人気ブログランキング | 話題のタグを見る

“生ける車輪”南蛮医アルメイダの実像 [その5]

“生ける車輪”南蛮医アルメイダの実像 [その5]_a0326062_13402726.jpg



1.お金の話


ともに商人出身のポルトガル人でイエズス会士となった、ルイス・デ・アルメイダとメンデス・ピントに関する記録には、なにかとお金の話が出て来ます。ところが、それらが今の貨幣価値にしてどのくらいの金額に相当するのか、について参考程度の材料は提供されるのですが、どの本にも「ずばり、いくら」とは書いてありません。そこで、私なりにそれを推測してみることにしました。

二人のお金に関する話は、以下のようなものです。

アルメイダ

(1)自ら持てる私財のほとんどを豊後の住院に投じた。その額は、ポルトガル貨幣で4千クルサドとも5千クルサドとも言われている。
(2)豊後で、世俗から引き籠もって精神修養をしていたときに、「子供の間引き」のことを聞いて心を動かし、1千クルサドをそのために提供した。
(3)バレト一行が日本へ到着しないのを知り、豊後からバレトに対し手紙と渡航費用2千クルサドを知人ヌ-ノ・アルヴァレスに託した。

ピント

(1)商人として日本に滞在していた頃、山口に修院を建てるための費用3百クルサドをザビエルに貸した。
(2)ゴアでイエズス会への入会を決意した時点で、7千ドゥカド(クルサド)の財産があり、そのうち2千ドゥカドを本国の家族に送り、残りをイエズス会に寄進した。


東野利夫著「南蛮医アルメイダ」(p.45)には、以下の記載があります。

「高瀬弘一郎氏の研究によれば、1クルサドは約400レイス、25レイスが約1文とされている。アルメイダが府内病院に私財を投じた弘治三年(1557年)頃には、米一石(約60キログラム)が1、600文したと考えられる。当時、庶民の口に入らなかった米の値段は、現在の数十倍以上であった。」

まず、現在、一般的な家庭で食べられている米は(インタ-ネットで見てみると)、10キログラムで4、000円前後です。
当時の、米の値段は、現在の数十倍であるとされていますが、思い切って百倍とします。
すると、米一石(約60キログラム)は、4、000円×60/10×100倍=240万円

これが、1,600文に相当したのですから、240万円÷1、600文=1,500円(1文)
1文は25レイスに相当したということですから、1,500円÷25レイス=60円(1レイス)
1クルサドは、400レイスですから、60円×400レイス=2万4千円(1クルサド)となります。

すると、アルメイダとピントがイエズス会入会時に5千クルサド(ドゥカド)を寄捨したと言われていますが、それは、2万4千円×5千クルサド=1億2千万円、ということになります。
ところがこの計算では、イエズス会入会時ピントが持っていた7千ドゥカドは1億6千8百万円にしかならないのです。

修道士ブランダオンの書簡によると、ピントは「インドで最も金を蓄えた者の一人である」とのことですから、この評価は低すぎます。少なくとも、一桁違うようです。そこで、確かな根拠はありませんが、7千ドゥカドは16億8千万円、5千ドゥカドは12億円(つまり、1ドゥカド=24万円)としてみると、何だかしっくり来ます。

ザビエルがピントから借りた山口の修院建設費用300ドゥカドも、この計算なら、7千2百万円になりますから、まあ妥当なところではないでしょうか。

結局、今の貨幣価値にしてどのくらいの金額になるのかという問いに対する明確な答えは出て来ませんでした。私たちの持っている感覚的な貨幣価値というのは、実はとても複雑な要素で構成されているものなのではないかということを改めて思います。色々な本で感覚的な貨幣価値にまでは踏み込まない理由はそういうことなのでしょう。



2.アルメイダの医療活動をめぐって



(1)「医療禁令」について



[その1]で、東野利夫著「南蛮医アルメイダ」には、次の事柄が書かれている旨記しました。

それは、1558年イエズス会本部で行われた「最高宗門会議」で決議された「医療禁令」の通達が1560年7月届けられたことと、この「医療禁令」によって、アルメイダはじめイエズス会士たちが府内病院から手を引いたため、病院が次第に衰退していったことです。


私は、「最高宗門会議」という名称を始めとして、この「医療禁令」に関する諸事情の説明に疑問を感じて、その旨[その1]に書きました。ところが、その後偶然に、ある論文にその間の事情が書かれてあるのを見つけました。

それは、遠藤周作の小説『沈黙』にも登場する著名な背教者について書かれた、フ-ベルト・チ-スリク氏の「クリストヴァン・フェレイラの研究」(キリシタン研究 第二十六輯)です。そこに、以下の様に書かれています。


「トレント公会議での聖職者に課された禁止令によって、聖職者は正式な医療活動を行うことができなくなった。(ただ、元来、)中世以降、司祭や修道者は医術を学び行うことが禁じられ、『聖職者は、法律も医学も学ぶべからず』とされていたのだ。

トレント公会議がこの禁止令を新たに強調するようになった結果、1559年に発布されたイエズス会の会憲は、イエズス会のコレジオで医学を教えることを禁じ、もしくは医学部の講義をイエズス会士でない教師に一任することになった。

その結果、アルメイダによって始められた内科や外科の伝統は、イエズス会の中で中断された。


これによれば、「医療禁令」は私が勝手に憶測したように誰かが自分の都合で捏造したというようなものでなく、カトリック教会全体の問題として考えられ、トレント公会議の場で結論が出され、それに沿ってイエズス会内の会憲に定められとものであるとのことです。

[その1]で書きましたように、「聖職者は、現世での肉体の生死に関わる医療行為を行うべきでない」という、理屈は一応、筋は通っているとは思います。でも、その理屈によって、折角四百年以上前に、本格的に取り組まれようとした社会的救済事業の芽を、カトリック教会もイエズス会も摘んでしまったということになります。ただ、これがカトリック教会だけの問題ではないことは、仏教の僧侶の方から伺いました。宗派によっては、僧侶の医療行為が抑制されてきた、ということがあるそうです。



(2)アルメイダの病院についての、もう一つの問題



ディエゴ・パチェコ著「長崎を開いた人」には、アルメイダの病院と豊後(大分)での布教活動について、記述があります。その要旨は以下のようなものです。

「豊後では、貴人や武士などの上層階級には、キリスト教が浸透していないという問題があった。そして、その原因は下層階級を対象にしたアルメイダ病院にある(下層階級向けの病院が脚光を浴びた結果、キリスト教が下層階級のためのものであるとの印象を広めてしまった)、と言われてきた。

しかし、アルメイダの病院建設前から、上層階級はキリスト教に近付かなかったのだから、原因は他にある。筆者(パチェコ氏)は、その原因は政治的事情によるものだと考えている。

不安定な政治状況が続く中で、人々は極度の緊張の中に暮し、そのために、大名の権威はますます損なわれ、更に不安定さが増大するという悪循環に陥っていたのである。」


この記述の中には、豊後の上層階級への布教が成功しないことの原因を、アルメイダの病院のせいにする発言を、いつ・だれがしたのかが書かれていないために、この部分を書いた筆者の真意が若干不鮮明です。

そこで、私の推測ですが、豊後の布教が不成功であり、その原因がアルメイダの病院にあったとする見解が日本のイエズス会内部にあったためにこういう書き方がされたのではないか、ということです。そして、もしそうであれば、アルメイダの病院による社会事業への本格的取り組みは、トレント公会議の決定やそれに沿ったイエズス会本部による会憲の変更などがなくても、日本のイエズス会自身によって、いずれ阻止される運命にあったのではないか、ということです。


〈ヴァリニャ-ノの考えた「慈善病院」〉


ルイス・デ・アルメイダが死去した1583年、イエズス会巡察師として、日本のキリシタン教会を監督・指導する立場にあったアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、日本の諸事情に関する報告書を作成しています。その報告書「日本諸事要録」の第三十章は「費用があれば、日本に設置すべき公益質屋、並びに慈善病院」と題されています。


この事業は、今日吾人は日本で名声と信頼を博しているので、かつて豊後において吾人がまったく信頼されていなかった当時、初めて行われた際よりも、さらに大いなる効果を挙げることであろう。

この他に今設立する病院には、別の経営方法のものが必要である。この種の病院も、キリスト教徒以外は収容しないか、日本で嫌悪される癩患者ではなく、他に救済方法がない、貴人だけを収容する。なぜならば、あらゆる階級の者を救うことができずに下層の者だけを収容していると、慈善病院やそこで働く人々の評判が落ちるからである。この際には、収容された貴人を鄭重に扱い、清潔を保ち、楽しく過ごせるようにする。

(日本巡察記 ヴァリニャ-ノ 東洋文庫229 平凡社 「日本諸事要録」より) 


ヴァリニャ-ノが言いたかったことは、

名声を得ていなかった時期にあれだけの効果をあげたのだから、現在であればこの(病院)事業にさらなる実績が期待できる。
ただし、経営方法は変える必要がある。対象は日本で嫌われる病の患者ではなく、他に救済方法のない身分の高い者に限り、手厚く看護すべし。下層の者を対象とすると、病院と従事者の格式が落ちてしまう。ということでしょう。

効果重視および組織の格式維持・向上の観点からの、やや冷淡とも言える見事な官僚的見解です。つくづく、抜け目のない人だなと感じます。でも、こういう人が、人々が魂の救いを求めて集まる教会の監督・指導の責任を負っていたということは、どういうことなんでしょうか。ただ、この人が所属していた組織が神聖なものなどではなく、極めて人間的なものだったということは言えるでしょう。



3.アルメイダはプロクラド-ルの先駆者



キリシタン教会の主たる財源は、貿易という商業活動の収益でした。この教会の商業活動を担ったのが、イエズス会内のプロクラド-ルと呼ばれる財務担当者です。

〈財務担当者でないプロクラド-ルもいた〉

ただ、このプロクラド-ルという名称ですが、同じイエズス会内でも場合によって、必ずしも財務担当者を意味したものではなかったようです。1637年、ブラジルの奥地探検隊(バンデイランテ)に襲われていたタペ地方(現在のブラジル領リオ・グランド・スル州)の先住民教化村の窮状を訴えるために、現地のイエズス会は、二人の特使を、それぞれマドリ-ド宮廷とローマ法王庁に派遣しています。この特使プロクラド-ルと呼ばれているのです。

西和辞典では、プロクラド-ルの訳語は代理人・財務管理者(司祭)とされています。先住民教化村の特使は現地イエズス会の代理人(代表者)として、プロクラド-ルと呼ばれたのでは、と思います。

日本イエズス会のプロクラド-ルは、その経済活動のために、マドリ-ド・リスボン・ゴア・マラッカ・マカオ・長崎に配置されました。判明している限りで、最も古い時期の長崎のプロクラド-ルは、ミゲル・ヴァスという人物です。彼は、1563年の入会直後、イルマン(修道士)であった時から、1582年に死亡するまでの19年間、プロクラド-ルを勤めたと考えられています。


〈偉くなったプロクラド-ル〉



当初、ミゲル・ヴァスのように、プロクラド-ル職には、イルマン(修道士)が任ぜられていましたが、1600年頃から、高度な政治的及び経済的手腕が要求される重要な地位であるとして、最高の職階である盛式四誓願司祭(パードレ)が任ぜられるようになりました。つまり、プロクラド-ルの教会内における地位が著しく向上したということです。と書くと簡単なことのようですが、実際は結構大変なことなのです。

まず、その仕事を取り巻く環境が変化したということを意味します。キリシタン教会で言えば、布教が成功し組織が拡大することによって、ますます財源確保の重要性が増していったということでしょう。そして、その必要性に応えるべく財務担当者にはより高度な知識・経験が要求され、また歴代のプロクラド-ル達は、かなりの努力を注いでその要求に応え、ついにその地位向上が組織の中で認められたということなのです。

現代の企業においても、同様なことが起きていることをご承知の方は少なくないでしょう。従来は、日の当たらなかったポストが環境の変化や担当者の能力・努力で実績が上がったりして重要度を増し、次からはエリ-トが就くポストに成ったりするのです。(「それこそ、冥利に尽きることだ」と嬉しそうに言っていた人が私の身近にもいました。)


〈プロクラド-ルの仕事〉


[その2]でご紹介した、岡美穂子著「商人と宣教師」には、(通辞)ロドリゲスの「日本プロクラド-ル覚書」(第七章)全訳が附録(「附録」とは、懐かしい言葉ですね。その言葉を聞いただけで、得をした気がします。)として付いています。

その「覚書」の内容は、まるで現代企業の業務マニュアルです。業務マニュアルというものは、実は失敗の経験の集積であることを、私は自分の苦い経験を通じて教えられましたが、この「覚書」がまさにそうです。日常の心構えから具体的な取引の方法や注意事項まで書かれたこの「覚書」を読むとプロクラド-ルの生活までがイメ-ジできるような気がします。


ところで、ルイス・デ・アルメイダは、1555年頃、4千~5千ドゥカドの私財を持って、イエズス会に入会し、このかねを資金に交易に乗り出したと言われています。従って、アルメイダは、最初に日本のキリシタン教会の商業活動を担った、いわば「プロクラド-ルの先駆者」と言えるでしょう。

その後、この商業活動は順調に発展し、1550年代・60年代・70年代には、イエズス会は、その商業収入で日本での必要経費をすべて賄った上に、なお莫大な余剰が生じ、これを蓄積して、1560年代後半から70年代にかけて、インドに1万8千ドゥカドを送金し、そこに土地を購入したということです。


〈アルメイダは財務担当者として、何ができたか〉


上記のプロクラド-ルの業務内容は、その先駆者であるアルメイダが、イエズス会の財務担当者として、(おそらくは、)ポルトガル船貿易にどのように関わったかを推測するための材料を提供してくれるものと考えられます。

けれども、長崎が1571年に開港し、1580年にはイエズス会に寄進され教会領となった一方で、マカオも1570年出資組合「アルマサン」が作られるなど、ポルトガル船貿易に関わる制度やイエズス会の関わり方が変化していった筈ですから、プロクラド-ルの役割も変わって行ったことでしょう。従って、日本への布教が開始されて間もない時期のアルメイダが、どこまでポルトガル船貿易に関わっていたかは、定かではありません。

そこで、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」(p.89)の「当時、日本人が海外貿易により所得を得た方法」として挙げられているものを参考に、アルメイダの行動を推定してみました。すると、以下の行動が思い浮かびます。

1.日本に入港した船の商品が日本側の商人に売り渡される際の、価格・条件等の交渉に介入する。(売り手・買い手から手数料を徴収する)
2.日本に入港した船の商品を自分で買い取り、国内の業者に販売する。
3.渡航船に出資して金利を得る。(貿易資金を融資する)
4.商品の仕入れ・輸送・販売等を他人に委託する。(銀を託して、中国での商品の仕入と日本への輸送を依頼する)

これらを、アルメイダが実際にどこまで行っていたかは、分りませんが、彼はイエズス会入会前の貿易商としての経験から相当のノウハウは持っていたでしょうから、可能性としてはかなりの範囲のことが行えたと考えられます。



4.アルメイダの生涯全般について感じること・考えること



(1)
まず感じることは、450年以上も前に医療に関する確かな知識・技術に基いて社会事業を積極的かつ建設的に展開しようとした貴重な人物であるにも拘わらず、何故か記録が希薄です。以下、私なりにその理由を考えてみました。

・新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)家系の出身であることがどう影響していたのかとか、医師の免許を取得したのになぜポルトガルを出国したのか、とかは推測してもあまり意味がなさそうなので、今回は考えないことにします。

・孤児院、病院、医学教育等、社会事業活動を禁じたことについては、カトリック教会の最高議決機関である公会議の決定に沿ったものであったとはいえ、会憲を変更し社会奉仕活動の芽を摘んだことを、後世においては出来るだけ明るみに出したくないと考えられてきた可能性はあると思います。

・彼が財務担当者として能力を発揮したことについては、キリシタン教会が商業活動によって支えられたものであったことを認めないのであれば、当然開示すべきでないと考えられていると思われます。

・フランシスコ・カブラル布教長が着任したあたりから約3年間の彼の足取りが消えていることについて、
一つの可能性は、言うまでもなく、上司カブラル布教長と活動方針が合わず幽閉状態で反省させられていたことが考えられます。現代の企業みたいな話ですが、そういう例は、他にもあります。

もう一つの可能性に関しては、ディエゴ・パチェコ著「長崎を開いた人」によると、該当する期間の報告に長崎開港に関する交渉経緯が書かれていたはずだ、ということです。ということは、その交渉経緯に明るみに出せない部分があるために、諸報告が隠蔽または廃棄されてしまったのではないかということです。

・28年間にわたる日本での滞在期間のうち、病院関係事業に従事していたのは僅か5年程度で、残りの20年以上は布教活動に従事していたことになります。ところが、その布教活動の内容についてはあまり言及されることはありません。

その理由は、彼の布教活動というのは、単に説教して洗礼を授けてなどというものでなかったからではないか、と私は考えています。彼の布教活動とは、教会に友好的な大名と軍事援助の相談をしたり、友好的な大名に少しでも有利に戦争調停を行ったり、友好的な大名に他の武将が加勢するように取り計らったり、友好的な大名同士が戦わないように調停をしたりすることを含んでいたと言うより、それが主だったのではないでしょうか。

それは、戦国時代最盛期の九州で布教を進めるには、必要な事だったのでしょう。しかし、或る面で、彼の行動は布教に戦争状態を利用したと言われかねないものです。そのため、後年その内容には極力触れないような努力が払われてきたのではないか、と私は考えます。



(2)
アルメイダは1555年に入会し修道士になってから25年後の1580年にやっと司祭になっています。何という処遇でしょうか。司祭になるためには、ラテン語の素養は必要ですし、哲学や神学のある程度の学力も必要なようです。彼の場合は、入会前からラテン語は堪能だったようですし、医師免許を持っていたぐらいですから、一般的な学力も相応にあったでしょう。そんな自分がこのような処遇をされていることに、彼は怒らなかったのでしょうか。

彼ほど、社会的影響力を駆使した布教を行った宣教師はいなかったのではないかと私は思います。孤児院・病院の開設・運営、医療従事者の(医学)教育によって、社会事業という面で歴史的な業績を残しています。商業活動によって組織にもたらした経済的貢献は、明らかにその後のキリシタン教会の発展を支えています。軍事援助・紛争調停などで発揮した政治力は、布教面でも確かに有効なものだったのでしょう。

そこで、私が思いついたことは、彼はこの凄まじいばかりの活動の連続を、意外と楽しんでいたのではないか、ということです。そして思い出したのが、東野利夫著「南蛮医アルメイダ」に書かれてある、南蛮医に関する伝承です。

平戸の北にある小島、度島(たくしま)には次のような伝承があるそうです。
「むかし、南蛮の薬師(くすし-医者)がここに来たげな。あっけらかんとした人で、足ば投げ出し長ギセルのようなものを吸うて、ひょうきんんなことば言うたりして、病人ば看てやっとげな。村のもんたちあ気楽に看てもらいよったとげな」



(3)
考えてみれば、アルメイダが宣教師としておこなった、社会事業的活動、経済的活動、政治的活動のそのどれにも彼が前歴で培った技術・知識・経験が存分に活かされているようです。そもそも、宣教師であることにも、おそらくは母国で学んだラテン語が役立っていたことでしょう。

前回[その4]で、私は、ある程度の決して楽ではない人生経験を積んだ人(大抵の人がそうだと思いますが)にとって、一番嬉しいことは、自分の決して楽ではなかった経験が価値のあることだと思うことが出来て、かつ、これからその経験を存分に活かすことができると確信できることではないかと思うと、書きました。

アルメイダが、相当の教養を身につけるような教育を受け、医師免許まで取りながら何故祖国を離れなければならなかったは分りませんが、そこに楽ではない事情があったことは間違いないでしょう。そういう厳しい背景を背負いながら、貿易商の世界に飛び込み遭難の危険と背中合わせの生活を送りながら、商売のノウハウや交渉の技術を習得していったことが想像できます。

私は、アルメイダにとって、過去の厳しい経験の中で身につけたあらゆる知識・ノウハウを生かせる宣教師としての生活が楽しくて仕方がなかったのではないかと思うのです。そんな彼にとっては、3年間ぐらい謹慎処分を受けようが、25年間も修道士の身分に塩漬けされようがどうということは、なかったのではないでしょうか。

そう考えると、上に書きました度島の伝承は、本当に、アルメイダのことだったのかも知れないと思えてきます。



(4)
そういうアルメイダの努力がようやく組織の中で認められたように見えるのが、他界する3年前にやっと司祭に叙階されたことです。それも、あの官僚的な巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが言い出したらしいというところが、感動的です。

しかし、アルメイダがマカオで叙階式を終え、晴れて司祭として長崎に戻って来たとき、同時に大量の武器弾薬と食糧を積んだ多数のマカオからのジャンク船が、口之津港に入ったそうです。当時、「キリシタン大名」である有馬氏の領地を攻略していた龍造寺隆信は、この武器弾薬を使用する有馬の軍勢によって領外へ駆逐されたということです。

マカオからジャンク船で運ばれてきたものが、長年にわたるアルメイダの献身的な布教活動の内容と、「すべてはより大いなる神の栄光のために」という彼が所属した組織の創設目的を、象徴しているようです。





[完]




[参考図書]

南蛮医アルメイダ ◎戦国日本を生きぬいたポルトガル人 東野利夫著       柏書房
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯-パチェコ・ディエゴ著     中央出版社
商人と宣教師 南蛮貿易の世界            岡 美穂子著   東京大学出版会        
「クリストヴァン・フェレイラの研究」  フ-ベルト・チ-スリク著 キリシタン研究第二十六輯 吉川弘文館
日本巡察記  「日本諸事要録」       ヴァリニャ-ノ著 東洋文庫229 平凡社
幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折       伊藤滋子著         同成社
キリシタンの世紀 ザビエル渡日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著        岩波書店
教会領長崎 イエズス会と日本           安野眞幸著    講談社選書メチエ
キリシタン時代の研究 第六章キリシタン教会の財務担当パ-ドレ 高瀬弘一郎著 岩波書店
イエズス会の世界戦略               高橋裕史著    講談社選書メチエ
































by GFauree | 2015-12-11 03:55 | 南蛮医アルメイダ | Comments(0)  

名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

<< 日本語教室の遠足 “生ける車輪”南蛮医アルメイダ... >>