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【大航海時代のおと】

棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その4]

                   
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                                         (写真撮影 三上信一氏)
                                            


今回は、帰国してからのトマス・アラキの行動を追って行こうと思う。
ついては、気を付けなければならないことがある。

それは、その情報源の殆どが、彼を目の敵にしていたイエズス会士たちが書いた総会長や本部の担当者宛ての報告である、ということだ。しかし、彼について知りたければ、それらの報告に頼らなければならないのだから致し方ない。せめて、彼らにとって都合の良いことは強調され、都合の悪いことは無視されるか、隠蔽されている可能性があることは忘れないようにしよう。


1615年8月に帰国したアラキが直ぐに直面した最大の問題は、長崎“教会分裂(シスマ)”であったと思われるが、長崎シスマについては後で述べることにして、その時期の彼について報告されている他の事項を先に述べよう。


それは、ロザリオの「祝別」に関して彼がイエズス会士たちの怒りを買ったとの話である。


〈「祝別」のこと〉


ロザリオは、よく「キリシタンもの」のドラマなどで着物を着た女性がネックレスのように首に掛けたりしているが、本当は首に掛けるものではなく、唱えた「聖母マリアの祈り」や「主の祈り」の数を数えるための数珠として使うものである。そのロザリオを司祭などの聖職者によって、聖なるものにしてもらうための祈りというか儀式を「祝別」という。

「祝別」は、現在については定かではないが、過去には聖職者の権限と考えられていた。

そのロザリオの「祝別」について、その頃イエズス会と他の修道会との間に悶着があり、イエズス会内でも、地位によって祝別する数に限度を設けるべきだとかの議論があったらしい。

そこに現われたアラキが、自分は教皇から一定数のロザリオを祝別する権能を与えられたと称して、方々で祝別をして回ったらしい。そのために、「祝別」に関するイエズス会の方針を蔑(ないがしろ)にしたとしてイエズス会士たちの怒りを買ったというのである。



〈原住民教区司祭の分際で〉


ここで、前々回[その2]で、教区司祭と修道会司祭の格付けの順位について触れた際、あまりにくどくなると思って取り立てて書かなかったことを書いておく必要が出てきた。それは、トマス・アラキが、「修道会司祭」よりも格付けの低い「教区司祭」の中でも、特に格付けが低いと見られていた筈の「原住民教区司祭」だったということである。


アラキが、マカオで日本人修道士や同宿に、独自にロ-マに行き司祭となる方法や宣教師たちの日本に対する武力征服論といったヨーロッパ人宣教師たちにとって日本人には知られたくないことを語ったことは、既に日本のイエズス会士たちの間にも知られていただろう。そのアラキが、帰国してから、あろうことか、せっかく自分たちの特権としてきた霊験あらたかなロザリオの「祝別」を蹂躙したのである。それも、「原住民教区司祭」の分際で、である。アラキに対する彼らの憎悪がいっきにに膨らんだとしてもおかしくはない。


〈教会分裂〉


さて、長崎“教会分裂(シスマ)”とは、以下のような事態である。


長崎外町の小教区と村山等安


1610年頃から、ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチノ会が長崎に常駐するようになり、長崎はイエズス会を含む四修道会の日本布教本部の所在地となった。

1614年2月、長崎に駐在していた2代目司教であるルイス・セルケイラ(イエズス会士)が死去した。その時点で、長崎には四つの小教区が設けられ、教区司祭は七人いた。そして、四つの小教区教会のうち、少なくとも三つは外町に在ったことが分っている。

その外町を統治していたのが、ドミニコ会士の長崎進出を支援しイエズス会と敵対することになる代官 村山等安である。彼の息子フランシスコ・アントニオ・村山は、小教区主任司祭の一人であり、等安は小教区教会の建築費や維持費を負担するなどもしていた。

イエズス会にとって、長崎の外町が他の修道会に侵蝕され、小教区主任司祭たちが概ね他修道会に与するようになってきたことは憂慮すべき事態であり、その趨勢の陰には村山等安の影響力が認められたことは言うまでもない。


二人の司教総代理が並び立つ異常事態


司教セルケイラの死亡の同月、七人の教区司祭は次の司教が着任するまでの司教総代理として、イエズス会管区長ヴァレンティン・カルヴァ-リョを選出した。

ところが、同年10月、フランシスコ会遣外管区長ディエゴ・チンチョがカルヴァ-リョを総代理に選出した選挙は無効であるとして、適切な善後措置をとるよう要求した。そこで、同月、教区司祭たちは、総代理カルヴァ-リョを罷免したが、罷免に同意したのは五人である。これによって、教区司祭は、スペイン系托鉢修道会に同調する五人とポルトガル系イエズス会に与する二人の二派に分かれたことになる。

教区司祭たちは、イエズス会のカルヴァ-リョに代わり、フランシスコ会のペドロ・バウティスタを司教総代理に選出したから、ここに府内(実質は長崎)司教区の司教総代理として、二人の人物が並び立つという異常事態が生じたことになる。これが、長崎“教会分裂(シスマ)”である。


禁教令で壊滅的な打撃を受けたはずのこの時期に


1614年10月と言えば、キリシタン教会に壊滅的打撃を与えたとされている前年1月の全国的禁教令を受けて、多くの宣教師や高山右近などの主だったキリスト教徒がマカオやマニラに追放される僅か1カ月前である。危機に瀕していた筈のこの時期に、キリシタン教会内部ではこのような紛争が進行していたのである。

カルヴァ-リョとチンチョは1614年11月に、バウティスタも1616年に、日本から退去し、村山等安も宿敵末次平蔵との抗争に敗れて失脚し、1619年に処刑された。“教会分裂”は、こうしてあっけなく消滅したが、その紛争が信者や聖職者に「相互の不信感」という修復困難な傷を与えたことは確かである。


アラキはどう対応したか


トマス・アラキは、1615年8月に帰国し直ちに教区司祭に加わったと推測されているから、この“教会分裂”にもろに直面せざるを得なかったはずであるが、彼がどのように対応したかは分っていない。


ただ、彼は、1611年にローマから日本へ出発する際、教皇宛てに送った書翰の中で、「日本の教会は異教徒の王侯の迫害よりも、むしろ托鉢修道会とイエズス会との間の紛争による内部分裂ににより攪乱されている」と既に記している。さらに、1615年、マカオからも総会長宛てに書翰を送り、「日本で激しい迫害が行われている中で、修道会間の紛争が信者を混乱させていること」を伝えていたのである。


アラキにとっては、この“教会分裂”は、まさに自分が海外に在って懸念し警鐘を鳴らしていた通りの事態だった。だから、危機のさなかに自己の属する集団の利害に狂奔する諸修道会士たちと、その混乱の中で主体性もなくひたすら右往左往するだけの日本人司祭である同僚たちには、改めて深い失望を感ぜざるを得なかっただろう。そして、その絶望的な状況から脱け出るにはどうすれば良いかをその時から具体的に考え始めたのではないだろうか。



〈逮捕・棄教〉


1619年8月、長崎奉行長谷川権六によって捕えられたが、直ぐに奉行所から脱走する。そして、その2日後、ロ-マ・セミナリオの服を着て出頭し、大村の牢に送られ、牢に20日いて棄教したと言われている。

その後、アラキは背教者として長崎奉行に協力しながら生きる。奉行は、彼を監視下に置きながら、次のような面で徹底的に利用する。


〈背教者として〉


1.ヨーロッパの事情や、主要な信者・宣教師に関する情報提供


(1)奉行長谷川権六はアラキに、ポルトガル人とスペイン人が日本征服を企てたら、オランダ人は彼らと連合するであろうか、と尋ねた。
それに対して、アラキは「皆一軒の家の中の犬のようなものだ。はたがこれを守ってやらないと、互いにけんかをして咬み合いをするが、見知らぬ者から身を守ったり、これを襲ったりするためには、皆力をあわせる」と答えた。


(2)長崎代官村山等安は、末次平蔵との争論に敗れ、1619年に処刑されたことを、先に述べた。等安が大坂の陣に際して豊臣秀頼を支援し、彼の息子である教区司祭フランシスコが大坂城内で活動していたことを、アラキが長谷川権六に通報した、と言われている。

ところが、アラキがその情報を奉行の権六に密告したのは、まだ逮捕される以前であったらしい。つまり、アラキは逮捕される以前から、等安を陥れるべく奉行に通じていたらしい。そして、このアラキの密告によって、奉行権六は等安と競合していた末次平蔵と手を結び、キリシタン弾圧を進め、教会勢力の一掃を図ったようだ。


(3)奉行権六は、アラキを将軍に謁見させるなどして連れ回し、周囲に寵愛ぶりを見せつけた。アラキは、幕府に対し、日本にいるパ-ドレの名簿を提出し、彼らの所在地を知らせることまでした。


2.外国人・日本人宣教師対する取り調べへの協力


(1)1620年から22年にかけての「平山常陳事件」に関するスペイン人宣教師等に対する詮議において、語学力を活かし、証人・通訳、さらには棄教を勧める役を勤めている。

「平山常陳事件」とは、
1620年、日本人船長平山常陳が、マニラからドミニコ会士ルイス・フロ-レスとアウグスチノ会士ペドロ・デ・ズニガを乗せ日本へ向かっていたところ、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕された事件である。フロ-レス、ズニガ、常陳を含む15人が処刑された。

この事件は、その後、大村、長崎の牢に収容されていた55人が処刑されるという激しい弾圧「元和大殉教」の引き金となった。


(2)1622年に再入国したフランシスコ会士ルイス・ソテロ(伊達政宗の送った慶長遣欧使節の引率者)の取り調べに関わった。

彼が聴き出したことの中には、将軍に伝われば主だった大名たちの立場を危うくするような話もあったらしい。


(3)1633年、イエズス会日本人パ-ドレパウロ・サイト-に対し、その最後の場面で相対している。
パウロ・サイト-はアラキについて、「彼とは一緒にいたくない。立ち去ってほしい。何故なら、彼は神の教会の腐った肢体だからだ。自分は今天国にいるから、このままここに居させてほしい」と言ったという。


(4)1636年、ドミニコ会管区長代理アントニオ・ゴンサレスを含む四人の司祭と二人の従者が、マニラを出港し琉球に到着して捕えられた。翌1637年、一行は琉球から薩摩に連行され、長崎に護送された。

取り調べの場に、背教者クリストヴァン・フェレイラとトマス・アラキがいた。
アラキが、司祭ミゲル・デ・オサラサに向かってラテン語で棄教を勧めたのに対し、オサラサは「あなたはラテン語を話すのだから、それが理解できるに相違ない。また、あなたは背教者に違いない。あなたはラテン語で話したが、その内容は大変に悪い」と答えたことが記録されている。


3.長崎奉行によるポルトガル船取り調べに対する協力


1620年代半ばから、幕府はポルトガル船に対し人と物の両方から、厳重な取り調べを行うようになり、長崎奉行自らがポルトガル船に乗り込んで取り調べを行うこともあり、その際にアラキを伴った。



〈西勝寺文書「きりしたんころび証文」への署名〉


この「ころび証文」は、キリシタン信者の夫婦がキリシタン弾圧に堪えかねて改宗を誓い、このことを奉行所へとどけるために書いたものであるが、書き損じたため、西勝寺に残ったものであると裏書にある。(長崎県指定有形文化財)

この証文には以下の署名がある。

南蛮ころひ伴天連  中庵(沢野忠庵 クリストヴァン・フェレイラ)
日本ころひ伴天連  了順
日本ころひ伴天連  了伯

論文「クリストヴァン・フェレイラの研究」を書いたフ-ベルト・チ-スリク氏は、了伯はトマス・アラキ、了順は教区司祭ミゲル後藤(長崎頭人総代後藤宗印の次男、1632年頃棄教)であるとしている。



〈オランダ商館との関係〉


アラキは、長谷川権六藤正(在任1614-1626)、水野守信(1626-1629)と二代の長崎奉行に目明しとして仕えたが、次の竹中采女正重義(1629-1634)の代になると、何故か理由は不明だが、奉行との間に距離を置くようになる。

そして、立場を活かしてオランダ商館に近づき、情報を提供して信頼を得、個人的にも商品を購入するなど取引関係を持ち、経済的にも裕福であったようだ。

平戸オランダ商館員ク-ンラ-ト・クラ-メルは、1630年3月12日、長崎でアラキに出逢い、その場に居合わせたポルトガル人がアラキを尊重している様子をかいま見たことや、彼から情報提供を受けたことなど、アラキとの交流を記している。



次回は、トマス・アラキの生涯について私の考えていることを書いてみようと思う。


〈つづく〉


[参考文献]



「キリシタン時代対外関係の研究」 第十三章 転び伴天連トマス・アラキ        高瀬弘一郎著 岩波書店                            
「キリシタンの世紀」-ザビエル渡日から「鎖国」までー 第十六章 長崎教会 他    高瀬弘一郎著 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について                     五野井隆史
キリシタン司祭後藤ミゲルのラテン語の詩とその印刷者税所ミゲルをめぐって       原田 裕司著 近代文芸社
オランダ人の描いたトマス荒木 永積洋子 (岡田章雄著作集Ⅲ 日欧交渉と南蛮貿易 栞)       


























                                             




                                              

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Commented by taijun kotaki at 2017-01-05 18:56 x
修行というのは、外から(批判的に)見ることを中止し、忠実に実行してゆかないとどうにもならない所があるのですが、
その指導者に疑いを持ってしまうと、どうにも先に進めなくなり、指導者を離れて、坐禅なり聖書なりに拠り所を見出すことになる。
指導者から気持ちが離れては組織の中で幽霊のように生きていくしかない、しかし、組織を離れると、すべてを失ってしまうことになる。
指導者は生殺与奪の権力を握っているようなものですから、こういう状況になると、すそ野の方でうごめくだけの平信徒は哀れですね。
この(平信徒だけではなく)全体が見えていたら、現地の(低い立場の)指導者は、どう行動すべきなのでしょうね。
Commented by GFauree at 2017-01-05 23:03
taijun様
コメント有難うございます。
確かに、アラキは指導者や組織の方針に疑いを持たざるを得なかった現場の聖職者です。そういう彼の行動をどう考えるか、を次に書きたいと思っていますが、正直なところ少し気が重いです。
by GFauree | 2016-12-29 13:49 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(2)

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