【大航海時代のおと】

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「天正遣欧使節」千々石ミゲルは、なぜ離脱したのか [その1]

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(撮影 迎田恒成氏)               





「天正遣欧使節」は、禁教・迫害・殉教といった暗く重いイメ-ジのキリシタン関係の出来事の中で、珍しく明るい印象を与えてきた話題ではないかと思います。


私自身はというと、少年たちが自力でヨ-ロッパに行って国王やロ-マ法王に会ったりできるわけがないし、その時代の九州の大名たちにそれを手配する能力があったとも思えず、そもそもその旅自体がそれほど意義のあることだとは思えないまま、それ以上「天正遣欧使節」について考えることはありませんでした。


そんな私ですが、その後、以下に書くような「使節派遣」の真相に関わる事柄を知るに及んで、やっとそれが現実に起きた出来事であると感じられるようになってきたように思います。



〈「使節派遣」の真相に関わる事柄〉



1.ひとつは、この「使節派遣」が飽くまでイエズス会の東インド巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノによって企画されたものだったということ。

また、ヴァリニャ-ノの狙いは、日本でのイエズス会の布教の成功をヨーロッパ・キリスト教世界に誇示し、日本の教会への支援を要請し、併せて将来日本のキリシタン教会の指導者となるべき日本人自身にヨ-ロッパ・キリスト教世界を見聞させその素晴らしさを心底から理解させ、またそれを日本人に伝えさせること、であったと考えられること。


2、第二に、同じイエズス会の司祭ペドゥロ・ラモンが、
次の内容を総会長宛てに内部告発的に報告していること。

・「大友宗麟の名代として派遣されたとされる主席使節 伊東マンショは宗麟の甥でも何でもなく、遠い親戚に過ぎないこと。
・宗麟が『何のために、あの子供たちをポルトガルへ遣るのか』と自分に尋ねたこと。
・他の少年たちも、身分の低い貴族、貧しい殿の子息たちであること。


3.第三に、使節がヨ-ロッパに携行した日本文の書状(ローマ・イエズス会文書館や京都大学に現存する)は、長崎でヴァリニャ-ノが日本人に書かせたものであって、大友・大村・有馬三侯のものとは言えないものであること。







さて、このところ有馬晴信に関わってきたためか、4人の使節のなかでは、千々石ミゲルに親近感を感ずるようになっています。

千々石ミゲルは、有馬晴信(鎮貴)の従兄弟(いとこ)であり、大村純忠の甥(おい)にあたります。
(晴信の父有馬義貞と大村純忠、それにミゲルの父千々石直員(なおかず)とは兄弟ですが、純忠、直員は、大村家、千々石家の養子となったため、それぞれの苗字を名乗っているのです。)


伊東マンショが宗麟の「妹の娘の夫の妹の子」という遠縁に過ぎなかったのに対し、千々石ミゲルは有馬晴信・大村純忠という「キリシタン大名」の近親者であったのですから、上に述べたラモンの内部告発も必ずしも正確ではなかったということです。


四人の使節の中で、原マルチノと中浦ジュリアンが「副使」の位置付けであったのに対し、千々石ミゲルは伊東マンショと並んで「正使」の地位を与えられていました


ところが、その千々石ミゲルだけが帰国の数年後、イエズス会を離脱しているのです。
離脱の理由は明らかにされていません。イエズス会の内部の個々の会員に関する情報は公開されていないので、彼に関してどのような評価や報告が組織内でなされていたかも不明だそうです。


繊細だったとか病弱だったからという説はありますが、それは決め手にはならないような気がしました。そうするうちに、使節一行が帰国したときに刊行されている書物の中に、彼の離脱に関係あるのではと思われるものがあることに気が付きました。


別に証拠とかがあるという話ではないのですが、その書物の内容は彼の離脱のきっかけに充分成り得たものだと私には思えます。


まずは、四人の使節とアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの帰国後の足跡を辿ったうえで、その書物については、次回、書かせて頂きます。



〈「少年使節」帰国後の足跡〉


1590年 7月 
ヴァリニャ-ノら使節一行、長崎へ帰着。
         (ペル-からマカオに来たスペイン人商人フアン・デ・ソリスも、
          この時、使節一行とともに、長崎に到着しています。)

1591年 3月 ヴァリニャ-ノら使節一行、京都・聚楽第で関白秀吉に謁見。 
      7月 天草・イエズス会修練院において、四名揃ってイエズス会員に採用され、修道士となる。
         (伊東マンショ・千々石ミゲルの母は激しくこれに反対したとされている。)

1592年10月 ヴァリニャ-ノ長崎を出港、以降マカオに駐留し中国の伝道に専念。
         語学・哲学・神学を修めるコレジオをマカオに新たに設置。

1593年 7月 四名とも、天草にて2カ年の修練期を終える。イエズス会修道士として誓願をたてる。

1595年 3月 ヴァリニャ-ノ、インド・ゴアに戻る。

1598年 8月 ヴァリニャ-ノ、日本巡察師を命ぜられ、長崎へ到着。

1601年    司祭として養成されるべく、17名の修道士がマカオに派遣される。
         (伊東マンショと中浦ジュリアンは含まれ、千々石ミゲルと原マルチノは含まれず。)

1603年    ヴァリニャ-ノ、離日。

1604年    伊東マンショ・中浦ジュリアン、長崎に戻る。

1605年末   スペイン人ドミニコ会司祭2名が、千々石清左衛門(ミゲル)に逢う。
         ミゲルは、還俗し大村喜前侯に召し抱えられ、清左衛門と称し妻を娶っていた。
         
虚弱体質であった彼は殆ど手足が麻痺していたという。

1606年    ヴァリニャ-ノ、マカオにて病死。(六十六歳)
   
         大村喜前、領内からバテレンを追放し、自らは法華宗に改宗。千々石清左衛門は棄教。

1608年    伊東マンショ・原マルチノ・中浦ジュリアン、司祭に叙階さる。

1612年    伊東マンショ、長崎で病没。(四十三歳)

1614年以前に書かれた「アフォンソ・デ・ルセ-ナ(イエズス会司祭)の回想録」によると
         
         千々石ミゲルは、大村喜前から度々殺されそうになり、従兄弟の有馬晴信のもとに身を寄 
         せた。有馬の家臣から瀕死の重傷を負わされることもあり、結局、有馬からも追放され
         噂によれば、異教徒として長崎に住んでいる。

1629年    原マルチノ、マカオにて病死。(六十歳)
 
1630年    中浦ジュリアン、長崎にて殉教。
         (この時、同時に拷問を受け棄教したのがクリストバン・フェレイラである。)



〈つづく〉



   
         







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by GFauree | 2015-06-29 13:22 | 千々石ミゲル | Comments(0)

何だか怪しい「岡本大八事件」

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                                  (撮影 迎田恒成氏)





「岡本大八事件」
は、その3年前の「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」に端を発しています。

両事件の概要は以下の通りです。(前回の記事の内容に一部付け加えた事項もあります。)




1609年
 〈ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件〉

      長崎に入港したポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号のカピタンモ-ルであるアンド    
      レ・ペッソアと長崎奉行長谷川左兵衛との間に、争いが生じた。
      
      この時、前年自分の朱印船がマカオでトラブルを起こし、その処理に関してアンドレ・ペッソア            
      に恨みを抱いていた有馬晴信も奉行に加担、家康の承認を得て長崎湾で有馬軍がポルトガル船を
      ペッソアもろとも自爆させた。                          



1612年 〈岡本大八事件〉
      
      ポルトガル船攻撃の功績に対する恩賞として、以前、龍造寺氏に奪われた旧領が戻されるよう工 
      作するとの名目で、家康の補佐役本多正純の家臣岡本大八が有馬晴信から多額の賄賂を受け取っ
      ていたことが発覚した。

      さらに、取り調べの過程で大八が獄中から、晴信が長谷川左兵衛の謀殺を図ったと訴えたが、晴   
      信はこれに弁明できなかった。

      大八は処刑され、晴信も贈賄の罪を問われて、甲斐国へ追放、死罪となる。



「岡本大八事件」と「おたあジュリアの追放」




日本のキリシタン教会を決定的な壊滅状態に追い込んだと考えられている1613年1月の全国的なキリシタン禁教令発布の重要な契機として、この「岡本大八事件」と同時期の「おたあジュリアの追放」がよく挙げられます。

「おたあジュリア」というのは、江戸城大奥にいたひとりの女性です。
朝鮮の貴族の出で、「秀吉の朝鮮侵攻」の先鋒であった「キリシタン大名」小西行長の軍に捕えられ、日本に連れ帰られて「ジュリア」の洗礼名で受洗したと言われています。行長が関ケ原で敗れたため、江戸城に仕えることになったのでしょう。人望もあり、その影響をうける大奥女中も少なくなかったということです。

大奥での「おたあジュリア」の存在に気付いた家康は、ただちに棄教することを求めましたが、おたあは拒否し、初めは伊豆大島、最後は伊豆諸島の神津(こうづ)島に流され、そこで亡くなったと伝えられています。

そもそも、小西行長軍が連れてきたキリシタン女性が大奥に入ったということが意外です。どういう経緯があったのか知りたいところですが、その記録はないようです。

さらに、江戸幕府開府から10年近くが経ったこの時期まで、大奥の他の女中にも影響を及ぼすようなキリシタン女性がお膝元に残っていたということも私には意外です。ただ、行長の妻ジェスタが家康の赦免を得て助かったという話がありますので、その関係でおたあも家康の世話を受けるということになったのかも知れません。

家康は、「おたあの件」でキリスト教の幕府内部までの浸透ぶりを改めて知り衝撃を受けたと言われていますが、上に書きました事情や家康が非常に用心深かったはずであることなどから、「おたあ」の存在などは既に良く知っていたと考える方がむしろ自然ではないかと私は思います。

大坂の陣を控えたこの時期、家康が一番恐れたことはキリスト教勢力が豊臣勢と結びつくことだったでしょう。そのため、全国的な禁教令発布を検討し、既によく承知していた「おたあの件」からキリシタン潰(つぶ)しを始めたということだったのではないかと考えます。


晴信・大八の両名がキリシタンであることに家康が強い衝撃を受けたというのは本当か?


そう考えてみると、「岡本大八事件」で家康が、有馬晴信・岡本大八両名がキリシタンであることに強い衝撃を受けた、と言われていることも疑ってみる必要があるのではないかと思えてきました。

というのは、「キリシタン大名」有馬晴信がキリシタンであることは当然知られていることです。また、岡本大八がキリシタンであることは、事件の取り調べの過程で判明したことになっていますが、大八は本多正純に仕える前は長崎奉行 長谷川左兵衛藤広の家臣として長崎に駐在していたのです。

長崎奉行の家臣としての役目がら、ポルトガル人・ポルトガル船・宣教師・キリシタン信者と接触もあったでしょうし、キリシタン信者となる可能性は相当あった筈です。ところが、大八がキリシタンである可能性を、長谷川左兵衛も本多正純も全く考えなかったし、追求もしていないことになっているところがおかしいのです。

幕府としては、家康が有馬晴信・岡本大八両名がキリシタンであることを(初めて)知って強い衝撃を受けたことにする必要があったということではないでしょうか。そのためには、左兵衛も正純も大八がキリシタンであることは思いもかけなかったことにすることが必要です。

それを考えたとき、私は「岡本大八事件」は有馬晴信を陥れるための罠だったのではないかと思い始めました。


有馬晴信は本多正純に本当に贈賄を告白したのか?

事件の経緯を見ると、晴信がその後の工作の進展を大八の主家である正純に確認したことによって露見したということになっていますが、いくら多額の賄賂を贈ったからといっても、当時家康の側近的な存在である正純に直接、自分の贈賄の事実を告白するようなことを晴信がするでしょうか。

もし、晴信がそんなことをしたのであれば「バカ殿様」でしょう。

前回見てきたように、晴信は龍造氏を倒すためには、島津氏と内通しイエズス会も利用した策略家です。更に、島津氏と手を切って豊臣勢に加わり、関ケ原の戦では、今度は豊臣勢を裏切って同じ「キリシタン大名」小西行長を攻撃し生き残った海千山千の存在だったはずです。その晴信が、そんな間抜けなことをしたというのは不自然ではないでしょうか。


他にも、おかしいと感じさせるところが


1.晴信・大八両名対決の下での吟味で大八の非が明らかになり、すぐに大八が処刑されたようです。そして、処刑前に「晴信が長谷川左兵衛の謀殺を図った」という他の罪状を大八が獄中から訴え、それに晴信が弁明できなかったとして晴信に追放・死罪が下されたと言われています。

ということは、幕府は晴信に贈賄の罪を認めさせることが出来ず、大八の逆恨みの結果とも取れるような他の罪状を引き出し、やっと晴信を有罪に出来たということになります。

大八は「晴信が長谷川左兵衛の謀殺を図った」などとは言っていないかも知れませんし、もしそうだとしたら、いやにあっさりと、大八が処刑されてしまったことにも合点がいきます。



2.
前回の記事で書いたことですが、1609年、家康の指図により晴信は朝貢を促すために台湾へ出兵・渡海しましたが追い返されています。「岡本大八事件」はその3年後です。

そこで、思い出すのが長崎代官 村山等安が、1615年、幕府から台湾渡航を命じられたことです。
幕府の狙いは、等安一族の勢力削減にありました。その3年後の1618年、等安は長崎代官を罷免され、全財産を没収され、その翌年、斬首されました。

これは、村山等安に対しても、有馬晴信に対しても、幕府が幕府にとって邪魔な存在を消すために似たような手順を踏んだということなのではないでしょうか。



3.この時期、家康を補佐していた本多正信・正純親子に対し、秀忠を補佐していたのが大久保忠隣です。当事者の一方である岡本大八が本多正純の家臣であることから、「岡本大八事件」の取り調べは大久保忠隣の与力(家来)筋にあたる大久保長安によって行われました。

与力(家来)と言っても、大久保長安は家康によって金山・銀山奉行に登用され幕府に莫大な富をもたらし、幕府天領の惣代官にまで登りつめた人物です。

この大久保長安は、「岡本大八事件」の翌年1613年6月に病死したのですが、死後、生前に不正蓄財をしていたという理由で7人の男児全員が処刑され、金・銀山経営に関わる一族の膨大な資産が徹底的に剥奪されたと考えられています。これが、「大久保長安事件」です。

また、長安の寄親(主家)にあたる年寄筆頭職大久保忠隣も1614年1月、京都においてキリシタン取締り中に改易(士族の籍を除き、領地を没収)されてしまいます。

この「大久保長安事件」と「大久保忠隣改易」とはともに家康と本多正信・正純親子が企んだ謀略と考えられています。



以上を総合すると、「本当はこういうことだったのではないか」と


家康は予てから「キリシタン大名」有馬晴信の朱印船貿易家としての活動を注視し(実際に、家康は晴信の貿易家としての手腕を高く買っていたという話もある。)、抹殺の機会を狙っていた。(国内体制の安定と幕府の貿易の独占を実現するためには「キリシタン大名」抹殺は喫緊の課題だった。)


・有馬晴信の朱印船がマカオでトラブルを起こした際のカピタン・モ-ルであるアンドレ・ペッソアの船が長崎に来航したとの情報を得て、有馬軍がポルトガル船を攻撃せざるを得ないように仕向けた。
 
   
   晴信は、確かに前年のマカオでのトラブルの処置についてアンドレ・ペッソアに対し怨恨を抱いてはい
   たが、「キリシタン大名」としての立場と今後の朱印船貿易の展開を考慮すれば、武力行使には慎重だ
   った。

   そこで、家康・正純は奉行長谷川左兵衛に取引のことでペッソアと争わせ、有馬晴信が長谷川を支援せ 
   ざるを得なくする(つまり、ペッソアを敵視せざるを得なくする)一方、晴信に対し左兵衛との競争心をあおった。
   (実際に二人は、家康への伽羅木の納入のことで争う。)


長谷川左兵衛の与力(家来)岡本大八を諜報係として使い、晴信・左兵衛の動静を正純へ逐一報告させ、晴信・左兵衛を監視するとともに、ポルトガル船攻撃をけしかけさせた。

同時に、晴信に対し競争相手左兵衛への敵愾心をあおり、悪口雑言を吐かせる。大八が聴いたとする晴信の腹立ち紛れの暴言は、後に「晴信が左兵衛の謀殺を図った」という罪状の根拠として利用される。

大八を諜報係として充分機能させるため、キリシタンとなるよう本多正純が仕向けた可能性もある。


・ポルトガル船自爆後、岡本大八は本多正純に召し抱えられ、大八は「旧領取戻し工作」を晴信へ持ちかける。これは、全て正純の指示によるもので、事件が明るみに出た際には、大八は無罪とするよう約束されていた。(実際は、捕縛・詮議後、直ちに処刑され釈明の機会もなかった。)


ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件の当初、家康・正純は、晴信に対しポルトガル船攻撃を命じたが、実は有馬軍の攻撃が成功するとは予想していなかった。むしろ、有馬軍の攻撃が奏功せず幕府の指示を遂行できなかったとして、晴信を処罰しその勢力を削減する機会となることを期待していた。

ところが、ポルトガル船が自爆してしまったためにその機会は失われたばかりか、晴信の功績に報いる必要が生じてしまった。そのために、その後かなりの時間と手間を要することとなったが、結局、「岡本大八事件」という形で「晴信抹殺」という課題に決着をつけたことになる。



私が有馬晴信という人物の印象を薄く感じたり、彼が武将として欠落しているところがあったのではなどと考えたのは、晴信が正純に旧領返還の件の進捗について尋ねたことで事件が発覚したとされているからです。

今回想定したように、晴信が正純に工作進捗について尋ねてなどおらず、初めから家康・正純によって全てが図られ大八すらも騙されていたのだとしたら晴信に対する印象も変わってきます。また、家康にとってそれほど排除したい存在であったと考えることも出来ます。


有馬晴信を、優れた政治家・事業家ではあったけれど、歴史の奔流に巻き込まれ消えていかざるを得なかった人物と見ることもできるような気がします。



〈つづく〉


〈参考文献〉

キリシタンの世紀 ザビエル来日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著 岩波書店
徳川初期キリシタン史研究            五野井隆史著 吉川弘文館
逆説の日本史 13近世展開編 江戸文化と鎖国の謎 井沢元彦著 小学館
大久保長安 家康を支えた経済参謀         斎藤吉見著 PHP文庫














       




 




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by GFauree | 2015-06-20 11:01 | 有馬晴信 | Comments(0)

名前はよく出てくるけれど、なぜか顔の見えない「キリシタン大名」有馬晴信





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                                    (撮影 迎田恒成氏)



前回の記事で採り上げた小説「出星前夜」の中に、「『島原の乱』は(肥前・日野江藩初代藩主)有馬晴信が領地没収の上、甲斐へ追放処分された1612年の『岡本大八事件』、に端を発している。」という趣旨が書かれている所があります。

私はそれを読んで、『島原の乱』の根が『岡本大八事件』にあることに、今更ながら「そうだったのか」と納得する思いがしました。『岡本大八事件』は、1614年の全国的なキリシタン禁教令の直接的な契機になったとされている出来事です。

そして、改めて見直してみると有馬晴信という人物がこの時代の実に様々なキリシタン関係の事件に関わっていることにも気付きました。それ故に、晴信こそ代表的な「キリシタン大名」と呼ばれるにふさわしい存在なのでは、とも考えました。

ところが、有馬晴信という人物のイメ-ジがどうも浮かんできません。
安直な方法ですが、インタ-ネットで肖像画を探してみましたが見つけることは、出来ませんでした。
これだけ、著名な歴史上の人物なのに、なぜでしょうか。


それを考えるために、有馬晴信の生涯を辿り、彼が関係した様々な事件を書きだしてみることにしました。


〈有馬晴信の生涯〉



1567年
 長崎・茂木をイエズス会に寄進した大村純忠の兄・有馬義貞の次男として生まれる。
      1570年に父親・義貞から家督を譲られた兄・義純が翌年に早世したため、4歳で家督を継承した。

1580年
 洗礼を受けドン・プロタジオと名乗る。
      
      イエズス会によって有馬・日野江城下に建てられたセミナリオ(聖職者養成機関)のために敷地を与える。
      (地所・建物は既存の神社仏閣を取り壊したもの。)
      
      この頃、圧迫を受けていた龍造寺氏に対抗するために、イエズス会から資金・弾薬・糧食の提供を受ける。

1582年 大友宗麟、大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣したとされる。
      (実際、派遣はイエズス会が企画・実行したもので、3人の大名は、無断で名前を使われたと考えられる。)

1584年 島津義久と内通し、沖田畷(おきたなわて)の戦いで、龍造寺隆信を滅ぼす。

1587年 秀吉の九州征伐において、島津氏と縁を切り豊臣勢に加わる。

1600年 関ケ原の戦で、西軍から東軍に寝返り、同じ「キリシタン大名」小西行長の居城を攻撃、その功
      績で旧領を安堵される。
  
1603年 征夷大将軍となった家康から、朱印状を得、現在のカンボジャ、ベトナム、タイなどを舞台とし
      た朱印船貿易を展開する。

1609年 家康の命により、台湾へ朝貢を促すために出兵・渡海したが、追い返される。

1609年 〈ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件〉

      長崎に入港したポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号のカピタンモ-ルであるアンド    
      レ・ペッソアと長崎奉行長谷川左兵衛との間に、争いが生じた。
      
      この時、前年自分の朱印船がマカオでトラブルを起こし、その処理に関してペッソアに恨みを抱     
      いていた有馬晴信も奉行に加担、家康の承認を得て有馬軍がポルトガル船を攻撃し、長崎湾で自
      爆させた。


1612年
 〈岡本大八事件〉
      
      ポルトガル船攻撃の功績に対する恩賞として、以前、龍造寺氏に奪われた旧領が戻されるよう工 
      作するとの名目で、家康の補佐役本多正純の家臣岡本大八が有馬晴信から多額の賄賂を受け取っ
      ていたことが発覚した。

      大八は処刑され、晴信も贈賄の罪を問われて、甲斐国へ追放、死罪となる。



〈有馬晴信の生涯について考えること〉




1.
晴信がセミナリオのために、自分の城下の土地を提供したという話は、「キリシタン大名」として教会に対し如何に協力的であったかを示すものとして語られています。

けれども、こうして同時期の出来事とともに並べてみると、それが、イエズス会からの資金・弾薬・糧食などの物質的支援の代償として当然の協力であったとも考えることが出来ます。



2.
また、セミナリオや住院などの建築に、取り壊された寺社・仏閣の資材が使われたことには、「偶像崇拝撲滅」と称して仏像の廃棄や寺社仏閣の破壊が宣教師たちから要請・奨励され、それを有馬氏が容認したり、同調したという背景があります。なにしろ、当時のカトリックにとって、どこの国の宗教であろうと、キリスト教以外の宗教は全て、撲滅すべき「偶像崇拝」なのですから、宣教師の要請は実に確信に満ちたものであったことでしょう。



ただし、これらの時点では、晴信はまだ13~4歳であり、実際にはそれぞれの決定や指示は、有馬一族または家臣団によってなされたと考えるべきでしょう。ただ、晴信がそういう環境の中で育ったとは言えると思います。


いずれにしても、ポルトガル船貿易や対立する諸侯との戦(いくさ)にむけて資金・弾薬・糧食提供などの経済的・物質的利益を受け、上層・支配階級から民衆(上から下)へという当時のイエズス会の布教方式を受け入れて自らが洗礼を受け、寺社・仏閣の破壊を容認または推進したという意味で、有馬晴信が典型的な「キリシタン大名」であったということに間違いはないようです。



3.
1584年以降、島津と内通し龍造寺を滅ぼしたり、その島津と手を切って豊臣勢に加わり、関ケ原の戦ではその豊臣勢を裏切り「キリシタン大名」仲間であった小西行長をすら攻撃するあたりから、「なんでもあり」の戦国大名の中でも特に強かな曲者(したたかなくせもの)ぶりを発揮していったもの、と思われます。



4.
1603年、幕府から朱印状を得て朱印船貿易を展開しますが、朱印船貿易というのは膨大な資本を必要とする事業です。その資本としては、口之津港が有明海の海上交通の要衝にあることから、有馬氏が古くから現在のベトナム・カンボジャ・タイなどを舞台とする貿易に乗り出していて、既に蓄積していたものが相当あったことが考えられます。

晴信は、この豊富な資本を縦横に駆使することで有能な朱印船貿易家として家康に強い印象を与え、初期の幕藩体制のなかに地位を築きつつあったという見方もあります。



5.長崎湾で有馬軍の攻撃によってポルトガル船が爆発・炎上した「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」ほど、キリシタン教会に様々な打撃を与えた出来事は無かったのではないかと思われます。


その打撃の内容を挙げてみると、


(1)「キリシタン大名」がポルトガル船に攻撃を加えたことによって、従来、少なくとも建前上は一枚岩となってキリシタン教会を支えていることになっていた「ポルトガル商人・イエズス会・キリシタン大名」勢力の分裂が露呈した。


(2)沈没船には相当量のイエズス会の船荷が積載されており、それを喪失した結果、イエズス会は甚大な損害を蒙り、従来から窮迫していた財務状況はさらに悪化し大幅な負債を負うことになった。


(3)この船には、マカオのポルトガル人商人から日本で銀に替えるよう委託された金が積まれていて、日本に到着した時点で金から銀に交換された。

(日本での金⇒銀の交換率は、マカオでのそれに比べて金に有利であったため、マカオから金を持って来て、銀に替えマカオに持ち帰るという取引が一般に行われ、イエズス会もそれに関わり、それが収益機会になっていた。)

ところが、日本側のイエズス会士は、マカオに送り返すべき銀を船に積み込まず、マカオのイエズス会に同額の銀を委託者に渡すよう指図するつもりであった。

結果的に船は沈み、マカオの委託者は銀の支払いを求め、イエズス会側は「海損(航海中の事故によって受けた、船荷などの損害)は委託者の負担とする」との慣行をたてに支払いを拒んだ。イエズス会側の主張は理論的には一応筋が通っているが、対価である金は受け取っているのだから、銀の支払いをしなければ「ただどり」である。それでも、イエズス会側は譲らず争論は10年以上に及んだと言う。

いずれにしても、これによって、マカオのポルトガル人のイエズス会に対する不信感が一挙に増大したと考えられる。


(4)イエズス会内のヨーロッパ人会士と日本人会士との分裂が顕在化したこと。

「日本人の修道士はペッソア司令官が逮捕されるように教会へ祈りに行く始末で、爆発が起きたためにその大船が沈没すると、ヨ-ロッパ人は嘆き悲しんだが、日本人は喜びに湧き立った。」
(「通辞ロドリゲス」マイケル・ク-パ-著)

これは、素直な感情表現の記録の少ない日本人イエズス会士に関して珍しい記述です。この記述の根拠は不明ですが、マイケル・ク-パ-はイエズス会士ですから、イエズス会にとって不都合なこの記述内容は信頼できると思われます。何よりも、日本人会士の態度がやけに朗らかで読む者の笑いを誘います。


(5)そして、この事件によって1614年の全国的な禁教令発布の決定的な契機となったと言われる『岡本大八事件』が、1612年に惹き起こされたこと。

ただ、『岡本大八事件』は有馬晴信と家康の補佐役本多正純の家臣岡本大八との間の贈収賄事件として内容が一見とても明白なものの様に見えますが、それだけにかえって何やら疑わしい点も何点かありますので、次回それだけを採り上げてみたいと思っています。


〈むすび〉


有馬晴信が関わった様々な出来事から、晴信の人物像を掴もうとしたのですが、その過程で彼の性格の一端のようなものは浮かび上がってきました。
それは、
典型的な「キリシタン大名」
なんでもありの戦国大名のなかでも特にしたたかなくせ者
・有能な朱印船貿易家
ここから、強大な権威には従順だけれど、常に優位に立つことを狙って行動する、並はずれて有能なスケ-ルの大きい事業家を私はイメ-ジしますが、どうでしょうか。

それにしても、彼の人物像を示す逸話などがほとんどないのは何故なのか不思議です。この一連の出来事を見直しながら、その理由を考え続けていました。そして、二つの理由らしいものに思い当たりました。

一つは、江戸時代、キリシタン禁制の中で、彼に関する記録は後世にも決して修復しえないほど徹底的に抹消されてしまったのではないか、ということ。それくらい、有馬晴信は警戒すべき人物だったということかも知れません。


もう一つは、明治以降、キリシタン禁制が解除された後には、現世利益(げんせいりやく)というよりもっと直接的な経済的・物質的利益を狙いとした改宗や「上から」の布教や寺社・仏閣の破壊など「キリシタン大名」が抱えていた問題性が明らかになり、「キリシタン大名」を擁護しようとすれば大名個人の人間性には触れず、その信仰をひたすら美化する傾向が強くなってしまったためではないか、ということです。


先に書きましたように、有馬晴信が死罪に追い込まれた「岡本大八事件」について、私はどうもおかしいなと感ずることがいくつかありますので、次回、それについてお話します。

〈つづく〉



(参考文献)

キリシタンの世紀      高瀬弘一郎著           岩波書店
日本巡察記-ヴァリニャ-ノ 松田毅一他訳           東洋文庫
通辞ロドリゲス       マイケル・ク-パ-著 松本たま訳 原書房
イエズス会と日本 二    大航海時代叢書          岩波書店
銃と十字架         遠藤周作著            新潮社








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by GFauree | 2015-06-08 09:49 | 有馬晴信 | Comments(0)