キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その3]
2016年 08月 22日
(写真撮影 三上信一氏)
前回[その2]では、「イエズス会への日本人入会阻止」を主張した日本布教長フランシスコ・カブラルの見解を採り上げました。今回は、同様な主張をした通辞(=通訳という意味です)ジョアン・ロドリゲスの見解を採り上げる準備として、彼の人物像をなぞってみたいと思います。
〈通辞ジョアン・ロドリゲスという人物〉
・北ポルトガルの寒村に生まれ、自分の生年月日も知らなかった
生まれは、北ポルトガルの外れにある人口1万人の町セルナンセリェ。生まれた時期は、1561年から63年頃とされてはいますが、どの記録にもポルトガルの寒村の生まれだと書いてあるだけですから、彼自身も生年月日を正確には知らなかったようです。
同じイエズス会士といっても、ナバラ(スペイン)やキエティ(イタリア)の貴族の家柄の出であるフランシスコ・ザビエルやアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノといったエリ-ト達とは出生の背景が全く違うところが特徴的です。
・抜き難い出身地の方言をバネに、外国語(日本語)の習得に励んだ
セルナンセリェは山岳地帯の田舎であり、そのために彼自身は生涯,郷土の方言に悩まされたとのことですが、かえってそれが外国語である日本語や中国語の習得の動機となり、特に日本語習得については人並み以上の才能を示すことになったと考えられています。
「通辞ロドリゲス」という通称も、同姓同名のイエズス会宣教師である別人と区別する必要(そのくらい、ジョアン・ロドリゲスという名前は、ありふれたものだったということでしょう)から使われたようですが、ヨーロッパ人宣教師としては珍しく刻苦勉励して日本語に堪能で有能な通訳者となった、との彼自身の自負がそこに込められているようです。
彼の日本語熟達の程度は、単なる通訳の域を超えて、当時の権力者たちとイエズス会との外交折衝に参画し、後に秀吉、家康の愛顧を受ける要因ともなります。
また、日本語に関する事象を取り扱った語学書『日本大文典』を長崎で、『日本小文典』をマカオで刊行し、日本語研究の成果を残しています。
・少年時代、宣教師または商人の使用人として来日し、戦(いくさ)に加わったこともある
13,4歳の頃、宣教師か商人の使用人としてリスボンの港を発って、インド、マカオを経由し、1577年に日本に上陸します。
1578年、大友宗麟は島津氏の攻撃を受けた伊東氏を助ける等の目的で、日向に大軍を進めていますが、ロドリゲスはそれに従軍し敗戦を経験します。
その後豊後に留まったロドリゲスはイエズス会に入会し、1581年府内(大分市内)に開設されたコレジオ(神学校)に入学します。
・インド副王使節団の通訳としてデビュ-する
1590年7月、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが、帰国する遣欧少年使節を引率して再来日します。ヴァリニャ-ノは、87年に発布されたバテレン追放令に配慮して、ポルトガル国インド副王使節として秀吉に謁見することを試み、成功しますが、その際にロドリゲスは通訳として随行します。そして、それを機会にロドリゲスは秀吉の愛顧を得るとともに、重臣たちとの関係も築いて行きます。
・二十六聖人殉教事件で暗躍したと非難される
1596年、スペイン船サン・フェリペ号の土佐漂着によって発生した事件に対し、ロドリゲスはその解決に奔走し、外交的手腕を発揮したと言われています。
しかし、その事件の結果処刑され殉教した二十六人(二十六聖人)のうち、イエズス会関係者は三人のみで、その後もイエズス会は日本における布教の上で、有利な地位を確保し続けたとして、フランシスコ会・ドミニコ会など他の会派から批判を受けることになります。
・プロクラド-ル(財務担当者)として抜群の手腕を発揮した
日本イエズス会の活動が、海外で運用・回収する資金や貿易取引の収益やポルトガル船貿易の窓口としての役割に依存していたことは周知のことですが、これを運営・管理する必要から、長崎、マカオ、マラッカ、ゴア、リスボン、マドリ-ドに日本イエズス会のプロクラド-ルが配置されていました。(おそらく、長崎以外のプロクラド-ルは他の職務を兼任していたのでしょう。)
長崎駐在のプロクラド-ルは、特に高度な政治的および経済的手腕が要求される重要な地位であるとして、1600年頃から最高の職階(階級)である「盛式四誓願司祭」が任ぜられるようになっていたことは、ルイス・デ・アルメイダに関する記事(http://iwahanjiro.exblog.jp/21914656/)に書きました。
・「盛式四誓願司祭」に昇格する
ロドリゲスは1598年頃からマカオに転出する1610年までの12年間、長崎のプロクラド-ルを努めています。彼は1601年、上述の「盛式四誓願司祭」に昇格していますから、実際はプロクラド-ルに任ぜられてから手腕を認められて「盛式四誓願司祭」に昇格したことになります。ロドリゲスの手腕がそれ程優れたものであったと考えることはできますし、また自分の業績が如何に優れたものであるかを組織に訴えることにも長けていたのでしょう。
・ポルトガル船貿易全体に強い影響力を持つようになる
プロクラド-ル(財務担当者)の役割は、単にイエズス会の布教活動に必要な資金の収支を管理することだけではありませんでした。
ロドリゲスが、プロクラド-ルとして日本イエズス会を財政面で支えたポルトガル船貿易全体を円滑に進める役割上、日本の有力な商人や大名たち、さらには最高権力者家康とも接触を保ちながら、次第にポルトガル船貿易全体に強い影響力を持つようになったことは想像に難くありません。その過程で、後に対立すようになる長崎代官村山等安とも、当初は連携して行動しています。
・「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」の影響を受けてマカオへ追放される
1609年6月に長崎に来航したノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号が、翌年1月有馬の水軍の攻撃を受けて自爆するという事件が発生します。
(この事件については、「キリシタン大名」有馬晴信に関する記事で採り上げましたので、ご参照下さい。
-http://iwahanjiro.exblog.jp/i10/-)
この事件の結果、ポルトガル船貿易に関わってきた内外の商人等多数の関係者が甚大な損害を蒙ることになります。そして、このような事態を招いた原因は、日本人がマカオへ出かけることを禁じてポルトガル商船の特権を保証するような朱印状が(家康から)下付されたためであり、その朱印状を引き出すための裏工作にロドリゲスが関わっていたとされたのです。
実際に、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号船団の代表団長マテオ・レイタンが、長崎来航の翌月駿府を訪れており、このときロドリゲスは通辞として代表団一行を引率しています。そして、一行は家康に謁見し、家康から「日本人がマカオへ出かけることを禁ずる」命令(朱印状)を出す旨の約束を得ています。
問題は、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号の船長として来日したアンドレ・ペッソアは、マカオのカピタン・モ-ル(知事または総督に相当する地位)であり、有馬晴信の朱印船の乗組員であった50人近い日本人が殺された前年の「マカオ事件」の現地側の責任者であったことです。ポルトガル船の権益を擁護し日本人のマカオ渡航を制限するような命令を引き出すよう働きかけるならば、当然「マカオ事件」について家康に釈明すべきところですが、それがなされていなかったのです。
普通に考えると、命令(朱印状)が不当に出されたのであれば、その責任は命令を出した家康にもある筈ですが、まさか最高権力者である家康に責任があるという訳にはいかないという理由で、働きかけたロドリゲスの責任ということになったのでしょう。その結論が出る過程には、イエズス会に反感を持っていた長崎奉行長谷川左兵衛と代官村山等安の策謀があったとされています。
ロドリゲスは事件から僅か2か月後、船が自爆・沈没してしまったために陸に取り残されていたポルトガル商人たちと一緒にマカオ行のジャンクに乗せられ追放されたのです。
・ロドリゲス追放の理由については他にも噂があった
高瀬弘一郎著「キリシタン時代対外関係の研究」(吉川弘文館)第十三章「長崎代官村山等安をめぐる一つの出来事」には、1615年12月6日付マカオ発マノエル・ディアスのイエズス会総長宛て書簡が引用されています。(http://iwahanjiro.exblog.jp/20887207/)
そして、「ジョアン・ロドリゲスと村山等安の妻との間の道ならぬ、しかも聖職者にあるまじき関係、およびそれを知った夫等安がロドリゲスの日本追放を策した、という事実を知ることができる。」とあります。
マイケル・ク-パ-(イエズス会士・歴史家)著「通辞ロドリゲス」(原書房)第十三章「追放」には、同じ書簡が引用されていますが、そこには以下の記載もあります。
「神父の頭には大きなできものが幾つもできていました。あれは性病だと言う人もあります。どんな治療をしたか知りませんが、頭に大穴が開いてしまって、一年以上かかって手当をしてやっとよくなったものの、頭のうしろにできたみにくい穴は、とうとうふさがりませんでした。」
このようにロドリゲスの醜い容貌を強調するような記述が何故仲間である筈のイエズス会士によってなされたのでしょうか。
「ロドリゲスの生活が乱れていた」と言いたかったのか、それとも「それ程醜い容貌をしていたロドリゲスには、人妻と道ならぬ関係に陥る可能性などなかった」とでも言いたかったのでしょうか。
・後に、家康はロドリゲスを追放したことを後悔していたと言われているが
ロドリゲスを追放してから二年後、家康はロドリゲスを追放したことを後悔し、イエズス会士との謁見の席で、彼を呼び戻すよう口走ったとイエズス会管区長ヴァレンティン・カルヴァリョが書いています。
カルヴァリョとしては、家康の言葉を採り上げることで、「ポルトガル船貿易の円滑な運営のために、日本にとってロドリゲスの存在が如何に大きなものであったかを家康が後になって思い知った」と言いたいのでしょうが、家康のその言葉は過ぎ去った人物に対する単なる社交辞令と考えたほうが良さそうです。
というのは、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号船団一行が長崎に来航し、駿府を訪問した際、この一行より遅れて平戸に着いたオランダ船の代表団の謁見が終わるまで、ポルトガル船の一行は待ちぼうけを喰らわせられているのです。この「待ちぼうけ」は、日本との通商をもはや独占させない旨のポルトガルに対する通告、を意味していたのです。
そして、ロドリゲスの後釜には英国人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)が据えられ、「脱ポルトガル・イエズス会」路線への体制作りが着々と進められていたと考える方が自然だからです。
〈むすび〉
ジョアン・ロドリゲスが果たした権力者たちとの折衝役や、イエズス会財務担当者というよりポルトガル船貿易業務推進役という役割は、日本のキリシタン教会の展開に欠かせないものであったことを、改めて感じながら書いているうちに冗長になってしまったようです。
ロドリゲスの日本人批判については、次回とさせて頂きます。
〈つづく〉
[参考文献]
日本教会史 (上) 解説 土井忠生 大航海時代叢書 岩波書店
通辞ロドリゲス マイケル・ク-パ-著 松本たま訳 原書房
キリシタン時代の研究 高瀬弘一郎著 岩波書店
キリシタン時代対外関係の研究 高瀬弘一郎著 吉川弘文館
by GFauree | 2016-08-22 07:28 | 通辞ジョアン・ロドリゲス | Comments(2)