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棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その2]

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                                        (写真撮影 三上信一氏)





「教区司祭」と「修道会司祭」について


・トマス・アラキは司祭になることを志したが、何らかの理由で日本のイエズス会経営のセミナリオで学ばずに、フィリピン、メキシコ経由でロ-マに渡った。そして、イエズス会士たちが教師をしていたローマの“教皇のセミナリオ”で、6年以上神学を学び、司祭の叙品を受け「教区司祭」となった。

そこで、ペトロ・カスイ・岐部のことを思い出す。

・通常、司祭に叙階されるためには、一定の教区に属し、その教区の司教の聖職任命許可状が必要である。岐部の場合、ローマ教区の異例な措置によって司教の許可状なしで、「教区司祭」となることが出来た、とされている。(大分県先哲叢書 「ペトロ岐部カスイ」 五野井隆史著)



「教区司祭」と「修道会司祭」の並存は教会組織の特徴


カトリック教会の組織の特徴的な点は、教皇を頂点として、各地に設けられた教区と修道会が並存していることである。教区は教皇によって任命された司教が統轄する各地域の教会であり、修道会は各々の総(会)長によって統率され、教皇庁の認可を受けた組織である。

このため、カトリック教会には、司教の管理下で働く「教区司祭」と、修道会に所属する「修道会司祭」がいることになる。



コスメ・デ・ト-レス神父のこと


フランシスコ・ザビエルと共に日本へ渡来したコスメ・デ・ト-レス神父は、24歳のときスペインのバレンシアで「教区司祭」として司祭職を授けられている。私はその記事(http://iwahanjiro.exblog.jp/21628296/を書いた時、ト-レスは比較的若くして司祭になっているようだがそれは何故か、などと思いながら疑問を解消する手立ても思い付かないまま、そのままにしてしまった。

ところが、暫く経ってからその疑問への答えを提供してくれそうな本に出会った。



C.R.Boxer著 The Church Militant and Iberian Expansionのこと


C.R.Boxer(チャ-ルズ・ラルフ・ボクサ-)の著書、The Church Militant and Iberian Expansion(闘う教会とイベリア両国の海外発展)である。この本の第3章に教会が抱えていた組織上の問題の一つとして、「修道会司祭と教区司祭(の違い)」が挙げられている。


以下、「教区司祭」に関してそこに書かれてある事柄に私の解釈や参考事項を交えてまとめてみよう。



中世から、「修道会司祭」の方が格上と見られていたらしい


私は、子供の頃通っていた地域の教会の「教区司祭」である神父さんたちの印象から、地域の教会で担当教区と信者という地盤を持っている「教区司祭」の方が、修道院でひたすら祈りと労働の日々を送っていると言われている「修道会司祭」より格が上なのだろうと漠然と思っていた。ところが、教会内の位置付けとしては、中世以来どうも逆だったようだ。

教皇は、禁欲的、修道院的な規則正しい生活を送っているという面で、「修道会司祭」の方が「教区司祭」より倫理的に優れていると認める傾向があった、ということである。


英語で、「教区司祭」は secular clergy 、直訳すれば「世俗司祭」である。「教区司祭」は町や村の教区に所属するというだけで、別に俗人の生活を送っていたという訳でもないのに、妙な言葉だなと思って、過去の記事にそう書いたことがある。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21759248/)しかし、人里離れた修道院に籠もって祈りと労働に明け暮れる「修道会司祭」に比べれば、「教区司祭」は世俗に近い所で働いていたことは確かである。

それに対して、「修道会司祭」は monastic clergy とでも言うのかと思っていたのだが、正しくは regular clergy である。「修道会司祭」のほうが、より通常だとか、より正規だとかいう意味がそこに込められているような気がするが、どうなのだろうか。



大航海時代、「修道会司祭」はさらに重んじられるようになった


さらに、大航海時代にポルトガル・スペイン両国の海外展開と連携して布教事業が進められるようになると、教区と信者という地盤を持たない「修道会司祭」は一層重んじられることとなった。1522年、修道会の上長には、教皇によって先住民改宗の開拓事業と新たな教区の統治を行うための全面的権限が与えられた。

ヨ-ロッパから遠く離れたアフリカや南米の奥地の、それも不健康地として名高かった諸地方に、「修道会司祭」は果敢に出掛け、伝道改宗事業を積極的に進めた。

一方、ヨ-ロッパ以外の海外布教地においても、「教区司祭」(大半が現地生まれの白人だったが)たちは、ジャングルやブッシュの中で宣教師として活動するよりは、都市や町で親類、知己である信者たちを世話する方を好んだ。その結果、「教区司祭」が先住民の改宗事業に携わることは、殆ど起こり得ず、そのことが、また「修道会司祭」の優越意識をさらに膨らませることとなった。


先住民の「教区司祭」誕生が、「教区司祭」の格を引き下げた


また、どこの海外布教地でも先住民司祭の養成が積極的に奨励されることは殆どなかった。仮に、「教区司祭」として先住民司祭が生まれても、先住民司祭は一段下に位置付けられたから、それがまた「教区司祭」の格を引き下げる要因となった。


本来、海外の布教地の布教・改宗事業が進んで、ある段階に至れば教区が設定され、ヨ-ロッパの本国から司教が派遣され、教区民は司教が任命する「教区司祭」によって治められねばならない、というのがカトリック教会の原則だった筈である。



「修道会司祭」は自分たちが開拓した教区を「教区司祭」に譲ることに抵抗した


ところが、上述の通り「教区司祭」に対する優越感が膨張していったために、「修道会司祭」は新たに出来上がった教区を「教区司祭」に引き渡すことに抵抗するようになった。

加えて、一旦手に入れた利益や権力、つまり利権にしがみ付きたいというまさに人間的な欲求が、「修道会司祭」をして彼らの地位と特権を譲ることを拒ませたという面もあっただろう。


しかし、「修道会司祭」が新たに育てた教区を手離したがらなかった理由は、優越感や人間的欲求ばかりではないのである。



王権が統轄の容易な「教区司祭」に加担したので


「ボリビアを知るための73章」[第2版]明石書房 [コラム9]〈チキトスのイエズス会ミッション〉谷口智子

「チキトスはイエズス会が17世紀末にこの土地に入植した当時、未開の僻地であった。(植民地)教会の組織化がある程度進むと、独立性の強い修道会を敬遠する王権が人事権をはじめ統轄のより容易な教区付聖職者(教区司祭)に加担したため、修道会は都市部での司牧職から追われ、辺境や奥地での宣教にあらためて取り組まねばならなかった。」
(括弧内は、原文に追記させて頂いた。)


このコラムから読み取れることは、新たに作られた教区が「修道会司祭」から「教区司祭」へ移譲されたというのは、単に教会の組織原則だけによるものではなかったということである。

そもそも、「修道会司祭」と「教区司祭」の対立には、王権ナショナリズムとロ-マ教皇支配との対立が背景にあったのである。そのため、ロ-マ教皇と関係の深い諸修道会(特にイエズス会は、教皇への絶対服従を特色としている)は、王権(及びその出先である現地政庁)にとって統御し難いことから敬遠され、辺境や奥地での宣教という、より困難な課題が与えられたということのようだ。

「修道会司祭」にしてみれば、自分たちが折角苦労して育てた教区を自分が優越感を抱いている(つまり自分より劣る)相手に譲らねばならないことに加え、自分たちには王権によっていっそう困難な課題が押し付けられ、さらに僻地に追いやられるということは、たとえそれが自分たちの使命(ミッション)の一環であるとしても、さぞかし我慢のならないことだっただろう。


修道会の拡大していく特権と、司教たちの管轄権的な要求の間に生まれた、「修道会司祭」と「教区司祭」の間の緊張関係は、植民地時代を通じて解消されることはなかった。



「修道会司祭」の活動に対する妨害・抑圧と「教区司祭」活用の事例



「幻の帝国-南米イエズス会士の夢と挫折」 伊藤滋子著 同成社


・1650年頃、南米パラグアイのアスンシオン市議会は、現在のボリビア・チャルカスの行政院(アウディエンシア)に代表を送り、イエズス会の活動を禁止し、「教化村」の先住民をスペイン人入植者の間で分配することを申し入れた。

・同じ頃、パラグアイのイタティン地方へ侵入してきたブラジルの奴隷狩り部隊(バンデイランテ)に対抗するという名目で、アスンシオン市民(スペイン人入植者)が援軍を送った。ところが、その援軍の標的は、実はイエズス会の「教化村」だったのである。
送られた援軍は、「教化村」からイエズス会士を追い出し、「教区司祭」を後釜にすえ、村民を自分たちの間で分配し、強制労働に就かせるためのものだったのだ。



緊張・対立関係は18世紀後半まで続き、その後は「教区司祭」に有利な展開となる



18世紀後半、ヨ-ロッパ・カトリック諸国では王権擁護主義の高まりによってロ-マ教皇の支配が次第に弱まり、局面は「教区司祭」と司教たちの側に有利なものとなっていった。「修道会司祭」と「教区司祭」との間の緊張・対立関係は、その頃まで続いたのである。




修道会同士の競合


大航海時代のカトリック教会が抱えていた組織上のもう一つの問題は、修道会同士の競合である。

例えば、フランシスコ会士とイエズス会士の競合関係は、様々な時期や場所において、特に17世紀の日本と南米・パラグアイにおいて、もはや危険な領域に到達していた。また、ドミニコ会士とイエズス会士との関係は、イベリア半島でもその他の地域でも、しばしば親愛とは程遠いものとなっていたようだ。

パラグアイのケースは、フランシスコ会士である司教とイエズス会との抗争という側面もあった。
日本への帰国後、トマス・アラキが「教区司祭」として巻き込まれた紛争、長崎“教会分裂”(シスマ)は、「修道会司祭」と「教区司祭」との関係に加えて、修道会同士の抗争という要素をはらんだ動きである。これについては、帰国後のアラキの行動をたどる中で見直したい。


教皇も国王もしばしば仲裁に入った


内輪同士の競合関係を最小限に食い止めようと、教皇も国王もしばしば仲裁に入り、各修道会の活動地域の範囲を限定しようとした。

例えば、1594年フィリプ2世は、フィリピン諸島を宣教区に分けて各修道会に与え、そこでアウグスチノ会、フランシスコ会、イエズス会、ドミニコ会は、それぞれの独立した地域で活動することとなった。



内部抗争は人間的組織の証


「慢心は諸悪の根元、謙遜は諸善の基礎であるから謙遜を専らとせよと、人には勧めるけれども、生まれつきの国の風習なのであろうか、彼ら(伴天連:バテレン)の高慢は天魔も及ぶことができない。この高慢のため他の門派の伴天連と勢力争いをして喧嘩口論に及ぶことは、俗人そこのけのありさまであって、見苦しいことはご推察のほかだとお考え下さい。・・・」
(海老沢有道訳『南蛮興廃記・・・破堤宇子』)

これは、1608年イエズス会を離脱し、かつ棄教した日本人修道士不干斎ファビアンが、後に著した反キリシタン書『破堤宇子』の中の一文である。

ファビアンは建前を遥か遠くに忘れてきたような内部抗争の様を、苦々しくかつ滑稽なものとして捉えているようだ。確かに、一日本人としてヨ-ロッパ人の組織に飛び込んだ挙げ句にその実態を知って、あきれるというか落胆させらる思いがしていたのであろう。その気持ちは分らないものでもない気がする。

しかし、冷静に考えれば、異なる属性を持ちながら同等と見られる資格を有する者同士の競合というのは、昔も今も多くの組織内にあるものであり、またその競争が生易しいものでないというのは普通のことではないか。

これも教会という組織が、あくまで人間的な組織であることの証であると考えるべきなのだ、と私は思う。そういう考え方で、これからもキリシタン時代以降の歴史を追って行こう思っている。



体調やインタ-ネットの具合が良くなくて、予想以上に手こずってしまったので、今回はここまでとして、「日本征服の策動」については次回とさせて頂きます。


〈つづく〉
















by GFauree | 2016-12-05 11:05 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(0)  

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