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「岡本大八事件」はどうも気になるので

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「岡本大八事件」
は、以前龍造寺氏に奪われた旧領の返還を求める「キリシタン大名」有馬晴信と、家康の側近である老中本多正純の家臣岡本大八との間の贈収賄事件として知られている。賄賂を贈ったのが有馬晴信、受け取ったのが岡本大八である。

この事件は1613年1月の全国的な禁教令発布の重要な契機の一つとして、よく挙げられている。しかし、一見単純明白なこの汚職事件の展開には種々不自然な点がある。にもかかわらず、一般にその点はあまり追及されず、ほぼ同時期の大奥の女中「おたあジュリア追放」の件と並べて、ただ全国的な禁教令発布のきっかけとされてきたように、私には思えた。


そして、その種々不自然な点について考えているうちに、この事件は実は家康・正純による「キリシタン大名潰し」の謀略だったのではと考えるようになり、そのことを記事に書いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)約400年前のこの事件についても、御多分に漏れず、同時代及びそれ以降の権力や権威にとって都合の悪いことは隠蔽・抹消されてきたであろうから、それが不自然な説明に現われているのではないか、と思ったからだ。

すると、そんな記事を書いた所為で、事件について他の人はどんなことを言っているのかとか、何処かに何か決め手になるようなことが書いてありはしないかとかが、いつも気になるようになった。また、どうも、この事件は私だけでなく多くの人にとって気になる出来事であるらしいことも分かってきた。



最近、たまたま「カルヴァ-リョ弁駁書」という文書を読んでいて、その中に「岡本大八事件」に関して書かれた箇所があるのを見つけた。
(その文書の日本語訳は、大航海時代叢書「イエズス会と日本 二」に収められている。)


「カルヴァ-リョ弁駁書」
は、正式には、「フランシスコ会パ-ドレ・フレイ・セバスティアン・デ・サン・ペドロによって作成された、日本の皇帝が彼の諸王国からすべてのパ-ドレを追放するに至った諸原因の摘要、と題された論文への弁駁と回答」という長々とした題名が付けられているだけあって、日本語訳の分量も約300ページと長大な文書である。

内容は、江戸幕府によるキリシタン禁教の原因がイエズス会の布教方針にあったとするフランシスコ会士セバスティアン・デ・サン・ペドロの主張に、イエズス会日本管区長ヴァレンティン・カルヴァ-リョが反論したものである。


その主張・反論の中に、有馬晴信・直純親子の関係やイエズス会の関与などそれまでに私が知らなかったこの事件の様々な背景や展開が語られている。もちろん、デ・サン・ペドロの主張もカルヴァ-リョの反論も、日本における布教方針をめぐって当時激しく対立していた各修道会の立場から書かれたものである。また、書かれていることの情報の出所や根拠も示されていないから、それをそのまま真に受ける訳にはいかない。

しかし、そこには事件の当事者に近かった者であるゆえに知り得たと思われる事柄が種々述べられている。また、対立する二者の主張と反論によって、少なくとも事件の状況がよりリアルに浮かび上がる面があるようにも感じられる。そんなことから、両者の主張と反論及び付されている解説のうち「岡本大八事件」に触れた部分を抽出して整理してみた。
(なお、一部人名や表現は解り易くするために、日本語訳原文のものから変えてある。)




[セバスティアン・デ・サン・ペドロが主張する事件の経緯]


恩賞として家康の曾孫を与えられた息子直純
有馬晴信はマカオからのガレオン船を攻撃し自爆させるという軍功を立てた。そこで、家康はその恩賞として、晴信の息子直純に自分の曾孫(ひまご)国姫を与え、キリシタンとして教会での婚姻をしていた妻マルタ(小西行長の姪)と離縁させた。

賄賂の目的
晴信は、肥前の国の藤津という、自分の領国に隣接する地方が与えられることを願い、家康の側近本多正純の家臣岡本大八に賄賂を贈った。

追い込まれていた晴信
晴信はイエズス会に対してのみならず、自分の主要な家臣たちにも、手に入る筈の領地からの収入や土地を配分する約束をしてしまっていた。

長崎奉行に訴えた直純
藤津割譲の件が一向に進まないため、晴信が本多正純に進捗を訊き合わせると、家康はその土地を与えると言った覚えはないとの回答があった。そこで、息子直純は、この件は不正であるとして、長崎奉行長谷川左兵衛に訴えた。左兵衛はイエズス会の敵であるばかりか、他の修道会の者も含め宣教師全員を追放した人物である。

直純・左兵衛を殺害しようと図るに至った晴信
岡本大八は、晴信とイエズス会に対し、直純が左兵衛にこの件を通報したために、事がぶち壊され、もはや手の打ちようがないと知らせた。このため、晴信は息子直純と左兵衛に対し激怒し、両者を殺害しようと図るに至った。この事に関し、晴信は大八に何通かの手紙を書き、それは事件が発覚した後に大八自身から示された。

イエズス会は修道士を派遣した
イエズス会京都地区長パ-ドレ(ペドロ・モレホン)が日本人修道士レオイン・パウロを派遣して、晴信と大八を和解させた。左兵衛はその地区長パ-ドレに腹を立てついにはマニラに追放した。

父晴信と大八の和解は、直純にとって不都合なものであり、過去晴信が自分を殺そうとした経緯もあったことから、直純はイエズス会を手酷く非難した。また、友好関係にあった長谷川左兵衛と協力して、一部始終を本多正純や家康自身に知らせた。


家康は全ての顛末を知った

家康は事の顛末を知り驚き、更に次のことを知った。
晴信が自分の息子を殺そうとしていること。その全てがイエズス会のパ-ドレたちの手で操られてきたこと。さらに、二人を和解させるためと、家康自身は出そうとも考えていなかった(藤津割譲のための)勅令について交渉するために、修道士レオイン・パウロが駿河に赴いたことである。

その結果、家康はその関係者全員に対して激怒し、左兵衛と既に自分の曾孫(ひまご)の夫になっている直純の意見を大幅に取り入れ、晴信と大八を駿河に呼び寄せ取り調べた。晴信は、直ちに一部始終を語り、イエズス会パ-ドレたちと彼の妻がそれを企んだと付け加え、大八ばかりでなく修道士レオイン・パウロにまでも罪を着せた。

「これは悪魔の法である」
家康はそのような陰謀を知り、パ-ドレたちやキリスト教徒たちにに対し、激しい非難の言葉を浴びせた。ことを企んだのが皆キリスト教徒だと知ったからである。特に、晴信が息子の、それも家康自身が純粋無垢と考えていた者を殺そうとしていたことが確かになったので、「これは悪魔の法である」と左兵衛に向かって言った。そして、激しい怒りを見せて、直ちに大八を火刑に、晴信を斬首に処することを命じた。



[カルヴァ-リョの反論]


有馬晴信が望んだもの

デ・サン・ペドロは、有馬晴信が藤津を望んだと述べているが、本当はそれ以上を、つまり彼の父親(有馬義貞)が肥前の領主(龍造寺隆信)によって奪われた土地を望んでいたのだ。だから、晴信の望みは正当なものだった。

さらに、晴信がイエズス会のパ-ドレたちを仲介にして大八と交渉したと述べているが、パ-ドレたちがその件に加わったことはなかった。晴信がイエズス会のパードレたちと結託して定収入や土地の配分をしたと言うが、パ-ドレたちは決してそのような配分に関与していなかった。

家康や正純がこのことを知らなかったかどうか
また、家康はその件を知らなかったと述べているが、我々は(その点について)知っていることを述べる訳にはいかない。
本多正純についても、そのことを知らなかったと述べているが、それも我々としては、時が来れば真実が分るであろうと申し述べておく。

イエズス会パ-ドレに操られたと言っていること
デ・サン・ペドロは、晴信が自分の息子を殺そうと企てたこと、およびこれが全てイエズス会のパードレたちの手で操られたことを確認するに至ったと述べているが、それらは全くのでっち上げである。

修道士が動いた理由と直純の反応について
修道士レオイン・パウロは、晴信の要請を受け、京都地区長パ-ドレの許可を得て、左兵衛には知らせずに、大八に会いに行った。修道士がその件に介入したのは、両者の間の和睦のためであった。けれども、晴信の息子直純は、父親の領土をわが物にしようとしていたので、腹を立てたのだ。



[解説に挙げられている事項]


岡本大八・本多正純とイエズス会の関係
大八はもと長谷川左兵衛の家臣で、長崎に住んでいたか、または頻繁に長崎を訪れ、長崎で海外貿易に携わり利を上げていた人物である。
正純も長崎貿易に深く関わっており、家臣である大八を介してポルトガル船による委託貿易を行わせていた可能性は充分ある。
このことから、両者ともイエズス会とは元々親密な関係であったと考えられる。


1605年の長崎換地の件
「長崎天領と大村領との交換問題」である。

(これについては、解説に書かれてある内容が当初私にはよく理解できず、そのまま放置していたのだが、たまたま最近読んだ小説「NAGASAKI 夢の王国」で採り上げられていた。そして、どこかで読んだことがある気がしてきて探してみると、青山敦夫著「天正遣欧使節 千々石ミゲル」〈朝文社〉にも書かれていた。そこで、それらを総合してみると、以下のようなことのようだ。)


大村純忠が寄進したイエズス会領は秀吉に没収され、後に幕府の天領となっていた。ところが、秀吉に没収されず周辺に残されていた大村領の土地の方が、開発が進み町として栄えるようになった。


通辞ロドリゲスの関与
そこで、大村領を外町の一部として長崎に組み込み、その代わりに浦上村とその周辺のまだ開発されていない天領を大村に与えるという、幕府に都合の良い案を、イエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスが家康に提案し了承を得たと言われている。
(イエズス会は、これを強く否定しているが、ロドリゲスが幕府方に長崎の図面を提供したことは認めているのだから、彼が全く関与しなかったということでもなさそうである。)

大村喜前(よしあき)の激怒
この案は、圧倒的に大村側に不利なものだったから、これを一方的に通告された大村喜前は激怒し、全てはイエズス会の陰謀であるとして、棄教を宣言し領内からの宣教師追放を命じた。これにより、キリシタン教会はその時まで残っていた「キリシタン大名」二人の内一人を失い、有馬晴信一人を残すのみとなった。

ロドリゲスと等安の結託
他方、この案は長崎町政上の混乱を除去し、長崎外町を支配する代官村山等安を利するものであったから、当然ロドリゲスと等安が結託して推進したものと考えられている。後に、敵対することになる等安とイエズス会の関係は、この1605年当時は未だ良好であったということであろう。

ロドリゲス失脚・追放へ
この領地交換問題にロドリゲスが関与し、結果的にかつては有力な後ろ盾であったキリシタン大名の支持を失ったことは、イエズス会内部でも深刻に捉えられたようである。以後、急速にロドリゲスに対する批判が増していき、5年後の「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」直後に彼はマカオに追放される。因みに、その際ロドリゲスの失脚・追放を工作したのが、奉行長谷川左兵衛と代官村山等安だったと言われている。



[私の思うこと、考えること]


1.フランシスコ会士の主張する経緯は幕府側発表に手を加えたもの

フランシスコ会士デ・サン・ペドロが主張するこの事件の経緯は、概ね世間に流布されていた情報を基にしたものであるためか、不自然さは余り感じられない。幕府側から意図的に流されたものに、イエズス会の関与という事項を組み入れると、このような経緯になるのではないだろうか。



2.カルヴァ-リョの反論は面白い

むしろ、興味深いのはイエズス会のカルヴァ-リョの反論である。


(1)イエズス会の関与について

修道士レオイン・パウロを派遣したのは、単に晴信・大八両者の和解のためだと述べているが、信者同士の争いごとを収めるだけのために、直純と共にこの件を不正として暴く立場をとる筈の奉行左兵衛に断わりもなく派遣したというのは不自然である。ということは、自分たちの関与が疑われる危険を冒してまでも、是非和解させておかねばならない理由があったのである。

それは、デ・サン・ペドロが言う「手に入る筈の領地からの収入や土地を配分する約束」があったと疑われても仕方がないということである。つまり、この事件の端緒、贈収賄の発生時点から、既にイエズス会の関与があったと考えられるのである。そうだからこそ、カルヴァ-リョは「贈収賄の目的である晴信の望み(旧領の返還)は正当なものだった」と述べる必要があったのだろう。


(2)皆、イエズス会を媒介にした金儲け仲間だった

そこで、興味を引くのは解説に挙げられている、岡本大八・本多正純とイエズス会の関係である。大八も、その主家である正純もポルトガル船貿易に深く関わっていたから、元々イエズス会とは密接な関係があったということである。

しかし、そもそも、家康も生糸や金・銀や香木の取引でポルトガル船貿易に関わり、蓄財に励んでいたということは知られており、イエズス会と経常的な接触はあったのである。ということは、有馬晴信はもちろん、大八も正純も家康も、皆、ポルトガル船貿易に手を染めイエズス会と浅からぬ関係を持った仲間なのである。

それを考えると、家康、正純がこの件を知っていたか否かについて、カルヴァ-リョは言葉を濁したような妙な言い方をしているが、要するに両者とも事件が公に発覚する前に既に知っていたということだろう。

イエズス会を媒介にした仲間なのだから知っていて不思議はないのである。というよりむしろ、どの段階でかは定かではないが、それを知ったイエズス会が、絶対的権力を持ちつつある正純・家康に対する組織防衛のために、かなり早い段階で知らせたとも考えられる。

そして、正純・家康は、事件の発生を知りながら、晴信を泳がせ、その後どのように彼の抹殺を進めるかを考えたのではないだろうか。そこから、手前味噌になるが私が以前の記事に書いた「最後のキリシタン大名」抹殺のための謀略に繋がっていくことになるようだ。




3.有馬直純は徹底的に利用された


晴信の息子直純は、15歳のときから家康に側近として仕えた。それは、晴信が関ヶ原の戦いで西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り旧領を安堵された年、1600年のことだから彼は自分の勢力伸長を助けるものとして、息子を駿府に送り込めたことにさぞかし満足し、期待したことだろう。

しかし、結果的に直純の存在を徹底的に利用したのは、家康の方だった。
まず、この息子は、父親と大八を長崎奉行に訴え、奉行左兵衛と組んでイエズス会を非難し、一部始終を報告してくれた。お蔭で、家康・直純はある程度知っていた有馬晴信・岡本大八の動きの裏付けをとることが出来た。

ただ、あくまでも、家康・正純にとって晴信・大八はともにポルトガル船貿易で儲けた仲間である。特に、家康は晴信の貿易事業家としての手腕を高く評価していたと言われている。つまり、晴信に随分儲けさせてもらった義理もあるのである。しかし、国内政情の安定化(つまり豊臣方対策)と幕府の貿易独占推進のためには、キリシタン大名抹殺は喫緊の課題である。

そこで、家康が持ち出したのが、伝家の宝刀「人倫の道」である。

晴信と大八は、互いにそして周囲の者までに罪をなすり付ける醜態を演じてくれている。その上、晴信は罪なき自分の息子を殺そうとまでしている。それらの者どもがキリシタンであることから、「キリシタンは、人の道を外れた『悪魔の法』である」と言えるのである。

実は、家康自身、織田信長との提携関係を守るために、長男信康に切腹させたという経験があるのである。
自分の場合は、やむを得ない事情があったと考えたのであろう。そのくらいでないと、天下は取れないということか。

ともかく、家康は義理もある金儲け仲間たちを抹殺する大義名分を、晴信・直純の親子関係に見出したのである。そして、いつもそういう場合にしてきたように、怒り心頭に発したふりをして抜け目なく、素早く二人を処刑した。



4.家康がイエズス会を非難したもう一つの理由


しかし、この機会に家康がキリシタンを、特にイエズス会を公然と非難しておかねばならない理由が他にもあったのである。
それは、領地問題へのイエズス会の介入を牽制する必要である。

解説で挙げられている「長崎換地の件」への通辞ジョアン・ロドリゲスの介入は、考えてみればとんでもないことである。この時代、幕府が大名に領地を分け与え治めさせることが「封建制」という社会制度の根幹であった筈である。したがって、大名に対して如何に領地を与えるかは、幕府以外の何者も踏み込んではならない聖域なのである。その侵すべからざる領域に、あろうことか一宣教師如きが介入してきたのである。

ただ、通辞ロドリゲスの提案は幕府にとって有利なものであったために受け入れられたのだろう。結果として、大村喜前の怒りを買いイエズス会内部にもロドリゲスを批判する声が上がったということであるが、当然幕府内部にもこれは看過すべきではないという意見があったとは考えられる。が、それは聞こえてこない。幕府としては、領地問題という幕藩体制の根幹に触れるような問題に踏み込まれたことを大々的に取り上げる訳には行かなかったのではないだろうか。

「岡本大八事件」も発端は、「旧領の返還」という領地問題であり、そこに当初からイエズス会の関与があったことは濃厚である。幕府関係者にとっては、またかという思いがしたことだろう。と同時に、そこまでイエズス会の影響力が浸透していることに改めて危機感をつのらせたのではないか。しかし、今回も一宗教勢力が社会制度の根幹に触れるような問題への影響力を持ち始めていることを認める訳にはいかない。

「岡本大八事件」の結末が、「悪魔の法」であるキリシタンの為せる業として、家康がいきなり倫理・道徳の問題を持ち出して処理したように語られていることに違和感を覚える私は、そんな理由を考えている。



5.全国的禁教令の契機になった理由について


「岡本大八事件」を「おたあジュリア追放」と並べ、これらが全国的禁教令発布の契機となった理由として、周囲が皆キリシタン関係者であることに家康が愕然として、というような言われ方がよくされるが、それは殆どあり得ない。

まず、上に述べたように、家康自身ポルトガル船貿易で儲けたイエズス会仲間だったのだから、周囲がキリシタン関係者であろうと驚く筈がない。そして、幕藩体制の根幹であり、幕府・諸大名にとって最大の関心事である領地問題にイエズス会が噛み込んできたことに、家康は何よりも脅威を感じ、豊臣勢対策の一環としてもキリシタン早期一掃の必要性を改めて強く意識し、それが全国的禁教令発布の一つの契機になったとは言える、と私は考える。それが、今回の結論である。



〈おわり〉







































by GFauree | 2017-03-12 07:33 | 有馬晴信 | Comments(2)  

Commented by taijun kotaki at 2017-04-06 04:32 x
興味深く拝見いたしました
内容の細かいことは忘れてしまいましたが、宣教師の手紙を見ていた時に、場所・有力者・お金(貿易)に執着せざるを得ない
事業家のものの見方のようなモノを感じました。家康さんとは随分深い関係があったのだとも感じた記憶があります。
これでは法衣を着た貿易商人(信用を得るためにそういう制服を身にまとっている)だなあと。
Commented by GFauree at 2017-04-06 13:07
Taijun様
この時代の人々の特徴として、軍人・海賊・商人・政治家・官僚・裁判官・学者・宗教家という役割が分離していなくて、宣教師も他の職種の要素が強い人が多いですね。私には、そこが面白く感じられてきました。
家康は亡くなった時、膨大な個人資産を残したそうで、貿易に強く関わったことでそれが可能になったという面があるのではないか、と思っています。
宗教のための事業なのか、事業のための宗教なのか、を考えさせられるのは今も昔も変わらないようです。
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