【大航海時代のおと】

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キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その4]

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                                         (写真撮影 三上信一氏)





前回[その3]では、通辞ジョアン・ロドリゲスの人物像をなぞりましたが、今回[その4]では、彼の「イエズス会への日本人入会阻止」の主張をとりあげます。

その主張は、1598年2月28日付で長崎からイエズス会総長宛てに送られた書簡に書かれており、その書簡の訳文の一部が、遠藤周作著「銃と十字架」(評伝 ペトロ・カスイ・岐部)とマイケル・ク-パ-著「通辞ロドリゲス」に掲載されています。

両者の訳文を比べてみると、遠藤の文章の方が直截的でまわりくどくないので、それを以下に引用し、不足している部分はク-パ-の訳文を括弧を付けて表示します。なお、基本的には掲載されている訳文をそのまま転記しますが、読み易さを考慮して気になる点は、一部表現を変えてあります。



〈ロドリゲスの主張〉


私は、きびしい選択と調査をせずに日本人を修道士にすることは、わが(イエズス)会のため適当ではないと考える者であります。

日本人はヨーロッパ人に比べ、天賦の才に乏しく、また徳を全うする能力に欠けています。
(日本人は生まれつき気の弱い情緒不安定な国民で、)聖なるわれらが宗教は彼らにまだ深い根を下さず、改宗も近来の事ですから、基督教についても根本的によく知らず、理解もしていません。

こうした連中をイエズス会に入れることは良いとは絶対に思われません。

(多勢の不完全な者たちを抱き込むのは会のためになりません。彼らは誘惑に遭うと、それに負けてあっさりと信仰を棄ててしまうからです。もうすでに何人かの者は退会して異教徒(注)たちの住んでいる地区を徘徊しておりますが、日本にはそういうことをさせないように歯止めになる裁判所がないので、背教者として処罰するわけにいきません。)

(注)キリスト教に改宗していない日本人


その点、私自身、長年、次のような見解を抱いています。


たとえ入会する日本人が百人以上ありましても、そのなかに信者を統制する才を備えた者なく、教義に通達した者なく、魂を救う道に大きな情熱を持っている者もありません。まして、その中から司祭になる能力を持った者は今日、一人もいないのです。
(しかも困るのは、だれでもいずれは統治権を行使したくなる(注)ことです。)

(注)「自主性・主体性を発揮したくなる」または「主導権を執りたくなる」の意味だろうと思われます。

彼等の大部分は幼少から神学校で教育を受けているのですが、イエズス会に入会して何をするのか、また選ばれて入会する者の使命がどんなに重大なのかわきまえずに、神学校時代に教育を受けた教師に嘆願して、ある年は13人も修練院に入ることを許されているのです。

これらの日本人の特徴は偽善です。彼等は天性から、外側は謙虚で冷静を装えますから、わが会士はそれに幻惑され、この連中の信仰心がヨーロッパ人ほど強くなく、修徳も不完全なことを知らず、また見抜けないのです。



〈ロドリゲスの主張について考えたこと〉



1.彼の性格


「通辞ロドリゲス」の著者マイケル・ク-パ-は、「この書簡は、ロドリゲスが健康を害していた時期に、憂鬱な気分に襲われて一気に書きなぐった手紙だ」と、書いています。また、この書簡が 書かれる5年前、1593年のロドリゲスに対する会内部の人事評価には、「利口だが、判断はやや思慮に乏しく慎重さを欠く」とされているそうです。

ただし、ロドリゲスが日本人に対してだけ厳しい見方を示したという訳ではありません。同じ書簡の中で「要するに現在日本にいる(ヨ-ロッパ人)会士の中には、会の統治の適任者はおりません。」と記しているのです。

ロドリゲスには、上に対して報告をするような段になると、つい同僚や周囲の仲間について手厳しい指摘をしてしまう性癖(育ちの悪さからくる歪んだ性格?)があったのかも知れません。(私は自分の経験から、何処の職場にもそういう性癖を持った人はいるのではないかと思いますが、どうでしょうか。)


2.これを書いた時期のロドリゲス


この書簡を書いた頃のロドリゲスについて、私はつぎのようなことを考えています。


(1)
この書簡が書かれたのは、「二十六聖人殉教」事件の1年後です。26人の殉教(処刑)者のうちイエズス会関係者を3人のみにとどめるべく、ロドリゲスが暗躍したと非難されたことは、前回の記事[その3]に書きました。

また、秀吉の死の7か月前でもあります。ロドリゲスが秀吉の死の約2週間前に会って言葉を交わしたという話がありますから、この書簡を書いた頃には、既に秀吉と親密に交流する立場にあったと言えるでしょう。

これらのことから、この時期の彼が、イエズス会と権力者たちとの間を繋ぐ折衝役として、単なる通訳としての立場を超え、会にとって貴重な存在になっていたと考えることが出来ます。


(2)
この年(1598年)に、ロドリゲスは、イエズス会内部の財務のみならずポルトガル船貿易全体の運営を取り仕切る長崎のプロクラド-ル(財務管理責任者)に就任しています。そして、おそらくその実績が認められてのことなのでしょう、およそ2年後の1600年前後には、盛式四誓願司祭というイエズス会内の最高の階位を授けられれます。

ちなみに、この時代、23人の日本人がイエズス会で司祭に叙階されていますが、その階位を授けられた者は一人もいません。


(3)さらに、彼は書簡の中で総長に対し、自分が長崎の院長の顧問の一人に指名され、規則に従って年次報告としてこれを書いていると、述べています。

以上(1)~(3)から考えると、この書簡を書いた時期に、彼は組織の中で能力と実績を認められ、また相応の処遇を受けるようになり、本人自身当然それを誇らしく感じていただろうと思うのです。

祖国から遠く離れた極東の島国で、徒手空拳の身で家柄・出身の重んじられる組織に飛び込んでから苦節17年、漸く会の中で一目を置かれる存在となり、会の運営の中枢の地位を掴みかけているのです。そう感じた彼が、得意の絶頂にあったとしても不思議ではありません。

しかし、人間得意の絶頂にあるときほど、注意が必要です。どうしても、気が緩んだり血気に逸ったりして、本音や本心を露わにしたくなって来るからです。彼は、総長宛てに書簡を書く機会に、下積み時代からの日本人に対する恨み辛みをぶちまけてしまったということでしょう。

と言っても、万事そつがなかったであろう彼の事です。自分の書く「日本人入会阻止の主張」が会の中でどのように受け留められるかは、充分計算していたでしょう。その2年前に書かれた、フランシスコ・カブラルの同様の主張の内容も、またそれが会の中でどう受け入れられたかも、知っていたかも知れません。


3.日本人信者批判の中身について


先ず、日本人信者批判の材料として日本人の国民性のようなものを挙げています。
国民性というのは、一朝一夕には変えることの難しい或る国の国民特有の性格のはずです。そのため、ある事業をどこかの国で新たに展開することが困難なときの言い訳としてよく使われます。

ところが、良く考えてみると、ある国の国民性として挙げられている事柄は、他の国の人々についても言えることが多いのです。

他に彼が批判の材料として挙げていることは、「キリスト教についての知識・理解や聖職者に求められる適性や使命感が不足している」ということですが、それはもし布教を推し進めたいならば、自分たちヨ-ロッパ人自身が何としてでも努力して教育すべき事柄です。

つまり、彼はどこの国の国民についても言えることを材料に日本人を批判し、本来自分たちが続けていくべき努力を否定し、放棄しようとしていることを吐露しているのです。

こんな彼の理屈が、彼の属した組織の中で大まじめに採り上げられたのだとしたら、あきれる思いがしますが、同時にその組織はとても人間的な組織だったと言えるのではないかとも思います。



[その1]の記事で言及しました古野清人氏の論文「キリシタニズムの比較研究」の中で、日本人聖職者の養成・登用に関して述べられている箇所に、ロドリゲスの主張の問題性がみごとに指摘されていると思われる部分があります。


「いずれにしても、その時代の実情からして、日本人の大幅な登用は不可能であったとみるのが妥当である。それでも他面、外人宣教師がポルトガル、スペインの政治経済上の帝国主義の侵攻と一体になって、日本伝道を独占しようとした傾向は否定できまい。

彼らは日本人の信者に対し、一つはその国民性を傲慢として信頼せず、一つは信仰の未熟に危惧の念を抱いた。日本人のもついわば国民的矜恃を、彼らが傲慢とみなしたとすれば、それは白人の優越性を過信して、日本人の隷属的奉仕を当然な前提としていたからであろう。」


4.ロドリゲスと岐部



正会員でない同宿として9年間働いた後、自力で5年かけてロ-マに行きやっとイエズス会に入会が許され司祭となり、7年かけて日本へ戻り潜伏した後殉教したペトロ・カスイ・岐部について記事を書いたことがあります。
http://iwahanjiro.exblog.jp/21079249/
http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/

その記事の中に、岐部が
セミナリオ時代には教師たちの、同宿時代には信者たちの、共感と支持を得ていたのではないか、と書きました。その共感と支持を得ていた経験こそが、彼に最後まで自分の信念を貫き通させる原動力となったものではないか、と私は考えたのです。

そのことを思い出しながら、ロドリゲスの在り方を観ていると、岐部のそれと対照的なことに気が付きました。


ロドリゲスは、偽善的であるとさえ罵(ののし)って、日本人信者に対する抑えようのない不信感を吐露しているように見えます。そのうえ、日本人神学生を積極的にイエズス会に送り込み現地人聖職者養成を進めようと努力している同僚である教師たちにまで冷ややかな目を向けています。

日本でイエズス会に入会し司祭となったロドリゲスにとって、信者とは日本人しかいない筈です。その日本人たちとも、同僚である神学校の教師たちとも信頼関係がないのですから、孤独にしかなりようがなかったでしょう。

修道院の中に閉じこもって、祈りと労働に明け暮れる修道司祭でない限り、司祭にとっては、信者に奉仕することが何よりの責務であり喜びでもあるはずです。

ロドリゲスは、イエズス会と権力者たちとの政治折衝役、そして財務管理者・ポルトガル船貿易仕切り役として会内で力量を認められ、めでたく出世を遂げました。両方とも日本イエズス会ならではの独自性の強い、会の運営上最も重要な職務だったのでしょう。その結果、教会と司祭にとって最も大切にしなければならない信者に不信感をもち、聖職者養成の現場の教師たちとも共感を分かち合うことのできない官僚的な幹部エリ-トがひとり生まれたということでしょうか。

岐部は、ロドリゲスなどヨ-ロッパ人宣教師の提言によって打ち出された「日本人入会抑止」の方針があったからこそ、自力でローマへ行かざるを得なかったのです。それを考えると、二人の生き方の対照性がなおさら際立つような気がします。


5.虚ろな人々の仲間に


追放されマカオに送られたロドリゲスの表情は、たぶん虚ろなものだったような気がします。
前回[その3]の記事にも書いたことですが、ロドリゲス追放の2年後になって、家康は、謁見したイエズス会管区長の面前で「ジョアンを呼び戻せ」と臣下に命じて、たいそう管区長を喜ばせたそうです。

きっと、老獪な権力者は単純な聖職者をからかいながら、内心では空虚な高笑いをしていたのではないでしょうか。その後、イエズス会がロドリゲスを日本に呼び戻すよう何度働きかけても、家康が彼の名前を出すことは二度となかった、ということです。


〈完〉


[参考文献]

銃と十字架           遠藤周作著                新潮社
日本教会史 (上)     解説 土井忠生   大航海時代叢書     岩波書店
通辞ロドリゲス    マイケル・ク-パ-著 松本たま訳          原書房 
キリシタニズムの比較研究    古野清人著作集 5           南斗書房







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by GFauree | 2016-09-01 15:18 | 通辞ジョアン・ロドリゲス | Comments(0)