背教者 クリストヴァン・フェレイラ [その4]
2016年 03月 31日
1633年、クリストヴァン・フェレイラは逮捕され拷問を受け棄教した。
今回は、彼の棄教とそれ以降の人生をイエズス会司祭フ-ベルト・チ-スリク氏の論文「クリストヴァン・フェレイラの研究」に沿って辿ってみたい。
1.棄教の背景
1633年3月、それまで長崎奉行としてキリシタン取締りの指揮を執ってきた竹中采女正が罷免され、江戸で切腹を命じられた。貿易に関する様々な不正に加え、実は自己の利益のためにポルトガル人と密接な関係を持っていたことが発覚したからである。
直ちに、幕府は相互監視の意味で二人の奉行を任命したが、その二人奉行の体制が続いたのは1634年8月までのことである。ところが、そのわずか17か月の間、二人の奉行はまるで手柄競争をするように、キリスト教弾圧を進めた。
その流れの中で新たに加えられたのが、「穴吊るし」という拷問方法である。
チ-スリク氏の論文によれば、1633年7月から10月にかけて、聖職者と信者を合わせて少なくとも46名が逮捕され拷問を受けている。
そのうち、イエズス会の神父、修道士、伝道士は21名である。その中に、クリストヴァン・フェレイラが含まれていた。
46名のうち何名が殉教し、何名が棄教したのかは言及されていない。
ただ、このとき殉教した者の中には、四人の天正遣欧使節の一人であり、後に神父になった中浦ジュリアンが含まれている。
ヨーロッパに向けて旅立ってから約五十年が経ち、64歳になっていた。
フェレイラは、穴に吊るされてから5時間後に屈服したとされている。彼は長崎に家を与えられ、処刑された中国人の妻だった日本人婦人と暮らすように命ぜられ、沢野忠庵という日本名を与えられた。53歳のときである。
2.棄教者としての生活
(1)1635年6月
(マカオから日本へ向かった艦隊の司令官ドン・ゴンサロ・シルヴェイラの報告)
・フェレイラは奉行所の命令で結婚させられたが、決して幸福な生活を送っていない。
・フェレイラが自分に会うことを避けたのは、背教者であり貧しいからと言って施しを乞うようなことはしたくなかったからである。
・翻訳をして奉行所のために働いている。
・キリシタンや神父たちを裏切るようなことは、していない。
(2)1637年
ドミニコ会(司祭)管区長代理アントニオ・ゴンサレスを含む四人の司祭と二人の従者が、マニラを出港し琉球に到着して捕えられた。薩摩の船で長崎に護送され、裁判官から尋問を受けた。
「その場には、背教者クリストヴァン・フェレイラともう一人の日本人元司祭がいた。裁判官は(ゴンサレスが持ってきたという)書簡を探し出させ、フェレイラに『宛名は誰か』と尋ねた。フェレイラは顔色を変え、恥じて震えながら『私宛である』と言った。」
(3)1639年
(「日本切支丹宗門史」より)
7月中、江戸でイエズス会の日本人ペトロ・カスイ神父が、物凄い拷問を受けた後、穴に吊るされて死んだ。白州で、彼は不幸なフェレイラに引き会わされたのであった。そして、彼に向かって堂々と非難した。面くらったフェレイラは、その場を外した。
(4)1643年
前回[その3]の記事に書いたことだが、イエズス会のアントニオ・ルビノ神父が組成した二つの日本渡航グル-プのうち、第二のグル-プは、この年6月筑前国大島に上陸し捕縛され、8月に江戸で吟味を受けたが、その際にフェレイラが通訳を勤めている。
なお、このグル-プは十名全員が棄教したと言われている。
(5)1646年
1641年、オランダ商館が平戸から長崎の出島へ移転し、フェレイラは、オランダ人と日本人との通訳として、また仲介者として働くようになった。
ところが、商館長ウィルレム・フェルステ-ヘンは、1646年11月17日付で次のように記している。
「予は日本へ来た時から背教パ-ドレたちのことを知ろうと努めたが・・・。今は二人のみ生存しているが、一人は忠庵というポルトガル人で元当地の耶蘇(イエズス)会の長であったが、その心は黒い。」
「その心は黒い」という表現が何を意味するかは定かではない。ただ、1643年3月17日の商館日記には、彼がキリシタンの墓を破壊するよう提案したとの記録がある。
3.フェレイラの著作
(1)反キリシタン書『顕偽録』
この書には、まえがきにも結びにもフェレイラの書である旨が記されているが、それには種々疑問が呈されている。
①フェレイラは禅宗に改宗したとされているにも拘わらず、本書の中の主張に仏教思想がほとんど含まれておらず、反キリシタンの論拠が儒教に基くものであること。
②本書が、儒学者たちが用いた典型的な漢文調で書かれていること。
③フェレイラは日本語を話し読むことはできたが、書くことはできなかったこと。
④秘跡に関する教義に対する反論にはプロテスタント的な考え方が一部に見られること。
ただし、内容的に、神学上の訓練を受けた外国人宣教師がその作成に関わったことは明らかであるため、奉行所の指図によってフェレイラと儒学者が合作したもの、との見方が現在では一般的である。
(2)自然科学書『乾坤(けんこん)弁説』
西洋の天文学・宇宙論を初めて日本に伝えた書物のひとつ。
医師であり儒学者であった向井元升が付した序文によると、フェレイラが西洋の天文書を和訳してロ-マ字で書き表し、それをオランダ語通訳であった西吉兵衛が音読、向井元升が筆録して、さらに詳細な注釈(弁説)を付したものだという。
フェレイラが翻訳した天文書としては、クリストフ・クラヴィウス(イエズス会数学者)著『サクロボスコの天球論注解』や、イエズス会(日本)コレジオで宇宙論教科書として使われていたペドロ・ゴメス著『天球論』などが考えられる。
特に、『天球論』と『乾坤弁説』の内容は章構成もよく似ており、フェレイラが宣教師時代に慣れ親しんだ『天球論』を使用したのではないかと言われている。
3.日本の医学への貢献
フェレイラを、南蛮(ポルトガル)医学の伝統と結びつける考え方がある。しかし、彼が何らかの特別な医学訓練を受けたとか、普通の宣教師以上の医学知識をもっていたことを示すような根拠は見当たらない。一方、フェレイラがけがの治療や薬草についての知識を得るためにオランダ商館を再三訪れていたという記録がある。
そのことから、彼の日本医学への貢献は医学の技術・知識という面よりも、むしろ通訳者・仲介者としてのものであったと考える方が妥当ではないかと考えられる。
実際には、フェレイラの活動の影響は、江戸時代の三つの著名な医学流派に見られる。
(1)吉田流
半田順庵はフェレイラの下で学び、マカオへ行き日本に戻って名を挙げた人物であるが、吉田流の創始者吉田自休は、半田の弟子である。
(2)杉本流
杉本忠恵はフェレイラの下で学び、彼の娘と結婚し、将軍吉宗の侍医を勤めた。
(3)西流
西吉兵衛は「乾坤弁説」和訳の際の協力者として知られているが、彼の息子西玄甫も幕府の侍医として仕えた。
チ-スリク氏は、「長崎の医師や洋学の人たちが、幕府の役人である外国人の名を借りて自分たちの箔を付けようとしたのではないか」としている。確かにあり得ることだが、背教者を持ち上げまいとして書いた自分の見解が、フェレイラの周囲にいたであろう日本人を侮辱しかねないことには気が付かなかったのだろうか。
4.どうしてもフェレイラを殉教させたかった人々
フェレイラの背教によって衝撃を受け、彼に接触し背教を取り消させよう、つまり殉教させようとした人たちがいる。
・ペトロ・カスイ・岐部
先ず、ペトロ・カスイ・岐部である。彼が、1639年に逮捕され江戸の評定所で尋問を受けた際、フェレイラと対面させられ説得を試みたことは上に述べたが、それ以前潜伏中にフェレイラの背教を聞き、長崎に行って説得したこともあったようである。
・マルチェロ・マストリリ
次に、イエズス会のマルチェロ・マストリリ神父である。彼は、ヨ-ロッパから日本へ赴き、1637年10月拷問の末に斬首された。
・アントニオ・ゴンサレスのグル-プとアントニオ・ルビノの二グル-プ
さらに、ドミニコ会管区長代理アントニオ・ゴンサレスを含む四人の司祭と二人の従者と、アンアントニオ・ルビノ神父によって組成された二つのグル-プである。
アントニオ・ゴンサレスのグル-プについては、上に書いたように、裁きの場でのフェレイラとの出会いがあったが、その後全員が殉教した。
ルビノ神父によって組成された二グル-プについては、第一のグル-プ8名は到着後逮捕され全員が殉教し、第二のグル-プは、小説「沈黙」の主人公のモデルとなったジュゼッペ・キアラ神父を含む10名全員が棄教したことと、そのうちキアラを含む4名の司祭は小日向に建てられた切支丹屋敷に終生収容されていたことは、前回の記事[その3]に記した。
キアラ以外の3名の司祭のうち、アドンゾ・デ・アロヨはキリスト教の信仰に立ち返る意志を見せたため、女牢に入れられたが、減食し20日ほどで衰弱死した。フランシスコ・カッソラは、女牢に入れられ女囚と通じたことを白状し(その真偽は不明)、まもなく病死した。ペドロ・マルケスは80余歳で病死した。
現代にも、フェレイラが殉教して、その一生を勇敢に終えたとの報告を書いた人がいる。イエズス会の歴史家ヨゼフ・フランツ・シュッテ氏である。シュッテ氏については、前回[その3]の記事の中で、「キリシタン時代の殉教者の数はせいぜい千数百人だ」との見解を出した人物としてご紹介した。
彼の報告では、「フェレイラは、80歳を超え(実際に死亡したのは70歳のときである)、数年間病気と衰弱で床についたのち、回心を表明した。奉行は彼を穴吊るしの刑に処し、彼はこの拷問により、キリストのために一生を勇敢に終えた。」とされている。
チ-スリク氏は、冷静に「ヨ-ロッパ側の楽観的な報告が、根拠があろうとなかろうと、我々は彼の人生の最期の時にあたって、死にゆく者のたましいに何が起こったかを知ることはできない。」としている。
次回は、クリストヴァン・フェレイラの生涯全般について気付いたこと、考えてきたことを、書いてみたい。
〈 つづく〉
[参考文献]
「キリシタン研究」 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」Hubert Cieslik S.J. 吉川弘文館
殉教 日本人は何を信仰したか 山本博文著 光文社新書 429
長崎のオランダ医たち 中西 啓著 岩波新書 942
by GFauree | 2016-03-31 04:37 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(0)