【大航海時代のおと】

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背教者 クリストヴァン・フェレイラ [その2]

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                  ポルトガル リスボン市内ジェロニモス修道院聖堂


クリストヴァン・フェレイラは、ポルトガル人イエズス会士。
1596年、16歳で入会、1609年来日後キリシタン迫害が激化する中、常に日本イエズス会のエリ-ト幹部として活動し、1632年管区長代理に任ぜられた。翌33年、拷問を受け背教して以降、沢野忠庵と名乗った。

そのフェレイラが、1621年3月18日付の書翰をイエズス会総会長あてに送っている。
その日付けは、彼の来日から12年後であり、また棄教する12年前である。その内容は、その時期の彼の考えや、またその後の彼の行動を説明すると考えられる部分もあるので、ここにご紹介したい。



[フェレイラ書翰の内容]


1.日本人修道士の不正・追放について

日本人修道士イグナシオ・カト-という者が、商業行為を行い堕落し、イエズス会から追放された。修道士が誘惑に克てなかったことの理由の一つは、神父たちが迫害によって追放され、修道士を管理・監督する者が不足していることだ。その結果、修道士が隠れて取引を行い、蓄えが出来ると、誘惑に駆られイエズス会を去るのである。


2.将軍が迫害を行う理由について


「将軍が行っている迫害は国是(国家理性―Reason of State)に基くものだ」と、我々(イエズス会司祭たち)は考えているので、これが今後どのように進んでいくかについて、強い懸念を感じている。将軍は、我々が福音宣教によって、国を奪おうと企んでいると思い込んでいるのである。

この考えは、既に以前から将軍が持っていたものに加え、さらにオランダ人から吹き込まれたものであるが、将軍はオランダ人のその忠告に感謝さえしていると言われている。

以前イエズス会の修道士であった日本人背教者ファビアンの著書(破堤宇士)によって、「福音の宣教によって、宣教師たちが日本を奪い、我々の国王に服従させようと企んでいる」ということが、更に強く確信されるようになった。


3.迫害が止む可能性について

もし神が、特別の意志(摂理)によって、我々を救って下さらない限り、迫害が止む可能性は殆どない。
ただ、私はこれほど多くの殉教者たちが血を流しているのだから、きっと神が救いの手を差し伸べて下さるものと信じている。

実際、聖職者たちを護ることに関しては、神はその意志をよく表わして下さっている。
というのは、裏切りや密告が横行する中で、もし神の特別な意志がなければ、もう既に聖職者全員が捕えられているはずだからである。


4.日本人のイエズス会入会を認めることについて

非会員の日本人同宿で捕縛された者のうち、不撓不屈の立派な振舞いをする者については、殉教する可能性が高いのだから、入会を認めて頂きたい。

他の修道会は、この場合入会を許しているのだから、イエズス会が入会をみとめないと、それは会にとって不名誉なことになる。近年、会からの多くの離脱者を生んだ原因は、日本人はイエズス会に受け入れられないということが明らかになってしまったことである。

死亡時には、彼らを入会させるということにすれば、多くの者が会から離れて行くことはないし、生存中に入会させることによって起るような不都合は生じない。



[フェレイラ書翰について考えること]


1.日本人修道士の不正・追放について

この書翰に採り上げられた他の事項が、「幕府が迫害を行う理由」や「迫害が止む可能性」など、キリシタン教会を取り巻く広範な状況に関するものであるのに比較すると、この事件は個別的な事象でありやや場違いな印象を受ける。
何故この件を、フェレイラは書いたのだろうか。

〈プロクラド-ルだったフェレイラ〉

イエズス会の運営に関わる重要な職務のなかに、資金・資産の管理を行う財務担当者である「プロクラドール」と呼ばれる役割があった。( このプロクラド-ルについては、「南蛮医アルメイダ」に関する記事のなかで言及したことがあるので、ご参照頂きたい。)
 http://iwahanjiro.exblog.jp/21914656/ 

フェレイラは、1618年12月にカルロ・スピノラ神父が逮捕されたため、その後任として長崎でプロクラド-ルの任に就き、それは1621年10月に上(近畿)地区の副地区長として大坂に赴任するまで続いた。

本来、日本以外の地では、原則、財務担当プロクラド-ルに最高の階級である盛式四誓願司祭が起用されることはなかった。ところが、日本では高度の政治的・経済的能力が要求される地位であることを理由として、盛式四誓願司祭が任ぜられるようになっていた。それだけ、日本のキリシタン教会では経済的要素が重んぜられたということであろう。

前回の記事に書いたように、フェレイラは1617年7月、盛式四誓願司祭の資格を与えられていたから、1618年12月にプロクラド-ルの職に就くことができたのである。

〈フェレイラには不正をした修道士に対する監督責任があったのでは〉

書翰によれば、日本人修道士イグナシオ・カト-が追放されたのは、前回の書翰が書かれた1620年11月から、今回の書翰が書かれた1621年3月の間である。

イグナシオ・カト-は職務として商業行為を行ううちに不正に手を染めたということだから、財務プロクラド-ルであるフェレイラを補佐する立場にあったのではないか。そうであれば、フェレイラは、上司として1618年12月からイグナシオ・カト-に対する管理・監督責任を負っていたことになる。

以上を勘案すると、フェレイラは、一般的な状況の厳しさを伝えるためよりは、むしろ、上司として部下の不祥事を釈明する必要からこの書翰を書いたのではないかと私は考える。

この不祥事の原因としてフェレイラが挙げているのは、迫害が激しくなり、パ-ドレたちが追放された結果、管理者が不足してきて担当者が誘惑を受けやすくなってきたことである。フェレイラは、この理由付けによって、不正を行った本人への咎(とがめ)や管理者への責任追及を少しでも和らげようとしたのではないだろうか。

また、この書翰が書かれた翌年、1622年には長崎で55名が処刑された「元和の大殉教」があり、さらにその翌年、1623年には江戸・芝で50名が処刑されている。この時期、客観情勢は明らかに厳しさを増していただろう。

一方で、たとえ捕縛・拷問・処刑等の迫害を逃れたとしても、司祭の不足によって、組織的活動がいよいよ困難になってきたことを、この件に関する報告を通じてフェレイラが伝えようとしたとは、考えられる。

客観的な情勢の厳しさに加え、キリシタン教会はその構成員の規律が乱れ、内部からの崩壊も確実に進行していったことが、この部分から伺われるのである。


2.将軍が迫害を行う理由について

〈秀吉バテレン追放令発布の理由〉

1587年の関白秀吉によるバテレン追放令発布は、1549年の「ザビエル渡来」から90年続いたキリシタン時代の、およそ半ばの時期に行われた国家権力による初めての本格的弾圧であった。

その理由の一つとして、秀吉が助言者であった施薬院全宗に「器量が良く、かつ身分のある家の娘たち」を調達するように指示したところ、キリシタンである女性たちに抵抗された、ということが挙げられることがある。私もそういう説明を読んだことがある。

しかし、今回改めて、その件に関してルイス・フロイスが執筆した『イエズス会日本年報』と『日本史』の該当箇所を読んでみたが、「施薬院全宗が女性たちに抵抗されて怒った」とは書いてあるが、秀吉の反応がどうであったかは書かれていないのである。ということは、私の読み間違い・勘違いか、私が読んだ解説が間違っていたのである。

しかし、どちらにも、大坂城内に約300名の女性を置いているなど、秀吉が如何に情欲に狂った生活を送っていたかが描かれていて、そこだけを読むと、女性たちの抵抗がバテレン追放令の原因となったように思えてしまうのである。

何故、そんな書き方をフロイスはしたのだろうか。

〈キリシタン時代の外国人宣教師の性格〉

私はこの時代の外国人宣教師が、肉体的に非常に元気な人たちであったことを、念頭に置いて考える必要があると思っている。

ザビエルがヨ-ロッパで勉強させようとインドへ連れ帰った日本人のうち、一人はヨ-ロッパへ着く前に、もう一人はヨーロッパへ着いてから間もなく亡くなっている。それ程、その時代、日本とヨ-ロッパの間を航海することは、体力を極限まで消耗させる行動であったらしい。天正遣欧使節として少年たちを選抜した理由のひとつとして、苛酷な航海に耐えるためには少年であることが必要だったことが挙げられている。

逆にヨ-ロッパから日本へ来て、活発に行動していた宣教師たちは、よほど強靭な身体の持ち主であったのだろう。それに、聖職者という職種は、“生ける車輪”ルイス・デ・アルメイダのように布教地を走り回っていたり、迫害に遭って逃亡したりしていない限りは、あまり体力の消耗を必要としない。そして、男は体力があり余ると、どうしても余計なことに考えが行ってしまう。それは、今でも教皇を悩ませている問題でもある。

だから、『日本年報』や『日本史』におけるルイス・フロイスの秀吉の行状に関する念入りな描写を読んでいると、私には、ひょっとしてフロイスという人は秀吉のことを羨ましく思っていたのではないか、とさえ思えて来るのである。

「齢すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い。野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪いとったかにおもわれた。」(完訳フロイス日本史4豊臣秀吉篇Ⅰ)中公文庫より



〈国是(国家理性)について〉

高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」において、同氏は「禁因を単に秀吉の人格的欠陥に求めるような論は、ほとんど取り上げるに足りない。」とされている。そんな「取り上げるに足りない」フロイスの禁教原因の議論に比べると、フェレイラが迫害の原因として挙げている国是(国家理性)は、それなりの背景や根拠があるもののように思える。そこで、同じく高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」に書かれてある内容に沿って、国是(国家理性)について考えてみた。

江戸幕府の禁教令の最も根本的な理由として、何人ものイエズス会士が“国家理性”に基づくとしている。国家理性は国家利益とほぼ同義だと考えてよい。国家というものは「自己の存立を主張し、拡大を求めて行動する」ものである、という考え方である。

在日イエズス会士の考え方には、『国家理性論』を著し、国家理性を「国家を建設し維持し、かつ大ならしめるにふさわしい手段の認識」と定義したイエズス会士ジョバンニ・ボテロの思想が影響を与えていたと考えられる。

〈エリザベス朝イングランドによって排除されたカトリック勢力〉

エリザベス一世は“教皇至上権”を否定し、“国王至上権”を確立することによって、ナショナリズムを表明し、“イングランドの教会”を樹立した。そして、“かくれキリシタン”となった国内カトリック信徒のために、近隣カトリック諸国からイングランドへ宣教師が送り込まれ、その多数が処刑された。

スペイン国王フェリペ二世は、教皇の説得もあってイングランド侵攻を図ったが、結局1588年スペイン無敵艦隊は敗北し、“異端者”エリザベス女王の追放を図ったカトリック勢力の企ては挫折した。

ほぼ同時代に、ユ-ラシア大陸の東端と西端に接する二つの島国である日本とイギリスで、国是(国家理性)に基づきカトリック勢力が排除される動きがあったこと、またそれを、その時代に日本に居た宣教師たちが認識していたと考えられることは興味深い。

そして、そこまで考えたときに、江戸幕府の禁教やそれによってフェレイラたちが置かれた状況が、単なる権力者の横暴や闇雲な信教の自由の否定の結果としてではなく、歴史的必然の一環として、やっとリアルに認識できるような気がする。

さらに、幕府によるキリシタン迫害が国是(国家理性)によるものであることを認識していた以上、エリザベス朝イングランドの例から見ても宣教師たちは、これを止めることも、それに勝利することもほとんど不可能であることを感付いていたのではないか、と私は考える。


3.迫害が止む可能性について

〈理屈に合わず、「危ない」考え方〉

書翰の中のこの部分を読んで、私は意外な感じを受けた。ここには、フェレイラの正直な心情が吐露されているように感ずるが、その内容は理屈に合わない。

そもそも、迫害も救いも全て神の意志によるものである筈ではないか。聖職者たちを守ることであれ何であれ、全ては神の遺志である筈である。

多くの殉教者が血を流しているから神が救ってくれる、というのも「危ない」考え方である。救って貰えることを期待して血を流すが、神は応えてくれない。すると今度は、沈黙し続ける神になぜ救ってくれないのかと訴えなければならないことになる。

遠藤周作は小説「沈黙」の筋書きの着想を、フェレイラ書翰のこの部分から得たのではないかと私は思う。「沈黙」し続ける神に不足を感ずるとすれば、自分の方から「神の声」を聴いたと考える他はない。

〈「案内書」通りに死んでいった殉教者たち〉

山本博文著 殉教―日本人は何を信仰したか(光文社新書)によれば、当時のイエズス会士が日本に持ち込んだ殉教の勧め「マルチリヨの栞(しおり)」には、次のように書かれている。

殉教者となるためには、人から殺されることを喜んで堪え忍ばなければならない。
なぜ、喜んで堪え忍ぶべきかと言えば、殺されるほどの迫害に遭って、はじめて信者は真実の信仰を示すことができるからである。そして、殉教すれば、神の前で最高の位につくことができる。すべての罪が許され、煉獄の苦しみは免除され、天国では光背を頭にいただき、受けた傷は光り輝くからである。

私が見聞きしてきた日本人殉教者の姿は、迫害の苦しみを喜んで堪え忍び通した、というものばかりである。ということは、多くの日本人殉教者は、宣教師の持って来て教えた「案内書」通りに死んでいったということである。それに対して、外国人宣教師の中には、自分たちが習い覚え、信者たちに教えてきた生き方・死に方を受け容れきれず煩悶する人たちがいて、フェレイラはその一人だったのかも知れない。

この書翰が書かれたのは、棄教する12年前のことだが、一面で、フェレイラはもうそこまで追い詰められていたということなのであろう。


4.日本人のイエズス会入会を認めることについて

フランシスコ・カブラル(1596年)

「私は日本人ほど傲慢・貪欲・無節操かつ欺瞞に満ちた国民を見たことがない。日本人は(正式なイエズス会員でない)同宿として用いるべきである。」

ジョアン・ロドリゲス(1598年)

「私は厳しい選択と調査をせずに日本人を修道士にすることは、わが(イエズス)会のため適正ではないと考える者であります。・・・・・・こうした連中を我がイエズス会に入れることは、良いとは絶対に思われません。」

以上のような外国人宣教師の意見に基き、日本人のイエズス会入会には「総会長の承認が必要」とされていた。と言っても、遥かかなた日本での入会人事を総会長が判断できるわけがないのだから、要するに日本人は原則的には入会させない(修道士や司祭という聖職者にはしない)という方針があったということである。

(この「日本人の入会問題」については、「ペトロ・カスイ・岐部」に関する記事の中で説明させて頂いたので、ご参照頂きたい。)
http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/

〈ペトロ・カスイ・岐部のこと〉

だから、ペトロ・カスイ・岐部はロ-マまで行く必要があったのである。岐部は、6年間のセミナリオでの勉学の後、9年間同宿として働き5年間かけてロ-マへ辿り着いてやっと入会が認められた。ときどき、故意によるものなのか認識不足のためなのか、岐部の経歴のうちのその14年間について触れてもいない解説を見掛けるが、まるで「気の抜けた炭酸飲料」のように私は感ずる。

岐部は、このフェレイラの書翰が書かれる前年の1620年、やっとロ-マで入会を認められる。その岐部が7年かけて日本へ戻り潜伏している間に、棄教した後のフェレイラに会い翻意を促したと言われている。本当であれば、厳しい話である。

それを、岐部の勝利のように言う向きがあるが、私はそうは思わない。「岐部には岐部の、フェレイラにはフェレイラの人生があった」はずだからである。

〈この期に及んでも入会は 認められていなかった〉

それはさておき、今にしてみればキリシタン時代の終焉に差し掛かっていたこの期に及んでも、捕縛されおそらくは拷問をうけながら入会を希望していた日本人同宿の入会を、イエズス会が認めていなかったことを、フェレイラの書翰は露わにしてくれている。

そして、入会を認めてよい理由として、不撓不屈の日本人同宿の努力に報いるためというよりは、他の修道会との競争関係や「どうせ死ぬのだから入会させても、言われているような悪影響はない」ことをフェレイラが抜かりなく挙げているところに、彼の冷淡なエリ-ト官僚的体質のようなものが滲み出てしまっているのを私は感ずる。


以上、1621年、棄教する12年前にフェレイラが書いた書簡の内容を観てきた。
次回は、クリストヴァン・フェレイラの知名度を上げる因となった、遠藤周作の小説「沈黙」でのフェレイラの採り上げられ方について、整理してみたいと思う。


〈つづく〉



[参考文献]

「キリシタン研究」 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」Hubert Cieslik S.J. 吉川弘文館
「イエズス会と日本 二」 29 クリストヴァン・フェレイラのイエズス会総長宛て書翰 大航海時代叢書 岩波書店
「キリシタン時代の研究」 高瀬弘一郎著 第二部 第六章 キリシタン教会の財務担当パ-ドレ 岩波書店 
「キリシタンの世紀」 ザビエル渡日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著 岩波書店
「新異国叢書4 イエズス会日本年報 下 」11 1587年の日本年報 雄松堂書店
遠藤周作文学全集10 評伝1 「銃と十字架」 新潮社  
殉教 日本人は何を信仰したか 山本博文著 光文社新書 429













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by GFauree | 2016-03-08 12:21 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(0)