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                   (写真撮影 三上信一氏)
                          







岐部は,四通のラテン語書簡を残していますが、これらは全て,
大分県先哲叢書 ペトロ岐部カスイ 資料集 に日本語訳とともに収められています。


余談ですが、私は2001年に岐部の故郷、大分県東国東郡国見町へ行く機会を得て資料館へも行きました。その時に、この資料集が3冊ばかり置かれてあるのに気が付きましたが、高そうな本なので欲しいと言い出せず、後になって買っておけば良かったと後悔していました。

ところが、5年ぐらい経ってから、当時住んでいた所に近い横浜・伊勢崎町の古書店で偶然見つけたのです。非売品との表示がありましたが、たしか3千5百円だったと思います。もちろん、即買いました。私は、古本についてこれ以外にも「不思議な出会い」のようなものを何回か経験しています。


さて、岐部の残した書簡と主な内容は以下の通りです。


(1)1623年2月1日付、リスボン発、ロ-マ修練院長補佐宛
(2)1630年5月7日付、フィリピン・ルパング島発、イエズス会総会長宛
(3)1630年5月7日付、フィリピン・ルパング島発、イエズス会総会長補佐宛
(4)1630年6月12日付、フィリピン・ルパング島発、マニラ・コレジオ校長宛


書簡(1)の内容

・インドからの情報

オルムズという主要な町が、英国の支援を受けたペルシャ人によって占領され、ポルトガルは甚大な損害を蒙った。しかし、(インド)ゴアの(ポルトガル)副王によって、オルムズに近いマスカット港へ、大艦隊の援軍が送られることになっている。また、ポルトガルからは、より強力な兵員、武器その他の援助が送られた。この損害はポルトガル人のというより、キリスト教徒共通のものであることは明らかだから、願わくは、神が再び勝利をもたらすように。


・日本での迫害の情報

1621年に日本から発信された他の神父たちの手紙をマドリッドで読んだ。その手紙によれば、神父たちが隠れることが出来ないように、家が一軒ずつ捜索されているとのこと。

さらに、教皇パウロ5世の時代にフランシスコ会士がロ-マへ使節を連れて行った(慶長遣欧使節を派遣した)奥州地方で、新たな迫害が起っている。

大名 伊達政宗は、家臣、商人その他自分の支配下のキリスト教徒を皆、領地から追い払うよう命令し、布教することは出来なくなった。


書簡(2)の内容

・「あなたが、手紙の中で私に示して下さったご好意は、いわば先を急ぐ馬にさらに拍車をかけるようなものでした。まことに、日本の武士の習いは、仕える主人のただ一言によっても、自分の命を投げ打とうと考えるものだからです。」

・「列福された日本人殉教者の守護によって、日本全体がやがて平和になり、聖なるロ-マ教会に委ねられ、主キリストにふさわしい花嫁となって欲しいという大きな希望を持っています。」


書簡(3)の内容

1627年2月、日本に渡航する手がかりを探すために、マカオからシャム国へ派遣された。

マカオからマラッカ経由シャムへ向かおうとしたとき、シンガポ-ル海峡付近でオランダ船に遭遇し、陸地伝いに逃亡して14日後にマラッカへ到着。結局、シャムに着いたのは同じ年の7月末だった。

シャムでは、2年間、首都アユタヤの日本人町に潜伏して日本へ渡る方法を探したが、それは無駄に終わった。というのは、日本に渡航するためには、仏教の何らかの宗派に属することを宣誓しなければならないとの、将軍の命令が布告されたからだ。

このため、シャムからマカオに戻ろうとしたのだが、そのときマニラ総督の船がシャムに送られてきたため、その戻りの船に便乗して、マカオではなくマニラに向かうことが出来た。そして、1630年3月マニラを出発し、ルパング島で航海に適した天候を待つことになった。


書簡(4)の内容

ルパング島から日本へ向けた渡航に必要な物は全て準備し、立派な船を建造し、航海に適した天候を待っている間に、船が虫に食われてしまった。

この地には、修復のための材料もないため、船に内側から板を固定し航行してみることにした。



[書簡の内容について考えたこと]


書簡(1)


・インドからの情報
を読んで、最初私は意外な感じを受けました。まるで、ポルトガル人が書いたような文章だなと感じたのです。英国に対する敵愾心もむき出しだとも感じました。ポルトガルと英国の戦いの話ですから、岐部が、日本人としてまた宗教人としてもっと客観的に状況を捉えたのではないかと私は期待していたのです。

けれども、よく考えてみれば、その時の彼の最大の関心事は、無事に日本へ渡航することができるかどうか、ということであった筈です。それは当時のポルトガルの制海権に依存することですから、彼がポルトガル軍を応援したくなるのも当然と言えば当然なのです。

まして、ポルトガル人宣教師の多いセミナリオで教育を受け、ポルトガル王室と深い関係を持つイエズス会の会員となることを長い間切望して、やっとそれを果たした岐部にとって、ポルトガルは少なくとも第二の祖国であり、ポルトガルの敵である英国は彼にとっても敵になっていたとしても不思議ではありません。

この時代の海外布教が、カトリック教会と国王(世俗)権力によって「教俗一致」の体制で進められた「国家的プロジェクト」であったという事情によって、布教地に送られたヨ-ロッパ人宣教師たちがパトロンである国家に対して抜きがたい帰属意識を持っていた、という指摘があります。

岐部のポルトガルに対する意識は、その帰属意識の変型とも考えられるのではないでしょうか。




・日本での迫害の情報について、遠藤周作は「岐部が日本へ帰国後、他の地方よりは安全な東北地方で布教することを前もって考えていたようである。」と書いています。確かに、岐部は帰国して九州・関西方面に3年間潜伏した後、東北地方へ移動し6年後にそこで捕縛されています。けれども、東北地方に関するこの部分は、別の意味があると私は思っています。

それは、慶長遣欧使節派遣については、東西二司教区制への改組と東日本司教区の司教に任命されることを狙うフランシスコ会神父ルイス・ソテロによって企てられたものだとして、イエズス会は終始批判的であったとされているからです。

使節団がスペイン国王フェリペⅢ世、法皇パウロⅤ世に拝謁しながら何らの成果も得られず帰国せざるを得なかった背景にはあらかじめイエズス会によって使節団に関する疑義と布教の進展を楽観視できない日本の情勢が伝えられていたと考えられているのです。

そういう意味で、イエズス会内部では使節団帰国後の日本の情勢、特に仙台藩・伊達政宗の動向については注意深く見守られていたと考えられ、それがこの比較的正確な記述に表れているように思われるのです。


書簡(2)


・「日本の武士の習いは・・・」

この部分を採り上げて、岐部が武士階級の出身だからとか言われることがあるのですが、私はあまり納得できません。既にみてきたように、岐部の幼少期から彼の家族は武士とはいえ、はっきり言ってしまえば、主流から外れた落剝の身でした。それでも、なおかつ武士の誇りに拘ったでしょうか。

私は、海外で暮らしてみて予想以上に多くの人が、「武士道」という言葉を知っていたりその話題を喜ぶことを知りました。そんなことから、これは単に、日本の事情に多少とも通じているイエズス会総会長に対する岐部の「挨拶代わりの言葉(社交辞令)みたいなもの」ではないかと私は思うのです。


・「日本全体がやがて平和になり、聖なるロ-マ教会に委ねられ・・・」

これは、「いつか日本でも、キリシタン迫害が止み、聖なるカトリック教会の教えが従順に受け容れられ・・・」という意味でしょうか。こういう言葉が出てくるということは、キリシタン迫害の原因がイベリア両国の国家事業の一環として布教が行われていることにある、とは岐部は露とも思っていなかったということではないかと思います。

ただ、現代の我々にとって、大航海時代のキリシタン布教がイベリア両国の国家事業の一環として行われたものであることはいわば常識ですが、あの時代にどれほどの日本人がそのことに気付くことができたでしょうか。

まして、岐部のようにキリシタン教会内部に生きてきた人間にとって、それに気付くことは至難の業であり、また仮に気付いたとしても、それを口に出せば外国人宣教師たちは真っ向から否定したでしょうから、それを口外することは大変に勇気の要ることだっただろうと思うのです。

ただ、トマス・アラキという岐部と同時代にローマで司祭に叙階された日本人は、それをしています。しかし、アラキは日本へ帰国してから4年後に捕縛され棄教しています。


書簡(3)


この手紙から、1627年のシンガポ-ル近海では、オランダ船の出没のよってポルトガル船の航行が脅かされる状況であったことが分ります。

少なからぬ人々にとって、日本のキリシタン教会の魅力はポルトガル船貿易がもたらす利益でしたし、また、数十万人の信者を抱えるようになっていたキリシタン教会を経済的に支えてきたのは、このポルトガル船貿易でした。

ポルトガル船の航行が困難になっていたということは、岐部が戻ろうとした日本のキリシタン教会は、もはや、多くの人にとっての現世的魅力も経済的基盤も失っていた、ということです。

岐部の身になって考えると、胸の詰まる思いのすることですが、ポルトガル・スペイン両国の凋落とオランダ・イギリスの勃興という世界覇権をめぐる歴史の転換を、そこに見ることもできます。


また、1627年~1630年のアユタヤ日本人町の長は山田長政です。そして、岐部がアユタヤを離れたのは、長政が暗殺された1630年の前年でした。岐部はアユタヤに滞在していた期間、日本人町に潜伏していたとのことですから、山田長政と接触することもあったと考えられます。

長政の失脚・暗殺後、アユタヤの日本人町も次第に衰退して行ったようです。アユタヤに限らず、ルソン(フィリピン)、コ-チ(ベトナム)など東南アジアの日本人町は、一時、相当の隆盛を誇ったようですが、これも時代の流れの中に埋没して行ったのです。


書簡(4)


日本への渡航に使おうとした船が虫に食われてしまい修復も満足にできない状態で出航しなければならなかったことは、7年をかけた日本への帰途の苦難と消耗をよく表しているように見えます。




[終わりに]


1.
岐部が、彼自身に重くのしかかったはずのカトリック教会内部の問題や、さらにその背後にある教会とスペイン・ポルトガル両国家との関わりについて、何の考察も指摘も残していないことは、個人が生きている立場や環境や時代を超えて物事を考えるということが如何に難しいかを示していると思います。

また同時に、それを彼の個性として認めることも必要なのだろうと思います。


2.けれども彼が、キリシタン教会という場で幼い時からの夢を刻苦して実現し、その夢を理解し応援してくれたであろう信者たちに尽くすために幾多の困難を乗り越えて帰国し、信仰の正しさを身を以て示すことで自分の生涯を貫いたことも間違いないことであり、価値のあることだと私は思います。

彼は信仰を示すために自分の考えを貫き通した、つまり、自分の考えを貫き通した生涯全体が彼の信仰を表わしていることになります。


3.
平戸オランダ商館長 フランソワ・カロンの公務日記に、岐部に対する拷問について、以下の記事があります。

「このようなすべて(拷問)の苦痛の間、彼は絶えずその信仰について尋問されたが、これに対して彼は、貴下たちには これらのことを了解することも、理解することもできない。従って、貴下たちに説明しても無駄である、としか答えなかった。」


岐部としては,「自分の信仰は全生涯をかけて貫き通すことによってはじめて表わすことのできるものであり、自分はそのために生きてきた。だから、拷問の最中に尋かれて語れるようなものではない。」と言いたかったのだろうと思います。


4. 残酷極まりない拷問による岐部の殺され方は、彼の苦難に満ちた生涯を象徴しているようです。けれども、彼自身は、「日欧文化衝突の時代」を、決して恵まれているとは言えない境遇の下ではあったけれど、逆に周囲の人たちの共感と支持を得ながら精一杯生きたことに満足していたのでは、と私は考えています。



〈おわり〉



[参考文献]

大分県先哲叢書 ペトロ岐部カスイ 資料集  大分県教育委員会
ペトロ岐部カスイ       五野井隆史著 大分県先哲叢書
大航海時代と日本       五野井隆史著 渡辺出版
キリシタンの世紀       高瀬弘一郎著 岩波書店
キリシタン時代の研究     高瀬弘一郎著 岩波書店
銃と十字架          遠藤周作著  新潮社
支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇 大泉光一著  中公新書


































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by GFauree | 2015-04-18 11:35 | ペトロ岐部カスイ | Comments(2)

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                    (写真撮影 三上信一氏)






彼の強靭な人格はすでに出国前に形成されていたのではないかと思い付いて、幼少期、セミナリオ時代を見てきました。

前回は「セミナリオ時代」に関し、以前に解釈の付かなかった「イエズス会入会請願文作成」について,考え付いた私の解釈を書かせて頂きました。

今回は、セミナリオ修了時から出国までの「同宿時代」について考えていきます。今回もまた、岐部についての話にはよく出てくるけれど、それが彼にとってどういう意味があったのかはあまり語られていない事柄について、私なりの解釈をお伝えしたいと思います。



3.同宿時代


岐部は、セミナリオ修了時イエズス会への入会が認められず、やむなくイエズス会の正会員である外国人宣教師の手足となって働く「同宿」として生活していきます。

〈同宿とは〉

「同宿」というのは、本来、仏教寺院で僧侶になるために修業する者を呼んだ言葉ですが、キリシタン教会内でもこの言葉を使いました。イエズス会は将来の修道士・司祭候補として彼らと契約して(契約の内容は定かではありませんが)雇用したのです。


彼らの仕事は、聖器室の係、使い走り、茶の湯の接待、ミサの侍者、埋葬や洗礼その他の教会儀式の手伝いをして神父を助けることなどで、キリシタン教会で働いていた看坊・小者と呼ばれていた他の日本人の使用人に比べると、より神父に近い宗教的な活動を担当していたようです。


同宿はカトリック教会が正式に聖職者として認めた神父と同じように祈り、修行、奉仕の生活を送っていたのですが、聖職者ではありませんから結婚することも認められていました。そういう生活の中で、岐部のように修道士・神父になることを希望する者は、いつの日かは聖職者候補として選ばれることを励みとして、独身を守って働いていたことになります。

〈ヴァリニャ-ノは同宿を評価していた〉

ヨ-ロッパ人宣教師のために、その手足となって従順に働く同宿(伝道士)の存在をキリシタン教会が必要としていた状況を、日本管区を監督・指導する立場にあった巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、1583年に書いた「日本諸事要録」の中で、次のように率直に認めています。


「第一、当初から今日に至るまで日本人修道士の数は不足しており、言語や風習は我等にとって、はなはだ困難、かつ新奇であるから、これらの同宿がいなければ、我等は日本で何事もなし得なかったであろう。今まで説教を行い、教理を説き、実行された司牧の大部分は彼等の手になるものであり、・・・。」


〈同宿は何人ぐらいいたか〉


それでは、日本のキリシタン時代にどのくらいの数の同宿や看坊・小者などの日本人被雇用者がいたのでしょうか、またそれは布教団全体のどのくらいの割合を占めていたのでしょうか。


五野井隆史著「徳川初期キリシタン史研究」(吉川弘文館)p.369に以下の記載があります。

「1609年11月12日付の『日本イエズス会のカ-ザ、人員、収入、経費に関する短い叙述』によると、イエズス会は、1609年に 神父(65)、修道士(75)、同宿(304)、小者(427)の計871名を扶養していた。看坊についての記載はないが、1604年当時160名であった看坊は、1609年には恐らく若干の増員を見ていたであろう。」

これを基に、1609年のキリシタン教会の布教団構成を推定してみると以下のようになります。

神父(65)、修道士(75)、同宿(304)、看坊(160)、小者(427) 計1,031名

一般的に、キリシタン時代のカトリック教会の活動は、渡来したヨ-ロッパ人宣教師が行ったものというイメ-ジがありますが、実際は、神父はイエズス会の布教団全体の約6%を占めていたに過ぎないのです。

神父・修道士を合わせたイエズス会正会員でも約14%に過ぎず、キリシタン教会の実態は、ヴァリニャ-ノが述べているように、残り86%を占める日本人被雇用者によって運営されていたと言っても過言ではないでしょう。


〈頼りになって便利だった同宿〉


また、同宿は神父の約5倍の人数いただけではありません。日本の言語や習慣を習得することの難しさ考えると、教会の活動において最も重要な要素のひとつと考えられる一般信者との意思疎通は外国人宣教師にはほとんど不可能であったでしょうから、宗教的活動の大部分は同宿によって進められていたと言うことも出来ます。


その上、同宿は同じ日本人被雇用者である看坊・小者とともに正会員でないために、教会を取り巻く状況によっては人員削減の対象になりました。同宿は充分利用価値のある労働力であるとともに、いざというときには、首を切れる便利な存在と考えられたのでしょう。ここでも、何だか現代企業の人の使い方に似ています。


〈なぜ同宿は多くて、修道士・神父は少なかったか〉


そういう事情から、同宿(伝道士)には高い評価が与えられていた一方、同宿を終えてイエズス会に入会した修道士に対しては厳しい評価が下されていました。修道士は、傲慢になって充分に働かないと見られていたのです。日本人は司祭に向かないという評価もヨーロッパ人宣教師によってなされていました。また、そのような評価を根拠にして、日本人の入会が意図的に抑えらたのです。


このような状況の下、岐部は同宿時代を送ります。
書いてきましたように、同宿は教義や祈りや教典・典礼の内容も理解し、教理指導も説教も行って、日本語の不自由な神父を補佐するという重要な役割を果たしていたはずですから、彼も、忙しい中にも充実した毎日を送っていたと考えたいところですが、そんなに事は単純でないのが世の常です。


〈上司との関係〉


まず、上司である外国人宣教師との関係が問題です。

同宿としては、希望通りに入会や昇格を果たすためには、おそらく上司である宣教師に良く評価してもらうことが必須だったでしょうから随分気も使って仕えたことでしょう。

宣教師にすれば、同宿は日本語の不自由な自分に代わって教義指導から説教までこなしてくれるだけでなく、一般信者や教会内の看坊・小者といった日本人使用人との意思疎通も助けてくれる有難い存在でしたが、なまじ専門教育も受けて相応に知識もあるだけに扱い難い面もあり、気の許せない相手でもあったでしょう。

そんな中で、厄介なことやトラブルの責任や業務拡大のノルマはしっかり部下に押しつけ、何か成功があれば自分ひとりの手柄のように本部へ報告するような上司はいなかったのでしょうか。


〈通辞ロドリゲスの正直な見解〉


遠藤周作の『銃と十字架』に引用されている通辞(通訳)ジョアン・ロドリゲスの日本人に対する見方を読むと、よくここまで意地悪な見方ができるものだと感心するとともに、もしこんな上司に仕えなければならないとしたら、さぞかしたいへんだっただろうと思わずにはいられません。

「これらの(神学校を卒えた)日本人の特徴は偽善です。彼等は天性、外側は謙虚で冷静を装えますから、わが会士はそれに幻惑され、この連中の信仰心がヨ-ロッパ人ほど強くなく、修徳も不完全なことを知らず、また見抜けないのです」

通辞ロドリゲスと言えば、『日本大文典』・『日本小文典』を著述するほど日本語に堪能で、豊臣秀吉の外交顧問も務めるほど日本の事情に通じたイエズス会士であったはずです。その人物がこんな言葉を残しているくらいですかから、日本人の神学校卒業生に好意的でない外国人宣教師は少なくなかったどころか支配的であったとさえ言えるのではないかと思います。

もっとも、ロドリゲスは幼い時にポルトガル人商人か宣教師の使用人として来日し、後にイエズス会に入り門閥などのバックもなく手八丁口八丁でのし上がったような人ですから、若い時に会内外の日本人に相当に虐められその恨みを秘かに持っていたのかも知れません。


〈岐部にとっては、どうだったか〉


1606年から1609年までの3年間、秋月のレシデンシアに配置された岐部は、上司としてポルトガル人神父 ガブリエル・デ・マトスに仕え、1609年12月から1615年3~4月までの7年間余りは、イタリア人神父 フランシスコ・エウジェニオに仕えたと考えられています。

この10年の間に、岐部を修道士・神父に昇格させるべく正規の会員とする動きはもちろんありませんでした。だからこそ、後に出国してから5年後にロ-マで会員となる必要があったわけですが。

私は、彼が仕えた二人の上司は要するに通辞ロドリゲスと同じようなヨ-ロッパ人であった、ということではないかと思っています。


〈その他の超えるべき障害〉


先に、キリシタン教会の布教団構成に関して見た報告と同じものと思われますが、
1609年にマカオで作成された報告があります。

その報告には、「秋月(福岡県西部・朝倉市の一部)のレシデンシア(修道院宿舎)には、神父1名、修道士1名、学生つまり同宿5名、小者12名が常駐している」とあります。

この同宿5名のうち1名が岐部であったと考えられますが、1名の上司に対し5名の同宿が仕えていたのですから、同宿間の競争もあったのではないかと思われます。

同宿の中には、既に妻帯している者もいたでしょうから、5人全員で競争していたわけではないかも知れませんが、入会・昇格のために上司エウジェニオ神父の推薦を得ることは相当困難なことだっただろうと想像します。


〈ふたたび、なぜ岐部は目標をあきらめなかったか〉


もし、入会・聖職者という長年の目標をあきらめるのであれば、まず同宿を辞めることが考えられます。また、同宿は続けるとしても、妻帯をし他の目標なり生き甲斐を支えに生きていく道も有り得ます。

しかし、岐部はそういう選択はせず、ひたすら子供のときから抱いていた夢に向かって歩き続けていたようです。

何故でしょうか。

信仰のある方なら、「岐部の信仰がそれほど強いものだったから」とお答えになるかも知れません。しかし、信仰の薄い私はそれでは納得できませんでした。

もっと何か身近に実感できるものがあったのではないかと思ったのです。けれど、それが何であるのか見当が付かないまま、長い時間が過ぎました。

そして、今回この記事を書くために考え直しているうちに、これではないかと思い当たることが出て 来ました。


〈殉教・奇跡・聖遺物〉


それは、岐部に関する本に書かれていて、私も読んだことはあるけれども、苦手な分野のことなので今まで避けてきたことです。

殉教や奇跡や聖遺物に関係することなのです。

私には「信仰というものは、粛然と心の中に抱くべきものだ」という観念が子供のときからあります。目に見える形で表わされる殉教や奇跡や聖遺物はその観念とはどうも、合いません。その言葉を聞いただけで抵抗を感じてしまうのです。

それで、長い間触れないで来たのですが、今回改めて見直してみたというわけです。


〈聖遺物に関するペトロ・カスイの証言〉


岐部の同宿時代の活動を示唆する資料があります。
それは、1620年に彼がロ-マについてから作成した『聖遺物に関するペトロ・カスイの証言』と題する文書です。

その文書には、二つの証言が含まれています。



証言Ⅰ

ひとつは、「至福なるマティアスの指について」の証言です。


マティアスとは、1614年3月筑前(福岡県西部)・秋月で殉教した同地域のキリシタンの中心人物 七郎兵衛のことであることが分っています。

岐部はその遺体を自分の手で墓から取り出し、長崎の司祭の下へ届けましたが、死後20日が経過していたにも拘らず、遺体から新鮮な血が流れていたことと、彼が遺体から指を切り離しロ-マに持参して、ポルトガル管区補佐ヌ-ノ・マスカレニャス神父に渡したことを、証言しているのです。



証言Ⅱ

もうひとつは、「(不思議な小麦の)穂について」の証言です。

1614年12月、肥前(長崎県島原市)・口之津で殉教した24人のうちミゲルという男の蒔いた(麦の)穂を彼の死後妻が耕したところ、麦が一晩に約30センチ伸びたので、人々が集まって来て高い値段で穂が売れた。その麦の穂は摘み取られた後も、何度もすぐに穂が生じてくるので、皆が驚いた。

この奇跡は、日本全体で評判となり、たくさんの人がその穂を大切に保管していた、というものです。


この証言は次のようなことを意味すると言われています。


(1)証言Ⅰが意味すること

・岐部がセミナリオ修了後に、秋月(福岡県西部・朝倉市の一部)のレシデンシア(修道院宿舎)に派遣され、秋月と甘木のキリシタン教会に関わって同地方の宣教活動に従事していたこと。

・「マティアスの指」を出国する際に持ち出したということは、1614年11月に遺体から指を切り離した時点で、既にローマに赴こうという遠大な計画を立てていたのではないかということ。


(2)証言Ⅱが意味すること

1614年11月、宣教師や高山右近と多数の同宿・小者らが、マカオ・マニラ・シャムに向けて出航ししましたが、岐部はこのときは出国せず日本に残っていたこと。


けれども、私はこれら以外に、何か見えてくるものはないかと考えているうちに思い当たることがありました。
それは、岐部がこの証言で何を伝えたかったかということです。


〈岐部はこの証言によって何が言いたかったのか〉



「マティアスの指」のマティアス七郎兵衛は、彼が担当し世話をした信者だったのではないかと私は思います。

だとすれば、彼が言いたかったのは、「こういう敬虔な信者と共に、また彼らの信仰のために自分たちは働いてきた」、また「これら信者と自分たちの信頼と努力が培ってきたキリシタン教会であるからこそ、これだけ殉教や奇跡に恵まれているのだ」ということではないでしょうか。

必ずしも彼に好意的でない上司の指図と厳しい同僚との競争の中にあっても、自分の夢に向かってまた自分の果たすべき使命に忠実に陰日向なく働き続ける岐部に信者たちは気付いていたでしょう。

前回も書きましたが、カトリック信者は神父を特別な人間だと考えているのが普通です。ですから、それだけまた厳しくも見ているのです。キリシタン時代は同宿が神父の働きをしていたのですから、同宿の言動も信者はきっと注意深く見ていたことでしょう。


「マティアスの指」の七郎兵衛は、その地方の有力なキリシタンだったと言われています。“有力”という言葉が何を示すのか定かではありませんが、私はそれは「武士ではないけれど社会的影響力を持った」という意味ではないかと思います。ということは、岐部は同宿としての任務を通じて、担当地域のキリシタンの重要人物から認められ神父を目指す生き方に共感を得ていたかも知れません。


こういう信者たちから得た共感や支持が厳しい境遇に在った岐部をどれだけ力付けたか分りません。きっと、さらに真剣に信者のために尽力しより大きな充実感と喜びを得ようとしたのではないかと私は考えます。

そしてまた、将来、司祭職を得た暁には、この信者たちが自分に示してくれた共感・支持に酬いるために、この信仰心篤い信者たちのことを、必ず本部に伝えようと、岐部は心に誓ったのだろうと思います。


こういう背景を前提とすれば、「なぜ出国する際に『マティアスの指』を持ち出したのか」、「なぜローマで『聖遺物に関する証言』を書いたのか」について説明がつきます。


聖遺物「マティアスの指」の奇跡・「不思議な麦の穂」の奇跡・マティアスとミゲルという二人の殉教者は、彼にとって、彼が同宿時代に日本で担当しまた彼を支持してくれた信者たちとその信者たちの素晴らしさを象徴するものだったのです。


岐部はロ-マに到着してから約半年後、司祭職を授けられ、それから1年4か月後に帰国を決意したと言われています。その決意の理由として、イエズス会の創始者イグナティウス・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式に参加したことがよく挙げられます。


けれども、もし同宿時代に、信者のために働き、信者から感謝・共感・支持を得て充実感を味わい苦難を乗り越えていくという経験をしていなければ、帰国を決意することはあり得なかったし、それから8年以上をかけて帰国するということも有り得なかったのだろうと私は思います。



次回は、最終回として岐部が残した手紙の内容と、岐部の生涯が語るものについて、考えるところを書かせて頂こうと思っています。


(つづく)


〈参考文献〉

ペトロ岐部カスイ 五野井隆史著 大分県先哲叢書
大航海時代と日本 五野井隆史著 渡辺出版
徳川初期キリシタン史研究 補訂版 五野井隆史著 吉川弘文館
銃と十字架    遠藤周作著  新潮社
日本巡察記    ヴァリニャ-ノ著 松田毅一他訳 東洋文庫


















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by GFauree | 2015-04-10 13:41 | ペトロ岐部カスイ | Comments(0)

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                    (写真撮影 三上信一氏)






今回は、
「ペトロ岐部カスイ」が13歳のときから6年間在籍したセミナリオとはどんな所であったか、そしてそこで彼がどんな困難に遭遇し、それをどのように克服していったかを考えてみたいと思います。


2.セミナリオ時代


セミナリオとは、カトリック教会の神学校(聖職者養成機関)です。1600年、岐部は長崎のイエズス会のセミナリオに入学し、翌年セミナリオが有馬(現在の長崎県南島原市)へ移転したため残りの5年間を有馬で過ごします。


(1)入学資格


1580年、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが定めた「セミナリオ規則」には入学資格について次のように述べられています。

・座敷において殿に目通りすることが出来る貴人(武士)や地位ある人の子弟であること。

・教会に長く仕える意志を持って、両親がセミナリオに入学させるか、あるいは教会に捧げようとする者であること。



(2)セミナリオの生活


セミナリオの生活は、朝4時半の起床から夜8時以降の就寝まで、1日10時間程度の勉強と祈りの毎日です。学習の中心はラテン語と日本語であり、特にラテン語教育が重視されましたが、第二外国語としてポルトガル語、上級生になると基礎宗教学や倫理学が加わったという話もあります。


生徒たちは、日本の僧侶と同じように剃髪し、制服である青い着物を、またその上に青か黒のマントを着用し、外出の際は列をつくり二人ずつ並んで歩くことが決められていたように、規律正しい生活を送っていました。


と、こう書いてくると、規律正しい祈りと勉学の毎日を送る育ちの良い利発そうな坊主頭の少年たちの集団が眼に浮かびます。けれども、それはあくまでこの学校を運営する組織が希望する条件であったということも考えてみる必要があると思います。



(3)生徒の構成


まず、入学資格についてですが、「有力な武士や地位のある人の子弟であること」という条件は、将来のキリシタン教会を担う人材を安定的に確保・養成するために、また生徒を通して教会が日本社会の有力者層と強く結びつくために必要だと考えられたものでしょう。


しかし、実際には、安土(現在の滋賀県近江八幡市)の神学校の場合に生徒がなかなか集まらず、高山右近などが半強制的に重臣の子弟を応募させたという話があります。


親として息子に「教会に長く仕える意志を持たせ」たり、息子を「教会に捧げ」たりするということは、「生涯独身を貫く」ことを選択させることになる以上、容易に決断できることではなかったでしょう。まして、1587年にバテレン追放令が出されて、キリスト教布教の基盤の脆弱さが露わになってからは、なおさら息子たちを神学校に入れることをためらう親が増えたことだろうと思います。


このようなことから、生徒として「有力な武士の子弟」を集めることは、それほど容易なことではなかったと思われます。


一方、「武士ではないけれど地位ある人」としては、長崎の有力者が該当します。実際に、長崎頭人(町年寄)総代 後藤宗印の次男ミゲル・後藤や、以前にこのブログで採りあげた長崎代官 村山等安の三男フランシスコ・村山もセミナリオで学び後に司祭になっています。


南蛮貿易を教会が左右していたことを考えると、これら長崎の有力商人にとって教会との結び付きを強めるためにも子弟を聖職者養成機関に送ることは必要なことであったと考えられます。


逆に、学校経営というのは資金を必要とする事業です。イエズス会が常に財政的に窮迫していたことを考えるとこれら富裕な商人の子弟は学校経営にとって必要な存在だったとも考えられます。


次に、直接セミナリオの生徒に関して言及したものではありませんが、布教長であったフランシスコ・カブラルは日本人信者について「彼等が共同の、そして従順な生活ができるとするならば、それは他に何等の生活手段がない場合のみである」と書いています。

また、天正少年使節の首席であった伊東マンショについて、「孤児同然に着の身着のままでいたところを教会に拾われセミナリオに送られた少年である」ことをペドロ・ラモン神父が総長にあてた書状の中で報告しています。



これらのことから、セミナリオの生徒の一部には、戦争のために家や土地を失い生活に窮した侍の子弟や司祭になることで出世を果たそうとした者もいたと考えられています。岐部の場合、このどちらにも該当する可能性があります。


以上、イエズス会としては極力「有力な武士や地位ある人の子弟」を集めたかったところでしょうが、実際には「様々な階層の多様な事情を持った武士や商人の子弟」が集まって来ていたということだろうと思います。




(4)ラテン語・ポルトガル語



ロ-マ・カトリック教会の中で、ラテン語は全ての典書・典礼・聖歌に使われる実質的な公用語でした。ですから、日本でもミサの中の祈りや聖歌は全てラテン語で行われていました。それは、今から50年前の1962~65年の第2バチカン公会議まで続いていたのです。

従って、今もそうかも知れませんが、カトリックの聖職者である司祭になるためには、ラテン語の習得は必須のことだったのです。

日本語で書かれた教科書も辞書もなく、文字も語彙も文法も全く違う言語を学習することは、どれだけ難しかっただろうかと想像します。現在でも日本語で書かれたラテン語の教科書は多くないのですが、学習の難易度について言えば、今の方が当時と比べものにならないほど楽でしょう。

このセミナリオはいわばラテン語の語学校のようなものだったでしょうから、仮にラテン語の授業に随いていけなければ辞める他はなかったでしょう。そして、そのために辞めて行く生徒は少なくなかったのではないかと想像します。

そういう中で、岐部は最後まで残り、後年に彼が書いた書簡をみるとラテン語は相当の水準まで習得できていたのではないかと思われます。

また、ポルトガル語は外国人宣教師との意思疎通のために学ばされたものと思われますが、後年ヨーロッパでの生活で不自由していなかった様子からみるとこれも充分習得できていたと考えられます。

もっとも、ポルトガル語・スペイン語・イタリア語はラテン語の子供のようなものですから、ラテン語に習熟していたのであればポルトガル語習得は苦にならなかったかも知れません。



(5)神父(司祭)になりたいという願望はどのくらい強かったか


次に、彼がどのくらい神父(司祭)になりたかったのか、ということを考えてみたいと思います。

カトリックの司祭は、祭司の権限を持ち、神の恵みを与え罪を許す権威を授けられている特別な人間です。

信者の子供にとって、親よりも学校の先生よりも知識も教養も権威もある偉い人と思われるのが普通です。

従って、カトリックの家庭で育った人の半分以上は一度は神父になることに憧れたのではないかと思います。

岐部の場合は、彼の誕生以来、厳しさを増していく周囲の環境にも耐える敬虔な信者である親の教育を受け、困難に直面するほどそれを克服することで、幼い時からの憧れをより強いものにしていったという感じがします。

ですから、彼の「神父になりたい」という願望は既にセミナリオ時代から「鉄よりも強い」と言えるぐらいのものだったのではないかと思います。



(6)セミナリオにおける岐部の位置付け


書いてきましたように、セミナリオ入学の際の岐部の父親は、主君の敗戦により住み慣れた土地を離れた「牢人」の身であり入学者資格にある「有力な武士」には遠く及ばず、また、長崎の要人たちのように教会を助成する財力も期待できない状況でした。

評価できるものがあるとすれば、15年前に140名の改宗に貢献した実績だけであり、その実績を学校側がどれだけ岐部に対する評価に反映させたかは分りません。


なぜ彼に対する学校の評価を気にするかと言うと、その評価がその後の彼の進路や処遇に影響しただろうと思うからです。評価が高ければ、セミナリオ終了後、正式会員となり更に上級の神学校コレジオに進み修道士や神父になる道が開けるかも知れません。逆に充分評価されなければ、憧れの神父になる道は閉ざされ、正式会員になれずイエズス会に雇用される伝道士(同宿)として働くことになるのです。

彼の親が有力者であるか否かは彼に対する評価のうちのいわば持ち点のようなもので、そこに学業成績の評価が加わる形で評価がなされていたのではないかと思われる節があります。


もうお気付きかも知れませんが、私は彼がラテン語も充分習得し学業の成績が良かったのに、セミナリオ終了後、上級の神学校へ行ったり正規の会員にさせてもらえなかったのは、彼の親の社会的地位や社会的影響力などの持ち点が低かったからではないかと考えているのです。

そして、組織としてはそんな冷徹な評価がなされる一方で、例えば教師たちの中には彼の不撓不屈の努力を認め見守り励まし続けた人がいたのだろうと思えるのです。それが、あとで出てくる請願文の話です。


(7)生徒たち


学課の内容にしろ生活の規律にしろ厳しい学校だっただろうと思います。

特に後半3年間は、今の日本で言えば高校に当たります。前半は皆に遅れないようにと夢中で過ごしたかも知れませんが、後半になれば自分の能力の水準も限界もだいたい分ってきます。

そこで考えるのは、自分に下されるであろう評価と想定されるセミナリオ終了後の進路のことでしょう。
また改めて気付くのは、自分に対する評価は、学課の成績だけではなく、親の社会的地位や影響力など本人の努力だけではどうしようもないものも考慮されて下されるということではないでしょうか。

そういうことを考え、意気消沈して落伍する者もいたかも知れません。また、自分の能力の限界を悟って、「入学したときの神父になるという夢にはこだわらず、伝道士としてそれなりに生きて行こう」というように気持ちを切り換えた者も少なくなかっただろうと思います。

そんな生徒たちの中で、なぜ岐部は自己の目標に向かってひたすら学業に励むことができたのでしょうか。

それは、セミナリオの生活がいくら厳しくても、彼が入学する前に経験してきた生活に比べればはるかに楽だったからではないかと私は考えます。

そして、確信に満ちて冷静に努力し続ける岐部を見守る教師たちの目が確かにあったと思われます。




(8)修養会


セミナリオには、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノノの指示で修養会というグル-プが作られました。このグル-プに選抜された生徒は、自分たちが節約した食事を近辺の町の貧者に届けたり、らい病患者の世話をするなどの社会的奉仕活動を通して謙遜と愛の修業をしていたということです。


これは、遠藤周作が岐部の評伝「銃と十字架」に書いていることです。以前これを読んだときは私は何だか唐突な感じを受けただけで、筆者が何を言いたいのかが分りませんでした。


けれど、今回改めてその部分を読んで気が付きました。
それは、もし岐部がセミナリオ時代に、この修養会活動というものを経験していたとすれば、その経験は後に布教活動を実践する段になって大いにに役立ったのではないかということです。


キリスト教布教活動と社会的奉仕活動とが歴史的にも深い関係をもってきたこと
をご存知の方は少なくないと思いますが、私は7年前に当地に来てからしばしばそれを感じさせられています。


修養会活動の経験によって、岐部のセミナリオ修了後の、同宿(伝道士)としての活動がより広範に、強力に、また彼に大きな喜びを与えるものとなった可能性があると、私は思うのです。




(9)ポルトガル(関係事項担当)顧問マスカレニャス神父作成の請願文


岐部は、1620年11月20日イエズス会に入会し修練院に入る際に「自身の出自と召命に関する小報告」というものを書いています。その中に、イエズス会への入会について次のように記しています。


「入会(を希望すること)の動機は、私自身の意思である。すでに14年前に自発的に望んだことであり、(それを表明するために)ポルトガル担当顧問マスカレヌス神父作成の請願文様式を使用した。」



この請願文の件も、以前に読んだ五野井隆史著「ペトロ岐部カスイ」に書かれてあったのですが、私は、ずっと意味が分りませんでした。


「小報告」に書いてある14年前とは、セミナリオを修了して同宿(伝道士)として働き始めたときですが、
「なぜ、何のためにそんな請願文というものを書いたのか」、


請願文には、決められた様式があったようですが、

「なぜ、請願文の様式が決められていたのか」、


イエズス会入会の際の小報告に関しては、
「なぜ、イエズス会に正式に入会できる段になって、わざわざ14年前に作成した誓願文の様式について書いたのか」、また「なぜ、請願文様式を作成した人の名前を書いたのか」


などと疑問が浮かぶばかりで、どう解釈したらいいのかさっぱり見当が付かなかったのですが、今回やっとひとつの解釈が浮かびました。


それは、こういうことです。


セミナリオを修了したとき、将来はイエズス会に雇用されて働く同宿(伝道士)ではなく、修道士・神父となれるようにイエズス会の正規の会員となることを強く希望していましたが、その望みは叶えられませんでした。


学力的にも人格的にも周囲から相当に高く評価され彼自身も多少の自信があったかも知れません。しかし、彼の入会は認められず、今後も教会のために働くとすれば同宿として雇用される道しかないことになりました。
セミナリオに入学したとき、すでに「牢人」であった父親と家族の境遇がその後どうなったかは確かではありませんが、いずれにしても安易に親の元に戻ることも出来なかったでしょう。


全ては、会が彼に下した評価によることです。なぜそのような評価が下されたのかは分りませんが、私は既に「彼の位置付け」のところに書いたように、彼の学力や人格に対する評価以前に、彼の親の社会的地位や社会的影響力によって彼に与えられていた「持ち点」が低かったためなのだろうと思っています。それ以外に、運営上の、または政策的な理由もあったかも知れません。


こう書くと、何か現代日本企業の人事評価の話をしているようでおかしな気がするのですが、実際、この時代のイエズス会の活動を見ていると現代企業と変わらないと感じさせることがよくあります。そういう意味で、私は自分の企業人としての苦い経験を活かせていると感じるときがあるのですが、それは余談です。


さて、理不尽な評価によって岐部は深い失望を味わい、今後の進路にも迷う苦境に陥ります。その時、有難いことに、彼の苦悩を理解し何とか彼を苦境から救い出したいと考える人がいたのです。それは、ふだんから彼の不撓不屈の努力を見守り励まし続けてきた教師たちの何人かです。


彼らとても、一旦下した決定を容易に覆すことはないこの組織の厳しさを知っています。なにしろ、彼らの組織は「服従」を主要な規範とする修道会の中でもその厳格さは群を抜いているとの定評がある程です。組織の決定に反抗したと見なされれば、今度は自分の立場が脅かされます。それでも、彼らは何とかしたいと知識・経験の豊富な組織内の人物に相談します。


すると、出てきた答えは次のようなものです。


岐部と同じように、学力も人格も優秀と認められ、セミナリオ修了後には当然入会を許可されるものと周囲から思われていた者が何らかの理由で入会を認められなかった例が過去にも少なからずあった。


1592年2月、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノによって長崎で開催された第1回日本イエズス会管区総会議において、処遇に不満を抱き教会から離れていく日本人の同宿(正規会員でない伝道士)が多いことが問題となり、同時に岐部のように現状は入会が認められていないものの引き続き教会に留まり布教活動に従事させるべきと考えられる者をどう扱うかについても議題に挙げられた。


結局、この件についてはその場で結論の出なかった諸問題と共に、日本管区を代表してヒル・デ・ラ・マタ神父が同年ローマに赴いて本部の指示を仰ぎ、その結果は1598年日本へ持ち帰られた。


持ち帰られた、本部の指示の内容は以下の通り。

セミナリオの修了予定者で、学力・人格とも優秀と認められるが修了時までに会から入会を承認されない者のうち、本人が真に入会を希望しているとセミナリオ責任者が認めるものについては、所定の様式による本人自筆の入会請願書をセミナリオ責任者に対し提出させるものとする。

入会請願書は、日本管区担当アントニオ・マスカレニャス神父作成の様式によるものとする。

入会請願書の性質はあくまで異例のものであり、対象者についてはセミナリオ責任者の責任において厳選し,また提出させた書面の内容を公表することはなく厳重に保管すること。   

岐部のケースもこの過去の本部指示に従って対応してはどうか。』


これを聞いたセミナリオの教師たちは、正直なところ落胆したことでしょう。「入会請願書」と言っても、内容は入会希望者に確かに入会を希望していることを表明(宣言)させるだけのことで、会の側はなにも約束しておらずただ入会希望者自身に宣言させて精神的義務を負わせるためだけのものに思われたのです。

会員として受け入れないとの決定はもはや覆すことができないのは確かでした。しかし、そこでひとつの考えが浮かびます。それは、「将来再び彼の入会が検討されることがないとは言えないのだから、その時のために彼がセミナリオ終了時点で確かに入会を希望していたという跡を残すことは意味があるかも知れない。」ということでした。さらに、「入会請願書」という形を残させることは、入会を誰よりも強く希望してきた彼の努力を改めて認め、励ますことにもなり得ると考えられたのです。


そういう考えのもとに、「入会請願文」提出を岐部に勧めてみると、意外なことに、彼は素直にその勧めに従いました。すでに、会に雇用され伝道士として働くことに気持ちを切り換え始めていたのかも知れません。また、セミナリオに入る前の食うや食わずの生活を思い返して、憧れの司祭職に向かってどんな苦労も乗り超える覚悟を新たにしていたのかも知れません。


教師たちが、自分のことを評価しそこまで気にかけてくれていたことに感じ入り、感謝の念を強く持ったとも考えられます。さらに、自分と同様な境遇にある者に対して種々の考慮を重ねてくれた担当がローマの本部にもいたことを知って心強く感じ、感激し、アントニオ・マスカレニャスというその担当者の名前をしっかり記憶に刻み込んだのではないでしょうか。


私のように信仰薄き者でも、それなりの苦労の後に自分の心に響くような「めぐりあわせ」を感じた時には、神の賜物という言葉が頭に浮かぶことがあります。岐部がロ-マに到着し対応してくれる担当者の名前がヌーノ・マスカレニャスであり、それがアントニオ・マスカレニャスの弟だと知った時の感激はどれほどのものだったでしょうか。


その感激が、ついにロ-マで司祭職を得てイエズス会に入会した際に書いた「小報告」の中に、「(すでに、十四年前に)マスカレニャス神父作成の請願文を使った。」と記させたのだろうと私は考えます。


私がなぜこの「請願文」のことにこだわるかというと、「請願文」を書いたセミナリオ修了時、岐部は18~19歳です。そんな「請願文」を残すというような知識も知恵もまだ持っていなかっただろうと思うのです。ということは、誰かが彼にその対応を教え勧めたのでしょう。


それは、彼の周囲にいて、彼よりは会の内情を知る立場にあって彼に忠告を与え得る人ですから、おそらくは彼を指導してきた教師のうち誰かでしょう。

私が何を言いたいかと言うと、「請願文を残した」という彼の行動は、セミナリオ時代の彼が、周囲の人たちに不撓不屈の努力によって共感や支援を得ていた証しではないかということです。


そして、その「周囲の共感や支援」こそ彼がセミナリオ時代の苦難を克服する原動力だったのではないかと思うのです。この「周囲の共感や支援」は、また次の同宿時代にも彼が苦難を乗り超えるための最大の力となったのでは、と私は考えています。


以上、岐部のセミナリオ時代について書いてきた事のうち特に、セミナリオでの岐部の評価のされ方、入会が否定された理由、「自身の出自と召命に関する小報告」に書かれた内容などについては、下記の参考文献に書かれてある事柄に、私の推測をかなり加えた解釈を書きましたことをご了解頂きたいと思います。


次回は、彼の人格形成の上で、私が一番重要だと思いかつ興味深い「同宿時代」です。この時代の岐部がどのような困難を経験しそれを乗り超えようとしたかについて考えることはまた、日本のキリシタン時代の実情に少しでも近付くことになるのではと、期待もしています。


〈つづく〉



[参考文献]

ペトロ岐部カスイ   五野井隆史著     大分県先哲叢書
大航海時代と日本   五野井隆史著        渡辺出版
銃と十字架       遠藤周作著         新潮社
日本巡察記    ヴァリニャ-ノ著 松田毅一他訳 東洋文庫




















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by GFauree | 2015-04-03 10:43 | ペトロ岐部カスイ | Comments(1)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。