知事と総督

a0326062_08203891.jpg
                                (撮影 三上信一氏)




スペイン語で、知事は gobernador civil、総督は gobernador generalで、どちらも gobernador です。
英語では governor ですから、スペルが少し違います。


過去の記事の中で、16世紀にスペイン本国からフィリピン総督として派遣されたゴンサロ・ロンキ-リョ-が、在任期間中の立場を利用して個人的蓄財のために如何に涙ぐましい努力を払ったか、を書きました。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22266378/



総督と言えば、「日の沈むことなき」(つまり、全世界的に展開した)スペイン帝国の植民地官僚トップとして本国から派遣された超エリ-トでした。そういう立場にある人物の、いじましいというか、恥知らずな金儲け主義が印象に残っていましたので、今回の東京都知事の話に触れて同じく gobernador と呼ばれたそのフィリピン総督を直ぐに思い出しました。


ただ、今回問題となった都知事は、在任期間にその立場を利用して金儲けを図ったというより、知事としてやたらな贅沢(貧しかった子供の頃からの夢を実現したかったのでしょうか。だとすれば、同じ貧乏人出身同士として気持ちは少し分ります。)をしていた以外に、政党に交付された政治資金を個人の中古車・旅行・飲食・趣味に流用していた(何だか、わずかな役得を手に入れたサラリ-マンがやりそうなことです。このやり口には、私も含めて身に覚えのある人は少なくないのではないかと思います。)のが発覚してしまったという何とも情けない話です。


そういう観点から見ると、献金まがいの5千万円を「(相手が)良い人だなと思って」受け取ったと答弁して辞職した前知事の方が、「大航海時代」のフィリピン総督にまだ近いかも知れません。気が付いたことは、フィリピン総督の場合は地位を利用して積極的に個人的利益・資産の拡大を追求したけれど、現都知事はそんな積極性は持ち合わせず、個人的(生活費的)費用負担の圧縮をひたすら追求していたという違いがあることです。確かに、利益を出して個人資産を増やすには、収入を増やす以外に公的なお金を使って自分の費用(支出)負担を減らすという方法もあるんですね。


知事とか総督とかのある程度の経済的影響力や妙味を期待できる地位に就こうとする人の半分以上は、こういう性向を持った人たちだ、と考えたほうが間違いがないと私は思うようになっています。


一時期まで、多くの社会的地位には物質的な役得というものが付いていて、それを精一杯利用する人が多いということをもっと若いうちから知っていれば、などと考えたものです。ですが、この頃は、若いうちにそんなことを知らないで良かったと思っています。それは、私のように心の弱い者は、今回の都知事のように、自分が狙った役得や利権を手に入れたりすれば、それに有頂天になってとんでもない恥知らずな失敗をする可能性が大いにあったことが分ってきたからです。



次回は本題に戻ろうと思っています。







[PR]
by GFauree | 2016-06-17 12:12 | Comments(2)

a0326062_09521835.jpg
                   遠足の風景



この国では、日本語能力試験は年1回だけ12月の第一日曜日に行われます。


私の4人の生徒たちもその試験を受けました。

それで、翌日の月曜日にその慰労会と今月の妻の誕生日祝も兼ねて、妻が面倒をみている高校生2人を含めた8人全員で遠足に出かけました。

小型の乗り合いバスで30分ぐらいのところにある港へ行き、湾内遊覧船に乗ったあとで昼食をとり港の岸壁や展望台を散策するだけの遠足です。

でも、ここでは若い人もおとな同様に良く食べ良く話しとても楽しそうにしてくれるので、私たちにとってもこの遠足が楽しみのひとつになりました。実は日程の調整など若干面倒なこともあるためにどうしようかなどと迷っていたのですが、生徒たちから催促されて結局今年も実行することにしたのです。


よく定年後の海外生活のパタ-ンとして日本語教師を考えられる方が多いようですが、それが充実したものになるかどうかは、「良い生徒に恵まれるかどうか」という,とても単純だけれど実際にはなかなか叶わない条件次第だと私は思います。


この国でも、アニメやファッションや音楽を通じて、また欧米とは全く異なる歴史や文化を持つ先進国として、驚くほど多くの若い人が日本を意識し日本語に興味を持っています。


ところが、言葉も文字も文法も西ヨーロッパ言語と全く異なる日本語の習得の困難さはいつもは楽天的な彼らを一挙に絶望的にさせるようです。そのため、折角始めても殆どの人はひらがな・カタカナも満足に書けない段階で挫折してしまうと言っても大袈裟ではありません。


つまり、日本語学習が成立するためには、何故かあまり言われていないことですが、責任感と忍耐強さでこの日本語の途方もない難しさを克服しながら勉強し続けてくれる良い生徒が実は不可欠なのです。(当たり前すぎることかも知れませんね。)


私の場合は、幸運にも約3年前から自発的・継続的に勉強する習慣を身に付けた優秀な生徒に恵まれました。そのうえ、彼らは私の妻がペル-人であることで安心するようで、家で食事をしていくことも多いし勉強以外のことまで相談するほど妻を慕ってくれています。


私は、日本語学習のお手伝いを通じて生き甲斐と健康を与えられました。

そして、それを可能にしてくれた優秀な生徒たちと、私と生徒たちを支えてくれている妻に感謝しています。

もっとも、妻に感謝しなければならないのは、この件についてだけではなく、この恐ろしく難しい社会で生きながらえさせて貰っていること全体についてなのですが。

この社会の恐るべき難しさについてもこれから少しずつお話していきたいと思います。


[PR]
by GFauree | 2014-12-10 10:47 | Comments(0)

アルカディアに我ありき

a0326062_22330871.jpg
逸身喜一郎著 ラテン語の話-通読できるラテン語文法 (大修館書店)
は、
ラテン語に関する興味深い話題を通して初心者が親しみを持てるように書かれた親切な本です。

ラテン語をヨ-ロッパ文化の根源に関わる言語として意識し自分も読んでみたいと思ってはいても、その文法について覚えなければならない決まりごとが多そうで近付き難く感じていた私にとって、この本は丁寧にかつ分かりやすくそして面白く書かれていてとても有難く感じた覚えがあります。今でも時々読み返しています。

その本の最終章で、このタイトルに挙げた言葉(アルカディアに我ありき)について説明されています。それは、次のようなものです。

アルカディアとは、理想郷(ユ-トピア)を意味する想像上の地名です。
現実に、アルカディアという名前の土地はギリシャにありますが、それは「理想郷」とはほど遠い荒涼とした土地だそうです。

最初に et in Arcadia ego というラテン語がありました。
その意味は「アルカディアにすら、我はいる」(アルカディアにもまた、私はいる)です。

この言葉を発しているのは「死」そのもので、この表現は「平和で幸福な理想郷アルカディアの地にもまた、私『死』はいる」つまり「死を忘れるな」ということを意味していたのです。

ところがあるきっかけから、この言葉は「我もまた、アルカディアにかつていた」 et ego in Arcadiaと解釈されるようになりました。
「死者」が「私にもアルカディアにいるという至福の時があったのに」という感傷と憂愁に満ちた想いをアルカディアの住人に語りかけるために発したものとして考えられるようになったのです。

「常に、死を意識せよ」という警句として発せられた言葉が、いつしか自分が経験した理想郷への郷愁を吐露する言葉として解釈されるようになったというこの話に私は惹かれます。
「死を忘れるな」という苦く厳しい警句は真理を鋭く突いている言葉だとは思いますが、「私にも、あの理想郷で過ごした日々があったのだ」という言葉にも憂いに満ちた悲痛な心の叫びを感じます。

自分が既に、死を意識すべき年齢に達しつつあるせいかも知れません。
また、ときどき生まれ育った遠い日本を理想化して思い出している自分に気付くことがあるせいかも知れません。

ただ、今自分が日本を離れて暮らしているこの地がアルカディア(理想郷)であるというつもりも全くありません。よく、海外生活をされていていまお住まいの地を理想郷のようにおっしゃる方がおられますが私はそういう気持ちにはなれません。

この、ブログの最初の投稿にこのテ-マを選んだのには別の理由があります。それは、また別の機会にお話ししたいと思います


[PR]
by GFauree | 2014-12-06 10:12 | Comments(1)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。