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「岡本大八事件」
は、以前龍造寺氏に奪われた旧領の返還を求める「キリシタン大名」有馬晴信と、家康の側近である老中本多正純の家臣岡本大八との間の贈収賄事件として知られている。賄賂を贈ったのが有馬晴信、受け取ったのが岡本大八である。

この事件は1613年1月の全国的な禁教令発布の重要な契機の一つとして、よく挙げられている。しかし、一見単純明白なこの汚職事件の展開には種々不自然な点がある。にもかかわらず、一般にその点はあまり追及されず、ほぼ同時期の大奥の女中「おたあジュリア追放」の件と並べて、ただ全国的な禁教令発布のきっかけとされてきたように、私には思えた。


そして、その種々不自然な点について考えているうちに、この事件は実は家康・正純による「キリシタン大名潰し」の謀略だったのではと考えるようになり、そのことを記事に書いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)約400年前のこの事件についても、御多分に漏れず、同時代及びそれ以降の権力や権威にとって都合の悪いことは隠蔽・抹消されてきたであろうから、それが不自然な説明に現われているのではないか、と思ったからだ。

すると、そんな記事を書いた所為で、事件について他の人はどんなことを言っているのかとか、何処かに何か決め手になるようなことが書いてありはしないかとかが、いつも気になるようになった。また、どうも、この事件は私だけでなく多くの人にとって気になる出来事であるらしいことも分かってきた。



最近、たまたま「カルヴァ-リョ弁駁書」という文書を読んでいて、その中に「岡本大八事件」に関して書かれた箇所があるのを見つけた。
(その文書の日本語訳は、大航海時代叢書「イエズス会と日本 二」に収められている。)


「カルヴァ-リョ弁駁書」
は、正式には、「フランシスコ会パ-ドレ・フレイ・セバスティアン・デ・サン・ペドロによって作成された、日本の皇帝が彼の諸王国からすべてのパ-ドレを追放するに至った諸原因の摘要、と題された論文への弁駁と回答」という長々とした題名が付けられているだけあって、日本語訳の分量も約300ページと長大な文書である。

内容は、江戸幕府によるキリシタン禁教の原因がイエズス会の布教方針にあったとするフランシスコ会士セバスティアン・デ・サン・ペドロの主張に、イエズス会日本管区長ヴァレンティン・カルヴァ-リョが反論したものである。


その主張・反論の中に、有馬晴信・直純親子の関係やイエズス会の関与などそれまでに私が知らなかったこの事件の様々な背景や展開が語られている。もちろん、デ・サン・ペドロの主張もカルヴァ-リョの反論も、日本における布教方針をめぐって当時激しく対立していた各修道会の立場から書かれたものである。また、書かれていることの情報の出所や根拠も示されていないから、それをそのまま真に受ける訳にはいかない。

しかし、そこには事件の当事者に近かった者であるゆえに知り得たと思われる事柄が種々述べられている。また、対立する二者の主張と反論によって、少なくとも事件の状況がよりリアルに浮かび上がる面があるようにも感じられる。そんなことから、両者の主張と反論及び付されている解説のうち「岡本大八事件」に触れた部分を抽出して整理してみた。
(なお、一部人名や表現は解り易くするために、日本語訳原文のものから変えてある。)




[セバスティアン・デ・サン・ペドロが主張する事件の経緯]


恩賞として家康の曾孫を与えられた息子直純
有馬晴信はマカオからのガレオン船を攻撃し自爆させるという軍功を立てた。そこで、家康はその恩賞として、晴信の息子直純に自分の曾孫(ひまご)国姫を与え、キリシタンとして教会での婚姻をしていた妻マルタ(小西行長の姪)と離縁させた。

賄賂の目的
晴信は、肥前の国の藤津という、自分の領国に隣接する地方が与えられることを願い、家康の側近本多正純の家臣岡本大八に賄賂を贈った。

追い込まれていた晴信
晴信はイエズス会に対してのみならず、自分の主要な家臣たちにも、手に入る筈の領地からの収入や土地を配分する約束をしてしまっていた。

長崎奉行に訴えた直純
藤津割譲の件が一向に進まないため、晴信が本多正純に進捗を訊き合わせると、家康はその土地を与えると言った覚えはないとの回答があった。そこで、息子直純は、この件は不正であるとして、長崎奉行長谷川左兵衛に訴えた。左兵衛はイエズス会の敵であるばかりか、他の修道会の者も含め宣教師全員を追放した人物である。

直純・左兵衛を殺害しようと図るに至った晴信
岡本大八は、晴信とイエズス会に対し、直純が左兵衛にこの件を通報したために、事がぶち壊され、もはや手の打ちようがないと知らせた。このため、晴信は息子直純と左兵衛に対し激怒し、両者を殺害しようと図るに至った。この事に関し、晴信は大八に何通かの手紙を書き、それは事件が発覚した後に大八自身から示された。

イエズス会は修道士を派遣した
イエズス会京都地区長パ-ドレ(ペドロ・モレホン)が日本人修道士レオイン・パウロを派遣して、晴信と大八を和解させた。左兵衛はその地区長パ-ドレに腹を立てついにはマニラに追放した。

父晴信と大八の和解は、直純にとって不都合なものであり、過去晴信が自分を殺そうとした経緯もあったことから、直純はイエズス会を手酷く非難した。また、友好関係にあった長谷川左兵衛と協力して、一部始終を本多正純や家康自身に知らせた。


家康は全ての顛末を知った

家康は事の顛末を知り驚き、更に次のことを知った。
晴信が自分の息子を殺そうとしていること。その全てがイエズス会のパ-ドレたちの手で操られてきたこと。さらに、二人を和解させるためと、家康自身は出そうとも考えていなかった(藤津割譲のための)勅令について交渉するために、修道士レオイン・パウロが駿河に赴いたことである。

その結果、家康はその関係者全員に対して激怒し、左兵衛と既に自分の曾孫(ひまご)の夫になっている直純の意見を大幅に取り入れ、晴信と大八を駿河に呼び寄せ取り調べた。晴信は、直ちに一部始終を語り、イエズス会パ-ドレたちと彼の妻がそれを企んだと付け加え、大八ばかりでなく修道士レオイン・パウロにまでも罪を着せた。

「これは悪魔の法である」
家康はそのような陰謀を知り、パ-ドレたちやキリスト教徒たちにに対し、激しい非難の言葉を浴びせた。ことを企んだのが皆キリスト教徒だと知ったからである。特に、晴信が息子の、それも家康自身が純粋無垢と考えていた者を殺そうとしていたことが確かになったので、「これは悪魔の法である」と左兵衛に向かって言った。そして、激しい怒りを見せて、直ちに大八を火刑に、晴信を斬首に処することを命じた。



[カルヴァ-リョの反論]


有馬晴信が望んだもの

デ・サン・ペドロは、有馬晴信が藤津を望んだと述べているが、本当はそれ以上を、つまり彼の父親(有馬義貞)が肥前の領主(龍造寺隆信)によって奪われた土地を望んでいたのだ。だから、晴信の望みは正当なものだった。

さらに、晴信がイエズス会のパ-ドレたちを仲介にして大八と交渉したと述べているが、パ-ドレたちがその件に加わったことはなかった。晴信がイエズス会のパードレたちと結託して定収入や土地の配分をしたと言うが、パ-ドレたちは決してそのような配分に関与していなかった。

家康や正純がこのことを知らなかったかどうか
また、家康はその件を知らなかったと述べているが、我々は(その点について)知っていることを述べる訳にはいかない。
本多正純についても、そのことを知らなかったと述べているが、それも我々としては、時が来れば真実が分るであろうと申し述べておく。

イエズス会パ-ドレに操られたと言っていること
デ・サン・ペドロは、晴信が自分の息子を殺そうと企てたこと、およびこれが全てイエズス会のパードレたちの手で操られたことを確認するに至ったと述べているが、それらは全くのでっち上げである。

修道士が動いた理由と直純の反応について
修道士レオイン・パウロは、晴信の要請を受け、京都地区長パ-ドレの許可を得て、左兵衛には知らせずに、大八に会いに行った。修道士がその件に介入したのは、両者の間の和睦のためであった。けれども、晴信の息子直純は、父親の領土をわが物にしようとしていたので、腹を立てたのだ。



[解説に挙げられている事項]


岡本大八・本多正純とイエズス会の関係
大八はもと長谷川左兵衛の家臣で、長崎に住んでいたか、または頻繁に長崎を訪れ、長崎で海外貿易に携わり利を上げていた人物である。
正純も長崎貿易に深く関わっており、家臣である大八を介してポルトガル船による委託貿易を行わせていた可能性は充分ある。
このことから、両者ともイエズス会とは元々親密な関係であったと考えられる。


1605年の長崎換地の件
「長崎天領と大村領との交換問題」である。

(これについては、解説に書かれてある内容が当初よく理解できず、そのままにしていたのだが、たまたま最近読んだ小説「NAGASAKI 夢の王国」で採り上げられていた。そして、どこかで読んだことがある気がしてきて探してみると、青山敦夫著「天正遣欧使節 千々石ミゲル」〈朝文社〉にも書かれていた。そこで、それらを総合してみると、以下のようなことのようだ。)


大村純忠が寄進したイエズス会領は秀吉に没収され、後に幕府の天領となっていた。ところが、秀吉に没収されず周辺に残されていた大村領の土地の方が、開発が進み町として栄えるようになった。


通辞ロドリゲスの関与
そこで、大村領を外町の一部として長崎に組み込み、その代わりに浦上村とその周辺のまだ開発されていない天領を大村に与えるという、幕府に都合の良い案を、イエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスが家康に提案し了承を得たと言われている。
(イエズス会は、これを強く否定しているが、ロドリゲスが幕府方に長崎の図面を提供したことは認めているのだから、彼が全く関与しなかったということでもなさそうである。)

大村喜前(よしあき)の激怒
この案は、圧倒的に大村側に不利なものだったから、これを一方的に通告された大村喜前は激怒し、全てはイエズス会の陰謀であるとして、棄教を宣言し領内からの宣教師追放を命じた。これにより、キリシタン教会はその時まで残っていた「キリシタン大名」二人の内一人を失い、有馬晴信一人を残すのみとなった。

ロドリゲスと等安の結託
他方、この案は長崎町政上の混乱を除去し、長崎外町を支配する代官村山等安を利するものであったから、当然ロドリゲスと等安が結託して推進したものと考えられている。後に、敵対することになる等安とイエズス会の関係は、この1605年当時は未だ良好であったということであろう。

ロドリゲス失脚・追放へ
この領地交換問題にロドリゲスが関与し、結果的にかつては有力な後ろ盾であったキリシタン大名の支持を失ったことは、イエズス会内部でも深刻に捉えられたようである。以後、急速にロドリゲスに対する批判が増していき、5年後の「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」直後に彼はマカオに追放される。因みに、その際ロドリゲスの失脚・追放を工作したのが、奉行長谷川左兵衛と代官村山等安だったと言われている。



[私の思うこと、考えること]


1.フランシスコ会士の主張する経緯は幕府側発表に手を加えたもの

フランシスコ会士デ・サン・ペドロが主張するこの事件の経緯は、概ね世間に流布されていた情報を基にしたものであるためか、不自然さは余り感じられない。幕府側から意図的に流されたものに、イエズス会の関与という事項を組み入れると、このような経緯になるのではないだろうか。



2.カルヴァ-リョの反論は面白い

むしろ、興味深いのはイエズス会のカルヴァ-リョの反論である。


(1)イエズス会の関与について

修道士レオイン・パウロを派遣したのは、単に晴信・大八両者の和解のためだと述べているが、信者同士の争いごとを収めるだけのために、直純と共にこの件を不正として暴く立場をとる筈の奉行左兵衛に断わりもなく派遣したというのは不自然である。ということは、自分たちの関与が疑われる危険を冒してまでも、是非和解させておかねばならない理由があったのである。

それは、デ・サン・ペドロが言う「手に入る筈の領地からの収入や土地を配分する約束」があったと疑われても仕方がないということである。つまり、この事件の端緒、贈収賄の発生時点から、既にイエズス会の関与があったと考えられるのである。そうだからこそ、カルヴァ-リョは「贈収賄の目的である晴信の望み(旧領の返還)は正当なものだった」と述べる必要があったのだろう。


(2)皆、イエズス会を媒介にした金儲け仲間だった

そこで、興味を引くのは解説に挙げられている、岡本大八・本多正純とイエズス会の関係である。大八も、その主家である正純もポルトガル船貿易に深く関わっていたから、元々イエズス会とは密接な関係があったということである。

しかし、そもそも、家康も生糸や金・銀や香木の取引でポルトガル船貿易に関わり、蓄財に励んでいたということは知られており、イエズス会と経常的な接触はあったのである。ということは、有馬晴信はもちろん、大八も正純も家康も、皆、ポルトガル船貿易に手を染めイエズス会と浅からぬ関係を持った仲間なのである。

それを考えると、家康、正純がこの件を知っていたか否かについて、カルヴァ-リョは言葉を濁したような妙な言い方をしているが、要するに両者とも事件が公に発覚する前に既に知っていたということだろう。

イエズス会を媒介にした仲間なのだから知っていて不思議はないのである。というよりむしろ、どの段階でかは定かではないが、それを知ったイエズス会が、絶対的権力を持ちつつある正純・家康に対する組織防衛のために、かなり早い段階で知らせたとも考えられる。

そして、正純・家康は、事件の発生を知りながら、晴信を泳がせ、その後どのように彼の抹殺を進めるかを考えたのではないだろうか。そこから、手前味噌になるが私が以前の記事に書いた「最後のキリシタン大名」抹殺のための謀略に繋がっていくことになるようだ。




3.有馬直純は徹底的に利用された


晴信の息子直純は、15歳のときから家康に側近として仕えた。それは、晴信が関ヶ原の戦いで西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り旧領を安堵された年、1600年のことだから彼は自分の勢力伸長を助けるものとして、息子を駿府に送り込めたことにさぞかし満足し、期待したことだろう。

しかし、結果的に直純の存在を徹底的に利用したのは、家康の方だった。
まず、この息子は、父親と大八を長崎奉行に訴え、奉行左兵衛と組んでイエズス会を非難し、一部始終を報告してくれた。

ただ、家康・正純にとって、晴信・大八はともにポルトガル船貿易で儲けた仲間である。特に、家康は晴信の貿易事業家としての手腕を高く評価していたと言われている。つまり、晴信に随分儲けさせてもらった義理もあるのである。しかし、国内政情の安定化(つまり豊臣方対策)と幕府の貿易独占推進のためには、キリシタン大名抹殺は喫緊の課題である。

そこで、家康が持ち出したのが、伝家の宝刀「人倫の道」である。

晴信と大八は、互いにそして周囲の者までに罪をなすり付ける醜態を演じてくれている。その上、晴信は罪なき自分の息子を殺そうとまでしている。それらの者どもがキリシタンであることから、「キリシタンは、人の道を外れた『悪魔の法』である」と言えるのである。

実は、家康自身、織田信長との提携関係を守るために、長男信康に切腹させたという経験があるのである。
自分の場合は、やむを得ない事情があったと考えたのであろう。そのくらいでないと、天下は取れないということか。

ともかく、家康は義理もある金儲け仲間たちを抹殺する大義名分を、晴信・直純の親子関係に見出したのである。そして、いつもそういう場合にしてきたように、怒り心頭に発したふりをして抜け目なく、素早く二人を処刑した。



4.家康がイエズス会を非難したもう一つの理由


しかし、この機会に家康がキリシタンを、特にイエズス会を公然と非難しておかねばならない理由が他にもあったのである。
それは、領地問題へのイエズス会の介入を牽制する必要である。

解説で挙げられている「長崎換地の件」への通辞ジョアン・ロドリゲスの介入は、考えてみればとんでもないことである。この時代、幕府が大名に領地を分け与え治めさせることが社会制度の根幹であった筈である。したがって、大名に対して如何に領地を与えるかは、幕府以外の何者も踏み込んではならない問題なのである。それを、あろうことか一宣教師如きがその領域に介入してきたのである。

ただ、通辞ロドリゲスの提案は幕府にとって有利なものであったために受け入れられたのだろう。結果として、大村喜前の怒りを買いイエズス会内部にもロドリゲスを批判する声が上がったということであるが、当然幕府内部にもこれは看過すべきではないという意見があったとは考えられる。が、それは聞こえてこない。幕府としては、領地問題という幕藩体制の根幹に触れるような問題に踏み込まれたことを大々的に取り上げる訳には行かなかったのではないだろうか。

「岡本大八事件」も発端は、「旧領の返還」という領地問題であり、そこに当初からイエズス会の関与があったことは濃厚である。幕府関係者にとっては、またかという思いがしたことだろう。と同時に、そこまでイエズス会の影響力が浸透していることに改めて危機感を膨らませたのではないか。しかし、今回も一宗教勢力が社会制度の根幹に触れるような問題への影響力を持ち始めていることを認める訳にはいかない。

「岡本大八事件」の結末が、「悪魔の法」であるキリシタンの為せる業として、家康がいきなり倫理・道徳の問題を持ち出して処理したように語られていることに違和感を覚える私は、そんな理由を考えている。



5.全国的禁教令の契機になった理由について


「岡本大八事件」を「おたあジュリア追放」と並べ、これらが全国的禁教令発布の契機となった理由として、周囲が皆キリシタン関係者であることに家康が愕然として、というような言われ方がよくされるが、それは殆どあり得ない。

まず、上に述べたように、家康自身ポルトガル船貿易で儲けたイエズス会仲間だったのだから、周囲がキリシタン関係者であろうと驚く筈がない。そして、幕藩体制の根幹であり、幕府・諸大名にとって最大の関心事である領地問題にイエズス会が噛み込んできたことに、家康は何よりも脅威を感じ、キリシタン早期一掃の必要性を改めて強く意識し、それが全国的禁教令発布の一つの契機になったとは言える、と私は考える。それが、今回の結論である。



〈おわり〉







































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by GFauree | 2017-03-12 07:33 | 有馬晴信 | Comments(0)

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                                  (撮影 迎田恒成氏)





「岡本大八事件」
は、その3年前の「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」に端を発しています。

両事件の概要は以下の通りです。(前回の記事の内容に一部付け加えた事項もあります。)




1609年
 〈ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件〉

      長崎に入港したポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号のカピタンモ-ルであるアンド    
      レ・ペッソアと長崎奉行長谷川左兵衛との間に、争いが生じた。
      
      この時、前年自分の朱印船がマカオでトラブルを起こし、その処理に関してアンドレ・ペッソア            
      に恨みを抱いていた有馬晴信も奉行に加担、家康の承認を得て長崎湾で有馬軍がポルトガル船を
      ペッソアもろとも自爆させた。                          



1612年 〈岡本大八事件〉
      
      ポルトガル船攻撃の功績に対する恩賞として、以前、龍造寺氏に奪われた旧領が戻されるよう工 
      作するとの名目で、家康の補佐役本多正純の家臣岡本大八が有馬晴信から多額の賄賂を受け取っ
      ていたことが発覚した。

      さらに、取り調べの過程で大八が獄中から、晴信が長谷川左兵衛の謀殺を図ったと訴えたが、晴   
      信はこれに弁明できなかった。

      大八は処刑され、晴信も贈賄の罪を問われて、甲斐国へ追放、死罪となる。



「岡本大八事件」と「おたあジュリアの追放」




日本のキリシタン教会を決定的な壊滅状態に追い込んだと考えられている1613年1月の全国的なキリシタン禁教令発布の重要な契機として、この「岡本大八事件」と同時期の「おたあジュリアの追放」がよく挙げられます。

「おたあジュリア」というのは、江戸城大奥にいたひとりの女性です。
朝鮮の貴族の出で、「秀吉の朝鮮侵攻」の先鋒であった「キリシタン大名」小西行長の軍に捕えられ、日本に連れ帰られて「ジュリア」の洗礼名で受洗したと言われています。行長が関ケ原で敗れたため、江戸城に仕えることになったのでしょう。人望もあり、その影響をうける大奥女中も少なくなかったということです。

大奥での「おたあジュリア」の存在に気付いた家康は、ただちに棄教することを求めましたが、おたあは拒否し、初めは伊豆大島、最後は伊豆諸島の神津(こうづ)島に流され、そこで亡くなったと伝えられています。

そもそも、小西行長軍が連れてきたキリシタン女性が大奥に入ったということが意外です。どういう経緯があったのか知りたいところですが、その記録はないようです。

さらに、江戸幕府開府から10年近くが経ったこの時期まで、大奥の他の女中にも影響を及ぼすようなキリシタン女性がお膝元に残っていたということも私には意外です。ただ、行長の妻ジェスタが家康の赦免を得て助かったという話がありますので、その関係でおたあも家康の世話を受けるということになったのかも知れません。

家康は、「おたあの件」でキリスト教の幕府内部までの浸透ぶりを改めて知り衝撃を受けたと言われていますが、上に書きました事情や家康が非常に用心深かったはずであることなどから、「おたあ」の存在などは既に良く知っていたと考える方がむしろ自然ではないかと私は思います。

大坂の陣を控えたこの時期、家康が一番恐れたことはキリスト教勢力が豊臣勢と結びつくことだったでしょう。そのため、全国的な禁教令発布を検討し、既によく承知していた「おたあの件」からキリシタン潰(つぶ)しを始めたということだったのではないかと考えます。


晴信・大八の両名がキリシタンであることに家康が強い衝撃を受けたというのは本当か?


そう考えてみると、「岡本大八事件」で家康が、有馬晴信・岡本大八両名がキリシタンであることに強い衝撃を受けた、と言われていることも疑ってみる必要があるのではないかと思えてきました。

というのは、「キリシタン大名」有馬晴信がキリシタンであることは当然知られていることです。また、岡本大八がキリシタンであることは、事件の取り調べの過程で判明したことになっていますが、大八は本多正純に仕える前は長崎奉行 長谷川左兵衛藤広の家臣として長崎に駐在していたのです。

長崎奉行の家臣としての役目がら、ポルトガル人・ポルトガル船・宣教師・キリシタン信者と接触もあったでしょうし、キリシタン信者となる可能性は相当あった筈です。ところが、大八がキリシタンである可能性を、長谷川左兵衛も本多正純も全く考えなかったし、追求もしていないことになっているところがおかしいのです。

幕府としては、家康が有馬晴信・岡本大八両名がキリシタンであることを(初めて)知って強い衝撃を受けたことにする必要があったということではないでしょうか。そのためには、左兵衛も正純も大八がキリシタンであることは思いもかけなかったことにすることが必要です。

それを考えたとき、私は「岡本大八事件」は有馬晴信を陥れるための罠だったのではないかと思い始めました。


有馬晴信は本多正純に本当に贈賄を告白したのか?

事件の経緯を見ると、晴信がその後の工作の進展を大八の主家である正純に確認したことによって露見したということになっていますが、いくら多額の賄賂を贈ったからといっても、当時家康の側近的な存在である正純に直接、自分の贈賄の事実を告白するようなことを晴信がするでしょうか。

もし、晴信がそんなことをしたのであれば「バカ殿様」でしょう。

前回見てきたように、晴信は龍造氏を倒すためには、島津氏と内通しイエズス会も利用した策略家です。更に、島津氏と手を切って豊臣勢に加わり、関ケ原の戦では、今度は豊臣勢を裏切って同じ「キリシタン大名」小西行長を攻撃し生き残った海千山千の存在だったはずです。その晴信が、そんな間抜けなことをしたというのは不自然ではないでしょうか。


他にも、おかしいと感じさせるところが


1.晴信・大八両名対決の下での吟味で大八の非が明らかになり、すぐに大八が処刑されたようです。そして、処刑前に「晴信が長谷川左兵衛の謀殺を図った」という他の罪状を大八が獄中から訴え、それに晴信が弁明できなかったとして晴信に追放・死罪が下されたと言われています。

ということは、幕府は晴信に贈賄の罪を認めさせることが出来ず、大八の逆恨みの結果とも取れるような他の罪状を引き出し、やっと晴信を有罪に出来たということになります。

大八は「晴信が長谷川左兵衛の謀殺を図った」などとは言っていないかも知れませんし、もしそうだとしたら、いやにあっさりと、大八が処刑されてしまったことにも合点がいきます。



2.
前回の記事で書いたことですが、1609年、家康の指図により晴信は朝貢を促すために台湾へ出兵・渡海しましたが追い返されています。「岡本大八事件」はその3年後です。

そこで、思い出すのが長崎代官 村山等安が、1615年、幕府から台湾渡航を命じられたことです。
幕府の狙いは、等安一族の勢力削減にありました。その3年後の1618年、等安は長崎代官を罷免され、全財産を没収され、その翌年、斬首されました。

これは、村山等安に対しても、有馬晴信に対しても、幕府が幕府にとって邪魔な存在を消すために似たような手順を踏んだということなのではないでしょうか。



3.この時期、家康を補佐していた本多正信・正純親子に対し、秀忠を補佐していたのが大久保忠隣です。当事者の一方である岡本大八が本多正純の家臣であることから、「岡本大八事件」の取り調べは大久保忠隣の与力(家来)筋にあたる大久保長安によって行われました。

与力(家来)と言っても、大久保長安は家康によって金山・銀山奉行に登用され幕府に莫大な富をもたらし、幕府天領の惣代官にまで登りつめた人物です。

この大久保長安は、「岡本大八事件」の翌年1613年6月に病死したのですが、死後、生前に不正蓄財をしていたという理由で7人の男児全員が処刑され、金・銀山経営に関わる一族の膨大な資産が徹底的に剥奪されたと考えられています。これが、「大久保長安事件」です。

また、長安の寄親(主家)にあたる年寄筆頭職大久保忠隣も1614年1月、京都においてキリシタン取締り中に改易(士族の籍を除き、領地を没収)されてしまいます。

この「大久保長安事件」と「大久保忠隣改易」とはともに家康と本多正信・正純親子が企んだ謀略と考えられています。



以上を総合すると、「本当はこういうことだったのではないか」と


家康は予てから「キリシタン大名」有馬晴信の朱印船貿易家としての活動を注視し(実際に、家康は晴信の貿易家としての手腕を高く買っていたという話もある。)、抹殺の機会を狙っていた。(国内体制の安定と幕府の貿易の独占を実現するためには「キリシタン大名」抹殺は喫緊の課題だった。)


・有馬晴信の朱印船がマカオでトラブルを起こした際のカピタン・モ-ルであるアンドレ・ペッソアの船が長崎に来航したとの情報を得て、有馬軍がポルトガル船を攻撃せざるを得ないように仕向けた。
 
   
   晴信は、確かに前年のマカオでのトラブルの処置についてアンドレ・ペッソアに対し怨恨を抱いてはい
   たが、「キリシタン大名」としての立場と今後の朱印船貿易の展開を考慮すれば、武力行使には慎重だ
   った。

   そこで、家康・正純は奉行長谷川左兵衛に取引のことでペッソアと争わせ、有馬晴信が長谷川を支援せ 
   ざるを得なくする(つまり、ペッソアを敵視せざるを得なくする)一方、晴信に対し左兵衛との競争心をあおった。
   (実際に二人は、家康への伽羅木の納入のことで争う。)


長谷川左兵衛の与力(家来)岡本大八を諜報係として使い、晴信・左兵衛の動静を正純へ逐一報告させ、晴信・左兵衛を監視するとともに、ポルトガル船攻撃をけしかけさせた。

同時に、晴信に対し競争相手左兵衛への敵愾心をあおり、悪口雑言を吐かせる。大八が聴いたとする晴信の腹立ち紛れの暴言は、後に「晴信が左兵衛の謀殺を図った」という罪状の根拠として利用される。

大八を諜報係として充分機能させるため、キリシタンとなるよう本多正純が仕向けた可能性もある。


・ポルトガル船自爆後、岡本大八は本多正純に召し抱えられ、大八は「旧領取戻し工作」を晴信へ持ちかける。これは、全て正純の指示によるもので、事件が明るみに出た際には、大八は無罪とするよう約束されていた。(実際は、捕縛・詮議後、直ちに処刑され釈明の機会もなかった。)


ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件の当初、家康・正純は、晴信に対しポルトガル船攻撃を命じたが、実は有馬軍の攻撃が成功するとは予想していなかった。むしろ、有馬軍の攻撃が奏功せず幕府の指示を遂行できなかったとして、晴信を処罰しその勢力を削減する機会となることを期待していた。

ところが、ポルトガル船が自爆してしまったためにその機会は失われたばかりか、晴信の功績に報いる必要が生じてしまった。そのために、その後かなりの時間と手間を要することとなったが、結局、「岡本大八事件」という形で「晴信抹殺」という課題に決着をつけたことになる。



私が有馬晴信という人物の印象を薄く感じたり、彼が武将として欠落しているところがあったのではなどと考えたのは、晴信が正純に旧領返還の件の進捗について尋ねたことで事件が発覚したとされているからです。

今回想定したように、晴信が正純に工作進捗について尋ねてなどおらず、初めから家康・正純によって全てが図られ大八すらも騙されていたのだとしたら晴信に対する印象も変わってきます。また、家康にとってそれほど排除したい存在であったと考えることも出来ます。


有馬晴信を、優れた政治家・事業家ではあったけれど、歴史の奔流に巻き込まれ消えていかざるを得なかった人物と見ることもできるような気がします。



〈つづく〉


〈参考文献〉

キリシタンの世紀 ザビエル来日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著 岩波書店
徳川初期キリシタン史研究            五野井隆史著 吉川弘文館
逆説の日本史 13近世展開編 江戸文化と鎖国の謎 井沢元彦著 小学館
大久保長安 家康を支えた経済参謀         斎藤吉見著 PHP文庫














       




 




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by GFauree | 2015-06-20 11:01 | 有馬晴信 | Comments(0)





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                                    (撮影 迎田恒成氏)



前回の記事で採り上げた小説「出星前夜」の中に、「『島原の乱』は(肥前・日野江藩初代藩主)有馬晴信が領地没収の上、甲斐へ追放処分された1612年の『岡本大八事件』、に端を発している。」という趣旨が書かれている所があります。

私はそれを読んで、『島原の乱』の根が『岡本大八事件』にあることに、今更ながら「そうだったのか」と納得する思いがしました。『岡本大八事件』は、1614年の全国的なキリシタン禁教令の直接的な契機になったとされている出来事です。

そして、改めて見直してみると有馬晴信という人物がこの時代の実に様々なキリシタン関係の事件に関わっていることにも気付きました。それ故に、晴信こそ代表的な「キリシタン大名」と呼ばれるにふさわしい存在なのでは、とも考えました。

ところが、有馬晴信という人物のイメ-ジがどうも浮かんできません。
安直な方法ですが、インタ-ネットで肖像画を探してみましたが見つけることは、出来ませんでした。
これだけ、著名な歴史上の人物なのに、なぜでしょうか。


それを考えるために、有馬晴信の生涯を辿り、彼が関係した様々な事件を書きだしてみることにしました。


〈有馬晴信の生涯〉



1567年
 長崎・茂木をイエズス会に寄進した大村純忠の兄・有馬義貞の次男として生まれる。
      1570年に父親・義貞から家督を譲られた兄・義純が翌年に早世したため、4歳で家督を継承した。

1580年
 洗礼を受けドン・プロタジオと名乗る。
      
      イエズス会によって有馬・日野江城下に建てられたセミナリオ(聖職者養成機関)のために敷地を与える。
      (地所・建物は既存の神社仏閣を取り壊したもの。)
      
      この頃、圧迫を受けていた龍造寺氏に対抗するために、イエズス会から資金・弾薬・糧食の提供を受ける。

1582年 大友宗麟、大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣したとされる。
      (実際、派遣はイエズス会が企画・実行したもので、3人の大名は、無断で名前を使われたと考えられる。)

1584年 島津義久と内通し、沖田畷(おきたなわて)の戦いで、龍造寺隆信を滅ぼす。

1587年 秀吉の九州征伐において、島津氏と縁を切り豊臣勢に加わる。

1600年 関ケ原の戦で、西軍から東軍に寝返り、同じ「キリシタン大名」小西行長の居城を攻撃、その功
      績で旧領を安堵される。
  
1603年 征夷大将軍となった家康から、朱印状を得、現在のカンボジャ、ベトナム、タイなどを舞台とし
      た朱印船貿易を展開する。

1609年 家康の命により、台湾へ朝貢を促すために出兵・渡海したが、追い返される。

1609年 〈ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件〉

      長崎に入港したポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号のカピタンモ-ルであるアンド    
      レ・ペッソアと長崎奉行長谷川左兵衛との間に、争いが生じた。
      
      この時、前年自分の朱印船がマカオでトラブルを起こし、その処理に関してペッソアに恨みを抱     
      いていた有馬晴信も奉行に加担、家康の承認を得て有馬軍がポルトガル船を攻撃し、長崎湾で自
      爆させた。


1612年
 〈岡本大八事件〉
      
      ポルトガル船攻撃の功績に対する恩賞として、以前、龍造寺氏に奪われた旧領が戻されるよう工 
      作するとの名目で、家康の補佐役本多正純の家臣岡本大八が有馬晴信から多額の賄賂を受け取っ
      ていたことが発覚した。

      大八は処刑され、晴信も贈賄の罪を問われて、甲斐国へ追放、死罪となる。



〈有馬晴信の生涯について考えること〉




1.
晴信がセミナリオのために、自分の城下の土地を提供したという話は、「キリシタン大名」として教会に対し如何に協力的であったかを示すものとして語られています。

けれども、こうして同時期の出来事とともに並べてみると、それが、イエズス会からの資金・弾薬・糧食などの物質的支援の代償として当然の協力であったとも考えることが出来ます。



2.
また、セミナリオや住院などの建築に、取り壊された寺社・仏閣の資材が使われたことには、「偶像崇拝撲滅」と称して仏像の廃棄や寺社仏閣の破壊が宣教師たちから要請・奨励され、それを有馬氏が容認したり、同調したという背景があります。なにしろ、当時のカトリックにとって、どこの国の宗教であろうと、キリスト教以外の宗教は全て、撲滅すべき「偶像崇拝」なのですから、宣教師の要請は実に確信に満ちたものであったことでしょう。



ただし、これらの時点では、晴信はまだ13~4歳であり、実際にはそれぞれの決定や指示は、有馬一族または家臣団によってなされたと考えるべきでしょう。ただ、晴信がそういう環境の中で育ったとは言えると思います。


いずれにしても、ポルトガル船貿易や対立する諸侯との戦(いくさ)にむけて資金・弾薬・糧食提供などの経済的・物質的利益を受け、上層・支配階級から民衆(上から下)へという当時のイエズス会の布教方式を受け入れて自らが洗礼を受け、寺社・仏閣の破壊を容認または推進したという意味で、有馬晴信が典型的な「キリシタン大名」であったということに間違いはないようです。



3.
1584年以降、島津と内通し龍造寺を滅ぼしたり、その島津と手を切って豊臣勢に加わり、関ケ原の戦ではその豊臣勢を裏切り「キリシタン大名」仲間であった小西行長をすら攻撃するあたりから、「なんでもあり」の戦国大名の中でも特に強かな曲者(したたかなくせもの)ぶりを発揮していったもの、と思われます。



4.
1603年、幕府から朱印状を得て朱印船貿易を展開しますが、朱印船貿易というのは膨大な資本を必要とする事業です。その資本としては、口之津港が有明海の海上交通の要衝にあることから、有馬氏が古くから現在のベトナム・カンボジャ・タイなどを舞台とする貿易に乗り出していて、既に蓄積していたものが相当あったことが考えられます。

晴信は、この豊富な資本を縦横に駆使することで有能な朱印船貿易家として家康に強い印象を与え、初期の幕藩体制のなかに地位を築きつつあったという見方もあります。



5.長崎湾で有馬軍の攻撃によってポルトガル船が爆発・炎上した「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」ほど、キリシタン教会に様々な打撃を与えた出来事は無かったのではないかと思われます。


その打撃の内容を挙げてみると、


(1)「キリシタン大名」がポルトガル船に攻撃を加えたことによって、従来、少なくとも建前上は一枚岩となってキリシタン教会を支えていることになっていた「ポルトガル商人・イエズス会・キリシタン大名」勢力の分裂が露呈した。


(2)沈没船には相当量のイエズス会の船荷が積載されており、それを喪失した結果、イエズス会は甚大な損害を蒙り、従来から窮迫していた財務状況はさらに悪化し大幅な負債を負うことになった。


(3)この船には、マカオのポルトガル人商人から日本で銀に替えるよう委託された金が積まれていて、日本に到着した時点で金から銀に交換された。

(日本での金⇒銀の交換率は、マカオでのそれに比べて金に有利であったため、マカオから金を持って来て、銀に替えマカオに持ち帰るという取引が一般に行われ、イエズス会もそれに関わり、それが収益機会になっていた。)

ところが、日本側のイエズス会士は、マカオに送り返すべき銀を船に積み込まず、マカオのイエズス会に同額の銀を委託者に渡すよう指図するつもりであった。

結果的に船は沈み、マカオの委託者は銀の支払いを求め、イエズス会側は「海損(航海中の事故によって受けた、船荷などの損害)は委託者の負担とする」との慣行をたてに支払いを拒んだ。イエズス会側の主張は理論的には一応筋が通っているが、対価である金は受け取っているのだから、銀の支払いをしなければ「ただどり」である。それでも、イエズス会側は譲らず争論は10年以上に及んだと言う。

いずれにしても、これによって、マカオのポルトガル人のイエズス会に対する不信感が一挙に増大したと考えられる。


(4)イエズス会内のヨーロッパ人会士と日本人会士との分裂が顕在化したこと。

「日本人の修道士はペッソア司令官が逮捕されるように教会へ祈りに行く始末で、爆発が起きたためにその大船が沈没すると、ヨ-ロッパ人は嘆き悲しんだが、日本人は喜びに湧き立った。」
(「通辞ロドリゲス」マイケル・ク-パ-著)

これは、素直な感情表現の記録の少ない日本人イエズス会士に関して珍しい記述です。この記述の根拠は不明ですが、マイケル・ク-パ-はイエズス会士ですから、イエズス会にとって不都合なこの記述内容は信頼できると思われます。何よりも、日本人会士の態度がやけに朗らかで読む者の笑いを誘います。


(5)そして、この事件によって1614年の全国的な禁教令発布の決定的な契機となったと言われる『岡本大八事件』が、1612年に惹き起こされたこと。

ただ、『岡本大八事件』は有馬晴信と家康の補佐役本多正純の家臣岡本大八との間の贈収賄事件として内容が一見とても明白なものの様に見えますが、それだけにかえって何やら疑わしい点も何点かありますので、次回それだけを採り上げてみたいと思っています。


〈むすび〉


有馬晴信が関わった様々な出来事から、晴信の人物像を掴もうとしたのですが、その過程で彼の性格の一端のようなものは浮かび上がってきました。
それは、
典型的な「キリシタン大名」
なんでもありの戦国大名のなかでも特にしたたかなくせ者
・有能な朱印船貿易家
ここから、強大な権威には従順だけれど、常に優位に立つことを狙って行動する、並はずれて有能なスケ-ルの大きい事業家を私はイメ-ジしますが、どうでしょうか。

それにしても、彼の人物像を示す逸話などがほとんどないのは何故なのか不思議です。この一連の出来事を見直しながら、その理由を考え続けていました。そして、二つの理由らしいものに思い当たりました。

一つは、江戸時代、キリシタン禁制の中で、彼に関する記録は後世にも決して修復しえないほど徹底的に抹消されてしまったのではないか、ということ。それくらい、有馬晴信は警戒すべき人物だったということかも知れません。


もう一つは、明治以降、キリシタン禁制が解除された後には、現世利益(げんせいりやく)というよりもっと直接的な経済的・物質的利益を狙いとした改宗や「上から」の布教や寺社・仏閣の破壊など「キリシタン大名」が抱えていた問題性が明らかになり、「キリシタン大名」を擁護しようとすれば大名個人の人間性には触れず、その信仰をひたすら美化する傾向が強くなってしまったためではないか、ということです。


先に書きましたように、有馬晴信が死罪に追い込まれた「岡本大八事件」について、私はどうもおかしいなと感ずることがいくつかありますので、次回、それについてお話します。

〈つづく〉



(参考文献)

キリシタンの世紀      高瀬弘一郎著           岩波書店
日本巡察記-ヴァリニャ-ノ 松田毅一他訳           東洋文庫
通辞ロドリゲス       マイケル・ク-パ-著 松本たま訳 原書房
イエズス会と日本 二    大航海時代叢書          岩波書店
銃と十字架         遠藤周作著            新潮社








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by GFauree | 2015-06-08 09:49 | 有馬晴信 | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。