【大航海時代のおと】

iwahanjiro.exblog.jp

カテゴリ:ザビエルとト-レス( 6 )

ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その6]

a0326062_13292377.jpg
                                  トーレスの故郷バレンシアの司教座大聖堂


前回、[その5]では、モルッカ諸島で出遭ってから日本で共に行動していた間、ト-レスの眼に映ったであろうザビエルの姿を想い浮かべてみました。

それは、以下のようなものでした。
繰り返しになりますが、整理のためにもう一度挙げてみます。


〈ト-レスの眼に映ったザビエルの姿〉


・まるで、現代企業における有能かつ模範的な「新規市場開拓推進責任者」

・海外布教活動が、カトリック教会(修道会)と王室権力とが「教俗一体」体制で進める「国家的プロジェクト」であることを十二分に理解し、自分もその担い手であることを自覚している

・「国家的プロジェクト」の一員として、ポルトガル海洋国家の貿易取引とその利益拡大に積極的に取り組み、その一環として、「堺へのポルトガル商館設置」などの手法を提案し、またその手法を実行する役割を自ら買って出る

・「国家的プロジェクト」に積極的に関わることの延長として、国家利益増大への「貢献者」国王の「能吏」で あろうとする

(ただし、堺商館設置の提案には、国王交付金への依存からの脱却という意図も抜かりなく含まれていた。そして、それは後に、イエズス会自身がポルトガル貿易に深く関わっていくことの伏線となっている。)


それでは、このようなノウハウや考え方をザビエルはいつ、どこで身に着けたのでしょうか。

それは、「イエズス会の歴史」を綴った同名の著書(ウイリアム・バンガ-ド著 原書房)に、「海外宣教」の経緯として記されたものから読み取ることが出来ます。


〈国家プロジェクト要員はこうして作られた〉



1540年9月、イエズス会は教皇パウルス三世から修道会としての認可を受けますが、その半年前、イグナティウスは国王ジョアン三世から海外布教のための宣教師を供出するよう要請され、シモン・ロドリゲスとニコラス・ボバディジャを選抜しました。ところが、ボバディジャが重病に倒れたため、3月14日代わりとしてザビエルを指名しています。

ジョアン三世が、宮廷での二人の生活態度に感銘を受けたため、ロドリゲスはポルトガルで司祭として働くよう留め置かれ、ザビエルは1541年4月、他の二人のイエズス会士と共にインドへ向け送られた、とされています。

ということは、ザビエルはインドへの出発前約一年間にわたって、リスボンの王室で、「教俗一体」体制で進められている海外布教の国家プロジェクトとしての枠組みを、じっくり教育されていたということになります。

そして、国王が感銘を受けたということは、その教育に対する反応が王室にとって「極めて都合よく好ましい」ものだったということでしょう。

つまり、ザビエルはリスボンを出発する時点で、既に国家プロジェクトの担い手であるとの自覚を持ち、国益増大への「貢献者」国王の「能吏」を目指し始めていたと考えられます。


次に、日本でのザビエルの行動が、まるで現代企業における有能かつ模範的な「新規市場開拓推進責任者」言い換えると「海外布教のプロフェッショナル」の行動であったことについて、ザビエルがインドにおいて、どのような経験を積んでいたかを確かめてみることにします。



〈どのような経験が海外布教(新規市場開拓)のプロフェッショナルを作ったか〉


1542年5月のゴア到着から1549年4月日本へ向けて出発するまでの約7年間、ザビエルは殆ど休むことなく布教活動に従事したようです。


1.1542年9月にインド最南端のコモリン岬東岸に至る遠征に出た後、約2年間ペスカリア(漁夫)海岸に留まります。

ペスカリア海岸での活動は、既に改宗していた住民2万人への要理(教義)教育から始める必要がありました。
それは、祈りの仕方や様々な祈りを現地(タミル)語に翻訳し、それを暗記し教える毎日を延々と続けていくことでした。


〈トラヴァンコ-ルの快挙〉


1544年、インド南西部海岸にあるトラヴァンコ-ルで14カ村を巡り、一か月のうちに1万人以上に洗礼を授けた、という話があります。

これには、「キリスト教を受け入れれば、イスラム教徒の掠奪者からポルトガル人が守ってくれることを知った一部の漁民が教会に向かい始めたから」という説明がされています。

また、「ザビエルがトラヴァンコ-ルで1万人に洗礼を授けた」という報告は、国王ジョアン三世をいたく感動させ、国王は、この知らせを各地の教会で発表するように命じ、コインブラで百人のイエズス会士を扶持すること、1546年初頭に、インドに12人を派遣することを取り決めた、とされています。(以上、「イエズス会の歴史」p.35)


まさに、ポルトガル国家の世俗権力とイエズス会という修道会とが「教俗一体」の体制で、その軍事力を活用して、「大量改宗」という偉業をなしとげたという知らせですから、「国家的プロジェクト」の責任者である国王が狂喜しても不思議ではありません。

けれども、わずか一か月のあいだに、現地の言語も充分に習得していない宣教師が、1万人もの先住民を改宗させたという知らせを、信じ込んでぬか喜びする国王の脳天気ぶりをみると、何時の時代も為政者というものは、脳天気でないと務まらないものなのか、などと考えてしまいます。同時に、その国王の脳天気を利用して、まんまと自派勢力の拡大をはたす集団の狡猾さも光ります。

「トラヴァンコ-ルの快挙」はイエズス会にとって、霊的な成功例であるだけでなく、自派の国王権力への更なる浸透と勢力拡大までを実現させるという現世的な成功例であったことになります。

そういう意味で、この成功例は、自分の所属する組織に対してのみならず、パトロン筋にあたる国王に対して如何に自分の活動をアピ-ルすべきかを学ぶ機会にもなり、海外布教プロフェッショナルとしてのザビエルを大きく成長させるものとなったと考えられます。

ただし、ザビエルが聖職者でありながら、「国王との直接のコネクション」を存分に活用していたことと、また「自分の挙げた成果をより良いものに見せる報告術」を持っていたことが、現地のポルトガル人官僚たちや、同じ聖職者仲間のうちにも多くの敵を作ったであろうことは想像するに難くないことです。

[その5]で書いた、日本に渡航するザビエルにマラッカ長官が5.7トンの最良の胡椒を贈与したという件が長官の信仰の深さやザビエルとの友情の篤さを表わす美談として語られることがよくあります。

けれども、現地官僚にとって、国王と直接のコネクションを持ちいつでも自分の頭越しに国王と連絡を取り合いかねないザビエルは、特別の配慮をしなければならない油断のならない相手であった筈ですから、法外に高価な贈与も、別に驚くほどのことではない、とも考えられます。



2.1544年8月から1548年3月まで、ザビエルはモルッカ諸島の布教に従事します。


現地調査、祈りや教義のマレ-語への翻訳、先住民への宗教教育に加えヨ-ロッパ人商人・船員・入植者への宗教的支援/指導に従事し続けたことによる心身の疲労に満ちた三年半であったとされています。


以上のインド国内、モルッカ諸島での布教の経験を通じて、ザビエルは、海外布教において、先住民の言語や考え方や生活様式を理解し取り入れることが必須であるという現地(適応)主義を学び、その正当性を確信したと考えられ、それが彼の日本での活動に反映され、ト-レスにも影響を与えたことになると思います。


3.1548年3月から日本へ向けて出発する1549年4月までの一年余り、ザビエルは宣教活動を整備し組織化するためのいわばデスクワ-クに注力します。

他のイエズス会士たちの処遇と、ゴア、サン・トメ、キイロン、バセイン、ホルムズ他拠点への配置を決定しています。

以上、ゴアに到着してから日本へ向け出発するまでの七年間、ザビエルはインド国内およびモルッカ諸島での布教、インド管区の布教体制の整備・組織化と殆ど休みなく働き続けていたようです。そして、この働きによって、インドを発つときには、既に海外布教(新規市場開拓)のプロフェッショナルとしてのノウハウを完璧に身に着けていたものと思われます。


次に、このザビエルを見て、ト-レスが何を感じ、思ったかを考えていきます。
それを考えるためには、その時、ト-レスがどのような考えを持っていたかを知る必要があります。そこで、問題になってくるのが、ト-レスが司祭になった頃から抱えていたという「不安や苦悩」というものが、何であったかということです。


〈ト-レスが抱えていた不安・苦悩〉



それについて、僅かな頼みの綱である評伝「長崎を開いた人」(ディエゴ・パチェコ著)には、次のように書いてあるだけです。

「しかし彼の心の中には大きな問題があった。『私の心は決して安らかにはなりませんでした。それは何故か、私には解りませんでした』」

そこで、私は、自分が若い頃から長年似たような経験してきたこともあって、彼の心理状態が、現代の若者の「モラトリウム」や「青い鳥症候群」と同じようなものだったのではと考え、[その3]に、安易にもそう書いてしまいました。


〈意外と用心深かったト-レス〉


ところが、今回改めて、ザビエルと出会ってからのト-レスの足跡を辿ってみて、あることに気付きました。
それは、アンボイナで出遭ってからも、ト-レスは、そう安直にザビエルに近付いたわけではないということです。

1546年3月、ザビエルとアンボイナで会った後、ト-レスは5月にそこを去り、ジャワからマラッカへ行き5か月を過ごし、翌年になってからゴアに着いています。そこで、ゴアの司教に認められ小教区を任せられます。

そして、イエズス会経営の聖パウロ学院を訪れ、ザビエルの同僚たちと知り合いになります。それは、まるでザビエルについて何かを確かめるような行動です。

そして、1548年1月下旬に、聖パウロ学院で「霊操」と呼ばれる精神修養に入ります。
それから、3月になって、ザビエルがゴアに上陸し、やっとト-レスはイエズス会に入ります。アンボンでザビエルと出遭ってから、ちょうど2年後のことです。

そこで、私は、ト-レスが実は、とても用心深い人だったのでは、ということに思い当たりました。

そして、同時に、「何故彼がそれほど用心深かったのだろうか」と考えているときに、自分がひじょうに重要なことを見落としていたことに気付きました。それは、「ト-レスはどのような時代に育ったのか」ということです。


〈ト-レスが育った時代は、宗教改革の真っただ中〉


ト-レスの生まれた1510年は、時のロ-マ教皇ユリウス二世が、宗教改革のきっかけとなった贖宥状(免罪符)を売り出す2年前です。
贖宥状とは罪の償いを軽減するという証明書です。

この贖宥状に関して、マルティン・ルタ-が「95か条の論題」を提示したのが、1517年ト-レスが7歳のときです。

そして、ト-レスがバレンシアで司祭になった1534年は、「対抗宗教改革の旗手」イエズス会が、パリのモンマルトルの丘の聖堂で誕生した年なのです。

それから、カトリック教会の刷新と自己改革の原動力となったと言われる、トレント公会議が招集されたのは、1545年3月、ト-レスがビリャロボス艦隊の一員として、南太平洋を彷徨っていたさなかです。

ト-レスの誕生から、司祭叙階、南太平洋彷徨までの経歴が「宗教改革運動」の展開に符合しているように見えます。

そこで生ずる疑問は、彼は若くして司祭に叙階されていることから見ると、カトリック社会の中で純粋培養に近い状態で育成された可能性がありますが、宗教改革運動の動静を日頃の生活の中で感受する機会が本当に無かったのか、ということです。

それは、ロ-マ教皇を頂点とするカトリック教会上層部の腐敗・堕落の情報が、カトリック教国スペインの一地方大都市バレンシアに、全く伝わらなかったということは、あり得ないのではないかということです。

そして、たとえ僅かであったとしても、伝わった情報がトーレスを含む信者や司祭に動揺を与えることがあった、と考える方が自然ではないか、と思うようになりました。

それは、バレンシアの教会の歴史を調べればわかることかも知れません。けれども、仮に記録に残されていなくても、宗教改革に関わる動きが無かった、と断定することも出来ません。それは、教会にとって都合の悪い記録が無視されたり、抹消されたりということが歴史上あったことは、残念なことですが間違いがないからです。


〈対抗宗教改革は教区司祭や信者によって始められた〉


「カトリック教会による対抗宗教改革は『カトリシズムの近代的再興』であった。これは宗教改革運動によって失ったカトリックの勢力圏を奪回し、同時に新たな布教地の開拓と獲得を意味していた。

カトリック教会再興の企ては、一般の在俗信徒や少数の司祭で構成された『信心会』を中心としてはじめられた。とりわけ、一般在俗信徒のカトリック信仰への強い情熱と高まりが、ロ-マ教会を新たに再生してゆくうえで非常に大きな原動力となった。」

(以上、「イエズス会の世界戦略」p.45より)



ここで、「在俗」というカトリック教会に関しては聞き慣れない言葉が使われています。
おそらく、「出家」に対する「在俗」という仏教用語を転用したものと思われますが、一般にカトリック教会に関して使われる場合、「在俗信徒」は「聖職者でない信者」の意味で、「在俗司祭」とは「修道会に所属しない教区司祭」の意味で使われるようです。


ただ、聖職者でない一般の信者は、通常、俗人の生活を送っていますから、それをわざわざ「在俗信徒」と呼ばなくても、「(一般)信者」で意味は通じると思います。

司祭については、修道会に入ることを「出家」と考えて「修道会に所属しない教区司祭」を「在俗司祭」としたのだろうと思います。
(確かに、小学館 西和中辞典には clero secular の訳語として「在俗司祭」が載っています。)

ですが、「教区司祭」は教区の教会に所属していただけで、別に俗人の生活を送っていた訳ではないのですから、わざわざ実態を表わしていない「在俗司祭」などという言葉を使う必要はないのではないでしょうか。

「修道会司祭」と「教区司祭」の違いは、大航海時代・キリシタン時代に限らず、カトリック教会の組織を理解するうえで重要なポイントです。実態と合わず誤解を生みやすい「在俗司祭」ではなく、実態を表わしていて平易な「教区司祭」という言葉を使うべきでは、と私は思います。



さて、上記の引用文の意味は、対抗宗教改革というものが

カトリック教会が、宗教改革によって失った勢力圏を奪回し、同時に新たな布教地を開拓し獲得することを意味し
・教区の司祭や信者で構成された「信心会」を中心として始められたものであった、
ということでしょう。


これによって、宗教改革に対抗するカトリック教会内の動きとして、海外布教の活動が加速されたであろうことと、もうひとつは、ト-レスの故郷バレンシアでも、対抗宗教改革に類する動きが信者や聖職者の間で起こっていたのではないか、ということが考られえます。



〈身の危険が生じることもあった、宗教改革後のカトリック教会内の対立〉


フランスのユグノ-戦争などカトリック対プロテスタントの紛争が血なまぐさい内戦にまで発展したことは、常識になっているかも知れませんが、宗教改革後のカトリック教会内部の改革をめぐる対立も、決して静かな論争だけが行われていた訳ではありません。

例えば、イグナティウス・ロヨラと言えば「対抗宗教改革の旗手」イエズス会の初代総長ですから保守派の権化のように思われている人も多いと思いますが、そのロヨラでさえ教会内の反動勢力の拘束を受けたり、粛清を警戒したりしていた形跡があります。


・1523年
、エルサレムに巡礼後、アルカラ、サラマンカ両大学に在籍し、勉学と同時に宣教活動も始めましたが、アルカラで、異端審問所の疑惑を受け約1か月半監禁されています。

・1537年、ロヨラは、エルサレム巡礼の祝福と仲間が司祭に叙階されることの許可を求めるため、仲間をローマに送りましたが、自分は行きませんでした。これは、ロヨラが企図していたことに反対する有力者による拘束等の危険を避けるためだったと考えられます。

従って、たとえ対抗宗教改革的な活動であろうと、もしト-レスがこれに加わったとすれば、反動派から拘束されたり粛清されたりする危険性は充分にあったのです。


〈ト-レスの心の問題とは、実はこれだった〉


ト-レスが司祭に叙階された後も、教区司祭の職に就かず、約4年間教師を勤めたすえ、メキシコに旅立った理由として、評伝「長崎を開いた人」は「彼の心の中に大きな問題があった」として、それが彼自身の内面の問題であるかのように書いています。

けれども、私は、今まで見てきたことから、彼が育った時代と置かれた環境こそ、問題だった筈だと考えるに至りました。


際限なく露呈していくカトリック教会上層部の腐敗・堕落の実態、それに対する宗教改革・対抗宗教改革の動き、カトリック教会内部の改革をめぐる対立、その対立による粛清や拘束等の具体的な身の危険等々の中で、たとえ改革について自分なりの意見があろうと、トーレスにとって、まず必要なことは沈黙を貫いて自分の身を守ることだったのではないか、と私は考えます。


そういう状況の中で、ト-レスは教区司祭の職には就かず、語学教師(おそらくは、神学校またはカトリック系の学校の)として働きながら、既に司祭として叙階された以上は「神と信者に奉仕する司祭の本分を果たしたいと考え、そうするにはどうすれば良いか」を、きっと考え続けていたことでしょう。



実は、「イエズス会の歴史」(ウイリアム・バンガ-ト著)p.14にも、会士について似たような表現があるのを見つけました。

それは、イエズス会創設メンバ-七人のうちの一人ピエ-ル・ファ-ヴルに関する表現で、「イグナティウスと出会ったとき、ファ-ヴルは疑悩と誘惑から来る深い内的な苦しみを抱えていたうえ、召命について決めかねて悶々としていた。」という部分です。

評伝「長崎を 開いた人」の著者も、このウィリアム・バンガ-トもイエズス会士ですから、これがイエズス会士の内面的苦悩を表わす常套句なのかも知れません。

それと、特にこの時代には、自分の考えを語ることは、その考え方がプロテスタント的であるとか、異端的であるとか言われて攻撃される危険が高かったと考えるべきなのだろうと思います。その危険を避けるためには、このように「自分が抱えている問題は内面的な悩みだ」とする方がより安全だと考えた故にこういう表現を使ったのではないか、とも私は考えています。

後に、この時代の自分の精神的な状況を説明する際にも、ト-レスは同様の表現をしているようです。たとえ、イエズス会の内部であっても、安全な表現を使って余計な嫌疑がかからないようにしていたのでしょう。そういう点にも、ト-レスの用心深さが表れているように思います。


〈ト-レスはなぜメキシコに行き、なぜそこを離れたか〉


そして、その問題の解決策として浮かんできたのが、上記「イエズス会の世界戦略」からの引用文にも「新たな布教地の開拓と獲得」として挙げられている、「海外布教活動」だったのでしょう。


「国をあげて新大陸の開発に乗り出そうとしていたちょうどそのころ、スペイン人は、ルタ-の宗教改革に刺激されて、腐敗のきわみにあったカトリックを内部からたてなおそうとする、反(対抗)宗教改革のまっただ中にあった。

この(対抗宗教)改革に情熱を傾けていた一部の聖職者は、新大陸の発見のうちに、神の啓示を感じとった。・・・ところが、燃えるような志をいだいて海をわたってきたかれらが眼にしたのは、スペイン人植民者に奴隷におとしめられ、痛めつけられ、あえぎながら死に絶えていく先住民の、目をおおうばかりの惨状であった。」
(幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折 伊藤滋子著 同成社)p.10~11


ト-レスの場合は、「燃えるような志をいだいて、海をわたった」という感じはしませんが、内部からのカトリック立て直しの一環である海外布教に活路を求めて、メキシコへ渡航したことは確かでしょう。

そして、上記の引用文の通り、スペイン人に搾取された先住民の惨状を目にして、そこが自分の聖職者としての本分を果たせる場所ではないことを悟ったのでしょう。

ト-レスの人柄に惹かれて、慰留してくれる植民地官僚の家族がいたにしても、自分がメキシコへ来た動機を考えれば、その住込み司祭の話に乗れる筈もありません。


〈ビリャロボス艦隊に乗り組んだのは、未踏の土地で司祭の本分を果たすことを期待したから


そこで、スペインにとってほとんど未踏の土地である南太平洋に向かうビリャロボス艦隊に乗り組むことにしたのでしょう。
もし、艦隊が新たな征服地を発見すれば、そこが福音を伝えるべき布教地となることまで考えてのことだと思います。

ところが、ビリャロボス艦隊はメキシコへの帰路捜索に失敗し、南太平洋を彷徨(さまよ)ったあげく、モルッカ諸島でポルトガルに投降しました。ただ、そのおかげで、ト-レスはザビエルと出遭ったのですから、人生どう転ぶか分りません。


以上、ザビエルに出遭うまでのト-レスは、故国での語学教師、メキシコでの生活、ビリャロボス艦隊を経験しながら、スペインから南太平洋までを12年間にわたり点々と移動してきました。それは、おそらく、ただ「神と信者に奉仕するという司祭の本分を全うする生活を求めて」のことだったのでしょうが、そのささやかな期待は裏切られ続けました。

そういうト-レスの目にザビエルはどう映ったでしょうか。


〈ト-レスの目に映ったザビエル〉


まず、カトリック司祭でも、それまでに会ったことのないタイプですから驚いたでしょう。
そして、海外布教事業についてのザビエルの意欲や知識の水準が桁外れに高いことについて驚くとともに、それが一体どこから来るものか疑問をもっただろうと思います。最初の出遭いは、そんな反応で終わったかも知れません。


カトリック教会内の改革的な事柄についても、海外布教についても、散々失望を味わってきたト-レスが安直にザビエルに接近していかなかったことは、既に書いたとおりです。


従って、ザビエルから誘いはあったかも知れませんが、用心深くなっていたト-レスは、自分でインドのゴアへ行き、そこで教区の司祭として採用され、徐々にイエズス会に接近しザビエルから受けた印象が本物であるかどうかを自分で確かめていきます。


1548年3月
、ザビエルがゴアに戻り、約1年をかけて日本への渡航を準備しますが、海外布教事業が「教俗一体」体制で進められている国家的プロジェクトであることや、ザビエルがその一翼を担おうとしていること、またザビエルが国王・総督・長官などと直接のコネクションをもっていることなどをト-レスが知ったのはこの時期かも知れません。

それを知ることによって、トーレスはザビエル対して当初抱いた疑問の答えを得ただけでなく、自分がメキシコで失望を味わったものとは全く違う次元で進められようとしている海外布教に希望を感じ、またそこでザビエルが主導的な位置を占めようとしていることも知らされたと思われます。


ト-レスは、宗教改革の動揺の中で消えかけていた「神と信者に尽くすという、司祭の本分」を果たすために、海外布教の道を選んだわけですから、やっと自分が望んだことが実現される可能性を感じられたことになります。


ト-レスがこういう感激を味わうことができたとすれば、その後、日本での布教において、彼がザビエルの意図を尊重しその指示を着実に実行していったのは、ある意味で自然なことであり、単に彼が従順な性格だったからなどという理由からではなかったことも当然のことです。



〈おわりに〉


1.
若い頃のト-レスが抱えていた不安とか苦悩とは、実は、「宗教改革に揺れ動くカトリック教会への不信感」であり、ト-レスは、ザビエルの中に、その不信感を乗り超えるための答えを見出したのではないか、という解釈は、今回この記事を書き出した時には、思いもよらなかったのですが、ザビエルの行動を見直していたときに思い付いたものです。


実は、不安とか苦悩の原因として、彼が新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)の家系の出身であったという解釈を考えたこともあります。

イエズス会の重要人物の中に新キリスト教徒の家系出身者は決して珍しくはないようです。

例えば、創設時の七人のメンバ-の一人で、第二代総長となった、ディエゴ・ライネスがそうですし、南米大陸のカトリック教会史上の重要人物の一人と目され、『インディオ救霊論』『新大陸自然文化史』の著者としても知られている、ホセ・デ・アコスタも「母方が、新キリスト教徒の家系に属する可能性が大である」(「スペイン帝国と中華帝国の邂逅」平山篤子著)とされています。

けれども、ト-レスについて、根拠のないまま、そういう解釈に頼ることは安易過ぎる気がしたので止めておきました。



2.
今回、この記事を書くことによって、確かにザビエルが、卓越した頭脳と強靭な意志を持った類まれな人物であったらしいことは、理解させられたような気がしますが、また同時に、知れば知る程、安心して付き合えない油断のならない面も持っていた人ではないかと思うようになっています。

そのザビエルの「油断のならない面」は、新興の修道会であるイエズス会を自らの海洋帝国構築に利用しようとした国王権力側の人たちも、それに乗じて自己の勢力の復活と拡大を果たそうとした教会側の聖職者たちさえも、感じていたかも知れない、と私は思います。


一方、ト-レスについては、当初は、自分の意思のはっきりしない、理由もなく従順な人物という印象を持っていました。けれども、「ただひたすらに、司祭としての本分を尽くしたい」という謙虚な願いを守り通すことによって、図らずもスペインから日本までの壮大な軌跡を辿ることになったという人物像が浮かび上がってきて、親近感と尊敬さえ感じられるようになっています。


常に脚光を浴び続けるザビエルに対し、あまり顧みられることのないト-レスについて、何かがあったはずだと考え、ひとつの解釈(仮説)を思い付いただけのことですが、それはそれで、結構楽しいものです。


3.
私は、ト-レスについて、ずっと以前から、ザビエルと一緒に来た神父がいたことと、その人について書かれた本があることは知っていたのですが、ザビエルに関心がもてなかったことから手が出せないでいたところ、偶然、山手線・恵比寿駅前の古書店で、その本「長崎を開いた人」をみつけたのです。15年ぐらい前のことで、勤めていた会社の支店訪問をした帰りでした。

その古本屋さんには、なぜかキリシタン時代関係の良い本が置かれていました。でも、値段がちょっと高めだったような記憶があります。あのお店は、まだあるのでしょうか。その後、その本がこんなに遠いところまで随いてきて、ついに役立ってくれたという訳です。


著者のディエゴ・パチェコ氏は、結城了悟という日本名を持つイエズス会司祭でありキリシタン史家です。したがって、当然のように、書かれていることに(書く以前に考えていることに、かも知れません)イエズス会司祭としての限界があります。

少し残念なことですが、それは、また、「日本史」の著者ルイス・フロイス以来の伝統でもあります。

そして、著者パチェコ氏や翻訳者佐久間正氏の尽力が無ければ、ト-レスについて私たちが知る手掛かりは他には殆どないのですから、大いに感謝すべきことでもあるのでしょう。



4.
また、とかく賛美・崇拝されることが多く、そういう言辞に接するたびに、その存在が遠のいていくように感じていたザビエルについて、自分なりのイメ-ジがもてるようになったことは収穫です。


全くの私事ですが、ザビエルは私の父親の霊名であり、父がザビエルを尊敬していると言うのを聞いたことがあるような気がします。以前書いたことがあるのですが、私は自分の父親と本当に腹を割って話をするという経験を持てませんでした。

そのため、今回ザビエルについて、自分なりに納得できるイメ-ジが持てたことで、父親との繋がりを少し感じることができたような気がしているのです。思い出す父親は、誰にも理解されず歯を食いしばって生きていたような人でした。こういうことで、せめてもの鎮魂になれば嬉しいのですが。



〈完〉



[参考図書]

イエズス会の世界戦略                 高橋裕史著 講談社メチエ
イエズス会の歴史            ウイリアム・バンガ-ド著 原書房
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯-パチェコ・ディエゴ著 中央出版社
幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折         伊藤滋子著 同成社
スペイン帝国と中華帝国の邂逅 十六・十七世紀のマニラ 平山篤子著 法政大学出版局














































[PR]
by GFauree | 2015-10-21 05:22 | ザビエルとト-レス | Comments(3)

ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その5]



a0326062_03292065.jpg






ここからは、1546年3月モルッカ諸島のアンボン島で出遭ってから、日本でともに活動した間、ザビエルがトーレスの眼にどのように映っていたかを考えてみたいと思います。

そのために、まず、ザビエルの日本での活動はどのようなものだったのかを振り返ってみることにします。


1.ザビエルの日本での活動はどのようなものだったか


以下に、彼の日本での活動について気が付いたことを挙げてみます。


(1)滞在期間の短かさと移動の多さ

ザビエルは、1549年8月に鹿児島に着き、1552年11月豊後を発っていますから、滞在期間は僅か2年3カ月です。

この2年3カ月の間に、鹿児島→平戸→山口→堺→京都→山口→平戸→山口→豊後、と移動を繰り返します。

旅の手段は徒歩か船でしょうから、移動のための体力負担だけでも大変なものです。

1551年3月、京都から平戸に戻ってきたザビエルは、「以前よりやつれ、頭髪はほとんど白くなっていた」(パチェコ・ディエゴ著「長崎を開いた人」p.24)とされています。

そもそも、ザビエルは1542年5月にゴアに到着以来、インド国内を初め、マラッカ(シンガポ-ル)、モルッカ諸島などへの旅を繰り返していますから、席の温まる暇がなかったのは日本滞在時だけの話ではないのです。それだからこそ、モルッカ諸島・アンボイナ島でのト-レスとの出遭いや、マラッカでの日本人アンジロ-との出会いも起こり得たわけですが。

ザビエルは、豊後を発ってから3カ月後にゴアに着き、その2か月後にマラッカへ、またその3カ月後に中国沿岸の上川島に着き、上川島到着から5カ月後つまり豊後出発から約1年後に亡くなっています。

死因は心身の衰弱、要するに『過労死』です。


(2)綿密・周到な情報収集


①京都を目指した理由

ザビエルが鹿児島から京都を目指したのは、インドのゴアにおいて既に、日本の政治体制に関する情報を得ていたからであったことは、前回[その4]に書きました。

ザビエルは、ゴアのコレジオで日本人アンジロ-の指導にあたったイエズス会士ニコラオ・ランチロット神父に日本に関する情報をアンジロ-から聴取させ、『日本情報』として編纂させています。

ザビエルがゴアで得ていた情報の中には、上記の「日本の政治体制」に関するものの他に、「中国と日本との関係」に関わるものもあります。両国間の文化のつながり、とくに仏教が中国を経て日本に伝わったことなどです。ザビエルが日本からゴアに戻った後、直ちに中国・上川島への渡航を実行したのは、この情報と日本への渡航によって、中国布教の必要性を痛感させられた為だと考えられています。

また、これ以外にも、ポルトガル人商人ジョルジュ・アルバレスに対し日本に関する情報を求め、アルバレスは1547年に『日本報告』を執筆しています。
(高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」 p.25~26より)


②堺の有力者を訪ねた経緯


ザビエルが、「(山口から京都へ向かう)旅の途中で知り合った或る日本人からの紹介状をたよりに、上洛の途中、堺で豪商日比屋了珪を訪ねており」(「キリシタンの世紀」 p.29より)と読むと、「ザビエルが堺の有力者を訪ねたこと」が何か偶然であったような気がするのですが、それは決して偶然に起きたことではなかったと考えられます。

それは、「堺は、応仁の乱(1467から77)のあと、遣明船の発着港とされ、・・・、瀬戸内海航路と土佐から南九州、沖縄にいたる南海路との交易の主導権を握って、めざましく発展した。そして、戦国時代にそこの豪商たちが自治権を得るまでになっていた」こと、
(武光誠著「海外貿易から読む戦国時代」PHP新書 p.40)

そして、「(堺は)日本の流通の中心であり、国内でもっとも豊かな町であった」(同書p.159)ことや、豪商たちの存在も、既に海外に知られており、ザビエルもそれらのことを、来日前に知っていたと思われるからです。


③日本での滞在・移動中の情報収集と得られた情報への対応


「平戸から京都へ向かう旅の途上、大内義隆の噂を聞いて山口に寄った」という話は、ザビエルが布教の拠点とすべき土地に関する情報取集に如何に注意を払い、得られた情報に如何に迅速に対応しようとしたかを物語っているように思います。

(ただし、山口・大内氏や石見銀山に関しても、ザビエルが既に海外で情報を得ていた可能性はあります。)

1550年9月、平戸にポルトガル船が来航したとの情報を得て、鹿児島から平戸へ移動し、
1551年9月、豊後・府内にポルトガル船が来航した情報で、山口から豊後へ移動しています。

ザビエルがポルトガル船到着地に駆けつけた理由は、ポルトガル人乗員のミサや告解などの宗教的要請に対応するためだけでなかったことは明らかです。到着地の領主にイエズス会の影響力を示す絶好の機会として、ザビエルは存分にその機会を活用し、平戸・松浦隆信からも豊後・大友義鎮(宗麟)からも布教許可を得ているのです。

ザビエルのことですから、船で来日するポルトガル人たちが、到着したら遠隔地にいる自分の所へ連絡を送ってくる様に、事前に手配をしておいたことが考えられます。



(3)一旦決めたことをやり通す意志と責任感の強さ


①鹿児島・島津貴久や平戸・松浦隆信の慰留を振り切って京都へ向かったこと

-首尾よく布教許可を得ても、その地に安住せず、あくまでも頑固なまでに当初の方針を堅持してその地を離れた感じがします。

②インド・ゴア到着2カ月後に、神父一名・修道士二名の応援要員を日本に向けて派遣したこと。

-支援要員の派遣などは、どこの組織でも後回しにされるのが常でしょう。
 到着から2か月後に要員が送られたということは、到着直後に手配したということです。
 (それだけザビエルの日本という新規市場への期待が強かったか、またそれだけザビエルの組織内での権限が強かったとも考えられます。)


以上、日本滞在中のザビエルの行動から、注目される点を抽出してみました。
これをお読みになって、ザビエルの行動にどんな印象を持たれたでしょうか。

私は、ザビエルの活動が現代企業の「新規市場開拓」といった類の活動にとてもよく似ていること、そしてザビエル自身はその種の活動の「有能かつ模範的な推進責任者」のイメ-ジに重なることに驚いています。



それでは、ザビエル自身はこういう活動を展開しながら、どんなことを考え、何を目指していたのでしょうか。



2.ザビエル自身の考えと彼が目指したもの


ここに、ザビエルが鹿児島に着いてから約2か月後の日付の二通の書簡があります。

一通は、ゴア在住のイエズス会神父宛て、もう一通はマラッカのポルトガル長官宛てのものです。



[Ⅰ] 1549年11月5日付鹿児島発(イエズス会神父)アントニオ・ゴメス宛書簡


神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親書とともに献呈できるような相当な額の[金]貨と贈り物とを携えて来てもらいたい。

もしも、日本国王が私たちの信仰に帰依することになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと、神において信じているからである。

[堺は]非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町である。日本の他の地方よりも、金や銀がたくさんある[ので]この堺にポルトガルの商館を設けたらよいと思う。

私がインドで経験したところでは、[物質的な利益に]関係なく、神への愛だけで、神父たちを渡航させる船を出す者は、誰もいないと信じている。



[Ⅱ] 1549年11月5日付鹿児島発(マラッカ長官)ペドロ・ダ・シルヴァ宛書簡


もしも閣下が私を信頼してくださって、[この地方に]送る商品の管理を私にご一任くださるなら、私は『一』から『百』以上に増やすと断言する。

これは、今までマラッカの長官が誰もしなかった確実な方法で、信者になる貧しい人たちにすべての商品を与えるのである。
利得は確実で、少しも危険はない。


以上、書簡[Ⅰ]・[Ⅱ] (高橋裕史著「イエズス会の世界戦略」p.78より)




各書簡の意味するところは、以下の様なことと考えられます。

書簡[Ⅰ]

・キリスト教の布教は国王同士の関係の中で進められるべきものであるので、宣教師は、日本国王宛てのインド総督の親書と、相当の価値のある貴金属と品物を持参すべきである。

・日本国王が改宗すれば、ポルトガル国王は莫大な経済的利益を得るのだから、それによって上記の貴金属と品物の経済的負担を補うことが出来る。

・堺は日本中の金銀の集まる豊かな港だから、ここに商館を設置すべきだ。

・経済的な利益が得られる見込みなしに、神への愛だけで宣教師を運ぶ等の協力をする商人はいない。


書簡[Ⅱ]

・マラッカから日本へ送る全商品の(販売)管理を自分に委託してほしい。
・信者になる貧しい人々に販売するという、斬新な手法がある。
・その手法によれば(信者を対象とする以上)利益は確実で、全く危険はない。



《5.7トンの良質胡椒の話》

これらの書簡に加えて、ザビエルは日本に渡航するに当たり、マラッカ長官から最良の胡椒30バ-ル(5700キロ)の贈与を受け、これを日本に持って来て売り、経費に充てた可能性が高い(「キリシタンの世紀」p.35)という話があります。

布教活動にも生活費は当然必要ですから、私はこれを問題視しても仕方がないのではと考えていたのですが、今回改めて、貴金属並みだったと言われている当時の良質胡椒の価格や5.7トンという相当な量と、上記の書簡[Ⅰ]の内容を考え合わせると、胡椒を現金化して得た多額の金は一体何に使われたのかという疑問も湧いてきます。

鹿児島・島津貴久、平戸・松浦隆信、山口・大内義隆からの布教許可が得られたのは、良質胡椒の効果だったのかも知れません。



書簡のことに戻りますが、日本での布教開始直後のこの時期に既にザビエルがここまでのことを考えたり、書いたりしていたということに、少し驚きました。ザビエルは、一体何を考え、また、なぜこのようなことを書簡に書いたのでしょうか。

その疑問に対する答えを得るためには、彼が置かれていた状況を知る必要があります。
彼が置かれていた状況とは、彼が行おうとしていた海外布教活動の枠組みのことではないかということに思い当たりました。そこで、彼の時代の海外布教の枠組みを見直すことにしました。



3.大航海時代の海外布教の枠組み


大航海時代の海外布教は、教会法に基いて、ポルトガル・スペイン両国家の後援の下に、カトリック修道会が行ったものです。

イベリア両国の後援とは、ロ-マ教皇が両国王室に対し布教保護権を与え、両国王が布教地の教会運営に保護者として関与することです。

布教保護権による両王室の権利と義務の内容は以下の通りです。

〈権利〉 司教区の設置を決め、司教、教会役員、教区司祭を指名・推薦することができるこ
     と。
〈義務〉 司教区とそこで働く教会聖職者を経済的に支えるほか、カトリック信仰宣布に尽力
     すること。


インドについては、1534年、ポルトガル国王を布教保護者としてゴア司教区が設置されました。
これによって、インドにポルトガルの「布教保護権」が及ぶこととなり、ポルトガルという国家とイエズス会という修道会とが、一体となってインドのカトリック布教を進めていく体制が作られたことになります。

ザビエルは、ポルトガル国王ジョアン三世のローマ教皇とイグナティウス・ロヨラに対する要請によりインド派遣要員として選抜された三名のうちの一人であり、1541年4月リスボンを発ち、翌年1542年5月ゴアに到着したのです。



4.大航海時代の海外布教の枠組みの観点から、書簡[Ⅰ]・[Ⅱ]の内容について考える

     
書簡[Ⅰ]は、イエズス会同僚神父に対し、今後の布教の進め方について見解を示したものです。

(1)教会と国家が「教俗一体」となって進める以上、ポルトガル国王を前面に出して、相手国国王に直接働きかけるべきである。
(2)その際、ポルトガル国王が費用を負担することが必須であるが、その負担費用以上の経済的利益が将来必ずもたらされる。
(3)王室の経済的負担は、また「教俗一体」となって取り返す考え方が必要であり、その考え方から、自分は「堺の商館設置」を提案したい。


書簡[Ⅱ]は、マラッカ長官に対し、今後の貿易取引の進め方について提案しているものです。

(1)自分は教会側の人間であるが、ポルトガルの貿易取引と利潤の拡大については、積極的に取り組んでいくつもりである。
(2)貿易取引と利潤を拡大するために自分が考案した手法を提案し、その手法を推進することを自ら買って出る


以上の書簡に表れたザビエルの考えから、ザビエルが目指したものが浮かび上がって来ます。


5.ザビエルが目指したもの


(1)ポルトガルの国家利益への「貢献者」、ポルトガル国王の「能吏」を目指したザビエル

海外布教を「教俗一体」の体制で進めるべき国家的プロジェクトと捉えるとすれば、王室側に布教に関わる負担を求める以上、教会側も国家の貿易取引や利益拡大に積極的に尽力すべきであると考えたのでしょう。ザビエルは国家的プロジェクトに積極的にかかわることを心がけるなかで、次第にポルトガルの国家利益増大への「貢献者」ポルトガル国王の「能吏」を目指すようになっていったとも考えられます。


これは、様々な面で最もザビエルの後継者と呼ぶにふさわしいと考えられるイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの1582年12月14日付フィリピン総督宛書簡(ザビエル書簡から33年後)について、そこに示されているヴァリニャ-ノの姿勢が、
ポルトガル国王の『能吏』としてのそれであり、ポルトガルの国家利害の『代弁者』のそれである」と指摘されている(高橋裕史著「イエズス会の世界戦略」p.80)ことと、共通します。


(2)ポルトガル国王交付金・ロ-マ教皇交付金をあてにできなかったイエズス会

ポルトガル国王は、王室布教保護権の制度に基き、イエズス会の布教活動に対して経済援助おこなう義務がありました。また、イエズス会には、そのポルトガル王交付金に加えて、ロ-マ教皇からも交付金が支給されることになっていました。

ところが、実情は、それらの交付金の支払いは滞りがちで、有力な資金源とはなり得なかったのです。その結果、イエズス会は自らの経済戦略を国王や教皇などに対する「他力本願」から「自力本願」へと、方針転換せざるをえなくなっています。(「イエズス会の世界戦略」p.155)


(3)「ポルトガル商館の関税収入によって活動資金を確保する」提案


前述の書簡のうち、(Ⅱ)ペドロ・ダ・シルヴァ宛てのものにはテキストが三種類ありますが、その中で最も詳しい内容をもつものの中に「ポルトガル国庫の損失を防がんためには、堺港に税関規則を設けて収税の途を立つべきである」とあるのです。

その意味は、「国王からの援助の代りに、『ポルトガル商館』のなかに『税関』を作り、そこに『ポルトガルの関税法』を移植・適用する」ということです。

(安野眞幸著 「教会領長崎」イエズス会と日本 p.22~26)

ザビエルはポルトガル国王が布教保護権にもとづきイエズス会を財政的にもっと支援すべきなのに〈不十分だ〉とかねてから不満に思っていました。

(そこで、)日本上陸当初から、貿易の仕組みのなかの「税関規則」を通じて、イエズス会の活動資金を捻出する計画を持ち、それをいつの日か実行することを目指したのでしょう。

つまり、「堺へのポルトガル商館設置」の提案には、関税徴収の仕組みを導入することによって、ポルトガル国王やロ-マ教皇からの交付金に依存せずにイエズス会の活動資金を確保するという意図が含まれていたのです。

実際に、「ポルトガル国王交付金には、大きく分けて現金支払いのものと現物支給によるものがあったが、現金支払いのものは、マラッカ、コチンにあるポルトガル税関から-それは、おそらく(税関が徴収した)関税収入の一部だったとおもわれるー支払われていた。」(「イエズス会の世界戦略p.154)ということです。


6.トーレスの眼に映ったザビエルの姿


(1)以上により、ト-レスの眼に映ったはずのザビエルの姿をまとめてみると、

   ・心身の疲労をいとわず献身的に働き続ける
   ・布教地に関して広範囲かつ綿密に情報を収集する
   ・移動中も情報収集を絶やさず、得られた情報へ機動的かつ迅速に対応する
   ・活動方針を堅持し組織的課題を確実に履行する

既に書きましたように、これは、まるで現代企業の新規市場開拓マニュアル上の課題項目ですから、これらの課題を律儀に消化していたザビエルは、上司も部下も組織もが望む「有能かつ模範的な新規市場開拓推進責任者」ということになるでしょう。

もしこれが、偉人伝のような書物に書かれたものであれば、かなり割り引いて受け取る必要があるでしょうが、残された客観的な記録をつなぎ合わせると、こういうイメ-ジが浮かび上がるのですから、ザビエルは本当に「有能かつ模範的な新規市場開拓推進責任者」であったのでは、と思えてきます。

加えて、離日してからわずか1年後に心身の疲労によって亡くなっている、つまり『過労死』していることが、また、それを裏付けているようです。


(2)一方で、日本到着の2か月後にザビエルが書いた書簡から、また別の面も見えてきます。

・ザビエルは、当時の海外布教が、カトリック修道会とポルトガル国家の「教俗一体」の体制の下、国家的プロジェクトとして進められていることを十二分に理解し、自分がその担い手であるこも強く自覚していたこと。

・「教俗一体」という以上、布教について、国王が経済的負担を負うことは当然であるが、教会側の人間である自分も、その経済的負担を軽減するための手法を考案したり、実行したりすることによって、ポルトガルの貿易取引と利潤拡大に積極的に取り組む考えであったこと。

・ポルトガル商館を堺に設置し、商館の関税収入によって、国王やロ-マ教皇からの交付金に依存せずに、イエズス会の活動資金を確保しようとの考えがあったこと。


このようなザビエルの姿はトーレスの眼にどう映ったでしょうか。
また、それによってト-レスはどのような考えを持ったのでしょうか。
それは、次回考えることにしたいと思います。


〈つづく〉

[参考図書]

長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯-パチェコ・ディエゴ著 中央出版社
キリシタンの世紀-ザビエル渡日から「鎖国」まで-  高瀬弘一郎著 岩波書店
海外貿易から読む戦国時代                武光誠著 PHP新書291
イエズス会の世界戦略                 高橋裕史著 講談社選書メチエ
教会領長崎 イエズス会と日本             安野眞幸著 講談社選書メチエ























[PR]
by GFauree | 2015-10-08 10:38 | ザビエルとト-レス | Comments(0)

ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その4]


a0326062_06230839.jpg




(Ⅱ)1549年8月から1551年11月まで



1549年8月
、ト-レスを含むザビエル一行は鹿児島に到着します。
この時点から、1551年11月ザビエルが豊後を発ちインドに向かうまでの2年3か月間、ト-レスはザビエルの考えや計画通りに行動していたと考えても間違いではないでしょう。


・ザビエルとト-レスの関係

よく、「ザビエルの同僚の神父トーレス」というような言われ方がされますが、実際は二人に対するイエズス会の中での位置付けには明確な差があり、「同僚」というより「上司と部下」と言った方が良いような関係だったのでは、と思われます。

その差は、まず、ザビエルが会の創設者イグナティウスが直々に勧誘した創立メンバ-の一人であったのに対し、ト-レスはイエズス会とは関係なくスペインの一地方都市バレンシアで15年も前に教区司祭となり、ほんの1年前にインドのゴアで入会したばかりの「中途入社」の、それもスペイン人だけれど「現地採用」されたローマ本部ではほとんど知られていない人物だったという違いから来るものでしょう。

イエズス会内部の司祭の最高の階位は「盛式四誓願司祭」と呼ばれる階級です。
「盛式」とは「荘厳」というような意味です。「誓願」というのは、修道者が神に対して自発的に立てる誓いのことです。どの誓いまでを立てることを許された者であるかによって、その司祭の会のなかでの階級が表わされるのです。

入会後、修学と瞑想を積んで司祭に叙品され、「単式誓願司祭」となります。この単式誓願司祭のなかから一部の者が「盛式三誓願司祭」となり、さらに「盛式三誓願司祭」のうちのきわめて限られた人物だけが清貧、貞潔、従順、ロ-マ教皇への絶対服従の四誓願を立て「盛式四誓願司祭」に昇格します。

これは、ちょうど現代の日本企業において、部長とか課長とかいう職務の裏付けとして、参事とか主事とかいう職階(階級)があるのと同じ事です。従って、ある職務に就くためには、決められた職階以上の資格がなければなりません。例えば、管区長や院長など会の中での統括的な要職に就任するためには「盛式四誓願司祭」であることが必要でした。

ザビエルについては、通辞ジョアン・ロドリゲスが「日本教会史」の中で、「フランシスコこそ真実に教皇パウロ三世〔在位1534-49〕の命令で、ポルトガルの国王によってインディアに派遣された使徒であり、教皇に対して〔イエズス〕会の他の立願修道士と同様に第四の盛式誓願による義務を負っていた。」としていますので、1541年インドに派遣された時点で既に「盛式四誓願司祭」であったと考えられます。

一方、ト-レスは、パチェコ・ディエゴ著「長崎を開いた人」(中央出版社)によれば、1563年8月に、やっと「盛式三誓願司祭」となっています。

因みに、会のエリ-トとして育成された後日本に渡り、棄教した神父として遠藤周作の小説『沈黙』にも登場するクリストヴァン・フェレイラは、37歳で日本管区長秘書を務めていた時に「盛式四誓願司祭」になっています。

一方、この時代、イエズス会で叙階された日本人司祭は23人いましたが、「盛式四誓願司祭」となった者は一人もいません。


・鹿児島でのザビエル一行


さて、当時の鹿児島では、明・琉球・朝鮮などとの貿易が盛んに行われ、富の蓄積が進んでいたため中央の文化も流入し、領内には禅寺も多く、新しい宗教を受け入れるに相応な土壌があったと考えられています。領主 島津貴久もザビエル一行を厚遇し布教を許し、家臣に対しキリシタン入信を許可したとのことです。

ところが、ザビエルには、「出来るだけ速やかに京都へ行き『日本国王』である天皇から許可を得て、国の指導層を入信させ上からの改宗を実現したい」という強い意図がありました。

それは、「日本の政治体制は、将軍が天皇の委任を受けて日本全土を統治しているものである」との情報を、インドのゴアで既に日本人アンジロ-から得ていたからです。

貴久は、戦乱のために京都が荒廃していることなどを挙げて引き留めようとしたようですが、ザビエルは日本全体を改宗しようとの意気込みで来航しているのですから、京都へ行くことを主張して聞き入れません。

結局、到着の翌年1550年9月,平戸にポルトガル船が来航したのを機会に、ザビエル一行は貴久の仕立てた船で鹿児島を離れ平戸に移ります。

つまり、平戸まで送ってもらったわけで、一部で言われているようにザビエル来航の目的が宗教上の目的に限定されていたことを知って、貴久が冷淡な扱いをし追放したということでは、ないようです。むしろ、将来的に見込まれる貿易上の利益を考慮してか、貴久が相当気を使って丁重にザビエルに接していたことが窺がわれます。


・平戸から山口・堺を経由して京都へ


平戸でも領主 松浦隆信から歓迎され布教を許可されましたが、全国制覇の野望に燃えるザビエルが平戸に留まる筈もなく、翌月10月ザビエルとフェルナンデス修道士は、トーレスを残して平戸を発ち都に向かいます。

都への旅の途次、「山口の大内義隆は日本で最強の領主である」と聞き、11月に山口を訪れ宣教活動を開始し、大内義隆にも謁見しますが、翌12月山口を発ち京都に向かいます。

なぜ、一旦宣教活動を開始しながら僅か一か月で山口を去ったか、について、「男色を罪とする教えが義隆の怒りを買ったから」という説がありますが、定かではありません。

山口から京都へ向かう途上、知り合った日本人からの紹介状を頼りに、後に上方の代表的なキリシタンとなった堺の豪商日比屋了桂を訪ねます。

翌1551年1月、ザビエルは京都に到着しますが、戦乱に荒廃しきった情勢に失望し、10日間程度滞在しただけで京都を去ります。


・京都から山口経由平戸に戻るが、再度山口へ


1551年3月
、山口を経由し(首都・京都には多くを望めないと判断した以上、改めて山口を活動拠点とすることを考えたのでしょう)一旦平戸へ戻り、大内義隆に面会するための書簡や贈答品を携えて平戸を発ち、再度山口に入ります。再び義隆に謁見し、布教の許可と廃寺になっていた大道寺を住居兼教会堂として与えられます。


《ザビエル来日の目的は銀鉱山を押さえることだった?》

島根県のインタ-ネット・サイトの「世界遺産 石見銀山遺跡」の部には、
1568年、ポルトガル人製作者がインドのゴアで作った日本地図上の「石見」の位置に、ポルトガル語で「R.AS MINAS DA PRATA」(銀鉱山王国)と記載されている旨、記されています。

また、ザビエルが同僚シモン・ロドリゲス神父にあてた手紙(1552年4月8日付ゴア発)に、「カスティリャ(スペイン)人は、この島々(日本)をプラタレアス(銀)諸島と呼んでいる。このプラタレアス諸島の外に、銀のある島は発見されていない。」と書かれてあるとしています。

これらによって、ザビエルが日本渡航前から石見銀山の存在を承知していて、銀鉱山を押さえることを狙いとして来日したという説を読んだことがありますが、ザビエルが2年3か月にわたる日本滞在の後インドのゴアに戻ったのが、1552年2月です。

上記の手紙が書かれたのも、地図が作成されたのもその後ですから、これらによってザビエルが日本への渡航前から石見銀山の存在を知っていたとは言えないのではないか、と私は考えます。   


ザビエルは豊後からインドへ発ち、ト-レスとフェルナンデスは山口に残る


1551年9月
、ザビエルは、豊後府内(現在の大分市)にポルトガル船が来航した旨の知らせを受け、ト-レスとフェルナンデスを山口に残して豊後へ行き,守護大名大友宗麟に迎えられます。

ところが、山口が9月30日、挙兵した家臣 陶隆房(晴賢)に攻撃され、義隆は長門大寧寺で自害させられます。街では戦闘が続き、掠奪や放火が横行し、残されたト-レスとフェルナンデスにも身の危険が迫り、二人は市内の有力者内藤氏の妻の実家に匿われます。

豊後にいたザビエルは、そのまま11月、日本人青年4人とともにインドへ向け出発します。

(ザビエルがインドから派遣したバルタザ-ル・ガーゴ神父と二人の修道士ドゥアルテ・デ・シルヴァとペドロ・デ・アルカソ-ヴァは翌年8月に府内に到着します。)


因みに、インドに戻った後のザビエルは直ちに日本へ上記の通り支援要員を派遣するとともに、日本での活動によって痛感した中国布教の必要性に対応すべく、休む間もなく中国へ向かいます。
そして、疲れ果てのことだったのでしょう、マカオ付近の上川島に到着して僅か5カ月後に他界します。

1552年 2月 インド・ゴア到着
      4月 バルタザ-ル・ガ-ゴ神父と二人の修道士(上記)を日本に派遣
      5月 マラッカ到着
      7月 中国・上川島に到着
     12月 死去





(Ⅲ)1552年から1559年まで



・山口と豊後で


1552年、陶晴賢は大友義鎮(宗麟)の異母弟・晴英改め大内義長を新当主として擁立し、実権を掌握します。ト-レス、フェルナンデスは義長から大道寺の創建を許可する「大道寺裁許状」を与えられます。


1552年12月、第1回協議会を開き、担当地域を分割します。
         山口―トーレス、ダ・シルヴァ
         豊後―ガ-ゴ、フェルナンデス


1554年
、山口に飢饉が発生し、漸く上層階級にも改宗者が出現します。


1555年夏
、平戸に着いたポルトガル人商人兼南蛮医ルイス・デ・アルメイダが豊後へ行き、イエズス会に入会する決心をし、自己の全財産を豊後における慈善事業と布教活動の為とに分け、会に引き渡します。


・隣国・毛利氏の襲撃による危険を避けて、ト-レスとダ・シルヴァは山口から豊後へ


1556年初、隣国長門の大名毛利元就が、弱体化していた大内氏家臣団の間隙をぬって、山口の市内に攻め込み、大内義長は逃亡します。

ト-レスはダ・シルヴァとともに豊後へ避難し、比叡山に送っていた日本人修道士ロレンソとベルナ-ベも戻り、全員が豊後に集結しました。


・山口と豊後で実践されたト-レスの方針(日本の習慣の重視)


ト-レスは、山口において「慈善事業のひとつとして、死者の埋葬に協力すること」を主張、豊後では「日本人が葬儀等の死者に関わることを重視すること」を前提として布教活動を展開していました。また、次に述べるベルショ-ル・ヌ-ネスは「ト-レスが、7年間日本人の習慣に合わせ、肉食をせず、塩魚や野菜だけの粗食に徹していた」ことを報告しています。

この「日本の習慣の重視」の方針はザビエルの「現実(適応)主義」に沿うものですが、確かなことは、それが当時のヨ-ロッパ人の限界を超えた考え方であったことです。



《三カ月で逃げ帰ったヌ-ネス管区長はアルメイダの「人生の師」》



1556年
、イエズス会インド管区長ベルショ-ル・ヌ-ネス神父とガスパ-ル・ヴィレ-ラ神父、そして二人の修道士ギリェルモとルイ・ペレイラが到着。


ヌ-ネス神父は、日本の食事や生活環境に合わず三カ月で日本を去ります。同神父は功名心にかられ周囲の反対に抗して日本行きを決行したものの、日本の生活に順応することが全くできず、その機会を無駄にしたと、会の内部事情であるにもかかわらず、珍しく公然と批判されています。

ところが、その後の日本イエズス会の活動に多大の貢献をすることになる上述のポルトガル人商人兼南蛮医ルイス・デ・アルメイダが生涯の処世方針を決断するにあたって、人生の師と仰いだ人物が他ならぬこのヌ-ネス神父だというのですから、世の中分からないものです。


・豊後の病院運営と博多の教会建設


1557年、トーレスは大友宗麟から病院建設申し出に対する許可を得ると、アルメイダとパウロをその任に当たらせます。下層階級を対象とする病院運営は敵意の的となりますが、奉仕的な医療活動は着実にその範囲を広げて行きました。

同年9月、大友宗麟から博多にある広い土地を贈られ、ト-レスは平戸にいたガ-ゴを博多に送って教会建設を命じ、更に豊後からフアン・フェルナンデスとギリェルモとルイ・ペレイラを博多に送ります。


・博多の反乱と平戸からの追放


1559年初
、大友宗麟に対する筑前国衆・筑紫惟門の反乱が博多で発生、フアン・フェルナンデスは逃れましたが、ガ-ゴとペレイラは反乱軍によって捕えられた後に逃亡し豊後に戻ります。同じ頃、平戸では、大名の決定によってヴィレ-ラが追放され教会の取り壊しが命じられました。

その結果、神父三人と修道士六人の全員が、再び豊後に集結することになりました。

アルメイダは外科医学を教えながら、日本の薬品を学び、ドゥアルテ・ダ・シルヴァは病人を治療しながら要員の教育を続けていきます。

同年8月、トーレスは協議会を開き、ヴィレ-ラとロレンソを京都へ送ることを決定します。これは、そもそも、ザビエルが企図していたことです。
その後、ヴィレ-ラは京都に5年留まり、都での活動の端緒を築きます。




(Ⅳ)1561年から1567年まで


・横瀬浦→福田浦→口之津


1561年
、平戸において、ポルトガル司令官と14人の部下が殺害されるという事件が起き、1562年、より安全な場所を求めたポルトガル船は、横瀬浦港に投錨します。

この年、豊後の大友、佐賀の龍造寺、平戸の松浦と領地を接している大村の領主 大村純忠から「横瀬浦港を教会に提供し、ポルトガル貿易の自由港にしたい」という申し出があり、トーレスはアルメイダとベルショ-ルを横瀬浦に送ります。

7月、アルメイダは数名のポルトガル人を伴って純忠を訪問し、以下の内容で交渉が成立した(パチェコ・ディエゴ著「長崎を開いた人」p.96)とされています。

(純忠の要請事項) 修道士派遣と教会建設
(純忠の提示条件)・俸禄として周囲2レグア(10km)以内の農民を与える
         ・神父の許可なしに非信者を港に居住させない
         ・ポルトガル船のもたらす商品はいっさい免税とする
         ・全て申し出事項は10年間有効とする
         ・譲渡は教会に対しなすもので、ポルトガル人に対するものではなく、
          支配権は大名が保有する



1563年6月
    大村純忠と家臣25名が受洗
     8月15日 トーレス、「盛式三誓願司祭」に昇格
     8月17日 大村家 家老伊勢守の兄弟新助が 他の家臣針尾氏によって殺害され
           反乱が勃発
     11月下旬 純忠の義弟・後藤貴明により横瀬浦は焼打ちに遭い、教会は港を放棄




A.
焼打ち後、ポルトガル商人たちは再び平戸への入港を望んだが、大村氏の利益優先を図るイエズス会は難色を示し、おなじ大村領で外洋の角力灘(すもうなだ)に面した西彼杵(にしそのぎ)半島西岸の福田浦が開港された。」


B.1565年
、「松浦氏の水軍と堺商人の大型船が福田浦を襲い、ポルトガルの黒船二隻が応戦する『福田沖の合戦』がくりひろげられたが、襲撃側は敗退した。」


C.
「その後、1567年には島原半島の南端の口之津が貿易港になった」

(以上A~C、安野眞幸著「教会領長崎」p.6 より)


この年、ト-レス、ザビエルとともに18年前鹿児島に上陸した修道士フェルナンデスが,平戸で死去します。(享年41歳)



(Ⅴ)1568年から1570年まで



・この時期のト-レスの活動について

この時期のト-レスの活動を記したいくつかの文書の内容をまとめたものが、
パチェコ・ディエゴ著「長崎を開いた人」(p.226)にありますので、その部分を抜粋します。

1567年春、口之津にいる時に、大村純忠の訪問を受けた。おそらくその訪問の結果であろう、数か月後にアルメイダを長崎に派遣した。
1568年、志岐から口之津へ行き、9月に志岐から長崎へ渡る。
長崎から福田に、福田から10月に大村へ行って、そこに1570年4月まで留まる。
長崎へ行ってそこで大村純忠の訪問を受ける。病気になって、7月末まで長崎に滞在。
パ-ドレ・カブラルと会うために志岐に渡り、死去する(10月)までそこに留まっていた。―

これだけでは、ト-レスが長崎周辺を移動していたことと、大村純忠との間に接触があったことぐらいのことしか分りませんが、1571年の長崎開港に向けてこの時期種々の準備が進められ、そこにト-レスが一方の責任者として関わっていたことは間違いないことでしょう。

大村氏の寄進による「教会領長崎」の成立は、この長崎開港の約10年後の話です。


・後任布教長(原理)原則主義者 フランシスコ・カブラル


さて、上に名前が出てきたパ-ドレ・カブラルとは、トーレスの後任の布教長フランシスコ・カブラルのことです。カブラルが日本人を嫌悪し「私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民を見たことがない。・・・」と公言し、ザビエル、ト-レスの「現実(適応)主義」に対し、「(原理)原則主義」を貫こうとしたため、日本イエズス会は大きく変わったと言われています。

何故このような人物が後任布教長に任ぜられたのか、それまでのザビエル、ト-レスの努力を考えると残念な気がするのは私だけではないでしょう。

でも、ザビエル、ト-レスの「現実(適応)主義」が当時のヨ-ロッパ人の限界を超えた考え方だったとすれば、ロ-マの会本部には「適応主義」の必要性や有効性が理解されることなどは、ほとんど不可能だったでしょうから、たとえ布教長の後任に「適応主義」と全く相いれない考え方をする人物が選ばれたとしても、それはむしろ当然のことと考えるべきなのでしょう。



やっと、トーレスが布教長職を後任のカブラルに引き継ぎ、他界していくところまでたどり着きました。


私事ですが、実はこの2週間、咳が昼も夜も止まらないという恐ろしい風邪を引いて寝込んでしまいました。齢のせいか、当地の低温・多湿(当地の冬は90%以上の高い湿度のため、体感気温は5度以上低く、関節や呼吸器を傷める年寄が多いようです)の気候のせいか分りませんが、一時はどうなることかと思いました。幸いお医者さんの話では肺は傷めていないようです。

お陰で、温暖な気候のバレンシアに育ちながら、寒暖の差が激しく気候の厳しい日本で次第に衰弱していったト-レスの苦労の一端を偲ぶことが少しですができました。

以前、キリシタン時代の人物のなかで、ザビエルについては「聖人」とされているためもあって、礼賛・崇拝されることが多くリアルな人物像が結べず興味が持てないと書いたことがあります。ところが、今回この一連の記事を書いている中でザビエルのイメ-ジもだいぶ変わってきました。というより、ザビエルについて、リアルなイメ-ジを持てるようになってきたと感じています。その辺のことも含めて、次回、ザビエルとト-レスについて感じたり、考えたりしていることを書かせて頂きたいと思います。


《つづく》


[参考図書]

キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで―高瀬弘一郎著 岩波書店
教会領長崎 イエズス会と日本          安野眞幸著 講談社選書メチエ
イエズス会の世界戦略              高橋裕史著 講談社選書メチエ
長崎を開いた人―コスメ・デ・ト-レスの生涯―  パチェコ・ディエゴ著 中央出版社
日本巡察記 ヴァリニャ-ノ 松田毅一他訳    東洋文庫 229   平凡社












































[PR]
by GFauree | 2015-09-29 02:43 | ザビエルとト-レス | Comments(0)

ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その3]



a0326062_03150204.jpg



さて、やっとザビエルと一緒に来た神父コスメ・デ・ト-レスの話をする段になりました。


(Ⅰ)1510年から1548年まで

この人の人物像を掴もうとするとき、まず気付くことは、ザビエルに遭う以前の経歴がもう既に普通でないことです。


・司祭になるまでは順調だった

ト-レスは1510年に生まれ、1534年に司祭職を授けられています。ということは、24歳で神父になったということです。これは、神父になる年齢としては、普通より少し若いと私は感じます。

何歳で司祭に叙階されるかは、人によって実に様々ですが、私がこれまでに見聞きした限りでは、若くてもせいぜい26~28歳ぐらいです。

私が何を言いたいかと言うと、ト-レスという人は、スペインの一地方都市バレンシアの宗教的環境の中で素直に成長し、平穏で順調な生活を送っていたのではないかということです。


・司祭になる頃から迷い始めた

教区司祭として叙階されれば、教区の教会の助任司祭として主任司祭や信者のために働きながら、聖職者としての知識や経験を積んでいくのが普通でしょう。

ところが、ト-レスは、地中海沿岸のバレンシア・バルセロナ対岸のマジョルカ島やバレンシア近辺の小都市で、(「文法の」というのは「ラテン語の」という意味でしょうか)教師(「神学校の」ということでしょうか)をして3~4年を過ごします。

そして、1538年、一フランシスコ会士の誘いに応じて、セビ-リャからメキシコへ渡ります。

メキシコでも、フランシスコ会への入会を勧められたり、現地政府高官や家族からそこへ留まることを請われたりしたのに、それらを振り切って、1542年ビリャロボスの艦隊に乗り組み太平洋探検航海の一員となります。

なぜ、司祭に叙階された後の8年余りをこのように過ごしたのか、についてト-レス自身は「心の中に自分でも理解できない問題があり、常に安らぎがなかった」と述べています。

要するに、「自分が何のために生まれて来たのか、何のために生きるべきなのか」という疑問に取りつかれて、将来に向かって積極的に進んでいくことが出来なかったということなのでしょう。

こういう状態に陥ることは現代でも珍しくないことはご承知の通りです。そして、こういう状態は「モラトリウム」とか「青い鳥症候群」とか呼ばれて、否定的に論じられる場合が多いようです。

ですが、私はそれに同調することは出来ません。それは、私自身が還暦を過ぎるまでその状態を続けてしまったからです。傍からは、甘えてみえたりするのでしょうが、本人にとっては、とても苦しく、仕事などの社会生活は続けていくことはできるのですからそれを壊すわけにもいかず、年数が経てば経つほどその苦しさは深く強くなっていくのです。


・ト-レスが変わった


1546年
3月、アンボイナでザビエルに遭ってから、トーレスの心の不安は次第に解消していきます。翌年、ゴアに到着し教区司祭を勤めた後、「霊操」と呼ばれる精神修養を行い、イエズス会へ入会します。そして、1549年、ザビエルとともにゴアを出発します。

そのト-レスの変貌ぶりについて、一般的には、それがザビエルに感化されたためのものであると考えられています。そこで、改めて気付くことは、ザビエルにはそういう話が多いのです。

ザビエルを日本に連れてきた男、アンジロ-は日本で人を殺し海外に逃れている疾しさに苦しんでいたところ、知り合いのポルトガル人船長からザビエルを紹介され、感銘を受けそのまま行動を共にするようになったということです。

そのアンジロ-をザビエルに紹介したポルトガル人船長ジョルジュ・アルヴァレス自身も、故在ってザビエルに深く心服していたようです。

1551年、ポルトガル船が入港したとの知らせを受けて豊後に向かったザビエルの謁見を受けた大友宗麟もそれまで陥っていた人間不信から救われるような深い感動をザビエルから受けたと言われています。

このように、ザビエルが多くの人に与えた感銘とは、また彼が多くの人を引き付けた力とは、一体何だったのかが知りたくなってきます。けれども、それを知ることはそう容易ではなさそうです。ザビエルが「聖人」だったから、と言ってしまえば簡単ですが、それでは、答えにならないような気がしました。そこで、さらに考え続けていて、あることに気付きました。


・皆が悩んでいた

それは、ザビエルに遭って救われたとされている人たちに共通していることです。それは、人間としては当たり前のことかも知れませんが、この人たちが深い苦悩や不安を抱えながらも、それを何とか克服して生きていきたいと強く願っていたと考えられることです。

アンジロ-も、ポルトガル人船長も、大友宗麟も、そしてト-レスもそうです。

「大航海時代」という名称から、この時代の人々に対してはどこか勇ましく力強いイメ-ジを抱きがちです。でもよく考えてみると、その時代は、日本では百年近く続いた内戦に国中が疲弊し、世界的にも大きな変動の中で人々が不安と苦悩から何とか脱け出ようとして救いを求めた時代でもあったのです。

そう考えれば、ザビエルが奇跡を起こすような特殊な超能力を持った「聖人」であったか否かには関係なく、彼が人々の不安や苦悩に誰よりも真摯に向き合い寄り添う考えと能力を持ちそれを実践していたとすれば、多くの人に感銘を与え、多くの人を引き付けたのは当然のことだったと思えてきます。


・トーレスの人生観を大きく変えた経験


ト-レスの場合、ザビエルとの出遭いが、司祭になった頃から10年以上続いていた心の迷いに決着を付ける機会となったことは多くの人が認めることでしょう。

けれどもよく見直してみると、トーレスがザビエルと出遭う前に、おそらくは大きく人生観を変えさせられるような経験をしていることに気が付きました。

それは、ビリャロボスの艦隊の一員であった時のことです。
ルソン島・サマ-ル島・レイテ島に到達し、国王フェリ-ペ2世を称えて、フィリピン諸島と命名したのは、この艦隊です。

ところがその後、この艦隊は敵対する先住民によって島から追い出され、飢餓や難破に見舞われ、メキシコへの帰路の航路を捜索しながら彷徨します。そして漸く、モルッカ諸島に到達してからもポルトガル人との争いに敗れます。そもそも、[その2]に書きましたように、モルッカ諸島は1529年のサラゴサ条約によって、ポルトガルに売却してしまっているのです。

ビリャロボスは、1544年アンボイナの牢屋で死亡し、残った乗組員は1545年11月ポルトガル側に投降します。こうして、離散に追い込まれた艦隊の末路は食糧の確保すらできない凄惨なものであったことが想像されます。

こういう時こそ、人間や集団の脆さ・醜さが余すところなく露呈するものです。
この経験の直後、1546年3月ト-レスはアンボイナでザビエルと出遭ったのです。

逆に、その苛酷な経験がなければ、例え出遭うことがあっても、あれ程ザビエルに強く惹かれ、新たな人生を切り開く決断をつけるまでに至ることもなかったのではないか、と私は考えます。


・それでも、ト-レスは肥っていた


ところで、このように神父になってから10年以上経ち、35歳を過ぎてもまだ、人生如何に生きるべきかと悩み抜いて、スペインからメキシコそしてモルッカ諸島まで来てしまったトーレスという男は、一体どんな風貌をしていたのでしょう。

そもそも、まじめそうな神父さんだし、人生問題にそんなに長いこと悩んでいた上に、乗り組んだ艦隊が離散してしまうような悲惨な経験をしていたと聞くと、痩身・白皙とは言わないまでも、そう堂々たる体格をしていたとは考えられないところです。

ところが、実際のト-レスはかなり肥っていたらしく、「トルレス布教長は、来日当時は、あんなに肥って元気だったのに・・・。」と同僚の神父が書いているほどなのです。肥っているうえに長身でもあったということですから、もしかすると日本に来るまでは、気は優しくて力持ちのお相撲さんのような人だったのではと想像することもできます。

ただし、日本に来てから、肉食・大食を嫌い軽蔑する当時の日本人に合わせ、肉を食べず粗食に徹しているうちに痩せてしまったそうです。


と、ここまで書いてきて、やっとインドのゴアから日本へ渡航するところまでたどり着きました。
長くなってしまったので、ここで一旦区切らせて頂いて、日本への到着後については、また次回と致します。



〈つづく〉



[参考図書]

長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯- パチェコ・ディエゴ著 中央出版社




















[PR]
by GFauree | 2015-09-09 12:57 | ザビエルとト-レス | Comments(0)

ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その2]



今回は、フランシスコ・ザビエルとコスメ・デ・トーレスの出遭いとその背景について見ていきたいと思います。


[マラッカとモルッカ]

まず、この話題について(話題にのぼるのは、ほとんどザビエルですが)書かれているものを読むとき、いつも私が紛らわしいと感じてきたのは地名です。マラッカという都市の名と、モルッカという群島の名が出て来るのです。


図Ⅰ[モルッカ諸島]

a0326062_10495931.jpg

マラッカは、マレ-半島の突端シンガポ-ルの少し北にあり、現在はメラカ(Melaka)と呼ばれている港湾都市の名です。

インドネシアのスマトラ島とマレ-半島に挟まれたマラッカ海峡(インド洋から南シナ海・ジャワ海に遠回りせずに出るためには必ず通る必要のある海上交通の要衝)に面しており、ポルトガルは1511年にここを攻略し東アジアへの進出経路を確保しました。



モルッカは、フィリピンのミンダナオ島の南東に在って、インドネシアのスラウェシ(セレベス)島とニュ-ギニア島に挟まれた香料諸島とも呼ばれる群島の名前です。


1509年2月
、ポルトガルはイスラム勢力との戦い(ディ-ウ沖の海戦)に勝利し、インド洋での覇権を確立しました。

この時点で、既にポルトガルは胡椒以外の多くの香料の産地がインドではなく、このモルッカ諸島であることと、スペインが東アジア航路を模索していることを把握していたと言われています。


そうして、1510年インド西岸のゴアを支配し、1511年マラッカを攻略、その翌年、モルッカ諸島に到着し、アンボン島のアンボイナに商館を設置しています。


さらに、マラッカ攻略の翌年1512年に、この群島の中のバンダ(Banda)島アンボン(Ambon)島テルナテ(Ternate)島ティド-ル(Tidore)島に到達しました。

地図の中で一番大きく見えるハルマヘラ(Halmahera)島は、なぜかあまり話題になることがなく、ザビエルが宣教活動をした一番北のモロタイ(Moroti)島やポルトガル商館が設置されたアンボン(Ambon)島の名前がよく出てきます。

また、一時期スペインが支配したとして名前の出て来る、テルナテ(Ternate)島ティド-ル(Tidore)島は、ハルマヘラ(Halmahera)島の西にある、比較的小さな島に過ぎません。





図Ⅱ[二人が辿った道程]


a0326062_12575768.jpg

図Ⅱの(A)曲線-ザビエルがポルトガルからインド経由モルッカ諸島まで辿った経路
   (B)点線-トーレスがスペインからメキシコ経由モルッカ諸島まで辿った経路
    
   (C)直線-ポルトガル・カブラル艦隊が風に流された航路

縦の直線は、トルデシ-リャス条約に基くスペイン・ポルトガル両国領土の境界線
  青点線は、トルデシ-リャス条約に基く境界線の180度裏側に東半球の境界線を設けたと仮定した場合の境界線の位置。(岡山辺りを通過する。)

縦の線は、サラゴサ条約に基く境界線(東経144度30分)。(釧路辺りを通過する。)

トルデシ-リャス条約、サラゴサ条約については後述します。




[ザビエルが辿った道程]


フランシスコ・ザビエルは、1506年スペインのナバラ王国に生まれ、パリ大学で哲学を学んでいたときに、後にイエズス会の初代総長となるイグナチオ・デ・ロヨラの強力な勧誘を受けイエズス会の7人の創立メンバ-の一人となります。

イエズス会に対するポルトガル王ジョアン三世の要請により、インドへ派遣されることになり、1541年4月リスボンを出発し、翌年5月ゴアに到着します。


その後、ゴア周辺各地で宣教活動を展開します。1545年9月マラッカ1546年1月モルッカ諸島へも赴き、同年3月同諸島のアンボン島でコスメ・デ・ト-レスと出遭います。


そして、1547年12月マラッカに戻ったさい日本人アンジロ-が訪ねてきます。
1548年、ザビエルはアンジロ-をゴアに連れ帰り、日本への渡航計画を開始します。


このザビエルが辿った道程(図Ⅱの(A))は丁度、ポルトガルの海洋帝国構築の跡と重なっています。

ポルトガルは、1415年アフリカ北岸のセウタに進出して以来アフリカ西岸を進み、1488年にアフリカ南端の喜望峰に到達し、その10年後、ヴァスコ・ダ・ガマインド航路を発見します。


1510年インド西岸のゴアを攻略し、1511年にマレ-半島のマラッカを征服、翌年モルッカ諸島に到達したのです。



[ト-レスが辿った道程]


コスメ・デ・ト-レスは、1510年前後にスペインのバレンシアで生まれ、神学を学び1534年頃司祭になっています。地中海のマジョルカ島で教師をした後、バレンシアに戻ります。

その後、バレンシア・バルセロナ両地方の境にあるウルデコ-ナで、ラテン語教師として過ごしていた時にフランシスコ会の修道士に誘われて、1538年メキシコに向けて出発することになります。

メキシコでもフランシスコ会への入会を勧められますが、これを断り、行政長官の家の住込み司祭として3年半を送ります。

1542年11月、ルイス・ロペス・ビリャロボスの率いる太平洋探検の艦隊に艦隊付司祭の一人として乗り組み、メキシコ太平洋岸のナビダ港から出発します。



[ビリャロボスの艦隊とは何か?]


1.マゼラン艦隊の世界周航

1519年8月、ポルトガル人のフェルデイナンド・マゼランがスペイン艦隊を率いてセヴィリアを出発します。

この艦隊は、南米大陸最南端の(マゼラン)海峡を発見・経由し、太平洋に出て西に航行を続け、ついにフィリピン諸島に到達します。

1521年4月、マゼランはセブ島対岸のマクタン島で戦死し、残された艦隊は11月に香料諸島に辿り着いた後、ポルトガル領海(インド・アフリカ)経由1522年9月にスペインに帰国し、これによって、初の世界周航が達成されたことになります。

しかし、帰国することのできたのは、出発時5隻あった船のうちヴィクトリア号1隻と、約270人いた乗組員のうちの18人のみだったということです。


2.太平洋進出への根拠地獲得


1519年
、スペイン人のエルナン・コルテスがメキシコに上陸、1521年アステカ帝国を滅亡させヌエバ・エスパ-ニャ副王領を創設します。

これによって、スペインはヨ-ロッパ側から見て前方に大きく立ちはだかっていた南北アメリカ大陸を越えて、太平洋に進出するための根拠地を獲得したことになります。

スペインにとっての課題は、マゼランの発見した香料諸島との往復をスペイン領のみを通過して行い、かつその航路を出来るだけ短縮することでした。

ところが、1525年に派遣されたホフレ・デ・ロアイサの艦隊はスペイン北部ガリシア地方のラ・コル-ニャから出帆しています。香辛料取引のための商館を、前以てラ・コル-ニャに設置してしまったためではないかと言われています。

巨大化し硬直化してしまった官僚制度の悪弊を示すこういう話が当時のスペインについて、よく出てきますが、1527年に派遣されたアルバロ・デ・サアベドゥラ・セロンの艦隊からはさすがにメキシコの太平洋岸から出帆しています。


そして、1542年に派遣されたルイス・ロペス・ビリャロボスの艦隊も、メキシコ太平洋岸のナビダ港を出港するのです。その艦隊には、会計係ギイド・デ・ラベサレス他6名の聖職者が乗り組んでいたことが分っています。4名のアウグスティヌス会士と2名の教区司祭(修道会に所属しない司祭)でした。

その2名の教区司祭のうちの一人がコスメ・デ・ト-レスということになります。


3.太平洋横断帰路が見つからず


ところが、ロアイサ、サアベドゥラ、ビリャロボスのいずれの艦隊も太平洋を横断する帰路を発見することが出来ず、熱帯地方の島々を彷徨することになります。

ビリャロボスの艦隊は、メキシコに戻る航路を探してフィリピンのミンダナオ島で1年以上、モルッカ諸島のティド-ル島で約2年を過ごした後、ついに1545年11月、インドなどポルトガル領を経由してスペインに戻るべくポルトガル人に投降しました。

このため、ビリャロボスの探検隊は離散し、ト-レスはアンボン島に向かい、1546年3月そこで宣教活動をしていたザビエルに出遭うこととなります。


スペインが太平洋横断帰路を見つけることが出来たのは、1565年になってからのことです。この年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ率いる艦隊がセブ島に根拠地を築きます。

レガスピは、孫のフェリペ・デ・サルセド隊長に、ロアイサ艦隊の生き残りでアウグスティノ会士だったアンドレス・デ・ウルダネタを案内人として付け、メキシコへの帰路発見に向かわせます。ウルダネタ一行は同年、ヌエバ・エスパ-ニャ(メキシコ)のアカプルコ港に到着したのです。


4.数々の艦隊派遣費用は借入でまかなわれていた


探検隊派遣は人員・船舶・糧食などざっと考えただけでも莫大な費用を要する事業です。
派遣を決め、命令する以上、王室はその費用を負担しなければならない筈ですが、常に財政的に窮迫していたとされるスペイン王室は一体どこからその資金を調達したのかという疑問が湧きます。

その資金の主要な出所は、ドイツの金融資本家フッガ-家だったと言われています。

マゼランがセヴィリアを出港した1519年、カルロス五世を神聖ロ-マ皇帝として選定するための選挙に出資していたフッガ-家は、その報酬として、スペイン本国とその植民地における政府関係事業に関する様々な便益を受け取っていました。

また、征服と発見(による収益)を担保とする融資は定石となっていました。
マゼランの遠征は、一部、香辛料取引の将来の活動(による収益)をフッガ-家に売却するような形でファイナンスされていたのです。

それで、理解できるのは大航海時代の征服者たちが、何故あれほどまでに貪欲であったかということです。

先住民を犠牲にし、彼らを敵に回し自らもマゼランのように命を失う危険を冒してでも出来るだけ早く現金に近い形(金・銀)で費用を回収し、国王の負っている負債の早期返済と金利負担軽減に貢献することが、国王に対する何よりの忠誠心の表われとして評価されることを、探検者・征服者たちも充分意識して行動していたということでしょう。(どこかで聞いたことのある話ですね。)

その少し前、フッガ-家は教皇贖宥状を担保に融資を行い、宗教改革の誕生(1517年)に貢献していたことが指摘されています。ということは、フッガ-家はイエズス会(対抗宗教改革運動の旗手)誕生に貢献していたことにもなります。


離散したビリャロボス探検隊の一員であったコスメ・デ・トーレスは、アンボイナでザビエルに遭った後、ザビエルと共に生きていきたいとの思いから、インドを目指します。ジャワからマラッカへ行き、コチンを経てゴアに到着した時には既に1547年に入っていました。

一方、既に書いたことですが、その年の末、ザビエルは、マラッカで日本人ヤジロウの訪問を受け、翌年彼をゴアに連れ帰ります。

そのころ、遠くアウグスブルグでは、フッガ-家がスペイン国王に対し、モルッカ諸島遠征の経費3,946,939マラベディを請求する訴訟を起こしていたということです。



ところで、スペインは、マゼラン以来、香料諸島との間をスペイン領のみを通過して行き来することに、また膨大な費用をかけて再三にわたり遠征隊を派遣しメキシコへの帰路をさがすことに、なぜあれほどこだわったのでしょうか。

それは、こだわらなければなければならない理由があったからです。
その理由とは、スペインとポルトガルの間に、北極から南極に引いた子午線によって地球を二分割するというデマルカシオン(境界画定)の取り極めがあったことです。

ポルトガルの海外事業展開の一翼を担ったザビエルと、スペインの一教区司祭であったト-レスが東西逆方向の経路をたどってモルッカ諸島で遭遇したことの理由も、このデマルカシオンの取り極めにあります。

そこで、次にこのデマルカシオンについて見ていくことにします。



[スペイン・ポルトガル両国で世界を二分割しようとしたデマルカシオン]


1.教皇アレキサンデル六世大勅書とトルデシリャス条約


世界分割のデマルカシオンというものは、一挙に取り極められたものではありません。
1479年の二国間のアルカソヴァス条約1493年教皇アレキサンデル六世大勅書などを経て、1494年両国間で締結されたトルデシ-リャス条約により確定したものです。


1493年にコロンブスが第一回の航海から戻ると、新発見地の帰属をめぐって、両国の間に論争が起きた結果、教皇アレキサンデル六世の大勅書が発布されました。


その中で規定されたデマルカシオン(境界画定)は、
アソ-レス諸島とヴェルデ岬諸島の西100レグアのところに、北極から南極へ引いた線を境界とする」というものです。


更に、両国間で協議した結果締結されたトルデシ-リャス条約では、境界線の位置は、
ヴェルデ岬諸島の西370レグアのところ」に改められますが、同諸島のどの島のどの位置から測定するかについては言及されていません。



2.境界線の位置について


教皇大勅書もトルデシリャス条約も、各諸島のどの島を基準とするかを明示していませんし、規定に経度を使用していませんので、境界線の位置には諸説があります。


教皇大勅書の境界線は「大西洋の海上」、トルデシリャス条約の境界線は「西経46度30分」と言われている場合が多いようです。


3.ブラジルを「発見」して、あわてたポルトガル


1498年
ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ南端の岬、喜望峰を発見し、そこを経由してインド南部のマラバ-ル海岸に到達します。


ガマ一行の帰還後、ポルトガル王マヌエル一世は、ペドロ・アルバロス・カブラルの艦隊を送り出します。ところが、このカブラルの艦隊は、喜望峰を周航しようと東向きの風を待っている間に、西向きに流されてしまい、なんとブラジルの現在のバイア州ポルト・セグ-ロ(ブラジリアの東・リオデジャネイロの北)に漂着してしまいます。


図Ⅱで、紫色の矢印で表わしたのが、カブラルの艦隊が東風に流された航路です。


私たち日本人は、日本が真ん中に、左端にアフリカ、右端に南米が描かれた世界地図を見慣れていますので気が付きにくいのですが、図Ⅱのようにヨ-ロッパとアフリカが中央にくるタイプの地図であれば、アフリカと南米との距離は意外と近いことが分ります。


教皇アレキサンデル六世の大勅書では、両国領土の境界線は、大西洋上にあるとする解釈も成り立ちます。すると、折角、発見したブラジルが全く領土として認められない可能性も出てきました。

そこで、ポルトガルは急遽、教皇ユリウス二世に対し、トルデシ-リャス条約の承認を求め、1506年大勅書の発布を受けたという経緯があります。


4.拡大と膨張を続けてきたブラジル


トルデシ-リャス条約による境界線を西経46度30分の子午線とすると、その境界線は現在のサン・パウロとリオ・デ・ジャネイロの間あたりを通ることになります。

条約によれば、その境界線の東側がポルトガル領(現在のブラジル)、西側がスペイン領(現在のペル-)ということになります。

オリンピックの関係で最近、ブラジルの地図をご覧になる機会が増えているのではないかと思いますが、現在のブラジルの領土は当時の領土の何倍ににも拡大していることにお気付きでしょうか。

「一般に、スペインは植民地の獲得、経営を目指したのに対し、ポルトガルは各地の港に貿易の基地を設けることで満足し、植民地の獲得よりも貿易の繁栄を図った」ということがよく言われていますが、これをみると決してそうとばかりも言えないことが分ります。

ポルトガルも、それが可能な地域では植民地の獲得・拡大を目指しスペイン同様の侵略行為や武力行使も行っていたと考えるほうが自然であり、その実例は南米の歴史のなかに確かに見出せます。



5.東半球における境界線(日本はどういうことになるか)


トルデシ-リャス条約の境界線を西経46度30分とすると、その境界線を挟んで西側はスペインが東側はポルトガルが征服を進めることになりますが、両国の征服事業は地球の裏側で衝突することになります。


そこで、トルデシ-リャス条約の東半球における境界線は、西経46度30分の180度反対側の子午線とすることが考えられます。それは、東経133度30分岡山辺りを通過する子午線ということになります。

日本人が全く与り知らない所で、日本がポルトガルとスペインの領土に分割されかねない条約が結ばれロ-マ法王が承認していたということです。

ですが、実際には、教皇アレキサンデル六世大勅書にもトルデシ-リャス条約にも、東半球における境界線については、述べられてはいません。

スペインは、東半球の境界線はマラッカ(シンガポ-ル辺り)の上を通る子午線であると勝手に考えていたと言われています。

そうであれば、日本は完全にスペインの領土に含まれることになります。

この点については、日本への布教に成功したポルトガル=マカオ=イエズス会のラインにその後スペイン=マニラ=托鉢修道会のラインが参入しようとして競合したために、両国の間で激しい論争が行われました。


1529年に両国間で締結されたサラゴサ条約には、「モルッカ諸島の東297.5レグアのところに線(図Ⅱ東経144度30分のの直線)を引く」という規定がありますが、これはトルデシ-リャス条約で述べられなかった境界線とは別の意味を持つものです。



6.サラゴサ条約は、モルッカ諸島の買い戻し条件付き売買契約



サラゴサ条約
は、マゼランの航海の結果、モルッカ諸島の帰属を巡って両国間に論争が生じたため交渉が行われ、1529年に締結されたものです。

条約で決定された内容は、

(1)スペインはモルッカ諸島に関する全ての権利を、黄金35万ドゥカドで売却する。

(2)この契約により、スペインがポルトガルに売却する領域・権利を明確にするために、(上記のとおり)モルッカ諸島の位置から297.5レグアのところに、北極から南極まで線を引く。

というものです。

従って、(2)で引かれた線は、35万ドゥカドで売買契約をした地域・海域を明確にするためのものであり、これを、東半球での境界線とするというような考えは、少なくともスペイン側にはなかったと言われています。

また、興味を引くことは、この契約は、「スペインがいつでも希望するときに、35万ドゥカドをポルトガルに返済すれば、解消することができる」ことが明記されて、「買い戻し条件付きの売買契約」となっていることです。

売買契約というより、スペインがポルトガルから、モルッカ諸島に関する権利を抵当に35万ドゥカドの借入をしたような形になっているのです。

何故、このような形にしたのかについて明確な説明はありませんが、スペインとしては資金調達に窮していてとにかく売却はせざるを得ないという事情があったのでしょう。

ただ、長年探し求めてやっと手に入れた香辛料の原産地をその価格で売り切りの形で手放してしまうことは忍び難かったということではないかと、私は推測します。


ともかくも、東半球における両国の境界線が、ヨ-ロッパでは貴金属にも匹敵する価格で取引されるほど価値のある香辛料の原産地として、両国が永年必死で探し求めていた香料諸島を基準に設定されたことは、この時代の両国の海外展開を象徴しているようで面白く感じます。


[まとめ]


これまで見てきたことから、ザビエルとト-レスの二人が辿った道程とその出遭いの背景を描くとしたら、どんな絵が描けるでしょうか。


・まず、海洋帝国の構築を狙うポルトガルと植民地帝国の拡大を目指すスペインの艦隊の往来

・両国を警戒・監視し対抗するイスラム勢力及びインド以東周辺各地・各国の船舶の出没

・倭寇やザビエル到来の6~7年前に鉄砲をもたらしたような中国・ポルトガルの商船・商人の往来

こういう要素を考え合わせると、16世紀半ばの東アジアの海域には、私が予想していた以上に多様な勢力が、頻繁に行き来していたようです。また、そうであれば、ザビエルとト-レスの出遭いや、二人の日本渡来は、奇跡的というよりむしろ当然発生し得た必然的なものだったのではという気がします。


皆様は、どのようにお感じでしょうか。
もし、彼らが生きた時代・環境を多少とも一緒に感じて頂けたら幸いです。



こうして、日本に到着したコスメ・デ・ト-レスは、その21年後の1570年天草の志岐で亡くなっています。


次回は、ト-レスの約20年間の日本での活動とその人となりを追ってみようと思います。



〈つづく〉




[参考図書]

CONFRNTACIÓN TRANSPACÍFICA EL JAPÓN Y EL NUEVO MUNDO HISPANICO
1542-1639 LOTHAR KNAUTH Universidad Nacional Autónoma de México

長崎を開いた人-コスメ・デ・トーレスの生涯-パチェコ・ディエゴ著 中央出版社

講座世界史1 世界史とは何か 多元的世界接触の転機 歴史学研究会編 東京大学出版会
       Ⅱ大航海時代 2 フィリピンとメキシコ 菅谷成子著

キリシタン時代の研究 高瀬弘一郎著 岩波書店

ザビエルの見た日本 ピ-タ-・ミルワ-ド著 松本たま訳 講談社学術文庫


























 







[PR]
by GFauree | 2015-08-21 11:41 | ザビエルとト-レス | Comments(0)

ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その1]



a0326062_04582555.jpg



1.ザビエル渡来


(1)イゴヨク広まるキリスト教



フランシスコ・ザビエルが、1549年に日本に来てキリスト教布教を始めたことは、中学の歴史の教科書に出ていたことですから、覚えておられる方は少なくないだろうと思います。私は若い頃、歴史に殆ど興味を持てなかったのですが、教科書に載っていたザビエルの肖像画と年号語呂合わせ(「イゴヨク広まるキリスト教」だったか)のお蔭で、「ザビエル渡来」は記憶に残りました。

その「ザビエル渡来」が私の記憶に残った理由として、もう一つ考えられることがあります。


(2)戦後の歴史教育の中で


私が育った時期は、戦後の「唯物論的進歩主義知識人」(ああ、なんと懐かしくも気恥ずかしい呼び名でしょうか)が言論をリードしている印象のあった時代です。そんな時代の公立学校の歴史の授業で宗教が、それもキリスト教のうちの新教(プロテスタント)でなく旧教(カトリック)が、話題にされるなどということは後にも先にもこの時だけでしたから、カトリック信者の家庭に育った私にはとりわけ印象深かったのかも知れないと思うのです。

ちなみに、このブログでも採り上げたことのある「慶長遣欧使節 支倉常長」も歴史の教科書に載っていましたが、その使節派遣とカトリック布教との関係は確か一言も触れられていなかったと思います。

また、ついでに言えば、戦後のあの頃には「プロテスタント(新教)は腐敗した権威に抵抗した新しく清潔な考えだから正しく、カトリック(旧教)は古く封建的(?)で厳しいからそれだけで駄目」というように考えている人が多かったようですが、今はどうなんでしょう。

ともかく、珍しく印象に残ったザビエルですが、その後長い間、その印象が深まったり広がったりすることはありませんでした。でも、その間、ザビエルに関する話題に触れることがなかったわけではありません。
ザビエルがカトリック教会が認定した「聖人」であるせいでしょうか、奇跡話や逸話が時々話題になるのです。



2.ザビエルの奇跡と逸話


(1)『蟹の奇跡』と『奇跡の右腕』


奇跡については、先ず、『蟹の奇跡』というのがあります。

インドネシア・モルッカ諸島を航海中、乗っていた船が暴風雨に襲われ、ザビエルがいつも首から下げていた十字架を海水に浸して嵐を鎮めようとしたところ、波がそれを奪い去り、海底に沈んでしまったそうです。その後、風雨が静まってある島に上陸し岸辺を歩いていると、蟹が十字架を運んで来たというのです。

その話が、助けた亀が再び現れる浦島太郎の話に似ているということも、どこかで読みました。

次に、『奇跡の右腕』というのがあります。

ザビエルの右腕は、死後50年経っていたにもかかわらず、鮮血がほとばしり出たそうです。
その右腕は、1949年と1999年に、ザビエル日本渡来400年と450年を記念して日本に持って来られて展示されました。


(2)『噛み切られた足指』と『聖母に捧げられた日本』の逸話


それから、逸話ですが、そのひとつは『噛み切られた足指』です。
ザビエルの遺体は、1554年3月16日から三日間、インド・ゴアの聖パウロ聖堂で一般への拝観が許されました。すると、参観者の一人の婦人が右足の指2本を噛み切って逃走してしまいました。結局、足指は彼女の死後家族によって教会へ返されたそうです。

もう一つの逸話は、『聖母に捧げられた日本』です。
ザビエルが鹿児島に到着した8月15日は聖母マリア被昇天の祝日(聖母が亡くなって昇天した日)です。
そこで、ザビエルは上陸したときに、日本を聖母マリアに捧げて感謝を表わしたということです。

司馬遼太郎はこれを知って「なんとお節介な」と笑ったそうですが、私はそれを笑えるほど心が広くはなく、「他人の物を捧げるとは、どういう神経かな」と思うだけにしておきました。それ以上考えると腹が立って来そうだったからです。

こういう奇跡話や逸話は「聖人」に親近感を抱かせようとの意図から誰かが採り上げ、伝えられてきたものなのでしょうが、このような話題が出るたびに、ザビエルの存在は私の中でますます薄いものに成っていった感じがします。

そんな私にとって、ザビエル渡来の印象が変わってきたのは、ほんの3年ぐらい前からのことです。



3.ザビエル渡来の印象が変わった



それは、以前このブログで採り上げた、ペル-からマカオ経由で日本へ行き豊臣秀吉と会見したフアン・デ・ソリスという人物について知りたくて、フェルナンド・イワサキという日系人作家が書いた Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI (十六世紀の極東とペル-)という本を読んでいた時のことです。


(1)『太平洋を越えた対峙 日本と新大陸スペイン語圏』


その本の中に、盛んに参照・引用されている本がありました。
Lothar Knauth 著 Confrontación Transpacífica el Japón y el Nuevo Mundo hispanico 1542-1639
(太平洋を越えた対峙 日本と新大陸スペイン語圏 1542年~1639年)、という本です。

著者はドイツ生まれで国立メキシコ自治大学の教授です。
そのせいで、著者の名前はどう発音すべきか私には分りませんのでカタカナ表記は出来ません。
本の題名の中の、1542年は鉄砲伝来、1639年は鎖国体制が完成したとみられる年です。
つまり、この本は、日本のキリシタン時代史をメキシコ他南米とフィリピンという旧スペイン植民地(新大陸スペイン語圏)との関係から捉えて書かれたものなのです。

キリシタン布教が様々な面でポルトガル船貿易によって支えられていたことは事実ですから、ポルトガルの拠点であったマカオの視点から日本のキリシタン時代史を観た本は少なくないのですが、フィリピンやメキシコなどのスペイン語圏からの観点で書かれた本は希少なようです。

この本は1972年に出版されています。日本のキリシタン時代史の研究が1970年代半ばから大きく発展して行ったことと、関係があるかも知れません。

この本に、ザビエルと一緒に日本に来た神父 コスメ・デ・ト-レスとザビエルとの出遭いが書かれていたのです。


(2)ザビエルとコスメ・デ・ト-レスの出遭い


ザビエルの日本渡来については、アンジロ-(ヤジロ-)と呼ばれる日本人が連れてきたとよく言われるのですが、実際はアンジロ-とザビエルを含めて、少なくとも8名の集団できたようです。

内訳は、フランシスコ・ザビエル  神父(44歳)
     コスメ・デ・ト-レス  神父(39歳)
     フアン・フェルナンデス 修道士(23歳)
     パブロ・デ・サンタフェ(アンジロ-の洗礼名)・ジョアン・アントニオ 以上 日本人3名
     マヌエル -中国人
     アマド-ル-インド人


ザビエルはスペイン・ナバラ王国の生まれであるのに対し、トーレスは同じスペインではありますがバレンシア地方の生まれです。ザビエルがイエズス会の創立者の一人であり、ポルトガル王によってインドへ派遣されたのに対し、ト-レスは修道会に属さない司祭としてスペインを出てメキシコに向かったのです。


二人は、日本に渡来する3年前に、現在のインドネシア、モルッカ諸島のアンボン島で出遭っています。

アンボン島に至るまでの二人は、ザビエルがアフリカ・インドを経由したのに対し、トーレスはメキシコから太平洋を経由していますから、ちょうど地球を逆方向に進む航路を辿ったことになります。そして、それらの経路は、この時代のポルトガル・スペイン両国の海外事業展開をそのまま示しているのです。


上述の歴史書『太平洋を越えた対峙 日本と新大陸スペイン語圏』は、そのような観点から、ザビエルとトーレスの「出遭い」とその後の「日本渡来」の背景を説明してくれています。私は、そこに書かれた背景を読んで、ザビエル渡来が起きた時代と、ザビエルの存在自体も初めてリアルに感じることが出来たような気がしました。


その、二人の「出遭い」・「日本渡来」の背景の内容については、次回述べさせて頂こうと思います。


〈つづく〉




 














[PR]
by GFauree | 2015-08-05 09:40 | ザビエルとト-レス | Comments(0)