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棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その5]

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                                         (写真撮影 三上信一氏)





今回は、トマス・アラキの生涯全般について私の考えるところを書いてみよう。




1.まず、なぜアラキはイエズス会の枠を外れてまで、独自のル-トでロ-マへ行ったのか、である。


アラキは渡欧する際、1602年頃フィリピンを、1603年頃メキシコを通過した。ということは、彼が日本を発ったのは1601~2年頃のはずである。


1601年、司教ルイス・デ・セルケイラは長崎に司祭養成のための神学校を開校した。
その神学校には、当初ポルトガル人2名と日本人6名が選ばれ入学したが、彼らは皆、多年セミナリオで教育され最優秀とされた者だったとのことである。また、日本人たちは、既に経験を積んだ伝道士(同宿)から選ばれたともされている。


私は[その1]に書いたように、その頃までに、アラキはイエズス会のセミナリオの課程を順当に修了し、既に同宿として働いていたのではないかと思う。司祭となることを希望していたアラキは当然必要な学力も有し神学校入学を強く希望したが、その希望は何らかの理由によって受け容れられなかった。その理由の一つとしては、イエズス会内に「日本人司祭登用制限の方針」があったことが当然考えられるが、ともかく結果としてアラキは日本での神学校入りをあきらめ、他の修道会関係者のつてを頼ってロ-マで学ぶべく出国したのだろうと、私は考える。


それでは、なぜアラキは同宿の仕事を棄てて司祭になることに、それほどまでに執着したと考えられるのか。

同宿については、ペトロ・カスイ・岐部に関する記事の中で述べたので、ご参照頂きたい(http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/)が、ただその中で充分に言及していないことがある。

それは、キリシタン教会の運営の重要な部分を担っていた同宿に対する処遇、いわば身分制度についてである。
「同宿はパ-ドレ(司祭)、ついでイルマン(修道士)を敬意をもって遇しなければならなかった。物をかぶって長上と話すことはできないし、道で会ったら下駄や草履を脱いで膝に手をつけて応対しなければならなかった。」(キリシタニズムの比較研究 古野清人)

司祭や修道士は正式なイエズス会士である。教会の運営に欠かせない存在であったはずの同宿は、会士たちの家来か使用人のような処遇に甘んじさせられていたのである。こんな身分制度があったのだから、イエズス会の枠を超えて何が何でも司祭になりたいとしてアラキが行動したとしても、不思議ではないと私には思える。

そのアラキの願望を、何かよほど悪辣な手段に訴えてまで妨害しようとした宣教師がいたようであることは次に述べるが、概して従順な日本人信者や同宿たちに比べ、アラキはもうこの段階からヨ-ロッパ人宣教師たちにとって要注意の厄介な存在となっていたことは想像できる。



2.アラキはどのような境遇に育ったのか


1613年10月4日付け京都発、チェルソ・コンファロニエリの総会長補佐宛て書翰

「・・・、彼は身分低い生まれで、母親は自分の労働で自らを養っていた。またこのピエトロ・アントニオ(アラキ)は、能力が示されなかったためにセミナリオに入ることが許されなかったか、または入学は許されたがそこに留まることが出来なかったかのいずれかである。・・・。したがって、われわれは彼がこの地にもどってくることを恐れている。・・・。」

主旨のはっきりしない奇妙な書翰であるが、次のようなことを言いたいようだ。
「アラキは、身分の低い貧しい生まれの人物(だから、配慮するに値しない存在)である。彼がセミナリオで学べなかった理由が分らないぐらい、自分は彼と関係がない。しかし、彼が日本に戻って来ると何を言われるか分らないという恐れがあるので、決して帰国させないようにして欲しい。」

このような報告がなされる修道会では、「清貧の美徳」や「金持ちが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがずっとやさしい」というイエスの言葉などは、何の意味も持たず誰も顧みることがなかったのだろう。報告者は自分とアラキの関係が露わになることを恐れ、また、アラキが日本へ戻ることつまりアラキの報復を異常に恐れているようだ。


この書翰を書いたチェルソ・コンファロニエリは、1590年代から1600年代初めにかけて、コレジオとノビシアド(修練院)の教育に関わったことがあるイタリア人司祭であるという。私は、コンファロニエリこそ、アラキが独自にロ-マへ行くこととなった理由を作った張本人だったのではないかと思う。

神学校へ行き司祭になりたいというアラキの希望を何か余程悪辣なことをして妨害したのだろう。そうでなければ、これほどまでにアラキの帰国と報復を恐れる必要はないはずである。それが分ったところで今さら何ができる訳でもないが、四百年も経っているのにここまで分ってしまうとは、悪いことはできないものである。



話が逸れてしまったが、アラキの育った境遇についてに戻る。

コンファロニエリの書翰の日付けの5年前、1608年10月10日付けイエズス会準管区長フランシスコ・パシオのトマス・アラキ宛て書翰では、アラキの母モニカは志岐(熊本県天草郡)の教会の近くに健在であるとされている。そのことから、アラキが志岐に生まれ育った可能性は高いと言われている。

また、1615年1月3日付けトマス・アラキの総会長宛て書翰によると、アラキはマカオで、幼少時から接触していた彼の師である神父達や修道士達、そして信仰のために日本から追放された縁戚の者数人に偶然にも出会った、ということである。

このことから、アラキの幼少時、彼の家庭が裕福であったか否かは別として、神父や修道士たちと親しく接する宗教的に恵まれた環境に育ったことは分る。また、彼の縁戚者達がマカオに追放されていたということは、彼等がある程度社会的地位の有る者だったことを想定させ、アラキの出自も決して軽視されるものではなかったと推測されている。



3.アラキが語り、警鐘を鳴らした事柄について


・マカオで司祭になるための勉学を希望しながら、イエズス会の方針でそれが叶わぬことが分り不満を募らせていた日本人伝道師(同宿)たちに、以下の事項を語った。

(1)イエズス会を去って教区司祭になる道に進むべきこと。
(2)托鉢修道会士がスペイン国王に日本征服を企てるよう働きかけたことをマドリ-ドで知ったこと。

・1611年ロ-マで教皇宛てに書いた書翰に、また1615年マカオでイエズス会総会長宛てに書いた書翰に、次のことを記した。
(3)日本で激しい迫害が行われているさ中に、修道会間の紛争が信者に混乱を与えていること。




(1)
については、まず勉学の機会を求め日本を出たにもかかわらず、マカオでもその機会が与えられないことが分り落胆する同宿たちを見かねて、自分の経験を語って励まそうとしたのではないかと私は思う。やり過ごすことも出来ただろうが、自分の辛かった経験からも理不尽な扱いに途方に暮れている者たちを見て黙っていられなかったのだろう。もともと、そういう性分だったのかも知れない。

修道会司祭でなく教区司祭をめざせとの忠告には、イエズス会の「日本人司祭登用抑制の方針」への対抗策という意味以外にも、[その1]に書いたように、修道会主導の教会運営から脱却するという積極的な意味を持たせていたのかも知れない。また、[その2]で述べたように、修道会司祭よりも教区司祭の方が叙階されやすいという事情を含んでの忠告だったのかも知れない。


(2)については、托鉢修道会士のその働きかけに対しイエズス会士が反対したと、アラキが語ったとのことであるが、イエズス会士が反対したのはスペインが征服することにであって、ポルトガルならイエズス会士も反対しなかっただろうという意味らしい。

秀吉以降の日本の為政者がキリシタン宣教師を国家征服の尖兵と考えたことが当たっていたことを裏付けるようなことを、アラキは知り語っていたことになるが、それはその頃、ヨ-ロッパの一部の人々の間では、いわば常識となっていたことなのではないかとも私は考える。


(3)の修道会間の紛争については、[その2]に書いたように、世界の各地で起きていた問題なのだから、ロ-マで6年以上学び生活していたアラキは、それが日本だけの問題でないことは知っていただろう。ただ、日本の場合は迫害がまさに風雲急を告げていた時期であったために、なおさら、その近親憎悪的な抗争の弊害を教皇にも総会長にも明確に知らしめておく必要を感じたのではないだろうか。


アラキの勇気


以上(1)、(2)、(3)とも、その内容は、まずアラキの見識の広さ、深さを感じさせるが、同時に、どれもマカオや日本にいたヨ-ロッパ人宣教師にとっては触れられたくない話であったはずである。その宣教師たちが主導権を握っていた日本への帰国を控えての言動であったことを考えると、一般に従順で当たらず障らずの行動を執っていた印象のある日本人聖職者の中に在って、アラキの勇気を感じざるを得ない。

しかし、司祭になりたいという願望を果たすために、多くの困難・障害を乗り越えて単独でロ-マに渡り学んだアラキであれば、これしきの勇気は当然のことだったのかも知れない。

加えて彼の言動は、苦境にある日本人同宿たち、征服の対象として議論されている祖国日本、自己中心的なヨーロッパ人修道会士たちに振り回される日本の信者たち、を見るに見かねてというような心情から発したものであると私は思う。

海外で暮らすと、日本や日本人の素晴らしさに改めて気付かされ、その日本や日本人のためになりたいと思うようになるものである。アラキの日本、日本人信者に対する思いやりは、そういうところから生じた自然なものだったような気がする。


ロザリオの「祝別」



帰国後のアラキが、当時イエズス会が仕切っていたロザリオの「祝別」に関し、自分は教皇から「祝別」をする権能を与えられたと称してロザリオを「祝別」して回り、イエズス会士たちの怒りを買ったという逸話を[その4]に書いた。

実は、1615年マカオでイエズス会総会長宛てに書いた書翰の中で、迫害の不安の中にいる日本の信者を慰めるためとして、メダルを送ってくれるよう総会長に依頼しているのである。帰国したアラキは、ロザリオを「祝別」することも、信者を力付けるものとなると考えそれを進めようとしたところ、イエズス会から横やりが入り、その妨害を無視する行動に出たのではないかと私は思う。

信者が何よりも力付けられることを必要としている時に、ロザリオの「祝別」についてまで他修道会を抑え自分たちのいわば利権を確保しようとするイエズス会士にはあきれる思いであっただろう。純真に救いを求める日本人信者を有難味で釣って勝手な規則を押し付け平然としているヨ-ロッパ人宣教師たちの姿勢は、彼らが日本人同宿を自分たちの使用人であるかのように扱っていた姿と重なったことだろう。


アラキにとって、幼いころから自分が信じ、その為に行動し生きてきたことの中で、何が間違っているのか、何を自分は大切にしていかなければならないのかが次第に明確になっていった過程だったのではないかと私は思う。



4.長崎代官 村山等安とのこと



村山等安については、前回[その4]で“教会分裂”に関して採り上げた他に、過去に記事を書いたことがあるので、ご参照頂きたい。(http://iwahanjiro.exblog.jp/20869393/)(http://iwahanjiro.exblog.jp/20887207/


長崎外町を差配していた等安は、内町の商人を代表する末次平蔵と敵対し、奉行長谷川権六と手を結んだ平蔵によって、1618年1月、代官の座を罷免された。更に、ドミニコ会司祭であった等安の息子が大坂の陣に際して大坂城内におり、等安が大坂方を支援したことが露見したために、等安の罪科が決定的となり、その一族が処刑されるに至ったとされている。


アラキの密告


その、等安一族の破滅を決定づけるような情報を奉行の権六に密告したのが、アラキだと言われているのである。しかも、密告した時期は、まだ逮捕される以前のことだったらしい。

wikipediaでは、等安が大坂方と通じていたとの嫌疑は、娘を等安に手打ちにされたことを恨んだ料理人三九郎が平蔵に告げたことによるとしており、情報源はアラキだけではなかったのだろう。しかし、アラキが奉行の権六にそのことを告げた可能性は充分ある。

まず、等安の息子フランシスコ・アントニオ・村山は、アラキと同じ教区司祭だったのだから、アラキがこの息子から情報を得ていたことが考えられる。しかも、アラキが村山父子とかなり交渉を持ち、布教事業に関して相当深い議論が交わされていたことを窺わせる記録もあるのである。


ただ、仮にアラキが等安一族に関する情報を奉行に提供していたとしても、私にはそれは致し方のないことと思われ、そのアラキの行動にあまり後ろ暗い印象は持っていない。等安は、ひたすら“清く正しく美しく”語られるキリシタン信者たちの中で珍しく“顔役”・”悪代官”の貌を覗かせ、キリシタン社会の成熟を感じさせる魅力的人物である。

しかし、スペイン系托鉢修道会に密着し、それを利用して自己の利権の確保・拡大を図った等安の生き方は、キリスト教布教を純粋な宗教的要素だけから考えていたと思われるアラキの考え方とは、全くかけ離れたものだった。そういう意味で、イエズス会より遠い存在だった等安をアラキが敵対視したとしても、それは致し方ないと思われるからである。


ところで、等安の息子アントニオは、アラキが入学させて貰えなかった(と私が考える)司教セルケイラが設立したイエズス会の神学校で学び叙品を受けた教区司祭である。


日本人司祭は養成しないと言っていながら有力者の子弟は受けいれるイエズス会と親馬鹿


そうであれば、イエズス会は、「日本人司祭登用制限の方針」を盾に多くの勉学志望者の受け入れを拒否しながら、こういう有力者の子弟はしっかり入学させていたことになる。それに、こんな時代にも、情実入学に教会内での自分の影響力を行使した親馬鹿な有力者がいたらしいことが、私には興味深い。

そして、若い時から自分の実力で勝負しロ-マまで行ったアラキがそんなことに引っ掛かりを感じ、それが村山父子に対する反感に繋がったなどということはなかったのかなどと考える。



5.アラキを利用した人たち


長崎奉行 長谷川権六が、ヨ-ロッパの事情やキリスト教についての情報提供者として、また国内のキリスト教徒に対する穿鑿の協力者として、アラキを利用したことについては、妙に詳細に語られている。

しかし例えば、アラキが「日本いる凡てのパ-ドレの名簿を提出し、どこの国のどこの家にいるかを明らかにした」とか、長崎のキリシタン捜索において、アラキが「今一人のユダであるかのように、スパイや司直たちの頭目になっている」とかの報告には、いかにもありそうな話ではあるが首をかしげざるを得ない。

一教区司祭に過ぎなかったアラキが、日本いる全てのパ-ドレの所在を知っていたなどということは、よく考えれば殆どあり得ないことだ。また、外国帰りの神父にキリシタン捜索を頼らなければならないほど、幕府の官憲は無能ではなかったはずだ。また、一介のカトリック神父の意見で、幕府の対外政策が左右されたはずもない。

では、なぜこのような言辞が弄されたのだろうか。


アラキを利用し尽くした長崎奉行


それには、実際にアラキが提供した情報がある程度役立った面もあっただろうが、奉行としてはアラキを取り込み活用するという手法が成功しているとして、自己の存在や能力を幕府上層に対し強力にアピ-ルしようとしたことが当然考えられる。また、キリシタン信徒への警告として、意図的に捜索の経緯を多少の作文を交えながら開示していたことも考えられる。

もうひとつは、後になって、残虐な「弱い者虐(いじ)め」のイメ-ジを持たれがちなキリシタン取締りが、元信者の「裏切者」の協力によって進められたということにできれば、幕府にとってイメ-ジダウンを軽減できるという考えもあったのではないだろうか。


他にも、アラキを利用した意外な人たち


そして、キリシタン弾圧がアラキの協力で進められたことが強調されれば好都合な人々が他にもいた。それは、教会である。

アラキが教区司祭として行ったキリシタン教会運営の問題の指摘・警告は的確だった。布教地先住民司祭登用の制限、宣教師の他国征服への関与、修道会間の競合といった問題は、日本のキリシタン教会のみならず、その時代の世界の教会全体の問題でもあったのだ。

アラキの裏切りで弾圧が進み、清く正しい宣教師たちは処刑されるか追放され、キリシタン禁教は徹底されたことになった。自分たちは沈黙していれば、全ては卑怯(ひきょう)な裏切者と残酷な幕府の仕業であると官憲自身が宣伝してくれる。教会には何の問題も責任もなかったことに出来るのだから、こんなに楽なことはない。

こうしてアラキは、その後も幕府権力と教会に存分に利用されてしまったと私は思う。



6.アラキの最期について



アラキは、キリシタン布教は植民列強の国策ではないかという強い疑問を持っていた、と一般に考えられているようだが、私は少し違う考え方をしている。


アラキはこう考えていたのでは


アラキと等安のやり取りに関し、次のような事が言われている。

・[トマス・アラキは]等安の長子に対して、「パ-ドレたちが説教している法は良いが、彼等の意図はこのような手段で日本を自国の国王に従わせることにある。」と語った。

・また、[トマス・アラキは]等安の家で-(その場にいたある重要人物の言う所によれば)-「キリストの法は真実であるにしても、これを日本で広めようとするパ-ドレたちの意図は、日本を自分たちの国王に従わせようというものである。」と語った。


これらのアラキの発言から、彼の考え方は以下のようであったと推測する。

・教会は植民列強の国策に乗って海外布教を進める方針を採ってきた。
・また、その方針が宣教師たちの姿勢を歪めており、多くの宣教師の意図は日本を自国に従わせようというものだ。
・ただ、本来のキリスト教の教えはそのようなものではないはずだ。

つまり、植民列強の国策に乗らない本来のキリスト教布教があるはずであり、教会はそこへ戻るべきだとアラキは考えていたのではないか、と私は思う。


ここでも、アラキの洞察力と先見性が


上記のアラキの発言は、1615年にアラキが帰国してから1618年に等安が失脚するまでの期間になされたものと考えられる。それから数年後の1622年、[その1]で述べたことだが、ローマ教皇庁内に布教聖省が設置され、アラキが提起した諸問題は、従来の布教体制の問題点として認識され、実効性は兎も角として対処方針が立てられている。

布教聖省の問題認識と対処方針の内容については、クリストヴァン・フェレイラに関する記事をご参照頂きたい。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)それを見ると、アラキの問題認識の的確性を改めて感じさせられるが、彼がそういう洞察力や先見性を持ち得たのも、10年近くヨ-ロッパで学んだことに加え、指導者に恵まれたという面もあったのではとも私は考える。




彼の死亡の年は、1646年または49年とされている。
彼は、1601年ごろ日本を出国したときに既にセミナリオを修了し20歳を超えていたと私は考えるので、亡くなったのは、65歳から68歳を超える年齢、つまり70歳前後だったということになる。

彼が、信仰を取戻し殉教者として死んだとする記録は、オランダ史料と教会史料の双方に見られる。


アラキは信仰を取り戻して死んだ


クリストヴァン・フェレイラ(沢野忠庵)の場合は、棄教時に実質日本管区長という重要人物だった為、教会は面子にかけても彼が殉教したことにする必要があったはずだから、殉教したと言われてそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。


逆に、アラキは教会の不倶戴天の敵であったはずであり、彼が信仰を取り戻したなどと考えたくないはずの教会が信仰を取り戻したと言っているのだから、それは信憑性があるのかも知れない。私は、アラキが殉教と言える死に方を本当にしたのかどうかは分らないが、信仰を抱いて死んだのではないかとは考えている。

ひとつは、既に述べたように、国策に乗って海外布教を進めた教会の方針は間違っていたけれど、教えそのものは間違えではないと彼が考えていたと思うこと。

もうひとつは、幼少時の彼が宗教的に恵まれた環境に育ったと考えられると先に書いたが、幼い時のそういう経験は、老い先短くなってきた時にこそ甦ってくるものではないかと私自身が最近思うようになっているからである。


アラキの生き方・逝き方は一貫していた


こうして、アラキの一生を振り返ってみて気付くことは、彼が若い時から、自分がなすべきだと考えたことは、多くの困難を乗り越えながらもあくまで成し遂げ、語るべきだと考えたことは勇気をもって発言していたということである。おそらく、それは教会を離れる時もそれ以降も変わらなかったのではないか、と私は思う。そして、最期も、幼い時からの信仰を素直に抱いて、安らかに旅立つことが出来たのではないか、と思えるのである。

そう考えると、アラキの生き方・逝き方は幼いころから最期まで一貫しており、彼について「変節漢」というイメ-ジは私には湧いて来ない。



〈おわり〉




[参考文献]


「キリシタン時代対外関係の研究」 第十三章 転び伴天連トマス・アラキ        高瀬弘一郎著 岩波書店                            
「キリシタンの世紀」-ザビエル渡日から「鎖国」までー 第十六章 長崎教会 他    高瀬弘一郎著 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について                     五野井隆史
キリシタン研究 第十輯 日本における最初の神学校(1601年-16014年)Hubert Cieslik S.J.  吉川弘文館

















by GFauree | 2017-01-17 11:46 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(5)  

Commented by taijun kotaki at 2017-01-18 04:50 x
大変興味深く拝読させていただきました。「カラマーゾフの兄弟」を読んだ頃(高校生)を思い出しました。

私はイエズス会についても何も知らないのですが、その設立当時から抱えていた問題が、徐々に表面に出てきたのだなあと思います。特に日本の
上意下達的在り様、利に敏い殿を信者にすれば、領内ほとんどが信者になる。だから殿をつなぎとめることをする。ことが、躓かせた。
アラキは、キリスト教を学んでゆく中で、そ(宣教師たち)の自己中心的なところではなく、その後の、論理を積み重ねるところ(日本では教えられていないモノ、教学)に惹かれ、聖書そのものに鍛えられていったのかもしれませんね。勿論その前に良い師に出会っているのでしょう。

次も楽しみにしています。


Commented by GFauree at 2017-01-18 11:06
「カラマ-ゾフの兄弟」とは、何とも懐かしい響きです。と言っても、私は読んだことはありません。或る時、それが重厚長大そうな小説の題名であることを知って、こりゃ無理だわと思った憶えがあります。でも、死ぬ前に覗いてみるかも知れません。
仰るように、あの人たちは支配層から感化していく得意の手法が、日本でも見事に当たって益々自信と優越感を強めてしまったという面があったのかも知れません。だから、あとは真っ逆さまに転がり落ちるしかなかったのか。
アラキは、日本でもロ-マでも、キリスト教の現実とあるべき姿を教え考えさせてくれる人に恵まれたような気がしています。
引き続き宜しくお願い致します。
Commented by osakada at 2017-01-19 01:34 x
トマス・アラキを含め、幾つかの記事を大変興味深く拝読させて頂きました。
これまで知らなかったことが多く、大変勉強になりました。
日本側のメインプレーヤーたる井上筑後守については、どのような印象をお持ちでしょうか。
キリシタン関係はもちろんのこと、オランダ商館の文書にも頻出する人物ですが、とくに後者からはなかなかに熟練された政治家像が見えてくるように思えます。
彼の得ていた情報の質から、自らはイベリア両国を本気で脅威には感じてなかったと私は推測します。それにもかかわらずあれほど徹底してキリシタンを取り締まったのは、役目もありますが別途グランドデザインがあったのかなと。それは宗門人別改帳&寺請制へと繋がる流れのことで、幕府による網目の細かい管理体制を実現するものです。
長崎に来るまで、彼は大目付として雄藩などとの渉外に苦労することも多かったものと思います。それがキリシタン取締りとなると、まるで魔法の杖のように各藩の自分仕置権すら軽々と超越することができる。とどのつまり彼はキリシタンをダシに使うことを覚えたのではないか、と最近考えるようになってきました。
Commented by GFauree at 2017-01-19 10:34
osakada様
井上筑後守は、どこまでが本心か分らないような複雑な性格を持った元キリシタン信者の老練・狡猾そうな奉行として、小説「沈黙」に登場します。私は、そんなイメ-ジがワンパタ-ンだなと感じるだけで、実際に筑後守がどんな人物だったかを追求してみる知恵がありませんでした。
今回、ご教示頂いて非常に興味深い存在であることを知りました。「キリシタン取締り」を自分の職務遂行の、また引いては出世の切り札に使ったと考えられること自体が、先ず興味を引きます。それに、私はこれまで、幕閣人事というものは、閨閥や情実で決められていたものとばかり思い込んでいたものですから、それがある意味で非常に合理的に行われていた面もあったようであるところが面白くまた嬉しいような感じさえします。
というわけで、井上という人について少し調べて、彼の取り調べで転んだと言われている人たちについても、もう一度考え直してみたいと思います。貴重なご指摘を有難うございました。
Commented by osakada at 2017-01-19 14:47 x
どういたしまして。ご返信ありがとうございました。
そうですね、井上家は母が秀忠の乳母をしていた関係で兄がその小姓となり老中にまで昇ったという、いわば新参の家門に過ぎません。老中の弟というだけでは千石取りがいいところでしょうが、井上筑後守はむしろ兄が不慮の死を遂げた後にグングンと出世していき遂には大名に列します。
また今でも多くの日本人が庶民も含め檀家となっていることの原点ともいえる人物で、後世への影響の大きさを考えるともう少し注目されてよい人かもしれません(仏教関係者はあまりそこをほじくり返して欲しくはないでしょうが)。
いずれにせよ様々な面で非常に面白い人物で、お調べになってみて損をされることはないと思います。
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