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【大航海時代のおと】

棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その3]

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                                        (写真撮影 三上信一氏)





キリシタン宣教師による武力行使の指示・要請・提言について



〈アラキの発言〉


ロ-マで司祭となったトマス・アラキは、1615年頃マカオに現われた。

その頃、マカオには幕府の全国的な禁教令によって日本を追放されたヨ-ロッパ人宣教師と行動を共にする形で出国したイエズス会の日本人修道士や日本人伝道師(同宿)たちが多数滞在していた。

彼らの多くは、イエズス会に入会しやがては司祭になるために哲学や神学を学びたいという願望を持ちながら、日本では会の方針によってそれが受け容れられなかった者たちである。そのため、日本を出たその機会にこそ外地で学べるのではとの期待を抱いていたのだろう。実は、その期待故に彼らは出国したのかも知れない。ところが、いざマカオに着いてみると、日本国内と同様に入会も勉学も許されないことが明らかになり、憤慨した彼らとヨ-ロッパ人宣教師との間が険悪なものとなっていた。

処遇を巡っての日本人修道士の強い不満は、1609年、ポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号が長崎湾内で有馬軍の攻撃を受け自爆した際に、彼らがあからさまに歓喜したことや、その前年の日本人修道士不干斎ファビアンの離脱・棄教で既に露呈していた。

そんな中に現われたアラキは、自分と同様にイエズス会を離れ独自のル-トでロ-マへ行き教区司祭となることを勧めただけでなく、托鉢修道会士たちが日本征服を企てスペイン国王に働きかけたことを、マドリ-ドで聞いたと彼らに語った



〈イスパニアによる征服の進め方〉


1596年10月
、フィリピン・ルソン島からメキシコへ向かっていたイスパニアのガレオン船サン・フェリペ号が土佐の浦戸沖に漂着した。

「(その船の)水先案内フランシスコ・ダ・サンダが、浦戸に滞在中であった増田長盛に世界地図を見せて、イスパニア領の広大なことを自慢した。そして、どうしてそんなに領土を拡大したかと尋ねられると、わが国ではまず宣教師を派遣してその国の人にキリスト教を伝えておき、信者が相応の数になったとき軍隊をさしむけ、信者の内応をえて、たやすく目ざす国土を征服すると答えた
これが、長盛から秀吉に報ぜられたと、イエズス会の宣教師ルイス・デ・セルケラが伝えている。」
(岩生成一著「日本の歴史」14鎖国 中央公論社)

長盛からの報告を受けた秀吉は、このイスパニアの征服の進め方を聞いて、キリシタンの伝道はもはや見過ごすことはできないと判断した、とされている。



〈江戸幕府が抱いたとされる疑惑と現代の常識〉



将軍をはじめとする日本の為政者は、キリシタン布教は国土征服を目的としたものだという疑惑を抱いており、このような疑惑にもとづく危惧の念がキリシタン迫害の原因である、と記述している宣教師は少なくなかった。(高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」)

また、現在インタ-ネット情報を検索してみると、キリシタン宣教師はポルトガル・スペインの侵略の尖兵や道具であったとか、イエズス会は世界支配を狙う秘密結社的組織であったかのように書かれているものが目に付く。さらに、フランシスコ・ザビエルは日本占領を目的として渡来したかのように書かれているものまである。世間の常識というものは、意外な事に、現代も江戸時代もあまり変わらないもののようである。

それでは、実際に、キリシタン宣教師によって唱えられた武力行使論はどのようなものだったのか。
いつものことながら、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」と「キリシタン時代の研究」(第三章 キリシタン宣教師の軍事計画)を参照しながら見ていくことにしたい。



〈キリシタン宣教師の武力行使論〉



ただし、日本に対する武力行使論は中国征服論と関連づけて論ぜられたものが多い(イベリア両国とカトリック教会にとって、中国はそれだけ魅力ある標的だったということを意味しているのだろう)ということだが、話が広がり過ぎるので、ここでは「キリシタンの世紀」に従って、日本を対象とするものに限定することにする。



1.イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ


(1)1580年
、『日本の布教長のための規則』の中で、長崎・茂木についてポルトガル人を中心とした武装・要塞化を指示した。

これについては、大村純忠・喜前父子から寄進された長崎・茂木を“迫害時の避難所”にしようとしたとして、防衛的意味が強調されることが少なくない。しかし、日本国内の一地域が、外国勢力の指示によって武装・要塞化されれば、どのような結果が生じ得るかを考えれば、そのような主張の無意味さが理解されるだろう。


(2)
この規則を作成した頃に、有馬晴信に対する軍事的てこ入れを行っている。
この時期、大村氏も有馬氏も、反キリシタン勢力である竜造寺氏と争い窮地に陥っていた。
(イエズス会日本布教長であったフランシスコ・カブラルも、大村純忠に対し、複数回にわたり金銭的援助を行っている。)




2.イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョ


(1)1585年
、フィリピン、イエズス会布教長アントニオ・セデ-ニョに宛て書翰を送り、キリシタン大名を支援するための武装艦隊及び弾薬・大砲・食糧・資金を送るよう、フィリピン総督へ取り次ぐことを要請した。

この要請は、フリピン側に日本に向けて割くだけの軍事力の余裕がないという理由で拒否された。


(2)1587年
、秀吉のキリシタン禁令(伴天連追放令)発布に対し、コエリョを中心に、内外呼応して武力により抵抗することが計画された。当時、既に前述のバリニャ-ノの指示により、教会領長崎は要塞化され、火器等により武装化されており、軍艦も建造・配備されていた。

ところが、国内のキリシタン大名と結託して行動を起こすことを企画したにもかかわらず、有馬晴信・小西行長等がこれに応じなかった。


(3)
そこで、コエリョは援軍派遣を求め、フィリピンの各方面に書簡を送った。

さらに、イエズス会司祭ベルチョ-ル・デ・モ-ラをマカオに送り、ヴァリニャ-ノに会って軍隊・食糧・弾薬を持って日本へ渡るよう説得させることとした。また、もしヴァリニャ-ノに会えなければ、フィリピンからヨ-ロッパに赴き、スペイン国王やイエズス会総会長と会い理解と協力を求めることとした。

ヴァリニャ-ノは、マカオで事の次第を知り、1590年7月来日し、長崎に貯えられていた武器・弾薬を秘かに処分した。そして、コエリョは死亡したとだけされているが、自然死ではなかった可能性も示唆されている。(安野眞幸著 教会領長崎 イエズス会と日本 講談社メチエ)

このイエズス会の方向転換は、教会に対し厳しい姿勢を取る強力な統一政権が成立したという日本の国内政治情勢の変化に対応してなされたものとして、さらに、「現地適応」というイエズス会の布教政策の機動性・柔軟性を物語るものとして考えられている。



3.イエズス会司祭ペドロ・デ・ラ・クルス


・1599年
イエズス会総会長宛てに送られた書翰において、日本はスペイン国王によって武力征服されるべきであると強く主張した。

また、武力征服を完成するまでの当面の施策として、スペイン、ポルトガルが、日本で別々にどこかの港を基地として手に入れ、武力をもってその都市を確保すべきことを主張している。

ペドロ・デ・ラ・クルスは、1601年に盛式四誓願司祭となり、順調にイエズス会幹部パ-ドレとなっている。



4.フランシスコ会司祭マルティン・デ・ラ・アセンシオン



・アセンシオンは長崎で殉教した26聖人の一人であるが、彼も次のように武力行使を論じている。

・スペイン国王は、日本に対して支配権を有する以上は、日本教会の保護者としての義務を果たさなければならない。
同国王は、その任務遂行のため、日本において、貿易船の入港と交易に適したいくつかの港を取得して要塞化し、艦隊を配備する必要がある。そして、日本において暴君たちの支配下にある多くの国々を武力によって奪い、最後には日本全土を我がものにする(べきである)。



5.アウグスチノ会士マテウス・デ・メンド-サ


・スペイン国王による日本侵攻は容易であることを論じている。



6.フランシスコ会士ディエゴ・デ・サンタ・カタリ-ナ


・1615年、スペイン国王の命を受けたメキシコ副王によって日本へ派遣され、将軍に対して日本国内に要塞を作るための土地を求め、日本側の疑惑を掻き立てた。



7.その他


・1611年
フランシスコ会士アロンソ・ムニョスは、徳川家康の使者としてマドリ-ドに着いたが、その際、スペイン政府内で日本を武力征服する件が話題となった。

・1614年11月フランシスコ会士ルイス・ソテロは、伊達政宗の遣欧使節を引率してマドリ-ドに到着したが、その時も政府内で日本の武力征服の件が採り上げられたという。



〈私の考えるところ〉


1.
キリスト教布教の目的が日本の国土征服にあったという話や、宣教師が日本に対する武力行使までを考えたり提案していたという話は、よく出て来る古くて新しい話題である。

従って、実際になされた宣教師の武力行使の要請や提言はかなりの数に昇ったと考えられるから、今回列挙したものはその一部に過ぎないだろうと思う。それでも、件数は当初私が想像していたものより多いし、イエズス会以外の修道会士による提言の多さも意外である。


2.
その理由として、一般には次のような事項が挙げられる。

・大航海時代のカトリック布教は、イベリア両国の王室が布教事業に対して経済援助をする代わりに、教会聖職者の人事等に介入しうる(patronato real-王室の聖職者推挙権)、という布教保護権制度の下に進められたものであるから、両国王室による武力征服事業と並行して進められていく性格のものであったこと。

・当時は、ロ-マ教皇の権威のもとに太平洋上にデマルカシオン(教皇子午線)を引き、世界中の異教の国々を両国の間で二分割することができるという観念があったこと。



布教保護権制度では、王室は聖職推挙権を得る代わりに、教会に対し経済的なものを含め全面的な援助をする義務を負うこととなっている。そのため、一見、王室と教会の間の相互的な権利・義務関係であるかのような印象を与える制度である。しかし、実際はこれによって教会は金と人事権をパトロンである王室に握られてしまったと考えるべきではないか、と私は思う。

金と人事を握るパトロンに逆らってでも、思うが儘に行動できる人間は極めて稀であることは、我々自身の経験が教えてくれる。そのうち、上昇志向の強い者は、それまでの倫理規範を踏み外してでも、競ってパトロンの気に入るような行動に走ったり計画や提言をひねり出して見せたりするようになる。

パトロンの気に入るような行動に走ったり計画や提言をひねり出したりする者は、自身の属する組織(修道会)内でも積極性や企画力があるとして高く評価されたに違いない。なぜなら、彼らを評価する立場にある修道会の上長自身も、パトロンである王室から高く評価されることを望んでいた筈だからである。


それを考えると、布教を成功させるためには武力に頼らなければならないというような考え方に反対する宣教師は、いたとしても少数であったと考える方が自然である。

イエズス会準管区長コエリョが秀吉のキリシタン禁令発布に、武力で抵抗するべく、モ-ラをマカオに送ったことを上に述べたが、それはコエリョの独断によるものではなかった。1589年2月、高来(現在の長崎県諫早市の一部)においてコエリョを含む7人の司祭たちによって協議会を開き決定されたことなのである。その際、コエリョの独断どころか、オルガンティノを除く残りの6人全員が、軍隊派遣を要請するために使者を派遣することに合意したという。


3.
トマス・アラキが、マカオで落胆し憤慨していた日本人修道士や同宿たちに語った、托鉢修道会士による日本征服の企てというのは、上記のうちのどれに当たるのだろうか。


日本を武力征服する件は、1611年にも1614年にもスペイン政府内で話題になっていたというから、いつ誰の提言によるものであったか特定できないほど、ある程度の期間にわたって多くの提言がなされていたのかも知れない。

それは、ちょうど幕府が大坂の陣という豊臣方との決戦を控え、国内政情の安定化を狙いとして全国的な禁教令発布を準備していた時期であろうことが興味深い。




次回は、日本に帰国してからのトマス・アラキの行動を追うこととしたい。



〈つづく〉







































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Commented by taijun kotaki at 2016-12-25 11:17 x
だいぶ以前に、人間集団を農耕民と遊牧民という分類をしていた本を読んだことがありましたが
久しぶりに思い出しました
また、95パーセント以上のお坊さんがお寺で生まれた人たちという集団の中に入るということの居心地の悪さ
についても、忘れることにしていたのですが、思い出しながら、読ませてもらっています。
面白くなってきましたね
Commented by GFauree at 2016-12-25 22:05
Taijun様
確かに、彼らの遊牧民(騎馬民族)的性格が、布教活動にも滲み出たとみることができますね。それから、日本人聖職者たちは異質な組織の違和感と終始格闘せざるを得なかったのかも知れません。現代でも例えば外資系企業や国際機関で働く方たちは、似たような苦労をされているのではないかと思いますが、どうでしょうか。アラキのマカオの発言の意味を探って少し回り道をしてきましたが、次回はいよいよ本題に入るつもりです。
by GFauree | 2016-12-21 09:06 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(2)

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