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キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その1]


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このブログを書き始めてから約1年半が経ちました。その間に、以下の人物について記事を書いてきました。

1.慶長遣欧使節 支倉常長
http://iwahanjiro.exblog.jp/i3/
2.1613年リマ市にいた20人の日本人
http://iwahanjiro.exblog.jp/i2/
3.秀吉に会ったペル-出身の男 フアン・デ・ソリス
http://iwahanjiro.exblog.jp/i4/
4.長崎代官 村山等安
http://iwahanjiro.exblog.jp/i6/
5.ペトロ・カスイ・岐部
http://iwahanjiro.exblog.jp/i8/
6.キリシタン大名 有馬晴信と「岡本大八事件」
http://iwahanjiro.exblog.jp/i10/
7.天正少年使節 千々石ミゲル
http://iwahanjiro.exblog.jp/i11/
8.コスメ・デ・ト-レスフランシスコ・ザビエル
http://iwahanjiro.exblog.jp/i12/
9.南蛮医 ルイス・デ・アルメイダ
http://iwahanjiro.exblog.jp/i13/
10.マカオへ銀を運んだ船を率いた2人のペル-・イエズス会士
http://iwahanjiro.exblog.jp/i14/
11.背教者 クリストヴァン・フェレイラ
http://iwahanjiro.exblog.jp/i15/

上記のうち、2.の「リマ市にいた20人の日本人」と10.の「2人のペル-・イエズ会士」を各々一人と数えると、合計12人の人々について書いてきたことになります。

この時代の人で採り上げたい人物は他にもいるのですが、折角当地に住んでいるのですから、日本のキリシタン関係者は一先ず措くことにして、同時代とそれ以降の南米のキリスト教布教に目を向けてみようと考えました。

よく布教史と言うと、何処に教会や学校を作り、何人に洗礼を授け、どんな町が建設されたかなど、が語られることが多いようです。ですが、私としては改宗した先住民の人々がどのようにキリスト教を理解し受け容れたのか、についておぼろげであっても私なりのイメ-ジをもっておきたいと考えました。

そこで思い出したのが、高瀬弘一郎著『キリシタンの世紀』(岩波書店)に紹介されていた古野清人氏の論文『キリシタニズムの比較研究』(『古野清人著作集』五 三一書房)です。その論文なかで、「潜伏時代はもちろんキリシタン時代においても、その信仰がいわゆるシンクレティズムであった」ことが論じられているということでした。

シンクレティズムとは、「相異なる信仰や一見相矛盾する信仰を結合・混合すること」と、Wikipediaでは定義されています。

運良く『古野清人著作集』五、を入手することができました。古野氏は、その中で日本のキリシタンの信仰は「伝統的に固有な仏教と神道およびひろく民間信仰と民衆の慣行と、中世的ロマン・カトリシズムとの特異な習合形態、すなわちシンクレティズム」であり、「けっして正当なカトリシズムとはみなされない」ものである、と主張しているのです。


論文『キリシタニズムの比較研究』は前篇、後篇に分れています。前篇では、フランシスコ・ザビエルの渡来から迫害・殉教によって聖職者不在のなかで残存せざるを得なくなっていったキリシタン宗門史が概観されています。

その前篇を読んでいたときに改めて気付いたことが何点かあります。それは、

・「ペトロ・カスイ・岐部」や「背教者 クリストヴァン・フェレイラ」に関する記事で採り上げた通辞ジョアン・ロドリゲスや布教長フランシスコ・カブラルなどの日本人に対する厳しい見方から、日本人聖職者の登用が制限されていたこと

その結果、幕府の禁教政策が徹底され外国人宣教師が追放されてからは、キリシタン信徒は聖職者不在のなかで宗教活動を継続せざるを得なかったこと

・聖職者不在のなかで崩壊に瀕したキリシタン教会を維持していくために、組講の組織が外国人宣教師によって奨励されたこと。また、組講の活動を通じて、キリシタン教会の主導権は、聖職者から一般信者の中の指導者へと移って行ったこと

以上の内容をまとめると、

日本人聖職者の登用制限⇒組講組織の奨励⇒聖職者から一般信者の中の指導者へ主導権移行⇒外国人宣教師の追放⇒聖職者不在の中で組講の組織によって活動を継続⇒潜伏・隠れキリシタンの発生


フランシスコ・カブラルは1570年から10年間布教長の職を勤めています。ということは、日本人聖職者の登用制限はキリシタン布教活動の初期からの話だということです。その登用制限による聖職者の不足は組講の組織によって補われ、やがてそれは、潜伏キリシタンの活動に繋がっていったようです。

ということは、「日本人聖職者の登用制限」こそキリシタン活動の性格も展開も決定付けた要因である、と言うことが出来るような気がします。

そこで次回以降、「日本人聖職者の登用制限」や「潜伏・隠れキリシタン」について考えてみようと思います。

このブログを書き始めた頃、私はキリシタン時代史に興味があると言っても、「フランシスコ・ザビエル」「島原の乱」「殉教」「隠れキリシタン」には関心がないなどと書きました。ところが今になってみると、コスメ・デ・ト-レスに関する記事で「フランシスコ・ザビエル」を、小説「出星前夜」の記事で「島原の乱」を、ペトロ・カスイ岐部背教者クリストヴァン・フェレイラに関する記事で「殉教」を採り上げてしまいました。そして、「潜伏・隠れキリシタン」についても、自分なりに見直してみようと思っています。わずか1年半の間に、キリシタン時代に対する見方がだいぶ変わってきています。

〈つづく〉





by GFauree | 2016-05-30 13:00 | 異文化理解と他者認識 | Comments(0)  

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