【大航海時代のおと】

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なぜどのようにして、大量の日本人奴隷が世界中に拡散してしまったのか [その2]

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今回は、「大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨ-ロッパ」ルシオ・デ・ソウザ 岡美穂子著 (中公叢書)を読んで考えたことを記したい。



本書の内容
 

〈序章〉改宗ユダヤ人商人と行動をともにした日本人奴隷の話

日本人奴隷ガスパ-ル・フェルナンデスは1577年豊後(大分県)に生まれ、10歳の頃誘拐され、長崎で改宗ユダヤ人であるポルトガル商人ルイ・ペレスに売られた。

ルイ・ペレスは、異端審問所によって祖国ポルトガルを追われ、インド・ゴア、コチン、マラッカ、マカオを転々としたうえ長崎に来航し居住していたのである。

長崎では、改宗ユダヤ人を警戒し毛嫌いする熱心な日本人キリシタン信徒との間に、相当な摩擦があったらしい。そんな中で、良く言えば「純真な」違う言い方をすれば「単純な」日本人信者が、イエズス会上長に改宗ユダヤ人がいることも知らず、ペレス等にひたすら頑な態度をとっていたらしい。

ペレスは、長崎を追われマニラに渡り、そこで5年後に告発を受け逮捕される。ガスパ-ルは、ペレス及び2人の日本人奴隷等と共にアカプルコに送られるが、その船上でペレスは病没する。

その後、ガスパ-ルを含む3人の日本人奴隷はメキシコの異端審問所に対し開放を求める訴訟を起こす。ガスパ-ルがペレスに買われてから、14年が経っていた。ガスパ-ルともう一人の日本人奴隷ヴェントゥ-ラの訴訟の証人となったのは、改宗ユダヤ人ルイ・ペレスの2人の息子たちであった。


〈第1章〉アジア
ここでは、ポルトガル、スペインの拠点であったマカオ、フィリピン、ゴアでの状況が述べられている。

〈第2章〉スペイン領中南米地域
メキシコ、ペル-、アルゼンチンである。
これについては、過去「1613年、ペル-のリマ市に日本人が20人いた。」という記事を書いた(http://iwahanjiro.exblog.jp/20544054/)ので、次回本書の内容に基いてそれを見直したい。

〈第3章〉ヨ-ロッパ 
については、特に目についた箇所を抜き出すと

ポルトガルに関して
「『解放』は実際のところ厄介払いである場合も多かった。奴隷が年をとり仕事ができなくなると厄介者でしかなくなり彼らの面倒をみるのを嫌がる主人は、それらの奴隷を『解放』した。」ということであり、他の地域でもそうであったであろう残酷な現実が語られている。

スペインに関して
ひとつは、「ポルトガルでの日本人奴隷の相場は、日本で売買された価格の100倍以上であったと推定される。」ということである。奴隷は転売を重ねながら移動していくために、遠くへ行けば行くほど付加価値が増していったと考えられるのである。これもまた、日本から遥か彼方まで奴隷が拡散してしまった一つの要因ではないかと私は思う。

もうひとつは、伊達政宗が派遣したと言われる慶長遣欧使節、支倉使節団の武士の中にスペインに残り奴隷のような待遇を受け焼き印まで押されてしまった人がいたということである。滝野嘉兵衛(ドン・トマス)という人物である。滝野は、野間半兵衛(ドン・フランシスコ)という同僚とともに、一旦はフランシスコ界の修道士となったが結局俗人にもどり、奴隷とされてしまったということである。彼については、その後の消息も書かれている。


読んで考えたこと


1.この本を読みながら、二つの話を思い出していた。

まず、子供のときに聴いた童話「安寿と厨子王」、酷く悲しい昔話である。これは、中世の芸能であった「説教節」の演目のひとつで原話は平安時代末期(11~12世紀)のものだということである。

次に、大正から昭和初期にかけて大蔵大臣や総理大臣を勤め、1936年の2・26事件で暗殺された高橋是清のことである。高橋は、明治維新の前年14歳の時英語習得のため渡米したが、ホ-ムステイ先に騙され年季奉公の契約書にサインさせられて、奴隷同然の扱いを受けたということである。

これらから考えられることは、日本国内での人身売買は古くから広く行われていてそれほど珍しい事ではなかったのではないかということと、また海外で日本人が奴隷の扱いを受けるということもつい最近の時代まで頻繁にあったのではないかということである。つまり、国内的にも対外的にも「国家は個人の生活権を保護すべし」というような思想や体制が定着するまでは、人が国内で売買され海外へ輸出されるようなことが容易に起り得たと考えられるのである。

そういう風に考えて来ると、大航海時代に大量の日本人が奴隷として海外へ輸出される土壌は確かに在ったのである。

また、大航海時代にポルトガルが世界で展開した貿易取引において奴隷はその主要商品であったことを考えると、ポルトガル船貿易が大量の日本人奴隷を世界中に拡散させたと言っても間違いではないだろう。しかし、ある商品の取引量増加のためには、供給・物流・販売を拡大させることが必要である。仮に当時内戦に敗れた側の兵士が虜囚となり奴隷とされることが稀であったとしても、戦国時代の相次ぎ長引く内乱によって民衆が疲弊しきっていたことが、先ず国内の人身売買を増大させていたという側面があっただろう。

そういう日本国内事情による供給と輸出という物流手段と外国という大口販売先とを得て、大航海時代に人身売買⇒奴隷取引が飛躍的に増大してしまったと見ることもできる。

こうしてみると、あの時代には日本人奴隷を大量に発生させる要因が集中していたようである。そして、その量と拡散の度合いは唯一内外の情勢を熟知する立場にあったアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノにとって、日本の権力者や信者たちに対し隠しおおせる規模を遥かに超えるものになっていたということではないだろうか。


2.
この本を通じて、実に数多くの日本人奴隷の厳しい生涯の一端が垣間見せられる。

前回、[その1]で書いたように、1587年の「バテレン追放令」発布の直前、秀吉はイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョに使者を送り詰問を突き付けたと言われている。

イエズス会士ルイス・フロイスが編纂した『日本史』によると、秀吉はその際次のような要求をしたという。

・これまでにインドその他の遠隔地に売られていった日本人すべてを日本に返還するよう努力してもらいたい。
・もし、あまりにも距離があるため実行不可能な場合には、少なくとも現在の時点でポルトガル人が買い取ったためポルトガル人の所有になっている日本人奴隷を解放してもらたい(自分はその費用を立て替える)。

以前これを知ったときは、秀吉らしい余り現実的でない威嚇的な“ふっかけ”要求だなどと思ったのだが、今回奴隷として売られた多くの人々の悲惨な境遇の一端に触れることによって、私の印象も変わってきた。秀吉の要求は当然のことであり、最高権力を有する為政者としてむしろそうあるべき妥当なものだったと思えてきたのである。


3.〈序章〉の日本人奴隷ガスパ-ルの話は、異端審問所に追われ続けポルトガルの拠点を転々としたあげく長崎にたどり着いたた改宗ユダヤ人商人がおそらくは複数存在していたことを示唆している。

改宗ユダヤ人商人は、宗教上のまた商売上の理由によって移動を重ねるうちに、彼らが使役しまた商品とする日本人奴隷と出会う。改宗ユダヤ人商人と日本人奴隷の人生はそこで交差しまたその後軌跡が重なっていくこともあったということである。

改宗ユダヤ人商人ルイ・ペレスとともにマニラ、メキシコへと渡航せざるを得なかったガスパ-ルたちの例は、日本人奴隷拡散の一つの要因を示している。改宗ユダヤ人商人の抱えた事情によって移動を重ねなければならなかった日本人奴隷が他にもいたことは当然考えられる。

ところで、祖国ポルトガルからもその海外拠点からも追われ転々と移動してきた改宗ユダヤ人商人を日本のキリシタン信者は、どのように迎えたのだろうか。どうも、教会で教えられた通り、固く冷たい対応をしたらしい。

だから、日本人の宗教や人間に対する考え方や態度は狭く底が浅いなどとは思いたくないし、言いたくない。しかし、メキシコでガスパ-ルたち日本人奴隷が解放のために起こした訴訟で、自らの危険を冒してまで法廷で証言したペレスの二人の息子たちの行動は、長崎でペレスたち改宗ユダヤ人を目の敵(かたき)にした、おそらくは教会の教えに従順な日本人キリシタン信者たちと、対照をなしているようである。



4.従来、「大航海時代の日本人奴隷問題」については、その細部にまで立ち入った研究がなかったようであるがその理由として、著者は2点を挙げている。それは、16~17世紀の国内外の資料に該当するものが極めて少ないことと、彼らの売られていった経緯と状況を具体的に示す事例に欠けていた(少ない資料から抽出される情報の中に、という意味と思われる)ことである。要するに、頼りになる資料が不足しているということであろう。

そもそも、儲けたい一心で行われた取引である。記録を残す余裕などなかったであろう。加えて、一部に禁止する動きもあったのだから後ろ暗い行為である。できるだけ形跡を残さず、隠蔽しようとして当然なのだから、資料は少ない筈である。

しかし、研究が進展しなかった理由はそれだけではないだろう。逆に頼るべき資料が少ないということにあぐらをかく研究者がいたということはなかったのだろうか。それを示すのが、「はじめに」の中で筆者が述べている、ポルトガル人による日本人の人身売買について「そんな話は聞いたことがない。捏造ではないか。」というような発言を公開の場で(おそらくは、平然と)した、世界的に著名な研究者の存在である。

「キリシタン時代史」が一部の研究者の大変な努力によって大きく変わり、多くの人々にとって興味深いものとなったのが僅か40年前のことであるという教訓を思い起こすべきである。その努力には既存の権威・権力への挑戦という要素も含まれる。それこそ「研究者の社会的責任」なのである。


5.本書はルシオ・デ・ソウザの著書『16・17世紀の日本人奴隷貿易とその拡散』の一部だということである。そして、日本イエズス会の奴隷貿易との関わりなど重要な問題は、その著書の残りの部分に含まれているということである。ということは、その残りの部分の内容が、昭和11年(1936年)に発行され名著と言われてきた岡本良知「十六世紀 日欧交通史の研究」を引き継ぎまたそれを超えるものとなるということである。

したがって、今回出版された部分は大部になる筈の残りの部分(本編)のいわば予告編だったということになる。作りの良い予告編を見ると、直ぐに本編を見たくなるのが普通だ。本編の翻訳も既に完成しているとのことなので、早期に出版されることを期待する。


〈つづく〉








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# by GFauree | 2017-12-06 01:07 | 日本人奴隷 | Comments(2)

なぜどのようにして、大量の日本人奴隷が世界中に拡散してしまったのか [その1]


                                 
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                           天正遣欧少年使節肖像画 1586年 アウグスブルグ
                           (中央はイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ)



日本人奴隷に関し、よく引用される「日本使節の見聞対話録」と「デ・サンデ天正遣欧使節記」(日本語訳)


大航海時代に世界に散在したと言われる日本人奴隷に関し、その惨状を語るとしてよく引用される書物がある。
それは、1590年マカオで印刷、刊行された「日本使節の見聞対話録」(ラテン語)であり、その日本語訳は「デ・サンデ天正遣欧使節記」(新異国叢書-雄松堂)として出版されている。その書物について、私は少年使節の一人であった千々石ミゲルのキリシタン離脱の原因となったものではないかと考え、過去の記事で採り上げた。
http://iwahanjiro.exblog.jp/21407726/
http://iwahanjiro.exblog.jp/21418363/

その書物が書かれた経緯については、以下のような解説がされている。


「日本使節の見聞対話録」が書かれた経緯


1582年遣欧使節派遣を企画・断行し少年たちを引率したイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、往路インドにおいてローマ本部からの指示によって少年たちと離れその地に留まってインド管区長の職に就いた。そして、5年後の1587年5月ヨーロッパから戻って来た少年使節たちとインドのゴアで再会し、その翌年1588年8月マカオに到着した。

その際、一行から見聞や体験を聴取し、旅先での記録として整理しマカオ滞在中に編纂して、同じイエズス会の司祭ドゥアルテ・デ・サンデにラテン語で書かせた。それが、「日本使節の見聞対話録」であり、その内容は、千々石ミゲルが二人の従兄弟(いとこ)リノ(大村喜前の弟)、レオ(有馬晴信の弟)を相手に帰国後に旅先での見聞を語る「対話録」の形式で書かれている。

「対話録」の虚構性

この「対話録」は上述の通り、日本にいたはずの従兄弟たちとまだ帰国前の千々石ミゲルがあたかも面談し語り合っているかのように書かれているという点で既に虚構(フィクション)である。従って、そこに書かれてある事柄もそのまま歴史的事実と考え論ずることは出来ない筈である。ところが、大航海時代に世界に散在したと考えられる日本人奴隷の惨状が論ぜられる際に、この「対話録」の内容がそのまま引用されることが少なくない。

私の場合、実際に「対話録」の日本語訳である「使節記」を読んでみたところ、キリシタン関係の書物にありがちな恭(うやうや)しい言葉の羅列と気取ったようなものの言い方が鼻について、読み続けるのに苦労した覚えがある。また、表現のされ方以前に、書かれている事項の信憑性に疑問があるものであるにもかかわらず、何故そのような文書が日本人奴隷に関する議論の根拠として引用されることが多いのかという疑問と不満を感じ続けてきた。




「見聞対話録」(ラテン語)・「遣欧使節記」(日本語訳)の抜粋



とは言え、「対話録」・「使節記」にどのようなことが書かれているかを先ず確かめて頂くことが肝要だと思うので、「使節記」のうちの日本人奴隷に関する記述(p.232~235)を以下に抜粋したので先ず目を通して頂きたい。




レオ ちょうどよい機会だからお尋ねするが、捕虜または降参者はどういう目に遭わされるのだろう。わが日本で通例やるように死刑か、それとも長の苦役か。

ミゲル キリスト教徒間の戦争で捕虜となったり、やむをえず降伏する者は、そういう羽目のいずれにも陥ることはない。つまり、すべてこれらの者は先方にも捕虜があればそれと交換されるとか、また釈放されるとか、あるいはなにがしの金額を支払っておのが身を受け戻すのだ。というのも、ヨ-ロッパ人の間では、古い慣習が法律的効力を有するように決められ、それによってキリスト教徒は戦争中に捕われの身となっても賤役を強いられない規定になっているからだ。

だがマホメット教徒、すなわちサラセン人に属する者に対しては、別の処置が取られる。これらの者は野蛮人でキリストの御名の敵だから、交戦後も捕えられたまま、いつまでも賤役に従うのである。

レオ そうすると、キリスト教徒なら、その教徒間では戦争中に捕虜となっても、賤役に従えという法律に拘束される者は一人もいないわけだな。

ミゲル そうしたことで市民権を失った者はただの一人もない。それはまた今もいったように、古来の確定した習慣で固くまもられている

それどころか、日本人には慾心と金銭への執着がはなはなだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨ-ロッパ人はみな、不思議に思っているのである

そのうえ、われわれとしてもこのたびの旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語を同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった

マンショ まったくだ。実際わが民族中のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫(さら)って行かれて売り捌かれ、みじめな賎役に身を屈しているのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。

単にポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢ができる。というのはポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、彼らにキリスト教の教条を教え込んでもくれるからだ。

しかし日本人が贋の宗教を奉ずる劣等な諸民族がいる諸方の国に散らばって行って、そこで野蛮な、色の黒い人間の間で悲惨な奴隷の境涯を忍ぶのはもとより、虚偽の迷妄をも吹き込まれるのを誰が平気で忍び得ようか。

レオ いかにも仰せのとおりだ。実際、日本では日本人を売るというのような習慣をわれわれは常に背徳的な行為として非難していたのだが、しかし人によってはこの罪の責任を全部、ポルトガル人や会のパドレ方へ負わせ、これらの人々のうち、ポルトガル人は日本人を慾張って買うのだし、他方、パドレたちはこうした買入れを自己の権威でやめさせようともしないのだといっている。

ミゲル いや、この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。何といっても商人のことだから、たとえ利益を見込んで日本人を買い取り、その後、インドやその他の土地で彼らを売って金儲けをするからとて、彼らを責めるのは当たらない。

とすれば、罪はすべて日本人にあるわけで当たり前なら大切にしていつくしんでやらなければならない実の子を、わずかばかりの代価と引き替えに、母の懐から引き離されていくのを、あれほどこともなげに見ていられる人が悪い

また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガル王から勅令をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい

しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人は、これをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。

だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。さればといって、日本人がこうい賎役に陥るきっかけをみずからつくることによって蒙る汚点は、拭われるものではない。したがってこの罪の犯人は誰かれの容赦なく、日本において厳重に罰せられてよいわけだ

レオ 全日本の覇者なる関白殿が裁可された法律がほかにもいろいろある中に、日本人を売ることを禁ずる法律は決してつまらぬものではない。

ミゲル そうだ。その法律はもしその遵守に当たる下役人がその励行に目を閉じたり、売り手を無刑のまま放免したりしなかったら、しごく結構なものだが。だから必要なことは、一方では役人自身が法律を峻厳に励行するように心掛け、他方では権家なり、また船が入ってくる港々の寵なりがそれを監視し、きわめて厳重な刑を課して違反者を取り締ることだ。

レオ それが日本にとって特に有益で必要なこととして、あなた方から権家や領主方にお勧めになるとよい。

ミゲル われわれとしては勧めもし諭しもすることに心掛けねばなるまい。しかし私は心配するのだが、わが国では公益を重んずることよりも、私利を望む心の方が強いのではなかろうか。実際ヨ-ロッパ人には常にこの殊勝な心掛けがあるものだから、こうした悪習が自国内に入ることを断じて許さない。




「対話録」の内容とその背景
 


1.1570年、ポルトガル国王は日本人奴隷取引禁止の勅令を布告している。これは、1567年以前に平戸・横瀬浦・福田経由日本人が輸出されていたことに対し、「布教に支障をきたす」としてイエズス会がポルトガル国王へ働きかけたことによるものと考えられている。

ところが、その勅令はその後実施・履行されなかった。その理由のひとつとしては、イエズス会の考え方が、自己の布教事業に不都合であるというだけで、奴隷売買自体が社会倫理に反するという強固なものでなかったことがあげられている。さらに、それだけでなくイエズス会士自身が奴隷貿易に関与していたことも指摘されている。


2.天正15年6月(1587年7月)、
秀吉は日本の中央政権として初めて正式なキリシタン禁令を発布するが、その直前にイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョのもとに使者を送り詰問を突き付けた。その中に「何故にポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷としてその国に連れ行くか。」という内容が含まれていた。

これに対するコエリョの回答は、「日本側の諸領主に対し禁止を勧告すべし。」というものだった。つまり、「奴隷を売る者(日本人)がいるから買う者(ポルトガル人)も出て来るのだから、日本の当局が奴隷を売ることを禁止すればよい。」とコエリョは秀吉に反論したことになる。「対話録」でのミゲルの発言は、そのコエリョの回答をそのままなぞっているのである。


3.上記の「キリシタン禁令」の条令文としては、天正15年6月18日付け「覚」と翌日6月19日付け「定」と呼ばれる二通りの内容のものが残されており、その内容はかなり異なるがどちらも正文であると認められている。

「覚」には、日本人を海外に売却することを咎め日本人奴隷の売買を禁止する条項があり、「定」には、宣教師に20日間以内に国外退去を求める条項がある。

1588年6月、アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノと少年使節たちはマカオに到着し、前年7月の秀吉による「キリシタン禁令」発布を知らされる。その時点からマカオを出発する1590年5月までの約2年間、ヴァリニャ-ノは少年使節たちと自身の日本への再入国を安全に果たすとともに、危機に瀕しているキリシタン勢力を挽回するための方策を必死で探ることを余儀なくされる。特に、「キリシタン禁令」に示された「日本人奴隷売買問題」と「宣教師国外退去要求」はヴァリニャ-ノに重くのしかかったことだろう。当然、「対話録」の内容にはそれが色濃く反映されたはずである。

1590年7月、ヴァリニャ-ノは少年使節たちと共に長崎に帰着し、翌年3月ポルトガル国インド副王使節として京都聚楽第において関白秀吉に謁見する。



「対話」の内容について思うこと


1.
ヨーロッパ社会を理想的なものとし、日本人の考え方や行動を恥ずべきものとする発言は、現在でも時々出くわす日本社会や日本人を日本人自身が卑下する意見に似ていて面白い。また、そういう考え方、言い方が400年前からあったということも興味深い。

その時代の宣教師たちは、日本人が日本人の国民性とでも呼ぶべきものに引け目を感じて、自分たちにとって都合の良い考え方になびいてくれることを望んでいたということだろうか。

その他の「対話」の内容も、そもそもこの「対話録」が当時のイエズス会の立場を擁護し弁明するために書かれたものである以上、その意図を臆面もなく表しただけのことであり、それをいちいち採り上げることは余り意味がなさそうである。そこで、彼らの勝手な一方的見解と思われる部分には下線を引くだけにしておいた。

2.ただヴァリニャ-ノが「日本人奴隷売買問題」について、イエズス会主導のキリシタン教会にとって有利な理解を日本人信徒たちから得ようとしたことは当然ではあっても、日本人信徒も甘く見られたものだと思うと気分は良くない。当時は日本人信徒が内外の情勢を知る機会は極端に乏しかっただろうと考えると、なおさら彼らが哀れである。

3.それにしても、「対話」において世界各地での日本人奴隷の悲惨な状況を印象付けるような発言をここまでさせている点は意外であった。と言っても、常に権謀術数に満ちていたであろうヴァリニャ-ノの言動を考えれば、彼が日本人奴隷の真実の姿を伝えようとしたなどと考える訳にはいかないことは言うまでもない。

それでは、何のためにこのような悲惨さを強調するような発言がされたように書かせたのか。
私は、そういう表現を選んだというより、そのように描写せざるを得ないとヴァリニャ-ノに判断させるような状況が展開していたということではないかと思うのである。それくらい、相当数の日本人奴隷が世界中に拡散してしまい、彼らの境遇が悲惨を極めていることが既に世界中に知られており、日本人に対してももはや隠しようがないと考えたのではないかということである。

4.日本人奴隷拡散の規模とその境遇の悲惨さを日本人が知るための客観的な資料は、その時代はもちろん、つい最近までほとんど無かった。私にしても、インタ-ネットなどで「戦国時代のキリシタン大名が弾薬と引き替えに何十万人に及ぶ奴隷を輸出していた。」等の記述に接し、その可能性も否定できないけれど、もしかして誇張ではなどと思うしかなかった。

しかし、今回改めて「対話録」を読んで、日本人奴隷拡散の規模・程度が世界的に周知の事実となっている以上、もはやこれを日本人に対して隠し通すことは不可能であり、キリシタン教会の組織防衛の観点からそれを認めたうえでの反論を用意したということではないかということに思い至った。誕生した豊臣統一政権にそれだけ圧力を感じ危機感を募らせたということかもしれない、とも思う。

私がそう考えるに至った理由は、実は『大航海時代の日本人奴隷(アジア・新大陸・ヨ-ロッパ)』(ルシオ・デ・ソウザ 岡 美穂子著)中公叢書 という本を読んだからである。

そこで、次回はその本についてお話したい。
 

(つづく)



〈参考文献〉

デ・サンデ天正遣欧使節記   泉井久之助 他 訳   新異国叢書5      雄松堂
キリシタンの世紀  ザビエル渡日から「鎖国」まで   高瀬弘一郎著     岩波書店
天正遣欧使節                      松田毅一著  講談社学術文庫


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# by GFauree | 2017-11-26 06:03 | 日本人奴隷 | Comments(2)

お知らせ

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                                          (写真撮影 三上信一氏)



諸々の事情で、記事の更新をお休みさせて頂いております。今暫くお休みさせて頂く必要がありそうです。どうぞ宜しくお願い致します。

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# by GFauree | 2017-09-28 06:55 | Comments(4)

「鼻のない男の話」 [その3]

 
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                                  (写真撮影 三上信一氏)



前々回[その1]ではこの小説のあらすじを、前回[その2]ではこの小説を読みながら考えたことを書いたが、今回はこの小説を通じて作者は何を言いたかったのかについて、考えてみた。


この物語は、人生の岐路において目先の栄達や感情に引きずられ、愚かな選択を重ねたあげく、苛酷な運命に弄(もてあ)ばれてしまった男の悲劇とでも呼ぶべきものでは、と最初私は思った。しかし、色々考えているうちに、もっと違う意味があるのではと思うようになってきたので、それをお話しよう。


1.人生の選択


(1)主人公フェルナノ・ロペスは、学校では良く出来た神経質で知的な青年だった。その彼が、親友ジュアノ・Dの従妹ロ-ザを彼から奪う。フェルナノの無理は、もうそこから始まっていた(ような気が私にはする)。

ところが、恋人を奪われた失意の末遠征隊に加わり成功者として戻って来たジュアノが持ち帰った財宝、そしてそれによって彼を見直す人々、更には彼がロ-ザに贈った頸飾りが、フェルナノを平静ではいられなくした。

性格が向いていないとして心配する妻ロ-ザの反対を押し切って、フェルナノはインドへの遠征隊に加わる。結果から見ると、ロ-ザの見方は当たっていたようだ。


(2)フェルナノは、ゴアの大虐殺の夜、一人の舞妓を見逃す。その後、現地人の男によってその舞妓アイシャと引き合わされ、フェルナノは我を忘れた。リスボンを出てから5年間、海と戦闘と血と掠奪しか見て来なかった彼には、たとえそうすることに危険を感じたとしても自分を抑えることはできなかったのだろう。フェルナノの心は、キリスト教からも故国ポルトガルからも次第に離れて行き、やがて彼は叛乱軍に加わることになる。


(3)マラッカ攻略から戻ったポルトガル副王ダブルケルケは、フェルナノを含む叛乱軍の棄教者たちに対し「右手首と左拇指を切り落とし両耳と鼻を削ぐ」刑罰を与えた。刑の執行後、棄教者たちは見せしめのためポルトガルに送られたが、フェルナノはその恥辱を免れゴアに残された。

2年後アイシャが病気になると、フェルナノは乞食の身となり土民から蔑(さげす)まれたが、半年後アイシャが一時的に回復するとまた彼女に庇護された。しかし、その年の末アイシャは死に、ロペスはまた自活しなければならなくなる。彼が頼み込んでポルトガル行の船に乗せて貰ったのは、その翌年の秋のことである。


2.後悔の念


作者きだみのる は、自選集のあとがきの中で「自分のことを語るのは、いつもつらいことだ。自己は厭うべく憎むべき存在だ。」と述べている。何故か物語の中ではあまり触れられていないが、強い後悔の念が主人公フェルナノを苦しめ続けたはずだ、と私は思う。

まず、回教徒に対する襲撃・掠奪・破壊の繰り返しの日々の中で、ポルトガルを出たときには予想すらしていなかった危険な環境に置かれてしまったことを後悔したことがあったかも知れない。しかし、何と言っても強烈な後悔の念に苛(さいな)まれるようになったのは、棄教した叛乱軍の一味として処罰され、それも酷(むご)い刑罰によって不自由な身となり、それまで自分より下に見ていた土民からすら、蔑(さげす)まれるようになってからではないか。


フェルナノは何を後悔したのだろうか。

なぜ、叛乱軍に加わってしまったのか。なぜ、棄教してしまったのか。なぜ、アイシャに対する熱情の虜(とりこ)になってしまったのか。なぜ、大虐殺の夜、アイシャを見逃したのか。そして、なぜ、インド遠征隊に加わったのか。なぜ、ジュアノが持ち帰った財宝に目を眩(くら)ませてしまったのか。なぜ、親友だったジュアノからロ-ザを奪ってしまったのか。

人にとって、人生の節目のたびに自分がしてきた選択の全てが、後悔の種になり得る。だから、後悔の種は、誰もが心の中に抱えていて、心が弱ってくると容赦なく自分を痛めつけかねないもののようだ。そして、後悔の念ほど、激しく人の心を傷つけるものはないのではないだろうか。


ただ、フェルナノの場合、それほど後悔の念に苛(さいな)まれながら、妻ローザ、舞妓アイシャ、娘アンジェリカへの思いだけは変わることがなかったようだ。後悔だらけの人生ではあったけれど、彼女らが自分に与えてくれたものだけは、無にしたくなかったということだろうか。それとも、生き延びるためには、自分を大切に思ってくれた彼女たちの面影にすがる他なかったというだけのことなのか。


3.人間への恐れ


ポルトガル行の船に頼み込み乗せて貰ったフェルナノは、またもや決定的な後悔を味わう。

同船者の示す軽蔑や彼を眺める視線や彼を避けたり憐れんだりする態度が、自分の行先に絶望を感じさせた。彼の知らない人々である同船者さえ、かれをそのように扱う。ポルトガルに戻れば、自分を既に知っている人々の社会に背教者、裏切者として組み込まれなければならないのである。

フェルナノは人間の残酷さを思い、「どんな猛獣より人間は猛獣だ。」と嘆息した。しかし、彼はその人間の残酷さを既に自分の中に見出していた筈である、と私は思う。

この小説は僅か30数ペ-ジの短編であるが、そのうち4~5ペ-ジを割いてポルトガルの遠征隊の行状が描かれている。回教徒に対する残忍な襲撃・掠奪・破壊の反復である。なぜ作者はそれをそれほど詳しく語ったのだろうか。

その疑問を考えているとき、その描写はポルトガルの遠征隊自体が「猛獣の集団」であったことを示していることに私は思い当たった。ということは、遠征隊を派遣し襲撃・掠奪・破壊による収益を吸い上げていたポルトガル国家も「猛獣の集団」であったことになる。作者がそこまで考えていたかどうかは分らないが、そう考えれば祖国の社会に対するフェルナノの絶望感はいよいよ救いがたいものであったことになる。


4.無人島で独りになったときに始まった、彼の本当の人生


無人島に仮泊した船から逃れ独りになったとき、フェルナノは完全に自由を感じ、烈しい空腹を覚えた。-鼻かけ男の大宴会-である。それから、食糧と住居を確保し、平和で静かな日々を着々と築いていった。

10年経った頃、島に着いた船から逃げ出した奴隷を3カ月で追い払うと、また孤独と平和が戻って来た。島に来る船員たちと接触することによって、人に対する異常な恐怖も失くなっていった。


5.棄教の罪


更に10年の月日が流れ、彼は死を意識するようになり、棄教の罪を気にかけるようになった。恐らくは、人間に対する恐怖が消え静かな生活を送る中で、自分に与えられた運命を全うすることこそ、自分に課せられた使命であると考えるようになったのではないか。そして、その使命を自分に与えた神を裏切った罪に対する呵責の念がふくらんできて、許しを得たいと思うようになったのではないか、と私は考える。

ロ-マへ行き法王から許しを得たのち、また無人島へ戻り、さらに10年余を生きることが出来た。


6.作者は何が言いたかったか


よく若い頃のことを思い出して懐かしがる人がいるが、私はそんな人を羨ましい気持ちで眺めて来た。実は、私にとっては、若い頃どころか中年・壮年と言われる時期を思い出すことすら恐ろしい。

今考えると、学校を終えて働き始めたころは、人間についても、社会についても、仕事についても、まるで分かっていなかった。そんな肝心なことが分からずに働いているのだから、目先の損得や功名心にかられて、いつも欲の皮を突っ張らせるしかなかったのである。

しかも、自分の性格や能力を考えて欲求を抑えるという賢明さも持ち合わせていなかったのだから、ほとんど薄氷を踏むような危なっかしい日々を送っていたことになる。そして、それを中年・壮年期まで続けてしまった。だから、そんな自分を思い出すのは、恐ろしいことなのだ。ただ、最近知ったことは以前の自分を思い出したくないと考えている人は、決して少なくないらしいということである。

私は、作者の「自己は厭うべく憎むべき存在だ。」という言葉をそういう風に受け留めている。そして、人生は生きれば生きるほど過ちを犯しかねない危ういものではあることは間違いないと思う。ただ最近になって、それを生き切ることに救いもあり得るのではと考えられるようになった。それで、作者もそう言いたかったのではと思う。


7.主人公と作者の最期


主人公の最期について小説では、「1547年の春、仮泊した船の乗員が彼(フェルナノ)が死んでいるのを発見した。」とされているだけである。

作者きだみのるは、この作品を発表した当時、58歳前後でありそれはほぼフェルナノが死んだとされる年齢である。そして、きだは80歳で亡くなっている。きだの最期については、発表された遺作の解説に子息と思われる方の書かれた次のような文章があることを、山口瞳が書いている。

「最後は病院で憧れの女性(であり続けた妻)に手を取られて息をひきとった。顔には満足したような、やさしいほのかな微笑を浮かべていた。」

山口瞳は、「フェルナノはきだ自身であり、ローザは彼の妻であり、アイシャは彼と暮らしていた若い女性であり、アンジェリカはその女性との間にできた幼い娘である。」としている。





〈おわり〉



[参考文献]

男性自身 英雄の死   鼻のない男の話 山口 瞳著     新潮文庫    新潮社
きだみのる自選集    第一巻 鼻かけ男の話              読売新聞社
                                          


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# by GFauree | 2017-06-18 08:43 | 鼻のない男の話 | Comments(2)

「鼻のない男の話」 [その2]

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                                       (写真撮影 三上信一氏) 




1.作者と小説の効用について



・作者きだみのる について


私が聞いたことがあったのは、せいぜい、型にはまることを嫌い奔放な生活を送った人柄を示すような逸話ぐらいのことだ。パリに留学した後、アテネ・フランセでフランス語とギリシャ語を教えていた経歴なども全く知らなかったし、山口瞳の『男性自身』を読むまでは小説「鼻かけ男のはなし」のことも、勿論知らなかった。


だから、山口瞳の『男性自身』でその小説の粗筋(あらすじ)を読んだときは、何だか儲けものをしたような気になった。


・「大航海時代」に関する本は少ない

と言うのは、「大航海時代」の歴史に興味を持ち始めて、この20年、出来るだけこの時代に関する本を読んできたのだが、私にとって面白そうで、かつ重過ぎなさそうな本というのは、ありそうで実はなかなか無い。そもそも、「大航海時代」に関する本は、著書も著者も驚くほど限られている。


・インタネットの情報は「目次」のようなもの

要するに、読者が殆どいないのだから、仕方がないということなのだろう。以前は、歴史というもの自体に全く関心の無かった私には、実情がよく分る。それで、ある勉強会のような所でその話をしたら、「インタ-ネットがあるじゃないですか」みたいなことをしたり顔で言われて、愕然とした。

そんなことを言う人は、インタ-ネットの「検索」で得られるような知識しか必要としたことがないのだろう。インタ-ネットの「検索」で得られる情報は、概ね本の「目次」のようなものである。「目次」が必要なこともあるが、それは必要な知識の骨と表皮の一部に過ぎず、肝心な知識の中身とは別物である。だから、適当な本を探して手に入れることが、結局必要なのだ。


・だからこそ、“やめられない、とまらない”本探し

それで、この20年間、自分にも面白く読めそうな本を探し続けてきた言って良い。逆に、そんな本を見つけて読むときの楽しさは、おいしい料理に出会ったときと同様、何とも応えられないものがある。そんなこともこの「大航海時代史」に関する読書趣味が“やめられない、とまらない”理由のひとつになっていると思う。



2.この小説のどんなところに興味をそそられたか


ところで、この小説に私が興味をそそられたのは、「発見・征服」を教会と国家が教俗一体の体制で推進した、まさに「大航海時代」のポルトガルの国内外の情勢を背景に、そこに生きた人々の人生が描かれていることであった。そして、さらにそのような小説が、日本の、それも歴史小説とはあまり縁のないような作家によって戦後間もない頃に書かれているということであった。

作者きだみのるは、「『鼻かけ男の話』は、最初イギリスのヨット狂の貴族の自販本でその存在を知り、ほかの地理発見の冒険誌二、三を読んで補いながら書いたものだ。」と、自選集の「あとがき」に書いている。




・何故かあまり明かされていない、ポルトガルによる「発見・征服」の進め方

前回、粗筋(あらすじ)にも書いたが、ポルトガル・スペイン両国は1494年、トルデシリャス条約を締結して、大西洋上の一地点を通る子午線を境界線とし、その東側をポルトガル領、西側をスペイン領とすることを協定した。


(1)スペインの「発見・征服」

その境界線から西側に遠征したスペインは、北米の南部と、ブラジルを除く南米全域そしてフィリピン諸島を征服した。

その征服の仕方は、対象となる地域全体を先住民を含めて植民地支配することを原則とするものであり、先住民に対する支配の仕方は苛烈を極めた。ヨ-ロッパから持ち込まれた疫病が猛威を振るったためとも言われているが、先住民は実際にほとんどが激減または絶滅させられた。


・「黒い伝説」

このスペインによる新大陸征服と植民地支配の記録は、「黒い伝説」と呼ばれ、他国のスペインに対する攻撃のプロパガンダのために、徹底的に利用された。「黒い伝説」は、今では一般的に客観性を欠いた歴史的資料だとされている。しかし、一部事実に基く部分がある以上、全面的に否定できるものでもない。

先住民擁護運動の旗手と目されるバルトロメ・デ・ラス・カサス(スペイン人ドミニコ会士)の著作は、直ちに各国で翻訳・出版され、「黒い伝説」としてスペイン批判の材料として利用された。因みに、日本のキリシタン迫害の歴史を記した、フランス人日本史家レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』(岩波文庫にあり)も、第二次大戦中日本攻撃のための「黒い伝説」として欧米諸国に利用されたと言われている。



(2)ポルトガルの「発見・征服」

一方、ポルトガルの「発見・征服」については、それほど悪く言われてない(ようだ)。「ようだ」と言うのは、それについて日本語で書かれたものが少ないために、そう見えるのかも知れないと考えるからだ。外国語で書かれ、日本語に翻訳されていない本は沢山あるのかも知れない。もしそうだとしても、私には原書を読む能力も体力もないから、そういう本の存在や内容を知る方法は殆どないので、実際の所どうなっているのかは判らないのだが。

私が、ポルトガルについて上に書いたような印象を持った理由として、「ポルトガルは相手国の領土と先住民を植民地支配する考えはなく、ただ『発見・征服』によって交易の拠点を得ようとしただけだ」と、何処かで読んだような気がする。ただし、奴隷が世界的に展開されたポルトガル貿易の主要商品の一つだったというのは、既に“常識”のようである。



歴史小説においては、史実を含め全てを作者が表現のために改変し、創作しても構わないことになっている。従って小説に書いてあることは、何であっても「過去の事実」と考えるべきではない。しかし、良い小説ほど人間や社会に関する洞察力に溢れているから、語られてこなかった「真の史実」を示唆してくれるのではないかという期待が、私にはある。そこで、この小説に書かれた、ポルトガルによる「発見・征服」に関する描写を抜粋してみた。



・この小説からの抜粋と気付くこと


(下記括弧内が小説「鼻かけ男の話」からの抜粋)

一番根本的な目標は、香料貿易を独占的に行っている回教徒をインド洋沿岸から追い払ってポルトガルのためこの貿易を独占・確保することであった。

とすれば、平和的に「発見・征服」を進めたなどということはあり得ないことになる。

この目的達成には、回教徒の商船を襲撃することも、貿易基地や寄港地の回教徒の破壊も、また回教徒に味方してポルトガルの目的を妨げる都市を懲らすことも必要であった。

そのために、海沿いの町を次々に襲撃し、市街を焼き、掠奪し、住民を皆殺しにした。黄金の都市ゴア攻略の際は、先住民の守備兵9千人と回教徒6千人を皆殺しにした。東アジアの交易の中心で富裕な町マラッカ(現在のシンガポ-ル付近)を攻撃し掠奪した、ことも書いてある。


・以上についてさらに私が思うこと


(1)中東からインドにかけての「発見・征服」は、香(辛)料貿易を奪い独占するための、回教徒と彼らを支持する勢力への、襲撃・掠奪・破壊を意味した。
(香辛料貿易を奪い独占するためには、回教徒の殲滅が必要だったということだろう。)

その掠奪等を正当化する役を、「教俗一体」体制の下に教会が引き受けた。教会のお墨付きを得たポルトガル遠征隊は、異教徒の財産・生命をどうしようと構わなかった。その代りにポルトガル人であっても、キリスト教を棄てた者は反逆者ということになったのだろう。

(2)ここで、気付くことは、遠征隊が攻撃し、占領したゴア(インド)もマラッカ(シンガポ-ル付近)も、後にイエズス会が、フランシスコ・ザビエルが、活動拠点とした都市である。

ポルトガルはマラッカ攻略後、マカオ(中国)に拠点を設け、その経路は日本へと伸びて行った。つまり、日本へのキリスト教伝来は、ポルトガルの襲撃・虐殺・掠奪の延長線上にあったというわけだ。

(3)イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ(イタリア人)は、ザビエルの後継者として日本キリシタン史上最も大いなる活動をした人物とされている(松田毅一)。

彼は1582年12月、フィリピン総督(スペイン人官僚)に送った書簡の中で以下の主旨を述べている。

「シナを征服することは、スペインに益するところ大である。
日本は武力征服を企てても成功の見込はなく、しかも物質的に益するところが少ない。
それ故、シナの武力征服において、日本の軍事力を利用すことを提唱する。」


私は、この書簡の内容から「死の商人」という言葉を連想した。
それは、本来「武器を売る者」つまり「武器を売らんがために、死をもたらす者」という意味だろう。とすれば、ヴァリニャ-ノは「宗教を広めんがために、布教国日本の軍事力を利用した戦いすら提唱した者」ということになる。
これについてもまた、それは「時代の常識」だったと考えるしかないのだろうか。




3.「大航海時代」のポルトガルの国家と人々の実情は、日本の戦後のそれに重なる


山口瞳は、「とにかく、余人は知らず、私はこの小説に痺(しび)れた。当時の国情と、日々の私の気持ちがぴったりとこの小説に合ってしまった。」と書いている。


・日本の戦後

この小説は昭和28年(1953年)文芸雑誌『群像』に発表された。昭和28年と言えば、米国他連合軍との戦争終結から8年後であり、その3年前に勃発した朝鮮戦争が休戦に至った年である。

ちなみに、NHKテレビの本放送(「試験放送ではない」という意味)が開始されたのもこの年である。ついでに言えば、その頃はNHKでも“英雄”力道山のプロレスを実況中継していた。当然、一般家庭に高価なテレビは無かったから、新橋駅前や渋谷駅ハチ公前に設置された受像機を見るために人々が殺到した。そのために、群衆が広場や道路にあふれ都電が不通となったこともあったということだから、如何に多くの人が集まったかが想像できる。

朝鮮戦争による特需が日本経済にもたらした好景気は“神武景気”と呼ばれ、戦後の高度成長の始まりとされている。

日本の軍人・一般人併せて約3百万人の犠牲者を出した戦争が終わってから、わずか8年しか経っていない時期である。都市の多くは、広島・長崎はもとより東京・大阪でも焼野原だらけであったはずである。

ところが、大衆はもう新しい娯楽に飛びついている。そんな中にあって、気の利いた者は、既に新しい時代の潮流に乗ろうとしているかに見えただろう。そうでない者は、ひたすら焦り自分の不甲斐なさを責めていたかも知れない。


・大航海時代」ポルトガル国内の実情

よく、「大航海時代」にヨーロッパ諸国から国外へ流出した人々について、「雄飛した」などと言って勇壮さが強調されることがある。海難事故で彼らのうちの何割かは命を失ったと言われているから、風を動力とする船しか輸送手段の無い当時、海外に出ることは相当に危険であり、確かに勇気の要ることだった。だからこそ、もし国内に留まれるものならば、そうしたかった筈である。端的に言えば、要するに食えないから海外へ出ざるを得なかったということである。

これは、明治以降日本から海外へ移住した人々についても、言えることである。彼らを尊重しようとすることが、逆に彼らの途方もない苦労を見えなくさせている。私は、こちらに来て初めて、その移住した人々がどれ程の辛酸を嘗めねばならなかったを知った。


通辞ジョアン・ロドリゲスの例

さて、当時ポルトガルを出国した人々の実情であるが、そのよい例がイエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスである。

時々、「当時のイエズス会の宣教師は皆、ヨ-ロッパの祖国ではエリ-トだった。」などと、言ったり書いたりする人がいるが、それは大嘘である。当時の日本人には、「彼らが祖国で食えないがために、遥かかなたの日本まで来たのでは」と賢明にも推察した人が少なくなかったことを、宣教師自身が「日本人の猜疑心の強さ」として嘆いているのである。確かに、カトリック教会には宗教改革によって失った教勢を回復するために、海外布教に組織の存在を賭けざるを得ない事情があった。

ロドリゲスは、最高権力者であった秀吉に寵愛され、家康によって見事に失脚させられ国外追放されたことが知られているが、イエズス会の中でも異例の出世を遂げていた。時勢に、権力に迎合することが巧みな者は、教会(修道会)の中でも出世する可能性が高かったのだろう。現在はどうなのかは、教会(修道会)が人間の集団であることから推して知るべしである。

彼は、元々ポルトガル北部の寒村の出身で、10歳になるかならないうちに出国し、日本に渡来したときは、宣教師か商人の使用人だったらしい。自分の生年月日すら、正確には知らなかったと言われている。


要するに、年齢を問わず、食えない故に国外に出ざるを得ない者が多くいたということだろう。また、国外に出たことで成功した者が僅かにいて、帰国した彼らを羨望の目で見る人々が周囲に少なからずいたということは、当然あったのだろう。

そう考えて来ると、山口瞳の言うように、当時のポルトガル国内と終戦直後の日本とに共通したところがあったことは確かなようである。



今回は、この小説のどんな点に興味をそそられたのかを中心に述べて来た。
次回は、この小説を通じて作者は何が言いたかったのか、について考えてみたい。



〈つづく〉




[参考文献]

男性自身 英雄の死   鼻のない男の話 山口 瞳著     新潮文庫    新潮社
きだみのる自選集    第一巻 鼻かけ男の話              読売新聞社
「キリシタン時代の研究 第3章 キリシタン宣教師の軍事計画 高瀬弘一郎著 岩波書店
「ヴァリニャ-ノとキリシタン宗門」    松田毅一著作選集         朝文社
                                               

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# by GFauree | 2017-06-02 03:28 | 鼻のない男の話 | Comments(2)