【大航海時代のおと】

iwahanjiro.exblog.jp

カテゴリ:村山等安( 5 )

清くも正しくもなかったけれど本物の臭いがする長崎代官 村山等安 [その5]

                           
a0326062_03543115.jpg
典厩(てんきゅう)五郎作 NAGASAKI 長崎 夢の王国




「すすむA」さんという方が、図書新聞やamzon.co.jpにこの小説に対する書評を投稿されていて、その中で「『清くも正しくもなかったけれど本物の臭いがする』というタイトルは、彼(村山等安)に最もふさわしいと感じる」とコメントして下さったのを見つけた。


http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/dokusya_display.php?toukouno=415
https://www.amazon.co.jp/NAGASAKI-%E5%A4%A2%E3%81%AE%E7%8E%8B%E5%9B%BD-%E5%85%B8%E5%8E%A9-%E4%BA%94%E9%83%8E/dp/4620107921


細々と書き綴っているようなブログだからそういうコメントを頂くことは滅多にないので、嬉しかったし励まして頂いている気がした。直ぐにでもその小説を読んでみたかったのだが、諸般の事情により半年近く過ぎてやっと入手した。


お蔭で気が長くなった


ブログを書き始めて約2年が経って大分気が長くなったようだ。(年寄の短気は年甲斐がなくてみっともないと思っているので、本当に気が長くなったとすれば嬉しい。)というのは、私のブログ記事に反響を頂くには、なぜか投稿してから半年から1年半の期間が必要なことが分ってきたからだ。ということは、仮に投稿して直ぐには何も反響がなくても、1年半ぐらい経つと何処かの誰かが反応して下さる可能性があるということだ。(と、私は考えることにしている。)

最近、約1年前に書いた「背教者クリストヴァン・フェレイラ」に関する記事を多くの方が読んで下さるようになった。遠藤周作の小説「沈黙」が映画化され先月封切りされたからだろう。「すすむA」さんがコメントして下さったのも、「長崎代官 村山等安」に関する記事を投稿してから1年半後だ。この数日、なぜか1年半前に書いた「天正遣欧使節 千々石ミゲル」に関する記事を読んで頂いているようだが、何か理由があるのだろう。他にも、似たようなことがあった。

とにかく、今書いている記事に関して1年半ぐらい経てば何かが起きるだろうと思えるのは楽しいことだ。記事を書くことが、先々の楽しみの仕込みをすることになるからだ。それで、気が長くなってきたのだろう。こんなことは、ついせっかちに目先の結果ばかりを気にして生きて来てしまった私にとって、人生で初めての経験である。



「NAGASAKI 夢の王国」について



さて、肝心の「NAGASAKI 夢の王国」だが、とても読みやすい小説なのでお勧めしたい。

作者は、30年前にサントリ-ミステリ-大賞を受賞した後、多数のミステリ-や歴史小説を書き続けてきた人だというので、文章の読みやすさと内容の分りやすさを期待したが、その期待通りだった。


文章が分りやすい


まず、文章について言えば、私は多くのキリシタン小説に出てくる恭(うやうや)しい言葉の羅列と気取ったような文体が苦手である。そういう表現が、舶来の宗教に関する内容にふさわしいと考えてされているのかも知れないけれど、そういうのを読むと気恥ずかしいというか、背筋がゾクゾクしてそのうち腹が立ってきて投げ出したくなる。

若い頃、仕事の仲間で英語で話すと声まで変わってしまう人がいたが、それを聞いた時の気恥ずかしさに似ている。恥じらいを忘れたら日本人じゃないよ、と言いたくなる。

この小説は、普通のまともな日本人の言葉と文体で書かれているから、読んで恥ずかしくなる心配はない。


内容も分りやすい


次に、内容であるが、例えばイエズス会というと、今でも秘密結社とかスパイ組織のように書かれてしまうことが少なくない。そんな地下に潜っているような組織でなく、五百年近く表に出て堂々と活動してきた組織であるからこそ問題なのに、どうもそこが理解されにくい様だ。

その点、この小説は歴史研究に基く文献を参考にしているので、書かれていることが全て史実だなどとは言えないが、荒唐無稽なことは書かれていない。したがって、上滑りな空想や妄想に付き合う必要はないので面倒でないし分りやすい。


作者の創作部分について


もちろん、小説だから作者が創作した部分はある。特に、秀吉によって長崎代官に取り立てられるまでの等安については、分っている事柄は殆どないから、僅かな手掛かりを膨らませて、彼が生きてきた環境や人柄が語られている。

一方、話の展開上、代官村山等安と奉行長谷川左兵衛とが幼い頃から親密であったことが軸になっているのだが、左兵衛個人については妹の於奈津が家康の側室だったことぐらいしか書かれていない。おそらく、左兵衛について分っていることは更に極めて少ないのだろう。


なぜこの小説は面白いか


先ず、等安が1594年に長崎代官に任ぜられてから、1618年に失脚するまでの25年間は、キリシタン教会と長崎とが一体になって発展を遂げ、衰退を辿って行った時期である。それはまた、90年にわたる日本のキリシタン時代のうち、最も華やかでまた深刻な多くの問題が露わになった時期でもあった。その舞台の上で、等安は商人、武士、宣教師、背教者といった日本人だけでない、それも一筋縄ではいかない強(したたか)な人々と交錯する。

しかも、等安自身も代官職を梃子に危ない“顔役”として実力を蓄え、イエズス会すら敵に回し、ついには幕府にとってさえ邪魔な存在となってしまったのだから、その一代記が面白くなかろうはずがない。

しかし、この小説の作者は、そんな等安に意外に静かな終焉を迎えさせる。そこが、渋くまたリアルであっていいと私は思うが、どうだろうか。


残念なこと


ところで、この小説の中で「岡本大八事件」(幕府の禁教政策の切っ掛けとなったと一般にされている、「キリシタン大名」有馬晴信と本多正純の家臣岡本大八の間に起きた増収相事件。この事件については記事を書いたことがあるので、ご参照頂きたい。http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)に関連して、正史(国家等の権力が編集し、事実を正確に記したとされている歴史書)について言及した部分がある。


「正史とは、あるいは歴史とは、つねに時の勝者のご都合主義か、もしくは死人に口なしで、生き残った者が歴史の証人面をして書き継いできたものと疑ってかかるべきだろう。」

「『岡本大八事件』は、岡本大八という品性下劣にして邪悪な男が強欲さから起こした単純な事件として正史に定着している。しかし、等安(へ)のいわれなき誹謗や中傷とおなじく、歴史の表側だけを見て裏側への想像力を欠いては、なにも見ていないと言い切ってよいのではないか。歴史とは複雑怪奇であり、つねに裏の顔を持つ生きものなのである。」

こう書いている作者の、この小説の中での元天正少年使節千々石ミゲル(清左衛門)と元日本人司祭トマス・アラキの採り上げ方が私には納得し難い。(トマス・アラキについては、153ページに「トマス・アキラ」と表記されているが、誤植だろうか、それとも何か意味があるのだろうか。)

加えて、「トマス・アラキと千々石ミゲルがよく似ていると等安が思った」とのくだりまであるのである。


棄教者についてどう考えるか


遠藤周作の小説「沈黙」の題名には二つの理由があったということである。ひとつは、人間の苦しみに対する「神の沈黙」への疑問である。そして、もうひとつは、棄教者の苦悩に対する、後世の人々の蔑視や黙殺に対する批判である。


千々石ミゲルに関しては、キリスト教社会的価値判断を脱却せずそのまま引き摺ってしまった日本社会の精神的怠惰を私は感じている。
http://iwahanjiro.exblog.jp/21418363/
トマス・アラキについては、幕府権力と教会権力に利用され尽くした存在と考えている。
http://iwahanjiro.exblog.jp/23554978/


ここまで、大衆の心理が読めているのであれば


この小説の中に、「罪人引きまわし」について次のように述べられている箇所がある。

「しかも町なかでの罪人引きまわしは、見物するだけでなく、石つぶてを投げ、唾を吐きかけて参加してしまう人々が大勢いた。
罪人へのこうした行為は、絶対封建主義社会で息苦しい庶民たちにとっての、鬱屈した感情の捌け口であり、権力側もそれを意識しての引きまわしなのだった。さらには庶民たちの意識は高いとはいえず、罪人を積極的に痛めつけることによって権力側に阿諛追従し、あるいは権力側の一員になったような錯覚も持てたのであろう。」


棄教者を十羽ひとからげに扱い、からかい蔑(さげす)んできた人々の意識は、罪人引きまわしで権力側に阿諛追従し、権力側の一員になったような錯覚を楽しんだ庶民のそれと変わらないものだと私は思う。

ここまで、大衆の心理を読めている作者なのだから、棄教者についてもユニ-クな捉え方、採り上げ方出来たであろうにと思うと残念である。私はこの小説を単に面白おかしいだけのものとは考えたくなかった。



〈おわり〉







[PR]
by GFauree | 2017-02-14 13:47 | 村山等安 | Comments(0)

清くも正しくもなかったけれど本物の臭いがする長崎代官 村山等安 [その4]

a0326062_00355272.jpg
                              (写真撮影 三上信一氏)






1.等安の人物像


[その3]で、等安の生涯を書きました。

その生涯を概観したとき、私はまず、手八丁口八丁で手に入れた長崎代官の要職を梃子に、朱印船貿易も手掛けて、金も力も握った相当なやり手の姿を思い浮かべました。
そんな「やり手」であったからこそ、江戸幕府の治世に入ってからも、引き続き代官職に座り続けることができたのでしょう。


ともかく順調な仕事面に比べて、父親として夫としての面ではかなり苦労していたらしいところが人間らしくも、いじらしくも感じられます。でも、その家庭人としての苦労も彼の出世を支えた代官職のもつ危なさ故のことだったかも知れないなとも思います。


(1)三男フランシスコのこと


・1601年、イエズス会は実践的な聖職者を養成することを目的として長崎に神学校を開設しています。その学校の目的が、司祭としての活動に充分な知識を与えることだったために、学生は皆、有馬のセミナリオの過程をすでに終え、経験を積んだ伝道士(同宿)から選ばれた人たちだったそうです。

三男のフランシスコは、その神学校で学び1606年に叙品を受け司祭になっています。
( キリシタン研究 第十輯 日本における最初の神学校(1601年~1614年)吉川弘文館 )

息子の一人がセミナリオで学び、伝道士としての経験を積んでから神学校へ行き司祭になったのですから、家庭における等安が信者として子供の教育に気を配っていたことは推察できます。


長崎の外町に建てられた三つの小教区の教会のうち、一つは三男フランシスコのための教会です。等安はその教会の建築費や司祭の給与を含む維持費まで負担したそうです。

反イエズス会の小教区を育成しようとの思惑でそうしたのかも知れませんが、息子可愛さゆえのことだったとすれば、親として少し過保護かも知れません。

けれど、過保護な親というものは、ちゃっかり自分の狙いというものを持っているものです。等安も息子の教会を援助することで、キリシタン教会の中での自分の影響力を強めようとしたと考えられます。そして、その行動が「長崎シスマ(教会分裂)」での黒幕的な行動につながっていくのです。


1618年、等安追い落としのために末次平蔵が幕府に提出した告訴状に、「等安が大坂の陣で豊臣方に加勢したこと」が挙げられました。それは、「ドミニコ会の司祭であった三男フランシスコが追放され流罪になったのを、密かに長崎港外の島で下船させ、大坂城の豊臣方に送り込んだ」という嫌疑でした。


これに対して、等安は「息子は以前から自分に対して反抗しており、息子が安全にマニラへ行けるように、船を買いポルトガル人航海士を付けてやったのに、息子は勝手に下船し大阪へ行ってしまった。」と釈明したということです。


もし、この等安が言ったことが本当だとすれば、悲劇のかたまりのように語られている「キリシタンの国外追放」の際、追放された人々の中に、流罪のための船を買い安全のために外国人航海士を雇う裕福で心配性の親を持った日本人司祭がいたことになり、少し力が抜けます。


それに加えて、息子当人は親心を理解せず途中で下船して大坂城へ入ってしまい、親は息子が戦死した後になってその一切を初めて知ったという話は、親馬鹿の結果として何処かで聞いたことがある気の毒な話のようで、妙にリアルです。



(2)女房に頭が上がらない


(妻を含めた家族との関係)


・等安と妻ジェスタの間には息子が8~9人、娘が2人いた。
・ある女性のことで、妻や息子たちと激しく争い、息子たちは母親を守ろうとして武器を取るに至った。妻は、その女を力ずくでものにしようとする等安に抗ってかばったのだ。
・キリシタン禁制発布後、1614年5月の「贖罪の大行列」に彼と妻子たちは敬虔な態度で参加した。

(アビラ・ヒロン『日本王国記』)


(ルイス・フロイスが書いた同時代の日本女性の特徴)


ほぼ、同時代のイエズス会宣教師ルイス・フロイス(1532-97)の『日欧文化比較』に以下のような記述があります。それが、この時代の女性の一般的な性格を表わしている面もあるかもしれないので、挙げてみます。

32.(ヨーロッパでは)汚れた天性に従って、夫が妻を離別するのがふつうである。日本では、しばしば妻が夫を離別する。

35.ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている。


(妻ジェスタとジョアン・ロドリゲスの関係)



・1615年12月6日付マカオ発マノエル・ディアスのイエズス会総会長宛て書簡

ジョアン・ロドリゲスは長崎で同伴者なしに一人だけで等安の妻を訪ねることを常としていた。非常に親密な間柄で、時折小用をする時に彼女と一緒に便所に行った程であった。そしてしばしば彼女の着物の中に手を入れて胸にさわった。それを彼女の召使たちが見ていた。彼女たちを通して、彼女の夫がそのことを知った。それ以後、夫は彼女を虐待し、他の妾たちをおいた。そして同パ-ドレとの仲を断然絶ち、これを日本から追放させることまでした。もっとも、彼が同パ-ドレを追放するよう掛け合った時には、他の理由を挙げた。

(高瀬弘一郎著『キリシタン時代対外関係の研究』 第十三章「長崎代官村山等安をめぐる一つの出来事」)


この書簡を書いたマノエル・ディアスはイエズス会士です。

この書簡の内容は、イエズス会士である歴史家 マイケル・ク-パ-の「通辞 ロドリゲス」(原書房)にも、長崎でどのような敵意をはらんだうわさが流れていたかを示すものとして書かれています。


以上から、妻ジェスタについては、かなりはっきりした自分の考えを持ち決然と行動する女性であったのではと思いますが、それに対し等安はそんな妻にかなり影響され続けたのではなどと想像します。



(3)奇怪ではない残虐性


「1612年、等安が囲っていた女性の親族を10人以上殺し、家来の7~8人を去勢した以外に数人を殺した」という記述に違和感を感じられた方はおられないでしょうか。私も俄かには信じられない気がしました。

でも、等安がどのようにして生きて来たのかを考えたとき、だんだんそれが驚くほどのことでないことが分ってきました。それは、彼の仕事です。

彼の仕事は、長崎の古くからの土地の周囲に建設された外町を治めることでした。

その内容は、まず税金の徴収が考えられます。代官と言うと、貧しい農民や町人から厳しく年貢を取り立てる悪役のイメ-ジがあります。でも、取り立てる側が優しい顔をしていればおとなしく税金を納める人などいないでしょうから、物理的な力も必要になるでしょう。他に代官の仕事といえば、公共工事や住民同士の利害の調整や紛争の解決です。これも、時にはというか常にというか、物理的な力の行使が必要な仕事です。


そういう仕事を25年も続けて財を成したということは、等安は財力も物理的な力も保有する「顔役」になっていったのではないかと思います。

それは,危ない世界です。
普通に考えると「奇怪な残虐性」も、彼にとっては日常的なことになっていたのだろうと思うのです。



2.なぜ、イエズス会から托鉢修道会へ切り換えたか


当初イエズス会士から洗礼を受け、その後もイエズス会と非常に親密な関係を保っていた等安が、「なぜイエズス会から托鉢修道会に乗り換えたのか」は今も大きな謎として残されています。

上記の短編で、高瀬弘一郎氏は、「イエズス会が長崎での貿易や政治のことにあまりに深く関与したので、これがために代官である等安の利害と衝突することとなり、そのため長崎からイエズス会勢力を排除し、代って托鉢修道会とスペイン船の基地にしようと図ったのではないか」という考えと、上述の「ジョアン・ロドリゲスと等安の妻との関係」とを理由として挙げています。

私は、異なる修道会同士でも、また同じ修道会内でも、常に中傷合戦が繰り返されていたと考えたほうが間違いないぐらいに思うようになっているので、「ロドリゲスと等安の妻の関係」も単なる中傷だろうなどと思っていたのですが、今回等安の夫婦関係などを考え直してみて、やっぱり「ロドリゲスと等安の妻の関係」は実際にあったのではと思うようになっています。

「自分とイエズス会の利害が衝突することが増えて長崎を托鉢修道会とスペイン船の基地にすることも選択肢として考えるようになっていた」ところに、「ロドリゲスと妻の関係」の問題が起きて、実際に「ロドリゲス排除」に向かって動きだしたと考えるようになりました。それが、無理のないところではないでしょうか。


3.だから、本物


私は[その1]で、「キリシタン時代の信者は清く正しく真面目だったと書かれる場合が多くリアルでなく面白くない」と書きました。言うまでもなく、村山等安はその逆の存在です。

どうして、こういう人物が現れたのでしょうか。

・ひとつは時代。
等安が長崎代官になった1594年は、ザビエル来日から45年目、1549年から1639年までのキリシタン時代90年間のちょうど真ん中で、1587年に秀吉の宣教師追放令が出ていたとはいえキリシタン教会の成熟期と言っても良い時期です。

・もうひとつは長崎という場所。
イエズス会とポルトガル貿易の拠点として成長し繁栄していたところに、この時期、托鉢修道会とスペイン船が進出してきたこと。

・長崎代官という仕事。

・妻と家族そして何よりも本人の個性。


私は生まれたときに洗礼を受けたのに、葬式と法事以外は教会と縁をなくしてしまった者ですが、そんな自分を棚に上げて、私なりに抱いてきたカトリック信者ならこうあって欲しいという条件があります。それは、

・善人ぶらない。(自分の感覚で笑い・怒り・泣く)
・自分の言葉で語る。(神や聖書の言葉は出さない)
・自分の人生を大事にする。(やりたいことを、やる)

村山等安なら、この条件満たしそうですが、どうですか?


〈完〉















[PR]
by GFauree | 2015-02-14 14:04 | 村山等安 | Comments(2)

清くも正しくもなかったけれど本物の臭いがする長崎代官 村山等安 [その3]

a0326062_13493068.jpg








〈村山等安の生涯〉

1.その頃の長崎


1580年 大村純忠、長崎・茂木村をイエズス会に寄進。
1587年 豊臣秀吉、宣教師追放令を発布。
1588年 豊臣秀吉、長崎周辺を没収。

1592年までに整備されていた区域(23町)が内町と呼ばれ、その周囲に新しく建設される区域(51町)は外町とされた。


2.等安の生い立ち
 


出身地は、尾張・安芸・博多と諸説あり不明。
1588年 兄を頼って長崎へ転入。
ポルトガル商人に仕え、南蛮料理・南蛮菓子を造り、ポルトガル語を話したと言われている。
イエズス会士により洗礼を受け、アントンと称した。


3.秀吉との出会いと代官職


1594年、長崎の町役である乙名たちやルソン壺を扱っていた商人たちが秀吉から呼び出しを受け、その中に等安がいた。その集団が秀吉と面談することになった際、交渉力のある等安が代表に選ばれ、秀吉に気に入られた。等安という名は、秀吉から名前を尋ねられ「アントン」と答えると、「ト-アン」とするように命じられたものだという。

等安は秀吉から、外町(51町)を差配する代官職に任ぜられる。
その後、長崎の商人として朱印状を受け、貿易船を渡航させることで財を貯えて行ったと考えられている。


4.徳川幕府開府以降


徳川幕府の支配が開始されると、長崎は幕府の直轄地とされ奉行が置かれた。
奉行の職務は主として、港の治安維持と貿易の管理。
1604年、等安はイエズス会のジョアン・ロドリゲスとともに徳川家康に謁見し、引き続き長崎代官として外町の行政にあたることを承認された。


5.堕落した生活


1605年1月、等安はイエズス会の喚問に応じ同会の側に立って、スペイン托鉢修道会に不利な証言を行う。

1607年3月、等安はイエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスを解任するために、貞潔の問題についての証言を行う。

1610年、ジョアン・ロドリゲスは長崎駐在プロクラド-ルを解任されマカオに転出させられる。


(以下、アビラ・ヒロン『日本王国記』による)


1607年、アビラ・ヒロンがシャムから戻った時、等安は多大な富と権力を一手に収め、その中で生活が堕落し、妻や子供に散々不快な思いをさせ、金を湯水のように使っていた。

1612年、囲っていた女性のことで、その女性と、その夫である若者と、女性の両親他10人以上の親族を殺した。しばらく後、何人かの家来が悪事を働いたという理由で、7~8人を去勢しその他の者も殺した。

同じ年に、別の女性のことで、妻や子供と激しく争った。

ハレムの中のトルコ人さながらの生活を送っていた。


6.キリシタン禁制が出されてから


1614年、全国的なキリシタン禁制が発布される中、長崎でも奉行長谷川左兵衛が迫害を開始。

等安は、神父たちが日本から追放され、キリシタンが迫害されているのを知り、生活態度を改めた。

囲っていた女性たちに金を与えて家から出し、妻や息子たちと和解し、財産を整理し、信仰の為には生命すら捨てる覚悟で数々の苦行を始めた。

同年 5月、『贖罪のための大行列』が挙行され、等安は家族と共に先頭に立って参加した。


7.「長崎シスマ(教会分裂)」の黒幕


1598年以降、府内(長崎)司教区内に四つの小教区が設けられ、等安の支配する外町には、そのうちの三つの教会が建てられ、さらにドミニコ会とアウグスチノ会の教会も建てられた。

外町の三つの小教区のうちの一つの主任司祭は、等安の息子 アントニオ・フランシスコ・村山であった。アントニオはイエズス会系の司教セルケイラが創設し運営したセミナリオで学び叙品を受けた教区司祭であったがスペイン系托鉢修道会に走ったのである。

等安は、小教区の教会を建てたり、主任司祭の生活費を含む小教区教会の維持費を一部負担するなど経済的貢献までしている。

1614年、司教セルケイラの死去に際し、教区司祭7人のうち5人は司教代理としてイエズス会管区長を否認しフランシスコ会司祭を選出した。

これが、「長崎シスマ(教会分裂)」呼ばれた動きであるが、その一連の動きの陰には等安の存在がある。


8.追いつめられる等安


1615年、幕府は等安の勢力を削減するため、奉行長谷川左兵衛を通じて台湾渡航を命じた。
次男長安(ジョアン)を隊長とし、兵船13隻 兵員3~4千人を率いる大規模な渡航だったが、海上で暴風雨に遭い艦隊は壊滅し3隻だけが交趾シナに漂着したとされている。

伝統的な地区である内町の商人たちは、従来から等安の隆盛を快く思っておらず、彼らの代表となった末次平蔵は、等安を敵視するイエズス会に接近することで教会の分裂を利用する一方で長谷川左兵衛の後任奉行 長谷川権六に接近、権六と平蔵の共同作戦が進められた。


9.一族の絶滅


1618年1月、等安は将軍秀忠から、長崎代官を罷免され、平蔵がこれにとって代わることになる。

更に、平蔵は幕府に告訴状を提出。

①等安が大坂の陣で豊臣方に加勢したこと
②宣教師を匿ったこと
③多数の奉公人を殺害したこと

を訴えた。

捕えられた等安は、キリシタンか否かを尋ねられ、当然のこととして肯定。
有罪が確定し10月に全財産が没収され、1619年12月斬首された。

1622年9月までに、他の子供たち・孫・親族が処刑された。



以上、村山等安の生涯をたどってきましたが、次に、これについて私が思うことを書いてみたいと思っています。















[PR]
by GFauree | 2015-02-10 05:02 | 村山等安 | Comments(0)

清くも正しくもなかったけれど本物の臭いがする長崎代官 村山等安 [その2]

a0326062_13423353.jpg






村山等安の生涯を簡単にたどろうと思います。

以前、ペル-から日本へ来て1592年に秀吉に会った男「フアン・デ・ソリス」の話を書きました。
(http://iwahanjiro.exblog.jp/i4/)

その「フアン・デ・ソリス」と同じスペイン人で1594年にメキシコ・マニラ経由で日本に来たアビラ・ヒロンという男がいます。そんな男がいること自体、その頃の長崎が『大航海時代』と呼ばれる世界の流れに浸っていたことを、感じさせてくれるような気がします。

そのアビラ・ヒロンが書いた『日本王国記』という記録の第十九章に、等安の人物像が書かれています。

因みに、『日本王国記』には1592年フィリピン総督が日本へ送ったドミニコ会の神父フアン・コ-ボのことは書かれていますが、スペイン人・ドミニコ会からすればフアン・コ-ボに随行して大活躍したはずのフアン・デ・ソリスについては何故か全く触れられていません。

アビラ・ヒロンはスペイン人ですし、フアン・デ・ソリスとは同業の商人だったと考えられています。確かに、ソリスの件が発生した時点にはヒロンはまだ日本にはいません。しかし、わずか2年前の同国人・同業者の同じ土地での活動について聞くことはなかったのでしょうか。また敵対する立場のイエズス会のルイス・フロイスでさえ、あれほど大事件として取り上げていることを考えても全く言及していないことは腑に落ちません。アビラ・ヒロンとフアン・デ・ソリスの間に何かあったのかも知れません。

それはともかく、等安が25年も長崎代官という要職を占めていたために、その名前は長崎の様々な出来事に関する記録に登場します。ところが、等安自身の「一代記」のようなものはあまりお目にかかりません。多くの人の好きなキリシタン大名などの武士ではなく、しかも一時期、素行がかなり悪かった人なので、避けられて来たのかも知れません。ひとつだけ、文庫になっている評伝を読んだことがありますが、私の苦手な個人礼賛型の伝記であまり面白くないしあてにもできません。

そこで等安を取り巻いた周囲と彼自身の人生の推移を、アビラ・ヒロン『日本王国記』と末尾に挙げる参考文献などから、項目ごとに抽出してみました。

次回、その項目ごとの内容を書こうと思っています。


〈村山等安の人生〉

1.その頃の長崎
2.等安の生い立ち
3.秀吉との出会いと代官職
4.徳川幕府開府以降
5.堕落した生活
6.キリシタン禁制が出されてから
7.「長崎シスマ(教会分裂)」の黒幕
8.追いつめられる等安
9.一族の絶滅


〈参考文献〉

1.アビラ・ヒロン 『日本王国記』大航海時代叢書 岩波書店
(Relación del Reino de Nippon a que llaman corruptamente Jappon)
2.村山等安とその末裔 村山トシ 芸文社
3.通辞ロドリゲス マイケル・ク-パ- 原書房
4.キリシタンの世紀 高瀬弘一郎 岩波書店
5.キリシタン時代対外関係の研究 高瀬弘一郎 岩波書店



つづく





[PR]
by GFauree | 2015-02-09 05:32 | 村山等安 | Comments(0)

清くも正しくもなかったけれど本物の臭いがする長崎代官 村山等安 [その1]





a0326062_00251917.jpg
                        (写真撮影 三上信一氏)







「キリシタン史」
に興味を持っていると言っても、実は私は「殉教」「隠れキリシタン」にはあまり関心はありません。それらは、信仰の(つまりは心の)問題であって、「客観的に歴史を探求して、できるだけあの時代をリアルに感じたい」という私の動機とは次元が違うことのような気がしているのです。


〈キリシタンは真面目で清く正しい人ばかり?〉

それから、キリシタン時代の日本人信者に対しても、そんなに興味を感じないことの方が多いように思います。その理由は、キリシタンというと真面目で清く正しくてという話が多くてあまりリアルに感じられないからです。高山右近にしても、その他のキリシタン大名にしても本当にそんなに真面目だったんでしょうか。

そもそも、あの時代伝えられたキリスト教はカトリックです。カトリック国を考えてみて下さい。ヨ-ロッパでは、イタリア・フランス・スペイン・ポルトガルなど、そして南米諸国です。何が言いたいかといえば、どちらかと言うと「真面目で清く正しい」とは逆の「リラックスした」印象の国々です。

そういうリラックスした印象の国々から来た宗教の信者が、日本では殆どが真面目で清く正しい人ばかりというのはやっぱり不自然です。「外面的な真面目さ」が別の件で指摘されている「外国人宣教師の“提灯持ち”をひたすら務める、矜恃を持たない」考え方や、自主性・主体性の不足からくるものでなければ良いのですが。

いずれにしても、それは本当なのか、もし本当なら何故そういうことになってしまったのかについて、その理由として思い当たることもあるので、いつか整理してみようと思っています。


〈堕落した生活を送っていた記録のある重要人物がいた〉


ところで、そんなふうに大部分が真面目な人物として描かれているキリシタン時代の信者の中で、影響力のある非常に重要な存在であったのに、その素行については敵対することになったイエズス会のみならず強力な後ろ盾となったドミニコ会系の報告にすら過去の堕落した生活を余すところなく書かれた男がいます。

それが、今回の主人公 村山等安です。


〈長崎代官 村山等安の時代〉



村山等安(トーアン)は、1594年から1618年まで25年間、長崎代官の地位にありました。

それは、秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)の頃から、家康による豊臣方平定(大坂の陣)の後の時期に当たります。

従来からこの時期までのキリシタンに関する重要問題は、ポルトガル貿易とイエズス会の拠点であった長崎に集約されていたと考えることが出来ます。

またこの時期には、ポルトガル船とイエズス会に加えて、フィリピン経由のスペイン船と托鉢修道会(ドミニコ会・フランシスコ会)が長崎に進出してきて諸問題がさらに複雑化しました。そのスペイン系勢力進出の後ろ盾となったのが村山等安です。


次回、堕落した生活の内容を含めて、村山等安の人となりを書いてみたいと思います。






[PR]
by GFauree | 2015-02-04 14:05 | 村山等安 | Comments(0)