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1月にマ-チン・スコセッシ監督の映画『沈黙』が日本で封切りされ、事前の予想以上に話題になっているようである。
そのせいか、原作の小説『沈黙』についても、その作者遠藤周作についても、また小説の陰の主役であるクリストヴァン・フェレイラについても、最近になって初めて知ったり、思い出したり、考えたり、教えて頂いたりしたことが色々あった。

そこで、それらの事どもをここに書き留めておこうと思い付いた。


1.講演「『沈黙』について」


小説『沈黙』を発表した1966年の遠藤自身による講演の録音を聴いた。結構語り口がうまいというか心地よく、適度に面白い。
40分間笑わせながら飽きさせず、小説『沈黙』のポイントを要領よく語ってくれている。

「遠藤周作の小説『沈黙』の題名には二つの理由があったということである。ひとつは、人間の苦しみに対する『神の沈黙』への疑問である。そして、もうひとつは、棄教者の苦悩に対する、後世の人々の蔑視や黙殺に対する批判である。」
ということを前回の記事に書いたが、それは、この講演でも語られている。


この記事の冒頭に掲載させて頂いた写真は、『沈黙』の草稿の翻刻が収められた本の表紙である。その本には、原稿用紙の裏側に鉛筆で書き込んでいた遠藤自筆の草稿の写真版も収録されているが、それを見ているとこの小説の執筆が彼にとって如何に体力・精神力を消耗させるものであったかが少し痛々しいまでに感じられる。

それだけにこの講演をした時期の遠藤は、作品を書き上げた後の達成感、虚脱感とともに反響への期待や満足感に浸っていただろうと想像できるから、講演の語り口を聞いて感ずる心地よさはそのせいかも知れない。


「2017年3月末まで期間限定無料公開」なんだそうだ。ということは、4月になったらお金を払わないと聴けなくなる、ということらしい。https://www.youtube.com/watch?v=ykJKaM3lfys



2.小説『沈黙』の内容は、キリシタン史研究の発展とはあまり関係が無い



私は過去の記事の中で、「遠藤周作の『沈黙』も『侍』もこの(高瀬弘一郎氏の「キリシタン時代の研究」という論文集が刊行された)頃に発表された作品であり、キリシタン史の研究の発展はそういう面にも影響を与えているようだ」などと書いてしまった(http://iwahanjiro.exblog.jp/23274041/)が、それは誤りなので訂正させて頂きたい。



『沈黙』が発表されたのは1966年、「キリシタン時代の研究」に収められた諸論文は1971年から1977年に発表されたものである。内容的にも、『沈黙』では「キリシタン時代の研究」に書かれているような、「キリシタン布教とスペイン・ポルトガルの国家政策の関係」や「キリシタン布教の実態」や「宣教師の軍事計画」などといったことは一切触れられていない。

『沈黙』で描かれているのは、迫害・拷問によって棄教を迫られひたすら苦しむ信者と宣教師であり、それは「キリシタン時代の研究」以前に描かれていたある意味で清く美しい「キリシタン史」の世界である。だから、『沈黙』を今読むとどこか古臭く感じられるのは、そのせいかも知れない。

しかし、そもそも作者遠藤周作は歴史研究者ではないのだから、史実を書かねばならないということはないし、小説なのだから史実の一部を改変したり省略したり強調したりして如何なる状況を設定しようと自由なのである。したがって、小説『沈黙』には歴史研究の成果である史実が盛り込まれていないから価値が無いなどと言うつもりは私にはない。むしろ、50年前のあの時代によくぞここまで書けたものだと感嘆し、その勇気を讃えたいと思っているくらいなのである。


それは、上に述べたこの小説の題名を『沈黙』とした二つの理由、「神の沈黙」と「棄教者の苦悩に対する後世の人々(教会と言って良いかも知れない)の沈黙」は、どちらも教会の中ではタブ-とされてきたことだと私は思うからである。そのタブ-をこの小説はテーマとして採り上げ、答えを探ろうとした。作者が探り当てた答えが、納得いくものであるかどうかの判断は人によって様々だろう。

ある人々は、作者が提示した答えがあるまじき考えであり異端であると決めつけている。私は、「踏むがいい」と言われたとする話の筋は、棄教者に光を当てたいと願いながら彼らが弱者であるとの考えから結局脱けきれなかった作者の及び腰の産物だと考えてきた。


しかし、なぜ遠藤周作は信者でありながら教会のタブ-に挑戦するようなことができたのだろうか。それは、彼自身の信者としてのある意味で特異な経験が可能にしたことではないか、と私は考えている。



3.教会に帰属意識をもてず、聖職者の人間的側面をみせつけられるような経験までしていたからこそ



遠藤周作は、日本では珍しくカトリック信者であることを自認し、それが広く知られ作品にもそれを反映させていた作家だった。それで、カトリック作家の代表であるかのようにみなされ、本人も彼に対するそういう世の中の位置付けを了解して対応しているように見えた。しかし、遠藤の生い立ちをよく観てみると、彼が育った環境は決して典型的なカトリック信者のそれではない。


彼は、両親の離別により満州から母親とともに帰国し、母親の姉の下に身を寄せていたという。そして、その叔母の影響で洗礼を受けた母親の指示に従って、彼も12歳の時に受洗した。カトリック信者は生後すぐに洗礼を受けるのが一般的である。また、私が子供の頃通っていた教会の熱心な信者の中には大学生ぐらいの年齢になってから、いわば生き方の選択の一つとして洗礼を受けたというような人も結構いた。しかし、遠藤はそのどちらでもない。


教会というところは、信者の子供にとって生活の場だから友達もいて学校の次に多くの時間を過ごす場所である。そういう場所では、何と言っても赤ん坊の頃からそこで育ったような子が幅を効かせる。私の周囲にも、小学校の高学年になって洗礼を受けた子がいたが、皆がその子を、まるでお客さんのように扱っていたような気がする。


さらに、今はそんなことは無いかも知れないが、昔はカトリック教会では離婚などあり得ない事だった。だから、両親が離別したという事情があれば、またそれだけ教会の中に溶け込むのは難しかっただろうと私は推測する。そんなことから、遠藤は子供の頃、教会の雰囲気に溶け込めず教会に帰属意識のようなものは持てなかったのではないか、と私は思っている。


次に、遠藤の母親は、あるドイツ人のイエズス会司祭に深く傾倒していた。その司祭は学識豊かで教会の中の誰からもエリ-トと仰ぎ見られるような存在だったらしい。彼は東京にあるカトリック系の大学の教授となり遠藤の母親によって翻訳された彼の著書が出版されたこともある。ところが、彼は遠藤の結婚式を司式した2年後、突如失踪し司祭職を辞して日本人女性と結婚、日本に帰化した。遠藤が『沈黙』を発表する9年前のことである。遠藤は『沈黙』を発表した2年後、この人物をモデルに小説『影法師』を書いている。


以上から言えることは、遠藤周作が幼い頃は教会の雰囲気に溶け込めない事情を抱え、長じては聖職者や教会について醒めた目で見つめざるをえないような経験をしていたということである。それゆえに、遠藤にとって、多くの信者のように教会という場で信者同士の繋がりや聖職者との関係を手に入れそれを享受するようなことは難しかったのではないか、と私は考える。しかしまたそういう人間関係のしがらみのない立場にいたからこそ、他の人々が人間関係を崩したくないがために出来れば避けて通ろうとするタブ-にも立ち向かうことが出来たのではないかとも思っている。

そして、そう思うようになったとき、主人公ロドリゴが「踏絵を踏むがいい」という声を聞いたという『沈黙』の筋が作者の「及び腰」の産物だとばかり考えてきた私は、それが子供の頃から教会の中で遠藤が感じ続けていたであろう「孤独」の産物でもあることに初めて気が付いた。




4.井上筑後守(ちくごのかみ)政重について



トマス・アラキに関する記事に対し、osakadaさんと仰る方から、井上筑後守は興味深い人物なので調べてみてはどうか、とのアドバイスを頂いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/23554978/


井上筑後守は、どこまでが本心か分らないような複雑な性格を持った元キリシタン信者の老獪な奉行として小説『沈黙』に登場する。映画『沈黙』では、イッセ-尾形が演じてリアルで怖いとかで評判になっているようであるが、井上筑後守政重は実在の人物である。


元キリシタン信徒であった井上は幕府の大目付となった後、宗門改役を兼ね、島原の乱に上使として赴きキリシタン禁教政策の中心人物となった。文京区小日向にあった彼の下屋敷は、宣教師や信者が収容されたことから「切支丹屋敷」と呼ばれ、『沈黙』の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルであるジュゼッペ・キアラが終生幽閉されていた場所である。


さて、osakadaさんが下さったアドバイスの中で私が興味を引かれたのは、井上が「キリシタン取締り」の知識や経験を自己の職務遂行の引いては出世の切り札として活用したと考えられる点であった。(考えてみれば、出世のためなら何でも使おうというのは当然なのだが)
そこで、少し調べてみると「政治的には『オランダ人の保護者』と評され、当代一流の諸科学の受容者でもあった」〈世界大百科事典〉とされている。西欧の科学的知識の吸収に非常に努力し貢献した人らしいのである。


私は、棄教した後のクリストヴァン・フェレイラが、南蛮(ポルトガル)・紅毛(オランダ)両国系の学問・知識の吸収・普及に活路を見い出したのではないか、と考え、そう書いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)棄教者の苦悩に光を当てることを標榜しながら、小説『沈黙』の中に「『私はこの国で役に立っている』と語るフェレイラが、ロドリゴには、他人に自分が有益でありたいという昔の思い出にすがりついているように見えた。」などと書いている作者の「及び腰」に反発を感じたからだ。しかし、フェレイラがどういう経緯で西欧の学問・知識の吸収・普及に貢献しようとするようになったのかは、想像が付かなかった。


フェレイラは、西欧の学問・知識に強い関心を持つ井上筑後守から、その吸収・普及に貢献するという役割を示唆されたのでは、ないだろうか。それとも、学問・知識の吸収・普及の必要性やその進め方を提案したのは、フェレイラの方だったのかも知れない。

いずれにしても、「キリシタン取締りの元締め」と「棄教したポルトガル人司祭」との間に、西欧の学問・知識の吸収・普及に関して交流があり、両者ともがそれによってその後の人生を切り開いていったと考えると何だか楽しい。


osakadaさん、有難うございました。


〈おわり〉










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by GFauree | 2017-02-21 10:42 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(0)

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                                           ロ-マ教皇庁布教聖省本部



1.フェレイラが乗ってきた船


クリストヴァン・フェレイラが初めて日本の土を踏んだのは、1609年6月29日のことである。
カピタンモ-ルであるアンドレ・ペッソア率いるマカオからの定航船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号で長崎に着いたのである。

ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号という船の名前で思い出された方も多いだろう。

その船の長崎入港後、アンドレ・ペッソアと長崎奉行長谷川左兵衛との間に、取引を巡る争いが発生した。

この時、前年自分の朱印船がマカオでトラブルを起こし、その処理に関してペッソアに恨みを抱いていた「キリシタン大名」有馬晴信も奉行に加担、家康の承認を得て有馬軍がその船を攻撃し、1610年1月長崎湾にて遂にペッソアもろとも自爆させるに至った。

これが、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」であり、その事件については、2015年6月8日付の記事に書かせて頂いたのでご参照頂きたい。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21320097/

この事件について注目すべき点は、この事件ほどキリシタン教会に大きな打撃を与えたものは他になかったのではと考えられることである。

上記の記事に書いたために繰り返しになってしまうが、念のためにそのキリシタン教会が受けた打撃の内容を以下に書き出してみよう。


(1)「キリシタン大名」がポルトガル船に攻撃を加えたことによって、従来、少なくとも建前上は一枚岩となってキリシタン教会を支えていた筈の「ポルトガル商人・イエズス会・キリシタン大名」勢力の分裂が露呈した。


(2)沈没船には相当量のイエズス会の船荷が積載されており、それを喪失した結果、イエズス会は甚大な損害を蒙り、従来から窮迫していた財務状況はさらに悪化し大幅な債務を負うこととなった。


(3)この船には、マカオのポルトガル商人から日本で「銀」に替えることを委託された「金」が積まれていて、日本に到着した時点で「金」から「銀」に交換された。

ところが、日本側のイエズス会士は、マカオに送り返すべき「銀」を船に積み込まず、結果的に船が沈み、マカオの委託者は「銀」の支払いを求め、イエズス会側は「海損の慣行」をたてに支払いを拒んだ。

イエズス会側の主張は理論的には、一応筋が通っているが、対価である「金」は受け取ったのだから、「銀」の支払いをしなければ「ただどり」である。それでも、イエズス会側は譲らず論争は10年以上に及んだ。

いずれにしても、この件によって、マカオのポルトガル人のイエズス会に対する不信感が一挙に増大したと考えられている。


(4)イエズス会内のヨーロッパ人会士と日本人会士との間の亀裂が顕在化した。

「日本人の修道士はペッソア司令官が逮捕されるように、教会へ祈りに行く始末で、爆発が起きたためにその大船が沈没すると、ヨ-ロッパ人は嘆き悲しんだが、日本人は喜びに湧き立った。」(「通辞ロドリゲス」マイケル・ク-パ-著)


(5)さらに、1614年の全国的な禁教令発布の決定的な契機となったと言われる1612年の「岡本大八事件」は、この「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」に起因している。



〈この事件による打撃の意味するところ〉

「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」によってキリシタン教会が受けた打撃は、次のような意味を持つものと考えられる。

キリシタン大名のポルトガル船攻撃・イエズス会の貿易商品の喪失・マカオ商人とイエズス会の対立、はどれもキリシタン教会を支え布教を推進してきたイエズス会の活動の基本構造に係わることである。ということは、この時点で既にイエズス会は活動の基本構造(いわば、ビジネス・モデル)の一部に破綻を来していたということである。

イエズス会内のヨ-ロッパ人会士と日本人会士の敵対関係が露呈したということは、未解決のまま燻(くすぶ)ってきた組織内の問題が覆い隠せなくなってきたということでもある。


なお、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」・「岡本大八事件」が、全国的な禁教令発布に繋がって行った過程については、「キリシタンの浸透ぶりに家康が驚愕して」というような説明を見掛けることが多い。しかし、「岡本大八事件」は、長期安定政権樹立と貿易独占という喫緊の課題を抱えていた幕府が、豊臣勢力との決戦に向けて課題消化のために意図的・計画的に起こしたものだったと考えるべきではないか、と私は考えている。その点については、2015年6月20日付の記事をご参照頂きたい。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/


以上の意味から、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」はキリシタン教会の内部組織にとっても、またそれを取り巻く周囲の政治状況にとっても、非常に重大な出来事であったと考えられる。そして、そういう船にフェレイラが乗船して来日したということについては、感情的な表現と受け取られてしまうかも知れないが、“彼の宿命”とでもいうものを感ぜざるを得ない。


2.カトリック教会の海外布教体制も大きく転換しつつあった


ここまで、フェレイラの日本到着とほぼ時を同じくして、日本のキリシタン教会の内外の局面が激しく変化していったことを示す事件が起きていたことを述べてきたが、実はフェレイラが来日した後、逮捕される遥か以前から、海外のカトリック教会全体としての布教体制も大きく転換しつつあったのである。

それは、1622年、[その2]の記事でご紹介したイエズス会総会長宛書翰をフェレイラが書いた翌年、ということは来日から13年後、逮捕・棄教の11年前のことである。その年、ロ-マ教皇庁内に、海外布教地の問題を管轄する布教聖省が設置され、その初代書記官にフランチェスコ・インゴリが就任する。インゴリは反イエズス会の立場で27年間布教聖省を動かしたと言われている。

ところが、布教聖省設置時の教皇は、イエズス会で育成された初の教皇グレゴリウス15世であり、イグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルを列聖させたことでは知られているが、布教聖省に関しては反イエズス会の書記官を任命して、率直なところ一体どのような方針を以て臨んだのだろうか。

イエズス会で育てられた教皇は、大航海時代の海外布教を支えてきたイベリア両国の国力に頼った布教の在り方の見直しを迫る声に押されて、布教聖省を設置し反イエズス会の書記官を任命したものの、強固な植民地統治に守られた布教地の教会組織に介入することはできず、結局は、為す術がないことを知っていたのではないかとも思える。


〈従来の布教体制の問題点〉

それでも、従来の布教体制の問題点についての、新設の布教聖省の公表された認識は、概略以下のようなものだったらしい。

(1)宣教師が教会保護者である各国王室の意を迎えようと、国家の政治的・経済的利害に沿った行動を取りがちだった。
(2)ポルトガル・スペインをはじめ、国家間の対立抗争が教会に持ち込まれ、教会活動の純粋性を損なってきた。
(3)布教保護権制度上の、保護者(各国・国王)の義務(経済的負担)が履行されず、教会は常に収入不足に悩まされてきた。
(4)原住民聖職者の養成が軽視され、布教の現地適応が進められなかった。


〈布教聖省の対処方針〉

以上の問題点は、日本のキリシタン教会にもそのまま当てはまるものである。
教皇庁は以上の問題点を認め、その対策として次の方針を立てたとされている。

(1)布教と政治・植民とを分離する。
(2)原住民聖職者を養成し、布教政策を現地の事情に適応させる。

しかし、布教聖省が如何に立派な方針をたてようと、海外布教地で働く宣教師自身の考えが変わらない限り改革は進まない。そのうえ、宣教師たちの(人種差別を含む)意識を変えることは容易ではないし時間もかかる。

特に日本の場合、キリシタン布教については、秀吉以来の為政者から侵略的性格を疑われてきたのだから、まずは布教と政治の分離を明確に立証し示すことが必要だったが、それはどこまでなされたのだろう。教会側に言わせれば、その機会を与えられなかったということだろうか。

布教聖省設置の同年(1622年)には、長崎で55名の殉教があり、その翌年には江戸・芝で50名が処刑されている。キリシタン取締りは日増しに強化され、やがてはフェレイラ逮捕に至る流れは変わらないにせよ、カトリック教会側の方針は転換されていたのである。


〈取り残されたフェレイラ〉

布教聖省が設置されたことをフェレイラが何時知ったかは分らない。しかし、彼が祖国ポルトガルから船出した1600年にも、マカオを発ち日本に着いた1609年にも、国王権力と教会が一体となって海外布教を進める“教俗一体”の体制を否定する組織が教皇庁の中にできようとは、想像すらできなかったのではないか。

さらに、彼が所属していた組織のことを考えると、世界的にも歴史的にも様々な面で、その組織の優秀さには抜群の定評がある。そういう組織が、教皇庁が代表するカトリック教会指導部の傾向を感知しないわけがない。当然、日本の布教の将来性を検討したであろう。そして、出した答えは撤退であるはずだ。もちろん、軍隊の撤退と同様に内部に対しても、それを公表する訳にはいかない。

そんな中、組織のエリ-トとして育てられてきたフェレイラは、順当に次々と重責を担わされていく。もう、行き先には「殉教」しか残されていないのに、その「殉教」の原動力となる筈の組織特有の精神鍛錬法が、冷静な判断力を持つ彼の中で次第に効能を失っていったとすれば、彼は「棄教」へと追い詰められるだけだったということではないだろうか。


3.分からず屋たち


〈部下に去られた者の腹立ち〉

「私は日本人ほど傲慢・貪欲・、不安定で偽装的な国民を見たことがない。彼等が共同の、そして従順な生活ができるとすれば、それは、他になんらの生活手段がない場合においてのみである。ひとたび生計が成立つようになると、たちまち彼等はまるで主人のように振舞うに至る。・・・・・・
彼等は土着民であり、彼等には血族的な繋(つな)がりがあるが、日本におけるヨ-ロッパ人には、一人の親族があるわけでもない。

彼等はラテン語の知識もなしに、私達の指示に基いて異教徒たちに説教する資格を獲得しているが、これがために我等を見下げたことは一再に留まらない。日本人修道士は、研学を終えてヨ-ロッパ人と同じ知識をもつようになると、何をするであろうか。・・・・・・

日本で修道会に入って来る者は、通常世間では生計が立たぬものであり、生計が立つ者が修道士になることは考えられない。」
(日本巡察記 東洋文庫 229 解題Ⅱ 1.布教長カブラルと日本の情勢より)


読んでいると腹の立って来る言葉の連続だが、これは、イエズス会にあって現地適応主義のフランシスコ・ザビエルや巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの対極に位置付けられている、原理原則主義のフランシスコ・カブラルのものである。

カブラルは、1570年コスメ・デ・ト-レスの後任として日本イエズス会の布教長に就任したが、布教方針をめぐって巡察師ヴァリニャ-ノと対立し、1580年に布教長を解任されたが、その後もインド管区長の地位に在って、終始ヴァリニャ-ノを攻撃し続けた人物である。

カブラルは布教長時代、何人もの部下から離反され、分派を作られ、彼等の連れ戻しに相当苦労したことが知られている。イエズス会は上意下達の明確な組織だったと考えられるが、日本語能力のない外国人宣教師は説教すらまともにできなかったのだから、部下に去られてしまえば活動が立ちいかなくなり、彼等の連れ戻しに必死にならなければならなかっただろう。

従って、この言葉は、自分をそのような苦境に追い込む日本人たちが、如何に性格が悪く、修道者に適さないかを腹立ちまぎれに書きなぐったものと考えられる。そんなに、日本人が嫌ならさっさと日本を去り素晴らしいキリスト教国へ帰ってもらいたいところだが、本人としては、「キリスト教布教の使命感でいてやっている」ぐらいの気持ちだったのだろう。そういう宣教師もいたというより、少なくなかったと考えるべきだろう。


〈異教徒のことが本当に解からない〉

私がこのカブラルの言辞について気が付くことは、日本のような異教の土地に暮らす異教徒に異教の地で布教するということが、この人は本当に解かっていなかったらしい、ということだ。そうでなければ、このような言葉は吐けない。

日本は、ヨ-ロッパのように千年以上かけて社会の隅々にキリスト教が染み渡っているところではなかった。南米のように、短期間のうちに社会の仕組みとともにキリスト教を無理やり呑み込まされたというのでもなかった。従って、普段は従順に振舞っている部下たちも、ひとたび教会から出ていく覚悟ができれば、上司だった者のいうことなど聴くわけがない。

ヨ-ロッパや南米であれば、教会の影響力は社会全体に行き渡っているから、仮に教会を出て行くことになった者も、後々のことを考えて、出来るだけ穏便な態度をとっただろうが、日本人で教会を辞めていく者は、別に後々まで教会関係者の影響を受ける心配はないから態度を一転させたのだろう。だからこそ、武力による強制を伴わない布教地での活動は難しいのである。

そういうことを解っていなかったカブラルは、辞めることを決心した部下の態度の豹変に、さぞかし驚き、慌てまた憤慨したことだろう。

〈ザビエルやヴァリニャ-ノだって本当に解かっていたかは疑わしいが〉

けれども、カブラルがそうだったからと言って、現地適応主義であったとされるザビエルやヴァリニャ-ノが、本当に異郷の地である日本や異教徒である日本人を理解していたかというと、そういう訳でもない、と私は思っている。

ただ、彼等は抜群に出来のいい営業マンだったから、顧客の扱い方や組織への報告の仕方や評価の得方を知っていたということなのだろう。
教会の聖職者と信者の関係は、営業マンと顧客の関係に似ている。自分の顧客を悪く言う人は、営業マンとして既に失格である。

有能な営業マンは自分の顧客が良質であり、その顧客との取引が将来性のあるものであることを組織に知らしめることによって、組織の眼を自分に向けさせる。また、良質であり将来性のある顧客であるからこそ、その取扱いは難しいし、そのために自分が如何に能力を発揮しながら細心の注意を払い、その扱いに努力しているかを組織に訴え続ける。

無論、彼は実績を上げるべく最善の努力をし顧客にさえ自分の能力を認めさせる位だから成功する可能性は高い。そして、その成果は予め経緯を充分に知らしめておいた組織によって何倍にも評価される。つまり、彼は教会が自分の方から努力して何かを認識したり理解したりなぞはなかなかしようとしない普通の怠惰な人間の集団に過ぎないことをよく解かっていたのである。ザビエルやヴァリニャ-ノの行動と報告の内容と彼らに対する組織の高い評価はこれで概ね説明がつくと思う。

ザビエルやヴァリニャ-ノの諸報告は、日本人にとっては耳触りの良いものが多いが、その内容によって彼ら自身も組織の中で良い評価を得ているのだから、自分たちと布教地日本の信者とは、もちつもたれつ、共存・共栄の関係であることを彼らはよく心得ていたということなのだろう。


〈棄教後のフェレイラに接触した人たちも〉

それはさておき、私はクリストヴァン・フェレイラの棄教後、彼に接触したとする教会関係者の姿勢・対応にも、「本当にこの人たちは、分っていないなあ」と感じるのである。

彼らによって、フェレイラが貧しい生活を送っているとか、涙を流したとか、惨めな生活を印象付けるような型通りの報告がなされている。外国人の元神父が日本女性と結婚して一緒に住んでいることが、カトリック信者にとって興味を引くことであるのは分るが、何人もの人に似たような報告をさせる程のことでもあるまい。

考えてみれば、カトリック教会の影響力が隅々まで染み渡っているような社会から来た人が、日本という異教の地でフェレイラの置かれた状況や、彼の気持ちや考えを余程のことがない限り直ぐに理解できるわけがないのである。

加えて、フェレイラとの接触によって何かを掴んだにしても、へたにマカオに戻ってからフェレイラに同情的なことを言えば、今度は自分が背教者の味方をする異端者として非難されかねなかったのだから、通り一遍のありふれたことを報告として述べるしかなかったのだろう。

どうせ、自分の状況を理解できず、またその努力をしようともせず、ただ押しつけがましく「立ち返り」つまり「殉教」すなわち「自殺行為」を勧めるだけの人たちと会うことが無意味であることは、フェレイラにとっても次第に明確になっていったことだろう。



4.
棄教した後の境遇


クリストヴァン・フェレイラは、捕縛・拷問・棄教の前に、それ以降のことを、どこまで考えていたのだろう。
キリシタン教会を統率・牽引する立場にある者としては、もし棄教の可能性を考えていても、それを口にする訳にもいかず、そもそも、上に述べた多くの外国人宣教師と同じように、それを具体的に想像できるほどには、日本の一般社会を知らなかったかも知れない。

だから、棄教後の境遇には戸惑うことの連続だったのではないか、と私は想像する。

〈老境に差し掛かっていた〉

その時、彼は53歳になっていた。現代の日本企業では、そのくらいの年齢で親会社から子会社に転籍させられ、それ以降は“第2の人生”などと呼ばれている。ただ、彼の場合は、「人生五十年」と言われていた時代の53歳である。もう老境に入っていたと言ってもおかしくない。当然、経済的にも困窮したはずである。

〈尊敬の代りに軽蔑〉

彼にとって、何よりもつらかっただろうと思われることは、若い時からエリ-ト集団の中の選り抜きの聖職者として育成され、黙っていても司祭として尊敬され、またそれにふさわしい役割が常に与えられていたのに対し、そういうことが全く無くなってしまったことだろう。代わりに、“転びバテレン”、“キリシタン目明し”などの呼び名に表れているような蔑みの眼が、周囲の日本人から浴びせられたであろうことは想像に難くない。

〈永遠に故郷を失う〉

また、これも当然のことだけれど、生まれ育ったキリスト教社会と永遠に訣別し、二度と後戻りのできない立場に追い込まれたことである。

宣教師として、海外布教に献身する以上は、布教地日本に骨を埋める覚悟はできていただろうけれど、気持ちはむしろ故郷のキリスト教社会と強く結びついていた筈である。棄教を選んだために、故郷の側から自分に手が差し伸べられることは永遠に無くなってしまったことの孤立感を彼はどのように克服したのだろうか。

こういう困難な境遇の中で、フェレイラは残りの17年間を生き抜いた。その困難さや苦痛は、激情にかられた殉教に優るとも劣らないものだったのではないか、と私は思う。

〈フェレイラを支えたもの〉

彼の業績は、[その4]で挙げた彼の著作や医学流派の始祖たちへの教育という形で残されている。そういう業績を生み出したフェレイラの情熱は、まず医学を勉強しようとした日本人の弟子たちに支えられるところがあったのではないか、と私は思う。真面目で熱心で優秀な生徒を教えることほど、生きていく力を与えられることはないことを私自身経験しているからである。

また、刑死した中国人の妻だったと言われる日本人の女性や、杉本忠恵の妻となった彼らの娘を含む子供達との生活によっても、彼は生き抜く力を与えられたのかも知れない。

それらのことが、東京、谷中の瑞輪寺にある杉本家の墓に「忠庵浄光先生」の名前と死亡の日付が刻まれ、フェレイラの娘婿であった医家杉本流始祖杉本忠恵の師として祀られていることに表れているのではないだろうか。

言うまでもなく、幕府の禁教・鎖国政策は、ポルトガルからオランダへの世界的な勢力交代という背景のもとに進められたものである。その政策によって棄教を強いられ、キリスト教社会からも絶縁され全てを失ったかに見えたフェレイラが、南蛮(ポルトガル)・紅毛(オランダ)両国系の学問・知識の吸収・普及に貢献することに活路を見い出した、と考えることも出来る。


そのように、いわば時代の要請に応じる確かな生き甲斐を見つけたフェレイラの晩年は決して惨めなものなどではなかったのではないかと思えてくる。彼が死の直前に、棄教を後悔し「立ち返り」をして殉教したなどということも、考える必要のないことになる。


5.おわりに


以上、クリストヴァン・フェレイラの生涯を総括すると、「大航海時代」の歴史の浮き沈みに翻弄されながらも、自分なりの人生を生き通した人、と言えそうである。けれども、考えてみれば人は誰でも皆、歴史の奔流に巻き込まれ翻弄されているのである。だから、フェレイラは必至で生き抜こうとした彼の一生を通じて、彼の生きた時代とその時代の人々の生き方を示してくれる「大航海時代」の代表的人物と考えればそれでよいのであって、それ以上に持ち上げる必要もそれ以下に貶める必要もないと私は思う。

しかし、それにしても感ずることは、人にとって大事なことは、成功することなどではない。まず生き延びようとすることだ。
人間は、成功しようがしまいが、あくまで生き続けるべきなのだ。そして、そこにこそ人生のより本物の喜びも在り得るようだ。

また、それを否定する考え方は、宗教とは呼べない。なぜなら、宗教は先ず生きるためのものだからだ。
だから、殉教者を賛美することも、殉教しなかった者を蔑んだり哀れんだりすることも、ともに浅慮の為せる業と言う他はないのである。


〈完〉



[参考文献]

「キリシタン研究」 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」Hubert Cieslik S.J. 吉川弘文館

「キリシタンの世紀」 ザビエル渡日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著 岩波書店


















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by GFauree | 2016-04-07 12:57 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(2)

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                   教会を去った神父の心の支えを探った作品。モデルは作者の周囲にいた実在の人物。



1633年
、クリストヴァン・フェレイラは逮捕され拷問を受け棄教した。
今回は、彼の棄教とそれ以降の人生をイエズス会司祭フ-ベルト・チ-スリク氏の論文「クリストヴァン・フェレイラの研究」に沿って辿ってみたい。


1.棄教の背景


1633年3月
、それまで長崎奉行としてキリシタン取締りの指揮を執ってきた竹中采女正が罷免され、江戸で切腹を命じられた。貿易に関する様々な不正に加え、実は自己の利益のためにポルトガル人と密接な関係を持っていたことが発覚したからである。

直ちに、幕府は相互監視の意味で二人の奉行を任命したが、その二人奉行の体制が続いたのは1634年8月までのことである。ところが、そのわずか17か月の間、二人の奉行はまるで手柄競争をするように、キリスト教弾圧を進めた。

その流れの中で新たに加えられたのが、「穴吊るし」という拷問方法である。

チ-スリク氏の論文によれば、1633年7月から10月にかけて、聖職者と信者を合わせて少なくとも46名が逮捕され拷問を受けている。

そのうち、イエズス会の神父、修道士、伝道士は21名である。その中に、クリストヴァン・フェレイラが含まれていた。

46名のうち何名が殉教し、何名が棄教したのかは言及されていない。
ただ、このとき殉教した者の中には、四人の天正遣欧使節の一人であり、後に神父になった中浦ジュリアンが含まれている。
ヨーロッパに向けて旅立ってから約五十年が経ち、64歳になっていた。

フェレイラは、穴に吊るされてから5時間後に屈服したとされている。彼は長崎に家を与えられ、処刑された中国人の妻だった日本人婦人と暮らすように命ぜられ、沢野忠庵という日本名を与えられた。53歳のときである。


2.棄教者としての生活


(1)1635年6月

(マカオから日本へ向かった艦隊の司令官ドン・ゴンサロ・シルヴェイラの報告)

・フェレイラは奉行所の命令で結婚させられたが、決して幸福な生活を送っていない。
・フェレイラが自分に会うことを避けたのは、背教者であり貧しいからと言って施しを乞うようなことはしたくなかったからである。
・翻訳をして奉行所のために働いている。
・キリシタンや神父たちを裏切るようなことは、していない。


(2)1637年

ドミニコ会(司祭)管区長代理アントニオ・ゴンサレスを含む四人の司祭と二人の従者が、マニラを出港し琉球に到着して捕えられた。薩摩の船で長崎に護送され、裁判官から尋問を受けた。

「その場には、背教者クリストヴァン・フェレイラともう一人の日本人元司祭がいた。裁判官は(ゴンサレスが持ってきたという)書簡を探し出させ、フェレイラに『宛名は誰か』と尋ねた。フェレイラは顔色を変え、恥じて震えながら『私宛である』と言った。」


(3)1639年

(「日本切支丹宗門史」より)

7月中、江戸でイエズス会の日本人ペトロ・カスイ神父が、物凄い拷問を受けた後、穴に吊るされて死んだ。白州で、彼は不幸なフェレイラに引き会わされたのであった。そして、彼に向かって堂々と非難した。面くらったフェレイラは、その場を外した。


(4)1643年

前回[その3]の記事に書いたことだが、イエズス会のアントニオ・ルビノ神父が組成した二つの日本渡航グル-プのうち、第二のグル-プは、この年6月筑前国大島に上陸し捕縛され、8月に江戸で吟味を受けたが、その際にフェレイラが通訳を勤めている。
なお、このグル-プは十名全員が棄教したと言われている。


(5)1646年

1641年、オランダ商館が平戸から長崎の出島へ移転し、フェレイラは、オランダ人と日本人との通訳として、また仲介者として働くようになった。

ところが、商館長ウィルレム・フェルステ-ヘンは、1646年11月17日付で次のように記している。

「予は日本へ来た時から背教パ-ドレたちのことを知ろうと努めたが・・・。今は二人のみ生存しているが、一人は忠庵というポルトガル人で元当地の耶蘇(イエズス)会の長であったが、その心は黒い。」

「その心は黒い」という表現が何を意味するかは定かではない。ただ、1643年3月17日の商館日記には、彼がキリシタンの墓を破壊するよう提案したとの記録がある。


3.フェレイラの著作


(1)反キリシタン書『顕偽録』


この書には、まえがきにも結びにもフェレイラの書である旨が記されているが、それには種々疑問が呈されている。

①フェレイラは禅宗に改宗したとされているにも拘わらず、本書の中の主張に仏教思想がほとんど含まれておらず、反キリシタンの論拠が儒教に基くものであること。

②本書が、儒学者たちが用いた典型的な漢文調で書かれていること。

③フェレイラは日本語を話し読むことはできたが、書くことはできなかったこと。

④秘跡に関する教義に対する反論にはプロテスタント的な考え方が一部に見られること。

ただし、内容的に、神学上の訓練を受けた外国人宣教師がその作成に関わったことは明らかであるため、奉行所の指図によってフェレイラと儒学者が合作したもの、との見方が現在では一般的である。


(2)自然科学書『乾坤(けんこん)弁説』


西洋の天文学・宇宙論を初めて日本に伝えた書物のひとつ。
医師であり儒学者であった向井元升が付した序文によると、フェレイラが西洋の天文書を和訳してロ-マ字で書き表し、それをオランダ語通訳であった西吉兵衛が音読、向井元升が筆録して、さらに詳細な注釈(弁説)を付したものだという。

フェレイラが翻訳した天文書としては、クリストフ・クラヴィウス(イエズス会数学者)著『サクロボスコの天球論注解』や、イエズス会(日本)コレジオで宇宙論教科書として使われていたペドロ・ゴメス著『天球論』などが考えられる。

特に、『天球論』と『乾坤弁説』の内容は章構成もよく似ており、フェレイラが宣教師時代に慣れ親しんだ『天球論』を使用したのではないかと言われている。


3.日本の医学への貢献


フェレイラを、南蛮(ポルトガル)医学の伝統と結びつける考え方がある。しかし、彼が何らかの特別な医学訓練を受けたとか、普通の宣教師以上の医学知識をもっていたことを示すような根拠は見当たらない。一方、フェレイラがけがの治療や薬草についての知識を得るためにオランダ商館を再三訪れていたという記録がある。

そのことから、彼の日本医学への貢献は医学の技術・知識という面よりも、むしろ通訳者・仲介者としてのものであったと考える方が妥当ではないかと考えられる。

実際には、フェレイラの活動の影響は、江戸時代の三つの著名な医学流派に見られる。

(1)吉田流 
半田順庵はフェレイラの下で学び、マカオへ行き日本に戻って名を挙げた人物であるが、吉田流の創始者吉田自休は、半田の弟子である。
(2)杉本流
杉本忠恵はフェレイラの下で学び、彼の娘と結婚し、将軍吉宗の侍医を勤めた。
(3)西流
西吉兵衛は「乾坤弁説」和訳の際の協力者として知られているが、彼の息子西玄甫も幕府の侍医として仕えた。

チ-スリク氏は、「長崎の医師や洋学の人たちが、幕府の役人である外国人の名を借りて自分たちの箔を付けようとしたのではないか」としている。確かにあり得ることだが、背教者を持ち上げまいとして書いた自分の見解が、フェレイラの周囲にいたであろう日本人を侮辱しかねないことには気が付かなかったのだろうか。


4.どうしてもフェレイラを殉教させたかった人々


フェレイラの背教によって衝撃を受け、彼に接触し背教を取り消させよう、つまり殉教させようとした人たちがいる。

・ペトロ・カスイ・岐部
先ず、ペトロ・カスイ・岐部である。彼が、1639年に逮捕され江戸の評定所で尋問を受けた際、フェレイラと対面させられ説得を試みたことは上に述べたが、それ以前潜伏中にフェレイラの背教を聞き、長崎に行って説得したこともあったようである。

・マルチェロ・マストリリ
次に、イエズス会のマルチェロ・マストリリ神父である。彼は、ヨ-ロッパから日本へ赴き、1637年10月拷問の末に斬首された。


アントニオ・ゴンサレスのグル-プとアントニオ・ルビノの二グル-プ
さらに、ドミニコ会管区長代理アントニオ・ゴンサレスを含む四人の司祭と二人の従者と、アンアントニオ・ルビノ神父によって組成された二つのグル-プである。

アントニオ・ゴンサレスのグル-プについては、上に書いたように、裁きの場でのフェレイラとの出会いがあったが、その後全員が殉教した。

ルビノ神父によって組成された二グル-プについては、第一のグル-プ8名は到着後逮捕され全員が殉教し、第二のグル-プは、小説「沈黙」の主人公のモデルとなったジュゼッペ・キアラ神父を含む10名全員が棄教したことと、そのうちキアラを含む4名の司祭は小日向に建てられた切支丹屋敷に終生収容されていたことは、前回の記事[その3]に記した。

キアラ以外の3名の司祭のうち、アドンゾ・デ・アロヨはキリスト教の信仰に立ち返る意志を見せたため、女牢に入れられたが、減食し20日ほどで衰弱死した。フランシスコ・カッソラは、女牢に入れられ女囚と通じたことを白状し(その真偽は不明)、まもなく病死した。ペドロ・マルケスは80余歳で病死した。



現代にも、フェレイラが殉教して、その一生を勇敢に終えたとの報告を書いた人がいる。イエズス会の歴史家ヨゼフ・フランツ・シュッテ氏である。シュッテ氏については、前回[その3]の記事の中で、「キリシタン時代の殉教者の数はせいぜい千数百人だ」との見解を出した人物としてご紹介した。

彼の報告では、「フェレイラは、80歳を超え(実際に死亡したのは70歳のときである)、数年間病気と衰弱で床についたのち、回心を表明した。奉行は彼を穴吊るしの刑に処し、彼はこの拷問により、キリストのために一生を勇敢に終えた。」とされている。

チ-スリク氏は、冷静に「ヨ-ロッパ側の楽観的な報告が、根拠があろうとなかろうと、我々は彼の人生の最期の時にあたって、死にゆく者のたましいに何が起こったかを知ることはできない。」としている。


次回は、クリストヴァン・フェレイラの生涯全般について気付いたこと、考えてきたことを、書いてみたい。

〈 つづく〉



[参考文献]


「キリシタン研究」 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」Hubert Cieslik S.J. 吉川弘文館
  
殉教 日本人は何を信仰したか 山本博文著 光文社新書 429

長崎のオランダ医たち     中西 啓著  岩波新書 942












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by GFauree | 2016-03-31 04:37 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(0)




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[評判になった小説「沈黙」]


棄教したポルトガル人司祭クリストヴァン・フェレイラは、「転びバテレン」または「キリシタン目明し」沢野忠庵として、すでに江戸時代から、世間の好奇の目を引く存在であったらしい。しかし、近年彼に対して多くの人々の関心が寄せられるようになったのは、遠藤周作の小説「沈黙」によるものではないかと、考えられる。

小説「沈黙」が発表されたのは今から50年前の1966年、私が高校3年のときである。新聞の書評に採り上げられ、「谷崎潤一郎賞」を受賞し、一般社会的な話題にもなった。未だ戦後の「唯物論的進歩主義知識人」が言論界をリ-ドし、「大学紛争」が端緒をみせかけていたような時期で、宗教だのカトリックだのが話題になることは希少だったにも拘わらず、小説「沈黙」は意外なほど評判になっていた、と私は思う。私自身も遠藤周作が「カトリック作家」であることぐらいは知っていたから、とにかく関心はあった。


[私も読んではみたけれど]

というより、カトリックの家庭環境に育った者として、棄教したカトリック司祭について書かれた小説を読んだこともないというのはまずいという見栄の気持ちがあったから、目を通してみたことはある。しかし、書かれている登場人物の置かれた状況や心理が容易に納得できず、つまり書いてあることがさっぱり分らず、面白くもなくてすぐに投げ出してしまった。今になって考えると、キリシタン史やその時代の殉教や棄教について、ほとんど知識もなくまた考えたこともなかったのだから、何も分らず面白くないのも当然だったのである。

その頃、それほどキリスト教関係に関心があるように見えなかった友人が、小説「沈黙」が凄いと言って感激しているので理由を訊いてみた。彼が言うには、潜伏し捕縛されるまでの緊迫感や棄教を迫られて次第に追い詰められていくときの恐怖感が凄いということだった。彼は小説「沈黙」が持っているはずで、私がさっぱり理解できなかった宗教的思想性のようなものに感激したのではなく、「優れたサスペンス性」とでもいうような小説の造りに感激していたのだ。私は、「そんな読み方もあるんだ」と感心するような、拍子抜けするような気持ちを味わったが、今にして思えば、そういう風にして一気に読ませてしまうことも、作者の狙いとか手腕のひとつだと考えるべきなのかも知れない。

今回、この記事を書くために、改めて「沈黙」を読んでみた。若い時とは違って、「キリシタン史」にも親しむようになってきたから、少しは楽に読めるようになったのでは、という期待があったのだが、私にとっての読み難(にく)さは相変わらずだった。ただ、だいぶ冷静に読めるようにはなっているようで、何点か特徴的なことに気付いたので、それを挙げることから始めてみよう。


[小説「沈黙」の特徴的なこと]


1.史実を改変した筋書きが設定されている

小説「沈黙」の主人公はクリストヴァン・フェレイラではなく、ポルトガル人司祭セバスチャン・ロドリゴである。

小説の中では、フェレイラの棄教という教会の不名誉の雪辱を果たすため、迫害下の日本へ潜伏し布教するという計画をたてた、ルビノ神父を含む四人の神父の一団がロ-マにあり、ポルトガルにも別の一団があった。

ポルトガルの一団は、かつて神学生としてフェレイラの教えを受けた三人の若い司祭たちであり、「フェレイラが華々しい殉教をとげたのならば兎も角、犬のように屈従したとはどうしても考えられず、事の真相をつきとめよう」と、日本への渡航・潜伏を計画していた。
その中のひとりが、主人公セバスチャン・ロドリゴである。

フェレイラは、小説のクライマックスで主人公ロドリゴに棄教を勧める役を演じている。


史実はこうだった。



1638年
、インドからマカオへ派遣されたイエズス会のアントニオ・ルビノ神父は、1639年、日本管区長・シナ準管区長・巡察師に任命された。

1640年、ルビノ神父は、他の神父とともにマカオから日本への渡航を試みたが、嵐によってコチンシナ(ベトナム)沿岸に流されマカオへ戻った。

1642年、ルビノ神父は、マカオからマニラへ渡り、日本への渡航を計画し二つのグル-プが組成される。

第一のグル-プは、ルビノ神父を含む5人の神父と3人の従者(修道士か同宿と思われる)の合計8人である。このグル-プは、1642年7月マニラを発ち、8月に薩摩に上陸、逮捕され長崎へ連行された後、大村の牢に収監され全員が殉教した。

第二のグル-プは、日本副管区長ペドロ・マルケス神父やジュゼッペ・キアラ神父を含む4人の神父と6人の従者の合計10人である。このグル-プは、1643年6月、筑前国(現在の福岡県西部)大島に上陸し捕縛された。8月に江戸に到着し、取り調べ・尋問・拷問を受け全員が棄教した。そして、その棄教者たちは、現在の文京区・小日向にあった切支丹屋敷に送られ、死ぬまでそこに拘禁された。

ジュゼッペ・キアラ神父は、イタリアのシチリア島パレルモの生まれ。棄教した後は、岡本三右衛門という死刑囚の未亡人を妻として娶って岡本三右衛門と名乗り、幽閉四十年後の1685年に83歳で死去した。

このキアラ神父が小説「沈黙」の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルである。
フェレイラは、キアラ神父等の上記第二グル-プが江戸で取り調べを受けた際、通訳を務めたと言われている。


なぜ作者は、史実を改変してこのような設定をしたのだろうか。
私は次のように推測した。

1.「フェレイラ棄教という教会の不名誉の雪辱を果たそうと、マカオ・マニラを拠点とするルビノ神父のグル-プだけでなく、カトリック教会の本拠地であるヨ-ロッパのロ-マやポルトガルからも、日本に渡航・潜伏しようとした人々がいた」とすることで、如何にフェレイラ棄教がカトリック教会全体にとって衝撃的なことであったかを印象付けようとしたのではないか。

2.「セバスチャン・ロドリゴを含む三人が若いポルトガル人司祭であった」としているのは、フェレイラが如何に優れた神学者かつ恩師として尊敬される存在であったかを表わそうとしたのではないか。

実際のフェレイラは、20歳の時にリスボンを船出しインドに向かっているのだから、ポルトガルで学生を指導する立場にはなかったし、優れた神学者であるか否かを示す段階に至ってもいなかった。


巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの登場

その他、史実と異なる筋書きとして、「日本渡航を目指す三人のポルトガル人司祭がマカオで巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノからきびしい注意をうける」という設定がある。史実では、ヴァリニャ-ノは30年以上前の1606年に没しているのである。

ここで、ヴァリニャ-ノを登場させていることについて、平穏に布教を進めることのできた時代と対比させることで、迫害下の時代の厳しさを浮き彫りにしようとしたのでは、という見方がある。

歴史小説を読むときに、一度でも読んだり聞いたりしたことのある人物の名前(特に、外国人の名前)は受け入れやすいものである。だから、読者が一度でも触れた可能性のある人物の名前を作者が持ち出してきただけなのではないか、と私は考えている。


「歴史小説は作者が自分の思想を表わすために歴史的材料を用いて創造するもの」なのだから、材料である史実を作者が如何に改変して設定しようと自由である。作者はより効果的な表現とか、読者の理解を得やすくすることを狙って史実を改変するものなのだろう。いずれにしても、読者の知識や思考の内容や質を考慮しているはずである。

今まで見てきた、この小説の中での史実の改変のされ方を観ると、作者はどのような読者に対して、何を訴えようとしていたのかが見えてくるような気がする。


「教父」という言葉の使われ方

もうひとつ気になっていることに、「教父」という言葉がある。「沈黙」のまえがきの2行目に、「クリストヴァン・フェレイラ教父」という言い方がされている。一見、神父とか尊師とかと同様、敬称のようであるが、私はこういう使われ方は耳にしたことがない。

wikipediaには、「古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、とくに正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々」とされている。フェレイラがこの定義に該当する訳がない。

それでは、なぜ作者は、この言い方をしたのか。まえがきに書かれているように、「稀にみる神学的才能に恵まれ、迫害下にも司祭と信徒を統率してきた長老」に重みを付けようとして「教父」と呼んだだけのことかも知れない。

ただし、棄教した時点のフェレイラは、まだ53歳だから、「長老」と呼ばれるほどの年齢ではなかった。ただ、「人生五十年」の時代だったから、もう老境に差し掛かっていたとは言えるし、宣教師の多くが追放され、残った者の中で最長老の存在になっていたのかも知れない。



2.嫌なものを日本人に突き付けてくる小説「沈黙」


(1)卑屈な日本人キチジロ-

「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パ-ドレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」
「わしは弱か。わしはモキチやイチゾウごたっ強か者(もん)にはなりきりまっせん」
「俺は生まれつき弱か。心の弱か者には、殉教(マルチルノ)さえできぬ。どうすればよか。ああ、なぜ、こげん世の中に俺(おい)は生れあわせたか」
「この世にはなあ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、俺(おい)のように生れつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ・・・・・・」

主要な登場人物であり、裏切者でありながらどこまでもロドリゴについてくる卑屈な日本人キチジロ-のせりふである。このせりふを読んで、普通はどんな感じがするのだろうか。

自分が苦しみを受けるいわれはないと言い募る。
自分の弱さを表に出し、居直りの素振りさえ見せる。
殉教できないことを自分の弱さのせいにして、迫害下に生まれたことを嘆いてみせる。
世の中には、必ず強者と弱者がいて、自分のような弱者は棄教を強いられれば、それを受け容れるしかない、とうそぶく。

このせりふの、いかにも甘ったれた考え方や馴れ馴れしい言い方が何度読んでもわたしには気持ち良くなかった。こんな、キリスト教信者はいない、なぜ作者はこんなせりふ吐かせるのだろう、と思い続けていた。ところが、今回読み直してみて気付いたことがある。

キチジロ-の言動は従来伝えられ描かれてきた日本人信者のそれと対極にある

それは、この嫌らしいキチジロ-の態度は、ひたすら清く正しく潔く殉教していったとされてきた「キリシタン時代」の日本人信者たちの対極にあるということである。そうして、「極端なまでに生々(なまなま)しくキチジロ-を描かなければ、従来ひたすら美化されてきた『キリシタン時代』の日本人信者象を、拭い去れない」と作者が考えたのではないか、ということに私はやっと思い至った。

私は、従来、日本人信者がひたすら美化されてきたことが、多くの人々を「キリシタン時代」の歴史をリアルに感じることから、遠ざけてきたと考えている。だから、読者に「キリシタン時代」をよりリアルに感じさせるためには、キチジロ-の言動をその時代の日本人信者の実像により近いものにすることが必要だと作者が考え、それが生々しく、ややどぎついものになったとすれば、それは理解できる。

本来、人間と神の関係は「馴れ馴れしい」もの

そうしてみると、キチジロ-の神に対する態度にも苦々しいだけでなく、羨ましくさえ感じさせる要素があることに気が付いた。羨ましいのは、与えられた試練に不平を言いながら、神を身近な存在に感じているらしく、信仰を棄てようなどとは思ってもみない態度である。

そこで、思い出したことがある。初めて、スペイン語の聖書や祈りを読んだとき、意外に思ったことである。それは、神やキリストへの呼びかけや祈りの言葉が、tutearという親しい者同士の間で使う(君・僕というような)話し方で書かれていることである。

例えば、最もよく知られた祈りに「主の祈り」というのがある。その、最初の部分であるが、私が子供のころの日本では「天にまします、われらの父よ」と唱えさせられた。現在では、「天におられる、わたしたちの父よ」と唱えられている。つまり、「まします」とか「おられる」とかの敬語が使われてきた。

それが、スペイン語では「Padre nuestro que estás en el cielo」である。
直訳すると、「天国にいる、うちのお父ちゃん(よ)」という感じである。

私が言いたいことは、ヨ-ロッパでの、キリスト教の人間と神の関係は、日本で教会が指導してきたものより、もっと近しいものだったのではないか、ということである。

遠藤周作は、キチジロ-によって「キリシタン時代」のよりリアルな日本人信者象を再現しようとしたときに、神と信者の関係が日本の教会が指導してきたものよりもっと近しいものであるべきだった、と考えたのかも知れない。そのため、意識的にキチジロ-の態度が馴れ馴れしいものになるように描いたのではないか。日本の教会が指導してきた模範的な信者の言動と正反対のはずのキチジロ-の神に対する姿勢が、ヨ-ロッパの信者のそれに似ているものになったことは、興味深い。

日本語では尊敬や崇拝の気持ちを表すためには、「敬語」という表現方法を使わなければならない、ということに賢明なイエズス会士たちは早くから気が付いていた。だから、神に関しても(自分たちに対しても)信者が「敬語」を使うように指導し、純真な信者たちは真面目にその指導に応えたことだろう。それが、表面的な態度だけでなく、信者の内面的な姿勢にまで影響したことは想像に難くない。

それは、一面で「宣教師の“提灯持ち”をひたすら務める、矜恃を持たない信徒の姿」(高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」)に繋がった。
さらに、それは予想外の成果の要因となる。成果とは、キリスト教徒が迫害されたローマ時代以来の数千人という大量な殉教者である。
(山本博文著「殉教」日本人は何を信仰したか)

そう考えてくると、確かにキチジロ-のようなキリスト教の受け容れ方をすれば、殉教などしないで済むのである。格好は悪いけれど。



(2)日本はどんな苗(なえ)の根も腐らせる沼地


「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

これは、「日本人が、ヨ-ロッパ人の神を日本人流に屈折させ変化させ、別のものを作り上げた」としてフェレイラがロドリゴに語る言葉だ。これも、キリスト教を日本にもたらした宣教師たちが考えたであろうことでありながら、意識的にか無意識的にかほとんど明らかにされてこなかった問題である。

遠藤周作は、慶長遣欧使節をモデルにした小説「侍」(1980年発表)のなかで、日本へのキリスト教布教の本質的問題をペテロ会(イエズス会をモデルとする)ヴァレンテ神父に、より詳しく語らせている。

ただ、大航海時代にイベリア両国・国家という世俗権力と教会が一体となって世界的に進めようとしたカトリック布教において、キリスト教と布教地文化との衝突は何処でも当然起きていただろうと私は考える。日本では、スペイン・ポルトガルが武力征服を背景とする強制的改宗を進められなかったために、その文化衝突が露呈してしまったが、多くの地域ではそれが潜在化したかまたは隠蔽されてしまったのではないか、ということである。これは、難しそうだけれど重要かつ興味深い問題である。



3.最後に、「神の声は誰のためのものか」について考える


神は長い「沈黙」の末、ついに主人公ロドリゴに語りかける。ここで、その「神の声」の内容を抜書きした方が考えやすいのだが、抜書きすることは物語の結末をばらしてしまうことになるので、ここには書かないほうが良いと思う。どうぞ、関心のある方は小説「沈黙」を、その部分だけでも読んで頂きたい。

「意外だ、でもこれでいいのかな」

私の感想は、「意外だ、でもこれでいいのかな」ということである。強い神を信じ続けてきたはずのヨ-ロッパ人宣教師が、こんなに優しいことを急に言われて、すぐにそれに従う気になれるのだろうか、という疑問を私は持つ。キリスト教の信者と神の関係は、本来上に述べたように近いけれども、厳しいものだったはずである。

ただ、この「神の声」が「キリシタン時代」の日本人信者に語られたものだとすれば、話は別である。

数千人の殉教者

「わずか二十数年という短期間に確実に四千人を超える大量の殉教者が出た」(松田毅一「日本切支丹と殉教」)と言われている。また、どこに書いてあったか記憶がないが、レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」に記載されている殉教者の数を集計すると五千人以上になる、という話を読んだことがある。

一方、いつも参照している、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」には「シュッテ神父の研究によると、キリシタン時代における殉教者の人数は、せいぜい千数百人であったという。」と書かれてある。「シュッテ神父」とはイエズス会の歴史家ヨゼフ・フランツ・シュッテ氏である。見込んでいる数の少なさに意外な感じがしたが、こういう数字についても、見込みを立てた人がどこの組織に所属しているか、その組織がどんな考えを持っているかを考える必要があるようだ。

さて、日本人殉教者の数だが、概ね数千人と考えて、あまり間違ってもいないのではないかと思う。冷静に考えても、大変な数である。その大変な数の人々が、教会の指導に導かれて自発的にかも知れないが、死の恐怖と闘いながら殉教していったということである。指導のためのマニュアルとして、明治時代に発見された「マルチリオの栞(しおり)」という具体的な冊子もあるが、それがどの程度使われたのかなど、詳細は判らない。判らない方が都合が良いと考える人たちがいるのかも知れない。そして、他にも同様の案内書の類があった可能性がある。

数十万人の地獄の恐怖に震えた人たち

「雄々(おお)しくも潔(いさぎよ)き強者(つわもの)」として賛美され死を選んでしまった数千人の殉教者だけの問題ではない。その時代、数十万人の信者がいたはずである、殉教者以外の数十万人の人たちは殉教する勇気のない自分を責め、地獄の恐怖に震えていたことだろう。

ということは、ロドリゴが聞いた「神の声」は数十万人の日本人信者の皆に語りかけてもらうべきものだった。
数十万人の日本人信者こそ、優しい「神の声」を必要としていたのだ。そのことに、作者・遠藤周作は当然気付いていただろう。
そうでなければ、いけない。もしそうでなければ、数千人を死に導き、数十万人を恐怖に陥れたものに頬かむりを許すことになる。


次回は、棄教後のフェレイラがどのような人生を送ったかを見ていこうと思う。


〈つづく〉


[参考文献]

キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで― 高瀬弘一郎著 岩波書店
殉教 日本人は何を信仰したか            山本博文著 光文社新書429





















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by GFauree | 2016-03-18 08:21 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(5)

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                     ポルトガル リスボン市内ジェロニモス修道院聖堂


クリストヴァン・フェレイラは、ポルトガル人イエズス会士。
1596年、16歳で入会、1609年来日後キリシタン迫害が激化する中、常に日本イエズス会のエリ-ト幹部として活動し、1632年管区長代理に任ぜられた。翌33年、拷問を受け背教して以降、沢野忠庵と名乗った。

そのフェレイラが、1621年3月18日付の書翰をイエズス会総会長あてに送っている。
その日付けは、彼の来日から12年後であり、また棄教する12年前である。その内容は、その時期の彼の考えや、またその後の彼の行動を説明すると考えられる部分もあるので、ここにご紹介したい。



[フェレイラ書翰の内容]


1.日本人修道士の不正・追放について

日本人修道士イグナシオ・カト-という者が、商業行為を行い堕落し、イエズス会から追放された。修道士が誘惑に克てなかったことの理由の一つは、神父たちが迫害によって追放され、修道士を管理・監督する者が不足していることだ。その結果、修道士が隠れて取引を行い、蓄えが出来ると、誘惑に駆られイエズス会を去るのである。


2.将軍が迫害を行う理由について


「将軍が行っている迫害は国是(国家理性―Reason of State)に基くものだ」と、我々(イエズス会司祭たち)は考えているので、これが今後どのように進んでいくかについて、強い懸念を感じている。将軍は、我々が福音宣教によって、国を奪おうと企んでいると思い込んでいるのである。

この考えは、既に以前から将軍が持っていたものに加え、さらにオランダ人から吹き込まれたものであるが、将軍はオランダ人のその忠告に感謝さえしていると言われている。

以前イエズス会の修道士であった日本人背教者ファビアンの著書(破堤宇士)によって、「福音の宣教によって、宣教師たちが日本を奪い、我々の国王に服従させようと企んでいる」ということが、更に強く確信されるようになった。


3.迫害が止む可能性について

もし神が、特別の意志(摂理)によって、我々を救って下さらない限り、迫害が止む可能性は殆どない。
ただ、私はこれほど多くの殉教者たちが血を流しているのだから、きっと神が救いの手を差し伸べて下さるものと信じている。

実際、聖職者たちを護ることに関しては、神はその意志をよく表わして下さっている。
というのは、裏切りや密告が横行する中で、もし神の特別な意志がなければ、もう既に聖職者全員が捕えられているはずだからである。


4.日本人のイエズス会入会を認めることについて

非会員の日本人同宿で捕縛された者のうち、不撓不屈の立派な振舞いをする者については、殉教する可能性が高いのだから、入会を認めて頂きたい。

他の修道会は、この場合入会を許しているのだから、イエズス会が入会をみとめないと、それは会にとって不名誉なことになる。近年、会からの多くの離脱者を生んだ原因は、日本人はイエズス会に受け入れられないということが明らかになってしまったことである。

死亡時には、彼らを入会させるということにすれば、多くの者が会から離れて行くことはないし、生存中に入会させることによって起るような不都合は生じない。



[フェレイラ書翰について考えること]


1.日本人修道士の不正・追放について

この書翰に採り上げられた他の事項が、「幕府が迫害を行う理由」や「迫害が止む可能性」など、キリシタン教会を取り巻く広範な状況に関するものであるのに比較すると、この事件は個別的な事象でありやや場違いな印象を受ける。
何故この件を、フェレイラは書いたのだろうか。

〈プロクラド-ルだったフェレイラ〉

イエズス会の運営に関わる重要な職務のなかに、資金・資産の管理を行う財務担当者である「プロクラドール」と呼ばれる役割があった。( このプロクラド-ルについては、「南蛮医アルメイダ」に関する記事のなかで言及したことがあるので、ご参照頂きたい。)
 http://iwahanjiro.exblog.jp/21914656/ 

フェレイラは、1618年12月にカルロ・スピノラ神父が逮捕されたため、その後任として長崎でプロクラド-ルの任に就き、それは1621年10月に上(近畿)地区の副地区長として大坂に赴任するまで続いた。

本来、日本以外の地では、原則、財務担当プロクラド-ルに最高の階級である盛式四誓願司祭が起用されることはなかった。ところが、日本では高度の政治的・経済的能力が要求される地位であることを理由として、盛式四誓願司祭が任ぜられるようになっていた。それだけ、日本のキリシタン教会では経済的要素が重んぜられたということであろう。

前回の記事に書いたように、フェレイラは1617年7月、盛式四誓願司祭の資格を与えられていたから、1618年12月にプロクラド-ルの職に就くことができたのである。

〈フェレイラには不正をした修道士に対する監督責任があったのでは〉

書翰によれば、日本人修道士イグナシオ・カト-が追放されたのは、前回の書翰が書かれた1620年11月から、今回の書翰が書かれた1621年3月の間である。

イグナシオ・カト-は職務として商業行為を行ううちに不正に手を染めたということだから、財務プロクラド-ルであるフェレイラを補佐する立場にあったのではないか。そうであれば、フェレイラは、上司として1618年12月からイグナシオ・カト-に対する管理・監督責任を負っていたことになる。

以上を勘案すると、フェレイラは、一般的な状況の厳しさを伝えるためよりは、むしろ、上司として部下の不祥事を釈明する必要からこの書翰を書いたのではないかと私は考える。

この不祥事の原因としてフェレイラが挙げているのは、迫害が激しくなり、パ-ドレたちが追放された結果、管理者が不足してきて担当者が誘惑を受けやすくなってきたことである。フェレイラは、この理由付けによって、不正を行った本人への咎(とがめ)や管理者への責任追及を少しでも和らげようとしたのではないだろうか。

また、この書翰が書かれた翌年、1622年には長崎で55名が処刑された「元和の大殉教」があり、さらにその翌年、1623年には江戸・芝で50名が処刑されている。この時期、客観情勢は明らかに厳しさを増していただろう。

一方で、たとえ捕縛・拷問・処刑等の迫害を逃れたとしても、司祭の不足によって、組織的活動がいよいよ困難になってきたことを、この件に関する報告を通じてフェレイラが伝えようとしたとは、考えられる。

客観的な情勢の厳しさに加え、キリシタン教会はその構成員の規律が乱れ、内部からの崩壊も確実に進行していったことが、この部分から伺われるのである。


2.将軍が迫害を行う理由について

〈秀吉バテレン追放令発布の理由〉

1587年の関白秀吉によるバテレン追放令発布は、1549年の「ザビエル渡来」から90年続いたキリシタン時代の、およそ半ばの時期に行われた国家権力による初めての本格的弾圧であった。

その理由の一つとして、秀吉が助言者であった施薬院全宗に「器量が良く、かつ身分のある家の娘たち」を調達するように指示したところ、キリシタンである女性たちに抵抗された、ということが挙げられることがある。私もそういう説明を読んだことがある。

しかし、今回改めて、その件に関してルイス・フロイスが執筆した『イエズス会日本年報』と『日本史』の該当箇所を読んでみたが、「施薬院全宗が女性たちに抵抗されて怒った」とは書いてあるが、秀吉の反応がどうであったかは書かれていないのである。ということは、私の読み間違い・勘違いか、私が読んだ解説が間違っていたのである。

しかし、どちらにも、大坂城内に約300名の女性を置いているなど、秀吉が如何に情欲に狂った生活を送っていたかが描かれていて、そこだけを読むと、女性たちの抵抗がバテレン追放令の原因となったように思えてしまうのである。

何故、そんな書き方をフロイスはしたのだろうか。

〈キリシタン時代の外国人宣教師の性格〉

私はこの時代の外国人宣教師が、肉体的に非常に元気な人たちであったことを、念頭に置いて考える必要があると思っている。

ザビエルがヨ-ロッパで勉強させようとインドへ連れ帰った日本人のうち、一人はヨ-ロッパへ着く前に、もう一人はヨーロッパへ着いてから間もなく亡くなっている。それ程、その時代、日本とヨ-ロッパの間を航海することは、体力を極限まで消耗させる行動であったらしい。天正遣欧使節として少年たちを選抜した理由のひとつとして、苛酷な航海に耐えるためには少年であることが必要だったことが挙げられている。

逆にヨ-ロッパから日本へ来て、活発に行動していた宣教師たちは、よほど強靭な身体の持ち主であったのだろう。それに、聖職者という職種は、“生ける車輪”ルイス・デ・アルメイダのように布教地を走り回っていたり、迫害に遭って逃亡したりしていない限りは、あまり体力の消耗を必要としない。そして、男は体力があり余ると、どうしても余計なことに考えが行ってしまう。それは、今でも教皇を悩ませている問題でもある。

だから、『日本年報』や『日本史』におけるルイス・フロイスの秀吉の行状に関する念入りな描写を読んでいると、私には、ひょっとしてフロイスという人は秀吉のことを羨ましく思っていたのではないか、とさえ思えて来るのである。

「齢すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い。野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪いとったかにおもわれた。」(完訳フロイス日本史4豊臣秀吉篇Ⅰ)中公文庫より



〈国是(国家理性)について〉

高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」において、同氏は「禁因を単に秀吉の人格的欠陥に求めるような論は、ほとんど取り上げるに足りない。」とされている。そんな「取り上げるに足りない」フロイスの禁教原因の議論に比べると、フェレイラが迫害の原因として挙げている国是(国家理性)は、それなりの背景や根拠があるもののように思える。そこで、同じく高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」に書かれてある内容に沿って、国是(国家理性)について考えてみた。

江戸幕府の禁教令の最も根本的な理由として、何人ものイエズス会士が“国家理性”に基づくとしている。国家理性は国家利益とほぼ同義だと考えてよい。国家というものは「自己の存立を主張し、拡大を求めて行動する」ものである、という考え方である。

在日イエズス会士の考え方には、『国家理性論』を著し、国家理性を「国家を建設し維持し、かつ大ならしめるにふさわしい手段の認識」と定義したイエズス会士ジョバンニ・ボテロの思想が影響を与えていたと考えられる。

〈エリザベス朝イングランドによって排除されたカトリック勢力〉

エリザベス一世は“教皇至上権”を否定し、“国王至上権”を確立することによって、ナショナリズムを表明し、“イングランドの教会”を樹立した。そして、“かくれキリシタン”となった国内カトリック信徒のために、近隣カトリック諸国からイングランドへ宣教師が送り込まれ、その多数が処刑された。

スペイン国王フェリペ二世は、教皇の説得もあってイングランド侵攻を図ったが、結局1588年スペイン無敵艦隊は敗北し、“異端者”エリザベス女王の追放を図ったカトリック勢力の企ては挫折した。

ほぼ同時代に、ユ-ラシア大陸の東端と西端に接する二つの島国である日本とイギリスで、国是(国家理性)に基づきカトリック勢力が排除される動きがあったこと、またそれを、その時代に日本に居た宣教師たちが認識していたと考えられることは興味深い。

そして、そこまで考えたときに、江戸幕府の禁教やそれによってフェレイラたちが置かれた状況が、単なる権力者の横暴や闇雲な信教の自由の否定の結果としてではなく、歴史的必然の一環として、やっとリアルに認識できるような気がする。

さらに、幕府によるキリシタン迫害が国是(国家理性)によるものであることを認識していた以上、エリザベス朝イングランドの例から見ても宣教師たちは、これを止めることも、それに勝利することもほとんど不可能であることを感付いていたのではないか、と私は考える。


3.迫害が止む可能性について

〈理屈に合わず、「危ない」考え方〉

書翰の中のこの部分を読んで、私は意外な感じを受けた。ここには、フェレイラの正直な心情が吐露されているように感ずるが、その内容は理屈に合わない。

そもそも、迫害も救いも全て神の意志によるものである筈ではないか。聖職者たちを守ることであれ何であれ、全ては神の遺志である筈である。

多くの殉教者が血を流しているから神が救ってくれる、というのも「危ない」考え方である。救って貰えることを期待して血を流すが、神は応えてくれない。すると今度は、沈黙し続ける神になぜ救ってくれないのかと訴えなければならないことになる。

遠藤周作は小説「沈黙」の筋書きの着想を、フェレイラ書翰のこの部分から得たのではないかと私は思う。「沈黙」し続ける神に不足を感ずるとすれば、自分の方から「神の声」を聴いたと考える他はない。

〈「案内書」通りに死んでいった殉教者たち〉

山本博文著 殉教―日本人は何を信仰したか(光文社新書)によれば、当時のイエズス会士が日本に持ち込んだ殉教の勧め「マルチリヨの栞(しおり)」には、次のように書かれている。

殉教者となるためには、人から殺されることを喜んで堪え忍ばなければならない。
なぜ、喜んで堪え忍ぶべきかと言えば、殺されるほどの迫害に遭って、はじめて信者は真実の信仰を示すことができるからである。そして、殉教すれば、神の前で最高の位につくことができる。すべての罪が許され、煉獄の苦しみは免除され、天国では光背を頭にいただき、受けた傷は光り輝くからである。

私が見聞きしてきた日本人殉教者の姿は、迫害の苦しみを喜んで堪え忍び通した、というものばかりである。ということは、多くの日本人殉教者は、宣教師の持って来て教えた「案内書」通りに死んでいったということである。それに対して、外国人宣教師の中には、自分たちが習い覚え、信者たちに教えてきた生き方・死に方を受け容れきれず煩悶する人たちがいて、フェレイラはその一人だったのかも知れない。

この書翰が書かれたのは、棄教する12年前のことだが、一面で、フェレイラはもうそこまで追い詰められていたということなのであろう。


4.日本人のイエズス会入会を認めることについて

フランシスコ・カブラル(1596年)

「私は日本人ほど傲慢・貪欲・無節操かつ欺瞞に満ちた国民を見たことがない。日本人は(正式なイエズス会員でない)同宿として用いるべきである。」

ジョアン・ロドリゲス(1598年)

「私は厳しい選択と調査をせずに日本人を修道士にすることは、わが(イエズス)会のため適正ではないと考える者であります。・・・・・・こうした連中を我がイエズス会に入れることは、良いとは絶対に思われません。」

以上のような外国人宣教師の意見に基き、日本人のイエズス会入会には「総会長の承認が必要」とされていた。と言っても、遥かかなた日本での入会人事を総会長が判断できるわけがないのだから、要するに日本人は原則的には入会させない(修道士や司祭という聖職者にはしない)という方針があったということである。

(この「日本人の入会問題」については、「ペトロ・カスイ・岐部」に関する記事の中で説明させて頂いたので、ご参照頂きたい。)
http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/

〈ペトロ・カスイ・岐部のこと〉

だから、ペトロ・カスイ・岐部はロ-マまで行く必要があったのである。岐部は、6年間のセミナリオでの勉学の後、9年間同宿として働き5年間かけてロ-マへ辿り着いてやっと入会が認められた。ときどき、故意によるものなのか認識不足のためなのか、岐部の経歴のうちのその14年間について触れてもいない解説を見掛けるが、まるで「気の抜けた炭酸飲料」のように私は感ずる。

岐部は、このフェレイラの書翰が書かれる前年の1620年、やっとロ-マで入会を認められる。その岐部が7年かけて日本へ戻り潜伏している間に、棄教した後のフェレイラに会い翻意を促したと言われている。本当であれば、厳しい話である。

それを、岐部の勝利のように言う向きがあるが、私はそうは思わない。「岐部には岐部の、フェレイラにはフェレイラの人生があった」はずだからである。

〈この期に及んでも入会は 認められていなかった〉

それはさておき、今にしてみればキリシタン時代の終焉に差し掛かっていたこの期に及んでも、捕縛されおそらくは拷問をうけながら入会を希望していた日本人同宿の入会を、イエズス会が認めていなかったことを、フェレイラの書翰は露わにしてくれている。

そして、入会を認めてよい理由として、不撓不屈の日本人同宿の努力に報いるためというよりは、他の修道会との競争関係や「どうせ死ぬのだから入会させても、言われているような悪影響はない」ことをフェレイラが抜かりなく挙げているところに、彼の冷淡なエリ-ト官僚的体質のようなものが滲み出てしまっているのを私は感ずる。


以上、1621年、棄教する12年前にフェレイラが書いた書簡の内容を観てきた。
次回は、クリストヴァン・フェレイラの知名度を上げる因となった、遠藤周作の小説「沈黙」でのフェレイラの採り上げられ方について、整理してみたいと思う。


〈つづく〉



[参考文献]

「キリシタン研究」 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」Hubert Cieslik S.J. 吉川弘文館
「イエズス会と日本 二」 29 クリストヴァン・フェレイラのイエズス会総長宛て書翰 大航海時代叢書 岩波書店
「キリシタン時代の研究」 高瀬弘一郎著 第二部 第六章 キリシタン教会の財務担当パ-ドレ 岩波書店 
「キリシタンの世紀」 ザビエル渡日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著 岩波書店
「新異国叢書4 イエズス会日本年報 下 」11 1587年の日本年報 雄松堂書店
遠藤周作文学全集10 評伝1 「銃と十字架」 新潮社  
殉教 日本人は何を信仰したか 山本博文著 光文社新書 429













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by GFauree | 2016-03-08 12:21 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(0)

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                       ポルトガル リスボン市にある大航海時代を表現した「発見のモニュメント」





「人生は18歳で決まる」
これは、最近のNHKテレビの番組タイトルである。
番組によると、今の高校生50人にアンケ-トをとったところ、約88%が将来を決めているのだそうだ。
また、番組の中で、「将来をきめるのが早いほど、人生は成功する」と、若いパティシエが語っていた。自信ありげにみえた。
そこで私は、「おいおい、ちょっと待ってくれよ」と言いたくなった。

確かに、学者とか、お相撲さんとか、職人さんとかは若いうちに一定の業績を残すレベルに到達することが必要らしい。
私の親族に学者がいたが、学者として認められるためには28歳ごろまでに相当の業績を残さなければ駄目だと言っていた。
初代若乃花も、28歳までに横綱になってしまわないと、その後では難しいと言っていたような気がする。
職人についても同じことが言えそうなので、パティシエの方が言っておられることは、彼等の世界では多分正しいのだろう。
だが、皆が皆、学者や相撲取りや職人になるわけでもないだろう。

それに、9割近い人が、もう将来を決めているというのは本当なのだろうか。大部分の若い人が、自分が将来職業としてやり続けていくことを具体的に認識し決めているということであれば、それはそれで結構な事だが、少し出来過ぎのような気もするがどうなのか。


私がその年代だった頃、
つまり50年ぐらい前のことだが、『いまはまだ人生を語らず』という唄があったぐらいで、そもそも若い者が人生について語るなどということは、自分の知識・経験の浅さを自覚しない恥ずかしいことである、と考える人が少なくなかった。
それに、将来を具体的に決めている人など1割ぐらいだった、と思う。
そういう要因もあって、私は自分探しに手間取ってしまったと思うが、そのことで後悔はしていない。
だから、「早く決めれば得られる人生の成功なんてあるのか」と思う。


もう少し詳しく言えば、
16歳頃から自分の道を探し続けたが、これだと思うものを見つけられたのは還暦から数年経ってからだった。私がみつけたものは、社会的地位も収入も名誉も伴わない「人生の成功」とはとても言えそうもない、自分のためだけの生き甲斐のようなものである。
だが、長い年月をかけて私はやっとそれを掴んだ。そんなものは、何の価値もないと考える人がいても別に私は構わない。

ただ、正直なところ、それを掴むまでの過程で、気にしない訳にいかない事態が生じてしまった。

ひとつは、そこに至るまでの長い年月の間、中途半端な気持ちで生きてきたために、家族を含め周囲の人々に甚大な迷惑をかけてしまったという面は否定できないこと。もうひとつは、あたりまえのことだが、私自身が随分歳を取ってしまったということだ。ということは、私の場合その生き甲斐を掴むためには、「とにかく、生き延びること」が必要だったということでもある。


そんな私が、心無い人々からは「転び者」と蔑(さげす)まれてきたけれど実は大航海時代を代表すると考えられる人物をこれからご紹介したい。


ポルトガル人であるこの人がイエズス会に入ったのは、16歳の時のことだから、四百年以上前のことだけれど、将来を決めるのは充分早かったことになる。二年後には、順調に大学での勉強を始め、その二年後、20歳のときにインド派遣の望みをかなえてリスボンを船出した。若年でインド布教を志願しそれが叶えられたということは、彼が如何に将来を嘱望された人材であったかを示していると考えられる。


その後、彼はインド、マカオで順調に勉強を続け、1609年に来日する。ちょうど彼の来日の時期を境として、日本のキリシタン教会を取り巻く環境は坂道を転げるように厳しさを増していくが、彼自身は日本イエズス会の幹部としての道を順調に歩み続けているように見えた。1617年、37歳で管区長秘書を務めていたときに、最高の職階である盛式四誓願司祭という資格を与えられる。将来の管区長や修院長などの要職に就けることを約束されたようなものである。


一面で、「早く将来を決めた彼が、人生に成功を収めつつある」ように見えたのである。
その彼が、1633年53歳のときに捕えられ拷問を受け棄教する。その時から、彼は成功とも名誉とも無縁の「背教者」としての人生を、日本という異国で過ごさざるを得なくなる。


彼を「哀れな転びバテレンの代表」のように捉えた見方は多い。しかし、棄教時から70歳で亡くなるまでの17年間に、彼が残したと言われているものは少なくない。

当然のことだが、その時期の彼には、模範とできるような先人の生き方のようなものは何もなかった筈だから、その暗闇の中を彼は手探りで必死に生き方を求めたのではないだろうかそしてまた、そうせざるを得なかったゆえに、誰からも礼賛されることはなかったけれど,本当に自分らしい人生を掴むことができたのではないか、と私は思うようになっている。


彼クリストヴァン・フェレイラが管区長マテオ・デ・コ-ロスの秘書を務めていた最後の頃、1621年3月18日付で総会長宛てに送った書簡があり、その書簡から彼がその頃どんなことを考えていたのかを窺い知ることができる。次回はその書簡の内容を説明したい。


〈つづく〉


[参考文献]
キリシタン研究 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」Hubert Cieslik S.J.







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by GFauree | 2016-02-27 13:59 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(2)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。