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【大航海時代のおと】

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ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その6]

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                                  トーレスの故郷バレンシアの司教座大聖堂


前回、[その5]では、モルッカ諸島で出遭ってから日本で共に行動していた間、ト-レスの眼に映ったであろうザビエルの姿を想い浮かべてみました。

それは、以下のようなものでした。
繰り返しになりますが、整理のためにもう一度挙げてみます。


〈ト-レスの眼に映ったザビエルの姿〉


・まるで、現代企業における有能かつ模範的な「新規市場開拓推進責任者」

・海外布教活動が、カトリック教会(修道会)と王室権力とが「教俗一体」体制で進める「国家的プロジェクト」であることを十二分に理解し、自分もその担い手であることを自覚している

・「国家的プロジェクト」の一員として、ポルトガル海洋国家の貿易取引とその利益拡大に積極的に取り組み、その一環として、「堺へのポルトガル商館設置」などの手法を提案し、またその手法を実行する役割を自ら買って出る

・「国家的プロジェクト」に積極的に関わることの延長として、国家利益増大への「貢献者」国王の「能吏」で あろうとする

(ただし、堺商館設置の提案には、国王交付金への依存からの脱却という意図も抜かりなく含まれていた。そして、それは後に、イエズス会自身がポルトガル貿易に深く関わっていくことの伏線となっている。)


それでは、このようなノウハウや考え方をザビエルはいつ、どこで身に着けたのでしょうか。

それは、「イエズス会の歴史」を綴った同名の著書(ウイリアム・バンガ-ド著 原書房)に、「海外宣教」の経緯として記されたものから読み取ることが出来ます。


〈国家プロジェクト要員はこうして作られた〉



1540年9月、イエズス会は教皇パウルス三世から修道会としての認可を受けますが、その半年前、イグナティウスは国王ジョアン三世から海外布教のための宣教師を供出するよう要請され、シモン・ロドリゲスとニコラス・ボバディジャを選抜しました。ところが、ボバディジャが重病に倒れたため、3月14日代わりとしてザビエルを指名しています。

ジョアン三世が、宮廷での二人の生活態度に感銘を受けたため、ロドリゲスはポルトガルで司祭として働くよう留め置かれ、ザビエルは1541年4月、他の二人のイエズス会士と共にインドへ向け送られた、とされています。

ということは、ザビエルはインドへの出発前約一年間にわたって、リスボンの王室で、「教俗一体」体制で進められている海外布教の国家プロジェクトとしての枠組みを、じっくり教育されていたということになります。

そして、国王が感銘を受けたということは、その教育に対する反応が王室にとって「極めて都合よく好ましい」ものだったということでしょう。

つまり、ザビエルはリスボンを出発する時点で、既に国家プロジェクトの担い手であるとの自覚を持ち、国益増大への「貢献者」国王の「能吏」を目指し始めていたと考えられます。


次に、日本でのザビエルの行動が、まるで現代企業における有能かつ模範的な「新規市場開拓推進責任者」言い換えると「海外布教のプロフェッショナル」の行動であったことについて、ザビエルがインドにおいて、どのような経験を積んでいたかを確かめてみることにします。



〈どのような経験が海外布教(新規市場開拓)のプロフェッショナルを作ったか〉


1542年5月のゴア到着から1549年4月日本へ向けて出発するまでの約7年間、ザビエルは殆ど休むことなく布教活動に従事したようです。


1.1542年9月にインド最南端のコモリン岬東岸に至る遠征に出た後、約2年間ペスカリア(漁夫)海岸に留まります。

ペスカリア海岸での活動は、既に改宗していた住民2万人への要理(教義)教育から始める必要がありました。
それは、祈りの仕方や様々な祈りを現地(タミル)語に翻訳し、それを暗記し教える毎日を延々と続けていくことでした。


〈トラヴァンコ-ルの快挙〉


1544年、インド南西部海岸にあるトラヴァンコ-ルで14カ村を巡り、一か月のうちに1万人以上に洗礼を授けた、という話があります。

これには、「キリスト教を受け入れれば、イスラム教徒の掠奪者からポルトガル人が守ってくれることを知った一部の漁民が教会に向かい始めたから」という説明がされています。

また、「ザビエルがトラヴァンコ-ルで1万人に洗礼を授けた」という報告は、国王ジョアン三世をいたく感動させ、国王は、この知らせを各地の教会で発表するように命じ、コインブラで百人のイエズス会士を扶持すること、1546年初頭に、インドに12人を派遣することを取り決めた、とされています。(以上、「イエズス会の歴史」p.35)


まさに、ポルトガル国家の世俗権力とイエズス会という修道会とが「教俗一体」の体制で、その軍事力を活用して、「大量改宗」という偉業をなしとげたという知らせですから、「国家的プロジェクト」の責任者である国王が狂喜しても不思議ではありません。

けれども、わずか一か月のあいだに、現地の言語も充分に習得していない宣教師が、1万人もの先住民を改宗させたという知らせを、信じ込んでぬか喜びする国王の脳天気ぶりをみると、何時の時代も為政者というものは、脳天気でないと務まらないものなのか、などと考えてしまいます。同時に、その国王の脳天気を利用して、まんまと自派勢力の拡大をはたす集団の狡猾さも光ります。

「トラヴァンコ-ルの快挙」はイエズス会にとって、霊的な成功例であるだけでなく、自派の国王権力への更なる浸透と勢力拡大までを実現させるという現世的な成功例であったことになります。

そういう意味で、この成功例は、自分の所属する組織に対してのみならず、パトロン筋にあたる国王に対して如何に自分の活動をアピ-ルすべきかを学ぶ機会にもなり、海外布教プロフェッショナルとしてのザビエルを大きく成長させるものとなったと考えられます。

ただし、ザビエルが聖職者でありながら、「国王との直接のコネクション」を存分に活用していたことと、また「自分の挙げた成果をより良いものに見せる報告術」を持っていたことが、現地のポルトガル人官僚たちや、同じ聖職者仲間のうちにも多くの敵を作ったであろうことは想像するに難くないことです。

[その5]で書いた、日本に渡航するザビエルにマラッカ長官が5.7トンの最良の胡椒を贈与したという件が長官の信仰の深さやザビエルとの友情の篤さを表わす美談として語られることがよくあります。

けれども、現地官僚にとって、国王と直接のコネクションを持ちいつでも自分の頭越しに国王と連絡を取り合いかねないザビエルは、特別の配慮をしなければならない油断のならない相手であった筈ですから、法外に高価な贈与も、別に驚くほどのことではない、とも考えられます。



2.1544年8月から1548年3月まで、ザビエルはモルッカ諸島の布教に従事します。


現地調査、祈りや教義のマレ-語への翻訳、先住民への宗教教育に加えヨ-ロッパ人商人・船員・入植者への宗教的支援/指導に従事し続けたことによる心身の疲労に満ちた三年半であったとされています。


以上のインド国内、モルッカ諸島での布教の経験を通じて、ザビエルは、海外布教において、先住民の言語や考え方や生活様式を理解し取り入れることが必須であるという現地(適応)主義を学び、その正当性を確信したと考えられ、それが彼の日本での活動に反映され、ト-レスにも影響を与えたことになると思います。


3.1548年3月から日本へ向けて出発する1549年4月までの一年余り、ザビエルは宣教活動を整備し組織化するためのいわばデスクワ-クに注力します。

他のイエズス会士たちの処遇と、ゴア、サン・トメ、キイロン、バセイン、ホルムズ他拠点への配置を決定しています。

以上、ゴアに到着してから日本へ向け出発するまでの七年間、ザビエルはインド国内およびモルッカ諸島での布教、インド管区の布教体制の整備・組織化と殆ど休みなく働き続けていたようです。そして、この働きによって、インドを発つときには、既に海外布教(新規市場開拓)のプロフェッショナルとしてのノウハウを完璧に身に着けていたものと思われます。


次に、このザビエルを見て、ト-レスが何を感じ、思ったかを考えていきます。
それを考えるためには、その時、ト-レスがどのような考えを持っていたかを知る必要があります。そこで、問題になってくるのが、ト-レスが司祭になった頃から抱えていたという「不安や苦悩」というものが、何であったかということです。


〈ト-レスが抱えていた不安・苦悩〉



それについて、僅かな頼みの綱である評伝「長崎を開いた人」(ディエゴ・パチェコ著)には、次のように書いてあるだけです。

「しかし彼の心の中には大きな問題があった。『私の心は決して安らかにはなりませんでした。それは何故か、私には解りませんでした』」

そこで、私は、自分が若い頃から長年似たような経験してきたこともあって、彼の心理状態が、現代の若者の「モラトリウム」や「青い鳥症候群」と同じようなものだったのではと考え、[その3]に、安易にもそう書いてしまいました。


〈意外と用心深かったト-レス〉


ところが、今回改めて、ザビエルと出会ってからのト-レスの足跡を辿ってみて、あることに気付きました。
それは、アンボイナで出遭ってからも、ト-レスは、そう安直にザビエルに近付いたわけではないということです。

1546年3月、ザビエルとアンボイナで会った後、ト-レスは5月にそこを去り、ジャワからマラッカへ行き5か月を過ごし、翌年になってからゴアに着いています。そこで、ゴアの司教に認められ小教区を任せられます。

そして、イエズス会経営の聖パウロ学院を訪れ、ザビエルの同僚たちと知り合いになります。それは、まるでザビエルについて何かを確かめるような行動です。

そして、1548年1月下旬に、聖パウロ学院で「霊操」と呼ばれる精神修養に入ります。
それから、3月になって、ザビエルがゴアに上陸し、やっとト-レスはイエズス会に入ります。アンボンでザビエルと出遭ってから、ちょうど2年後のことです。

そこで、私は、ト-レスが実は、とても用心深い人だったのでは、ということに思い当たりました。

そして、同時に、「何故彼がそれほど用心深かったのだろうか」と考えているときに、自分がひじょうに重要なことを見落としていたことに気付きました。それは、「ト-レスはどのような時代に育ったのか」ということです。


〈ト-レスが育った時代は、宗教改革の真っただ中〉


ト-レスの生まれた1510年は、時のロ-マ教皇ユリウス二世が、宗教改革のきっかけとなった贖宥状(免罪符)を売り出す2年前です。
贖宥状とは罪の償いを軽減するという証明書です。

この贖宥状に関して、マルティン・ルタ-が「95か条の論題」を提示したのが、1517年ト-レスが7歳のときです。

そして、ト-レスがバレンシアで司祭になった1534年は、「対抗宗教改革の旗手」イエズス会が、パリのモンマルトルの丘の聖堂で誕生した年なのです。

それから、カトリック教会の刷新と自己改革の原動力となったと言われる、トレント公会議が招集されたのは、1545年3月、ト-レスがビリャロボス艦隊の一員として、南太平洋を彷徨っていたさなかです。

ト-レスの誕生から、司祭叙階、南太平洋彷徨までの経歴が「宗教改革運動」の展開に符合しているように見えます。

そこで生ずる疑問は、彼は若くして司祭に叙階されていることから見ると、カトリック社会の中で純粋培養に近い状態で育成された可能性がありますが、宗教改革運動の動静を日頃の生活の中で感受する機会が本当に無かったのか、ということです。

それは、ロ-マ教皇を頂点とするカトリック教会上層部の腐敗・堕落の情報が、カトリック教国スペインの一地方大都市バレンシアに、全く伝わらなかったということは、あり得ないのではないかということです。

そして、たとえ僅かであったとしても、伝わった情報がトーレスを含む信者や司祭に動揺を与えることがあった、と考える方が自然ではないか、と思うようになりました。

それは、バレンシアの教会の歴史を調べればわかることかも知れません。けれども、仮に記録に残されていなくても、宗教改革に関わる動きが無かった、と断定することも出来ません。それは、教会にとって都合の悪い記録が無視されたり、抹消されたりということが歴史上あったことは、残念なことですが間違いがないからです。


〈対抗宗教改革は教区司祭や信者によって始められた〉


「カトリック教会による対抗宗教改革は『カトリシズムの近代的再興』であった。これは宗教改革運動によって失ったカトリックの勢力圏を奪回し、同時に新たな布教地の開拓と獲得を意味していた。

カトリック教会再興の企ては、一般の在俗信徒や少数の司祭で構成された『信心会』を中心としてはじめられた。とりわけ、一般在俗信徒のカトリック信仰への強い情熱と高まりが、ロ-マ教会を新たに再生してゆくうえで非常に大きな原動力となった。」

(以上、「イエズス会の世界戦略」p.45より)



ここで、「在俗」というカトリック教会に関しては聞き慣れない言葉が使われています。
おそらく、「出家」に対する「在俗」という仏教用語を転用したものと思われますが、一般にカトリック教会に関して使われる場合、「在俗信徒」は「聖職者でない信者」の意味で、「在俗司祭」とは「修道会に所属しない教区司祭」の意味で使われるようです。


ただ、聖職者でない一般の信者は、通常、俗人の生活を送っていますから、それをわざわざ「在俗信徒」と呼ばなくても、「(一般)信者」で意味は通じると思います。

司祭については、修道会に入ることを「出家」と考えて「修道会に所属しない教区司祭」を「在俗司祭」としたのだろうと思います。
(確かに、小学館 西和中辞典には clero secular の訳語として「在俗司祭」が載っています。)

ですが、「教区司祭」は教区の教会に所属していただけで、別に俗人の生活を送っていた訳ではないのですから、わざわざ実態を表わしていない「在俗司祭」などという言葉を使う必要はないのではないでしょうか。

「修道会司祭」と「教区司祭」の違いは、大航海時代・キリシタン時代に限らず、カトリック教会の組織を理解するうえで重要なポイントです。実態と合わず誤解を生みやすい「在俗司祭」ではなく、実態を表わしていて平易な「教区司祭」という言葉を使うべきでは、と私は思います。



さて、上記の引用文の意味は、対抗宗教改革というものが

カトリック教会が、宗教改革によって失った勢力圏を奪回し、同時に新たな布教地を開拓し獲得することを意味し
・教区の司祭や信者で構成された「信心会」を中心として始められたものであった、
ということでしょう。


これによって、宗教改革に対抗するカトリック教会内の動きとして、海外布教の活動が加速されたであろうことと、もうひとつは、ト-レスの故郷バレンシアでも、対抗宗教改革に類する動きが信者や聖職者の間で起こっていたのではないか、ということが考られえます。



〈身の危険が生じることもあった、宗教改革後のカトリック教会内の対立〉


フランスのユグノ-戦争などカトリック対プロテスタントの紛争が血なまぐさい内戦にまで発展したことは、常識になっているかも知れませんが、宗教改革後のカトリック教会内部の改革をめぐる対立も、決して静かな論争だけが行われていた訳ではありません。

例えば、イグナティウス・ロヨラと言えば「対抗宗教改革の旗手」イエズス会の初代総長ですから保守派の権化のように思われている人も多いと思いますが、そのロヨラでさえ教会内の反動勢力の拘束を受けたり、粛清を警戒したりしていた形跡があります。


・1523年
、エルサレムに巡礼後、アルカラ、サラマンカ両大学に在籍し、勉学と同時に宣教活動も始めましたが、アルカラで、異端審問所の疑惑を受け約1か月半監禁されています。

・1537年、ロヨラは、エルサレム巡礼の祝福と仲間が司祭に叙階されることの許可を求めるため、仲間をローマに送りましたが、自分は行きませんでした。これは、ロヨラが企図していたことに反対する有力者による拘束等の危険を避けるためだったと考えられます。

従って、たとえ対抗宗教改革的な活動であろうと、もしト-レスがこれに加わったとすれば、反動派から拘束されたり粛清されたりする危険性は充分にあったのです。


〈ト-レスの心の問題とは、実はこれだった〉


ト-レスが司祭に叙階された後も、教区司祭の職に就かず、約4年間教師を勤めたすえ、メキシコに旅立った理由として、評伝「長崎を開いた人」は「彼の心の中に大きな問題があった」として、それが彼自身の内面の問題であるかのように書いています。

けれども、私は、今まで見てきたことから、彼が育った時代と置かれた環境こそ、問題だった筈だと考えるに至りました。


際限なく露呈していくカトリック教会上層部の腐敗・堕落の実態、それに対する宗教改革・対抗宗教改革の動き、カトリック教会内部の改革をめぐる対立、その対立による粛清や拘束等の具体的な身の危険等々の中で、たとえ改革について自分なりの意見があろうと、トーレスにとって、まず必要なことは沈黙を貫いて自分の身を守ることだったのではないか、と私は考えます。


そういう状況の中で、ト-レスは教区司祭の職には就かず、語学教師(おそらくは、神学校またはカトリック系の学校の)として働きながら、既に司祭として叙階された以上は「神と信者に奉仕する司祭の本分を果たしたいと考え、そうするにはどうすれば良いか」を、きっと考え続けていたことでしょう。



実は、「イエズス会の歴史」(ウイリアム・バンガ-ト著)p.14にも、会士について似たような表現があるのを見つけました。

それは、イエズス会創設メンバ-七人のうちの一人ピエ-ル・ファ-ヴルに関する表現で、「イグナティウスと出会ったとき、ファ-ヴルは疑悩と誘惑から来る深い内的な苦しみを抱えていたうえ、召命について決めかねて悶々としていた。」という部分です。

評伝「長崎を 開いた人」の著者も、このウィリアム・バンガ-トもイエズス会士ですから、これがイエズス会士の内面的苦悩を表わす常套句なのかも知れません。

それと、特にこの時代には、自分の考えを語ることは、その考え方がプロテスタント的であるとか、異端的であるとか言われて攻撃される危険が高かったと考えるべきなのだろうと思います。その危険を避けるためには、このように「自分が抱えている問題は内面的な悩みだ」とする方がより安全だと考えた故にこういう表現を使ったのではないか、とも私は考えています。

後に、この時代の自分の精神的な状況を説明する際にも、ト-レスは同様の表現をしているようです。たとえ、イエズス会の内部であっても、安全な表現を使って余計な嫌疑がかからないようにしていたのでしょう。そういう点にも、ト-レスの用心深さが表れているように思います。


〈ト-レスはなぜメキシコに行き、なぜそこを離れたか〉


そして、その問題の解決策として浮かんできたのが、上記「イエズス会の世界戦略」からの引用文にも「新たな布教地の開拓と獲得」として挙げられている、「海外布教活動」だったのでしょう。


「国をあげて新大陸の開発に乗り出そうとしていたちょうどそのころ、スペイン人は、ルタ-の宗教改革に刺激されて、腐敗のきわみにあったカトリックを内部からたてなおそうとする、反(対抗)宗教改革のまっただ中にあった。

この(対抗宗教)改革に情熱を傾けていた一部の聖職者は、新大陸の発見のうちに、神の啓示を感じとった。・・・ところが、燃えるような志をいだいて海をわたってきたかれらが眼にしたのは、スペイン人植民者に奴隷におとしめられ、痛めつけられ、あえぎながら死に絶えていく先住民の、目をおおうばかりの惨状であった。」
(幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折 伊藤滋子著 同成社)p.10~11


ト-レスの場合は、「燃えるような志をいだいて、海をわたった」という感じはしませんが、内部からのカトリック立て直しの一環である海外布教に活路を求めて、メキシコへ渡航したことは確かでしょう。

そして、上記の引用文の通り、スペイン人に搾取された先住民の惨状を目にして、そこが自分の聖職者としての本分を果たせる場所ではないことを悟ったのでしょう。

ト-レスの人柄に惹かれて、慰留してくれる植民地官僚の家族がいたにしても、自分がメキシコへ来た動機を考えれば、その住込み司祭の話に乗れる筈もありません。


〈ビリャロボス艦隊に乗り組んだのは、未踏の土地で司祭の本分を果たすことを期待したから


そこで、スペインにとってほとんど未踏の土地である南太平洋に向かうビリャロボス艦隊に乗り組むことにしたのでしょう。
もし、艦隊が新たな征服地を発見すれば、そこが福音を伝えるべき布教地となることまで考えてのことだと思います。

ところが、ビリャロボス艦隊はメキシコへの帰路捜索に失敗し、南太平洋を彷徨(さまよ)ったあげく、モルッカ諸島でポルトガルに投降しました。ただ、そのおかげで、ト-レスはザビエルと出遭ったのですから、人生どう転ぶか分りません。


以上、ザビエルに出遭うまでのト-レスは、故国での語学教師、メキシコでの生活、ビリャロボス艦隊を経験しながら、スペインから南太平洋までを12年間にわたり点々と移動してきました。それは、おそらく、ただ「神と信者に奉仕するという司祭の本分を全うする生活を求めて」のことだったのでしょうが、そのささやかな期待は裏切られ続けました。

そういうト-レスの目にザビエルはどう映ったでしょうか。


〈ト-レスの目に映ったザビエル〉


まず、カトリック司祭でも、それまでに会ったことのないタイプですから驚いたでしょう。
そして、海外布教事業についてのザビエルの意欲や知識の水準が桁外れに高いことについて驚くとともに、それが一体どこから来るものか疑問をもっただろうと思います。最初の出遭いは、そんな反応で終わったかも知れません。


カトリック教会内の改革的な事柄についても、海外布教についても、散々失望を味わってきたト-レスが安直にザビエルに接近していかなかったことは、既に書いたとおりです。


従って、ザビエルから誘いはあったかも知れませんが、用心深くなっていたト-レスは、自分でインドのゴアへ行き、そこで教区の司祭として採用され、徐々にイエズス会に接近しザビエルから受けた印象が本物であるかどうかを自分で確かめていきます。


1548年3月
、ザビエルがゴアに戻り、約1年をかけて日本への渡航を準備しますが、海外布教事業が「教俗一体」体制で進められている国家的プロジェクトであることや、ザビエルがその一翼を担おうとしていること、またザビエルが国王・総督・長官などと直接のコネクションをもっていることなどをト-レスが知ったのはこの時期かも知れません。

それを知ることによって、トーレスはザビエル対して当初抱いた疑問の答えを得ただけでなく、自分がメキシコで失望を味わったものとは全く違う次元で進められようとしている海外布教に希望を感じ、またそこでザビエルが主導的な位置を占めようとしていることも知らされたと思われます。


ト-レスは、宗教改革の動揺の中で消えかけていた「神と信者に尽くすという、司祭の本分」を果たすために、海外布教の道を選んだわけですから、やっと自分が望んだことが実現される可能性を感じられたことになります。


ト-レスがこういう感激を味わうことができたとすれば、その後、日本での布教において、彼がザビエルの意図を尊重しその指示を着実に実行していったのは、ある意味で自然なことであり、単に彼が従順な性格だったからなどという理由からではなかったことも当然のことです。



〈おわりに〉


1.
若い頃のト-レスが抱えていた不安とか苦悩とは、実は、「宗教改革に揺れ動くカトリック教会への不信感」であり、ト-レスは、ザビエルの中に、その不信感を乗り超えるための答えを見出したのではないか、という解釈は、今回この記事を書き出した時には、思いもよらなかったのですが、ザビエルの行動を見直していたときに思い付いたものです。


実は、不安とか苦悩の原因として、彼が新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)の家系の出身であったという解釈を考えたこともあります。

イエズス会の重要人物の中に新キリスト教徒の家系出身者は決して珍しくはないようです。

例えば、創設時の七人のメンバ-の一人で、第二代総長となった、ディエゴ・ライネスがそうですし、南米大陸のカトリック教会史上の重要人物の一人と目され、『インディオ救霊論』『新大陸自然文化史』の著者としても知られている、ホセ・デ・アコスタも「母方が、新キリスト教徒の家系に属する可能性が大である」(「スペイン帝国と中華帝国の邂逅」平山篤子著)とされています。

けれども、ト-レスについて、根拠のないまま、そういう解釈に頼ることは安易過ぎる気がしたので止めておきました。



2.
今回、この記事を書くことによって、確かにザビエルが、卓越した頭脳と強靭な意志を持った類まれな人物であったらしいことは、理解させられたような気がしますが、また同時に、知れば知る程、安心して付き合えない油断のならない面も持っていた人ではないかと思うようになっています。

そのザビエルの「油断のならない面」は、新興の修道会であるイエズス会を自らの海洋帝国構築に利用しようとした国王権力側の人たちも、それに乗じて自己の勢力の復活と拡大を果たそうとした教会側の聖職者たちさえも、感じていたかも知れない、と私は思います。


一方、ト-レスについては、当初は、自分の意思のはっきりしない、理由もなく従順な人物という印象を持っていました。けれども、「ただひたすらに、司祭としての本分を尽くしたい」という謙虚な願いを守り通すことによって、図らずもスペインから日本までの壮大な軌跡を辿ることになったという人物像が浮かび上がってきて、親近感と尊敬さえ感じられるようになっています。


常に脚光を浴び続けるザビエルに対し、あまり顧みられることのないト-レスについて、何かがあったはずだと考え、ひとつの解釈(仮説)を思い付いただけのことですが、それはそれで、結構楽しいものです。


3.
私は、ト-レスについて、ずっと以前から、ザビエルと一緒に来た神父がいたことと、その人について書かれた本があることは知っていたのですが、ザビエルに関心がもてなかったことから手が出せないでいたところ、偶然、山手線・恵比寿駅前の古書店で、その本「長崎を開いた人」をみつけたのです。15年ぐらい前のことで、勤めていた会社の支店訪問をした帰りでした。

その古本屋さんには、なぜかキリシタン時代関係の良い本が置かれていました。でも、値段がちょっと高めだったような記憶があります。
あのお店は、まだあるのでしょうか。その後、その本がこんなに遠いところまで随いてきて、ついに役立ってくれたという訳です。


著者のディエゴ・パチェコ氏は、結城了悟という日本名を持つイエズス会司祭でありキリシタン史家です。したがって、当然のように、書かれていることに(書く以前に考えていることに、かも知れません)イエズス会司祭としての限界があります。

少し残念なことですが、それは、また、「日本史」の著者ルイス・フロイス以来の伝統でもあります。

そして、著者パチェコ氏や翻訳者佐久間正氏の尽力が無ければ、ト-レスについて私たちが知る手掛かりは他には殆どないのですから、大いに感謝すべきことでもあるのでしょう。



4.
また、とかく賛美・崇拝されることが多く、そういう言辞に接するたびに、その存在が遠のいていくように感じていたザビエルについて、自分なりのイメ-ジがもてるようになったことは収穫です。


全くの私事ですが、ザビエルは私の父親の霊名であり、父がザビエルを尊敬していると言ったのを聞いたことがあるような気がします。
以前書いたことがあるのですが、私は自分の父親と本当に腹を割って話をするという経験を持てませんでした。

そのため、今回ザビエルについて、自分なりに納得できるイメ-ジが持てたことで、父親との繋がりを少し感じることができたような気がしているのです。思い出す父親は、誰にも理解されず歯を食いしばって生きていたような人でした。
こういうことで、せめてもの鎮魂になれば嬉しいのですが。



〈完〉



[参考図書]

イエズス会の世界戦略                 高橋裕史著 講談社メチエ
イエズス会の歴史            ウイリアム・バンガ-ド著 原書房
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯-パチェコ・ディエゴ著 中央出版社
幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折         伊藤滋子著 同成社
スペイン帝国と中華帝国の邂逅 十六・十七世紀のマニラ 平山篤子著 法政大学出版局














































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by GFauree | 2015-10-21 05:22 | ザビエルとト-レス | Comments(3)

ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その5]



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ここからは、1546年3月モルッカ諸島のアンボン島で出遭ってから、日本でともに活動した間、ザビエルがトーレスの眼にどのように映っていたかを考えてみたいと思います。

そのために、まず、ザビエルの日本での活動はどのようなものだったのかを振り返ってみることにします。


1.ザビエルの日本での活動はどのようなものだったか


以下に、彼の日本での活動について気が付いたことを挙げてみます。


(1)滞在期間の短かさと移動の多さ

ザビエルは、1549年8月に鹿児島に着き、1552年11月豊後を発っていますから、滞在期間は僅か2年3カ月です。

この2年3カ月の間に、鹿児島→平戸→山口→堺→京都→山口→平戸→山口→豊後、と移動を繰り返します。

旅の手段は徒歩か船でしょうから、移動のための体力負担だけでも大変なものです。

1551年3月、京都から平戸に戻ってきたザビエルは、「以前よりやつれ、頭髪はほとんど白くなっていた」(パチェコ・ディエゴ著「長崎を開いた人」p.24)とされています。

そもそも、ザビエルは1542年5月にゴアに到着以来、インド国内を初め、マラッカ(シンガポ-ル)、モルッカ諸島などへの旅を繰り返していますから、席の温まる暇がなかったのは日本滞在時だけの話ではないのです。それだからこそ、モルッカ諸島・アンボイナ島でのト-レスとの出遭いや、マラッカでの日本人アンジロ-との出会いも起こり得たわけですが。

ザビエルは、豊後を発ってから3カ月後にゴアに着き、その2か月後にマラッカへ、またその3カ月後に中国沿岸の上川島に着き、上川島到着から5カ月後つまり豊後出発から約1年後に亡くなっています。

死因は心身の衰弱、要するに『過労死』です。


(2)綿密・周到な情報収集


①京都を目指した理由

ザビエルが鹿児島から京都を目指したのは、インドのゴアにおいて既に、日本の政治体制に関する情報を得ていたからであったことは、前回[その4]に書きました。

ザビエルは、ゴアのコレジオで日本人アンジロ-の指導にあたったイエズス会士ニコラオ・ランチロット神父に日本に関する情報をアンジロ-から聴取させ、『日本情報』として編纂させています。

ザビエルがゴアで得ていた情報の中には、上記の「日本の政治体制」に関するものの他に、「中国と日本との関係」に関わるものもあります。両国間の文化のつながり、とくに仏教が中国を経て日本に伝わったことなどです。ザビエルが日本からゴアに戻った後、直ちに中国・上川島への渡航を実行したのは、この情報と日本への渡航によって、中国布教の必要性を痛感させられた為だと考えられています。

また、これ以外にも、ポルトガル人商人ジョルジュ・アルバレスに対し日本に関する情報を求め、アルバレスは1547年に『日本報告』を執筆しています。
(高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」 p.25~26より)


②堺の有力者を訪ねた経緯


ザビエルが、「(山口から京都へ向かう)旅の途中で知り合った或る日本人からの紹介状をたよりに、上洛の途中、堺で豪商日比屋了珪を訪ねており」(「キリシタンの世紀」 p.29より)と読むと、「ザビエルが堺の有力者を訪ねたこと」が何か偶然であったような気がするのですが、それは決して偶然に起きたことではなかったと考えられます。

それは、「堺は、応仁の乱(1467から77)のあと、遣明船の発着港とされ、・・・、瀬戸内海航路と土佐から南九州、沖縄にいたる南海路との交易の主導権を握って、めざましく発展した。そして、戦国時代にそこの豪商たちが自治権を得るまでになっていた」こと、
(武光誠著「海外貿易から読む戦国時代」PHP新書 p.40)

そして、「(堺は)日本の流通の中心であり、国内でもっとも豊かな町であった」(同書p.159)ことや、豪商たちの存在も、既に海外に知られており、ザビエルもそれらのことを、来日前に知っていたと思われるからです。


③日本での滞在・移動中の情報収集と得られた情報への対応


「平戸から京都へ向かう旅の途上、大内義隆の噂を聞いて山口に寄った」という話は、ザビエルが布教の拠点とすべき土地に関する情報取集に如何に注意を払い、得られた情報に如何に迅速に対応しようとしたかを物語っているように思います。

(ただし、山口・大内氏や石見銀山に関しても、ザビエルが既に海外で情報を得ていた可能性はあります。)

1550年9月、平戸にポルトガル船が来航したとの情報を得て、鹿児島から平戸へ移動し、
1551年9月、豊後・府内にポルトガル船が来航した情報で、山口から豊後へ移動しています。

ザビエルがポルトガル船到着地に駆けつけた理由は、ポルトガル人乗員のミサや告解などの宗教的要請に対応するためだけでなかったことは明らかです。到着地の領主にイエズス会の影響力を示す絶好の機会として、ザビエルは存分にその機会を活用し、平戸・松浦隆信からも豊後・大友義鎮(宗麟)からも布教許可を得ているのです。

ザビエルのことですから、船で来日するポルトガル人たちが、到着したら遠隔地にいる自分の所へ連絡を送ってくる様に、事前に手配をしておいたことが考えられます。



(3)一旦決めたことをやり通す意志と責任感の強さ


①鹿児島・島津貴久や平戸・松浦隆信の慰留を振り切って京都へ向かったこと

-首尾よく布教許可を得ても、その地に安住せず、あくまでも頑固なまでに当初の方針を堅持してその地を離れた感じがします。

②インド・ゴア到着2カ月後に、神父一名・修道士二名の応援要員を日本に向けて派遣したこと。

-支援要員の派遣などは、どこの組織でも後回しにされるのが常でしょう。
 到着から2か月後に要員が送られたということは、到着直後に手配したということです。
 (それだけザビエルの日本という新規市場への期待が強かったか、またそれだけザビエルの組織内での権限が強かったとも考えられます。)


以上、日本滞在中のザビエルの行動から、注目される点を抽出してみました。
これをお読みになって、ザビエルの行動にどんな印象を持たれたでしょうか。

私は、ザビエルの活動が現代企業の「新規市場開拓」といった類の活動にとてもよく似ていること、そしてザビエル自身はその種の活動の「有能かつ模範的な推進責任者」のイメ-ジに重なることに驚いています。



それでは、ザビエル自身はこういう活動を展開しながら、どんなことを考え、何を目指していたのでしょうか。



2.ザビエル自身の考えと彼が目指したもの


ここに、ザビエルが鹿児島に着いてから約2か月後の日付の二通の書簡があります。

一通は、ゴア在住のイエズス会神父宛て、もう一通はマラッカのポルトガル長官宛てのものです。



[Ⅰ] 1549年11月5日付鹿児島発(イエズス会神父)アントニオ・ゴメス宛書簡


神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親書とともに献呈できるような相当な額の[金]貨と贈り物とを携えて来てもらいたい。

もしも、日本国王が私たちの信仰に帰依することになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと、神において信じているからである。

[堺は]非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町である。日本の他の地方よりも、金や銀がたくさんある[ので]この堺にポルトガルの商館を設けたらよいと思う。

私がインドで経験したところでは、[物質的な利益に]関係なく、神への愛だけで、神父たちを渡航させる船を出す者は、誰もいないと信じている。



[Ⅱ] 1549年11月5日付鹿児島発(マラッカ長官)ペドロ・ダ・シルヴァ宛書簡


もしも閣下が私を信頼してくださって、[この地方に]送る商品の管理を私にご一任くださるなら、私は『一』から『百』以上に増やすと断言する。

これは、今までマラッカの長官が誰もしなかった確実な方法で、信者になる貧しい人たちにすべての商品を与えるのである。
利得は確実で、少しも危険はない。


以上、書簡[Ⅰ]・[Ⅱ] (高橋裕史著「イエズス会の世界戦略」p.78より)




各書簡の意味するところは、以下の様なことと考えられます。

書簡[Ⅰ]

・キリスト教の布教は国王同士の関係の中で進められるべきものであるので、宣教師は、日本国王宛てのインド総督の親書と、相当の価値のある貴金属と品物を持参すべきである。

・日本国王が改宗すれば、ポルトガル国王は莫大な経済的利益を得るのだから、それによって上記の貴金属と品物の経済的負担を補うことが出来る。

・堺は日本中の金銀の集まる豊かな港だから、ここに商館を設置すべきだ。

・経済的な利益が得られる見込みなしに、神への愛だけで宣教師を運ぶ等の協力をする商人はいない。


書簡[Ⅱ]

・マラッカから日本へ送る全商品の(販売)管理を自分に委託してほしい。
・信者になる貧しい人々に販売するという、斬新な手法がある。
・その手法によれば(信者を対象とする以上)利益は確実で、全く危険はない。



《5.7トンの良質胡椒の話》

これらの書簡に加えて、ザビエルは日本に渡航するに当たり、マラッカ長官から最良の胡椒30バ-ル(5700キロ)の贈与を受け、これを日本に持って来て売り、経費に充てた可能性が高い(「キリシタンの世紀」p.35)という話があります。

布教活動にも生活費は当然必要ですから、私はこれを問題視しても仕方がないのではと考えていたのですが、今回改めて、貴金属並みだったと言われている当時の良質胡椒の価格や5.7トンという相当な量と、上記の書簡[Ⅰ]の内容を考え合わせると、胡椒を現金化して得た多額の金は一体何に使われたのかという疑問も湧いてきます。

鹿児島・島津貴久、平戸・松浦隆信、山口・大内義隆からの布教許可が得られたのは、良質胡椒の効果だったのかも知れません。



書簡のことに戻りますが、日本での布教開始直後のこの時期に既にザビエルがここまでのことを考えたり、書いたりしていたということに、少し驚きました。ザビエルは、一体何を考え、また、なぜこのようなことを書簡に書いたのでしょうか。

その疑問に対する答えを得るためには、彼が置かれていた状況を知る必要があります。
彼が置かれていた状況とは、彼が行おうとしていた海外布教活動の枠組みのことではないかということに思い当たりました。そこで、彼の時代の海外布教の枠組みを見直すことにしました。



3.大航海時代の海外布教の枠組み


大航海時代の海外布教は、教会法に基いて、ポルトガル・スペイン両国家の後援の下に、カトリック修道会が行ったものです。

イベリア両国の後援とは、ロ-マ教皇が両国王室に対し布教保護権を与え、両国王が布教地の教会運営に保護者として関与することです。

布教保護権による両王室の権利と義務の内容は以下の通りです。

〈権利〉 司教区の設置を決め、司教、教会役員、教区司祭を指名・推薦することができるこ
     と。
〈義務〉 司教区とそこで働く教会聖職者を経済的に支えるほか、カトリック信仰宣布に尽力
     すること。


インドについては、1534年、ポルトガル国王を布教保護者としてゴア司教区が設置されました。
これによって、インドにポルトガルの「布教保護権」が及ぶこととなり、ポルトガルという国家とイエズス会という修道会とが、一体となってインドのカトリック布教を進めていく体制が作られたことになります。

ザビエルは、ポルトガル国王ジョアン三世のローマ教皇とイグナティウス・ロヨラに対する要請によりインド派遣要員として選抜された三名のうちの一人であり、1541年4月リスボンを発ち、翌年1542年5月ゴアに到着したのです。



4.大航海時代の海外布教の枠組みの観点から、書簡[Ⅰ]・[Ⅱ]の内容について考える

     
書簡[Ⅰ]は、イエズス会同僚神父に対し、今後の布教の進め方について見解を示したものです。

(1)教会と国家が「教俗一体」となって進める以上、ポルトガル国王を前面に出して、相手国国王に直接働きかけるべきである。
(2)その際、ポルトガル国王が費用を負担することが必須であるが、その負担費用以上の経済的利益が将来必ずもたらされる。
(3)王室の経済的負担は、また「教俗一体」となって取り返す考え方が必要であり、その考え方から、自分は「堺の商館設置」を提案したい。


書簡[Ⅱ]は、マラッカ長官に対し、今後の貿易取引の進め方について提案しているものです。

(1)自分は教会側の人間であるが、ポルトガルの貿易取引と利潤の拡大については、積極的に取り組んでいくつもりである。
(2)貿易取引と利潤を拡大するために自分が考案した手法を提案し、その手法を推進することを自ら買って出る


以上の書簡に表れたザビエルの考えから、ザビエルが目指したものが浮かび上がって来ます。


5.ザビエルが目指したもの


(1)ポルトガルの国家利益への「貢献者」、ポルトガル国王の「能吏」を目指したザビエル

海外布教を「教俗一体」の体制で進めるべき国家的プロジェクトと捉えるとすれば、王室側に布教に関わる負担を求める以上、教会側も国家の貿易取引や利益拡大に積極的に尽力すべきであると考えたのでしょう。ザビエルは国家的プロジェクトに積極的にかかわることを心がけるなかで、次第にポルトガルの国家利益増大への「貢献者」ポルトガル国王の「能吏」を目指すようになっていったとも考えられます。


これは、様々な面で最もザビエルの後継者と呼ぶにふさわしいと考えられるイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの1582年12月14日付フィリピン総督宛書簡(ザビエル書簡から33年後)について、そこに示されているヴァリニャ-ノの姿勢が、
ポルトガル国王の『能吏』としてのそれであり、ポルトガルの国家利害の『代弁者』のそれである」と指摘されている(高橋裕史著「イエズス会の世界戦略」p.80)ことと、共通します。


(2)ポルトガル国王交付金・ロ-マ教皇交付金をあてにできなかったイエズス会

ポルトガル国王は、王室布教保護権の制度に基き、イエズス会の布教活動に対して経済援助おこなう義務がありました。また、イエズス会には、そのポルトガル王交付金に加えて、ロ-マ教皇からも交付金が支給されることになっていました。

ところが、実情は、それらの交付金の支払いは滞りがちで、有力な資金源とはなり得なかったのです。その結果、イエズス会は自らの経済戦略を国王や教皇などに対する「他力本願」から「自力本願」へと、方針転換せざるをえなくなっています。(「イエズス会の世界戦略」p.155)


(3)「ポルトガル商館の関税収入によって活動資金を確保する」提案


前述の書簡のうち、(Ⅱ)ペドロ・ダ・シルヴァ宛てのものにはテキストが三種類ありますが、その中で最も詳しい内容をもつものの中に「ポルトガル国庫の損失を防がんためには、堺港に税関規則を設けて収税の途を立つべきである」とあるのです。

その意味は、「国王からの援助の代りに、『ポルトガル商館』のなかに『税関』を作り、そこに『ポルトガルの関税法』を移植・適用する」ということです。

(安野眞幸著 「教会領長崎」イエズス会と日本 p.22~26)

ザビエルはポルトガル国王が布教保護権にもとづきイエズス会を財政的にもっと支援すべきなのに〈不十分だ〉とかねてから不満に思っていました。

(そこで、)日本上陸当初から、貿易の仕組みのなかの「税関規則」を通じて、イエズス会の活動資金を捻出する計画を持ち、それをいつの日か実行することを目指したのでしょう。

つまり、「堺へのポルトガル商館設置」の提案には、関税徴収の仕組みを導入することによって、ポルトガル国王やロ-マ教皇からの交付金に依存せずにイエズス会の活動資金を確保するという意図が含まれていたのです。

実際に、「ポルトガル国王交付金には、大きく分けて現金支払いのものと現物支給によるものがあったが、現金支払いのものは、マラッカ、コチンにあるポルトガル税関から-それは、おそらく(税関が徴収した)関税収入の一部だったとおもわれるー支払われていた。」(「イエズス会の世界戦略p.154)ということです。


6.トーレスの眼に映ったザビエルの姿


(1)以上により、ト-レスの眼に映ったはずのザビエルの姿をまとめてみると、

   ・心身の疲労をいとわず献身的に働き続ける
   ・布教地に関して広範囲かつ綿密に情報を収集する
   ・移動中も情報収集を絶やさず、得られた情報へ機動的かつ迅速に対応する
   ・活動方針を堅持し組織的課題を確実に履行する

既に書きましたように、これは、まるで現代企業の新規市場開拓マニュアル上の課題項目ですから、これらの課題を律儀に消化していたザビエルは、上司も部下も組織もが望む「有能かつ模範的な新規市場開拓推進責任者」ということになるでしょう。

もしこれが、偉人伝のような書物に書かれたものであれば、かなり割り引いて受け取る必要があるでしょうが、残された客観的な記録をつなぎ合わせると、こういうイメ-ジが浮かび上がるのですから、ザビエルは本当に「有能かつ模範的な新規市場開拓推進責任者」であったのでは、と思えてきます。

加えて、離日してからわずか1年後に心身の疲労によって亡くなっている、つまり『過労死』していることが、また、それを裏付けているようです。


(2)一方で、日本到着の2か月後にザビエルが書いた書簡から、また別の面も見えてきます。

・ザビエルは、当時の海外布教が、カトリック修道会とポルトガル国家の「教俗一体」の体制の下、国家的プロジェクトとして進められていることを十二分に理解し、自分がその担い手であるこも強く自覚していたこと。

・「教俗一体」という以上、布教について、国王が経済的負担を負うことは当然であるが、教会側の人間である自分も、その経済的負担を軽減するための手法を考案したり、実行したりすることによって、ポルトガルの貿易取引と利潤拡大に積極的に取り組む考えであったこと。

・ポルトガル商館を堺に設置し、商館の関税収入によって、国王やロ-マ教皇からの交付金に依存せずに、イエズス会の活動資金を確保しようとの考えがあったこと。


このようなザビエルの姿はトーレスの眼にどう映ったでしょうか。
また、それによってト-レスはどのような考えを持ったのでしょうか。
それは、次回考えることにしたいと思います。


〈つづく〉

[参考図書]

長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯-パチェコ・ディエゴ著 中央出版社
キリシタンの世紀-ザビエル渡日から「鎖国」まで-  高瀬弘一郎著 岩波書店
海外貿易から読む戦国時代                武光誠著 PHP新書291
イエズス会の世界戦略                 高橋裕史著 講談社選書メチエ
教会領長崎 イエズス会と日本             安野眞幸著 講談社選書メチエ























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by GFauree | 2015-10-08 10:38 | ザビエルとト-レス | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。