隠れてはいなかった「潜伏キリシタン」 [その1]
2016年 09月 22日
前回は、秀吉・家康という最高権力者たちとも交流を持つ立場にあった通辞ジョアン・ロドリゲスの、イエズス会への日本人入会阻止の意見を採り上げ、それについて私の思うことを記しました。
日本人聖職者の登用制限は、残された日本人信者により多くの制約を与えた
ともかくも、実際に日本人入会は阻止され、日本人聖職者の登用は制限されました。
キリシタン取締りが強化され、ヨーロッパ人宣教師が追放されて数少ない日本人聖職者も姿を消せば、信者たちは聖職者なしで宗教的活動を続けていくしかありません。
カトリック教会で行われる秘跡(神の恵みを信者に与える儀式)は、洗礼・聖体・堅信・悔悛(告解・懺悔)・終油・品級(叙階)・婚姻の七つです。このうち、司祭以上の聖職者でなくても行えるのは、洗礼だけです。
(つまり、洗礼だけは信者であれば授けることが出来るのですが、その他の秘跡は司祭以上でなければ執り行えないのです。)
日曜毎に、与(あず)からなければならないはずのミサも、それを執り行うには司祭以上であることが必要です。
従って、イエズス会の日本人聖職者登用制限は、禁教政策が徹底された後200年以上にわたって、残された日本のキリスト教信者の活動により多くの制約を与えたことになる、と私は考えるようになりました。
そして、そう考えたたとき、以前は「隠れキリシタン」は信仰の、つまり人の内面的な問題であり、また「鎖国」完成後に発生した事象だからという理由で、その話題を避けてきた私にも、日本での布教の一側面を示すものとして「隠れキリシタン」を捉える必要があるのではと思えてきたのです。
「隠れキリシタン」を見直してみようと思う理由は他にも
そのうえ、今私が住んでいる南米では、ちょうど日本からのカトリック追放が貫徹された17世紀前半頃から、「教化村」建設という形の画期的な布教方式がイエズス会によって進められ、それが18世紀後半に同会がスペイン王権によって追放されるまで発展し続けたという歴史があります。
「教化村」はイエズス会が王権により追放され、またロ-マ教皇により解散を命じられたため、その後消滅して行ったのですが、私はその「教化村」にいた先住民はどうなったのかということが気になります。そして思い付いたことは、日本布教区の先住民であった「隠れキリシタン」の人々がその答えのヒントを与えてくれるのではないか、ということです。
もう一つ、「隠れキリシタン」に関心を持つようになった理由があります。それは、自分がいよいよ歳をとってきたということです。ご都合主義だと笑われるかもしれませんが、歳をとるほど「信仰」というものが生活に必要なものとして身近になって来ることは確かです。本当に必要になると、以前はためらっていたことも、認めて受け容れることが出来るようになることも感じています。
そんなわけで、この期に及んでという感じが無きにしも非ずですが、改めて私が知ったこと、気が付いたことを以下に書いていこうと思います。まずは、言葉の定義から。
「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」の定義
インタ-ネットのWikipediaでは、次のような定義がされています。
「江戸幕府による禁教政策の下、密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々伝えていった人々を、『潜伏キリシタン』と呼ぶ。
これに対し明治時代以降、キリスト教の信仰が解禁されて再びカトリックの宣教がなされても、これを受け入れず、独自の信仰様式を継承している人々を『隠れキリシタン』と呼ぶ(学術的には、カクレキリシタンと片仮名表記する)こととされている。」
ですから、禁教の時代に秘かにキリスト教を信じていた人たちは「潜伏キリシタン」と呼ぶべきだし、「隠れキリシタン」の人々は現在も存在しているということなのです。そして、「隠れキリシタン」の人々がいるということは、「キリシタン時代」は現在も続いているとも言えるのです。
さて、「隠れキリシタン」(上の定義からすると、「潜伏キリシタン」と呼ぶべきなのでしょう)については、子供の頃通っていたカトリックの教会で次のような話を聞かされました。
子どもの頃聞いた「信徒発見」
キリスト教の信仰が禁止されていた江戸時代の末頃、長崎に教会が建てられると、近在の人々が見物に訪れるようになった。ある日、その中のひとりの女性が、フランス人神父に秘かに囁きそして尋ねた。
(1)自分は、あなたと同じ信仰をもっている。
(2)サンタ・マリアの御像はどこにあるのか?
(3)ローマ教皇を敬っているか?
(4)あなたは独身か?
(2)は、その女性と仲間の人たちが「聖母マリアを信仰すること」
(3)は「ロ-マ教皇を頂点とするカトリック教会の一員であるとの意識をもっていること」
(4)は「カトリックの神父は独身でなければならないことを知っていること」
を、それぞれ意味しており、それらによって彼らがカトリック信者であることが証明された、とフランス人神父は判断した。彼は、長い間続いた禁教の時代に信仰を守り通した信者を発見したことを喜び、ヨ-ロッパへ報告し、彼の報告は大きな驚きと喜びによって受け入れられた。
「信徒発見」をインタ-ネットで検索してみると
上に書いたことは、子供の頃聞いた話ですから、どこまで信憑性があるのか見当もつきませんでした。そこで、インタ-ネットで検索してみると、意外なことに私が聞いたと思っている話は巷の情報とだいたい一致していました。
ただ、(1)と(2)は、どの情報にも記載されているのですが、(3)と(4)は書かれていない場合が多く、僅かにカトリック教会のものと思われるサイト(http://yonohikari.sakura.ne.jp/decouverte.html#header)に、五島から来た信者が別の機会に3.と4.を尋ねた、とされています。
また、女子パウロ(修道)会のサイト(http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/shintohakken.php)には、信徒を「発見」したフランス人神父(ベルナ-ル・プティジャン)の同僚神父への手紙の内容として(1)と(2)が記載されています。
さらに、そこには例の女性が、自分たちは毎年末近くにキリストの生誕(クリスマス)を祝っていると語り、また彼女が教会を訪ねて来たその日(1865年3月17日)が、復活祭前のキリストの受難を悲しむ時期(四旬節)にあたることを、知っていたと書かれています。
以上の他に「信徒発見」に関して、長崎に近い浦上と外海地方の「潜伏キリシタン」の拠り所となったと言われているものについて、五野井隆史氏が書かれた記事を見つけました。
(http://www.jesuits.or.jp/~j_seimikibun/yurusi11.pdf)
「潜伏キリシタン」が拠り所としたもの
・バスティアンの予言
・バスティアンの日繰り(暦)
・教理書「天地始之事」
バスティアンは、迫害を逃れながら主に九州の西彼杵半島で活動していた日本人宣教師です。
バスティアンの日繰り(暦)とは、追放された外国人宣教師の指導で彼が作った典礼(宗教的儀式)の暦です。それが、木版印刷されて切支丹たちに配られ彼らの宗教的活動を支えたと考えられるのです。例の女性が、クリスマスを祝うことを語り、教会を訪れた日が復活祭前の四旬節であることを知っていたということは、彼らがその典礼暦を使っていた可能性を示します。
彼は、1657年に捕えられ3年後に斬刹されましたが、一つの予言を残しました。それが、バスティアンの予言です。
それは、「今から7代経てば、丸にヤ(やそ、耶蘇=キリストの意味か?)の字の帆を立てて、パ-ドレ様が大きな船でやって来る。そうしたら、切支丹たちは毎週でも告解(懺悔 ざんげ)をすることができ、大きな声で賛美歌(聖歌)を歌って歩けるようになる」というものです。
「信徒発見」について気付いた事と疑問
1.パリ外国宣教会
まず、キリシタン信徒を「発見」したベルナ-ル・プティジャン神父が所属する組織として、「パリ外国宣教会」の名前が出て来ることです。
背教者クリストヴァン・フェレイラに関する記事の中に、1622年ロ-マ教皇庁がポルトガル・スペイン両国の国王権力に依存した海外布教体制の問題に対処すべく、布教聖省を設置したことを書きました。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)
「パリ外国宣教会」は修道会としてではなく、海外布教を志す教区司祭によって構成され布教聖省の枠組みの中で海外布教活動を行う団体として発足しました。18世紀、インド布教の担当からイエズス会が外されると、「宣教会」が代って委託を受けることになります。
しかし、「宣教会」の布教活動が、フランスによるインドシナやインドへの進出の先兵となったとの指摘もあります。フランス領インドシナ植民地の起源は、ナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的(名目?)に、1858年遠征軍を派遣したのに始まるとされているのです。
ポルトガル・スペイン両国の海外進出と連携した布教体制の反省に基いて設置された布教聖省の枠組みの中で活動する筈の「宣教会」も、結局は国家の植民地主義的海外進出の動きに乗らざるを得なかったということでしょうか。
幕末の長崎でキリシタン信徒を「発見」したのが、パリ外国宣教会のフランス人司祭であったことの中にも、ポルトガル・スペインからオランダを経てフランス・イギリスへと変遷して行った欧州列強のアジアでの覇権の推移が見えるような気がします。
2.カトリックとプロテスタントを区別するための質問
私は長い間、上に挙げた四つの事項は、上に述べたように、全て例の女性が最初に教会に現われたときに司祭に言ったものと思っていました。また、(1)~(4)のうち信仰に関するものは(1)と(2)だけで、(3)と(4)はカトリック教会という組織の単なる決め事ではないか、という気がしていました。
今回、(3)と(4)は、別の機会に他の信者が尋ねたとされていることを知りましたが、それにしてもこの人たちは、信仰の中身よりは随分教会という組織の決め事を重要視していたのだな、と感じました。それに、(2)聖母マリア信仰と(3)ローマ教皇崇拝と(4)神父の独身(プロテスタントの牧師は妻帯できる)はカトリックとプロテスタントを区別するときに使われる常套的なチェック・ポイントです。
もし宣教師のような外国人が来たら、こんなことを訊いてプロテスタントでないかどうか確かめるように、教育されて代々引き継いできたのでしょうか?だとすれば、いつ、だれがそういう教育をしたのでしょう?
帰国した外国人宣教師が教えていったのか
最も考えやすいのは、1630~50年頃(「キリシタン時代」末期)に、追放された外国人宣教師が信者に教えていったのではということです。誤って潜伏キリシタン信者の存在を、プロテスタントの牧師に明かしでもしたら、幕府に通報されて潜伏さえ出来ないよう根絶やしにされると恐れて、そういう教育をしたのではないかということが考えられます。
ただ私は、「鎖国・禁教」体制が確立された時期に日本にいた外国人宣教師が日本人信者に対し、それほどカトリックとプロテスタントの違いを強調することはなかったのではないかという気がします。
「キリシタン時代」にカトリック・プロテスタントの違いは、常識だったか
両者の違いを強調することは、例えば40年近く続いたフランスのユグノ-戦争(1562~1598年)など、カトリック・プロテスタント間の血で血を洗うような対立抗争の現実を露わにすることになりかねません。純真なところがある反面、耳ざとく猜疑心が強いと定評のあった日本人信者に対し、同じキリスト教信者同士が憎み合い、殺し合っている状況を明かす情報を、用心深い外国人宣教師が伝えたとは考え難いのです。
キリシタン禁教政策の元締めであり、最も情報が集中していたであろう幕府でさえ、「自分たちは、プロテスタントだからキリスト教布教の意志はない」というオランダの主張にもかかわらず、終始オランダに対しても警戒的な姿勢を崩さなかったようです。
それは、カトリックとプロテスタントの違いや敵対関係について、幕府でさえ、決定的な情報を持っていなかったということを意味しているのではないでしょうか。もしそうだとすれば、まして一般の信者がそういった情報を得ていた可能性は殆どないでしょう。
でも、もし情報源が日本を去った宣教師たちでないとすると、その後約200年の間のいつ、だれが、どんなきっかけで、そんな教育をしたのか、謎が残ります。
「発見」の喜びと親切心から
案外、「潜伏キリシタン」に遭遇したフランス人司祭が、「発見」の喜びと彼らをカトリック教会に迎え入れたいという親切心から、その趣旨に沿った報告を書いたということもありうるのではないかと私は思います。
3.キリシタンは隠れてばかりいたわけではないのではないか
私は「潜伏キリシタン」や「信徒発見」などの言葉だけから、なにかキリシタンがひたすらじっと隠れていて、外国から来た神父さんに「発見」してもらったような印象を持っていました。けれども、実際は教会を建てて待っていたのは外国人宣教師のほうで、そこに勇気ある日本人女性が自発的に現われて自分の信仰を表明したという話であることを今回改めて感じています。
例えば、長崎北部の浦上地区では、「信徒発見」の1865年の74年前(1791年)から再三にわたってキリシタンの捕縛事件(浦上一番~三番崩れ)が発生していました。これらは、告発や密告によって官憲が動いたもののようですが、告発や密告がなされること自体「潜伏キリシタン」の動きが活発になってきて、それに反発する者がいたということでしょう。
次回は、その時期に起きていたキリシタン検挙の事件の内容とその結末を観ていきたい思います。
〈つづく〉
by GFauree | 2016-09-22 12:11 | 隠れキリシタン | Comments(0)