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ペル-・イエズス会士二人の遥かな旅路 [その3]



                 

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           現在のカリャオ特別市の街の夕日(Cortesía Juan Goicochea)


まず写真のご紹介から。

日本語の生徒で空手道場のオ-ナ-であり師範でもある、フアン・ゴイコチェアさんが撮られたものをfacebookで見つけて、許可を頂いて掲載しました。

奥が海岸です。左手、沖のサン・ロレンソ島のシルエットの形と、前回[その2]の写真の島の形を比べてみて下さい。偶々、同じ方向から撮られたために、形が同じです。


さて、今回[その3]では、リマ・カリャオ港から直接マカオへ船を送った第8代ペル-副王とその仲間が自分たちの財産を委ねた、副王の甥ロドリゴ・デ・コルドバと二人のイエズス会士の、マカオに着いてからの行方を追ってみたいと思います。


マカオで船と積んできた銀を差し押さえられた後、現地ポルトガル法廷の決定によって、ロドリゴ・デ・コルドバと二人のイエズス会士は、インド・ゴアに送られます。


〈インド副王の対応〉


・ロドリゴはポルトガルへ

インド副王は、二人の聖職者たちに対してはイエメンで監禁されるように命じ、船長ロドリゴ・デ・コルドバについては、その場で提訴に対する結論を出すことを避け、国王への申し立てを継続させるべく、ポルトガルに向けて出航させることを決定します。


・イエズス会士二人はイエメンへ

レアンドロ・フェリペとゴンサロ・ベルモンテは、イエメンの拘置所へ送られましたが、1592年、ゴアのコレジオ(神学校)を叙階(おそらくは、司祭の資格授与)式の祝賀会のために訪れ、同僚たちのために余興としてケチュア語で説教を行ったという記録があります。
(ということは、監禁が命じられたと言っても、「実際は、それほど厳しい拘束は受けていなかった」ということかも知れません。)


〈戦死したロドリゴ〉


英国人歴史家チャ-ルズ・ラルフ・ボクサ-(C.R.Boxer)によると、1593年、ロドリゴ・デ・コルドバを乗せたポルトガルのガレオン船は、大西洋上のアゾレス諸島沖(リスボンの西約1500キロ)で、英国のカムバ-ランド艦隊によって炎上させられ、ロドリゴは戦死したとのことです。

彼の、死の知らせは、ゴアよりもリスボンに先に届けられ、ポルトガル当局は、ペル-の銀を全てリスボンへ転送することを命じたということですが、ペル-船の金銭はイエズス会士レアンドロ・フェリペによって、既に一文残らず然るべく処理されていた筈です。


〈ペル-副王の復讐〉


絶妙とも言える偶然の一致ですが、戦死したロドリゴ・デ・コルドバの叔父であり例の船の船長として彼を送り出した張本人である副王ガルシア・デ・メンド-サは、1593年頃アタカマ湾(現在のチリ)で、英国の海賊リチャ-ド・ホ-キンスの艦隊に対し、圧倒的な攻撃を行ったということです。ポルトガル沖で惨殺された甥の仇(かたき)をチリ沿岸で討った、というわけです。



次に、イエズス会士二人の、その後の行方を追う前に、マカオ行の船に乗る前の二人の経歴を確認しておきたいと思います。


〈イエズス会士たちの経歴〉


・レアンドロ・フェリペ神父

1544年頃、スペイン・セビリャ生まれ
1565年、(21歳)ペル-へ渡航した際の乗船客名簿によれば、職業は商人
1568年、(24歳)イエズス会に入会。その後、パナマの上長を勤めた。

・ゴンサロ・デ・ベルモンテ修道士

1540年頃、スペイン・セビリャ司教区内モゲ-ル村生まれ
1577年、(37歳)イエズス会に入会。助修士で、ペル-管区のプロクラド-ル(財務担当者)であった。


(その他)

・フェリペとベルモンテは、リマとラ・パス(現ボリヴィア)で共に過ごしたことがある。

・会の厳格な評価では、両名とも「従順である」とされている。

マカオ行きの船に乗船した経緯

事務長(副王の甥ロドリゴ・デ・コルドバを指すと思われます)が、イエズス会ペル-管区長フアン・デ・アティエンサに対し、乗組員を霊的に援助するための神父・修道士各1名を航海に同行させることを要請し、二人が指名された。


〈レアンドロ神父入会の頃のイエズス会の状況〉


参考のために、レアンドロ・フェリペ神父が入会した当時の、ペル-・イエズス会の状況を概観してみました。


1567年、スペインから8名の会士が初めてペル-へ派遣される。

1568年、イエズス会ペル-管区が創設される。
      リマに、サン・パブロ学院が開設され、スペイン領アメリカ最古の学院となる。

1570年、ホセ・デ・アコスタを含む第三次宣教団が派遣される。
      アコスタは、南米大陸カトリック教会史上の重要人物の一人と目され、
      『インディオ救霊論』『新大陸自然文化史』の著者として知られる。


アコスタらの第三次宣教団は、リマ大司教区内のクリオ-リョやメスティ-ソ、スペイン本国生まれの入会志願者を養成する人材として派遣されたとされています。

クリオ-リョとは、通常、ヨ-ロッパ人を両親とする植民地生まれの人を指しますが、この場合、特に南米生まれのスペイン人(白人)という意味でしょう。メスティ-ソとは、先住民と白人の混血の人を指します。

レアンドロ・フェリペは、スペイン本国生まれの入会志願者に該当します。

イエズス会は、ペル-での布教を進めるに当たり、先住民でなく、現地在住のスペイン人または混血の者を、聖職者として養成しようと考え、レアンドロは、その方針に沿って司祭を目指し入会した志願者だったということになります。



〈その後、ペル-副王の船が各方面に惹き起こした波紋〉


スペイン
では、
1594年の初め、国王フィリップ2世は、インド副王マティアス・デ・アルブケルケに手紙を送り、スペイン人密輸業者の船のマカオ到着を知らせています。

ペル-では、
船をマカオに送った第8代副王は、1594年頃には、自分のかねを取り戻すことの希望を全く失っており、またペル-・イエズス会は、中国に向けて出発した会士たちは、もう死んだものとみなしていたようです。

東洋の地でのペル-商人の運の強さや、取引の実行・管理を委ねられていたレアンドロ・フェリペの商売上の駆け引きの腕を知らなかったのでしょう。実際には、そのときレアンドロは、商取引のやりとりのまっただ中に居たと考えられるのですが。


〈混乱収拾のために、総巡察師ピメンタ神父が派遣された〉


総巡察師の提案は、二人が、ペル-のかねを放棄してインド管区に残るか、それとも、フィリピンに向けて直ちに出発し、マニラ経由リマに戻るか、でした。

レアンドロ・フェリペは、当然、第二案を選びました。それは、1597年の4月頃のことですから、二人が初めてアジアの地を踏んでから7年が過ぎていました。


〈ゴアからマラッカまで〉


航海は、先ず、インド・ゴアからマラッカ(シンガポ-ル)に向けて行われたと考えられますが、それは、カリカット、コチン、コロンボというポルトガルの貿易拠点を経由するものだったでしょう。


〈マラッカからは、8人の黒人奴隷を連れて〉


ゴンサロ・デ・ベルモンテが、後にリマから総会長に宛てた報告によると、やっとマラッカ(シンガポ-ル)へ着いたのち、フィリピン諸島行きの船を1年間待たねばならず、その間、彼はコレジオ(神学校)で働いていました。

そこへ、運良くフィリピン諸島の船が来て、レアンドロと8人の黒人奴隷と共に、そこから出発することが出来たということです。

イワサキ氏は、「二人のイエズス会士たちが、絹や香辛料や銀を抱えていなかったとしたら、8人の黒人奴隷というのは、多過ぎるのではないか」と指摘しています。


〈マニラにて〉


マニラでは、イエズス会コレジオの仕事に従事しながら、1年間、アカプルコ行きのガレオン船を待ちます。

例によって、野心的なゴンサロ・デ・ベルモンテは、従兄弟である聴訴官アルバロ・ロドリゲス・サムブラノに働きかけ、入手した商品と8人の黒人奴隷をメキシコへ運ぼうとしたようです。

フィリピン総督は、1598年6月、「富裕なペル-商人」に関する不平を述べた書簡を国王に送っています。


〈メキシコからペル-へ〉


二人は、1600年の初めにメキシコに着きましたが、メキシコ・アカプルコ⇒ペル-・カリャオ間の航路が海賊に制圧されていたため、それが解放されるまでに4か月待たねばなりませんでした。


〈ようやく、リマへ〉


二人の到着は、リマにおいて、特に遠征に参加した者たちの家族や出資者たちの間に、大きな衝撃を起こしたに違いありません。

けれども、アジアへ送った銀に関わる訴訟や申し立てなどがあった形跡はないのです。
かろうじて、イエズス会自体が、彼らの同僚を受け入れ歓迎したことを示す資料があるだけです。


〈二人の、その後〉


レアンドロ・フェリペは、サン・パブロ学院に閉じこもったまま祈りの年月を過ごした後に、1613年頃亡くなりました。

(ちなみに、その年リマで行われた人口調査に日本人20人が記録されています。)(http://iwahanjiro.exblog.jp/20544054/

20人の日本人が住んでいたと考えられる旧市街は、レアンドロ神父のいたサン・パブロ学院や、ゴンサロ修道士が幽閉されていた修練院のすぐ近くです。日本人たちが、日曜日の教会のミサやその他何かの機会に、神父や修道士をみかけることがあったかも知れません。

しかし、その神父や修道士が管理責任者として乗り組んだ船によってマカオへ運ばれたペル-銀が、自分たちが遥かな故郷として意識している日本のキリシタン教会の財政難を救ったり、マカオに計画されていた聖職者養成機関の建設に役立った可能性があるなどということは、20人の日本人にとって思いもかけないことだったでしょう。



ゴンサロ・デ・ベルモンテは、幽閉されていた修練院から脱出するべく、総会長クラウディオ・アクアヴィヴァに働きかけたようです。ベルモンテは、最後の年月を家族と過ごすために、スペインへ戻ることを望んでいたのです。

そして彼の望みを叶えようと、彼の家族も良く結束していました。セビリャ出身の甥が彼を救うためにインドへ赴き、マニラでは従兄弟である聴訴官が彼を支援したことは、既に書いた通りです。今回は、修道女である妹が、彼のために総会長に働きかけました。

しかし、結局、彼とその家族の望みが叶えられることはなかったようです。



イエズス会は、自らのイメ-ジを傷付けるような噂を打ち消す浄化キャンペ-ンを始め、それによって、次期副王ルイス・デ・ヴェラスコの好意を得ることに成功します。




[マカオに行った船と二人のイエズス会士について、私が考えること]



1.「密輸船」と呼ばれると


16世紀の末、ペル-銀を満載してマカオへ直行した船は、当時植民地に派遣されたスペイン人官僚が、その立場を利用して、いかに個人の蓄財に励んだか、その涙ぐましい努力のひとつの現れではないか、と書きました。

けれども、その船が「密輸船」と呼ばれると、私は少し抵抗を感じます。

確かに、その船は、ペル-・マカオ間の航行を禁止した国王勅令という法令に違反して送られたものではありますが、「密輸」という言葉の、後ろ暗く重大な犯罪というイメ-ジとは、ちょっと違う印象を持っているからです。

そもそも、ペル-・マカオ間の航行を禁止した国王勅令が発せられた理由ですが、

ひとつは、ペル-船が積載して行く銀が、マカオで中国商品購入の対価として支払われ、これが現地の価格上昇を招き、マカオのポルトガル商人の利幅を縮小させた、つまりあまり儲からなくなったということがあります。

もうひとつは、ペル-船が持ち帰る中国商品の圧倒的な低価格が、従来ペル-で独占的に販売されてきたスペイン本国の商品や、マニラ・アカプルコ経由輸入される中国商品の販売を脅かした、つまりあまり売れなくさせたから、ということだったのでしょう。

要するに、マカオのポルトガル人商人や、スペイン本国の商人やヌエヴァ・エスパニャ(メキシコ)のスペイン人商人たちが、従来享受してきた既得権が失われる危険が生じたために王室に圧力をかけた結果が、国王勅令なのです。

これら商人の既得権は、不利な交易条件に甘んずるという、植民地側の犠牲の上に成り立っていたものです。

植民地官僚の私利私欲の行動が、「植民地からの収奪⇒本国側の利益独占」という構造を脅かしたというところが、皮肉でもあり、また面白いところではないかと思います。

その点を考慮すると、この船に「密輸船」というレッテルは似合わない感じがします。


2.二人のイエズス会士について


〈消極的だった?イエズス会〉

そもそもは、(おそらくは)第8代副王の甥から、管区長が強引に派遣を要請され、不承不承引き受けた、という話があります。

その船がマカオ・イエズス会の協力を見込んで送られたと考え、イエズス会側も積極的だったのではないかという推測もあります。

けれども、副王ガルシアが弟である司祭エルナンド・デ・メンド-サのペル-転任を要請したときの総会長の反応は、金儲け主義にイエズス会士を巻き込みかねない副王の性向を警戒している様子でしたから、ペル-管区長も副王とは距離を保つ方針だったのだろうと、思いますが、結局は現地当局との関係を考慮して、要請を呑まざるを得なかったのでしょう。

本部方針では否決されていることを、出先機関は現地当局との関係上受け容れざるをえず、受け容れ決定については出先機関の責任とされたということです。大きな組織では、よくありがちなことです。


〈「従順」という評価〉


その結果選ばれた二人の評価は、「従順」ということでした。

中世以降の、修道会士の行動基準が「清貧・貞潔・従順」であったことは、世界史の教科書に出ていたような気がします。つまり、「従順」は修道会士として当然の条件であり、それだけでは、「特に言うべきことがない、何の取り柄もない人」という意味になるでしょう。

特に、イエズス会内で、有能と認められるためには、例えば学問や芸術(美術・音楽)や技術的知識(建築や財務会計など)や語学(布教地の言語)や政治力などで、他に秀でた才能を見せることが必要だったようです。

そういう組織の中で、「従順」という評価は、レアンドロとゴンサロが船に乗った時点ではそれぞれ、もう46歳、50歳であったことも考えると、かなり辛く厳しいものだと考えられます。


〈二人の経歴と性格〉

・神父レアンドロ・フェリペ
には、先に書いたこと以外に、特に記録はありません。

・修道士ゴンサロ・デ・ベルモンテは、37歳で入会し、プロクラド-ル(財務担当者)だったということですから、入会前に商人としての経験があったのかも知れません。

この人に関しては、メンデス・ピントを思い出します。
ピントは、「インドで最も金を蓄えた者の一人である」と言われたほどの有力な商人でしたが、インドで「日本宣教団」に出資すると同時に参加しイエズス会にも入会しましたが、4年後に退会しています。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21876411/

私は、ピントは宗教的情熱以外の動機で入会したのではないか、と思っています。そして、ゴンサロにも、似たような要素を感じます。

ゴンサロも「従順」であった筈ですが、マカオ・ゴアで時間が経過するに従って本性が出てきたのでしょう。資金の運用方法を巡ってレアンドロと衝突したようです。

レアンドロは司祭ですから、修道士であるゴンサロより権限があった筈です。
ところが、年齢はゴンサロの方が4歳上で、またゴンサロの出身の家柄のほうが有力だったというような要素からゴンサロがレアンドロを甘く見たのかも知れない、と私は思っています。上司を甘く見たツケは、後で廻ってきます。


〈二人の衝突〉


既に、書きましたように、二人は差し押さえを免れた分の資金の運用方法を巡って対立します。

ゴンサロ修道士は、リスクの高い運用方法を主張したと言われています。ゴンサロは、何故この期に及んで、出資者という他人の資金をわざわざリスクの高い方法で運用しようなどと考えたのでしょうか。

私は、彼はもうペル-には戻らず別の仕事に就くことを考え、自分のこれからにとって有利な条件を提供してくれる相手に貸し付けようとしていたのではないかと考えています。

ゴンサロが貸し付けようとした相手は、インド副王―ポルトガル商人、つまりバリニャ-ノに対立するライン、の人物だったかも知れません。

一方、レアンドロ神父は、ペル-に戻ることを前提としていたのでしょう、極力早期にペル-副王を含む出資者に返金しようと考えます。その方法は、ヴァリニャ-ノかそのグル-プの誰かが、自分たちにとって都合の良い方法をアドバイスしたのでしょう。

結局、レアンドロ神父の方が権限がありますから、レアンドロはヴァリニャ-ノ・グル-プのアドバイスに従い、そのグル-プに、インド向け輸出のメリットを提供する手法でゴアに送金し、またゴアからペル-の出資者に送金しました。

ヴァリニャ-ノは盛んに、レアンドロが有能だったことを強調する報告をしていますが、それは、「レアンドロは、自身の知識と判断で我々のアドバイスも受けずに処理を行ったのであって、決して自分たちが彼を誘導したわけではない。」と、言いたいがためのものであることは言うまでもありません。


〈10年かけて、ペル-に戻ってから〉


10年かけて、ペル-に戻ってから、二人は、それぞれコレジオと修練院で、長い年月を外界と接触せずに過ごすことを余儀なくされたようです。

特に、ゴンサロ修道士には、レアンドロ神父に反抗し「従順の掟」を破ったこと、に対する厳しい処分が待っていたことでしょう。再三にわたる、本人及び家族からのスペインへの帰国許可申請は、当然聞き容れられませんでした。


二人とも、別に自分自身が望んであの船に乗ったわけでは、ありません。もし、船や積み込まれた銀が、マカオで差し押さえられることがなければ、また、その後、マカオやゴアで起きたような混乱や騒動が起きなければ、このような扱いは受けずに済んだのかも知れません。

「結果責任」です。それが、この組織の厳しいところです。


私は、1613年に伊達政宗が派遣したとされる「慶長遣欧使節」支倉常長をモデルとした、遠藤周作の小説「侍」の主人公 六衛門を思い出しました。そういえば、リマのコレジオでレアンドロ神父が亡くなったのも、1613年頃でした。

六衛門は、7年をかけてようやく帰国し、キリシタンに改宗したことを責められながら、「(使節には)どこで朽ち果てようと一向に構わない、身分の低い者が選ばれたことを」聞かされます。

ところが、その絶望の淵で、「人間のこころのどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを、求める願いがあること」に気付きます。使節としての使命を果たすために便宜的にキリシタンになったはずの彼が、ときおり、キリストのことを考えるようになるのです。(http://iwahanjiro.exblog.jp/20581302/


レアンドロ神父とゴンサロ修道士は、コレジオと修練院で、一体、何を誰のことを思っていたのだろうと、私は考えます。
 



〈あと二枚の写真のこと〉


終わりに、あと二枚写真を見て頂きたいと思います。


一枚目は、リマのセントロ(旧市街)にあるペル-国立図書館(BIBLIOTECA NACIONAL)の正面です。

1568年(レアンドロ・フェリペが入会した年)、イエズス会が現地聖職者養成のために、サン・パブロ学院(正式には、El Colegio Máximo de San Pablo)を設立したことと、レアンドロがペル-に戻ってから亡くなるまで、その学院で過ごしたことは先に書きました。

200年後の1767年、スペイン王カルロス3世によりイエズス会が追放され、翌68年サン・パブロ学院の図書館はサン・マルコス大学に移管されます。さらに、1821年の独立直後に創設された国立図書館にそれが引き継がれたのです。その関係で、この国立図書館の建物は旧市街のサン・パブロ学院跡にあるのです。

ゴンサロ・デ・ベルモンテが入っていた(入れられていた?)修練院があったというセルカドというのも同じ地区です。今でもこのあたりに、イエズス会の施設が散在しています。

この建物の前に立ってじっと目をつぶり、四百年前の彼らを思い浮かべました、と言いたいところですが、車も人も往来の激しい所で、そんな雰囲気ではありませんでした。



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二枚目は、この国立図書館と同じブロックの反対側にある,ひじょうに綺麗なイエズス会の聖堂です。
外観はあまり目立ちませんが、内部の装飾は見事です。

正面玄関の上部にある、[IHS]のシンボルが読み取れるでしょうか。これは、いわばイエズス会のロゴです。

その意味は、In Hoc Signo vinces.(この印のもと、汝は勝利するであろう)とも、
Iesus Hominum Salvador.(イエズス、人々の救済者)とも言われています。



ペル-・イエズス会士二人の遥かな旅路 [その3]_a0326062_23462798.jpg




〈完〉



[参考図書]

Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI, Fernando Iwasaki Cauti, Pontfica Universidad Católica del Perú

「キリシタン時代対外関係の研究」  高瀬弘一郎著   吉川弘文館

スペイン帝国と中華帝国の邂逅 十六・十七世紀のマニラ 平山篤子著 法政大学出版局






by GFauree | 2016-01-28 14:36 | リマからマカオへ行った船 | Comments(1)  

Commented at 2016-01-30 11:45 x
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