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隠れてはいなかった「潜伏キリシタン」 [その2]

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                                         (写真撮影 三上信一氏)



前回[その1]では、「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」の定義や、よく話題になる「信徒発見」について書きました。

今回は、意外と再三にわたって発生していたキリシタン捕縛事件について、古野清人著「キリシタニズムの比較研究」に沿い、その内容を振り返ってみようと思います。




1657年《郡崩れ》


島原の乱(1637年)の二十年後、大村藩(長崎県彼杵郡)において8名の指導者(うち5名は60歳を超した老人)が、天草四郎に似たメシア(救世主)思想に基いたキリシタンの教えの布教に従事していた。
これが、長崎奉行に知れ、当初2か月間に608名が検挙された。
翌年、7月に42名が斬殺され、牢死78名、永牢20名、赦免された者99名。

以後10年間に、豊後(大分県)で500名が逮捕され、約半数が死刑に処された。
美濃(岐阜県南部)、尾張(愛知県西部)では、1665年に200名斬首、1667年に約2、000名逮捕、1697年に約40名が斬首された。


1790~91年、1792~93年《浦上一番崩れ》

長崎北部の地域浦上で、旦那寺への寄付金を拒んだ者がいたことから、キリシタンの存在が発覚、19名が逮捕されたが証拠不充分で釈放された。また、その翌年にも同様の事件が発生したが、逮捕された者が起請文によって(仏教への)改宗を誓ったので解決した。


1805年

天草で「異法」を信ずる者が発見され、問題となる。


1842年《浦上二番崩れ》

幕府が長崎に与力(奉行補佐)10名、同心(与力の部下)15名を置いたことを契機に、密告者が動き逮捕者が出たが間もなく放免された。


1856年《浦上三番崩れ》

密告や庄屋などからの訴えがあり、15名が逮捕された。
翌年、浦上の戸主は全員役所に召喚され奉行から詰問を受け、「異法と心つかずに、先祖代々伝えてきたのを守ったまでで、今後は断然やめる」と誓った。


1867年《浦上四番崩れ》

1865年3月、浦上から大浦天主堂を訪れた信者がパリ外国宣教会の司祭に出遭ったと(「信徒発見」のこと)の噂は、瞬く間に周辺全村に知れ渡り、翌日から参観者が激増し、すさまじい宗教的興奮が集団的に感染していった、と言う。

そのような状況の中、或る死亡者が旦那寺に告げられず自葬された。それをきっかけとして、400戸以上の村民が寺請制度を拒否する書付を出し、カトリックへの改宗を宣言した。68名の男女が捕縛され投獄された。

この年幕府が瓦解し、翌年明治政府が成立した。


明治新政府は、神道国家主義に立ってキリスト教を排撃する立場を採り、キリシタンの蜂起と暴動を恐れた。
明治元年(1868年)、御前会議において、首謀者を厳刑に処し残る3,000人余りを尾張などの諸藩に配流し、各藩に生殺与奪権を与え、中心地浦上からキリシタンを一掃することが決定された。

政府は各藩に取締りを命じ、五島では、236戸(1,100名)が検挙され出牢の後、村預け32戸(507名)、棄教した者335名、出奔196名、病死30名。

明治2年末、政府は浦上の信者の〈移民〉計画を厳格に実行した。
政府は各藩に彼らを棄教させるように説諭せよと命じ、各藩は〈移民〉を概して酷遇し虐待し、時にはひどく拷問した。

明治6年、政府は世界列強の外交力に圧されキリスト教禁制の高札を撤去し信者を釈放した
4年余りの流刑の総員は3,404名、そのうち死亡660名、新たに出生176名、結果2,920名となった。
このうち棄教者939名、信者1,981名。

帰村しても、既に家は無く耕作や食物にも不自由し、流行病などにも災いされ永く苦難が続いた。


〈思うこと〉


1.先祖代々の教え


まず、キリシタンが一掃されていたとの印象のある「島原の乱」から20年を経た後の長崎で、またそれ以降10年にわたって豊後(大分)で、大規模なキリシタン検挙があったということ。さらに、1600年代の末期になっても、美濃・尾張で多数のキリシタンの逮捕・斬首事件が複数回起きていたということを、私は初めて知りました。

ただ、これら全てが本当にキリシタン弾圧であったか否かには疑問が残ります。「島原の乱」の例を勘案すると、諸藩がキリシタン取締りを名目にして内政の混乱収拾を図ったことが考えられるのです。しかし、諸藩は幕府によってキリシタン取締りを名目に藩内部の情勢を監視されていることを察知していたとも言われています。つまり、藩内部の統制上の混乱を安易にキリシタンの存在に帰することは難しくなっていたと考えられますから、キリシタン検挙以外のものが混入している可能性は低いとも言えます。

また、九州だけでなく美濃・尾張など広範な地域で、また幕末には頻繁に、発生していた検挙事件を観ると、一旦根付いた宗教を一掃するということが如何に困難な事であるかに気付かされます。

その点について、私は次のようなことを考えます。

ザビエルの渡来(1549年)から「鎖国」の完成(1639年)までの90年間は、一見僅かな期間に見えますが、世代ということを考えるとそうでもないのです。

例えば、ザビエル渡来の1550年頃、20歳だった人が洗礼を受けたとします。その時代、結婚も子供を持つのも早かったでしょうから、すぐに子供が生まれ洗礼を授けます。もうこれで初代と二代です。

20年後には三代目、40年後には四代目、60年後1610年には五代目が生まれたことになります。初代からみると五代目は玄孫(げんそん・やしゃご)、五代目からみると初代は高祖父母(こうそふぼ・ひいひいじいさん、ひいひいばあさん)ですから、立派なご先祖です。

つまり、初代が洗礼を受けてから60年後に生まれた人にとって、キリスト教はご先祖(高祖父母)の時代から代々信仰している尊重すべき我が家の宗教ということになります。そういう意味で、まして90年という期間は、ひとつの宗教が根付くには充分な時間だったのではないかと思えてくるのです。

「浦上三番崩れ」の際に信者が語ったとされる「異法と心つかずに、先祖代々伝えて来たのを守ったまでで・・・」という言葉は、厳しい取り調べに対する言い逃れのように聞こえますが、ある意味で正直な心情が語られているようにも感じます。


2.禁教は辛(つら)い人生の安らぎや支えだけでなく、心地よさや娯楽まで奪った


また、浦上では「信徒発見」の75年前(1790年頃)から、旦那寺への寄付金拠出拒否などキリシタンとしての意思表示が既になされていたらしいことが驚きです。

また、「信徒発見」の23年前(1842年)に、与力や同心が増員されたことを契機に密告者が出たとのことですが、それは順番が逆でしょう。キリシタン信者に不穏な動きがあるのを察知、警戒して役人が増員された筈です。ということは、このときも信者は何か行動を計画していたのかも知れません。「浦上二番~三番崩れ」の動きは、幕藩体制、鎖国・禁教政策の終焉を待ち構えていたようにも見えますし、「信徒発見」の際のプティジャン神父への接近はその一つの現れのようにみえますが、どうなのでしょうか。

それにしても、何故このように強靭な、しかも時には行動的な信念を持ち続けることができたのでしょうか。

それについても、私は考えることがあります。
それは、キリシタン禁教政策が信者から何を奪ったか、ということです。

禁教政策は信者から、キリスト教から得られる多くの喜びを奪い取ったのです。
(これは、当たり前の事かも知れませんが、私はキリシタンの祈りとか信仰とかばかりに気を取られて長いこと気が付きませんでした。)

・辛い人生を生きていくための、安らぎと支え
・告解をした後の気持ち良さ
・聖堂内で炊かれる香の匂い
・祈りの言葉、聖歌
・神父さんの説教、葡萄酒の匂い
・ミサを終わって出てくるときの、晴れやかな気持ち
・寒い冬を暖かく感じさせるクリスマスや春の安堵感を齎(もたら)す復活祭


私が子供の頃、もう60年も前のことですが、通っていた教会でもクリスマスの夜中のミサの前には、少年や少女たちの演劇がありました。全くの素人の劇ですが、講堂には人がいっぱいになり、ちょとしたことで、大きな歓声や笑い声が起きるのです。考えてみると、その頃は一般家庭にはテレビもない時代ですから、そのクリスマス劇が一種の娯楽だったのです。その数年後には、テレビがいきわたり、もうクリスマス劇もなくなって人々は夜中のミサに来るだけになってしまいましたが。

私が何を言いたいかというと、教会が精神的な安らぎや喜びを与えることは当然ですが、昔の教会は持たざる人々に、他では得られない心地よさや娯楽まで提供する場所だったのではないかということです。

出世や富を目当てに、外国人宣教師の御取り巻きとなり教会に群がった武士や商人には、禁教となれば自分の欲望を満たすための方法が別にあったのでしょうが、農民や町人が得ていたものは他では得られないものだったのでしょう。

戦国時代の終わりに、精神的な安らぎや支えだけでなく、他では得られない心地よさや娯楽まで一旦味わってしまった農民や町人からそれを奪ってしまったのですから、彼らがその奪回を目指して代々黙々と意志を引き継いでいったとしても不思議ではないと思うのです。また、彼らにとって奪われたものはそれくらい価値のあるものだった、と考えることも出来ます。


3.愚かな政治の犠牲に


「浦上四番崩れ」から、他藩への流刑・移民の強行、4年後の帰村と苦難については、政府の愚かさが無力な民衆にしわ寄せされることの実例と言わざるを得ません。(政治というものも所詮は人間のやることですから、やたら厳しく批判してもという気はするけれども、これは度を超しているという意味です。)

というのは、「四番崩れ」発生の際に幕府がプロシア、フランス、アメリカから抗議を受けていたことを承知していたにも拘わらず、新政府は実行出来もしない「攘夷」の考えに流されて抗議を無視して住民の配流を決定し、四年後に欧米列強の圧力に屈して釈放するという愚挙を演じているのです。


しかし、こういう政府の愚策の結果が無力な者にしわ寄せされることは、何処の国にもあることのようです。


1750年、スペインとポルトガルとの間でマドリ-ド条約が結ばれた。その条約によって、スペインは、南米での国境線を移動させてポルトガル領を拡大することを了解する代わりに、フィリピンと南米ラプラタ地方の町コロニアをポルトガルから得ることになった。

そのとき、国境線移動・領土拡大によって新たにポルトガル領となった地域には、イエズス会と先住民グアラニが建設した「教化村」七ヵ村が含まれていた。七ヵ村には、先住民3万人が居住し、野生牛70万頭、羊10万頭がいた。

グアラニは抵抗したが、1756年スペイン・ポルトガル合同軍との戦闘に敗れ、それまで開発し居住してきた七ヵ村から、全住民が新たなスペイン領へと移動せざるを得なくなった。

ところが、マドリ-ド条約は1761年に廃棄され、グアラニはまた元の村に戻ることになった。1万4千人が戻り、再建に着手したが、5年もの間放置されていた畑は荒れ果て、牛馬はあらかたポルトガル人たちによって運び去られていた。

(この件は、ローランド・ジョフィ監督、ジェレミ-・アイアンズ、ロバ-ト・デニ-ロ主演のイギリス映画「ミッション(The Mission)」で採り上げられましたので、ご承知の方は少なくないのではと思います。)


4.更なる愚かな政治の遺産


「信徒発見」からちょうど80年後の1945年8月9日、投下された原子爆弾は長崎市中心部から約3kmの浦上地区の中央で爆発し、この地区を壊滅させました。

この原爆によって、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡しました。(Wikipedia)
また、一説によると当時この(浦上)地区には、約1万5千人の信者が住んでおり、そのうち1万人余りが亡くなった、と言われています。
https://www.google.com/culturalinstitute/beta/exhibit/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%A8%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E4%B8%BB%E5%A0%82/QRfpvy4V?hl=ja

この原爆を投下した国では、国民の約半数は自分がキリスト教信者であるとの意識を持っているそうです。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9460.html

これは、いったいどういうことなのか。




次回は、「潜伏キリシタン」について考えてきた余勢を駆って、話題となっている「世界文化遺産登録」について、考えてみたいと思っています。


〈つづく〉


[参考文献]

キリシタニズムの比較研究       古野清人著作集 5 南斗書房
幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折 伊藤滋子著      同成社


















by GFauree | 2016-09-30 04:35 | 隠れキリシタン | Comments(2)  

Commented by taijun kotaki at 2016-10-07 07:58 x
お久しぶりです。興味深く読ませていただきました。有難うございます。明治政府の廃仏毀釈や、江戸幕府の日蓮宗にたいする弾圧などを、(ずいぶん昔の知識で、極めて断片的にしか覚えていないのですが)思い出しました。
今はインターネットなどを通して過剰な情報に溺れかけていますが、ついこの間までは(今でもある種の情報んは同じことでしょう)、情報に飢えていたようなところがありました。口コミが人の走る速さを超えて伝わっていく。私の経験している範囲でも、口コミはすごい速さだなあ、との実感があります。為政者は藩を超えて情報が伝達されるのを嫌った。特に都合の悪い情報は。個人は、安心できる人間関係(と情報)が命そのものだった。
キリスト教について書かれていることを読ませてもらいながら、異教徒である私は、組織と個人が、もう一つの大きなテーマなのだろうなあ、と感じていました。どちらかというとそちらに興味を覚えて、読ませてもらっているのですが、今回とくにそれを感じました。
Commented by GFauree at 2016-10-08 03:01
taijun様
コメント頂きまして有難うございます。それを何よりの励みにさせて頂いていますので。
「信徒発見」が「浦上四番崩れ」に繋がって行った過程は、仰るように口コミ情報の伝搬力を感じさせます。
それとともに、「潜伏」とはいっても実は多くの人がその存在に感付いていたのではないかということを考えさせられます。
もう一つの大きなテ-マと仰る「組織と個人」については、今まで特に考えたことはありませんでした。
ですが、例えば「組織に潰される個人の意思」というようなことを考えると、確かにあらゆる事象について、その軸が浮き彫りになるようです。
先日、友人とやり取りしたことですが、歴史の事象については、人によって意識する側面が異なるので、それをぶつけ合って見直すと、尚更、歴史が面白く感じられるようです。
次回も、どうぞ宜しくお願いします。
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