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なぜどのようにして、大量の日本人奴隷が世界中に拡散してしまったのか [その3]


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    書記官ミゲル・デ・コントレラスによる人口調査に基く
ペル-・リマ市の住民台帳(1613年)の表紙




今回は、ルシオ・デ・ソウザ 岡美穂子著 『大航海時代の日本人奴隷』(以下本書を『日本人奴隷』と略して表示する。)の「第二章 スペイン領中南米地域」に書かれている事項を見ることにする。

以下の通り、この時代南米の各地に在住した日本人奴隷が挙げられている。


1.メキシコ  



メキシコへは、1610年、1613年に徳川家康や伊達政宗によって公式に派遣された者とそれに随行した人々の集団があり、そのうち相当数の者が現地に残ったと考えられている。『日本人奴隷』には、これら渡航する際に奴隷でなかったことが明らかな者についても言及されているが、ここでは奴隷であったことが明らかな者のみを抽出した。


(1)序章で語られている件であるが、改宗ユダヤ人商人ルイ・ロペスによって長崎で買われたガスパ-ル・フェルナンデスと、同じくマニラで買われたミゲル・ジェロニモ、ヴェントゥ-ラという3人の日本人奴隷。
また、メキシコでルイ・ペレスの息子を見掛けて告発した長崎生まれの日本人奴隷トメ・バルデス。

(2)1604年、ゴア出身の奴隷ウルスラとの結婚を願い出た日本人奴隷ミン。

(3)17世紀初め、元奴隷であることで差別的扱いを受けることは不当であると裁判所に訴えた日本人女性カタリ-ナ・バスチ-ドス。

(4)ドミニコ会修道士に仕えていた日本人奴隷ドミンゴ・ロペス・ハポン。

(5)伊達政宗が派遣したとされている慶長遣欧使節の随行員としてメキシコに到着し現地に残留したとみられるルイス・デ・エンシオ(福地源右衛門)の娘マルガリ-タと結婚したフアン・デ・パエス。彼は1608年に大阪で生まれ、1618年わずか10歳でメキシコに到着したとされていることから、奴隷か奉公人として売られたと考えられている。



2.アルゼンチン



コルドバ市在住の改宗ユダヤ人でポルトガル人である奴隷商人ディエゴ・ロペス・デ・リスボアから神父ミゲル・ジェロニモ・デ・ポラスに売られた日本人奴隷フランシスコ・ハポン。

フランシスコは、1575頃日本で生まれたと推測される。彼は1579年、奴隷身分からの解放を求める訴訟を起こした。そして、彼の身分は奴隷でないという判決を得たようである。


3.ペル-


ペル-については、1613年に行われた人口調査からリマ市に20人の日本人が在住していたことが記されている。その人口調査の記録が1968年国立サン・マルコス大学によって復刻されており『日本人奴隷』ではその復刻版が索引に挙げられている。偶々当地在住の日本人研究者の方からそのコピ-を以前頂いていた私は3年前「1613年、ペル-のリマ市に日本人が20人いた。」という記事を書いた。
http://iwahanjiro.exblog.jp/20544054/

従って、『日本人奴隷』に書かれた「リマの住民台帳」の内容はここでは書かない。ただ『日本人奴隷』を今回読んで私の記事の誤りや不足している点が分ったのでそれを挙げておくことにする。(自分で記事を書くと、こういう答え合わせのような楽しみもあることを今回知った。)


サン・アグスティン通りに襟加工の店をもっている日本人男性の「妻アンドレア・アナはポルトガルのマンカサ・カストの出身である。」と書いたが、「ポルトガルのマンカサ」は現在のインドネシア(旧ポルトガル領)のマサッカルであるとのことである。

またカストという言葉も、社会的な階層とか集団をあらわすというより、出身地を属性として表わしたものということである。

『日本人奴隷』にはスペイン人の父と日本人の母を持つマカオ生まれの混血児のことが書かれているが、私はその人物に関する記述を見つけられなかった。


リマの20人の日本人について改めて思うこと


(1)どのようなル-トで

『日本人奴隷』では、大西洋経由(インド・ゴア⇒リスボン⇒ブラジル⇒ペル-)と太平洋経由(長崎⇒マカオまたはマニラ⇒メキシコ・アカプルコ⇒ペル-)の二つの可能性を挙げたうえで、複数の種類の航路を経たものと推測されている。

私は、当初「人口調査記録」を読んだとき、出身地としてポルトガル領であることが強調されているという印象受けた。そしてその理由としてこの調査がスペイン人官僚の指示のもとに行われているものであるため、奴隷売買への関わりが深かったのはポルトガルであると言いたかったのではなどと推測した。しかし、『日本人奴隷』を読んでみてそもそも奴隷取引とポルトガルとの関係の深さは強調する必要もないほど当然のことのようにも思えてきた。

したがって、ルートについて以前はマニラ・アカプルコ間のガレオン船の存在から、マニラ・メキシコ経由を当然のように考えていたが、奴隷貿易へのポルトガルの関わりの深さから考えるとインド・ポルトガル・ブラジル経由であった可能性がむしろ高いのではないかと今は思う。


(2)どのような経緯で

同様に以前は、マニラ・メキシコ経由の可能性を高く考えていたので、当時マニラ等から日本人が移動しなければならない事情を推測してみたことがある。すると、17世紀の初頭にマニラから日本人が追放されるような情勢が確かにあったらしい。

しかし、「17世紀の初頭、リマではたくさんのポルトガル人が活発な商いを営み、商業界をほぼ独占する勢いで生活していた」(インカとスペイン帝国の交錯 網野徹哉著 講談社)という話もある。多くのポルトガル人商人が日本人奴隷をインドやマラッカや現在のインドネシア諸島などポルトガル領からリマに連れて行った可能性があるのである。日本からメキシコへ移動せざるを得なかった日本人奴隷の例から見ても、ポルトガル商人の商売の展開や生活上の理由による移動と重なっていたと思われるのである。


(3)安穏ではなかったであろう人々の生活

なかには、「自身の店舗を経営し」「26歳で妻を身請けして家庭を築くほどに、十分な経済力を持っていた」者もいた様であるが、じっくり考えてみるとその生活が厳しいものであったことは間違いない。

単に生活の資を得ることが困難なだけでなく、『日本人奴隷』に示されているように、何時言われもなく奴隷の身分に(再び)落とされようと国家などの公的保護が得られる可能性は全くない中で生活を築いていかなければならなかったのである。

スペイン人官僚によって進められたこの人口調査によって「住民台帳に記載されている残りの日本人は、調査官が訪ねた際、主人の家にいなかった。」とされている。しかし、何時足元をすくわれるか分からない不安定な境遇にあった人たちが、危険を冒してまで自分の背景や経歴をありのままに語るとは考え難い。もちろん、そうすることが出来た人もいただろうけれど。そういう意味で、「いなかった」とされた人の中には意識的に調査官との面談を避けた人たちもいたのではないだろうか。


(4)リマからマカオに銀を運んだ神父・修道士との出遭いは?


1591年にリマからマカオに銀を運んだ船を率いたイエズス会の神父と修道士が、1600年ごろリマに戻り、20人の日本人が住んでいたであろう旧市街近くの神学校と修練院で暮らしていた。(神父が亡くなったのは1613年である。)

マカオに運ばれた銀は差し押さえを受け、そこにイエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが介入し日本などアジアの国々へ聖職者を供給するための養成機関建設に利用したと言われている。

リマの旧市街というのは城壁で囲まれた極く狭い地区である。船を率いた神父や修道士と「20人の日本人」が出遭った可能性があることは、以前の記事に書いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/i14/




〈完〉












by GFauree | 2018-01-22 09:23 | 日本人奴隷 | Comments(0)  

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