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棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その1]

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                                        (写真撮影 三上信一氏)







〈トマス・アラキが登場した時期〉


戦国時代の末期から江戸時代初期にかけて、ザビエルの渡来直後の一時期を除いては、キリスト教布教が終始全国的に禁じられ、キリスト教信者となった人々が弾圧され続けていたと考えている人は少なくないようだ。

しかし、中央政権による全国的な禁令としては、ザビエルの渡来から約40年後の1587年になって秀吉によって出されたバテレン追放令が最初のものである。そして、江戸幕府の禁教令が出されるまでには、それから25年が経過している。

ただ、その江戸幕府の禁教令が日本のキリシタン教会を壊滅状態に追い込んだことは確かなことである。

まず、1612年3月キリシタン禁令が出され、駿府(静岡市)において14人の直臣が改易(士族の籍を除き、領地・家屋敷を没収)に処され、江戸においてはフランシスコ会の教会・修道院が破壊された。そして、同じ月、畿内・西国の幕府直轄領を対象に禁教令が出された。

この1612年の禁令発布の主要な契機として、「キリシタン大名」有馬晴信と家康の補佐役本多正純の家臣岡本大八との贈収賄事件「岡本大八事件」が挙げられることが多い。しかし、この事件はキリシタン禁令発布の契機というより、むしろ名目であり、有馬晴信潰しの謀略だったのではないか、と私は考えた。(同事件についての記事 http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/ をご参照頂きたい。)


さらに、1614年2月、全国的禁教令が公布され、これによって宣教師95名と高山右近等の一行がマカオ・マニラに追放された。

また、キリシタン禁教令というと、何か対外的な政策であったかのような印象を持ちがちである。

しかし、豊臣方との決戦大坂の陣を控えていた(1614年10月 大坂冬の陣)この時期の幕府が何よりも恐れたことは、キリシタン勢力が豊臣勢と結託することだったはずである。従って、1612年の駿府・直轄領の禁令も1614年の全国的禁教令も、対外的な政策というよりは、むしろ安定政権樹立という国内政治的課題への対応だったと考えたほうが納得がいくように思える。


こういう時期に、トマス・アラキは「キリシタン時代」史上に登場した。


トマス・アラキの生年も生地も不明である。





〈独自にロ-マへ行き司祭となったアラキ〉



まず、1612年10月10日付長崎発の司教ルイス・デ・セルケイラの書翰によって、トマス・アラキは、1610年4月から1611年6月までの期間には既にロ-マで司祭に叙品されていたことと、彼の司祭叙品が1612年10月には日本で知られていたことが分る。


次に、スペイン経由帰国するに当たり、スペイン国王宛に提出し1611年7月に審査された文書から次のことが分る。


1.
アラキは渡欧する際に、フィリピンを1602年頃、メキシコを1603年頃通過した。

このことから、彼がスペイン領経由ヨ-ロッパへ行ったことが分る。ということは、ロ-マへ行くまでは、スペインよりポルトガル国家と関係の深かった日本イエズス会からの支援を受けていた可能性は低い。

逆に、フィリピン、メキシコを通過する際にそれぞれの総督、副王からスペイン国王宛て紹介状をもらっているとのことから、スペインと関係の深いフランシスコ会・ドミニコ会等の托鉢修道会関係者の協力、援助を受けていた可能性がある。

2.彼は、スペイン上陸後ロ-マへ行き、教皇のセミナリオで6年以上にわたって神学を学び、司祭叙品を受けた。

3.スペインから日本へ帰国するに当たり、宣教師12、3人を連れて来ることになった。





〈アラキとイエズス会との関係〉


アラキはイエズス会に入会しなかったが、次のことからイエズス会とかなり交渉があったと考えられる。


1.アラキの消息が、ロ-マ在のイエズス会総会長補佐から長崎在のイエズス会士ルイス・デ・セルケイラ司教に知らされていること。

2.彼がロ-マ・セミナリオで学んだ形跡があること。
この、ロ-マ・セミナリオは、1565年にロ-マに開設され、当初はイエズス会士が教師を勤めていた。

3.ローマで彼を寵愛したと言われているベラルミノ枢機卿はイエズス会士であること。


それでは、何故アラキは日本でセミナリオ、コレジオで学ばずに、ロ-マへ行って司祭になることを志したのだろうか。

彼について、あるイエズス会士が書いた書翰によると、アラキが日本でイエズス会セミナリオに入ることが出来なかった理由は彼の生まれの貧しさ、身分の低さにあった、ということである。


ただ、アラキがヨーロッパへの往路フィリピンやメキシコで総督や副王の紹介状を入手したり、ローマでも教皇のセミナリオの過程を終了し枢機卿の寵愛を受けていたなどのことから、彼は日本を出る前に既にラテン語とスペイン語またはポルトガル語には習熟していたのではないかと私は思う。

だとすれば、彼は日本のイエズス会セミナリオで学んだ後、どの段階であったかは定かではないが、将来入会も出来ず司祭にもなれそうもない自分に対する処遇を知って、独自に司祭となる道を求め、托鉢修道会関係者の助力を得ることになったのではないか。もしそうであれば、「貧しく、身分の低い」生まれの彼を拾い上げ、セミナリオで学ばせてくれたイエズス会の温情を彼が裏切ったことになるのだから、上述のイエズス会士の書翰にある彼の出自に関する侮蔑的な表現の説明がつく。

それを立証する資料はないが、そもそも、この時代のキリシタン関係の資料の少なさには定評がある。加えて、「裏切者」の烙印を押されたものに関する記録は、何処の組織でも念入りに抹消されるものである。


トマス・アラキは、1611年6月にロ-マを発ち、1614年8月マカオに現われた。





〈マカオで、日本人同宿たちに独自にロ-マへ行くことを勧めたアラキ〉


その時、マカオには同年2月の禁教令で日本を追われたヨ-ロッパ人宣教師と共に、日本人の修道士や同宿たちが到着し滞在していた。
(「同宿」については「ペトロ・岐部・カスイに関する記事」[その5](http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/)をご参照頂きたい。)



日本人修道士や同宿たちは、禁教令によって日本を去ったその機会にマカオで勉学を積むことによって、司祭の資格を得ることや、イエズス会に入会することを望んでいた。ところが、マカオに来てみると、勉学を望んでもそれは許されず、入会の希望も実現される見込みはないことが明らかになった。そこで、彼らがヨーロッパ人司祭たちに対して反抗的な態度に出たため双方の間が険悪になっていた。

それは、「日本人は司祭にするより同宿として働かせる方が役に立つので、ラテン語などの学習をしたいなどという気持ちを起こさせてはならない。日本人のイエズス会入会と司祭叙品は、本部が許可するまで認めてはならない。」ということが総会長から日本管区長宛ての指令によって命じられていたためである。


(「イエズス会への入会問題」については、「ペトロ・岐部・カスイに関する記事」[その4](http://iwahanjiro.exblog.jp/21079249/)及び「通辞ジョアン・ロドリゲス」に関する記事[その4](http://iwahanjiro.exblog.jp/23172712/)をご参照頂きたい。)


そういう事態の中に、トマス・アラキが現われ、司祭となる道を殆ど絶たれて強い不満を抱いていた日本人同宿に対して、イエズス会を離れ独自にロ-マへ行き教区司祭となることを勧めたのである。何人かの同宿は、アラキの勧めに動かされてインドに行き、さらにヨ-ロッパまで渡った。その中にペトロ・カスイ・岐部がいた。もし、トマス・アラキからの勧めがなければ、岐部が独自にロ-マへ行き司祭になるという行動をとることはなかったかも知れない。

このようなアラキの言動は、大半のヨ-ロッパ人イエズス会士の目には、秩序を乱す危険な反逆として、また日本人の「尊大かつ傲慢」な国民性ゆえのものとして映っていただけで、彼らの日本布教に取り組む基本的姿勢を反省する契機とはならなかったようだ。


さらに、アラキがマカオで日本人修道士や同宿に語ったことは、司祭となるためにイエズス会を離れて独自にロ-マへ行き教区司祭となること、だけではなかった。




〈アラキは、托鉢修道会士による日本征服の策動があったことも語った〉


彼は、日本征服を企てるよう托鉢修道会士たちがスペイン国王に働きかけ、イエズス会士がそれに抵抗したことを、マドリ-ドで知ったと、日本人修道士たちに語った。

と書くと、托鉢修道会士の日本征服の策動に対し、イエズス会が抵抗したように取れる。しかし、その多くがポルトガル人であった日本に関係するイエズス会士が抵抗したのは、日本がスペイン勢力下に入ることであって、決して日本の国益を守ろうとしてでのことではなかった点に留意する必要がある。

アラキの発言は、托鉢修道会であれ、イエズス会であれ、それぞれの修道会が、スペイン、ポルトガルという国家の植民地主義的海外進出と一体となって布教事業を進めていることに、彼が強い疑問を抱いていたことを示していると思われる。

このことから、アラキは「修道会を離れて独自に教区司祭になる」ことを、単に「司祭になるための便法」としてではなく、「国家の海外進出事業と一体となって布教を進めようとする修道会に依存せずに司祭になる」という積極的な意味をもつ方法として語ったと考えられる。




〈イベリア両国の国力に頼った布教のあり方に対する疑問の声は既に挙がっていたが〉


アラキが、マカオにおいて日本人修道士や同宿たちに、これらのことを語ったのは1615年頃のことであったはずである。

その7年後の1622年に、ロ-マ教皇庁内に海外布教地の問題を管轄する布教聖省が設置されたことは、「背教者クリストヴァン・フェレイラに関する記事」[その5](http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)で述べた。

従って、既にこの時期、カトリック教会の中にイベリア両国の国力に頼った布教のあり方に対する疑問の声が挙がっていたと考えられる。だからこそ、教皇庁としても布教聖省設置に当たって「布教と政治・植民を分離する」との方針を打ち出したのであろう。




〈アラキの類まれな勇気〉


ところが、残念なことに、海外布教地という現場のヨ-ロッパ人宣教師たちの意識は、とてもそんな域に達してはいなかった。そのうえ、そのような状況の中でアラキの発言はヨ-ロッパ人宣教師の耳に筒抜けであったこと、そしてアラキが彼らの憎悪の的となったことは、彼らの多くの書翰が語っている。


このように、アラキの発言は、当時の海外布教体制とヨ-ロッパ人宣教師のあり方に係わる本質的な問題性を見透し、指摘するものであるゆえに彼らの激しい反発を生むことは当然予測できたであろう。それを考えると、私は改めてアラキの視野の広さ、思考の深さとともに類まれな勇気を感ずる。

そもそも、宗教団体において、客観的な思考や冷静な判断に基く言動がなされにくいことは、当然のこととして想定される。まして、世界的に展開する宗教団体の中で、それも外国の組織内のことであるゆえに、彼の言動に対するそれこそ「弾圧」の激しさは猶更であっただろうと私は想像する。



アラキは、1615年8月に帰国する。





次回は、帰国後のアラキについて述べる前に、今回触れた大航海時代の「教区司祭と修道会司祭」という組織上の問題と、よく話題にされる「宣教師が関わった日本征服の策動」について整理してみたい。




[参考文献]

「キリシタン時代対外関係の研究」 第十三章 転び伴天連トマス・アラキ          高瀬弘一郎著 岩波書店
「キリシタンの世紀」 第四章 キリシタン教会の布教政策(1)-原住民聖職者養成の問題- 高瀬弘一郎著 岩波書店






















by GFauree | 2016-11-15 06:39 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(2)  

Commented by taijun kotaki at 2016-12-25 10:30 x
久しぶりにコメントします
どうも、ヨーロッパの方々の傲慢さにうんざりして興味を失っていたのですが
クリスマスでもあり、読んでみる気になりました。
現場ではどういう問題に直面するか、考えさせられますね。
Commented by GFauree at 2016-12-25 22:46
taijun様
またお付き合い頂き有難うございます。私も彼らの書翰に書かれた考え方や追随していったように見える日本人の姿勢に、腹が立って暫く読めなくなることがあります。でも、それらが人間社会の実相であることが否定できないためか、また戻って来ることを繰り返しています。人間を、社会を、宗教を、国家を、歴史を考えるうえでこれくらい興味深く、参考になることは他になかなかないのではと思っています。
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