【大航海時代のおと】

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「慶長遣欧使節」支倉常長 [その2]

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-遠藤周作『侍』に描かれた支倉常長-



1.男はつらい


小説の中で、支倉常長は『侍』長谷倉六衛門として描かれています。
六衛門は、侍とは言え農民とさほど変わりのない家に住み、家族とともに畑で働き、領主に年貢を納める生活を送っています。

考えてみれば、戦国時代が終わり戦いが無くなれば、武術で生活を立てることは出来ないのですから、ほとんどの武士は彼のように地方政府(藩)の官吏として働きながら農業を兼業するような地味で質素な生活を送っていた筈です。

ですから、描かれた六衛門の生活は現実的です。
今で言えば、農家の長男が農業をするかたわら役所に勤めているような感じなのでしょう。つまり、六衛門は、家を大事に思いひたすら我慢を重ねる忍耐強い村役場の役人のような男なのです。

その男が、領主の名代として言葉の通じない外国へ行き貿易開始のための交渉を進める役割を与えられたのです。そんなに重要な役割が何故自分のような身分の低い者に与えられたのか、彼にも分りません。

しかし、彼としては是非その役目を無事に果たして戻りたいと考えます。
それは、もしその使命を果たすことが出来れば、先祖が失った自家の領地を返して貰えるかもしれないという期待があるからです。

通訳としてポ-ロ会の宣教師ベラスコ(史実では、フランシスコ会のルイス・ソテロ)が、随行します。

そもそも、この派遣は領主に対するベラスコの強い働きかけから生まれたものですから、ベラスコがこの旅に自分独自の狙いをもっていることは、明らかでした。

その懸念通り、ベラスコは次第に通訳・仲介役の立場を超えて、自分本位に使節団を振り回し始めます。
しかし、ベラスコのはたらきがなければ、使節団は行動することも交渉することも出来ないのですから、六衛門はつらい立場に耐え続けるしかありません。

ここまで読んでいただけば、お気付きでしょう。
描かれている六衛門の立場や辛さは、現代の多くの男たちが味わっているものと、大して変わらないものなのです。



2.「キリシタン時代史」の研究が発展したおかげで


この小説は、1980年に発表されました。以前に書きましたように、「日本のキリシタン時代史」の研究は、1970年代の初めごろから、大きく変わりました。より客観的な研究・分析が進められるようになったため、その時代をより現実的に理解・把握できるようになったと言っても良いとおもいます。

こう書いてしまうと、簡単なようですが、実際はこれは大変なことです。
そして、その研究発展の成果がこの小説にも反映されていると私は思います。
その分、同じ作家によって書かれ1966年に発表され高い知名度を得ている「沈黙」より、この作品の方により強い現実味があるように感じられるのです。

「慶長遣欧使節」の性格を考えると当然必要だったことかも知れませんが、作者はこの作品のなかで、それまであまり露わにされることのなかったカトリック教会内部の歴史的問題を大きく切り開いて見せてくれました。
その問題とは、カトリック修道会同士の勢力争いです。

大航海時代のカトリック教会内部で、修道会同士とくにイエズス会とフランシスコ会などの托鉢修道会との間に世界的に勢力争いがあったことは、周知の事実です。

日本でも、1614年以降その対立抗争が激化し、14~15世紀に複数の教皇が同時に立ったヨ-ロッパの「教会大分裂(シスマ)」になぞらえて「長崎シスマ」と呼ばれる事態があった程なのです。

ところが、日本で「長崎シスマ」について触れられることはほとんどありませんでした。
ただ、宣教開始以来布教を独占していた形のイエズス会に対しフランシスコ会・ドミニコ会が善玉であるような話が一方的にあって、それがそのまま放置されてきたような感じを何度か受けたことがあります。

この小説では、ペテロ会・ポーロ会という名で描かれたイエズス会・フランシスコ会がマドリッド司教会議の場で、日本での布教に対する見方をめぐって対決する場面が、山場のひとつになっています。



3.人間社会の酷い(むごい)現実、そしてその救いは何処に・・・


「使節派遣」に関係した者それぞれが、自分の野望や願望を賭けて奮闘しもがいたように見えました。領主はノベスパニア(メキシコ)との交易開始を、ベラスコは司教の座獲得を、六衛門は先祖が失った領地回復を。

ただ、いつの時代も、大きな組織が目論んだ企て(くわだて)が失敗に終わったとき、最初に犠牲を求められるのは、より身分の低いものです。

漸く帰国したにもかかわらず、キリシタンに改宗したことを責められながら六衛門は聞かされます。

江戸幕府の狙いは、藩を使って、大船の作り方・動かし方・航路を知ることだったこと。
侍たちは、藩が差し出した囮(おとり)だったこと。
囮だから、身分の高い者でなく、どこで朽ち果てようと一向に構わない身分の低い者が選ばれたこと。

「もしかして、自分は六衛門とあまり変わらない経験をしたのかな。」と、私は自分の勤め人としての経験を苦い気持ちで振り返りました。

六衛門が仕えてきた寄親(上級家臣)である老人は語ります。
「それが、治政というものであり、人と人との間はそのように冷たく、むごいものであることを、よう考えてな。」と。

六衛門は、自身の無力さに何度も失望させられてきました。人々の身勝手さにもかろうじて耐えてきたのですが、ついに頼みにしていた領主の冷たい意図を知って失望させられます。最後に、人間社会の酷い(むごい)現実に決定的な絶望を味わいます。

ところが、その絶望の淵で、「人間のこころのどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを、求める願いがあること」に六衛門は気付きます。使節としての使命を果たすために便宜的にキリシタンになったはずの彼が、ときおり、キリストのことを考えるようになるのです。


宣教師ベラスコは、殺されると知りながらエルサレムへ行ったキリストに倣って、マニラから日本へ渡り捕えられ処刑されます。それも、あれほど憎み合ったペテロ会(イエズス会)の神父と伴に。(これは、史実です。)

その処刑の直前、六衛門が仕置きされたことがベラスコに告げられます。

                                            完










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by GFauree | 2014-12-25 05:37 | 支倉常長 | Comments(0)

「慶長遣欧使節」支倉常長 [その1]

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1.大航海時代を象徴する出来事だったとは

私が初めて支倉常長の名前を見たのは、中学2年の歴史の教科書の中ですから、今から50年以上前です。

前にも書きましたが、私は若いころ歴史に全く興味を感じませんでした。私以外の大部分の方も同じようなものかも知れませんが、歴史は仕方なく試験のために年号を覚えたりするだけの科目でした。

そんな私でしたが、支倉常長についての記述は何か引っかかるものがありました。教科書の小さなスペ-スに書かれていた「支倉常長」の名前と、「1613年」という年号と、「メキシコ」という国名が記憶にあります。私は、「そんな時代に遠い外国へ冒険旅行に出かけた日本人がいた」という趣旨の記述かと思ったのです。

おそらく、戦国末期・徳川初期の様々な出来事の中に、「冒険旅行」のような記述があったために何か違和感を感じたのでしょう。でも、私はそれ以上追及はしませんでした。そして、「支倉常長・1613年・メキシコ」という全く断片的な知識だけが私の中に残りました。

ところが、50歳頃からこの時代の歴史に興味を持つようになって、それが単なる「冒険旅行」ではなかったことを知りました。それどころか、その旅は、大航海時代と呼ばれるこの時代の日本の内外の状況を象徴する出来事だったのでは、と思うようになったのです。

教科書に出ているぐらいですから、この出来事についてご存知の方は多いと思いますが、この機会にその概略をまとめてみました。それを見ながら、この出来事について考えてみたいと思います。


2.「慶長遣欧使節」の経緯

(大泉光一 著 支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇 中公新書)
(高木一雄 著 伊達正宗と慶長遣欧使節    聖母文庫)


〈1609年9月〉 
フィリピン・マニラ~メキシコ・アカプルコ間のガレオン船「サン・フランシスコ号」上総国夷隅郡岩和田(千葉県)に漂着。
幕府は乗船していた臨時フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコと協議を開始。
1603年から日本で布教活動を行っていたフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロが仲介役を果たした。   

〈1610年8月〉 
幕府建造の小型帆船「サン・ブエナベンツ-ラ号」によりロドリゴ・デ・ビベロをメキシコへ送還。
使節フランシスコ会宣教師アロンソ・ムニョス、京都の商人田中勝介他23名の「日本人使節団」同乗。

〈1611年6月〉
答礼使節セバスチャン・ビスカイノ他の一行と田中勝介他の「日本使節団」を乗せた「サン・フランシスコ号」浦川(浦賀)に入港。

〈1613年10月〉 
支倉常長他仙台藩士12名、セバスチャン・ビスカイノ一行40名、ルイス・ソテロ他神父3名、さらに商人・従僕を含め総勢約180名が「サン・フアン・バウチスタ号」で、仙台領牡鹿郡(現在の宮城県石巻市)月ノ浦を出帆。

〈1614年1月〉 メキシコ・アカプルコ入港。
      3月  メキシコ市入り。
      6月  ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルア港を出港。
      7月  キュ-バのハバナ港着。 8月 ハバナ港を出港。
     10月  スペイン南部 サン・ルカ-ル・デ・バラメダに入港。
     12月  スペイン首都マドリッドに入る。

〈1615年1月〉 支倉ら使節、スペイン国王フェリッペⅢ世に謁見。
      8月  マドリッドを出発。
     10月  使節、ロ-マ到着。
     11月  支倉、ソテロらローマ教皇パオロⅤ世に謁見。
           ローマ市民権証書を授与される。

〈1616年1月〉 使節、ロ-マを出発、再びスペインへ。

〈1618年3月〉 メキシコまで戻り、アカプルコを出帆。
      6月  ルソン島 マニラに到着。支倉、息子勘三郎へ書状送る。

〈1620年8月〉 支倉ら仙台領牡鹿郡荻ノ浜に上陸。

〈1622年7月〉 支倉死去。
      8月  ルイス・ソテロ薩摩国に潜入。
      9月  ルイス・ソテロ長崎で捕まる。

〈1624年8月〉 ルイス・ソテロ大村にて火刑に処せられ死亡。


3.経緯をみて思うこと


(1)この使節派遣が、当初は日本人だけでも100人以上の人員を送り出し往復に7年もかける規模の大きなものであったにも拘わらず、その目的や責任者であるはずの家康や政宗の関わり方について決定的な記録が足りないと感じるのは私だけではないでしょう。

実際に、日本国内ではほとんど忘れ去られていたところ、明治維新直後の岩倉使節団がヨーロッパで使節の事跡に遭遇しその存在が国内でも光があてられるようになったという経緯があります。

禁教・鎖国について、私は確かにその必要性はあったと思っています。
でも、その為に過去の記録を全て抹消してひたすら保身を図らなければならないような体制が250年も続いていたことには正直なところ背筋が寒くなる気がします。

(2)使節団の旅程を見ると、長期間にわたって大変な距離を移動しています。また、この時代の航海は非常に危険度が高く健康を害することが多かったと聞いています。

フランシスコ・ザビエルがヨ-ロッパに送った二人の日本人のうち、一人はヨーロッパに着く前に、もう一人はヨ-ロッパには着いたけれど若いうちに亡くなっています。

逆に、歴史の教科書に出てくるフランシスコ・ザビエルの顔はいかにも聖人らしく弱々しくさえあるように描かれていますが、本当はどんな厳しい旅や航海にも耐えられる運動選手のような強靭な肉体の持ち主であったに違いありません。

また、「天正少年遣欧使節」が少年でなければならなかった理由の一つは長く危険な航海に耐えるには少年であることが必要だったからだと言われています。

それらのことを考えると、この「慶長使節」の特に支倉は、よほど強靭な精神と肉体を持っていたのではと想像します。
通訳としても仲介役としても頼るべきルイス・ソテロが、同国人のロドリゴ・デ・ビベロにも嫌われるほどのあくの強い人間であった(推測ですが。そういう人はどこの国にも多いので)ことを考えるとなおさらです。この精神と肉体の強靭さは、私が惹かれた大航海時代の人々の特徴です。

そういう意味で、支倉はまさに「大航海時代の人物」だったと言えるでしょう。

(3)日本のキリシタン時代は、マカオのポルトガル商人・イエズス会・長崎というラインで進行しました。
それに対しこの「慶長遣欧使節派遣」は、マニラ/アカプルコのスペイン人・フランシスコ会・仙台領または浦川(浦賀)へと既存の路線を変更することを意味しました。

スペインは1580年から1640年までの60年間ポルトガルを事実上併合していました。と言っても、南米ブラジルでのポルトガルの拡大・膨張をみるとこの時代のポルトガルの勢力を甘く見るべきではありません。
でも、スペインがポルトガルより強大であったことは確かでしょう。

そういう意味で、日本が鎖国へと大きく舵を切る前に家康と政宗はより難しい相手を試すことになったと考えると少し面白い気がします。

こういうことを全て総合すると、「慶長遣欧使節派遣」はやっぱり大航海時代を象徴する出来事だったと言えそうですが、如何でしょうか。



次回は、私が「慶長遣欧使節」を深く知りたいと思うきっかけになった遠藤周作の小説「侍」について、思うことを書かせて頂きます。上記の経緯に挙げた事柄のなかで、よく話題になる支倉の死やルイス・ソテロの殉教についてもその中で書こうと思っておりますので、どうぞ目を通して頂きたくお願い致します。



















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by GFauree | 2014-12-22 14:44 | 支倉常長 | Comments(0)

1613年、ペル-のリマ市に日本人が20人いた。[その2]

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Photo by Juan Goicochea



前回、「20人の日本人」が「1613年のリマ・インディオの人口調査」に記載されていて、
その調査記録は国立サン・マルコス大学文学部によって古文書解読され1968年に出版されていたことを書きました。


そこで、「20人の日本人」に関してそこに書かれてあることを抜き出してみました。


〈20人の構成〉


             既婚    独身    少年      計
        男     4     4     1      9
        女     4     7     0     11



〈属性〉 属性について記載があるのは以下9名だけで、残りの11人については記載はありません。


1.男・独身・襟職人
  

政府長官の住んでいる通りに、日本生まれでディエゴと名乗る男が居る。
当市在住3年、継ぎ当てと襟加工の仕事を持ち、24歳独身で子供も資産もない。

2.男・独身
  

1.と同じ店に日本出身だという、もう一人のインディオが働いていた。
当市在住は1年、継ぎ当ての仕事をし独身、18歳である。

3.男・既婚(ポルトガル領出身のインディオ女性と結婚)
  

サン・アグスティン通りの教会正面に襟加工の店を持っている。
マンガサテと呼ばれる日本の町出身である。そこには、カシケ(地主)も征服地支配者もいない。
副王マルケス・デ・モンテスクラ-ロ殿が来た年(1607年)から当市に居り、襟職人であり26歳だと言っている。
  

アンドレア・アナという女性と結婚している。
彼女はポルトガルのマンカサ(これは出身町の名称)カストの出身で、当市に10年在住し、ペトロ・テノリオの奴隷であったが、今は自由の身である。彼女の夫が300ペソで彼女を身請けしたからである。

彼らに子どもは居らず、彼女は24歳。

4.既婚の日本インディオ 男・女
  

ジュゼッペ・デ・リベラ殿の家に使用人として、ゴア市の日本カスト生まれだという、ポルトガル領インド出身のインディオが居た。
名前はトマス、顔に焼印がされている。
前述のポルトガル領ゴア・カスト出身の日本人インディオ女性と結婚している。彼らには、7歳のフランシスコという息子がいる。
彼らは全てジュゼッペ殿の奴隷である。彼は28歳ぐらいだろう。

5.二人の独身女性
  

アナ・メヒア未亡人に二人の日本インディオ女性が仕えている。

6.日本インディオ女性・独身
  

エンカルナシオン通りのディエゴ・デ・アヤラ殿の家で、アントニアという名の日本カスタ出身のインディオ女性が仕えている。


【思うこと】


1.
この「20人の日本人」が、どういう経路で何故リマにたどり着いたのか、そしてリマでの暮らしはどのようなものだったのか、を知りたい所ですが「1613年の人口調査」に書いてあるのは上記のことまでです。


2.
「日本人インディオ」とか「ポルトガル(領)のインディオ」という言葉に引っ掛かりを感じますが、この時代のスペイン人・ポルトガル人は、アジア・アメリカの先住民と、自分たちの領土の中のアジア・アメリカに出自を持つ住民をすべて「インディオ」と呼んでいたのですから仕方のないことなのでしょう。


3.
上記3.男・既婚の欄に「マンガサテと呼ばれる日本の町」と書きましたが、これはナガサキのことではないかという見解を読んだことがあります。

16世紀末、長崎はポルトガル船貿易の拠点でしたから、そこから海外に運ばれた人だったということは、大いに考えられます。

また、「そこには、カシケ(地主)も征服地支配者もいない」という記述については、当時のスペイン植民地を支配していたのは、先住民地主(カシケ)か(スペイン人)支配者でしたから、「マンガサテでは先住民地主も征服地支配者もいない」と聞いて奇異に感じ書き留めたと考えられます。

それとも、単に、そこが植民地でないという意味かも知れません。


4.
コメントされている9人のうちに、奴隷身分の女性(アンドレ・アナ)を身請けし結婚している男性と顔に焼印のある男性(トマス)がいるという記載があるために、「日本人インディオ」の多くが奴隷であったような印象が残ります。

ポルトガルが世界的に展開していた貿易取引において奴隷が主要な商品であったことを考えると、「日本人インディオ」のアジアからリマへの移動に奴隷売買が関係していた可能性は充分にあります。

けれども同時に、日本国内の戦国末期・江戸初期の権力も財力もない民衆の生活が、海外に売られた奴隷に比べてどうであったかも考えてみる必要があると思います。「奴隷として海外に出ることでやっと活路を見出したということがあったのではないか」ということを思うのです。


5.また、出身地に関して、「ゴア市の日本カスト生まれ」だとか「ポルトガル領ゴア・カスト出身」だとかの表現があります。

この表現の意味するところは、当時ポルトガル領インドの都市ゴアには、日本に出自を持つ人々が集住していて、社会階層のひとつを形成していたということでしょう。

その階層が奴隷に相当するものであったか否かは、その時期のゴアの歴史を探れば答えが出るかも知れません。

ポルトガルにとって、1510年に陥落したゴアは海洋帝国展開上の重要な拠点であり、そこに日本人が集住していて、その人たちが何らかの理由でペル-・リマまで渡ったということになります。


6.
この時代に、南米に居た日本人の記録として「リマの20人」以外では以下の人たちについて聞いたことがあります。

(1)1597年、アルゼンチンのコルドバ市で「自分が奴隷として売買される謂れはなく自由を要求する」として訴訟を起こし勝訴した人。

(2)1600年代初め頃、メキシコ・グアダラハラで活躍した商人ルイス・デ・エンシオと その娘婿で後にグアダラハラ大聖堂財産管理人となったフアン・デ・パエス。(二人とも外国人名ですが、日本からメキシコへ渡った人たちであることは確実なようです。)

(3)1585年、8歳のとき長崎でポルトガル商人ペレスに売られたガスパ-ル、1594年スペイン領マニラでポルトガル奴隷商人からペレスに売られたミゲル、来歴不明なベントゥ-ラ、の3人。
3人は、ペレスが隠れユダヤ教徒として逮捕されたため、1597年に異端審問のためマニラからアカプルコへペレスとともに移送された。


7.
これらの人たちと比べると、「1613年の人口調査」に書かれているリマの人たちの生活が落ち着いていたのではないかと思うのは、私のひいき目というものでしょうか。

「1613年の人口調査」のコメントを見ると、彼らはまだ若いけれど職人や使用人としての仕事を着々とこなしながら、結婚もし子どももいる安定した生活を目指していたのではないかなどと想像します。



2回にわたって「1613年、リマ市の日本人20人」について書いてきましたが、
次回は、同じ1613年に日本からメキシコに向かった使節団の団長「支倉常長」について書いてみたいと思います。









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by GFauree | 2014-12-18 14:18 | リマ市20人の日本人 | Comments(0)

1613年、ペル-のリマ市に日本人が20人いた。[その1]

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ペル- 太平洋とアンデスの国 増田義郎/柳田利夫著(中央公論新社)
の中に、次のことが書かれています。

1.1613年の副王庁によるリマ市の人口調査に「ハポン(日本)のインディオ男女20人」が記されている。

2.この日本人たちは、フィリピン・マニラ~メキシコ・アカプルコ経由ペル-に渡航してきたと考えられる。

というのは、当時フィリピンのマニラには人口約2000人の日本人居住区があった。また、マニラ・アカプルコ間に毎年1回“マニラ・ガレオン船”が運航されていた。

従って、マニラ周辺にいた日本人の中から、この“マニラ・ガレオン船”で新世界へ渡った者がいたとしてもおかしくないのである。

3.また、彼らがリマにたどり着いた背景には、ポトシ-リマ(カヤオ)-アカプルコ-マニラ間のの流れがある。

(ちなみに、カヤオは先日、日本語の生徒たちと遠足で行った港です。)

私がこれを読んだのは、当地に住み始めて3年経った頃でした。
私は自分自身の経験から、その「20人の日本人」の気持ちが分るような気がしました。さらに、彼らについてもっと知ることで私がこれから生きていくための力を得られるのではないかとも思いました。

そこで、自分なりにこの歴史的な出来事について調べてみることにしました。

何人かの方々からご教示、ご協力を頂いて、「20人の日本人」が記載された「1613年のリマ・インディオの人口調査」の復刻版が1968年に国立サン・マルコス大学文学部から出版されていたことが分りました。

次回は、その「1613年のリマ・インディオの人口調査」の内容についてお話したいと思います。



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by GFauree | 2014-12-13 15:06 | リマ市20人の日本人 | Comments(0)

ありがとう、日本語の生徒たち。それから、妻にも感謝。

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                   遠足の風景



この国では、日本語能力試験は年1回だけ12月の第一日曜日に行われます。


私の4人の生徒たちもその試験を受けました。

それで、翌日の月曜日にその慰労会と今月の妻の誕生日祝も兼ねて、妻が面倒をみている高校生2人を含めた8人全員で遠足に出かけました。

小型の乗り合いバスで30分ぐらいのところにある港へ行き、湾内遊覧船に乗ったあとで昼食をとり港の岸壁や展望台を散策するだけの遠足です。

でも、ここでは若い人もおとな同様に良く食べ良く話しとても楽しそうにしてくれるので、私たちにとってもこの遠足が楽しみのひとつになりました。実は日程の調整など若干面倒なこともあるためにどうしようかなどと迷っていたのですが、生徒たちから催促されて結局今年も実行することにしたのです。


よく定年後の海外生活のパタ-ンとして日本語教師を考えられる方が多いようですが、それが充実したものになるかどうかは、「良い生徒に恵まれるかどうか」という,とても単純だけれど実際にはなかなか叶わない条件次第だと私は思います。


この国でも、アニメやファッションや音楽を通じて、また欧米とは全く異なる歴史や文化を持つ先進国として、驚くほど多くの若い人が日本を意識し日本語に興味を持っています。


ところが、言葉も文字も文法も西ヨーロッパ言語と全く異なる日本語の習得の困難さはいつもは楽天的な彼らを一挙に絶望的にさせるようです。そのため、折角始めても殆どの人はひらがな・カタカナも満足に書けない段階で挫折してしまうと言っても大袈裟ではありません。


つまり、日本語学習が成立するためには、何故かあまり言われていないことですが、責任感と忍耐強さでこの日本語の途方もない難しさを克服しながら勉強し続けてくれる良い生徒が実は不可欠なのです。(当たり前すぎることかも知れませんね。)


私の場合は、幸運にも約3年前から自発的・継続的に勉強する習慣を身に付けた優秀な生徒に恵まれました。そのうえ、彼らは私の妻がペル-人であることで安心するようで、家で食事をしていくことも多いし勉強以外のことまで相談するほど妻を慕ってくれています。


私は、日本語学習のお手伝いを通じて生き甲斐と健康を与えられました。

そして、それを可能にしてくれた優秀な生徒たちと、私と生徒たちを支えてくれている妻に感謝しています。

もっとも、妻に感謝しなければならないのは、この件についてだけではなく、この恐ろしく難しい社会で生きながらえさせて貰っていること全体についてなのですが。

この社会の恐るべき難しさについてもこれから少しずつお話していきたいと思います。


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by GFauree | 2014-12-10 10:47 | Comments(0)

インカ帝国滅亡は日本のキリシタン時代の少し前

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ペル-の征服者フランシスコ・ピサロがリマ市を建設したのは1535年です。その14年後の1549年宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に到着しました。その時から鎖国が完成したといわれる1639年までの90年間が日本のキリシタン時代だと考えられます。それは、信長・秀吉・家康による「天下統一から徳川幕府成立の時期」とほぼ重なります。

と書いきて、そんなこと当たり前じゃないかと怒られそうな気もしますが、
若いころ歴史というものを全く身近に 感じられなかった私がそれに気が付いたのは、60歳を過ぎてこちらへ来てからです。

私はもともとカトリック信者の家庭に育ったのですが、
「キリシタン」について特に興味をもつことはなく、それに関する本を読んだこともなかったのです。「キリシタン」というと、どうも聖人や美化された殉教の話ばかりで面白くないしあまり意味もないような感じがしていたのです。

ところが50歳の頃、この時代のひとりの日本人司祭について知りたいと思うようになり、この時代の歴史に関する本を読み始めました。そうして、わかったことは1970年代の半ば頃からこの時代に関する研究が大きく変わっていたということです。その変化をもたらしたのは、高瀬弘一郎氏の諸論文であり「キリシタン時代の研究」他の著書ではないかと思います。

その研究の成果によって、キリシタン時代の布教の主力であったイエズス会やその他の修道会が経済面を含めて本当はどのような活動を展開していたのか、時の最高権力者や統一政権にどのような働きかけをしたのか、また統一政権側はその働きかけにどのように対応しようとしたのかを知ることができます。それは、400年以上前のこととは思えないほど生々しく興味深いものです。

また、もっと卑近な事柄について言えば、イエズス会士との接触の中でよく言われる信長の進取の気性がどんなものであったかを知ることができますし、豊臣方との決戦「大阪冬の陣」の直前までキリスト教許容の可能性を探るなど、家康が如何に慎重に外交政策を検討していたかを知ることもできます。

秀吉については日本人奴隷輸出問題でイエズス会の責任を追及するなど、この時代の修道会の性格を見抜いた上で外交を展開しようとしている点はよくある秀吉に不利な評価を見直しさせるものだと思われます。

その時代の日本側の代表的人物である信長・秀吉・家康は日本史の中でも最も人気のある人たちですから面白いのは当たりまえかも知れません。でも面白いのはこういう日本の最高権力者たちばかりではありません。
宣教師たちもひとりひとり個性が強く性格的な欠陥もあるけれど魅力的な人物が多かったように思います。私が特に面白いと思っている人物についてこれから折に触れて書いていきたいと思います。

またこの時代には、スペイン・ポルトガル両国が国家事業として世界展開を進めていたという側面があります。その結果として考えられることですが、たとえば「この時代のリマに日本人が20人いた」とか「ペル-から日本へ行き秀吉と面会した人物がいた」という記録もあります。
これらについても、書いてみたいと考えています。

ペル-というと、すぐインカ以前の時代の考古学的研究が話題にされますが、私はスペインによる征服以降の歴史により興味を感じます。そして、その植民地時代初期と同時代である、日本の「キリシタン時代」についても、これからもっと知識を深めていきたいと思っているのです。










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by GFauree | 2014-12-08 13:25 | 大航海時代 | Comments(5)

アルカディアに我ありき

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逸身喜一郎著 ラテン語の話-通読できるラテン語文法 (大修館書店)
は、
ラテン語に関する興味深い話題を通して初心者が親しみを持てるように書かれた親切な本です。

ラテン語をヨ-ロッパ文化の根源に関わる言語として意識し自分も読んでみたいと思ってはいても、その文法について覚えなければならない決まりごとが多そうで近付き難く感じていた私にとって、この本は丁寧にかつ分かりやすくそして面白く書かれていてとても有難く感じた覚えがあります。今でも時々読み返しています。

その本の最終章で、このタイトルに挙げた言葉(アルカディアに我ありき)について説明されています。それは、次のようなものです。

アルカディアとは、理想郷(ユ-トピア)を意味する想像上の地名です。
現実に、アルカディアという名前の土地はギリシャにありますが、それは「理想郷」とはほど遠い荒涼とした土地だそうです。

最初に et in Arcadia ego というラテン語がありました。
その意味は「アルカディアにすら、我はいる」(アルカディアにもまた、私はいる)です。

この言葉を発しているのは「死」そのもので、この表現は「平和で幸福な理想郷アルカディアの地にもまた、私『死』はいる」つまり「死を忘れるな」ということを意味していたのです。

ところがあるきっかけから、この言葉は「我もまた、アルカディアにかつていた」 et ego in Arcadiaと解釈されるようになりました。
「死者」が「私にもアルカディアにいるという至福の時があったのに」という感傷と憂愁に満ちた想いをアルカディアの住人に語りかけるために発したものとして考えられるようになったのです。

「常に、死を意識せよ」という警句として発せられた言葉が、いつしか自分が経験した理想郷への郷愁を吐露する言葉として解釈されるようになったというこの話に私は惹かれます。
「死を忘れるな」という苦く厳しい警句は真理を鋭く突いている言葉だとは思いますが、「私にも、あの理想郷で過ごした日々があったのだ」という言葉にも憂いに満ちた悲痛な心の叫びを感じます。

自分が既に、死を意識すべき年齢に達しつつあるせいかも知れません。
また、ときどき生まれ育った遠い日本を理想化して思い出している自分に気付くことがあるせいかも知れません。

ただ、今自分が日本を離れて暮らしているこの地がアルカディア(理想郷)であるというつもりも全くありません。よく、海外生活をされていていまお住まいの地を理想郷のようにおっしゃる方がおられますが私はそういう気持ちにはなれません。

この、ブログの最初の投稿にこのテ-マを選んだのには別の理由があります。それは、また別の機会にお話ししたいと思います


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by GFauree | 2014-12-06 10:12 | Comments(1)