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(Ⅱ)1549年8月から1551年11月まで



1549年8月
、ト-レスを含むザビエル一行は鹿児島に到着します。
この時点から、1551年11月ザビエルが豊後を発ちインドに向かうまでの2年3か月間、ト-レスはザビエルの考えや計画通りに行動していたと考えても間違いではないでしょう。


・ザビエルとト-レスの関係

よく、「ザビエルの同僚の神父トーレス」というような言われ方がされますが、実際は二人に対するイエズス会の中での位置付けには明確な差があり、「同僚」というより「上司と部下」と言った方が良いような関係だったのでは、と思われます。

その差は、まず、ザビエルが会の創設者イグナティウスが直々に勧誘した創立メンバ-の一人であったのに対し、ト-レスはイエズス会とは関係なくスペインの一地方都市バレンシアで15年も前に教区司祭となり、ほんの1年前にインドのゴアで入会したばかりの「中途入社」の、それもスペイン人だけれど「現地採用」されたローマ本部ではほとんど知られていない人物だったという違いから来るものでしょう。

イエズス会内部の司祭の最高の階位は「盛式四誓願司祭」と呼ばれる階級です。
「盛式」とは「荘厳」というような意味です。「誓願」というのは、修道者が神に対して自発的に立てる誓いのことです。どの誓いまでを立てることを許された者であるかによって、その司祭の会のなかでの階級が表わされるのです。

入会後、修学と瞑想を積んで司祭に叙品され、「単式誓願司祭」となります。この単式誓願司祭のなかから一部の者が「盛式三誓願司祭」となり、さらに「盛式三誓願司祭」のうちのきわめて限られた人物だけが清貧、貞潔、従順、ロ-マ教皇への絶対服従の四誓願を立て「盛式四誓願司祭」に昇格します。

これは、ちょうど現代の日本企業において、部長とか課長とかいう職務の裏付けとして、参事とか主事とかいう職階(階級)があるのと同じ事です。従って、ある職務に就くためには、決められた職階以上の資格がなければなりません。例えば、管区長や院長など会の中での統括的な要職に就任するためには「盛式四誓願司祭」であることが必要でした。

ザビエルについては、通辞ジョアン・ロドリゲスが「日本教会史」の中で、「フランシスコこそ真実に教皇パウロ三世〔在位1534-49〕の命令で、ポルトガルの国王によってインディアに派遣された使徒であり、教皇に対して〔イエズス〕会の他の立願修道士と同様に第四の盛式誓願による義務を負っていた。」としていますので、1541年インドに派遣された時点で既に「盛式四誓願司祭」であったと考えられます。

一方、ト-レスは、パチェコ・ディエゴ著「長崎を開いた人」(中央出版社)によれば、1563年8月に、やっと「盛式三誓願司祭」となっています。

因みに、会のエリ-トとして育成された後日本に渡り、棄教した神父として遠藤周作の小説『沈黙』にも登場するクリストヴァン・フェレイラは、37歳で日本管区長秘書を務めていた時に「盛式四誓願司祭」になっています。

一方、この時代、イエズス会で叙階された日本人司祭は23人いましたが、「盛式四誓願司祭」となった者は一人もいません。


・鹿児島でのザビエル一行


さて、当時の鹿児島では、明・琉球・朝鮮などとの貿易が盛んに行われ、富の蓄積が進んでいたため中央の文化も流入し、領内には禅寺も多く、新しい宗教を受け入れるに相応な土壌があったと考えられています。領主 島津貴久もザビエル一行を厚遇し布教を許し、家臣に対しキリシタン入信を許可したとのことです。

ところが、ザビエルには、「出来るだけ速やかに京都へ行き『日本国王』である天皇から許可を得て、国の指導層を入信させ上からの改宗を実現したい」という強い意図がありました。

それは、「日本の政治体制は、将軍が天皇の委任を受けて日本全土を統治しているものである」との情報を、インドのゴアで既に日本人アンジロ-から得ていたからです。

貴久は、戦乱のために京都が荒廃していることなどを挙げて引き留めようとしたようですが、ザビエルは日本全体を改宗しようとの意気込みで来航しているのですから、京都へ行くことを主張して聞き入れません。

結局、到着の翌年1550年9月,平戸にポルトガル船が来航したのを機会に、ザビエル一行は貴久の仕立てた船で鹿児島を離れ平戸に移ります。

つまり、平戸まで送ってもらったわけで、一部で言われているようにザビエル来航の目的が宗教上の目的に限定されていたことを知って、貴久が冷淡な扱いをし追放したということでは、ないようです。むしろ、将来的に見込まれる貿易上の利益を考慮してか、貴久が相当気を使って丁重にザビエルに接していたことが窺がわれます。


・平戸から山口・堺を経由して京都へ


平戸でも領主 松浦隆信から歓迎され布教を許可されましたが、全国制覇の野望に燃えるザビエルが平戸に留まる筈もなく、翌月10月ザビエルとフェルナンデス修道士は、トーレスを残して平戸を発ち都に向かいます。

都への旅の途次、「山口の大内義隆は日本で最強の領主である」と聞き、11月に山口を訪れ宣教活動を開始し、大内義隆にも謁見しますが、翌12月山口を発ち京都に向かいます。

なぜ、一旦宣教活動を開始しながら僅か一か月で山口を去ったか、について、「男色を罪とする教えが義隆の怒りを買ったから」という説がありますが、定かではありません。

山口から京都へ向かう途上、知り合った日本人からの紹介状を頼りに、後に上方の代表的なキリシタンとなった堺の豪商日比屋了桂を訪ねます。

翌1551年1月、ザビエルは京都に到着しますが、戦乱に荒廃しきった情勢に失望し、10日間程度滞在しただけで京都を去ります。


・京都から山口経由平戸に戻るが、再度山口へ


1551年3月
、山口を経由し(首都・京都には多くを望めないと判断した以上、改めて山口を活動拠点とすることを考えたのでしょう)一旦平戸へ戻り、大内義隆に面会するための書簡や贈答品を携えて平戸を発ち、再度山口に入ります。再び義隆に謁見し、布教の許可と廃寺になっていた大道寺を住居兼教会堂として与えられます。


《ザビエル来日の目的は銀鉱山を押さえることだった?》

島根県のインタ-ネット・サイトの「世界遺産 石見銀山遺跡」の部には、
1568年、ポルトガル人製作者がインドのゴアで作った日本地図上の「石見」の位置に、ポルトガル語で「R.AS MINAS DA PRATA」(銀鉱山王国)と記載されている旨、記されています。

また、ザビエルが同僚シモン・ロドリゲス神父にあてた手紙(1552年4月8日付ゴア発)に、「カスティリャ(スペイン)人は、この島々(日本)をプラタレアス(銀)諸島と呼んでいる。このプラタレアス諸島の外に、銀のある島は発見されていない。」と書かれてあるとしています。

これらによって、ザビエルが日本渡航前から石見銀山の存在を承知していて、銀鉱山を押さえることを狙いとして来日したという説を読んだことがありますが、ザビエルが2年3か月にわたる日本滞在の後インドのゴアに戻ったのが、1552年2月です。

上記の手紙が書かれたのも、地図が作成されたのもその後ですから、これらによってザビエルが日本への渡航前から石見銀山の存在を知っていたとは言えないのではないか、と私は考えます。   


ザビエルは豊後からインドへ発ち、ト-レスとフェルナンデスは山口に残る


1551年9月
、ザビエルは、豊後府内(現在の大分市)にポルトガル船が来航した旨の知らせを受け、ト-レスとフェルナンデスを山口に残して豊後へ行き,守護大名大友宗麟に迎えられます。

ところが、山口が9月30日、挙兵した家臣 陶隆房(晴賢)に攻撃され、義隆は長門大寧寺で自害させられます。街では戦闘が続き、掠奪や放火が横行し、残されたト-レスとフェルナンデスにも身の危険が迫り、二人は市内の有力者内藤氏の妻の実家に匿われます。

豊後にいたザビエルは、そのまま11月、日本人青年4人とともにインドへ向け出発します。

(ザビエルがインドから派遣したバルタザ-ル・ガーゴ神父と二人の修道士ドゥアルテ・デ・シルヴァとペドロ・デ・アルカソ-ヴァは翌年8月に府内に到着します。)


因みに、インドに戻った後のザビエルは直ちに日本へ上記の通り支援要員を派遣するとともに、日本での活動によって痛感した中国布教の必要性に対応すべく、休む間もなく中国へ向かいます。
そして、疲れ果てのことだったのでしょう、マカオ付近の上川島に到着して僅か5カ月後に他界します。

1552年 2月 インド・ゴア到着
      4月 バルタザ-ル・ガ-ゴ神父と二人の修道士(上記)を日本に派遣
      5月 マラッカ到着
      7月 中国・上川島に到着
     12月 死去





(Ⅲ)1552年から1559年まで



・山口と豊後で


1552年、陶晴賢は大友義鎮(宗麟)の異母弟・晴英改め大内義長を新当主として擁立し、実権を掌握します。ト-レス、フェルナンデスは義長から大道寺の創建を許可する「大道寺裁許状」を与えられます。


1552年12月、第1回協議会を開き、担当地域を分割します。
         山口―トーレス、ダ・シルヴァ
         豊後―ガ-ゴ、フェルナンデス


1554年
、山口に飢饉が発生し、漸く上層階級にも改宗者が出現します。


1555年夏
、平戸に着いたポルトガル人商人兼南蛮医ルイス・デ・アルメイダが豊後へ行き、イエズス会に入会する決心をし、自己の全財産を豊後における慈善事業と布教活動の為とに分け、会に引き渡します。


・隣国・毛利氏の襲撃による危険を避けて、ト-レスとダ・シルヴァは山口から豊後へ


1556年初、隣国長門の大名毛利元就が、弱体化していた大内氏家臣団の間隙をぬって、山口の市内に攻め込み、大内義長は逃亡します。

ト-レスはダ・シルヴァとともに豊後へ避難し、比叡山に送っていた日本人修道士ロレンソとベルナ-ベも戻り、全員が豊後に集結しました。


・山口と豊後で実践されたト-レスの方針(日本の習慣の重視)


ト-レスは、山口において「慈善事業のひとつとして、死者の埋葬に協力すること」を主張、豊後では「日本人が葬儀等の死者に関わることを重視すること」を前提として布教活動を展開していました。また、次に述べるベルショ-ル・ヌ-ネスは「ト-レスが、7年間日本人の習慣に合わせ、肉食をせず、塩魚や野菜だけの粗食に徹していた」ことを報告しています。

この「日本の習慣の重視」の方針はザビエルの「現実(適応)主義」に沿うものですが、確かなことは、それが当時のヨ-ロッパ人の限界を超えた考え方であったことです。



《三カ月で逃げ帰ったヌ-ネス管区長はアルメイダの「人生の師」》



1556年
、イエズス会インド管区長ベルショ-ル・ヌ-ネス神父とガスパ-ル・ヴィレ-ラ神父、そして二人の修道士ギリェルモとルイ・ペレイラが到着。


ヌ-ネス神父は、日本の食事や生活環境に合わず三カ月で日本を去ります。同神父は功名心にかられ周囲の反対に抗して日本行きを決行したものの、日本の生活に順応することが全くできず、その機会を無駄にしたと、会の内部事情であるにもかかわらず、珍しく公然と批判されています。

ところが、その後の日本イエズス会の活動に多大の貢献をすることになる上述のポルトガル人商人兼南蛮医ルイス・デ・アルメイダが生涯の処世方針を決断するにあたって、人生の師と仰いだ人物が他ならぬこのヌ-ネス神父だというのですから、世の中分からないものです。


・豊後の病院運営と博多の教会建設


1557年、トーレスは大友宗麟から病院建設申し出に対する許可を得ると、アルメイダとパウロをその任に当たらせます。下層階級を対象とする病院運営は敵意の的となりますが、奉仕的な医療活動は着実にその範囲を広げて行きました。

同年9月、大友宗麟から博多にある広い土地を贈られ、ト-レスは平戸にいたガ-ゴを博多に送って教会建設を命じ、更に豊後からフアン・フェルナンデスとギリェルモとルイ・ペレイラを博多に送ります。


・博多の反乱と平戸からの追放


1559年初
、大友宗麟に対する筑前国衆・筑紫惟門の反乱が博多で発生、フアン・フェルナンデスは逃れましたが、ガ-ゴとペレイラは反乱軍によって捕えられた後に逃亡し豊後に戻ります。同じ頃、平戸では、大名の決定によってヴィレ-ラが追放され教会の取り壊しが命じられました。

その結果、神父三人と修道士六人の全員が、再び豊後に集結することになりました。

アルメイダは外科医学を教えながら、日本の薬品を学び、ドゥアルテ・ダ・シルヴァは病人を治療しながら要員の教育を続けていきます。

同年8月、トーレスは協議会を開き、ヴィレ-ラとロレンソを京都へ送ることを決定します。これは、そもそも、ザビエルが企図していたことです。
その後、ヴィレ-ラは京都に5年留まり、都での活動の端緒を築きます。




(Ⅳ)1561年から1567年まで


・横瀬浦→福田浦→口之津


1561年
、平戸において、ポルトガル司令官と14人の部下が殺害されるという事件が起き、1562年、より安全な場所を求めたポルトガル船は、横瀬浦港に投錨します。

この年、豊後の大友、佐賀の龍造寺、平戸の松浦と領地を接している大村の領主 大村純忠から「横瀬浦港を教会に提供し、ポルトガル貿易の自由港にしたい」という申し出があり、トーレスはアルメイダとベルショ-ルを横瀬浦に送ります。

7月、アルメイダは数名のポルトガル人を伴って純忠を訪問し、以下の内容で交渉が成立した(パチェコ・ディエゴ著「長崎を開いた人」p.96)とされています。

(純忠の要請事項) 修道士派遣と教会建設
(純忠の提示条件)・俸禄として周囲2レグア(10km)以内の農民を与える
         ・神父の許可なしに非信者を港に居住させない
         ・ポルトガル船のもたらす商品はいっさい免税とする
         ・全て申し出事項は10年間有効とする
         ・譲渡は教会に対しなすもので、ポルトガル人に対するものではなく、
          支配権は大名が保有する



1563年6月
    大村純忠と家臣25名が受洗
     8月15日 トーレス、「盛式三誓願司祭」に昇格
     8月17日 大村家 家老伊勢守の兄弟新助が 他の家臣針尾氏によって殺害され
           反乱が勃発
     11月下旬 純忠の義弟・後藤貴明により横瀬浦は焼打ちに遭い、教会は港を放棄




A.
焼打ち後、ポルトガル商人たちは再び平戸への入港を望んだが、大村氏の利益優先を図るイエズス会は難色を示し、おなじ大村領で外洋の角力灘(すもうなだ)に面した西彼杵(にしそのぎ)半島西岸の福田浦が開港された。」


B.1565年
、「松浦氏の水軍と堺商人の大型船が福田浦を襲い、ポルトガルの黒船二隻が応戦する『福田沖の合戦』がくりひろげられたが、襲撃側は敗退した。」


C.
「その後、1567年には島原半島の南端の口之津が貿易港になった」

(以上A~C、安野眞幸著「教会領長崎」p.6 より)


この年、ト-レス、ザビエルとともに18年前鹿児島に上陸した修道士フェルナンデスが,平戸で死去します。(享年41歳)



(Ⅴ)1568年から1570年まで



・この時期のト-レスの活動について

この時期のト-レスの活動を記したいくつかの文書の内容をまとめたものが、
パチェコ・ディエゴ著「長崎を開いた人」(p.226)にありますので、その部分を抜粋します。

1567年春、口之津にいる時に、大村純忠の訪問を受けた。おそらくその訪問の結果であろう、数か月後にアルメイダを長崎に派遣した。
1568年、志岐から口之津へ行き、9月に志岐から長崎へ渡る。
長崎から福田に、福田から10月に大村へ行って、そこに1570年4月まで留まる。
長崎へ行ってそこで大村純忠の訪問を受ける。病気になって、7月末まで長崎に滞在。
パ-ドレ・カブラルと会うために志岐に渡り、死去する(10月)までそこに留まっていた。―

これだけでは、ト-レスが長崎周辺を移動していたことと、大村純忠との間に接触があったことぐらいのことしか分りませんが、1571年の長崎開港に向けてこの時期種々の準備が進められ、そこにト-レスが一方の責任者として関わっていたことは間違いないことでしょう。

大村氏の寄進による「教会領長崎」の成立は、この長崎開港の約10年後の話です。


・後任布教長(原理)原則主義者 フランシスコ・カブラル


さて、上に名前が出てきたパ-ドレ・カブラルとは、トーレスの後任の布教長フランシスコ・カブラルのことです。カブラルが日本人を嫌悪し「私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民を見たことがない。・・・」と公言し、ザビエル、ト-レスの「現実(適応)主義」に対し、「(原理)原則主義」を貫こうとしたため、日本イエズス会は大きく変わったと言われています。

何故このような人物が後任布教長に任ぜられたのか、それまでのザビエル、ト-レスの努力を考えると残念な気がするのは私だけではないでしょう。

でも、ザビエル、ト-レスの「現実(適応)主義」が当時のヨ-ロッパ人の限界を超えた考え方だったとすれば、ロ-マの会本部には「適応主義」の必要性や有効性が理解されることなどは、ほとんど不可能だったでしょうから、たとえ布教長の後任に「適応主義」と全く相いれない考え方をする人物が選ばれたとしても、それはむしろ当然のことと考えるべきなのでしょう。



やっと、トーレスが布教長職を後任のカブラルに引き継ぎ、他界していくところまでたどり着きました。


私事ですが、実はこの2週間、咳が昼も夜も止まらないという恐ろしい風邪を引いて寝込んでしまいました。齢のせいか、当地の低温・多湿(当地の冬は90%以上の高い湿度のため、体感気温は5度以上低く、関節や呼吸器を傷める年寄が多いようです)の気候のせいか分りませんが、一時はどうなることかと思いました。幸いお医者さんの話では肺は傷めていないようです。

お陰で、温暖な気候のバレンシアに育ちながら、寒暖の差が激しく気候の厳しい日本で次第に衰弱していったト-レスの苦労の一端を偲ぶことが少しですができました。

以前、キリシタン時代の人物のなかで、ザビエルについては「聖人」とされているためもあって、礼賛・崇拝されることが多くリアルな人物像が結べず興味が持てないと書いたことがあります。ところが、今回この一連の記事を書いている中でザビエルのイメ-ジもだいぶ変わってきました。というより、ザビエルについて、リアルなイメ-ジを持てるようになってきたと感じています。その辺のことも含めて、次回、ザビエルとト-レスについて感じたり、考えたりしていることを書かせて頂きたいと思います。


《つづく》


[参考図書]

キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで―高瀬弘一郎著 岩波書店
教会領長崎 イエズス会と日本          安野眞幸著 講談社選書メチエ
イエズス会の世界戦略              高橋裕史著 講談社選書メチエ
長崎を開いた人―コスメ・デ・ト-レスの生涯―  パチェコ・ディエゴ著 中央出版社
日本巡察記 ヴァリニャ-ノ 松田毅一他訳    東洋文庫 229   平凡社












































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by GFauree | 2015-09-29 02:43 | ザビエルとト-レス | Comments(0)



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さて、やっとザビエルと一緒に来た神父コスメ・デ・ト-レスの話をする段になりました。


(Ⅰ)1510年から1548年まで

この人の人物像を掴もうとするとき、まず気付くことは、ザビエルに遭う以前の経歴がもう既に普通でないことです。


・司祭になるまでは順調だった

ト-レスは1510年に生まれ、1534年に司祭職を授けられています。ということは、24歳で神父になったということです。これは、神父になる年齢としては、普通より少し若いと私は感じます。

何歳で司祭に叙階されるかは、人によって実に様々ですが、私がこれまでに見聞きした限りでは、若くてもせいぜい26~28歳ぐらいです。

私が何を言いたいかと言うと、ト-レスという人は、スペインの一地方都市バレンシアの宗教的環境の中で素直に成長し、平穏で順調な生活を送っていたのではないかということです。


・司祭になる頃から迷い始めた

教区司祭として叙階されれば、教区の教会の助任司祭として主任司祭や信者のために働きながら、聖職者としての知識や経験を積んでいくのが普通でしょう。

ところが、ト-レスは、地中海沿岸のバレンシア・バルセロナ対岸のマジョルカ島やバレンシア近辺の小都市で、(「文法の」というのは「ラテン語の」という意味でしょうか)教師(「神学校の」ということでしょうか)をして3~4年を過ごします。

そして、1538年、一フランシスコ会士の誘いに応じて、セビ-リャからメキシコへ渡ります。

メキシコでも、フランシスコ会への入会を勧められたり、現地政府高官や家族からそこへ留まることを請われたりしたのに、それらを振り切って、1542年ビリャロボスの艦隊に乗り組み太平洋探検航海の一員となります。

なぜ、司祭に叙階された後の8年余りをこのように過ごしたのか、についてト-レス自身は「心の中に自分でも理解できない問題があり、常に安らぎがなかった」と述べています。

要するに、「自分が何のために生まれて来たのか、何のために生きるべきなのか」という疑問に取りつかれて、将来に向かって積極的に進んでいくことが出来なかったということなのでしょう。

こういう状態に陥ることは現代でも珍しくないことはご承知の通りです。そして、こういう状態は「モラトリウム」とか「青い鳥症候群」とか呼ばれて、否定的に論じられる場合が多いようです。

ですが、私はそれに同調することは出来ません。それは、私自身が還暦を過ぎるまでその状態を続けてしまったからです。傍からは、甘えてみえたりするのでしょうが、本人にとっては、とても苦しく、仕事などの社会生活は続けていくことはできるのですからそれを壊すわけにもいかず、年数が経てば経つほどその苦しさは深く強くなっていくのです。


・ト-レスが変わった


1546年
3月、アンボイナでザビエルに遭ってから、トーレスの心の不安は次第に解消していきます。翌年、ゴアに到着し教区司祭を勤めた後、「霊操」と呼ばれる精神修養を行い、イエズス会へ入会します。そして、1549年、ザビエルとともにゴアを出発します。

そのト-レスの変貌ぶりについて、一般的には、それがザビエルに感化されたためのものであると考えられています。そこで、改めて気付くことは、ザビエルにはそういう話が多いのです。

ザビエルを日本に連れてきた男、アンジロ-は日本で人を殺し海外に逃れている疾しさに苦しんでいたところ、知り合いのポルトガル人船長からザビエルを紹介され、感銘を受けそのまま行動を共にするようになったということです。

そのアンジロ-をザビエルに紹介したポルトガル人船長ジョルジュ・アルヴァレス自身も、故在ってザビエルに深く心服していたようです。

1551年、ポルトガル船が入港したとの知らせを受けて豊後に向かったザビエルの謁見を受けた大友宗麟もそれまで陥っていた人間不信から救われるような深い感動をザビエルから受けたと言われています。

このように、ザビエルが多くの人に与えた感銘とは、また彼が多くの人を引き付けた力とは、一体何だったのかが知りたくなってきます。けれども、それを知ることはそう容易ではなさそうです。ザビエルが「聖人」だったから、と言ってしまえば簡単ですが、それでは、答えにならないような気がしました。そこで、さらに考え続けていて、あることに気付きました。


・皆が悩んでいた

それは、ザビエルに遭って救われたとされている人たちに共通していることです。それは、人間としては当たり前のことかも知れませんが、この人たちが深い苦悩や不安を抱えながらも、それを何とか克服して生きていきたいと強く願っていたと考えられることです。

アンジロ-も、ポルトガル人船長も、大友宗麟も、そしてト-レスもそうです。

「大航海時代」という名称から、この時代の人々に対してはどこか勇ましく力強いイメ-ジを抱きがちです。でもよく考えてみると、その時代は、日本では百年近く続いた内戦に国中が疲弊し、世界的にも大きな変動の中で人々が不安と苦悩から何とか脱け出ようとして救いを求めた時代でもあったのです。

そう考えれば、ザビエルが奇跡を起こすような特殊な超能力を持った「聖人」であったか否かには関係なく、彼が人々の不安や苦悩に誰よりも真摯に向き合い寄り添う考えと能力を持ちそれを実践していたとすれば、多くの人に感銘を与え、多くの人を引き付けたのは当然のことだったと思えてきます。


・トーレスの人生観を大きく変えた経験


ト-レスの場合、ザビエルとの出遭いが、司祭になった頃から10年以上続いていた心の迷いに決着を付ける機会となったことは多くの人が認めることでしょう。

けれどもよく見直してみると、トーレスがザビエルと出遭う前に、おそらくは大きく人生観を変えさせられるような経験をしていることに気が付きました。

それは、ビリャロボスの艦隊の一員であった時のことです。
ルソン島・サマ-ル島・レイテ島に到達し、国王フェリ-ペ2世を称えて、フィリピン諸島と命名したのは、この艦隊です。

ところがその後、この艦隊は敵対する先住民によって島から追い出され、飢餓や難破に見舞われ、メキシコへの帰路の航路を捜索しながら彷徨します。そして漸く、モルッカ諸島に到達してからもポルトガル人との争いに敗れます。そもそも、[その2]に書きましたように、モルッカ諸島は1529年のサラゴサ条約によって、ポルトガルに売却してしまっているのです。

ビリャロボスは、1544年アンボイナの牢屋で死亡し、残った乗組員は1545年11月ポルトガル側に投降します。こうして、離散に追い込まれた艦隊の末路は食糧の確保すらできない凄惨なものであったことが想像されます。

こういう時こそ、人間や集団の脆さ・醜さが余すところなく露呈するものです。
この経験の直後、1546年3月ト-レスはアンボイナでザビエルと出遭ったのです。

逆に、その苛酷な経験がなければ、例え出遭うことがあっても、あれ程ザビエルに強く惹かれ、新たな人生を切り開く決断をつけるまでに至ることもなかったのではないか、と私は考えます。


・それでも、ト-レスは肥っていた


ところで、このように神父になってから10年以上経ち、35歳を過ぎてもまだ、人生如何に生きるべきかと悩み抜いて、スペインからメキシコそしてモルッカ諸島まで来てしまったトーレスという男は、一体どんな風貌をしていたのでしょう。

そもそも、まじめそうな神父さんだし、人生問題にそんなに長いこと悩んでいた上に、乗り組んだ艦隊が離散してしまうような悲惨な経験をしていたと聞くと、痩身・白皙とは言わないまでも、そう堂々たる体格をしていたとは考えられないところです。

ところが、実際のト-レスはかなり肥っていたらしく、「トルレス布教長は、来日当時は、あんなに肥って元気だったのに・・・。」と同僚の神父が書いているほどなのです。肥っているうえに長身でもあったということですから、もしかすると日本に来るまでは、気は優しくて力持ちのお相撲さんのような人だったのではと想像することもできます。

ただし、日本に来てから、肉食・大食を嫌い軽蔑する当時の日本人に合わせ、肉を食べず粗食に徹しているうちに痩せてしまったそうです。


と、ここまで書いてきて、やっとインドのゴアから日本へ渡航するところまでたどり着きました。
長くなってしまったので、ここで一旦区切らせて頂いて、日本への到着後については、また次回と致します。



〈つづく〉



[参考図書]

長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯- パチェコ・ディエゴ著 中央出版社




















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by GFauree | 2015-09-09 12:57 | ザビエルとト-レス | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。