ペル-・イエズス会士二人の遥かな旅路 [その1]

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                                           マカオ・聖パウロ天主堂跡 前面壁の彫刻




およそ1年前、「ペル-から、パナマ・マカオ経由日本へ行き、秀吉に会った男がいた?」という記事を2回にわたって書きました。

http://iwahanjiro.exblog.jp/20646027/
http://iwahanjiro.exblog.jp/20683315/

それは、中国製品を買い付けるために、ペル-(現在のボリビア・ポトシ)の銀を積んでパナマからマカオに向けて航行した船を率いた、スペイン出身の「ペル-商人」フアン・デ・ソリスという男の話です。

繰り返しになりますが、マカオに着いたフアン・デ・ソリスの船は、東西インド間(当時、マカオはポルトガル領東インド、ペル-はスペイン領西インドに属していました)の直接取引を禁じた王室勅令によって差し押さえられ、船も積んできた銀も取り上げられ、乗組員はインドのゴアに送られました。

ところが、このようにマカオの当局に差し押さえられ、船も積んで来た銀も取り上げられたのは、上記の記事にも書きましたが、フアン・デ・ソリスの船だけではなかったのです。


[他にも、ペル-からマカオへ銀を積んでいった船があった]

1591年、スペイン領ペル-から20万ドゥカド以上の銀を積んだスペイン船がマカオに来航しているのです。

20万ドゥカドという金額ですが、当時20~30万人の信者を抱えていたと言われるキリシタン教会の年間経費の約20倍にあたります。

また、前々回のルイス・デ・アルメイダとメンデス・ピントに関する記事(http://iwahanjiro.exblog.jp/21914656/)の中で、「インドで最も金を蓄えた者の一人である」とされたピントのイエズス会入会時の個人資産7千ドゥカドは、現在の貨幣価値にして17億円ぐらいになるのではないかと推定しました。

1590年はそれから約35年後ですが、20万ドゥカドは7千ドゥカドの30倍ですから、500億円ということになります。少し過大な推定かも知れませんが、いずれにしても、20万ドゥカドが莫大な金額であったことは確かでしょう。


[多難な航海]

マカオは、香港の南西約70kmの位置にあって、歴史的建造物とカジノで有名な観光地ですので、ご存知の方は少なくないのではと思います。

私は約30年前、出張で4回も香港へ行ったのですが、当時はこういう方面の興味も知識も全くありませんでしたので、マカオ見物など思い付きもしませんでした。もっとも、自分の至らなさで気の狂うようなだけの仕事をさせられていましたので、たとえ見物を思い付いたとしても、それを実行する気持ちの余裕など全くなかったのですが。


マカオまでペル-のリマから、直線距離でも約1万8千kmあります。東京・大阪間の距離が約4百kmですから、リマ・マカオ間はその45倍の距離です。4百年以上前のことですから、船の大きさもたかが知れています。そのうえ、潮の流れと風力以外にその船を運ぶ動力はありません。

莫大な価値の銀を積載した、その小さなペル-船は、気の遠くなるような膨大な距離を風と潮の流れだけを頼りに、広大な太平洋の荒波に揉まれながら、常に遭難の危険と背中合わせの、一度も陸地に着くことのない航海を続けたことになります。

この船の経緯については、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」(岩波書店)p.84~85に簡潔に説明されていますので、その内容を以下に書き出してみます。


[ペル-船のマカオ来航の経緯]

1.このペル-からマカオに直行した船の、航海の目的は「武器製造の資材である銅を求める」こととされていた。
2.船には、イエズス会士であるレアンドロ神父とベルモンテ修道士が乗っており、この二人には、諸取引の執行と管理まで委ねられていた。
3.本来なら、この船の積載銀は全てマカオ当局に没収されるところであったが、マカオのイエズス会施設(カ-ザ)を利用してその半分は没収を免れた。
4.日本イエズス会は、このカ-ザに預けられた銀のうち、6万ドゥカドほどをレアンドロから借り入れ、生糸・金・真珠を仕入れてインド・ゴアに輸出して売却し、利益率50パーセントの所得を上げた。
5.この時の臨時収入は、日本・中国向け聖職者養成を目的としてマカオに設置したコレジオの経費に充てられた。


さて、このペル-船が積載してきた銀に係わる処理やインド向け輸出などを巡っては、インドやマカオのポルトガル人社会やイエズス会内部にも様々な波紋を引き起こしたようです。


[このペル-船が引き起こした波紋]


その詳しい内容は、高瀬弘一郎著「キリシタン時代対外関係の研究」(吉川弘文館)第三章 キリシタン教会の貿易活動-マカオ=長崎間以外の貿易について-、に説明されています。

そこには、東インド巡察師として、日本のキリシタン布教に尽力したアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノとインド管区長フランシスコ・カブラルの各々からイエズス会総会長へ送られた諸報告の内容を通して、イエズス会内部でどのような議論があったのかが示されています。

フランシスコ・カブラルと言えば、ザビエルと共に来日し日本へのキリスト教布教を開始したコスメ・デ・ト-レスの後任者として、1570年から日本のキリシタン教会の布教長を勤めたものの、布教方針を巡って巡察師ヴァリニャ-ノと対立し、1580年自ら解職を申し出たとされている人物です。

従って、教会の経済活動に対する二人の考えも全く異なりますから、当然、各々が総会長に対する報告の中で述べている事実関係も一致しません。

その相違点を網羅しようとすれば、諸報告の内容を全て挙げなければならない程ですので、詳細については上記「キリシタン時代対外関係の研究」を参照して頂きたいと思います。そこで、ここでは両者の報告内容のうち「ペル-船及びそれに関連するインド貿易」に関する主要な相違点だけを挙げておきたいと思います。

それは、次の2点です。

1.カブラルが、「1593年以来、マカオからインド(コチン・ゴア)への輸出が日本イエズス会によって行われ、それがゴア市において大きな不満・非難・混乱を起こしていることが副王に知られてしまった」としているのに対し、
ヴァリニャ-ノは、「1592年、マカオ=日本の定航船が欠航したために日本向けに仕入れた生糸と金をインドに送らせたことは、あった(が、それ以外に日本イエズス会としてのインド貿易は行っていない)」としていること。

2.カブラルが、「日本イエズス会は、マカオのイエズス会カ-ザに預けられていたペル-商人のかねを、レアンドロから借り入れ、5万パルダオずつ2年にわたり商品を仕入れ、インド・ゴアへ輸出した。ゴアにおいて、輸入された商品の販売代金のうちから、10万パルダオはレアンドロに返済され、残りの利益金はイエズス会の収入とされた。なお、レアンドロはこのかねを本国にいるそのかねの持ち主の人々に手形で送った。」としているのに対し、

ヴァリニャ-ノは、「レアンドロは、マカオでイエズス会カ-ザに保管されているかねが、(インド)副王によって没収されるのを免れるため、ゴアにおいて日本教会名義のかねを受け取る一方、マカオにあるかねから、それだけの額を支払う旨の手形を振り出した。レアンドロはその金を、商人を介してポルトガルに送り、その所有主に返した。」としていること。

つまり、カブラルは「日本イエズス会は、マカオでペル-船のかねを借り入れ、インド向けの輸出をして、ゴアでレアンドロに返済することによって、レアンドロの本国への返金を可能にするとともに、自らも利益を上げた」としているのに対し、
ヴァリニャ-ノは「マカオにある金をレアンドロがゴアで受け取れるよう便宜を図っただけだ。」としているのです。

なぜ、これほど主張が食い違っているのかといえば、それは「キリシタン教会の商業活動として公認されていたのは、マカオ=長崎間の生糸貿易のみであった」からです。

カブラルは、ここ数年来、ヴァリニャ-ノ率いる日本イエズス会が公認されていないインド貿易を行っており、さらにペル-船のかねをマカオからゴアへ移動する機会を利用してインド向け輸出を行ったと主張し、ヴァリニャ-ノはそれを否定しているのです。


[宗教団体の経済活動は単純には割り切れない]


ザビエルの日本への布教開始の経緯を見て、私が改めて気付かせられたことは、布教活動というものは実にお金のかかるものだということです。ですが、考えてみれば宗教団体と言っても社会的存在なのですから、その活動にお金がかかることは当然のことです。

また、ある宗教団体の活動を支える経済基盤と経済活動をみれば、その組織の性格はある程度解るのではないかとも思います。

ただ、その経済基盤と活動の是非は、とても複雑で容易に答えの出る問題ではありません。そこで、今回はその問題は措いておくことにして、「銀を積載したペル-船のマカオ来航の経緯」と「カブラル・ヴァリニャ-ノの報告」に関し、私が気付いたことと、考えたことを、書いてみるに留めることにします。


[気付いたこと]


1.あの時代の海外送金の方法


ペル-・イエズス会のレアンドロ神父は、マカオからインドのゴアに送られそこに滞在していましたが、マカオのイエズス会施設に預けたかねをゴアにもって来る必要に迫られていました。ペル-で船に積んだ銀を出資した人たちに、たとえ全額でなくても可及的速やかに返済するためです。元々、こういう緊急時の対応を出資者から指示されていたのかも知れません。

マカオからゴアにかねをもって来る二つの方法を、カブラルとヴァリニャ-ノは総会長宛てのそれぞれの報告に書いています。

(1)カブラル(が日本イエズス会によってなされたと主張している)方式

・在マカオの日本イエズス会がマカオ施設に預かっている(レアンドロ名義の)かねを借りる。
・その資金で輸出商品を仕入れ、インドへ送る。
・日本イエズス会の代理人はインドへ到着した商品を販売しその代金を受け取る。
・受け取った代金から、ゴアでレアンドロに返済し、残りを利益として留保する。
・レアンドロは受け取ったかねを、リスボン経由本国(ペル-)へ送る。

(カブラルが日本イエズス会が行ったと主張する行動は、まさに輸出業者の行動で、輸出商品の仕入れのために借入をして、輸出販売代金で返済するということは、現在でも行われています。金融機関からみたそのための貸付は、「輸出前貸し」と呼ばれる一般的な取引です。)

(2)ヴァリニャ-ノ方式

・先ず、ゴアにおいて、日本イエズス会はレアンドロに、彼がマカオ施設に預けているかねのうち、引き出す必要のある額をわたす。
・レアンドロは、マカオ施設に預けているかねから、受け取るかねと同額を引き落とすための手形を日本イエズス会に渡す。
・レアンドロは(1)と同様に本国へかねをおくる。


このように、書き出してみるとカブラル方式もヴァリニャ-ノ方式も、要するにイエズス会マカオ施設に預かったかねを引き落とし、ゴアに送る方法である点で同じことです。ただ、カブラル方式は、かねが一旦、輸出商品に変わり、また後でかねに戻ります。

ヴァリニャ-ノ方式は、プロセスが単純ですっきりしていますが、これでは日本イエズス会にメリットが発生する余地がありません。これに対して、カブラル(が、なされたと主張する)方式では、日本イエズス会にメリットが落ちます。それを考えると、実際には、どちらの方式が実行されたかが想像できます。

いずれにしても、これは、現在のように銀行を利用するということが一般的ではなかった四百年以上前に、金や銀の現物をやり取りする以外にどういう形で海外送金や国際間の資金決済を行うことができたのか、を示す興味深い事例だと思います。


2.手形も使われていた

カブラルは「レアンドロが、かねを、本国にいるそのかねの持ち主たちに手形で送った。」、ヴァリニャ-ノは「レアンドロが、マカオにあるかねから、支払う旨の手形を振り出した。」と書いています。

カブラルの記載については、「レアンドロが、ゴアでイエズス会と取引のある両替商(シャラフォ)にかねを渡し送金を依頼するとともに、その両替商が指定する者を支払人とする手形(書面)を受取人に送った」という意味だろうと思われます。

また、ヴァリニャ-ノの書いている「手形」は、もっと単純なものでマカオのイエズス会施設にある預け金口座に対して振り出された小切手と考えればよいのでしょう。


以上1、2から、手形・小切手の振り出しや海外送金などの国際間資金決済の手法や資金調達・運用などのノウハウを、財務担当者(プロクラド-ル)を中心に当時のイエズス会が組織として、既に充分蓄積していたことが推察されます。そして、それらの金融的な手法を駆使出来たことが、世界的な事業展開をさらに有利に進める要因となったのではないか、と私は考えます。


[考えたこと]


1.なんと厳しい人事


このペル-船と、それが積んできた銀のマカオでの処理をめぐって行われた議論に、ヴァリニャ-ノとともに、カブラルの名前が出てきたのを見て、私は感心してしまいました。

それは、イエズス会内において、なんと厳しい人事が行われていたのだろう、ということです。

カブラルは、布教方針を巡って、日本の布教長の職からの解任を自ら申し出たと言われていますが、実質はヴァリニャ-ノによって解任されたということでしょう。その人物が、巡察師としてヴァリニャ-ノが監督・指導すべき最大の教区の最高責任者である管区長の地位に就いているのです。

カブラルにとっては、悉く厳しく管理されることを、ヴァリニャ-ノとっては、常に自分が与える指示に抵抗されることを、覚悟しなければならなかっただろうと思います。これは、上司・部下双方にとって、たいへん厳しい人事です。

このような人事が行われるということは、本部の中で、それぞれの考え方を支持する勢力が拮抗していたということを意味しているのかも知れません。

ともかく、ペル-船に関するそれぞれの総会長への諸報告を読むと、結果として二人は本部の狙い通り、相互監視と牽制の機能を見事に果たしていたように見えます。息苦しい話です。

さらに、この組織の厳しさは、銀を満載したペル-船に乗ってきた二人の聖職者に対しても、容赦なく発揮されたように見えます。それは、次回お話します。


2.どうしてヴァリニャ-ノは、あんなにも大胆だったか


それにしても、もしヴァリニャ-ノが、カブラルの主張している通りの行動をとっていたとしたら、彼はポルトガル(スペイン)王室の現地出先機関のトップである副王や、教区教会のトップである大司教、イエズス会現地トップである管区長を敵に回していたことになります。

私は、そんな大胆な行動がよくとれたものだと思ったのですが、そのうち、そんな行動がとれた理由として、いくつか思いあたることが浮かんできました。


〈ヴァリニャ-ノが大胆だった理由〉


第一に
、カブラルはひたすら、王室の出先である副王の意向を気にかけていたようですが、ヴァリニャ-ノは、場合によっては副王の意向などは無視しても構わないと考えていたのではないか、ということです。

そこで、思い出すのは、ザビエルが、マラッカ長官アタイ-デの妨害に抗して中国行を決行したことです。私は、それを、場合によっては国王権力と教会による「教俗一体」の海外事業展開の原則を逸脱しても、主導権を握ってより強力に布教を推進するとの考え方にイエズス会が至ったことの現れと考えました。ヴァリニャ-ノもこの考え方に従っていたということではないかと思うのです。

第二に、ヴァリニャ-ノは、このペル-船は、ペル-副王が中国製品を買い入れる商売のために送って来たもので、大砲製造のための銅を求めるためというのは口実であることを知っていました。


1591年10月27日付長崎発、総会長宛て書簡に次のように記しています。

・レアンドロ神父とベルモンテ修道士は、ペル-副王の求めに応じて、(イエズス会)ペル-管区長によって派遣されてきた。
・ペル-副王は、有利な取引を行わせるために、レアンドロ神父を送ってきた。また、大砲を鋳造するための銅を調達するというのは口実で、20万ドゥカド以上のかねは、シナで商取引をするためのものだった。
・この船がマカオに到来することは、(シナから買い入れる商品の価格を上昇させ)ポルトガル人の利益を損なうため、イエズス会に対する反感を招いた。
・従って、ペル-、ヌエバ・エスパ-ニャの管区長、さらにルソンの院長に対し、(今後は)各地の副王からいかに求められても、決してイエズス会士をナウ船でシナ(マカオ)に派遣しないように命じて頂きたい。


つまり、ペル-船に積まれてきたかねは、元々ペル-副王が自分の金儲けのために送ってきたものであり、その意味でイエズス会もペル-副王の自己の利益のための行動に強制的に協力させられている被害者である。

従って、ペル-・イエズス会士の立場を守るために、極力それが奪われないように努め(実際に、ゴア副王が没収しようとする動きを拒否している。)、また銀の出資者に戻すように協力をする以上、それを日本イエズス会の収益機会としても良いのではないか、と考えたのではないかということです。


第三に、これは次回の記事にもう少し詳しく書こうと思っていることですが、この時代のポルトガル・スペイン植民地の副王という官職の性格です。

副王とは、国王の代理人として植民地を統治した官吏ですが、在任期間中にその地位を利用して精一杯、私的財産の蓄積に励んだ、つまり“金儲け主義”に徹した人が多かった(もしくは、殆どがそうだった)と言われています。

私が読んだことがあるのは、フィリピン総督とペル-副王のケ-スだけですが、おそらく、それらの地域だけの話ではないでしょう。インドにもポルトガル副王がいましたが、その副王が自己の蓄財に走るようなことがなかったのかどうか、調べてみる必要があると思うのです。

フィリピンやペル-はスペインの、インドはポルトガルの植民地だったという違いはあります。両国は元々隣国同士ですが、1580年から1640年までの60年間、ポルトガルはスペインに併合されており、同一の君主を冠する関係にありました。従って、副王という存在が似たような性格をもっていたのではないか、という推測は可能です。

もし、インド副王が、フィリピン総督やペル-副王と変わらない性格を持っていたのであれば、ひたすら(インド)副王の意向に服従しなければならないとする、カブラルの主張なども余り説得力を持たないことになります。

その時代のインド副王がどうであったかを知ることが必要ですが、ヴァリニャ-ノの行動は、そういう周囲の状況を睨んでのことだったのではないかと、私は考えます。



以上、今回は、銀を満載してマカオへ航行したペル-船を、マカオ・日本のキリシタン教会の視点から眺めてみたことになると思います。

次回は、このペル-船がマカオへ行ったことの背景と、その船に乗っていた二人のイエズス会士のその後の行方を、ペル-の視点から眺めてみたいと思っています。


〈つづく〉


[参考図書]

キリシタンの世紀-ザビエル渡日から「鎖国」まで-  高瀬弘一郎著   岩波書店
キリシタン時代対外関係の研究            高瀬弘一郎著  吉川弘文館



























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by GFauree | 2016-01-15 14:22 | リマからマカオへ行った船 | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。