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1.お金の話


ともに商人出身のポルトガル人でイエズス会士となった、ルイス・デ・アルメイダとメンデス・ピントに関する記録には、なにかとお金の話が出て来ます。ところが、それらが今の貨幣価値にしてどのくらいの金額に相当するのか、について参考程度の材料は提供されるのですが、どの本にも「ずばり、いくら」とは書いてありません。そこで、私なりにそれを推測してみることにしました。

二人のお金に関する話は、以下のようなものです。

アルメイダ

(1)自ら持てる私財のほとんどを豊後の住院に投じた。その額は、ポルトガル貨幣で4千クルサドとも5千クルサドとも言われている。
(2)豊後で、世俗から引き籠もって精神修養をしていたときに、「子供の間引き」のことを聞いて心を動かし、1千クルサドをそのために提供した。
(3)バレト一行が日本へ到着しないのを知り、豊後からバレトに対し手紙と渡航費用2千クルサドを知人ヌ-ノ・アルヴァレスに託した。

ピント

(1)商人として日本に滞在していた頃、山口に修院を建てるための費用3百クルサドをザビエルに貸した。
(2)ゴアでイエズス会への入会を決意した時点で、7千ドゥカド(クルサド)の財産があり、そのうち2千ドゥカドを本国の家族に送り、残りをイエズス会に寄進した。


東野利夫著「南蛮医アルメイダ」(p.45)には、以下の記載があります。

「高瀬弘一郎氏の研究によれば、1クルサドは約400レイス、25レイスが約1文とされている。アルメイダが府内病院に私財を投じた弘治三年(1557年)頃には、米一石(約60キログラム)が1、600文したと考えられる。当時、庶民の口に入らなかった米の値段は、現在の数十倍以上であった。」

まず、現在、一般的な家庭で食べられている米は(インタ-ネットで見てみると)、10キログラムで4、000円前後です。
当時の、米の値段は、現在の数十倍であるとされていますが、思い切って百倍とします。
すると、米一石(約60キログラム)は、4、000円×60/10×100倍=240万円

これが、1,600文に相当したのですから、240万円÷1、600文=1,500円(1文)
1文は25レイスに相当したということですから、1,500円÷25レイス=60円(1レイス)
1クルサドは、400レイスですから、60円×400レイス=2万4千円(1クルサド)となります。

すると、アルメイダとピントがイエズス会入会時に5千クルサド(ドゥカド)を寄捨したと言われていますが、それは、2万4千円×5千クルサド=1億2千万円、ということになります。
ところがこの計算では、イエズス会入会時ピントが持っていた7千ドゥカドは1億6千8百万円にしかならないのです。

修道士ブランダオンの書簡によると、ピントは「インドで最も金を蓄えた者の一人である」とのことですから、この評価は低すぎます。少なくとも、一桁違うようです。そこで、確かな根拠はありませんが、7千ドゥカドは16億8千万円、5千ドゥカドは12億円(つまり、1ドゥカド=24万円)としてみると、何だかしっくり来ます。

ザビエルがピントから借りた山口の修院建設費用300ドゥカドも、この計算なら、7千2百万円になりますから、まあ妥当なところではないでしょうか。

結局、今の貨幣価値にしてどのくらいの金額になるのかという問いに対する明確な答えは出て来ませんでした。私たちの持っている感覚的な貨幣価値というのは、実はとても複雑な要素で構成されているものなのではないかということを改めて思います。色々な本で感覚的な貨幣価値にまでは踏み込まない理由はそういうことなのでしょう。



2.アルメイダの医療活動をめぐって



(1)「医療禁令」について



[その1]で、東野利夫著「南蛮医アルメイダ」には、次の事柄が書かれている旨記しました。

それは、1558年イエズス会本部で行われた「最高宗門会議」で決議された「医療禁令」の通達が1560年7月届けられたことと、この「医療禁令」によって、アルメイダはじめイエズス会士たちが府内病院から手を引いたため、病院が次第に衰退していったことです。


私は、「最高宗門会議」という名称を始めとして、この「医療禁令」に関する諸事情の説明に疑問を感じて、その旨[その1]に書きました。ところが、その後偶然に、ある論文にその間の事情が書かれてあるのを見つけました。

それは、遠藤周作の小説『沈黙』にも登場する著名な背教者について書かれた、フ-ベルト・チ-スリク氏の「クリストヴァン・フェレイラの研究」(キリシタン研究 第二十六輯)です。そこに、以下の様に書かれています。


「トレント公会議での聖職者に課された禁止令によって、聖職者は正式な医療活動を行うことができなくなった。(ただ、元来、)中世以降、司祭や修道者は医術を学び行うことが禁じられ、『聖職者は、法律も医学も学ぶべからず』とされていたのだ。

トレント公会議がこの禁止令を新たに強調するようになった結果、1559年に発布されたイエズス会の会憲は、イエズス会のコレジオで医学を教えることを禁じ、もしくは医学部の講義をイエズス会士でない教師に一任することになった。

その結果、アルメイダによって始められた内科や外科の伝統は、イエズス会の中で中断された。


これによれば、「医療禁令」は私が勝手に憶測したように誰かが自分の都合で捏造したというようなものでなく、カトリック教会全体の問題として考えられ、トレント公会議の場で結論が出され、それに沿ってイエズス会内の会憲に定められとものであるとのことです。

[その1]で書きましたように、「聖職者は、現世での肉体の生死に関わる医療行為を行うべきでない」という、理屈は一応、筋は通っているとは思います。でも、その理屈によって、折角四百年以上前に、本格的に取り組まれようとした社会的救済事業の目を、カトリック教会もイエズス会も摘んでしまったということになります。ただ、これがカトリック教会だけの問題ではないことは、仏教の僧侶の方から伺いました。宗派によっては、僧侶の医療行為が抑制されてきた、ということがあるそうです。



(2)アルメイダの病院についての、もう一つの問題



ディエゴ・パチェコ著「長崎を開いた人」には、アルメイダの病院と豊後(大分)での布教活動について、記述があります。その要旨は以下のようなものです。

「豊後では、貴人や武士などの上層階級には、キリスト教が浸透していないという問題があった。そして、その原因は下層階級を対象にしたアルメイダ病院にある(下層階級向けの病院が脚光を浴びた結果、キリスト教が下層階級のためのものであるとの印象を広めてしまった)、と言われてきた。

しかし、アルメイダの病院建設前から、上層階級はキリスト教に近付かなかったのだから、原因は他にある。筆者(パチェコ氏)は、その原因は政治的事情によるものだと考えている。

不安定な政治状況が続く中で、人々は極度の緊張の中に暮し、そのために、大名の権威はますます損なわれ、更に不安定さが増大するという悪循環に陥っていたのである。」


この記述の中には、豊後の上層階級への布教が成功しないことの原因を、アルメイダの病院のせいにする発言を、いつ・だれがしたのかが書かれていないために、この部分を書いた筆者の真意が若干不鮮明です。

そこで、私の推測ですが、豊後の布教が不成功であり、その原因がアルメイダの病院にあったとする見解が日本のイエズス会内部にあったためにこういう書き方がされたのではないか、ということです。そして、もしそうであれば、アルメイダの病院による社会事業への本格的取り組みは、トレント公会議の決定やそれに沿ったイエズス会本部による会憲の変更などがなくても、日本のイエズス会自身によって、いずれ阻止される運命にあったのではないか、ということです。


〈ヴァリニャ-ノの考えた「慈善病院」〉


ルイス・デ・アルメイダが死去した1583年、イエズス会巡察師として、日本のキリシタン教会を監督・指導する立場にあったアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、日本の諸事情に関する報告書を作成しています。その報告書「日本諸事要録」の第三十章は「費用があれば、日本に設置すべき公益質屋、並びに慈善病院」と題されています。


この事業は、今日吾人は日本で名声と信頼を博しているので、かつて豊後において吾人がまったく信頼されていなかった当時、初めて行われた際よりも、さらに大いなる効果を挙げることであろう。

この他に今設立する病院には、別の経営方法のものが必要である。この種の病院も、キリスト教徒以外は収容しないか、日本で嫌悪される癩患者ではなく、他に救済方法がない、貴人だけを収容する。なぜならば、あらゆる階級の者を救うことができずに下層の者だけを収容していると、慈善病院やそこで働く人々の評判が落ちるからである。この際には、収容された貴人を鄭重に扱い、清潔を保ち、楽しく過ごせるようにする。

(日本巡察記 ヴァリニャ-ノ 東洋文庫229 平凡社 「日本諸事要録」より) 


ヴァリニャ-ノが言いたかったことは、

名声を得ていなかった時期にあれだけの効果をあげたのだから、現在であればこの(病院)事業にさらなる実績が期待できる。
ただし、経営方法は変える必要がある。対象は日本で嫌われる病の患者ではなく、他に救済方法のない身分の高い者に限り、手厚く看護すべし。下層の者を対象とすると、病院と従事者の格式が落ちてしまう。ということでしょう。

効果重視および組織の格式維持・向上の観点からの、やや冷淡とも言える見事な官僚的見解です。つくづく、抜け目のない人だなと感じます。でも、こういう人が、人々が魂の救いを求めて集まる教会の監督・指導の責任を負っていたということは、どういうことなんでしょうか。ただ、この人が所属していた組織が神聖なものなどではなく、極めて人間的なものだったということは言えるでしょう。



3.アルメイダはプロクラド-ルの先駆者



キリシタン教会の主たる財源は、貿易という商業活動の収益でした。この教会の商業活動を担ったのが、イエズス会内のプロクラド-ルと呼ばれる財務担当者です。

〈財務担当者でないプロクラド-ルもいた〉

ただ、このプロクラド-ルという名称ですが、同じイエズス会内でも場合によって、必ずしも財務担当者を意味したものではなかったようです。1637年、ブラジルの奥地探検隊(バンデイランテ)に襲われていたタペ地方(現在のブラジル領リオ・グランド・スル州)の先住民教化村の窮状を訴えるために、現地のイエズス会は、二人の特使を、それぞれマドリ-ド宮廷とローマ法王庁に派遣しています。この特使プロクラド-ルと呼ばれているのです。

西和辞典では、プロクラド-ルの訳語は代理人・財務管理者(司祭)とされています。先住民教化村の特使は現地イエズス会の代理人(代表者)として、プロクラド-ルと呼ばれたのでは、と思います。

日本イエズス会のプロクラド-ルは、その経済活動のために、マドリ-ド・リスボン・ゴア・マラッカ・マカオ・長崎に配置されました。判明している限りで、最も古い時期の長崎のプロクラド-ルは、ミゲル・ヴァスという人物です。彼は、1563年の入会直後、イルマン(修道士)であった時から、1582年に死亡するまでの19年間、プロクラド-ルを勤めたと考えられています。


〈偉くなったプロクラド-ル〉



当初、ミゲル・ヴァスのように、プロクラド-ル職には、イルマン(修道士)が任ぜられていましたが、1600年頃から、高度な政治的及び経済的手腕が要求される重要な地位であるとして、最高の職階である盛式四誓願司祭(パードレ)が任ぜられるようになりました。つまり、プロクラド-ルの教会内における地位が著しく向上したということです。と書くと簡単なことのようですが、実際は結構大変なことなのです。

まず、その仕事を取り巻く環境が変化したということを意味します。キリシタン教会で言えば、布教が成功し組織が拡大することによって、ますます財源確保の重要性が増していったということでしょう。そして、その必要性に応えるべく財務担当者にはより高度な知識・経験が要求され、また歴代のプロクラド-ル達は、かなりの努力を注いでその要求に応え、ついにその地位向上が組織の中で認められたということなのです。

現代の企業においても、同様なことが起きていることをご承知の方は少なくないでしょう。従来は、日の当たらなかったポストが環境の変化や担当者の能力・努力で実績が上がったりして重要度を増し、次からはエリ-トが就くポストに成ったりするのです。(「それこそ、冥利に尽きることだ」と嬉しそうに言っていた人が私の身近にもいました。)


〈プロクラド-ルの仕事〉


[その2]でご紹介した、岡美穂子著「商人と宣教師」には、(通辞)ロドリゲスの「日本プロクラド-ル覚書」(第七章)全訳が附録(「附録」とは、懐かしい言葉ですね。その言葉を聞いただけで、得をした気がします。)として付いています。

その「覚書」の内容は、まるで現代企業の業務マニュアルです。業務マニュアルというものは、実は失敗の経験の集積であることを、私は自分の苦い経験を通じて教えられましたが、この「覚書」がまさにそうです。日常の心構えから具体的な取引の方法や注意事項まで書かれたこの「覚書」を読むとプロクラド-ルの生活までがイメ-ジできるような気がします。


ところで、ルイス・デ・アルメイダは、1555年頃、4千~5千ドゥカドの私財を持って、イエズス会に入会し、このかねを資金に交易に乗り出したと言われています。従って、アルメイダは、最初に日本のキリシタン教会の商業活動を担った、いわば「プロクラド-ルの先駆者」と言えるでしょう。

その後、この商業活動は順調に発展し、1550年代・60年代・70年代には、イエズス会は、その商業収入で日本での必要経費をすべて賄った上に、なお莫大な余剰が生じ、これを蓄積して、1560年代後半から70年代にかけて、インドに1万8千ドゥカドを送金し、そこに土地を購入したということです。


〈アルメイダは財務担当者として、何ができたか〉


上記のプロクラド-ルの業務内容は、その先駆者であるアルメイダが、イエズス会の財務担当者として、(おそらくは、)ポルトガル船貿易にどのように関わったかを推測するための材料を提供してくれるものと考えられます。

けれども、長崎が1571年に開港し、1580年にはイエズス会に寄進され教会領となった一方で、マカオも1570年出資組合「アルマサン」が作られるなど、ポルトガル船貿易に関わる制度やイエズス会の関わり方が変化していった筈ですから、プロクラド-ルの役割も変わって行ったことでしょう。従って、日本への布教が開始されて間もない時期のアルメイダが、どこまでポルトガル船貿易に関わっていたかは、定かではありません。

そこで、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」(p.89)の「当時、日本人が海外貿易により所得を得た方法」として挙げられているものを参考に、アルメイダの行動を推定してみました。すると、以下の行動が思い浮かびます。

1.日本に入港した船の商品が日本側の商人に売り渡される際の、価格・条件等の交渉に介入する。(売り手・買い手から手数料を徴収する)
2.日本に入港した船の商品を自分で買い取り、国内の業者に販売する。
3.渡航船に出資して金利を得る。(貿易資金を融資する)
4.商品の仕入れ・輸送・販売等を他人に委託する。(銀を託して、中国での商品の仕入と日本への輸送を依頼する)

これらを、アルメイダが実際にどこまで行っていたかは、分りませんが、彼はイエズス会入会前の貿易商としての経験から相当のノウハウは持っていたでしょうから、可能性としてはかなりの範囲のことが行えたと考えられます。



4.アルメイダの生涯全般について感じること・考えること



(1)
まず感じることは、450年以上も前に医療に関する確かな知識・技術に基いて社会事業を積極的かつ建設的に展開しようとした貴重な人物であるにも拘わらず、何故か記録が希薄です。以下、私なりにその理由を考えてみました。

・新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)家系の出身であることがどう影響していたのかとか、医師の免許を取得したのになぜポルトガルを出国したのか、とかは推測してもあまり意味がなさそうなので、今回は考えないことにします。

・孤児院、病院、医学教育等、社会事業活動を禁じたことについては、カトリック教会の最高議決機関である公会議の決定に沿ったものであったとはいえ、会憲を変更し社会奉仕活動の芽を摘んだことを、後世においては出来るだけ明るみに出したくないと考えられてきた可能性はあると思います。

・彼が財務担当者として能力を発揮したことについては、キリシタン教会が商業活動によって支えられたものであったことを認めないのであれば、当然開示すべきでないと考えられていると思われます。

・フランシスコ・カブラル布教長が着任したあたりから約3年間の彼の足取りが消えていることについて、
一つの可能性は、言うまでもなく、上司カブラル布教長と活動方針が合わず幽閉状態で反省させられていたことが考えられます。現代の企業みたいな話ですが、そういう例は、他にもあります。

もう一つの可能性に関しては、ディエゴ・パチェコ著「長崎を開いた人」によると、該当する期間の報告に長崎開港に関する交渉経緯が書かれていたはずだ、ということです。ということは、その交渉経緯に明るみに出せない部分があるために、諸報告が隠蔽または廃棄されてしまったのではないかということです。

・28年間にわたる日本での滞在期間のうち、病院関係事業に従事していたのは僅か5年程度で、残りの20年以上は布教活動に従事していたことになります。ところが、その布教活動の内容についてはあまり言及されることはありません。

その理由は、彼の布教活動というのは、単に説教して洗礼を授けてなどというものでなかったからではないか、と私は考えています。彼の布教活動とは、教会に友好的な大名と軍事援助の相談をしたり、友好的な大名に少しでも有利に戦争調停を行ったり、友好的な大名に他の武将が加勢するように取り計らったり、友好的な大名同士が戦わないように調停をしたりすることを含んでいたと言うより、それが主だったのではないでしょうか。

それは、戦国時代最盛期の九州で布教を進めるには、必要な事だったのでしょう。しかし、或る面で、彼の行動は布教に戦争状態を利用したと言われかねないものです。そのため、後年その内容には極力触れないような努力が払われてきたのではないか、と私は考えます。



(2)
アルメイダは1555年に入会し修道士になってから25年後の1580年にやっと司祭になっています。何という処遇でしょうか。司祭になるためには、ラテン語の素養は必要ですし、哲学や神学のある程度の学力も必要なようです。彼の場合は、入会前からラテン語は堪能だったようですし、医師免許を持っていたぐらいですから、一般的な学力も相応にあったでしょう。そんな自分がこのような処遇をされていることに、彼は怒らなかったのでしょうか。

彼ほど、社会的影響力を駆使した布教を行った宣教師はいなかったのではないかと私は思います。孤児院・病院の開設・運営、医療従事者の(医学)教育によって、社会事業という面で歴史的な業績を残しています。商業活動によって組織にもたらした経済的貢献は、明らかにその後のキリシタン教会の発展を支えています。軍事援助・紛争調停などで発揮した政治力は、布教面でも確かに有効なものだったのでしょう。

そこで、私が思いついたことは、彼はこの凄まじいばかりの活動の連続を、意外と楽しんでいたのではないか、ということです。そして思い出したのが、東野利夫著「南蛮医アルメイダ」に書かれてある、南蛮医に関する伝承です。

平戸の北にある小島、度島(たくしま)には次のような伝承があるそうです。
「むかし、南蛮の薬師(くすし-医者)がここに来たげな。あっけらかんとした人で、足ば投げ出し長ギセルのようなものを吸うて、ひょうきんんなことば言うたりして、病人ば看てやっとげな。村のもんたちあ気楽に看てもらいよったとげな」



(3)
考えてみれば、アルメイダが宣教師としておこなった、社会事業的活動、経済的活動、政治的活動のそのどれにも彼が前歴で培った技術・知識・経験が存分に活かされているようです。そもそも、宣教師であることにも、おそらくは母国で学んだラテン語が役立っていたことでしょう。

前回[その4]で、私は、ある程度の決して楽ではない人生経験を積んだ人(大抵の人がそうだと思いますが)にとって、一番嬉しいことは、自分の決して楽ではなかった経験が価値のあることだと思うことが出来て、かつ、これからその経験を存分に活かすことができると確信できることではないかと思うと、書きました。

アルメイダが、相当の教養を身につけるような教育を受け、医師免許まで取りながら何故祖国を離れなければならなかったは分りませんが、そこに楽ではない事情があったことは間違いないでしょう。そういう厳しい背景を背負いながら、貿易商の世界に飛び込み遭難の危険と背中合わせの生活を送りながら、商売のノウハウや交渉の技術を習得していったことが想像できます。

私は、アルメイダにとって、過去の厳しい経験の中で身につけたあらゆる知識・ノウハウを生かせる宣教師としての生活が楽しくて仕方がなかったのではないかと思うのです。そんな彼にとっては、3年間ぐらい謹慎処分を受けようが、25年間も修道士の身分に塩漬けされようがどうということは、なかったのではないでしょうか。

そう考えると、上に書きました度島の伝承は、本当に、アルメイダのことだったのかも知れないと思えてきます。



(4)
そういうアルメイダの努力がようやく組織の中で認められたように見えるのが、他界する3年前にやっと司祭に叙階されたことです。それも、あの官僚的な巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが言い出したらしいというところが、感動的です。

しかし、アルメイダがマカオで叙階式を終え、晴れて司祭として長崎に戻って来たとき、同時に大量の武器弾薬と食糧を積んだ多数のマカオからのジャンク船が、口之津港に入ったそうです。当時、「キリシタン大名」である有馬氏の領地を攻略していた龍造寺隆信は、この武器弾薬を使用する有馬の軍勢によって領外へ駆逐されたということです。

マカオからジャンク船で運ばれてきたものが、長年にわたるアルメイダの献身的な布教活動の内容と、「すべてはより大いなる神の栄光のために」という彼が所属した組織の創設目的を、象徴しているようです。





[完]




[参考図書]

南蛮医アルメイダ ◎戦国日本を生きぬいたポルトガル人 東野利夫著       柏書房
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯-パチェコ・ディエゴ著     中央出版社
商人と宣教師 南蛮貿易の世界            岡 美穂子著   東京大学出版会        
「クリストヴァン・フェレイラの研究」  フ-ベルト・チ-スリク著 キリシタン研究第二十六輯 吉川弘文館
日本巡察記  「日本諸事要録」       ヴァリニャ-ノ著 東洋文庫229 平凡社
幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折       伊藤滋子著         同成社
キリシタンの世紀 ザビエル渡日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著        岩波書店
教会領長崎 イエズス会と日本           安野眞幸著    講談社選書メチエ
キリシタン時代の研究 第六章キリシタン教会の財務担当パ-ドレ 高瀬弘一郎著 岩波書店
イエズス会の世界戦略               高橋裕史著    講談社選書メチエ
































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by GFauree | 2015-12-11 03:55 | ルイス・デ・アルメイダ | Comments(0)


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                         〈メンデス・ピントの肖像〉




前回[その3]では、「伝説の名医修道士」ルイス・デ・アルメイダが、イエズス会に入会する前に生きていた世界を表わしていると思われる以下三つ事項のうち、1.について、私の思うところを書きました。


1.ザビエルの「中国使節派遣計画」を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ
2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント
3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


今回[その4]では、2.および3.について、私が考えるところを書いてみたいと思います。



2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント



(1)メンデス・ピントとルイス・デ・アルメイダの比較

     
     ①ポルトガルでの職業  ②従軍経験        ③商人経験
                    
ピント   船員や貴族の使用人  インド方面で2~3年間  1539~54(15年)
アルメイダ 医師または医学生     なし         1548~55 (7年)

     
     ④イエズス会入会年齢  ⑤持参金         ⑥在籍年数
 
ピント   40~45歳        5千ドゥカド    1554~58(4年)
アルメイダ    30歳      4~5千ドゥカド    1555~83(28年)



①、②、③
ポルトガルでの職業・従軍・商人と経験が全く違いますから、考え方も違っていたことでしょう。

ピントがこの歳になって、全く違う世界に入るには、それなりの理由があったでしょう。

持参金は、ほぼ同額です。これが、相場だったのでしょうか。
(これが、現在の貨幣価値にしてどのくらいのものになるか、次回[その5]で検討したいと思います。)

在籍年数の違いが、まさに二人の考え方の違いを表わしているのではないか、と思いました。



(2)メンデス・ピントの修道士経験


・ピントは、1544年および1546年にポルトガル人船長ジョルジ・アルヴァレスの船で種子島経由山川に来航していますから、まさに鉄砲伝来の時期に来航したポルトガル人の一人です。(アルヴァレスは、日本人アンジロ-をザビエルに紹介したとされている、人物です。)

・ピントは、また、1547年マラッカで1551年日本で、ザビエルに会っています。

1554年3月、ゴアに帰還したザビエルの遺骸を見て、翌月、バレト・ベルショ-ル・ヌネス率いる日本渡航グル-プに加わり、ゴアを出発しています。

・バレトの渡航グル-プへの参加に際し、私財を投じ大使を志願しています。
これは、何処かで聞いた参加の仕方です。そうです、ディオゴ・ペレイラも大使として参加することを条件に、ザビエルの「中国使節派遣計画」に賛同していました。



〈大使になるのは投資事業を管理し、将来的なビジネス・チャンスを掴むためだったのでは〉



・マラッカ長官アタイ-デが「海商ディオゴが中国大使とは身分不相応」と罵ったと言う話がありますが、ディオゴもピントも大使として参加したいと申し出たのは、別に名誉が欲しかったからという訳ではないのでは、と私は考えます。


大使として参加すれば、まず自分が出資する案件を自分でリードすることが出来ますから、一般に事業遂行に確実性が増し、成功する可能性は高くなり、投資の安全性も増します。第二に、その案件が将来の事業に繋がる場合は、有利な立場が得られます。現代でも、投資家としての行動の原則は、極力現場に立ち会うことでしょう。


ディオゴは将来の対中国取引を、ピントは将来の対日本取引を狙って、出資し大使となろうとした面もあったのだろうと思います。そして、この人たちに、そのアイディアを囁いた人がいたはずです。それはザビエルだったのではないでしょうか。そのアイディアを彼らが受け容れてくれれば、ザビエルには積極的な出資を受けられるというメリットが生じます。



〈商人は大事な貸し手、宣教師は良質な借り手〉



海外布教活動というのは、お金のかかる事業です。ですから、国王、教皇からの交付金は必須ですが、その支払いは滞りがちだったということです。つまり、国やカトリック教会は意外と充てにならなかったということです。

まして、インドから見て、日本などの新規に開拓すべき布教地での活動には、相当の費用がかかりますから、日本を目指す場合は宣教師はまず後援者・出資者を探したのではないかと思います。

ザビエルは、ピントから山口の修院建設費用300ドゥカドを借りたとのことですが、借りたのはそれだけということはないでしょう。ピントからの借金も他にあったかも知れないし、他の商人からも借りていたかも知れません。そのように、商人というのは大事な資金提供者だったのではないでしょうか。

逆に、商人にとって、宣教師は経常的に資金需要が発生し、踏み倒したり逃げたりしない良質な借り手だったかも知れません。
(実際には、どうだったのか、例えば300ドゥカドの借入金はきちんと返済されたのか、返済原資は何だったのか、知りたいところです。まさか、相手が聖職者だったので「あるとき払いの、催促なし」でそのままになってしまったとか、後で入会したときの“持参金”と相殺された、などということはなかったでしょう。)

ところで、「マラッカ長官アタイ-デが海商ディオゴ・ペレイラに借金を申し込んだが断られ憤慨した」、という話がありますが、もしザビエルがディオゴに借金をしていて、それをアタイ-デが知ってのことだったら、自分だけ貸して貰えないのですから、アタイ-デが憤慨するのも尤もなことです。

さらに、アタイ-デがディオゴに要求したのは、借入金名目の賄賂だったかも知れません。(そういう例が、近年あったことを思い出しました。)もしそうであれば、それを断られたのですから、アタイ-デのディオゴへの、更にザビエルに対する憎しみは、何層倍も激しく募ったことでしょう。



〈ザビエルに有力な商人が付いたわけ〉



ザビエルの場合、しばしば資金を借りて、きちんと返済してくれるというだけでなく、他にも商人にとって妙味のある相手だったのではないか、と思います。

それは、ザビエルは新規の布教事業の計画を立てながら、常に、そこに出資者にとって妙味のある参加のさせ方を考え、それを教えたのではないかということです。ですから、商人は、出来るだけザビエルに接し、早い段階から彼が検討しているプロジェクト案件を察知し、より有利なプロジェクトに参加しようとしたのでしょう。その話の中には、その後の対中国取引があったでしょうし、その後の日本に対する南蛮貿易の始動につながる話もあったかも知れません。

また、それにも増して大事なことは、そのように接しているうちに、商人たちがザビエルと、人生や生き方についての話をするようになっただろう、ということです。分りやすく言えば、商人たちがザビエルに取り込まれて行ったのではないかということです。



〈ザビエルと話すと、誰でもなぜか自信が出て来て、あとで思い出す〉



なぜ、ザビエルには「人々が強く引き付けられた」という話が多いのか、皆さんは、どう思われますか。
私は、以前からそれを不思議に思ってきたのですが、今回ピントの話を読んで、ひとつの答えが浮かびました。それは、ザビエルが自分に近寄ってくる人たちと、どんな話をしたかということです。ザビエルは、自分の方から、神や天国の話をすることはなかったのではないかと、私は思います。彼は、まず相手の経験を凝っくり聴いたと思うのです。

ある程度の決して楽ではない人生経験を積んだ(大概の人が皆そうだと思いますが)人にとって、何が一番嬉しいことだと、あなたは思いますか。

それこそ、人によって様々だとは思いますが、敢えて言えば、自分の決して楽ではなかった経験が価値のあるものだと思うことが出来て、かつ、これからその経験を存分に活かせる生き方が、まだあると確信できることではないかと私は思っています。

ザビエルは、それを知っていて実践していたのではないか、と私は思うのです。彼は、相手の話を凝っと聴き、その人の楽ではなかった人生を理解し、その苦しかった経験が価値あるものであることを気付かせ、それをこれからの人生に活かす生き方を一緒に考えようとしたのではないでしょうか。

そう考えれば、コスメ・デ・ト-レスが、日本人アンジロ-が、ディオゴ・ペレイラが、そして大友宗麟までもが、なぜザビエルに強く惹かれたのかが分るような気がします。これらの人は皆、苦しい経験をし、迷い、悩んだすえにザビエルに会い、その苦しい経験が価値あるものであり、それを存分に活かせる生き方があることを、知らされた人ではないかと思うのです。

ピントの場合も、まさにそれだと思います。



〈ピントとザビエル〉



上で見てきたように、ピントの人生は幼い頃から、決して楽なものではなかったようです。その彼が40歳台に差し掛かって、これからどう生きるべきか考えていたのでしょう。

そんなときに、ザビエルに遭って、最初は商売上のメリットがありそうなので近付き、付き合い、新しい儲け話の仕組みとして布教活動に出資し管理者として参加する方式などを伝授されたりしていたのでしょう。また、それと同時に、自分の人生経験や生き方などについても話すようになっていったのでしょう。

ザビエルと話すと、なぜか心が落ち着いてこれからのことも積極的に考えられるのが不思議だったでしょう。けれども、それで彼の行動が大きく変わることはありませんでした。

それが、1554年3月、ゴアで遺骸となって戻ってきたザビエルの姿を見たとき、彼と一緒に過ごした時間や交わした会話の内容が、ピントの胸に一挙に甦ってきたのでしょう。私は、雷に打たれて回心したというような人の気持ちはよく分らないのですが、このときのピントの心境は解るような気がします。



〈ピント入会の経緯〉



ピントは、イエズス会インド管区長であったバレトに会い、彼が大規模な渡航を計画していることを知ります。それは、中国での虜囚解放と日本布教の強化・拡大というザビエルが残した課題を果たそうという意欲的な計画でした。

そこで、ピントは以前にザビエルから示唆されたアイディアを持ち出します。バレトの計画に出資し、自分自身が管理者として大使の資格で渡航グル-プに参加するというものです。丁度出資者を探していたバレトにとって、ピントの申し出は、渡りに船の有難いものでした。

ところが、バレトは、その渡航の主要な目的の一つが、日本布教の強化・拡大である以上、その代表・大使は聖職者でなければならないと言い出します。すると、ピントは、どうせ乗りかかった船だからと、イエズス会に入会し修道士となることを承諾してしまいます。人生の決断は、いつも慎重に合理的になされるとは、限りません。人は、時として、自分にとってとても重大なことを、それもそれまでの自分に相応(ふさわ)しくないことを、気軽に決めてしまうことがあるのを、私は自分の経験から知っています。

ピントが渡航に出資していたことは、マラッカで支払われた中国渡航用のカラヴェラ船の艤装費用の一部が彼の負担であるとされていることからも分ります。最終的には、彼の渡航計画への出資は、イエズス会へ入会するための“持参金”として処理されました。例え、多額の出資があったにせよ、その後の経緯を勘案するといつまでもピントを特別扱いする訳にいかなかったからではないか、と考えられます。



〈苦い結末〉



・バレト・ベルショ-ル・ヌネスの渡航グル-プは、途中、難破や海賊の襲撃に遭い、広州で何とかポルトガル人虜囚三人の解放に成功したものの、日本渡航になんと2年3カ月を費やしてしまいます。その間に。ピントの出資金などは使い果たされてしまい、彼の立場も弱いものになってしまったことでしょう。

・加えて、到着後の団長バレトは、日本の気候や食事も含めた生活全体に適応できず、僅か3カ月後、嬉しそうにインドへ戻って行きました。(ある程度の歳になってから、異郷で暮らし始めるというのは、半端じゃありません。これも、私には身に覚えのあることです。)

・ピントと共にバレトの渡航グル-プに加わっていた修道士ブランダオンによれば、ピントは「インドで最も金を蓄えた者の一人」ということですから、そういう生活に慣れたピントが、今更、修道院の雑用係をして安穏に暮らせる訳がありません。1558年2月にゴアへ帰還してイエズス会を脱会し、同年9月にリスボンへ帰着したということです。



〈ピントは後悔していたか〉



ピントは、それまでの財産も生活も投げ打ってイエズス会に入会しながら、その4年後に退会した訳ですが、彼は特に後悔はしていなかっただろうと、私は思っています。

というのは、上述の通り、彼の入会の主な目的は、日本渡航計画という投資案件に監督者として参加することだったと思うからです。投資であれば、旨くいかないことがあることを、彼は業務経験を通じて良く解かっていたでしょう。

ここで、イエズス会入会時、母国へ送っておいた2千ドゥカドが活きて来たのです。母国へ戻ったピントは,ザビエルの教え通り、苦しくもあった自分の経験を最大限に活かすべく、当時のアジア海域世界を描いた旅行記『遍歴記』の執筆をしながら、裕福ではないけれど充実した老後を送ったことでしょう。

(私が考える結末は、いつも似たようになってしまいますが、この結論はあまり無理のないところではないでしょうか。)



3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


私が、この件を採り上げたのには、二つの理由があります。


(1)ひとつは、アルメイダが、管区長バレトに対し、1555年9月16日付で平戸から、非常に懇切丁寧な手紙を送って、何とかバレトを日本に招こうとしているのは何故か、という疑問があったのです。

それは、今回、以下の事情があったことが分り、概ね見当が付きました。

①1555年4月、遭難し原住民に襲撃されていたバレト一行は、アルメイダに救助された。
②同年8月以前、アルメイダはランパカウでバレト一行に再会し、共に広州に向かった。
③バレト一行の渡航費用はピントが出資した。

アルメイダとピントとは、共にドゥアルテ・ダ・ガマの乗組員で旧知の間柄であったこともあり、救出したり同行したりする間に、アルメイダはバレト一行の事情をよく知ることができたでしょう。ゴア出発から1年経った時期に、遭難や襲撃を受けたことによる予想外の出費でピントが提供した資金は底を突き、日本まで辿り着けるかどうか覚束なくなっていたのかも知れません。

そういう事情を踏まえて、アルメイダは資金提供も含めた支援を申し出る意味で、その手紙を送ったのだろうと思うのですが、どうでしょうか。


(2)この件を採り上げた、もう一つの理由は、次のようなことです。


ディエゴ・パチェコ著「長崎を開いた人」には、バレト・ベルショ-ル・ヌネスに関して、日本到着後、気候や食事に適応できず僅か3カ月でインドへ帰ってしまったことと、以下の記述があるぐらいです。肝心の、インドから日本への渡航に2年3カ月を費やしたことや広州の虜囚解放の件は、全く触れられていないのです。

「(バレト)ヌネスは、多数の部下の意思に反し、突然の霊感に従って印度を出発し、その立派な希望にもかかわらず、日本の布教にとって、ほとんどなすところがなかった。」

やや、皮肉っぽい表現のようにも受け取れますが、パチェコ氏は何が言いたかったのでしょうか。



〈こんなことが、言いたかったのでは〉



・そもそも、ザビエルが現地官僚トップと衝突までして、私的海商と連携し広州での虜囚解放活動を支援しながら中国進出計画を進めようとしたことは無謀だった。

・インド・ゴアを出発したのが1554年4月、シンガポ-ル付近でアルメイダに救出されたのが1555年4月以降だから、出発から既に1年を経過している。ザビエルであればその区間は、およそ1カ月半で航行していた。バレト一行は、一体何をしていたのか。難破・襲撃に遭ったという事情があるとしても、その行動は不透明である。

・バレトはザビエルの遺志を引き継いで、広州のポルトガル人虜囚解放交渉に乗り出したが、解放できたのは僅かな人数に限られ、その効果に比較すると費用など代償が大き過ぎた。

周囲の忠告を聴き入れず、無理な渡航を強行し、しかも、日本ではなすところなくインドに戻り、会に多大な損失をかけたバレトの責任は重い。

・広州の虜囚解放と日本渡航を抱き合わせで決行するという無理な計画のために、膨大な資金を要し、そのために、聖職者としての教育を全く受けておらず、かつ素養のない私的海商の一人メンデス・ピントを修道士として会に引き入れたことは無定見の極みである。




南蛮医アルメイダは、現代のマザ-・テレサの男版のように語られることがあるようですが、実際はどうだったのか、次回はその辺の観点から彼の生涯全般について考えてみたいと思います。


〈つづく〉



[参考図書]

商人と宣教師 南蛮貿易の世界              岡 美穂子著 東京大学出版会
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯-  ディエゴ・パチェコ著   中央出版社
南蛮医アルメイダ ○戦国日本を生き抜いたポルトガル人   東野利夫著     柏書房








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by GFauree | 2015-11-28 14:39 | ルイス・デ・アルメイダ | Comments(2)

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                          〈フランシスコ・ザビエルの肖像〉FRANCISCO XAVIER EN EL JAPON より
                          






前回[その2]では、「伝説の名医修道士」ルイス・デ・アルメイダが、イエズス会に入会する前に生きていた世界を表わしていると思われる事項を、岡 美穂子著 「商人と宣教師 南蛮貿易の世界」の内容から抽出してみました。

それは、以下の三つの事項です。

1.ザビエルの「中国使節派遣計画」を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ

2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント

3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


今回[その3]では、上記1.ついて、私が考えるところを書いてみたいと思います。



[ザビエルの「中国使節派遣計画」を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ]


私は、ザビエルが日本での滞在を僅か2年3カ月で終わらせてインドへ戻り、企図していた中国への布教活動を開始するべく上川島へ渡り、そこで病死したことは、おぼろげながら知っていました。けれども、このように具体的な計画の下に、また妨害まで受けながら、それが実行されようとしていたことまでは、知りませんでした。


今回、この「中国使節派遣計画」の存在に接して、ルイス・アルメイダとの関連からも、またこの計画の顛末そのものも、興味深く感じています。


そこで、以下に、その二点に分けて、感ずるところをお伝えしたい、と思います。



(1)ルイス・デ・アルメイダとの関連


既に前回[その2]の記事に書きましたように、ザビエルの「中国使節派遣計画」は、1520年頃から中国沿岸部で、盛んに密貿易を行っていたポルトガル人グループと、その地域からさらに東アジアの地域を目指していたイエズス会宣教師との関係を表わしています。


アルメイダは、1550年から1555年まで、ほぼ毎年上川島⇔平戸のル-トを往来した私的貿易海商ドゥアルテ・デ・ガマの乗組員として日本を訪れているのですから、まさにそのポルトガル人グル-プに属していたことになるでしょう。


〈中国官憲による大掃討との関係〉



ザビエルの「中国使節派遣計画」は1548~49年の中国官憲による大掃討の結果、中国側の虜囚となったポルトガル人たちの解放を目的の一つとしていましたが、アルメイダがポルトガルを出てインドに着いたのは1548年の秋頃ということです。従って、おそらくは、大掃討の後に、そのグル-プに加わったのでしょう。


〈密貿易グル-プとの関係〉


元来、その地域に在留したポルトガル人たちの多くは、ポルトガル領インディア各地の要塞に部隊の随員として渡来し、離脱して海商に転向した者たちであったということです。そして、なかには、華人商人との間に金銭トラブルを起こしたり、掠奪行為を行ったりする者もあったということですから、あまりおとなしくて行儀の良い連中ではなかったのでしょう。


〈属性の違いも、アルメイダの転身の理由の一つとなったのでは〉


一方、アルメイダについては、母国で医師免許を取得していたということや、ラテン語が堪能だったということなどから、相応の教育を受けていたと思われ、当時のヨ-ロッパ社会でも相当教養の高い階層の出身だったと考えられています。


こういう、属性の違いからアルメイダが、そのポルトガル人グル-プに安住することが出来ず、聖職者に転身したと想像しても、あまり無理はなさそうです。



(2)ザビエル「中国使節派遣計画」の顛末


〈懸念したようなことが、起っていたのだ〉



私は、ザビエルの仕事の進め方というか、世渡りの仕方に危なっかしいところがあるのを、感じるようになってきました。聖職者であるにもかかわらず(聖職者であるからこそ、そんなことが出来たという面もあるのですが)、最高権力者である国王と直接のコネクションを持ちそれを存分に活用したところが、現地のポルトガル人官僚たちや、同じ聖職者仲間のうちにも多くの敵を作ったのではないか、と考えるようになったのです。


以前は、私も無闇に美化され礼賛されるザビエルを、別の世界の住人の様に冷ややかな目でみていたのですが、記事を書くために調べたりしているうちに、だんだん、他人ごとではなくなってきて、少し気恥ずかしいのですが、情が移ってきてしまったのです。そうしたら、心配したようなことが起きていたというわけです。


〈アタイ-デは、ディオゴよりザビエルが憎かったはずだ〉


「マラッカ以東のポルトガル人交易ネットワークに君臨し、強大な財力を掌握していた」海商ディオゴを、新任長官アタイ-デは、自らの権限と権益を侵しかねない競合相手と見たはずです。しかし、競合相手は陥(おとしい)れ、叩き潰(たたきつぶ)せば良いのですから、ある意味で対処は単純です。


それに対して、憎むべきはザビエルです。言うまでもなく、海外発展事業・海外布教は王権と教会が協力一致して進めるべき国家プロジェクトであり、ザビエルは教会側代表として、王権の現地官僚トップである自分をこそ支援すべき立場にあるのです。


それなのに、あろうことか、自分の競合相手を盛り立てる計画をつきつけて来た。無礼千万、叩き斬ってやりたいところだが、あいにく、ザビエルは国王のお気に入りだ。へたに手出しすると何を告げ口されるか分からない。ここは、拘束するのはディオゴだけにしておいて、ザビエルは、徹底的に孤立化させるしかない、とアタイ-デが考えても不思議ではないでしょう。


〈ザビエルは自然死だったのか〉


こうなってくると、上川島についてから僅か5カ月で死亡したというザビエルの死因が気になってきます。自然死だったのか、それとも作為死だったのか、ということです。


約70年後の1620年以降に、通辞ジョアン・ロドリゲスによって編纂された「日本教会史」には、この「中国使節派遣計画」の顛末が描かれています。もちろん、これは「教会側発表」ですから、そのつもりで読まねばなりません。


その、第3巻第26章の末尾に、ザビエルのシナ王国への入国を妨げた要因のひとつとして、「15日も続いた彼の熱病があった。そして彼は、この[熱病で]危篤におちいったのである」とあります。また、第27章には「11月20日に熱を出して、12月2日になくなった」とあって、2週間ぐらい発熱があったということだけで、原因は、はっきりしません。


〈他にも、自然死か作為死か、がはっきりしない事例がある〉


ザビエルの死から約40年後の1590年頃のことで、むしろイエズス会内部のことですが、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノに罷免された副管区長ガスパル・コエリョの死因を巡っては、それが自然死であったのか否かの疑問が呈されています。
(安野眞幸著 「教会領長崎 イエズス会と日本 講談社メチエ)


この時代のことですから、作為死が見逃される可能性は現在よりはるかに高かっただろうと思います。ということは、記録はあまりあてにならないということです。


〈アタイ-デはそんなに悪いのか〉


色々考えているうちに、疑問が出て来ました。それは、「アタイ-デはそんなに悪いのか」ということです。


マラッカ長官として勇躍、着任したところ、海外事業展開のパ-トナ-である教会側代表で旧知のザビエルは、自分のライバルであり強大な影響力を持つ海商ディエゴと提携して中国進出にも乗り出そうとしている。それを、何とか阻止しようとするのは新任官僚としては当然ではないでしょうか。


私が、それに気付いたのは、「日本教会史」の次の部分を読んでいるときです。


「ドン・アルヴァロ(アタイ-デ)は程なく、体中が酷い癩病になり、2年もたたないうちに、副王ドン・アフォンソ・デ・ノローニャが指令官の地位を解き、その財産を没収し、その罪を告発して、マラッカからインディア、インディアからポルトガルへと鎖につないだまま連れて行かせた。彼はその罪の故に、終身獄につながれていたが、死因は身体を腐らせ、親族や友人たちさえも吐き気を催した異様な臭気のする潰瘍であった。彼はその人々にも見捨てられ、かつて福者パ-ドレ(ザビエル)がいったように、名誉も財産も失って死んだ。」
(ジョアン・ロドリゲス 日本教会史 下 大航海時代叢書 X 岩波書店 p.563)


この全文をそのまま信ずることは困難でしょう。これこそ、勧善懲悪のドラマです。
そこで私は、どうして「中国使節派遣計画」の顛末を勧善懲悪のドラマとして描く必要があったのかを考えました。


〈なぜ、勧善懲悪のドラマが必要か〉


教会は国家と連携して海外布教を進めて行かなければなりませんでした。しかし、この時期、布教推進の基盤である海上輸送機能に関して、国の能力に限界が見え私的貿易商人に依存せざるを得なくなりました。その摩擦に、抵抗する現地官僚が現われ、聖職者が一人犠牲になりました。

しかし、教会は国家と今後も協力して海外布教を進めて行かねばならぬことに変わりはありません。従って、教会は外部に対し、パートナ-である国の能力の限界を明らかにしたり、それを非難したりはしません。そんな秩序を乱すようなことは、したくてもする訳にはいかないし、する筈もありません。

そこで、どちらの側が悪で、どちらの側が善であったかを、あらゆる手段を使って分りやすく明確にしておく努力が払われました。海外発展事業を進める「教俗一致」体制の中で、ザビエル等の奮闘によって、教会が国家に対して掴みかけている主導権を、より確かなものにしていくために必要な事だと考えられたのでしょう。

象徴的なのは、「右腕は、死後約60年経っても腐らず鮮血がほとばしり出た」というザビエルの『奇跡』に対して、アタイ-デの身体は「生きているうちから腐ってしまった」と、「日本教会史」ではされていることです。



次回[その4]では、

2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント
3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


について、考えるところを書きたいと思います。


〈つづく〉



[参考図書]

商人と宣教師 南蛮貿易の世界       岡 美穂子著     東京大学出版
教会領長崎 イエズス会と日本        安野眞幸著   講談社選書メチエ
日本教会史 下 ジョアン・ロドリゲス 大航海時代叢書X       岩波書店


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by GFauree | 2015-11-27 14:14 | ルイス・デ・アルメイダ | Comments(0)


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前回[その1]では、「伝説の名医修道士」と呼ばれるルイス・デ・アルメイダの日本での足跡を辿りました。

ところが、イエズス会入会以前のアルメイダについては、母国で医師免許を取ったにもかかわらずインドへ行き、ポルトガル船貿易商人としてかなり成功していたらしいということと、新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)だったことぐらいしか、それまで読んだ本には書いてありません。

「こういう時は、どうすれば良いのかな」などと、つらつら考えながら、以前に買った本を開いてみると、そこにアルメイダに関連する興味深いことが色々書かれてあるではありませんか。お蔭で、いっきに気分が晴れました。

それは、岡美穂子著「商人と宣教師 南蛮貿易の世界」(東京大学出版会)という本です。


3年ぐらい前、「1620~30年ごろのイエズス会貿易や長崎の状況について解説されている本があればいいのに」と思って、久し振りに「キリシタン時代本」を物色していたところ見つけて、面白そうだったので入手したのです。ですが、その頃は、キリシタン時代初期には興味がなかったので、ザビエルやアルメイダについて書かれていることは気が付かなかったのです。

ある書評に「学術書だけど面白すぎる」と書かれていましたが、本当でした。当地の日本人には考古学研究者の方が多いように感じますが、その中の一人である友人は、第三章の「南蛮貿易の商品リスト」が凄いと言って感動してました。

値段は高めですが、それだけの価値はあると思います。自分の経験では、内容のある良い本は古本でも新本でもだいたい高いようです。ということは、少し意外なことですが、本の値段というものは内容の価値も考慮して決められているということでしょうか。

ある程度の図書館であれば、置いてあると思います。とにかく、一度実際に手に取って目次だけでも読んでみて頂くことをお勧めします。



とここまで書いたときに、上述の本の著者である岡美穂子氏が、ご自分のブログ(南蛮の華-岡美穂子の研究ブログ-11月10日付http://mdesousa.exblog.jp/23856326/)の中で、このブログの6月20日付記事(何だか怪しい「岡本大八事件」http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)についてコメントして下さったことを知りました。


私は、ある理由によって、「キリシタン時代」の人と社会について知りたいと思うようになりました。
(理由を訊いて頂きたい気持ちも正直なところ少しあるのですが、話せば長くなってしまうので次の機会に)

そして、巷間語られている「歴史」というものには、「なんだかおかしい」とか「すっきりしない」とか、逆に「すっきりし過ぎている」というような違和感を感じさせるものが少なくないことに気が付きました。その違和感をそのままにすると歴史がリアルに感じられなくなって、つまらなくなるのです。

そこで、私は違和感を感じたり、リアルに感じることができないときは、「本当はこうだったのでは」と自分で推測したり、仮説を立ててみたりすることにしました。すると、それによって、かえって以前より面白く感じられるようになったのです。

例えば、「岡本大八事件」の場合は、こういう経緯があります。

私はカトリックの家庭に育って、信者同士の強い信頼感・連帯感のようなものを子供心にですが感じていましたので、実は以前は、「家康が、晴信と大八がキリシタンであることに衝撃を受けた」と聞いて、キリスト教信者いじめに繋がったことですから大きな声では言えませんでしたが、「さすがは家康、鋭いな」などと秘かに感心していたのです。

つまり、「家康は、周りが信者ばかりであることに気が付きぞっとして、キリシタン取締りを始めた」という話は、信者じゃない人にはもちろん信者の人にも、妙に説得力があると思うのです。ですが、今回「おたあジュリアの件で家康が衝撃を受けた」と言われていることはおかしいと感じ始めて、岡本大八事件も同じではないかと思ったのです。

それで、それをそのままにするのは気持ちが悪いので、「事件の真相はこうだったのでは」という推測をしてみたところ、「家康が謀略による抹殺を図らざるを得ないほどの何かを晴信が持っていたのではないか」という疑問というのか、解釈というのか、にたどり着いたという訳です。

ただ、この場を借りて言わせて頂くと、仮にこの事件が家康と正純の謀略だとしても、私は彼らが極悪人だとか言うつもりはありません。戦国時代という武力闘争による覇権の時代を終わらせ、天下泰平のうちに長期安定政権を樹立・維持するために、特にこの時期に「謀略」という手段が徹底的に使われ、また有効だったということではないかと思うのです。その証に、本多正純も結局は濡れ衣とも考えられる罪状によって失脚しています。

             
ところで、素人である私の場合は、推論や仮説に根拠や立証が求められることはない(本当は、何かを発信する以上は根拠を示したり立証したりすべきなのかも知れませんが)のですが、研究者の方の場合は、一般に根拠や立証が当然の仕事のように考えられているので、気楽に推論や仮説を立てたりすることは出来にくいのではないかと思いますが、どうなのでしょうか。

そんな私の拙(つたな)い推論や仮説ですが、それを読んで下さって、また面白がって下さる方がいらっしゃれば、それに優る励みはありません。お礼を申し上げる方法がここ以外にありませんので、採り上げて下さった岡氏と、またこの機会にこのブログを読んで下さった方々に、お礼を申し上げたいと思います。

ひとつ、お断りしておきたいことは、今回上記の本を参考にさせて頂こうと思ったのは、前回(11月8日付)の記事を書いていたときで、全く偶然のことであり、そうであることは以下に書きます内容を読んで頂ければ分って頂けるのでは、と思います。

キリシタン時代史に関して、他の場でも書きましたが、最近どうもこういう「嬉しい偶然」のようなことを、多く経験するようになっている気がします。これは、もしかして「あの世」が近くなっているということかも知れません。






さて、本題に入りますが、「伝説の名医修道士」ルイス・デ・アルメイダが、イエズス会に入会する前に生きていた世界を表わしていると思われる事項を、岡 美穂子著 「商人と宣教師 南蛮貿易の世界」の内容から抽出してみました。

それは、以下の三つの事項です。

1.ザビエルの中国使節計画を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ
2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント
3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


これら、三つの事項の内容をまとめると、以下の様になると思います。


1.ザビエルの中国使節計画を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ



1551年秋
、日本を発ったザビエルは日本での布教活動の経験を踏まえ、日本に対して宗教的・文化的影響力のある中国での改宗事業が先決であると判断し、その着手を決意していた。

インドへの帰途、上川島で旧知の有力なポルトガル人貿易商ディオゴ・ペレイラと遭い中国への使節派遣計画に賛同を得た。ザビエルの意図は、中国・ポルトガルの国交を成立させ、安全に布教活動を展開することであったが、ディオゴには、また別の狙いがあったと考えられる。

1520年頃から中国沿岸部には、盛んに密貿易を行うポルトガル人グル-プが存在した。その中に、華人商人との間に金銭トラブルを起こしたり、掠奪行為を行ったりする者もあり、それが、1548~49年の中国官憲による大掃討を引き起こす要因となった。

ディオゴは大掃討の結果捕縛され虜囚となっていたポルトガル人たちの首領的立場にあったから、配下の虜囚たちを解放するために、私財を投じ自らが大使となることを前提に、インド副王使節派遣計画に賛同したのである。

ザビエルは、インド副王の承認を得るためゴアに戻るべく、ディオゴと共に上川島を発ちマラッカに向かった。マラッカでは、次期長官に就任予定であったアルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマと面会し中国使節計画を相談したが、アタイ-デがザビエルの知己の人物であったこともあってか、積極的支援の約束を取り付けることが出来た。

ところが、ゴアで副王との交渉を済ませ、マラッカへ戻ってみると、次期長官アタイ-デがディオゴの出港を阻止、ザビエルは上川島に着いたものの、密入国さえ果たせず、1552年12月に死亡した。

アタイ-デの妨害行為は海商の首領ディオゴ・ペレイラとの確執に起因していたと考えられる。ディオゴの排斥を目論んだアタイ-デは、ザビエルによって教会からの破門を宣告され、インド副王令によって逮捕され、司令官職を罷免され、全財産を没収され失脚した。




2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント



〈メンデス・ピントの経歴〉


1509~1511年、または1514年
、ポルトガル、大学都市コインブラ近辺に生まれた。
1521年、リスボンへ上京、船員や貴族の使用人として働く。
1537~1539年、インド方面で従軍。
1539~1554年、インド・マラバ-ル海岸、マラッカを拠点として、東アジア海域を商人として移動。
1554年4月、私財(5千ドゥカド)をイエズス会に寄進し修道士となる決心をする。



(イエズス会バレト・ベルショ-ル・ヌネス神父、アイレス・ブランダオン修道士の書簡の内容を整理すると、)


①ルイス・デ・アルメイダ
とともに、ドゥアルテ・デ・ガマの船の乗組員であった。
 ガマは、1550年から1555年まで、主に上川島⇔平戸のルートをほぼ毎年往来した私的貿易海商である。

②1547年
マラッカで、1551年日本でザビエルに会い、日本ではザビエルに布教資金(山口の修院建設費用300クルザ-ド)を貸し付けた

ゴアに帰還直後のザビエルの遺骸に接しイエズス会への入会を決意。

日本の領主たちは自分の友人であると語り、日本の領主改宗を目的としたインド副王使節派遣の費用と教会建設に私財を投ずるとし、自ら大使に志願した。



・1554年
バレト・ベルショ-ル・ヌネス率いるイエズス会日本渡航グル-プに参加した。

・1540年代に、日本及び中国沿岸部を往来する商人であったとすれば、
上記1.で述べたポルトガル人グル-プ同様リャンポ-の密貿易拠点に出入りしていた可能性は高い。

・1558年2月、ゴアに帰還してイエズス会を脱会し、同年9月リスボンに帰着した。
イエズス会に対する奉仕やインド副王派遣大使としての日本での働きを理由に、宮廷に年金支給を請求したが受理されず、
アジアでの体験と伝聞をもとに、『遍歴記』を執筆した。

・1583年7月死亡。

ピント研究の権威レベッカ・カッツは、彼が改宗ユダヤ人であったとしている。




3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


(ディエゴ・パチェコ著「長崎を開いた人」・東野利夫著「南蛮医アルメイダ」の内容も合わせてみました。)


1554年4月インド管区長バレト率いるイエズス会グル-プがインドから日本に向けて出発。
(1554年、日本から帰航したポルトガル人に日本布教の有望なることを示唆され、また大友義鎮(宗麟)がインド総督にあてた親善書簡により、日本視察を実行する計画を立てた。)

((バレト)ヌネスは多数の部下の意思に反し、突然の霊感に従って印度を出発し、もし必要ならば日本に留まろうと決めていた。その立派な希望にもかかわらず、日本の布教にとってほとんどなすところがなかった。)


1554年、マラッカで長官から中国渡航用のカラヴェラ船を提供されたが、その艤装費用800クルザ-ドをメンデス・ピントとその船の船長コスメ・ロドリゲスが捻出した。


1555年4月、そのグル-プがシンガポ-ル海峡付近で遭難し、その後マレ-半島ジョホ-ル付近で原住民に襲われていたところ、付近を航行していたナヴィオ船長ルイス・デ・アルメイダに救出された。


救助された後、一旦、アルメイダと別れたが、ランパカウに到着してから、彼と再会する。
そこで、アルメイダも同行して、ポルトガル人虜囚解放のため広州に向かう。
(ルイス・フロイスの書簡には、アルメイダが明朝官憲からの信頼が厚いことにより、特別にバレトに同行することが許されたとある。)


上記1.で述べたようにザビエルの中国使節計画は失敗に終わったが、海商の首領ディオゴ・ペレイラの狙いであった広州のポルトガル人虜囚解放のための折衝は、こうしてインド管区長バレトに引き継がれたことになる。


最終的には1555年、バレトの交渉により、広州の牢にいたポルトガル人のうち少なくとも三人が解放された。


バレト自身の書簡によれば、彼は二度広州へ行き、一回ごとに一か月滞在している。
一度目は龍ゼン香を、二度目は保釈金1500パルダウを持参した。
保釈金は複数のポルトガル人からの貸付と喜捨でまかなわれた。

バレトの交渉は、おそらくディオゴ・ペレイラの要請に応じたもので、保釈金の大半はディオゴによって用意された可能性があると考えられる。


・その後、アルメイダは日本に向かい、同(1555)年晩夏、平戸に上陸し、“霊操”をするために豊後へ行き、イエズス会に入会する。

1555年末、バレト一行はランパカウで越冬する。


1556年7月、バレト一行は府内に入港する。一行にはガスパル・ヴィレラ神父、ギリェルモとルイ・ペレイラの二修道士がいたとされているが、メンデス・ピントも含まれていた筈である。
(結果として、インド・ゴアを出発から2年3カ月が経過していた。


次回[その3]では、以上三つの事項について、私の思うところを書かせて頂きます。


〈つづく〉

[参考図書]

商人と宣教師 南蛮貿易の世界            岡 美穂子著 東京大学出版会
南蛮医アルメイダ 戦国日本を生きぬいたポルトガル人 東野 利夫著     柏書房
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯 パチェコ・ディエゴ著   中央出版社





 


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by GFauree | 2015-11-22 07:49 | ルイス・デ・アルメイダ | Comments(0)





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〈伝説の名医修道士〉



ルイス・デ・アルメイダ
の名前は、小説『出星前夜』の第一行目に「伝説の名医修道士」として出てきます。
『出星前夜』は「島原の乱」を題材にした、飯嶋和一の作品です。

「島原の乱」の七年前、寛永七年(1630年)の春、主人公 外崎恵舟(とのざき けいしゅう)はフランシスコ会の修道士ガブリエル・マグダレナと出会います。

「七十年前に、有馬領 口之津港にやってきたルイス・アルメイダ以来、噂や伝承では何度も聞いていたが、彼らが起こすという『奇跡』というものを恵舟は目のあたりにした。」

「その(マグダレナの)慈悲にあふれた清廉な人柄と、分け隔てのない献身的な治療は、天よりの使者そのものだった。彼の手によって生命を助けられた日本人は数えきれないほどである。」

言うまでもなく、ガブリエル・マグダレナのモデルは、七十年前の「伝説の名医修道士」ルイス・デ・アルメイダでしょう。

アルメイダは、ポルトガル船貿易商人として蓄積した莫大な財産を持ってイエズス会修道士に転じ、医師としての知識や技術を医療と病院建設・運営に注ぎ込んだ人物として知られています。

また、彼の入会時の“持参金”は、病院経営のみならず、日本での布教開始後間もなかった会の活動そのものを支えたという面もあったようです。

その他、彼が新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)であったことに絡み、医師の免許を持っていながらなぜ祖国を遠く離れて生きようとしたのか、貿易商人として成功しながらなぜ聖職者へ転身しようとしたのかなど色々と謎の多い人物でもあります。

まずは、比較的記録の多い、来日してイエズス会に入会したあたりから、彼の足跡を辿ってみようと思います。




〈インドでト-レスに会っていたアルメイダ〉



1552年
は、フランシスコ・ザビエルが離日しインドへ戻った年の翌年ですが、この年に、アルメイダはポルトガル船々長ドゥアルテ・ダ・ガマの共同経営者として、ガマの船で鹿児島に着き、平戸を経由してコスメ・デ・ト-レスに会うべく山口に向かっています。

アルメイダがリスボンからゴアに着いたのが1548年の秋ごろで、ト-レスを含むザビエル一行が日本に向けゴアを発ったのが1549年4月ですから、アルメイダとト-レスはゴアで会っていた可能性があるのです。



〈全財産を慈善事業と布教活動に提供したアルメイダ〉




1555年夏
、ドゥアルテ・ダ・ガマの船が平戸に着き、その船にアルメイダが乗っていました。彼はこの時三十歳であり、自分の人生の進路をはっきりさせたいと考え、イエズス会の“霊操”と呼ばれる精神修養を行うために豊後へ向かいます。

“霊操”を行っていたとき、アルメイダは豊後において飢餓と貧困による嬰児殺しの悪弊が横行していることを知ったようです。彼は、見棄てられた孤児の収容施設の開設を申し出ます。

この後、アルメイダはイエズス会に入る決心をします。入会する前に、貿易商人として蓄積した自分の全財産のうち、一部を豊後における慈善事業つまり孤児の収容施設(後の病院)に、残りを布教の維持のために使われることを前提にイエズス会に引き渡したということです。

ところが、施設に収容した乳児に牛乳を与えたことが、当時の日本の食習慣に合わなかったため、「赤子を畜生同然に扱っている」とか、「外国人宣教師が赤子の生血を吸っている」などの噂が立ったことや、また運営にあたったミゼルコルディア(慈悲の組)の信者の体力負担が過重になったことなどによって、孤児の収容施設は約1年後に廃止のやむなきに至ります。



〈“人生の師”インド管区長ベルショ-ル-ル・ヌ-ネスの来日〉



1556年7月
、イエズス会インド管区長ベルショ-ル・ヌ-ネス神父とガスパ-ル・ヴィレラ神父及びギリェルモとルイ・ペレイラの二修道士が府内に到着しました。

このヌ-ネス神父は、日本の食事や生活環境に順応できず三カ月で日本を去ったのですが、元々はアルメイダが“人生の師”と仰いだ人物であったことを採り上げて、前回ザビエルとト-レスに関する記事の[その4]で、「世の中、わからないものだ」などと軽率にも書いてしまいました。

ところが、ヌーネス神父がインドのゴアを出発したのは1554年4月ですから、出発からなんと2年3カ月を費やし、日本に着いた時には心身ともに疲れ果てていたという事情があったのです。

他人のせいにしてはいけないのですが、「長崎の人」の著者パチェコ・ディエゴ氏はそんなことにはまったく触れずに、ヌ-ネス神父に対して批判的な口調で書いていますので、うっかり信じ込んでしまいました。イエズス会士の歴史家の仰ることは、例え同じイエズス会士に対する批判であっても、気を付けなければいけないという良い(悪い)例だと肝に銘じなければなりません。

このヌ-ネス神父の長旅には、ザビエルや、貿易商としてアルメイダより遥かに格上だったと思われるディオゴ・ペレイラや、アルメイダ自身も絡んで、もっと複雑で興味深い事情があることが分りましたので、次回[その2]でその事情を説明させて頂くつもりです。



〈病院の開設〉



孤児のための施設は廃止せざるを得ない事情があったのですが、その後も北部九州の争乱の収まる気配はなく、社会不安の中で苦しむ病人を見て、アルメイダは病院開設の必要性を痛感したのでしょう。ところが、病院開設には、宗麟配下の重臣や社寺の神官・僧侶の猛烈な反発や妨害があり、それを乗り越えて領主宗麟の認可を得る必要があったのです。

どのような工作によって領主宗麟の認可を得たかについて具体的な記録はありません。ただ、戦わずして九州一円の覇権を手にしようとした宗麟の戦略にとって、アルメイダがもたらした貿易の利益こそ、将軍足利家に貢ぐ多額の献金の資金源として最も重要なものだった可能性があります。

1557年、このような困難を克服しながら病院は開設され、次第に収容する患者も増していきました。ところが、1560年7月、豊後府内に入港したマヌエル・メンド-サの船便で、「医療禁令」の通達がイエズス会本部から届けられた、とされています。



〈医療禁令〉



この「医療禁令」というのは、1558年、イエズス会本部で行われた「最高宗門会議」で決議されたもので、「聖職者の地位にあるものは、人間の生命に直接かかわる医療施術、生死の判決に関わる裁判官(法律家)の職についてはならぬ」という特命であった。

聖職者は、死すべき宿命をもった人間の魂の永遠の救済こそが真の職務であって、現世での肉体の生死に関わる医療行為に携わったり、生殺与奪の権をもつ裁判官になったりしてはならぬというのが、この禁令の主旨であった。

「医療禁令」によって、アルメイダはじめイエズス会士たちは、府内病院から一切手を引き、あとは日本人の医療従事者に任せた。しかし、日本人の医療従事者の技量や評判は悪く、病院は次第に衰退して行った。

以上が、東野利夫著「南蛮医アルメイダ」(p.171~172)に書かれている内容です。


私は、この「医療禁令」について、以前にどこかで読んだことがあるような気がして、色々探してみたのですが見あたりません。また、「人間の魂の救済こそが、聖職者の真の職務なのだから、現世での肉体の生死に関わる医療行為を行ったり、人の生殺与奪の権をもつ裁判官に成ったりしてはいけない」という理屈は、一応、筋が通っていると思うし、これも読んだことがある気がします。

けれども、1558年イエズス会本部で行われた『最高宗門会議』という部分に私は違和感を感じているのです。



〈『最高宗門会議』という名称について〉



まず、『最高宗門会議』という名称は「いかにもそれらしい」のですが、本当に、そんな会議があったのかどうか、私は疑問を感じています。

ウイリアム・バンガ-ド著「イエズス会の歴史」(原書房)に次のようなことが書かれています。

「イグナティウスは1556年7月31日に死去した。イグナティウスの死後2年間、『総会』が招集されなかったが、1558年6月に20人の荘厳誓願司祭がロ-マに集まり『総会』が招集された。」

当時、最高の議決機関は総会でしょうから、『最高宗門会議』ではなくて『総会』なら話は分かります。『最高宗門会議』という「いかにもそれらしい」言葉の元の言語での名称を知りたいところです。


〈「医療禁令」について一言も触れていないパチェコ・ディエゴ氏〉


イエズス会士である歴史家パチェコ・ディエゴ氏は自著「長崎を開いた人」(中央出版社)の中で、この「医療禁令」について一言も触れていません。

ただ、「府内の病院はもう彼がいなくても困らなかった」と書いてあるだけです。

私は、以前にその部分を読んだとき、それを「自分が育てたポジションに安住させない」というイエズス会の方針の現われと考えて、人使いの粗さは現代企業並みだと思ったりしたのですが、パチェコ・ディエゴ氏が「医療禁令」に触れていないことには、何か別の意味があったのかも知れないと、今は思います。



〈「医療禁令」はアルメイダの病院に対する妨害だったのでは、それとも、イエズス会内部以外の場所から出されたものだったのでは〉



中西啓著「長崎のオランダ医たち」(岩波新書)によれば、
アルメイダは、1559年11月頃、インド・ゴアのコレジオの修道士やコチンのコレジオ長ヌネスにあてた書簡に「病院経営に関する援助を受けたい」と書き送っていたということです。

こういう連絡で、アルメイダの病院の成功がイエズス会内でも知れ渡り、妨害が入ったのではないかということをまず思いました。なにしろ、何処の組織でも自分が成功したときに、まず気を付けなければいけないのは、仲間の嫉妬・羨望です。

また、そもそも、聖職者が医療行為に従事したり、裁判官職に就くことに疑義が呈されるとしたら、それは、イエズス会内の聖職者に対するだけでなく、他の修道会も含めたカトリック教会全体の問題だった筈であり、そうであれば「医療禁令」が出されたのはイエズス会以外の場(例えば、ロ-マ法王庁内など)であったのではないか、とも考えます。



〈開拓伝道士アルメイダ〉


病院から手を引いたアルメイダは、1561年初夏の頃から、「開拓伝道士」としての活動を開始します。

それは、過労のため病床に伏すとき以外は、各地を転々として布教活動に没頭する生活です。訪れた土地の名前と洗礼を授けた人の数だけを羅列しても、“生ける車輪”と呼ばれた彼の活動ぶりを表わし尽くすことは出来ないでしょう。

そこで、ここでは、この時期の彼の活動の中で代表的なものを抽出してみることにします。


〈薩摩布教〉


1561年
、薩摩の泊(とまり)に停泊中だったポルトガル船の船長マヌエル・メンド-サが、「布教活動の自由を約束するから、宣教師を常駐させて欲しい」旨の領主島津貴久の書簡を託されて豊後に来たため、アルメイダはト-レスから薩摩行きを命じられました。

薩摩に着いたアルメイダは島津貴久と対面しましたが、期待した反応は得られませんでした。ただ、貴久の依頼に応じて、ポルトガル貿易船を誘致するためのイエズス会インド管区長宛書簡を翻訳したようです。


〈横瀬浦開港〉


1562年
、大村領主純忠を訪れるようト-レスから指示があり、アルメイダは薩摩から豊後に戻り横瀬浦に向かいます。

横瀬浦にはポルトガル船が入港しており、純忠からは今後もポルトガル船を常時入港させるための条件が提示されました。

1.横瀬浦の数カ所に教会を建て、これに収入を与えるために周囲2レグア(12キロ)の土地と農民を教会に供出する。
2.横瀬浦には宣教師の許可なく異教徒を居住させない。
3.ポルトガル船と貿易する商人に対しては十年間、税を免除する。

ト-レスも豊後から横瀬浦に赴き、今後ここに布教本部を置くことを決定する一方、アルメイダを豊後の大友宗麟のもとに派遣し、宗麟の理解を求めています。

宗麟からは、ト-レスに早期に豊後に戻って欲しい旨の伝言があったとのことですが、
ト-レスが去れば、もはや、数多の経済的利益をもたらすポルトガル船が豊後に寄港することがないことは自明のことでした。



〈当時の九州の情勢の概観〉


アルメイダは当時の九州の情勢を次のように分析しています。

「九州には、最も強力な領主が三人いる。
第一は豊後の大友氏、第二は薩摩の島津氏、第三が有馬の領主義直である。」

アルメイダは、有馬の領主を味方に引き入れるために数回訪問しました。
義直は、自領内の有力な港(口之津、島原)を布教の拠点として、ポルトガル船が来航することを希望していたということです。

1563年に、大村純忠が受洗しました。
(有馬義貞の受洗は1576年、大友宗麟は1578年です。)



〈横瀬浦の焼打ち〉


1563年8月
、横瀬浦は純忠の義弟・後藤貴明によって焼打ちされます。

1564年、有馬の領主義貞からの招きを受けて、ト-レスはアルメイダを派遣します。
その年の夏、ト-レスは有馬領内の口之津に布教本部を置き、3年後には2~3艘のポルトガル船が入港するようになりました。



〈福田沖の合戦〉


1565年
、ポルトガル船が大村領福田に入港します。
横瀬浦に入港しようとしたのですが、港が壊滅していたため平戸に向かったところ、平戸にいた宣教師がその船を福田に誘導したのです。

平戸領主松浦隆信の水軍と堺商人の大型船が福田浦を襲い、ポルトガルの黒船二隻が応戦し『福田沖の合戦』が繰り広げられましたが、襲撃側が敗退しました。

福田港に駆けつけたアルメイダは、イエズス会の委託投資の財貨を処分するとともに、大村氏・大友氏・有馬氏などイエズス会を支持する領主たちに有利な取引条件を指示したと考えられています。



〈宗麟への軍事援助と戦争調停〉


1569年
、大友宗麟は決戦の年を迎えます。
中国、山口を支配した毛利元就が北九州に進出しようとし、薩摩の島津や肥前の竜造寺も攻撃の機会を狙っていました。

まず、大友と毛利の決戦は、イエズス会の命運を決する重大な意味を持つことから、絶対に宗麟に勝たせなければならないとの考えがあったでしょう。アルメイダは、その2年前から大友氏の火器弾薬の調達をしていたと考えられています。

「良質の硝石(火薬)を他に渡さず、自分のみに与えること」や「既に送られた大砲が船の沈没で届かなかったため、大砲を再送すること」を要請する宗麟の海外在住司教たち宛の書簡を仲介したのは、アルメイダだと思われます。

アルメイダが宗麟との密談後大内輝弘を訪問し、その後、輝弘が宗麟から授けられた七千の兵で、毛利軍の後方周防(山口)を攻撃したために毛利軍が退却し宗麟が勝利した戦闘もあります。

また、大友勢の侵攻を中止してくれるように純忠から懇願されたト-レスの指示によって、アルメイダが宗麟のもとに駆けつけ、宗麟とその臣下の武将たちに、大村領への攻撃をしないように根回しをしたこともありました。


〈新布教長カブラル着任〉


1570年6月
、長くアルメイダとコンビを組んできたトーレスに代わる新任布教長フランシスコ・カブラルが着任します。カブラルは、アルメイダが成し遂げてきた数々の経営上の貢献に全く無理解な態度を示します。

1571年9月頃から、アルメイダの足取りが消えてしまいます。その後3年間、書簡など一切の史料が欠如しているのです。何らかの理由によって書簡が紛失したことも考えられます。

島原・天草地方の布教活動に従事していたとの推測もありますが、堅固な組織であればあるほど、外側からは計り知れないところがあるのが普通です。イエズス会だけが例外であるという根拠はありませんから、何か特殊な事態が発生していたのではないかと、私は思います。


〈司祭叙階と他界〉


1579年、アルメイダは巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノによって、他の3名の修道士と共にマカオに送られ、翌年1月、ついに司祭に叙階されます。(1555年のイエズス会入会から25年後です。)

その年6月、新司祭たちは長崎に帰着しますが、同時にマカオを発った多数のジャンク船が大量の武器弾薬と食糧を積んで口之津港に入っています。有馬領を攻略していた龍造寺隆信は、この武器弾薬を受けて優勢に転じた有馬軍によって駆逐されたということです。


それから3年後、天草河内浦(現在の河浦町)の茅葺きの貧しい住院で、アルメイダは、“生ける車輪(ヴィヴァ・ロ-ダ)”と呼ばれた生涯を閉じました。



〈つづく〉



次回[その2]では、来日する以前のアルメイダがどのような人たちと、どのような環境で生きていたのかを考えてみたいと思います。


[参考図書]

南蛮医アルメイダ 戦国日本を生き抜いたポルトガル人    東野利夫著    柏書房
長崎のオランダ医たち                   中西 啓著   岩波新書
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯   パチェコ・ディエゴ著  中央出版社
教会領長崎 イエズス会と日本               安野眞幸著 講談社メチエ
キリシタンの里                      遠藤周作著   中公文庫






























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by GFauree | 2015-11-08 14:10 | ルイス・デ・アルメイダ | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。