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                               日本巡察記-東洋文庫 平凡社より



3.「対話録」の内容について考えたこと



前回、ヴァリニャ-ノ著「日本使節の見聞対話録」の日本語訳「天正遣欧使節記」から、千々石ミゲルが語ったとされている対話内容のうち特徴的と思われるものを抜粋しました。


見事なまでの、ヨ-ロッパ・キリスト教社会への一方的な礼賛、非ヨ-ロッパ人・非ヨ-ロッパ社会への偏見・差別・蔑視,非ヨ-ロッパ文化に対する無理解、解決困難な問題についての責任回避の言辞でした。


「何故、このような内容を、ヴァリア-ノは千々石ミゲルに語らせたのだろうか」それが私の疑問でした。


そして、気が付いたことは、それらはヴァリニャ-ノにとって、「対話録」の中でどうしてもミゲルに語らせたい語らせなければならない事柄であったのだ、ということです。


さらに、そういう観点から「対話録」の中のミゲルの発言を見直すことによって、それをミゲルに言わせたヴァリニャ-ノが「日本や日本人に対して、本当は何を考えていたのか」、つまり彼の内心を突き止めてみようと思いました。



(1)ヨ-ロッパの理想化



「ヨーロッパは、叛乱も戦争もない理想郷だ」とミゲルに語らせていることについて、「なんと事実からかけ離れたことを・・・」と感じて不快感すら催したのは私だけではないでしょう。

実際、16世紀のヨ-ロッパには、ハプスブルグ家(神聖ロ-マ帝国・スペイン)とヴァロア家(フランス)がイタリアを巡って争ったイタリア戦争(1521~1559)やフランスのカトリックとプロテスタントが40年近く争ったユグノ-戦争(1562~1598)など数多くの戦いがあり、「叛乱も戦争もない理想郷だ」などとはとても言えない状況であったことは今なら簡単に分ることです。

それでは、たとえ当時の日本人がそれが事実でないことが分らなかったからと言っても、なぜヴァリニャ-ノはそんな事実からかけ離れたことをミゲルに語らせたのでしょうか。

それは、それを語らせる必要があったからです


というのは、「ヨ-ロッパが叛乱も戦争もない理想郷だ」ということが、当時のキリシタンの教えを支える大事な要素だったのです。


禅僧からキリシタンへ改宗し、イエズス会の理論的主柱として活躍しながら、後に棄教した不干斎ハビアンという人物がいます。このハビアンが著した『妙貞問答』というキリシタン伝道書のなかに、以下のくだりがあります。

「・・・、キリシタンノ国ナドニハ、千年ニアマッテ此方(このかた)、兵乱と云う(いう)ヤウナル事モナク謀叛心ナドト申事(もうすこと)ハ、マレニモ有(ある)事ナシト申(もうさ)レサフラフ(さぶらう)ヲ聞侍(ききはべる)。・・・」


キリスト教が受け容れられた時期、戦国末期、は“粗暴な個人主義と物質主義”が横行した時代であり、この状態に耐えられなくなった人びとが何らかの社会秩序の基本になる宗教、いわば確固たる「統治神学」を求めても不思議ではない。(山本七平 日本人とは何か。17章 キリシタン思想の影響 祥伝社)

キリシタン教会は、そういう確固たる「統治神学」を求める人びとの要求を満たすことで教勢(教会勢力)拡大をはかろうとしていた面があるのです。そのためには、「キリスト教社会であるヨ-ロッパは叛乱も戦争もない理想郷だ」ということにする必要がありました。そして、教勢拡大の大義のまえにあっては、多少の歪曲もかまわないと考えたのでしょう。


ただし、山本七平氏が述べているように、日本の歴史上、他国の実情について事実と異なることが伝えられたのは、キリシタン教会の例に限りません。日本にとって新しい社会思想というものはこういう事実を歪曲化した宣伝とセットで入ってくるようです。それは、つい最近まで我々が社会主義・共産主義について経験させられていたことです。



(2)風俗・習慣・文化までヨーロッパが最も勝れていると強調していることについて



実は、この点についてヴァリニャ-ノは誇り高い西欧人として耐えがたい屈辱感を味わう経験をしているのです。それは、ヨ-ロッパ人宣教師たちが、日本の礼法に通じないために、日本人から軽蔑されていることを彼が知った時のことです。


ある大名に、「異なった風習の中で育ったのだから、外国人宣教師が日本の礼法を知らないのも止むを得ないと考えて欲しい」と申し入れたところ、無残にやり込められてしまったのです。

ポルトガル船貿易の恩恵を与え、他領主との戦いのために資金・武器・弾薬・糧食まで提供している相手だからと、高を括っていたのかも知れません。

領主自ら受洗することで集団改宗実現に協力し、“偶像崇拝撲滅”の名のもとに奨励した神社・仏閣の破壊に素直に従ってくれたことで気を許していた面もあったのでしょう。


回答は次のようなものでした。

『我らの国(日本)に住んでいるヨーロッパ人司祭たちが、日本人の美しい習慣や高尚な態度を、学ぶようほとんど努力せぬことは、まったく無知なことと思われる。』
(日本巡察記 ヴァリニャ-ノ著 東洋文庫)

『日本の風習を覚えられないほど、あなた方に知力と能力が欠けているのであれば、日本人はそれほど無能なあなた方の教えを受けるべきでない、と考える。』
(天正遣欧使節 松田毅一著 講談社学術文庫)



結果的に、ヴァリニャ-ノは日本の風習への順応主義を打ち出さざるを得なくなりました。もちろん、日本の風俗習慣が優れたものと考えたわけではなく、西欧の風習が人類の千差万別の風習の中で、最も高度な洗練されたものであるとの認識は変わらなかったのです。ただ、布教政策上、日本人に一歩譲るのが得策だから、そうしたまでのことだったのでしょう。


そして、いつか日本人にヨ-ロッパの世界が如何に世界に冠たるものであるかを分らせてやろう、と心に決めたのでしょう。その表れが「遣欧使節派遣」であり、「使節対話録」はその意義を知らしめる貴重な機会でした。ヴァリニャ-ノは、当然、その機会に自分の思いのたけをぶちまけたのだろうと考えられます。




(2)アフリカ・アメリカの先住民に対する侮蔑的・差別的見方について



1583年に執筆した「日本諸事要録」、第一章 (日本の風習、性格、その他の記述)の中で、ヴァリニャ-ノは以下の通り記述しています。


「人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨ-ロッパ人より優れている。


国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をすべてよく学びとり、ヨ-ロッパの子供達よりも、はるかに容易に、かつ短期間に我等の言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我等ヨ-ロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。」


これと、前回抜粋したアフリカ・アメリカ先住民に関する言辞とを比較して頂きたいと思います。

それにしても、この違いは、どこからくるのでしょうか。


イエズス会はアフリカでは1560年頃から、(南)アメリカでは、ザビエルの日本到着と同年の1549年にブラジルへ到着し布教を開始しています。従って、この「対話録」を書いた1590年頃、ヴァリニャ-ノは同じイエズス会士がアフリカや(南)アメリカで布教に奮闘していたことを知っていた筈です。彼は一体何を考えていたのでしょう。


彼等の中に、非ヨ-ロッパ社会にたいする「格付け」のようなものもありましたから、「日本には非ヨ-ロッパ社会のなかで、これだけ高い『格付け』を与えているのだから満足しなさい」という考えがあり、それを伝えておきたかったということかなとも思います。


また、「対話録」のなかに書かれている先天的奴隷人説を唱えた「あるヨ-ロッパの哲学者」というのはアリストテレスのことですが、その説を根拠としてインディオ奴隷化が主張されたり、「インディオは人間か否か」ということが大真面目で議論されたりし始めたのは、この「対話録」が書かれるほんの数十年前のことです。
(新世界のユ-トピア 増田義郎著 中公文庫)


そう考えると、今の私たちには、偏見・蔑視・差別と見えても、ヴァリニャ-ノにとっては疑問を感ずる余地のない当然の考え方だったのではないかとも思えてきます。



(3)世界に散在する日本人奴隷について



世界に散在する日本人奴隷について、千々石ミゲルは「対話録」のなかで、「この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。」と言わされていますが、ことはそれほど単純ではありません。


岡本良知著「十六世紀 日欧交通史の研究」によると、日本人奴隷については以下のような経緯があります。


1570年 ポルトガル国王が日本人奴隷取引禁止の勅令を布告しています。

これは、1567年以前に、平戸・横瀬浦・福田経由、日本人が輸出されていたことに対し、布教に支障をきたすとしてイエズス会がこれを抑止するようポルトガル国王へ働きかけたものと考えられます。

ところが、その後約30年間、その勅令は、実施・履行されなかったと言われています。

その理由として、

1.ポルトガル人にとって、事業を展開するために、日本人奴隷が必要だったこと。
2.戦乱の頻発等の日本国内の社会の窮状により、日本で子女を売る者が増加したこと。
3.イエズス会の考え方は、自己の布教事業を展開することに不都合であるというだけで、奴隷売買自体が社会倫理に反するという強固な考え方がなかったこと。

が挙げられています。



1587年、豊臣秀吉がこの問題をイエズス会に詰問した際、布教長ガスパル・コエリョの回答は,「日本側の諸領主に対し、禁止を勧告すべし。」というものでした。つまり、「奴隷を売る者(日本人)がいるから買う者(ポルトガル人)も出て来るのだから、日本人が奴隷を売ることを禁止すればよい」とコエリョは反論したのです。

常日頃、ポルトガル商人を管理・統制する立場と能力を誇示し、貿易取引にも介入しながら、いざ、ポルトガル商人の奴隷売買について管理責任を追及されると、途端に、「それはポルトガル商人と取引する日本の業者や領主たちの問題であるから、その日本人を取り締まれ」と回答することは、ポルトガル船貿易を取り巻く諸事情を考慮すると責任回避ととられても仕方ありません。

そのコエリョの回答を、「対話録」ではミゲルの口を通して蒸し返していることになります。


実際には、その後1596年のサン・フェリ-ペ号事件、翌年の二十六聖人殉教事件など、キリシタン教会を取り巻く状況が厳しさを増していったなかで、まず、1596年にドン・ペドロ・マルチンス司教によって「奴隷貿易者破門議決書」が出されましたが、その内容は今日残っていません。


さらに、「破門議決書」は、次の司教ルイス・デ・セルケイラ着任直後の1598年にも出されその中に、「(1587年に秀吉からの詰問があるまでは、)少年少女を買って国外に輸出するに際し、業者のためにその労務の契約に署名し、彼等のうちの或る者に署名させて認可を与えていた」旨が書かれています。


「対話録」が書かれた1590年の時点では明らかにされてはいませんでしたが、奴隷売買取引へのイエズス会の関与があったことは明らかであり、日本の領主たちを取り締まれなどと主張するまえに、自分たちとして先ずなすべきことがあったのです。


ヴァリニャ-ノがその実情をどのくらい承知していたかは分りませんが、実情が「ポルトガル人には、いささかの罪もない」などと言えるものではなかったことは確かです。




4.「対話録」と千々石ミゲルの離脱の関係


(1)「対話録の内容をミゲルは知っていたかどうか」ですが、
もちろん知る機会は充分あったと思います。

「対話録」は、マカオで1千部刊行されたとのことですが、当然日本へ持ち帰られたでしょう。
使節の随員であった日本人修道士ジョルジェ・デ・ロヨラ修道士がその邦訳をてがけていたとのことですが、その修道士はマカオで病死してしまい邦訳は進められなかったようです。

ミゲルのラテン語学力は、1593年3月の在日イエズス会名簿によれば、二級で、おなじ年配のかつての有馬セミナリオの同級生と同等もしくはそれ以下でしかなかったようですが、仮に自分で読めなくてもイエズス会の中に、それを読んで日本語訳をしてくれる人は、いくらでもいたでしょう。

もちろん、自分が言わば主役として書かれている本ですから、その内容を知りたかったに違いありません。ですから、遅くとも1593年7月に天草で2年間の修練を終えるまでには知っていただろうと思います。

そして、2年の修練期を終えイエズス会の修道士としての誓願は立てたものの、以下に書きます理由によって、その後比較的短期間のうちに会から離れたのではないかと思います。

従って、1601年に伊東マンショと中浦ジュリアンが、他の15名の修道士とともに司祭になるための教育をうけるべくマカオに派遣された際に、ミゲルが同行しなかったのは、既に退会していたためでしょう。


(2)「内容についてミゲルはどう 思ったか」
ですが、対話の内容は我々が見てきたとおり、冷静に考えれば疑問を持たざるを得ないものです。

特に、「ヨーロッパ社会に対する一方的な礼賛」や「日本人奴隷問題に関する記述」には反発を感じたのではないかと思います。


そもそも、「少年使節行」は、ヴァリニャ-ノが日本人に西欧世界を見聞させ、ヨ-ロッパ・キリスト教社会の偉大さ、卓越性を頭に叩き込み、日本人に証言させるために企てたものですが、逆の結果が生ずる危険もありました。派遣された人間が、ヴァリニャ-ノから見れば不都合な物を見て、望むようには考えてくれない危険です。


帰国時、ミゲルは21~2歳です。当時、その年齢であれば、大人としての判断力はもうあったと考えられます。ミゲルは、使節の中で最も出身・素性の明らかな人物ですから、使節となる前に既に然るべき教育を受けていたことも考えられます。


そういうミゲルですから、旅行中に見聞することも、それについて考えることも、他の少年と比べると自立したものがあったのでしょう。そのため、ヴァリニャ-ノもミゲルに関しては注意を払っていたし、そういう事情を反映させて、「対話録」の主人公もミゲルとしたのでは、と私は思います。



ミゲルの側にしてみれば、「対話録」での自分の発言は知れば知るほど、馬鹿げています。まるで、自分が猿回しの猿にされたような侮辱を感じたのではないでしょうか。


大村純忠・有馬晴信といえば、「ヨーロッパ人宣教師たちが、日本の風俗・習慣を習得できないのであれば、無知・無能であり、そんな人たちの指導を受けるいわれはない」とヴァリニャ-ノを厳しく叱責・非難した誇り高き「キリシタン大名」たちです。


ミゲルには、自分が影響力のある大名の近親者であるとの自覚も、また出自相応の誇りもあったでしょうから、自分に対するヴァリニャ-ノの仕打ちは、耐え難くまた甘受すべきでもないと考えたのだろうと私は思います。



(3)『妙貞問答』というキリシタン伝道書を書いた、不干斎ハビアン
は1608年に脱会し、棄教します。そして、晩年、『破堤宇子』(ハダイウス)というキリシタン批判書を著しています。


その一節に、千々石ミゲルの心情を表わすのではないかと思われる部分があります。


「慢心は諸悪の根源、謙遜は諸善の基礎であるから謙遜を専らとせよと、人には勧めるけれども、生まれつきの国の風習なのであろうか、彼ら(伴天連 バテレン)の高慢は天魔も及ぶことができない。この高慢のため他の門派の伴天連(バテレン)と勢力争いをして喧嘩口論に及ぶことは、俗人そこのけのありさまであって、見苦しいことはご推察のほかだとお考え下さい。」
(海老沢有道訳『南蛮寺興廃記・・・破堤宇子』)



(4)脱会後のミゲルについては、病弱であったとか、大村喜前や有馬晴信の家臣からも虐待され不遇のうちに亡くなったと言われることが多いようです。

私がいつも不思議に思うのは、キリスト教を排斥した日本の社会が、キリシタンを離脱した人たちを「転び者」などと呼んで蔑(さげす)み、不幸のうちに死んでいったとしたがることです。キリスト教が邪(よこしま)な教えを授ける邪教であると考えるなら、それを離脱した人々は幸せになったと考えるべきでしょう。

千々石ミゲルについても、悲惨さを強調するような末期が語られています。

病弱で貧困のうちに生涯を終えたかも知れないけれど、自分の信条に正直に生き満足して死んでいったと、私は考えたいと思っています。



私はこの記事を書くために、松田毅一著 「天正遣欧使節」講談社学術文庫に全面的に依存しています。殆ど丸写しにしているところもあります。それもこの話題について私なりにその本の内容を理解しお伝えしたかったためであることをご理解頂きたいと思います。


長々とお付き合い頂き有難うございました。



〈完〉



〈参考図書〉


天正遣欧使節                   松田毅一著 講談社学術文庫
日本巡察記                 ヴァリニャ-ノ著 松田毅一他訳 東洋文庫
日本人とは何か。                 山本七平著 祥伝社
不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者        釈徹宗著 新潮選書
新世界のユ-トピア スペイン・ルネッサンスの明暗 増田義郎著 中公文庫
十六世紀日欧交通史の研究             岡本良知著 六甲書房














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by GFauree | 2015-07-06 11:03 | 千々石ミゲル | Comments(0)


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1.「日本使節の見聞対話録」



千々石ミゲルの離脱のきっかけになったのではと私が考えるのは、1590年にマカオで印刷、刊行された「日本使節の見聞対話録」というラテン語で書かれた書物です。

アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが、ヨ-ロッパから戻ってきた使節たちとインドのゴアで再会した後、一行から見聞や体験を聴取して、旅先での記録を整理し、マカオ滞在中に編纂し、ドゥアルテ・デ・サンデ神父にラテン語に翻訳させたものとされています。

内容は、千々石ミゲルが、大村喜前の弟リノ、有馬晴信の弟レオという二人の従兄弟を相手に、帰国後に旅先での見聞を語る「対話録」になっています。

幸いに、この「対話録」は日本語に翻訳され、「デ・サンデ 天正遣欧使節記」(新異国叢書-雄松堂)という題名で、1969年に出版されていますので、私たちもその内容を覗くことが出来ます。
(七百ページを超える大部の本ですが、ある程度以上の規模の図書館には置かれていると思います。刺激的な内容のものですので、ご自分で目を通して頂く価値はあると思います。)

なぜ「幸いに」かと言いますと、この本は「対話録」の形式をとってはいますが、その内容には編纂者ヴァリニャ-ノの考えが色濃く反映されていると考えられるからです。

この時代、布教長フランシスコ・カブラルをはじめ、日本人や日本の風習を嫌悪すると公言して憚らないヨ-ロッパ人宣教師が少なくなかった中で、最も枢要な地位にあったヴァリニャ-ノ自身は、日本の風俗・習慣への順応主義を明確に打ち出し、日本人自身によるキリシタン教会発展に向けて終始奮闘したとされています。

けれども、ヴァリニャ-ノ自身が、内心どのような考えを持ち、特に、どのような世界観・日本観を持って上に書いたような活動を展開していたのかを示す資料は見あたりません。

そんな中で、この「対話録」は、「実際にその会話が交わされた根拠がない」という虚構性のために、歴史研究の資料としての価値には疑問が持たれていますが、話者である千々石ミゲルを通して、実はヴァリニャ-ノが日本人に伝えたかった自分の世界観・日本観などを遠慮会釈なく語っているために、そこから彼の本心を知ることができると考えられるのです。



2.「対話録」の内容



既に書きましたように、七百ペ-ジを超える大部であり、またそこに書かれた事柄が多岐にわたるため、要約することがかなり難しいので、その内容をお伝えするために、特徴的だと思われる項目ごとに書かれていることをそのまま抜粋しました。


以下、全て千々石ミゲルが語ったものとして書かれています。


(1)ヨ-ロッパについて


p.145 「しかもこの叛乱ということが、ヨ-ロッパの人々の心にとって実に縁遠いものなのだ。」

p.146 「王の下にいる他の権家(貴族)・大名たちは、たがいに戦争することは決してない
      「だから、たがいに確実な平和と安静のうちに生活し戦争や不和は乗ずる余地がない。」

p.615 「ヨ-ロッパの富強の原因は、ヨ-ロッパが平和と静寂のうちに生活を送っていることにあ  
       ると思う。」

p.686 「万事を公平に見渡し、そして公平な秤にかけて考えてみれば、やはりヨ-ロッパが世界の
       あらゆる部分の中でもっとも勝れたものであって、神はその御手に溢れるばかりにもっと
       もよきものを多量に盛ってヨ-ロッパにこれを与え給い、積み上げ給うたのだとの判断を   
       率直に認めざるを得ない。」
      「だからヨ-ロッパはその気候、諸民族の才能、勤勉、高貴さ、生活と統治の方法、多岐に
       わたる学芸において、他のあらゆる地方に勝れているのだ。」

p.687 「何しろ、〇〇〇〇〇〇〇の土着民は、その境域から一歩でも踏み出したことはいまだかつ
       て一度もなく、その才能、勤勉、勇気の見本を示したこともないのだから、かれらはほと
       んどあらゆる教養に欠けていると信じて差し支えなく、これに反して他方ヨ-ロッパの
       人々は全世界に彼らの名声を轟かし、その功業をもって世界を満たしている。」


(2)ある種族の人々について


p.75  「あたかも俯いてひたすら口腹の慾に従うように自然がつくった畜生のごとく、大部分は自
       己の欲望と罪とに耽り、何の修業も、何の洗練された感覚もなく生活している
       だからあるヨ-ロッパの哲学者がかの種族こそ奴隷になるために生まれてきたのだといっ
       たのは、確かに当たっている。」


(3)アフリカについて
 


p.686 「その住民はたいてい色は黒く、あらゆる人間文化から遠ざかった野蛮・獰猛な人間ども 
       ある。」


(4)(南北)アメリカについて 
   


p.690 「さてここにみえるのが、アメリカであって、広いことはもっとも広いが、そこには色の
       どす黒いきわめて下等な人種が多数に住み、その全部が、少数のヨ-ロッパ人に打ち従え
       られて、ヨ-ロッパ人の権力の下に生活し、ヨ-ロッパ人を自分たちに対する当然の支配
       者のごとく考えているぐらいだ。」


(5)日本について



p.615 「日本では全国を通じて不断に戦争が行われ、したがってその災禍と害毒は全国を覆ってい
       るために、畠に種を蒔くことも収穫を集めることも、むしろ不可能に近く、全国至る所
       、戦乱が都市と田畑をわがもの顔に荒すことになっている。」

p.188 (日本の舞踊について)
      
      「その一つはわが国の人々の間で舞踊する者は、たいてい、死んでしまったどこかの女が髪
       を振り乱し、悲しげな面持をした陰惨な仮面をかぶるとか、同様に人体からすでに抜け出
       た魂を表わす仮面を装うとかして人の前に出るが、これは舞踊にふさわしい快感や陽気さ  
       よりも、むしろ悲痛な哀愁を生ずるもののように思われる。
       
       このために、日本の舞踊はヨ-ロッパ人にとっては賑やかで面白いものというよりは、
       むしろ何だか騒々しく混乱した叫び合いとしか思われないようだ。」


(6)世界各地に散在する日本人奴隷について


p.232 「日本人には慾心と金銭への執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをし
       て、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨ-ロッパ人はみ
       な、不思議におもっているのである

       そのうえ、われわれとしても、このたびの旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日
       本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語を同じうする同国人をさな 
       がら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え
       立たざるを得なかった。」

       「ポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、彼らにキリスト教の
        教条を教え込んでもくれるからだ。」

       (この件で、ポルトガル人やイエズス会の責任を追及する日本人がいることについて)
      
       「いや、この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。」




以上書かれている内容は、ヨ-ロッパ・キリスト教社会への一方的な礼賛、非ヨ-ロッパ人・非ヨ-ロッパ社会への偏見・差別・蔑視、非ヨ-ロッパ文化に対する無理解、解決困難な問題についての責任回避です。


次回、この「対話録」の内容と千々石ミゲルの離脱について私の考えるところをお伝えしたいと思います。


〈つづく〉


        

      
      







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by GFauree | 2015-07-03 09:12 | 千々石ミゲル | Comments(0)

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(撮影 迎田恒成氏)               





「天正遣欧使節」は、禁教・迫害・殉教といった暗く重いイメ-ジのキリシタン関係の出来事の中で、珍しく明るい印象を与えてきた話題ではないかと思います。


私自身はというと、少年たちが自力でヨ-ロッパに行って国王やロ-マ法王に会ったりできるわけがないし、その時代の九州の大名たちにそれを手配する能力があったとも思えず、そもそもその旅自体がそれほど意義のあることだとは思えないまま、それ以上「天正遣欧使節」について考えることはありませんでした。


そんな私ですが、その後、以下に書くような「使節派遣」の真相に関わる事柄を知るに及んで、やっとそれが現実に起きた出来事であると感じられるようになってきたように思います。



〈「使節派遣」の真相に関わる事柄〉



1.ひとつは、この「使節派遣」が飽くまでイエズス会の東インド巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノによって企画されたものだったということ。

また、ヴァリニャ-ノの狙いは、日本でのイエズス会の布教の成功をヨーロッパ・キリスト教世界に誇示し、日本の教会への支援を要請し、併せて将来日本のキリシタン教会の指導者となるべき日本人自身にヨ-ロッパ・キリスト教世界を見聞させその素晴らしさを心底から理解させ、またそれを日本人に伝えさせること、であったと考えられること。


2、第二に、同じイエズス会の司祭ペドゥロ・ラモンが、
次の内容を総会長宛てに内部告発的に報告していること。

・「大友宗麟の名代として派遣されたとされる主席使節 伊東マンショは宗麟の甥でも何でもなく、遠い親戚に過ぎないこと。
・宗麟が『何のために、あの子供たちをポルトガルへ遣るのか』と自分に尋ねたこと。
・他の少年たちも、身分の低い貴族、貧しい殿の子息たちであること。


3.第三に、使節がヨ-ロッパに携行した日本文の書状(ローマ・イエズス会文書館や京都大学に現存する)は、長崎でヴァリニャ-ノが日本人に書かせたものであって、大友・大村・有馬三侯のものとは言えないものであること。







さて、このところ有馬晴信に関わってきたためか、4人の使節のなかでは、千々石ミゲルに親近感を感ずるようになっています。

千々石ミゲルは、有馬晴信(鎮貴)の従兄弟(いとこ)であり、大村純忠の甥(おい)にあたります。
(晴信の父有馬義貞と大村純忠、それにミゲルの父千々石直員(なおかず)とは兄弟ですが、純忠、直員は、大村家、千々石家の養子となったため、それぞれの苗字を名乗っているのです。)


伊東マンショが宗麟の「妹の娘の夫の妹の子」という遠縁に過ぎなかったのに対し、千々石ミゲルは有馬晴信・大村純忠という「キリシタン大名」の近親者であったのですから、上に述べたラモンの内部告発も必ずしも正確ではなかったということです。


四人の使節の中で、原マルチノと中浦ジュリアンが「副使」の位置付けであったのに対し、千々石ミゲルは伊東マンショと並んで「正使」の地位を与えられていました


ところが、その千々石ミゲルだけが帰国の数年後、イエズス会を離脱しているのです。
離脱の理由は明らかにされていません。イエズス会の内部の個々の会員に関する情報は公開されていないので、彼に関してどのような評価や報告が組織内でなされていたかも不明だそうです。


繊細だったとか病弱だったからという説はありますが、それは決め手にはならないような気がしました。そうするうちに、使節一行が帰国したときに刊行されている書物の中に、彼の離脱に関係あるのではと思われるものがあることに気が付きました。


別に証拠とかがあるという話ではないのですが、その書物の内容は彼の離脱のきっかけに充分成り得たものだと私には思えます。


まずは、四人の使節とアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの帰国後の足跡を辿ったうえで、その書物については、次回、書かせて頂きます。



〈「少年使節」帰国後の足跡〉


1590年 7月 
ヴァリニャ-ノら使節一行、長崎へ帰着。
         (ペル-からマカオに来たスペイン人商人フアン・デ・ソリスも、
          この時、使節一行とともに、長崎に到着しています。)

1591年 3月 ヴァリニャ-ノら使節一行、京都・聚楽第で関白秀吉に謁見。 
      7月 天草・イエズス会修練院において、四名揃ってイエズス会員に採用され、修道士となる。
         (伊東マンショ・千々石ミゲルの母は激しくこれに反対したとされている。)

1592年10月 ヴァリニャ-ノ長崎を出港、以降マカオに駐留し中国の伝道に専念。
         語学・哲学・神学を修めるコレジオをマカオに新たに設置。

1593年 7月 四名とも、天草にて2カ年の修練期を終える。イエズス会修道士として誓願をたてる。

1595年 3月 ヴァリニャ-ノ、インド・ゴアに戻る。

1598年 8月 ヴァリニャ-ノ、日本巡察師を命ぜられ、長崎へ到着。

1601年    司祭として養成されるべく、17名の修道士がマカオに派遣される。
         (伊東マンショと中浦ジュリアンは含まれ、千々石ミゲルと原マルチノは含まれず。)

1603年    ヴァリニャ-ノ、離日。

1604年    伊東マンショ・中浦ジュリアン、長崎に戻る。

1605年末   スペイン人ドミニコ会司祭2名が、千々石清左衛門(ミゲル)に逢う。
         ミゲルは、還俗し大村喜前侯に召し抱えられ、清左衛門と称し妻を娶っていた。
         
虚弱体質であった彼は殆ど手足が麻痺していたという。

1606年    ヴァリニャ-ノ、マカオにて病死。(六十六歳)
   
         大村喜前、領内からバテレンを追放し、自らは法華宗に改宗。千々石清左衛門は棄教。

1608年    伊東マンショ・原マルチノ・中浦ジュリアン、司祭に叙階さる。

1612年    伊東マンショ、長崎で病没。(四十三歳)

1614年以前に書かれた「アフォンソ・デ・ルセ-ナ(イエズス会司祭)の回想録」によると
         
         千々石ミゲルは、大村喜前から度々殺されそうになり、従兄弟の有馬晴信のもとに身を寄 
         せた。有馬の家臣から瀕死の重傷を負わされることもあり、結局、有馬からも追放され
         噂によれば、異教徒として長崎に住んでいる。

1629年    原マルチノ、マカオにて病死。(六十歳)
 
1630年    中浦ジュリアン、長崎にて殉教。
         (この時、同時に拷問を受け棄教したのがクリストバン・フェレイラである。)



〈つづく〉



   
         







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by GFauree | 2015-06-29 13:22 | 千々石ミゲル | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。