【大航海時代のおと】

iwahanjiro.exblog.jp

<   2015年 08月 ( 2 )   > この月の画像一覧

ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その2]



今回は、フランシスコ・ザビエルとコスメ・デ・トーレスの出遭いとその背景について見ていきたいと思います。


[マラッカとモルッカ]

まず、この話題について(話題にのぼるのは、ほとんどザビエルですが)書かれているものを読むとき、いつも私が紛らわしいと感じてきたのは地名です。マラッカという都市の名と、モルッカという群島の名が出て来るのです。


図Ⅰ[モルッカ諸島]

a0326062_10495931.jpg

マラッカは、マレ-半島の突端シンガポ-ルの少し北にあり、現在はメラカ(Melaka)と呼ばれている港湾都市の名です。

インドネシアのスマトラ島とマレ-半島に挟まれたマラッカ海峡(インド洋から南シナ海・ジャワ海に遠回りせずに出るためには必ず通る必要のある海上交通の要衝)に面しており、ポルトガルは1511年にここを攻略し東アジアへの進出経路を確保しました。



モルッカは、フィリピンのミンダナオ島の南東に在って、インドネシアのスラウェシ(セレベス)島とニュ-ギニア島に挟まれた香料諸島とも呼ばれる群島の名前です。


1509年2月
、ポルトガルはイスラム勢力との戦い(ディ-ウ沖の海戦)に勝利し、インド洋での覇権を確立しました。

この時点で、既にポルトガルは胡椒以外の多くの香料の産地がインドではなく、このモルッカ諸島であることと、スペインが東アジア航路を模索していることを把握していたと言われています。


そうして、1510年インド西岸のゴアを支配し、1511年マラッカを攻略、その翌年、モルッカ諸島に到着し、アンボン島のアンボイナに商館を設置しています。


さらに、マラッカ攻略の翌年1512年に、この群島の中のバンダ(Banda)島アンボン(Ambon)島テルナテ(Ternate)島ティド-ル(Tidore)島に到達しました。

地図の中で一番大きく見えるハルマヘラ(Halmahera)島は、なぜかあまり話題になることがなく、ザビエルが宣教活動をした一番北のモロタイ(Moroti)島やポルトガル商館が設置されたアンボン(Ambon)島の名前がよく出てきます。

また、一時期スペインが支配したとして名前の出て来る、テルナテ(Ternate)島ティド-ル(Tidore)島は、ハルマヘラ(Halmahera)島の西にある、比較的小さな島に過ぎません。





図Ⅱ[二人が辿った道程]


a0326062_12575768.jpg

図Ⅱの(A)曲線-ザビエルがポルトガルからインド経由モルッカ諸島まで辿った経路
   (B)点線-トーレスがスペインからメキシコ経由モルッカ諸島まで辿った経路
    
   (C)直線-ポルトガル・カブラル艦隊が風に流された航路

縦の直線は、トルデシ-リャス条約に基くスペイン・ポルトガル両国領土の境界線
  青点線は、トルデシ-リャス条約に基く境界線の180度裏側に東半球の境界線を設けたと仮定した場合の境界線の位置。(岡山辺りを通過する。)

縦の線は、サラゴサ条約に基く境界線(東経144度30分)。(釧路辺りを通過する。)

トルデシ-リャス条約、サラゴサ条約については後述します。




[ザビエルが辿った道程]


フランシスコ・ザビエルは、1506年スペインのナバラ王国に生まれ、パリ大学で哲学を学んでいたときに、後にイエズス会の初代総長となるイグナチオ・デ・ロヨラの強力な勧誘を受けイエズス会の7人の創立メンバ-の一人となります。

イエズス会に対するポルトガル王ジョアン三世の要請により、インドへ派遣されることになり、1541年4月リスボンを出発し、翌年5月ゴアに到着します。


その後、ゴア周辺各地で宣教活動を展開します。1545年9月マラッカ1546年1月モルッカ諸島へも赴き、同年3月同諸島のアンボン島でコスメ・デ・ト-レスと出遭います。


そして、1547年12月マラッカに戻ったさい日本人アンジロ-が訪ねてきます。
1548年、ザビエルはアンジロ-をゴアに連れ帰り、日本への渡航計画を開始します。


このザビエルが辿った道程(図Ⅱの(A))は丁度、ポルトガルの海洋帝国構築の跡と重なっています。

ポルトガルは、1415年アフリカ北岸のセウタに進出して以来アフリカ西岸を進み、1488年にアフリカ南端の喜望峰に到達し、その10年後、ヴァスコ・ダ・ガマインド航路を発見します。


1510年インド西岸のゴアを攻略し、1511年にマレ-半島のマラッカを征服、翌年モルッカ諸島に到達したのです。



[ト-レスが辿った道程]


コスメ・デ・ト-レスは、1510年前後にスペインのバレンシアで生まれ、神学を学び1534年頃司祭になっています。地中海のマジョルカ島で教師をした後、バレンシアに戻ります。

その後、バレンシア・バルセロナ両地方の境にあるウルデコ-ナで、ラテン語教師として過ごしていた時にフランシスコ会の修道士に誘われて、1538年メキシコに向けて出発することになります。

メキシコでもフランシスコ会への入会を勧められますが、これを断り、行政長官の家の住込み司祭として3年半を送ります。

1542年11月、ルイス・ロペス・ビリャロボスの率いる太平洋探検の艦隊に艦隊付司祭の一人として乗り組み、メキシコ太平洋岸のナビダ港から出発します。



[ビリャロボスの艦隊とは何か?]


1.マゼラン艦隊の世界周航

1519年8月、ポルトガル人のフェルデイナンド・マゼランがスペイン艦隊を率いてセヴィリアを出発します。

この艦隊は、南米大陸最南端の(マゼラン)海峡を発見・経由し、太平洋に出て西に航行を続け、ついにフィリピン諸島に到達します。

1521年4月、マゼランはセブ島対岸のマクタン島で戦死し、残された艦隊は11月に香料諸島に辿り着いた後、ポルトガル領海(インド・アフリカ)経由1522年9月にスペインに帰国し、これによって、初の世界周航が達成されたことになります。

しかし、帰国することのできたのは、出発時5隻あった船のうちヴィクトリア号1隻と、約270人いた乗組員のうちの18人のみだったということです。


2.太平洋進出への根拠地獲得


1519年
、スペイン人のエルナン・コルテスがメキシコに上陸、1521年アステカ帝国を滅亡させヌエバ・エスパ-ニャ副王領を創設します。

これによって、スペインはヨ-ロッパ側から見て前方に大きく立ちはだかっていた南北アメリカ大陸を越えて、太平洋に進出するための根拠地を獲得したことになります。

スペインにとっての課題は、マゼランの発見した香料諸島との往復をスペイン領のみを通過して行い、かつその航路を出来るだけ短縮することでした。

ところが、1525年に派遣されたホフレ・デ・ロアイサの艦隊はスペイン北部ガリシア地方のラ・コル-ニャから出帆しています。香辛料取引のための商館を、前以てラ・コル-ニャに設置してしまったためではないかと言われています。

巨大化し硬直化してしまった官僚制度の悪弊を示すこういう話が当時のスペインについて、よく出てきますが、1527年に派遣されたアルバロ・デ・サアベドゥラ・セロンの艦隊からはさすがにメキシコの太平洋岸から出帆しています。


そして、1542年に派遣されたルイス・ロペス・ビリャロボスの艦隊も、メキシコ太平洋岸のナビダ港を出港するのです。その艦隊には、会計係ギイド・デ・ラベサレス他6名の聖職者が乗り組んでいたことが分っています。4名のアウグスティヌス会士と2名の教区司祭(修道会に所属しない司祭)でした。

その2名の教区司祭のうちの一人がコスメ・デ・ト-レスということになります。


3.太平洋横断帰路が見つからず


ところが、ロアイサ、サアベドゥラ、ビリャロボスのいずれの艦隊も太平洋を横断する帰路を発見することが出来ず、熱帯地方の島々を彷徨することになります。

ビリャロボスの艦隊は、メキシコに戻る航路を探してフィリピンのミンダナオ島で1年以上、モルッカ諸島のティド-ル島で約2年を過ごした後、ついに1545年11月、インドなどポルトガル領を経由してスペインに戻るべくポルトガル人に投降しました。

このため、ビリャロボスの探検隊は離散し、ト-レスはアンボン島に向かい、1546年3月そこで宣教活動をしていたザビエルに出遭うこととなります。


スペインが太平洋横断帰路を見つけることが出来たのは、1565年になってからのことです。この年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ率いる艦隊がセブ島に根拠地を築きます。

レガスピは、孫のフェリペ・デ・サルセド隊長に、ロアイサ艦隊の生き残りでアウグスティノ会士だったアンドレス・デ・ウルダネタを案内人として付け、メキシコへの帰路発見に向かわせます。ウルダネタ一行は同年、ヌエバ・エスパ-ニャ(メキシコ)のアカプルコ港に到着したのです。


4.数々の艦隊派遣費用は借入でまかなわれていた


探検隊派遣は人員・船舶・糧食などざっと考えただけでも莫大な費用を要する事業です。
派遣を決め、命令する以上、王室はその費用を負担しなければならない筈ですが、常に財政的に窮迫していたとされるスペイン王室は一体どこからその資金を調達したのかという疑問が湧きます。

その資金の主要な出所は、ドイツの金融資本家フッガ-家だったと言われています。

マゼランがセヴィリアを出港した1519年、カルロス五世を神聖ロ-マ皇帝として選定するための選挙に出資していたフッガ-家は、その報酬として、スペイン本国とその植民地における政府関係事業に関する様々な便益を受け取っていました。

また、征服と発見(による収益)を担保とする融資は定石となっていました。
マゼランの遠征は、一部、香辛料取引の将来の活動(による収益)をフッガ-家に売却するような形でファイナンスされていたのです。

それで、理解できるのは大航海時代の征服者たちが、何故あれほどまでに貪欲であったかということです。

先住民を犠牲にし、彼らを敵に回し自らもマゼランのように命を失う危険を冒してでも出来るだけ早く現金に近い形(金・銀)で費用を回収し、国王の負っている負債の早期返済と金利負担軽減に貢献することが、国王に対する何よりの忠誠心の表われとして評価されることを、探検者・征服者たちも充分意識して行動していたということでしょう。(どこかで聞いたことのある話ですね。)

その少し前、フッガ-家は教皇贖宥状を担保に融資を行い、宗教改革の誕生(1517年)に貢献していたことが指摘されています。ということは、フッガ-家はイエズス会(対抗宗教改革運動の旗手)誕生に貢献していたことにもなります。


離散したビリャロボス探検隊の一員であったコスメ・デ・トーレスは、アンボイナでザビエルに遭った後、ザビエルと共に生きていきたいとの思いから、インドを目指します。ジャワからマラッカへ行き、コチンを経てゴアに到着した時には既に1547年に入っていました。

一方、既に書いたことですが、その年の末、ザビエルは、マラッカで日本人ヤジロウの訪問を受け、翌年彼をゴアに連れ帰ります。

そのころ、遠くアウグスブルグでは、フッガ-家がスペイン国王に対し、モルッカ諸島遠征の経費3,946,939マラベディを請求する訴訟を起こしていたということです。



ところで、スペインは、マゼラン以来、香料諸島との間をスペイン領のみを通過して行き来することに、また膨大な費用をかけて再三にわたり遠征隊を派遣しメキシコへの帰路をさがすことに、なぜあれほどこだわったのでしょうか。

それは、こだわらなければなければならない理由があったからです。
その理由とは、スペインとポルトガルの間に、北極から南極に引いた子午線によって地球を二分割するというデマルカシオン(境界画定)の取り極めがあったことです。

ポルトガルの海外事業展開の一翼を担ったザビエルと、スペインの一教区司祭であったト-レスが東西逆方向の経路をたどってモルッカ諸島で遭遇したことの理由も、このデマルカシオンの取り極めにあります。

そこで、次にこのデマルカシオンについて見ていくことにします。



[スペイン・ポルトガル両国で世界を二分割しようとしたデマルカシオン]


1.教皇アレキサンデル六世大勅書とトルデシリャス条約


世界分割のデマルカシオンというものは、一挙に取り極められたものではありません。
1479年の二国間のアルカソヴァス条約1493年教皇アレキサンデル六世大勅書などを経て、1494年両国間で締結されたトルデシ-リャス条約により確定したものです。


1493年にコロンブスが第一回の航海から戻ると、新発見地の帰属をめぐって、両国の間に論争が起きた結果、教皇アレキサンデル六世の大勅書が発布されました。


その中で規定されたデマルカシオン(境界画定)は、
アソ-レス諸島とヴェルデ岬諸島の西100レグアのところに、北極から南極へ引いた線を境界とする」というものです。


更に、両国間で協議した結果締結されたトルデシ-リャス条約では、境界線の位置は、
ヴェルデ岬諸島の西370レグアのところ」に改められますが、同諸島のどの島のどの位置から測定するかについては言及されていません。



2.境界線の位置について


教皇大勅書もトルデシリャス条約も、各諸島のどの島を基準とするかを明示していませんし、規定に経度を使用していませんので、境界線の位置には諸説があります。


教皇大勅書の境界線は「大西洋の海上」、トルデシリャス条約の境界線は「西経46度30分」と言われている場合が多いようです。


3.ブラジルを「発見」して、あわてたポルトガル


1498年
ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ南端の岬、喜望峰を発見し、そこを経由してインド南部のマラバ-ル海岸に到達します。


ガマ一行の帰還後、ポルトガル王マヌエル一世は、ペドロ・アルバロス・カブラルの艦隊を送り出します。ところが、このカブラルの艦隊は、喜望峰を周航しようと東向きの風を待っている間に、西向きに流されてしまい、なんとブラジルの現在のバイア州ポルト・セグ-ロ(ブラジリアの東・リオデジャネイロの北)に漂着してしまいます。


図Ⅱで、紫色の矢印で表わしたのが、カブラルの艦隊が東風に流された航路です。


私たち日本人は、日本が真ん中に、左端にアフリカ、右端に南米が描かれた世界地図を見慣れていますので気が付きにくいのですが、図Ⅱのようにヨ-ロッパとアフリカが中央にくるタイプの地図であれば、アフリカと南米との距離は意外と近いことが分ります。


教皇アレキサンデル六世の大勅書では、両国領土の境界線は、大西洋上にあるとする解釈も成り立ちます。すると、折角、発見したブラジルが全く領土として認められない可能性も出てきました。

そこで、ポルトガルは急遽、教皇ユリウス二世に対し、トルデシ-リャス条約の承認を求め、1506年大勅書の発布を受けたという経緯があります。


4.拡大と膨張を続けてきたブラジル


トルデシ-リャス条約による境界線を西経46度30分の子午線とすると、その境界線は現在のサン・パウロとリオ・デ・ジャネイロの間あたりを通ることになります。

条約によれば、その境界線の東側がポルトガル領(現在のブラジル)、西側がスペイン領(現在のペル-)ということになります。

オリンピックの関係で最近、ブラジルの地図をご覧になる機会が増えているのではないかと思いますが、現在のブラジルの領土は当時の領土の何倍ににも拡大していることにお気付きでしょうか。

「一般に、スペインは植民地の獲得、経営を目指したのに対し、ポルトガルは各地の港に貿易の基地を設けることで満足し、植民地の獲得よりも貿易の繁栄を図った」ということがよく言われていますが、これをみると決してそうとばかりも言えないことが分ります。

ポルトガルも、それが可能な地域では植民地の獲得・拡大を目指しスペイン同様の侵略行為や武力行使も行っていたと考えるほうが自然であり、その実例は南米の歴史のなかに確かに見出せます。



5.東半球における境界線(日本はどういうことになるか)


トルデシ-リャス条約の境界線を西経46度30分とすると、その境界線を挟んで西側はスペインが東側はポルトガルが征服を進めることになりますが、両国の征服事業は地球の裏側で衝突することになります。


そこで、トルデシ-リャス条約の東半球における境界線は、西経46度30分の180度反対側の子午線とすることが考えられます。それは、東経133度30分岡山辺りを通過する子午線ということになります。

日本人が全く与り知らない所で、日本がポルトガルとスペインの領土に分割されかねない条約が結ばれロ-マ法王が承認していたということです。

ですが、実際には、教皇アレキサンデル六世大勅書にもトルデシ-リャス条約にも、東半球における境界線については、述べられてはいません。

スペインは、東半球の境界線はマラッカ(シンガポ-ル辺り)の上を通る子午線であると勝手に考えていたと言われています。

そうであれば、日本は完全にスペインの領土に含まれることになります。

この点については、日本への布教に成功したポルトガル=マカオ=イエズス会のラインにその後スペイン=マニラ=托鉢修道会のラインが参入しようとして競合したために、両国の間で激しい論争が行われました。


1529年に両国間で締結されたサラゴサ条約には、「モルッカ諸島の東297.5レグアのところに線(図Ⅱ東経144度30分のの直線)を引く」という規定がありますが、これはトルデシ-リャス条約で述べられなかった境界線とは別の意味を持つものです。



6.サラゴサ条約は、モルッカ諸島の買い戻し条件付き売買契約



サラゴサ条約
は、マゼランの航海の結果、モルッカ諸島の帰属を巡って両国間に論争が生じたため交渉が行われ、1529年に締結されたものです。

条約で決定された内容は、

(1)スペインはモルッカ諸島に関する全ての権利を、黄金35万ドゥカドで売却する。

(2)この契約により、スペインがポルトガルに売却する領域・権利を明確にするために、(上記のとおり)モルッカ諸島の位置から297.5レグアのところに、北極から南極まで線を引く。

というものです。

従って、(2)で引かれた線は、35万ドゥカドで売買契約をした地域・海域を明確にするためのものであり、これを、東半球での境界線とするというような考えは、少なくともスペイン側にはなかったと言われています。

また、興味を引くことは、この契約は、「スペインがいつでも希望するときに、35万ドゥカドをポルトガルに返済すれば、解消することができる」ことが明記されて、「買い戻し条件付きの売買契約」となっていることです。

売買契約というより、スペインがポルトガルから、モルッカ諸島に関する権利を抵当に35万ドゥカドの借入をしたような形になっているのです。

何故、このような形にしたのかについて明確な説明はありませんが、スペインとしては資金調達に窮していてとにかく売却はせざるを得ないという事情があったのでしょう。

ただ、長年探し求めてやっと手に入れた香辛料の原産地をその価格で売り切りの形で手放してしまうことは忍び難かったということではないかと、私は推測します。


ともかくも、東半球における両国の境界線が、ヨ-ロッパでは貴金属にも匹敵する価格で取引されるほど価値のある香辛料の原産地として、両国が永年必死で探し求めていた香料諸島を基準に設定されたことは、この時代の両国の海外展開を象徴しているようで面白く感じます。


[まとめ]


これまで見てきたことから、ザビエルとト-レスの二人が辿った道程とその出遭いの背景を描くとしたら、どんな絵が描けるでしょうか。


・まず、海洋帝国の構築を狙うポルトガルと植民地帝国の拡大を目指すスペインの艦隊の往来

・両国を警戒・監視し対抗するイスラム勢力及びインド以東周辺各地・各国の船舶の出没

・倭寇やザビエル到来の6~7年前に鉄砲をもたらしたような中国・ポルトガルの商船・商人の往来

こういう要素を考え合わせると、16世紀半ばの東アジアの海域には、私が予想していた以上に多様な勢力が、頻繁に行き来していたようです。また、そうであれば、ザビエルとト-レスの出遭いや、二人の日本渡来は、奇跡的というよりむしろ当然発生し得た必然的なものだったのではという気がします。


皆様は、どのようにお感じでしょうか。
もし、彼らが生きた時代・環境を多少とも一緒に感じて頂けたら幸いです。



こうして、日本に到着したコスメ・デ・ト-レスは、その21年後の1570年天草の志岐で亡くなっています。


次回は、ト-レスの約20年間の日本での活動とその人となりを追ってみようと思います。



〈つづく〉




[参考図書]

CONFRNTACIÓN TRANSPACÍFICA EL JAPÓN Y EL NUEVO MUNDO HISPANICO
1542-1639 LOTHAR KNAUTH Universidad Nacional Autónoma de México

長崎を開いた人-コスメ・デ・トーレスの生涯-パチェコ・ディエゴ著 中央出版社

講座世界史1 世界史とは何か 多元的世界接触の転機 歴史学研究会編 東京大学出版会
       Ⅱ大航海時代 2 フィリピンとメキシコ 菅谷成子著

キリシタン時代の研究 高瀬弘一郎著 岩波書店

ザビエルの見た日本 ピ-タ-・ミルワ-ド著 松本たま訳 講談社学術文庫


























 







[PR]
by GFauree | 2015-08-21 11:41 | ザビエルとト-レス | Comments(0)

ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その1]



a0326062_04582555.jpg



1.ザビエル渡来


(1)イゴヨク広まるキリスト教



フランシスコ・ザビエルが、1549年に日本に来てキリスト教布教を始めたことは、中学の歴史の教科書に出ていたことですから、覚えておられる方は少なくないだろうと思います。私は若い頃、歴史に殆ど興味を持てなかったのですが、教科書に載っていたザビエルの肖像画と年号語呂合わせ(「イゴヨク広まるキリスト教」だったか)のお蔭で、「ザビエル渡来」は記憶に残りました。

その「ザビエル渡来」が私の記憶に残った理由として、もう一つ考えられることがあります。


(2)戦後の歴史教育の中で


私が育った時期は、戦後の「唯物論的進歩主義知識人」(ああ、なんと懐かしくも気恥ずかしい呼び名でしょうか)が言論をリードしている印象のあった時代です。そんな時代の公立学校の歴史の授業で宗教が、それもキリスト教のうちの新教(プロテスタント)でなく旧教(カトリック)が、話題にされるなどということは後にも先にもこの時だけでしたから、カトリック信者の家庭に育った私にはとりわけ印象深かったのかも知れないと思うのです。

ちなみに、このブログでも採り上げたことのある「慶長遣欧使節 支倉常長」も歴史の教科書に載っていましたが、その使節派遣とカトリック布教との関係は確か一言も触れられていなかったと思います。

また、ついでに言えば、戦後のあの頃には「プロテスタント(新教)は腐敗した権威に抵抗した新しく清潔な考えだから正しく、カトリック(旧教)は古く封建的(?)で厳しいからそれだけで駄目」というように考えている人が多かったようですが、今はどうなんでしょう。

ともかく、珍しく印象に残ったザビエルですが、その後長い間、その印象が深まったり広がったりすることはありませんでした。でも、その間、ザビエルに関する話題に触れることがなかったわけではありません。
ザビエルがカトリック教会が認定した「聖人」であるせいでしょうか、奇跡話や逸話が時々話題になるのです。



2.ザビエルの奇跡と逸話


(1)『蟹の奇跡』と『奇跡の右腕』


奇跡については、先ず、『蟹の奇跡』というのがあります。

インドネシア・モルッカ諸島を航海中、乗っていた船が暴風雨に襲われ、ザビエルがいつも首から下げていた十字架を海水に浸して嵐を鎮めようとしたところ、波がそれを奪い去り、海底に沈んでしまったそうです。その後、風雨が静まってある島に上陸し岸辺を歩いていると、蟹が十字架を運んで来たというのです。

その話が、助けた亀が再び現れる浦島太郎の話に似ているということも、どこかで読みました。

次に、『奇跡の右腕』というのがあります。

ザビエルの右腕は、死後50年経っていたにもかかわらず、鮮血がほとばしり出たそうです。
その右腕は、1949年と1999年に、ザビエル日本渡来400年と450年を記念して日本に持って来られて展示されました。


(2)『噛み切られた足指』と『聖母に捧げられた日本』の逸話


それから、逸話ですが、そのひとつは『噛み切られた足指』です。
ザビエルの遺体は、1554年3月16日から三日間、インド・ゴアの聖パウロ聖堂で一般への拝観が許されました。すると、参観者の一人の婦人が右足の指2本を噛み切って逃走してしまいました。結局、足指は彼女の死後家族によって教会へ返されたそうです。

もう一つの逸話は、『聖母に捧げられた日本』です。
ザビエルが鹿児島に到着した8月15日は聖母マリア被昇天の祝日(聖母が亡くなって昇天した日)です。
そこで、ザビエルは上陸したときに、日本を聖母マリアに捧げて感謝を表わしたということです。

司馬遼太郎はこれを知って「なんとお節介な」と笑ったそうですが、私はそれを笑えるほど心が広くはなく、「他人の物を捧げるとは、どういう神経かな」と思うだけにしておきました。それ以上考えると腹が立って来そうだったからです。

こういう奇跡話や逸話は「聖人」に親近感を抱かせようとの意図から誰かが採り上げ、伝えられてきたものなのでしょうが、このような話題が出るたびに、ザビエルの存在は私の中でますます薄いものに成っていった感じがします。

そんな私にとって、ザビエル渡来の印象が変わってきたのは、ほんの3年ぐらい前からのことです。



3.ザビエル渡来の印象が変わった



それは、以前このブログで採り上げた、ペル-からマカオ経由で日本へ行き豊臣秀吉と会見したフアン・デ・ソリスという人物について知りたくて、フェルナンド・イワサキという日系人作家が書いた Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI (十六世紀の極東とペル-)という本を読んでいた時のことです。


(1)『太平洋を越えた対峙 日本と新大陸スペイン語圏』


その本の中に、盛んに参照・引用されている本がありました。
Lothar Knauth 著 Confrontación Transpacífica el Japón y el Nuevo Mundo hispanico 1542-1639
(太平洋を越えた対峙 日本と新大陸スペイン語圏 1542年~1639年)、という本です。

著者はドイツ生まれで国立メキシコ自治大学の教授です。
そのせいで、著者の名前はどう発音すべきか私には分りませんのでカタカナ表記は出来ません。
本の題名の中の、1542年は鉄砲伝来、1639年は鎖国体制が完成したとみられる年です。
つまり、この本は、日本のキリシタン時代史をメキシコ他南米とフィリピンという旧スペイン植民地(新大陸スペイン語圏)との関係から捉えて書かれたものなのです。

キリシタン布教が様々な面でポルトガル船貿易によって支えられていたことは事実ですから、ポルトガルの拠点であったマカオの視点から日本のキリシタン時代史を観た本は少なくないのですが、フィリピンやメキシコなどのスペイン語圏からの観点で書かれた本は希少なようです。

この本は1972年に出版されています。日本のキリシタン時代史の研究が1970年代半ばから大きく発展して行ったことと、関係があるかも知れません。

この本に、ザビエルと一緒に日本に来た神父 コスメ・デ・ト-レスとザビエルとの出遭いが書かれていたのです。


(2)ザビエルとコスメ・デ・ト-レスの出遭い


ザビエルの日本渡来については、アンジロ-(ヤジロ-)と呼ばれる日本人が連れてきたとよく言われるのですが、実際はアンジロ-とザビエルを含めて、少なくとも8名の集団できたようです。

内訳は、フランシスコ・ザビエル  神父(44歳)
     コスメ・デ・ト-レス  神父(39歳)
     フアン・フェルナンデス 修道士(23歳)
     パブロ・デ・サンタフェ(アンジロ-の洗礼名)・ジョアン・アントニオ 以上 日本人3名
     マヌエル -中国人
     アマド-ル-インド人


ザビエルはスペイン・ナバラ王国の生まれであるのに対し、トーレスは同じスペインではありますがバレンシア地方の生まれです。ザビエルがイエズス会の創立者の一人であり、ポルトガル王によってインドへ派遣されたのに対し、ト-レスは修道会に属さない司祭としてスペインを出てメキシコに向かったのです。


二人は、日本に渡来する3年前に、現在のインドネシア、モルッカ諸島のアンボン島で出遭っています。

アンボン島に至るまでの二人は、ザビエルがアフリカ・インドを経由したのに対し、トーレスはメキシコから太平洋を経由していますから、ちょうど地球を逆方向に進む航路を辿ったことになります。そして、それらの経路は、この時代のポルトガル・スペイン両国の海外事業展開をそのまま示しているのです。


上述の歴史書『太平洋を越えた対峙 日本と新大陸スペイン語圏』は、そのような観点から、ザビエルとトーレスの「出遭い」とその後の「日本渡来」の背景を説明してくれています。私は、そこに書かれた背景を読んで、ザビエル渡来が起きた時代と、ザビエルの存在自体も初めてリアルに感じることが出来たような気がしました。


その、二人の「出遭い」・「日本渡来」の背景の内容については、次回述べさせて頂こうと思います。


〈つづく〉




 














[PR]
by GFauree | 2015-08-05 09:40 | ザビエルとト-レス | Comments(0)