたように、ピントの人生は幼い頃から、決して楽なものではなかったようです。その彼が40歳台に差し掛かって、これからどう生きるべきか考えていたのでしょう。

そんなときに、ザビエルに遭って、最初は商売上のメリットがありそうなので近付き、付き合い、新しい儲け話の仕組みとして布教活動に出資し管理者として参加する方式などを伝授されたりしていたのでしょう。また、それと同時に、自分の人生経験や生き方などについても話すようになっていったのでしょう。

ザビエルと話すと、なぜか心が落ち着いてこれからのことも積極的に考えられるのが不思議だったでしょう。けれども、それで彼の行動が大きく変わることはありませんでした。

それが、1554年3月、ゴアで遺骸となって戻ってきたザビエルの姿を見たとき、彼と一緒に過ごした時間や交わした会話の内容が、ピントの胸に一挙に甦ってきたのでしょう。私は、雷に打たれて回心したというような人の気持ちはよく分らないのですが、このときのピントの心境は解るような気がします。



〈ピント入会の経緯〉



ピントは、イエズス会インド管区長であったバレトに会い、彼が大規模な渡航を計画していることを知ります。それは、中国での虜囚解放と日本布教の強化・拡大というザビエルが残した課題を果たそうという意欲的な計画でした。

そこで、ピントは以前にザビエルから示唆されたアイディアを持ち出します。バレトの計画に出資し、自分自身が管理者として大使の資格で渡航グル-プに参加するというものです。丁度出資者を探していたバレトにとって、ピントの申し出は、渡りに船の有難いものでした。

ところが、バレトは、その渡航の主要な目的の一つが、日本布教の強化・拡大である以上、その代表・大使は聖職者でなければならないと言い出します。すると、ピントは、どうせ乗りかかった船だからと、イエズス会に入会し修道士となることを承諾してしまいます。人生の決断は、いつも慎重に合理的になされるとは、限りません。人は、時として、自分にとってとても重大なことを、それもそれまでの自分に相応(ふさわ)しくないことを、気軽に決めてしまうことがあるのを、私は自分の経験から知っています。

ピントが渡航に出資していたことは、マラッカで支払われた中国渡航用のカラヴェラ船の艤装費用の一部が彼の負担であるとされていることからも分ります。最終的には、彼の渡航計画への出資は、イエズス会へ入会するための“持参金”として処理されました。例え、多額の出資があったにせよ、その後の経緯を勘案するといつまでもピントを特別扱いする訳にいかなかったからではないか、と考えられます。



〈苦い結末〉



・バレト・ベルショ-ル・ヌネスの渡航グル-プは、途中、難破や海賊の襲撃に遭い、広州で何とかポルトガル人虜囚三人の解放に成功したものの、日本渡航になんと2年3カ月を費やしてしまいます。その間に。ピントの出資金などは使い果たされてしまい、彼の立場も弱いものになってしまったことでしょう。

・加えて、到着後の団長バレトは、日本の気候や食事も含めた生活全体に適応できず、僅か3カ月後、嬉しそうにインドへ戻って行きました。(ある程度の歳になってから、異郷で暮らし始めるというのは、半端じゃありません。これも、私には身に覚えのあることです。)

・ピントと共にバレトの渡航グル-プに加わっていた修道士ブランダオンによれば、ピントは「インドで最も金を蓄えた者の一人」ということですから、そういう生活に慣れたピントが、今更、修道院の雑用係をして安穏に暮らせる訳がありません。1558年2月にゴアへ帰還してイエズス会を脱会し、同年9月にリスボンへ帰着したということです。



〈ピントは後悔していたか〉



ピントは、それまでの財産も生活も投げ打ってイエズス会に入会しながら、その4年後に退会した訳ですが、彼は特に後悔はしていなかっただろうと、私は思っています。

というのは、上述の通り、彼の入会の主な目的は、日本渡航計画という投資案件に監督者として参加することだったと思うからです。投資であれば、旨くいかないことがあることを、彼は業務経験を通じて良く解かっていたでしょう。

ここで、イエズス会入会時、母国へ送っておいた2千ドゥカドが活きて来たのです。母国へ戻ったピントは,ザビエルの教え通り、苦しくもあった自分の経験を最大限に活かすべく、当時のアジア海域世界を描いた旅行記『遍歴記』の執筆をしながら、裕福ではないけれど充実した老後を送ったことでしょう。

(私が考える結末は、いつも似たようになってしまいますが、この結論はあまり無理のないところではないでしょうか。)



3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


私が、この件を採り上げたのには、二つの理由があります。


(1)ひとつは、アルメイダが、管区長バレトに対し、1555年9月16日付で平戸から、非常に懇切丁寧な手紙を送って、何とかバレトを日本に招こうとしているのは何故か、という疑問があったのです。

それは、今回、以下の事情があったことが分り、概ね見当が付きました。

①1555年4月、遭難し原住民に襲撃されていたバレト一行は、アルメイダに救助された。
②同年8月以前、アルメイダはランパカウでバレト一行に再会し、共に広州に向かった。
③バレト一行の渡航費用はピントが出資した。

アルメイダとピントとは、共にドゥアルテ・ダ・ガマの乗組員で旧知の間柄であったこともあり、救出したり同行したりする間に、アルメイダはバレト一行の事情をよく知ることができたでしょう。ゴア出発から1年経った時期に、遭難や襲撃を受けたことによる予想外の出費でピントが提供した資金は底を突き、日本まで辿り着けるかどうか覚束なくなっていたのかも知れません。

そういう事情を踏まえて、アルメイダは資金提供も含めた支援を申し出る意味で、その手紙を送ったのだろうと思うのですが、どうでしょうか。


(2)この件を採り上げた、もう一つの理由は、次のようなことです。


ディエゴ・パチェコ著「長崎を開いた人」には、バレト・ベルショ-ル・ヌネスに関して、日本到着後、気候や食事に適応できず僅か3カ月でインドへ帰ってしまったことと、以下の記述があるぐらいです。肝心の、インドから日本への渡航に2年3カ月を費やしたことや広州の虜囚解放の件は、全く触れられていないのです。

「(バレト)ヌネスは、多数の部下の意思に反し、突然の霊感に従って印度を出発し、その立派な希望にもかかわらず、日本の布教にとって、ほとんどなすところがなかった。」

やや、皮肉っぽい表現のようにも受け取れますが、パチェコ氏は何が言いたかったのでしょうか。



〈こんなことが、言いたかったのでは〉



・そもそも、ザビエルが現地官僚トップと衝突までして、私的海商と連携し広州での虜囚解放活動を支援しながら中国進出計画を進めようとしたことは無謀だった。

・インド・ゴアを出発したのが1554年4月、シンガポ-ル付近でアルメイダに救出されたのが1555年4月以降だから、出発から既に1年を経過している。ザビエルであればその区間は、およそ1カ月半で航行していた。バレト一行は、一体何をしていたのか。難破・襲撃に遭ったという事情があるとしても、その行動は不透明である。

・バレトはザビエルの遺志を引き継いで、広州のポルトガル人虜囚解放交渉に乗り出したが、解放できたのは僅かな人数に限られ、その効果に比較すると費用など代償が大き過ぎた。

周囲の忠告を聴き入れず、無理な渡航を強行し、しかも、日本ではなすところなくインドに戻り、会に多大な損失をかけたバレトの責任は重い。

・広州の虜囚解放と日本渡航を抱き合わせで決行するという無理な計画のために、膨大な資金を要し、そのために、聖職者としての教育を全く受けておらず、かつ素養のない私的海商の一人メンデス・ピントを修道士として会に引き入れたことは無定見の極みである。




南蛮医アルメイダは、現代のマザ-・テレサの男版のように語られることがあるようですが、実際はどうだったのか、次回はその辺の観点から彼の生涯全般について考えてみたいと思います。


〈つづく〉



[参考図書]

商人と宣教師 南蛮貿易の世界              岡 美穂子著 東京大学出版会
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯-  ディエゴ・パチェコ著   中央出版社
南蛮医アルメイダ ○戦国日本を生き抜いたポルトガル人   東野利夫著     柏書房








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Commented by 迎田恒成 at 2015-11-28 15:53 x
次回も楽しみにしております。
Commented by GFauree at 2015-11-29 04:56
迎田さん、コメント有難うございます。自己満足のために書いているつもりでも、読んで頂ければ、それに優る励みはありません。これからも、宜しくお願い致します。
by GFauree | 2015-11-28 14:39 | ルイス・デ・アルメイダ | Comments(2)