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                         〈メンデス・ピントの肖像〉




前回[その3]では、「伝説の名医修道士」ルイス・デ・アルメイダが、イエズス会に入会する前に生きていた世界を表わしていると思われる以下三つ事項のうち、1.について、私の思うところを書きました。


1.ザビエルの「中国使節派遣計画」を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ
2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント
3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


今回[その4]では、2.および3.について、私が考えるところを書いてみたいと思います。



2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント



(1)メンデス・ピントとルイス・デ・アルメイダの比較

     
     ①ポルトガルでの職業  ②従軍経験        ③商人経験
                    
ピント   船員や貴族の使用人  インド方面で2~3年間  1539~54(15年)
アルメイダ 医師または医学生     なし         1548~55 (7年)

     
     ④イエズス会入会年齢  ⑤持参金         ⑥在籍年数
 
ピント   40~45歳        5千ドゥカド    1554~58(4年)
アルメイダ    30歳      4~5千ドゥカド    1555~83(28年)



①、②、③
ポルトガルでの職業・従軍・商人と経験が全く違いますから、考え方も違っていたことでしょう。

ピントがこの歳になって、全く違う世界に入るには、それなりの理由があったでしょう。

持参金は、ほぼ同額です。これが、相場だったのでしょうか。
(これが、現在の貨幣価値にしてどのくらいのものになるか、次回[その5]で検討したいと思います。)

在籍年数の違いが、まさに二人の考え方の違いを表わしているのではないか、と思いました。



(2)メンデス・ピントの修道士経験


・ピントは、1544年および1546年にポルトガル人船長ジョルジ・アルヴァレスの船で種子島経由山川に来航していますから、まさに鉄砲伝来の時期に来航したポルトガル人の一人です。(アルヴァレスは、日本人アンジロ-をザビエルに紹介したとされている、人物です。)

・ピントは、また、1547年マラッカで1551年日本で、ザビエルに会っています。

1554年3月、ゴアに帰還したザビエルの遺骸を見て、翌月、バレト・ベルショ-ル・ヌネス率いる日本渡航グル-プに加わり、ゴアを出発しています。

・バレトの渡航グル-プへの参加に際し、私財を投じ大使を志願しています。
これは、何処かで聞いた参加の仕方です。そうです、ディオゴ・ペレイラも大使として参加することを条件に、ザビエルの「中国使節派遣計画」に賛同していました。



〈大使になるのは投資事業を管理し、将来的なビジネス・チャンスを掴むためだったのでは〉



・マラッカ長官アタイ-デが「海商ディオゴが中国大使とは身分不相応」と罵ったと言う話がありますが、ディオゴもピントも大使として参加したいと申し出たのは、別に名誉が欲しかったからという訳ではないのでは、と私は考えます。


大使として参加すれば、まず自分が出資する案件を自分でリードすることが出来ますから、一般に事業遂行に確実性が増し、成功する可能性は高くなり、投資の安全性も増します。第二に、その案件が将来の事業に繋がる場合は、有利な立場が得られます。現代でも、投資家としての行動の原則は、極力現場に立ち会うことでしょう。


ディオゴは将来の対中国取引を、ピントは将来の対日本取引を狙って、出資し大使となろうとした面もあったのだろうと思います。そして、この人たちに、そのアイディアを囁いた人がいたはずです。それはザビエルだったのではないでしょうか。そのアイディアを彼らが受け容れてくれれば、ザビエルには積極的な出資を受けられるというメリットが生じます。



〈商人は大事な貸し手、宣教師は良質な借り手〉



海外布教活動というのは、お金のかかる事業です。ですから、国王、教皇からの交付金は必須ですが、その支払いは滞りがちだったということです。つまり、国やカトリック教会は意外と充てにならなかったということです。

まして、インドから見て、日本などの新規に開拓すべき布教地での活動には、相当の費用がかかりますから、日本を目指す場合は宣教師はまず後援者・出資者を探したのではないかと思います。

ザビエルは、ピントから山口の修院建設費用300ドゥカドを借りたとのことですが、借りたのはそれだけということはないでしょう。ピントからの借金も他にあったかも知れないし、他の商人からも借りていたかも知れません。そのように、商人というのは大事な資金提供者だったのではないでしょうか。

逆に、商人にとって、宣教師は経常的に資金需要が発生し、踏み倒したり逃げたりしない良質な借り手だったかも知れません。
(実際には、どうだったのか、例えば300ドゥカドの借入金はきちんと返済されたのか、返済原資は何だったのか、知りたいところです。まさか、相手が聖職者だったので「あるとき払いの、催促なし」でそのままになってしまったとか、後で入会したときの“持参金”と相殺された、などということはなかったでしょう。)

ところで、「マラッカ長官アタイ-デが海商ディオゴ・ペレイラに借金を申し込んだが断られ憤慨した」、という話がありますが、もしザビエルがディオゴに借金をしていて、それをアタイ-デが知ってのことだったら、自分だけ貸して貰えないのですから、アタイ-デが憤慨するのも尤もなことです。

さらに、アタイ-デがディオゴに要求したのは、借入金名目の賄賂だったかも知れません。(そういう例が、近年あったことを思い出しました。)もしそうであれば、それを断られたのですから、アタイ-デのディオゴへの、更にザビエルに対する憎しみは、何層倍も激しく募ったことでしょう。



〈ザビエルに有力な商人が付いたわけ〉



ザビエルの場合、しばしば資金を借りて、きちんと返済してくれるというだけでなく、他にも商人にとって妙味のある相手だったのではないか、と思います。

それは、ザビエルは新規の布教事業の計画を立てながら、常に、そこに出資者にとって妙味のある参加のさせ方を考え、それを教えたのではないかということです。ですから、商人は、出来るだけザビエルに接し、早い段階から彼が検討しているプロジェクト案件を察知し、より有利なプロジェクトに参加しようとしたのでしょう。その話の中には、その後の対中国取引があったでしょうし、その後の日本に対する南蛮貿易の始動につながる話もあったかも知れません。

また、それにも増して大事なことは、そのように接しているうちに、商人たちがザビエルと、人生や生き方についての話をするようになっただろう、ということです。分りやすく言えば、商人たちがザビエルに取り込まれて行ったのではないかということです。



〈ザビエルと話すと、誰でもなぜか自信が出て来て、あとで思い出す〉



なぜ、ザビエルには「人々が強く引き付けられた」という話が多いのか、皆さんは、どう思われますか。
私は、以前からそれを不思議に思ってきたのですが、今回ピントの話を読んで、ひとつの答えが浮かびました。それは、ザビエルが自分に近寄ってくる人たちと、どんな話をしたかということです。ザビエルは、自分の方から、神や天国の話をすることはなかったのではないかと、私は思います。彼は、まず相手の経験を凝っくり聴いたと思うのです。

ある程度の決して楽ではない人生経験を積んだ(大概の人が皆そうだと思いますが)人にとって、何が一番嬉しいことだと、あなたは思いますか。

それこそ、人によって様々だとは思いますが、敢えて言えば、自分の決して楽ではなかった経験が価値のあるものだと思うことが出来て、かつ、これからその経験を存分に活かせる生き方が、まだあると確信できることではないかと私は思っています。

ザビエルは、それを知っていて実践していたのではないか、と私は思うのです。彼は、相手の話を凝っと聴き、その人の楽ではなかった人生を理解し、その苦しかった経験が価値あるものであることを気付かせ、それをこれからの人生に活かす生き方を一緒に考えようとしたのではないでしょうか。

そう考えれば、コスメ・デ・ト-レスが、日本人アンジロ-が、ディオゴ・ペレイラが、そして大友宗麟までもが、なぜザビエルに強く惹かれたのかが分るような気がします。これらの人は皆、苦しい経験をし、迷い、悩んだすえにザビエルに会い、その苦しい経験が価値あるものであり、それを存分に活かせる生き方があることを、知らされた人ではないかと思うのです。

ピントの場合も、まさにそれだと思います。



〈ピントとザビエル〉



上で見てきたように、ピントの人生は幼い頃から、決して楽なものではなかったようです。その彼が40歳台に差し掛かって、これからどう生きるべきか考えていたのでしょう。

そんなときに、ザビエルに遭って、最初は商売上のメリットがありそうなので近付き、付き合い、新しい儲け話の仕組みとして布教活動に出資し管理者として参加する方式などを伝授されたりしていたのでしょう。また、それと同時に、自分の人生経験や生き方などについても話すようになっていったのでしょう。

ザビエルと話すと、なぜか心が落ち着いてこれからのことも積極的に考えられるのが不思議だったでしょう。けれども、それで彼の行動が大きく変わることはありませんでした。

それが、1554年3月、ゴアで遺骸となって戻ってきたザビエルの姿を見たとき、彼と一緒に過ごした時間や交わした会話の内容が、ピントの胸に一挙に甦ってきたのでしょう。私は、雷に打たれて回心したというような人の気持ちはよく分らないのですが、このときのピントの心境は解るような気がします。



〈ピント入会の経緯〉



ピントは、イエズス会インド管区長であったバレトに会い、彼が大規模な渡航を計画していることを知ります。それは、中国での虜囚解放と日本布教の強化・拡大というザビエルが残した課題を果たそうという意欲的な計画でした。

そこで、ピントは以前にザビエルから示唆されたアイディアを持ち出します。バレトの計画に出資し、自分自身が管理者として大使の資格で渡航グル-プに参加するというものです。丁度出資者を探していたバレトにとって、ピントの申し出は、渡りに船の有難いものでした。

ところが、バレトは、その渡航の主要な目的の一つが、日本布教の強化・拡大である以上、その代表・大使は聖職者でなければならないと言い出します。すると、ピントは、どうせ乗りかかった船だからと、イエズス会に入会し修道士となることを承諾してしまいます。人生の決断は、いつも慎重に合理的になされるとは、限りません。人は、時として、自分にとってとても重大なことを、それもそれまでの自分に相応(ふさわ)しくないことを、気軽に決めてしまうことがあるのを、私は自分の経験から知っています。

ピントが渡航に出資していたことは、マラッカで支払われた中国渡航用のカラヴェラ船の艤装費用の一部が彼の負担であるとされていることからも分ります。最終的には、彼の渡航計画への出資は、イエズス会へ入会するための“持参金”として処理されました。例え、多額の出資があったにせよ、その後の経緯を勘案するといつまでもピントを特別扱いする訳にいかなかったからではないか、と考えられます。



〈苦い結末〉



・バレト・ベルショ-ル・ヌネスの渡航グル-プは、途中、難破や海賊の襲撃に遭い、広州で何とかポルトガル人虜囚三人の解放に成功したものの、日本渡航になんと2年3カ月を費やしてしまいます。その間に。ピントの出資金などは使い果たされてしまい、彼の立場も弱いものになってしまったことでしょう。

・加えて、到着後の団長バレトは、日本の気候や食事も含めた生活全体に適応できず、僅か3カ月後、嬉しそうにインドへ戻って行きました。(ある程度の歳になってから、異郷で暮らし始めるというのは、半端じゃありません。これも、私には身に覚えのあることです。)

・ピントと共にバレトの渡航グル-プに加わっていた修道士ブランダオンによれば、ピントは「インドで最も金を蓄えた者の一人」ということですから、そういう生活に慣れたピントが、今更、修道院の雑用係をして安穏に暮らせる訳がありません。1558年2月にゴアへ帰還してイエズス会を脱会し、同年9月にリスボンへ帰着したということです。



〈ピントは後悔していたか〉



ピントは、それまでの財産も生活も投げ打ってイエズス会に入会しながら、その4年後に退会した訳ですが、彼は特に後悔はしていなかっただろうと、私は思っています。

というのは、上述の通り、彼の入会の主な目的は、日本渡航計画という投資案件に監督者として参加することだったと思うからです。投資であれば、旨くいかないことがあることを、彼は業務経験を通じて良く解かっていたでしょう。

ここで、イエズス会入会時、母国へ送っておいた2千ドゥカドが活きて来たのです。母国へ戻ったピントは,ザビエルの教え通り、苦しくもあった自分の経験を最大限に活かすべく、当時のアジア海域世界を描いた旅行記『遍歴記』の執筆をしながら、裕福ではないけれど充実した老後を送ったことでしょう。

(私が考える結末は、いつも似たようになってしまいますが、この結論はあまり無理のないところではないでしょうか。)



3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


私が、この件を採り上げたのには、二つの理由があります。


(1)ひとつは、アルメイダが、管区長バレトに対し、1555年9月16日付で平戸から、非常に懇切丁寧な手紙を送って、何とかバレトを日本に招こうとしているのは何故か、という疑問があったのです。

それは、今回、以下の事情があったことが分り、概ね見当が付きました。

①1555年4月、遭難し原住民に襲撃されていたバレト一行は、アルメイダに救助された。
②同年8月以前、アルメイダはランパカウでバレト一行に再会し、共に広州に向かった。
③バレト一行の渡航費用はピントが出資した。

アルメイダとピントとは、共にドゥアルテ・ダ・ガマの乗組員で旧知の間柄であったこともあり、救出したり同行したりする間に、アルメイダはバレト一行の事情をよく知ることができたでしょう。ゴア出発から1年経った時期に、遭難や襲撃を受けたことによる予想外の出費でピントが提供した資金は底を突き、日本まで辿り着けるかどうか覚束なくなっていたのかも知れません。

そういう事情を踏まえて、アルメイダは資金提供も含めた支援を申し出る意味で、その手紙を送ったのだろうと思うのですが、どうでしょうか。


(2)この件を採り上げた、もう一つの理由は、次のようなことです。


ディエゴ・パチェコ著「長崎を開いた人」には、バレト・ベルショ-ル・ヌネスに関して、日本到着後、気候や食事に適応できず僅か3カ月でインドへ帰ってしまったことと、以下の記述があるぐらいです。肝心の、インドから日本への渡航に2年3カ月を費やしたことや広州の虜囚解放の件は、全く触れられていないのです。

「(バレト)ヌネスは、多数の部下の意思に反し、突然の霊感に従って印度を出発し、その立派な希望にもかかわらず、日本の布教にとって、ほとんどなすところがなかった。」

やや、皮肉っぽい表現のようにも受け取れますが、パチェコ氏は何が言いたかったのでしょうか。



〈こんなことが、言いたかったのでは〉



・そもそも、ザビエルが現地官僚トップと衝突までして、私的海商と連携し広州での虜囚解放活動を支援しながら中国進出計画を進めようとしたことは無謀だった。

・インド・ゴアを出発したのが1554年4月、シンガポ-ル付近でアルメイダに救出されたのが1555年4月以降だから、出発から既に1年を経過している。ザビエルであればその区間は、およそ1カ月半で航行していた。バレト一行は、一体何をしていたのか。難破・襲撃に遭ったという事情があるとしても、その行動は不透明である。

・バレトはザビエルの遺志を引き継いで、広州のポルトガル人虜囚解放交渉に乗り出したが、解放できたのは僅かな人数に限られ、その効果に比較すると費用など代償が大き過ぎた。

周囲の忠告を聴き入れず、無理な渡航を強行し、しかも、日本ではなすところなくインドに戻り、会に多大な損失をかけたバレトの責任は重い。

・広州の虜囚解放と日本渡航を抱き合わせで決行するという無理な計画のために、膨大な資金を要し、そのために、聖職者としての教育を全く受けておらず、かつ素養のない私的海商の一人メンデス・ピントを修道士として会に引き入れたことは無定見の極みである。




南蛮医アルメイダは、現代のマザ-・テレサの男版のように語られることがあるようですが、実際はどうだったのか、次回はその辺の観点から彼の生涯全般について考えてみたいと思います。


〈つづく〉



[参考図書]

商人と宣教師 南蛮貿易の世界              岡 美穂子著 東京大学出版会
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯-  ディエゴ・パチェコ著   中央出版社
南蛮医アルメイダ ○戦国日本を生き抜いたポルトガル人   東野利夫著     柏書房








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by GFauree | 2015-11-28 14:39 | ルイス・デ・アルメイダ | Comments(2)

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                          〈フランシスコ・ザビエルの肖像〉FRANCISCO XAVIER EN EL JAPON より
                          






前回[その2]では、「伝説の名医修道士」ルイス・デ・アルメイダが、イエズス会に入会する前に生きていた世界を表わしていると思われる事項を、岡 美穂子著 「商人と宣教師 南蛮貿易の世界」の内容から抽出してみました。

それは、以下の三つの事項です。

1.ザビエルの「中国使節派遣計画」を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ

2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント

3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


今回[その3]では、上記1.ついて、私が考えるところを書いてみたいと思います。



[ザビエルの「中国使節派遣計画」を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ]


私は、ザビエルが日本での滞在を僅か2年3カ月で終わらせてインドへ戻り、企図していた中国への布教活動を開始するべく上川島へ渡り、そこで病死したことは、おぼろげながら知っていました。けれども、このように具体的な計画の下に、また妨害まで受けながら、それが実行されようとしていたことまでは、知りませんでした。


今回、この「中国使節派遣計画」の存在に接して、ルイス・アルメイダとの関連からも、またこの計画の顛末そのものも、興味深く感じています。


そこで、以下に、その二点に分けて、感ずるところをお伝えしたい、と思います。



(1)ルイス・デ・アルメイダとの関連


既に前回[その2]の記事に書きましたように、ザビエルの「中国使節派遣計画」は、1520年頃から中国沿岸部で、盛んに密貿易を行っていたポルトガル人グループと、その地域からさらに東アジアの地域を目指していたイエズス会宣教師との関係を表わしています。


アルメイダは、1550年から1555年まで、ほぼ毎年上川島⇔平戸のル-トを往来した私的貿易海商ドゥアルテ・デ・ガマの乗組員として日本を訪れているのですから、まさにそのポルトガル人グル-プに属していたことになるでしょう。


〈中国官憲による大掃討との関係〉



ザビエルの「中国使節派遣計画」は1548~49年の中国官憲による大掃討の結果、中国側の虜囚となったポルトガル人たちの解放を目的の一つとしていましたが、アルメイダがポルトガルを出てインドに着いたのは1548年の秋頃ということです。従って、おそらくは、大掃討の後に、そのグル-プに加わったのでしょう。


〈密貿易グル-プとの関係〉


元来、その地域に在留したポルトガル人たちの多くは、ポルトガル領インディア各地の要塞に部隊の随員として渡来し、離脱して海商に転向した者たちであったということです。そして、なかには、華人商人との間に金銭トラブルを起こしたり、掠奪行為を行ったりする者もあったということですから、あまりおとなしくて行儀の良い連中ではなかったのでしょう。


〈属性の違いも、アルメイダの転身の理由の一つとなったのでは〉


一方、アルメイダについては、母国で医師免許を取得していたということや、ラテン語が堪能だったということなどから、相応の教育を受けていたと思われ、当時のヨ-ロッパ社会でも相当教養の高い階層の出身だったと考えられています。


こういう、属性の違いからアルメイダが、そのポルトガル人グル-プに安住することが出来ず、聖職者に転身したと想像しても、あまり無理はなさそうです。



(2)ザビエル「中国使節派遣計画」の顛末


〈懸念したようなことが、起っていたのだ〉



私は、ザビエルの仕事の進め方というか、世渡りの仕方に危なっかしいところがあるのを、感じるようになってきました。聖職者であるにもかかわらず(聖職者であるからこそ、そんなことが出来たという面もあるのですが)、最高権力者である国王と直接のコネクションを持ちそれを存分に活用したところが、現地のポルトガル人官僚たちや、同じ聖職者仲間のうちにも多くの敵を作ったのではないか、と考えるようになったのです。


以前は、私も無闇に美化され礼賛されるザビエルを、別の世界の住人の様に冷ややかな目でみていたのですが、記事を書くために調べたりしているうちに、だんだん、他人ごとではなくなってきて、少し気恥ずかしいのですが、情が移ってきてしまったのです。そうしたら、心配したようなことが起きていたというわけです。


〈アタイ-デは、ディオゴよりザビエルが憎かったはずだ〉


「マラッカ以東のポルトガル人交易ネットワークに君臨し、強大な財力を掌握していた」海商ディオゴを、新任長官アタイ-デは、自らの権限と権益を侵しかねない競合相手と見たはずです。しかし、競合相手は陥(おとしい)れ、叩き潰(たたきつぶ)せば良いのですから、ある意味で対処は単純です。


それに対して、憎むべきはザビエルです。言うまでもなく、海外発展事業・海外布教は王権と教会が協力一致して進めるべき国家プロジェクトであり、ザビエルは教会側代表として、王権の現地官僚トップである自分をこそ支援すべき立場にあるのです。


それなのに、あろうことか、自分の競合相手を盛り立てる計画をつきつけて来た。無礼千万、叩き斬ってやりたいところだが、あいにく、ザビエルは国王のお気に入りだ。へたに手出しすると何を告げ口されるか分からない。ここは、拘束するのはディオゴだけにしておいて、ザビエルは、徹底的に孤立化させるしかない、とアタイ-デが考えても不思議ではないでしょう。


〈ザビエルは自然死だったのか〉


こうなってくると、上川島についてから僅か5カ月で死亡したというザビエルの死因が気になってきます。自然死だったのか、それとも作為死だったのか、ということです。


約70年後の1620年以降に、通辞ジョアン・ロドリゲスによって編纂された「日本教会史」には、この「中国使節派遣計画」の顛末が描かれています。もちろん、これは「教会側発表」ですから、そのつもりで読まねばなりません。


その、第3巻第26章の末尾に、ザビエルのシナ王国への入国を妨げた要因のひとつとして、「15日も続いた彼の熱病があった。そして彼は、この[熱病で]危篤におちいったのである」とあります。また、第27章には「11月20日に熱を出して、12月2日になくなった」とあって、2週間ぐらい発熱があったということだけで、原因は、はっきりしません。


〈他にも、自然死か作為死か、がはっきりしない事例がある〉


ザビエルの死から約40年後の1590年頃のことで、むしろイエズス会内部のことですが、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノに罷免された副管区長ガスパル・コエリョの死因を巡っては、それが自然死であったのか否かの疑問が呈されています。
(安野眞幸著 「教会領長崎 イエズス会と日本 講談社メチエ)


この時代のことですから、作為死が見逃される可能性は現在よりはるかに高かっただろうと思います。ということは、記録はあまりあてにならないということです。


〈アタイ-デはそんなに悪いのか〉


色々考えているうちに、疑問が出て来ました。それは、「アタイ-デはそんなに悪いのか」ということです。


マラッカ長官として勇躍、着任したところ、海外事業展開のパ-トナ-である教会側代表で旧知のザビエルは、自分のライバルであり強大な影響力を持つ海商ディエゴと提携して中国進出にも乗り出そうとしている。それを、何とか阻止しようとするのは新任官僚としては当然ではないでしょうか。


私が、それに気付いたのは、「日本教会史」の次の部分を読んでいるときです。


「ドン・アルヴァロ(アタイ-デ)は程なく、体中が酷い癩病になり、2年もたたないうちに、副王ドン・アフォンソ・デ・ノローニャが指令官の地位を解き、その財産を没収し、その罪を告発して、マラッカからインディア、インディアからポルトガルへと鎖につないだまま連れて行かせた。彼はその罪の故に、終身獄につながれていたが、死因は身体を腐らせ、親族や友人たちさえも吐き気を催した異様な臭気のする潰瘍であった。彼はその人々にも見捨てられ、かつて福者パ-ドレ(ザビエル)がいったように、名誉も財産も失って死んだ。」
(ジョアン・ロドリゲス 日本教会史 下 大航海時代叢書 X 岩波書店 p.563)


この全文をそのまま信ずることは困難でしょう。これこそ、勧善懲悪のドラマです。
そこで私は、どうして「中国使節派遣計画」の顛末を勧善懲悪のドラマとして描く必要があったのかを考えました。


〈なぜ、勧善懲悪のドラマが必要か〉


教会は国家と連携して海外布教を進めて行かなければなりませんでした。しかし、この時期、布教推進の基盤である海上輸送機能に関して、国の能力に限界が見え私的貿易商人に依存せざるを得なくなりました。その摩擦に、抵抗する現地官僚が現われ、聖職者が一人犠牲になりました。

しかし、教会は国家と今後も協力して海外布教を進めて行かねばならぬことに変わりはありません。従って、教会は外部に対し、パートナ-である国の能力の限界を明らかにしたり、それを非難したりはしません。そんな秩序を乱すようなことは、したくてもする訳にはいかないし、する筈もありません。

そこで、どちらの側が悪で、どちらの側が善であったかを、あらゆる手段を使って分りやすく明確にしておく努力が払われました。海外発展事業を進める「教俗一致」体制の中で、ザビエル等の奮闘によって、教会が国家に対して掴みかけている主導権を、より確かなものにしていくために必要な事だと考えられたのでしょう。

象徴的なのは、「右腕は、死後約60年経っても腐らず鮮血がほとばしり出た」というザビエルの『奇跡』に対して、アタイ-デの身体は「生きているうちから腐ってしまった」と、「日本教会史」ではされていることです。



次回[その4]では、

2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント
3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


について、考えるところを書きたいと思います。


〈つづく〉



[参考図書]

商人と宣教師 南蛮貿易の世界       岡 美穂子著     東京大学出版
教会領長崎 イエズス会と日本        安野眞幸著   講談社選書メチエ
日本教会史 下 ジョアン・ロドリゲス 大航海時代叢書X       岩波書店


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by GFauree | 2015-11-27 14:14 | ルイス・デ・アルメイダ | Comments(0)


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前回[その1]では、「伝説の名医修道士」と呼ばれるルイス・デ・アルメイダの日本での足跡を辿りました。

ところが、イエズス会入会以前のアルメイダについては、母国で医師免許を取ったにもかかわらずインドへ行き、ポルトガル船貿易商人としてかなり成功していたらしいということと、新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)だったことぐらいしか、それまで読んだ本には書いてありません。

「こういう時は、どうすれば良いのかな」などと、つらつら考えながら、以前に買った本を開いてみると、そこにアルメイダに関連する興味深いことが色々書かれてあるではありませんか。お蔭で、いっきに気分が晴れました。

それは、岡美穂子著「商人と宣教師 南蛮貿易の世界」(東京大学出版会)という本です。


3年ぐらい前、「1620~30年ごろのイエズス会貿易や長崎の状況について解説されている本があればいいのに」と思って、久し振りに「キリシタン時代本」を物色していたところ見つけて、面白そうだったので入手したのです。ですが、その頃は、キリシタン時代初期には興味がなかったので、ザビエルやアルメイダについて書かれていることは気が付かなかったのです。

ある書評に「学術書だけど面白すぎる」と書かれていましたが、本当でした。当地の日本人には考古学研究者の方が多いように感じますが、その中の一人である友人は、第三章の「南蛮貿易の商品リスト」が凄いと言って感動してました。

値段は高めですが、それだけの価値はあると思います。自分の経験では、内容のある良い本は古本でも新本でもだいたい高いようです。ということは、少し意外なことですが、本の値段というものは内容の価値も考慮して決められているということでしょうか。

ある程度の図書館であれば、置いてあると思います。とにかく、一度実際に手に取って目次だけでも読んでみて頂くことをお勧めします。



とここまで書いたときに、上述の本の著者である岡美穂子氏が、ご自分のブログ(南蛮の華-岡美穂子の研究ブログ-11月10日付http://mdesousa.exblog.jp/23856326/)の中で、このブログの6月20日付記事(何だか怪しい「岡本大八事件」http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)についてコメントして下さったことを知りました。


私は、ある理由によって、「キリシタン時代」の人と社会について知りたいと思うようになりました。
(理由を訊いて頂きたい気持ちも正直なところ少しあるのですが、話せば長くなってしまうので次の機会に)

そして、巷間語られている「歴史」というものには、「なんだかおかしい」・「すっきりしない」とか、逆に「すっきりし過ぎている」というような違和感を感じさせるものが少なくないことに気が付きました。その違和感をそのままにすると歴史がリアルに感じられなくなって、つまらなくなるのです。

そこで、私は違和感を感じたり、リアルに感じることができないときは、「本当はこうだったのでは」と自分で推測したり、仮説を立ててみたりすることにしました。すると、それによって、かえって以前より面白く感じられるようになったのです。

例えば、「岡本大八事件」の場合は、こういう経緯があります。

私はカトリックの家庭に育って、信者同士の強い信頼感・連帯感のようなものを子供心にですが感じていましたので、実は以前は、「家康が、晴信と大八がキリシタンであることに衝撃を受けた」と聞いて、キリスト教信者いじめに繋がったことですから大きな声では言えませんでしたが、「さすがは家康、鋭いな」などと秘かに感心していたのです。

つまり、「家康は、周りが信者ばかりであることに気が付きぞっとして、キリシタン取締りを始めた」という話は、信者じゃない人にはもちろん信者の人にも、妙に説得力があると思うのです。ですが、今回「おたあジュリアの件で家康が衝撃を受けた」と言われていることはおかしいと感じ始めて、岡本大八事件も同じではないかと思ったのです。

それで、それをそのままにするのは気持ちが悪いので、「事件の真相はこうだったのでは」という推測をしてみたところ、「家康が謀略による抹殺を図らざるを得ないほどの何かを晴信が持っていたのではないか」という疑問というのか、解釈というのか、にたどり着いたという訳です。

ただ、この場を借りて言わせて頂くと、仮にこの事件が家康と正純の謀略だとしても、私は彼らが極悪人だとか言うつもりはありません。戦国時代という武力闘争による覇権の時代を終わらせ、天下泰平のうちに長期安定政権を樹立・維持するために、特にこの時期に「謀略」という手段が徹底的に使われ、また有効だったということではないかと思うのです。その証に、本多正純も結局は濡れ衣とも考えられる罪状によって失脚しています。

             
ところで、素人である私の場合は、推論や仮説に根拠や立証が求められることはない(本当は、何かを発信する以上は根拠を示したり立証したりすべきなのかも知れませんが)のですが、研究者の方の場合は、一般に根拠や立証が当然の仕事のように考えられているので、気楽に推論や仮説を立てたりすることは出来にくいのではないかと思いますが、どうなのでしょうか。

そんな私の拙(つたな)い推論や仮説ですが、それを読んで下さって、また面白がって下さる方がいらっしゃれば、それに優る励みはありません。お礼を申し上げる方法がここ以外にありませんので、採り上げて下さった岡氏と、またこの機会にこのブログを読んで下さった方々に、お礼を申し上げたいと思います。

ひとつ、お断りしておきたいことは、今回上記の本を参考にさせて頂こうと思ったのは、前回(11月8日付)の記事を書いていたときで、全く偶然のことであり、そうであることは以下に書きます内容を読んで頂ければ分って頂けるのでは、と思います。

キリシタン時代史に関して、他の場でも書きましたが、最近どうもこういう「嬉しい偶然」のようなことを、多く経験するようになっている気がします。これは、もしかして「あの世」が近くなっているということかも知れません。






さて、本題に入りますが、「伝説の名医修道士」ルイス・デ・アルメイダが、イエズス会に入会する前に生きていた世界を表わしていると思われる事項を、岡 美穂子著 「商人と宣教師 南蛮貿易の世界」の内容から抽出してみました。

それは、以下の三つの事項です。

1.ザビエルの中国使節計画を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ
2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント
3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


これら、三つの事項の内容をまとめると、以下の様になると思います。


1.ザビエルの中国使節計画を、支援した個人海商ディオゴ・ペレイラと妨害したマラッカ長官アルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマ



1551年秋
、日本を発ったザビエルは日本での布教活動の経験を踏まえ、日本に対して宗教的・文化的影響力のある中国での改宗事業が先決であると判断し、その着手を決意していた。

インドへの帰途、上川島で旧知の有力なポルトガル人貿易商ディオゴ・ペレイラと遭い中国への使節派遣計画に賛同を得た。ザビエルの意図は、中国・ポルトガルの国交を成立させ、安全に布教活動を展開することであったが、ディオゴには、また別の狙いがあったと考えられる。

1520年頃から中国沿岸部には、盛んに密貿易を行うポルトガル人グル-プが存在した。その中に、華人商人との間に金銭トラブルを起こしたり、掠奪行為を行ったりする者もあり、それが、1548~49年の中国官憲による大掃討を引き起こす要因となった。

ディオゴは大掃討の結果捕縛され虜囚となっていたポルトガル人たちの首領的立場にあったから、配下の虜囚たちを解放するために、私財を投じ自らが大使となることを前提に、インド副王使節派遣計画に賛同したのである。

ザビエルは、インド副王の承認を得るためゴアに戻るべく、ディオゴと共に上川島を発ちマラッカに向かった。マラッカでは、次期長官に就任予定であったアルヴァロ・アタイ-デ・ダ・ガマと面会し中国使節計画を相談したが、アタイ-デがザビエルの知己の人物であったこともあってか、積極的支援の約束を取り付けることが出来た。

ところが、ゴアで副王との交渉を済ませ、マラッカへ戻ってみると、次期長官アタイ-デがディオゴの出港を阻止、ザビエルは上川島に着いたものの、密入国さえ果たせず、1552年12月に死亡した。

アタイ-デの妨害行為は海商の首領ディオゴ・ペレイラとの確執に起因していたと考えられる。ディオゴの排斥を目論んだアタイ-デは、ザビエルによって教会からの破門を宣告され、インド副王令によって逮捕され、司令官職を罷免され、全財産を没収され失脚した。




2.もう一人の貿易商出身のイエズス会修道士メンデス・ピント



〈メンデス・ピントの経歴〉


1509~1511年、または1514年
、ポルトガル、大学都市コインブラ近辺に生まれた。
1521年、リスボンへ上京、船員や貴族の使用人として働く。
1537~1539年、インド方面で従軍。
1539~1554年、インド・マラバ-ル海岸、マラッカを拠点として、東アジア海域を商人として移動。
1554年4月、私財(5千ドゥカド)をイエズス会に寄進し修道士となる決心をする。



(イエズス会バレト・ベルショ-ル・ヌネス神父、アイレス・ブランダオン修道士の書簡の内容を整理すると、)


①ルイス・デ・アルメイダ
とともに、ドゥアルテ・デ・ガマの船の乗組員であった。
 ガマは、1550年から1555年まで、主に上川島⇔平戸のルートをほぼ毎年往来した私的貿易海商である。

②1547年
マラッカで、1551年日本でザビエルに会い、日本ではザビエルに布教資金(山口の修院建設費用300クルザ-ド)を貸し付けた

ゴアに帰還直後のザビエルの遺骸に接しイエズス会への入会を決意。

日本の領主たちは自分の友人であると語り、日本の領主改宗を目的としたインド副王使節派遣の費用と教会建設に私財を投ずるとし、自ら大使に志願した。



・1554年
バレト・ベルショ-ル・ヌネス率いるイエズス会日本渡航グル-プに参加した。

・1540年代に、日本及び中国沿岸部を往来する商人であったとすれば、
上記1.で述べたポルトガル人グル-プ同様リャンポ-の密貿易拠点に出入りしていた可能性は高い。

・1558年2月、ゴアに帰還してイエズス会を脱会し、同年9月リスボンに帰着した。
イエズス会に対する奉仕やインド副王派遣大使としての日本での働きを理由に、宮廷に年金支給を請求したが受理されず、
アジアでの体験と伝聞をもとに、『遍歴記』を執筆した。

・1583年7月死亡。

ピント研究の権威レベッカ・カッツは、彼が改宗ユダヤ人であったとしている。




3.イエズス会インド管区長バレト・ベルショ-ル・ヌネスとルイス・デ・アルメイダについて 


(ディエゴ・パチェコ著「長崎を開いた人」・東野利夫著「南蛮医アルメイダ」の内容も合わせてみました。)


1554年4月インド管区長バレト率いるイエズス会グル-プがインドから日本に向けて出発。
(1554年、日本から帰航したポルトガル人に日本布教の有望なることを示唆され、また大友義鎮(宗麟)がインド総督にあてた親善書簡により、日本視察を実行する計画を立てた。)

((バレト)ヌネスは多数の部下の意思に反し、突然の霊感に従って印度を出発し、もし必要ならば日本に留まろうと決めていた。その立派な希望にもかかわらず、日本の布教にとってほとんどなすところがなかった。)


1554年、マラッカで長官から中国渡航用のカラヴェラ船を提供されたが、その艤装費用800クルザ-ドをメンデス・ピントとその船の船長コスメ・ロドリゲスが捻出した。


1555年4月、そのグル-プがシンガポ-ル海峡付近で遭難し、その後マレ-半島ジョホ-ル付近で原住民に襲われていたところ、付近を航行していたナヴィオ船長ルイス・デ・アルメイダに救出された。


救助された後、一旦、アルメイダと別れたが、ランパカウに到着してから、彼と再会する。
そこで、アルメイダも同行して、ポルトガル人虜囚解放のため広州に向かう。
(ルイス・フロイスの書簡には、アルメイダが明朝官憲からの信頼が厚いことにより、特別にバレトに同行することが許されたとある。)


上記1.で述べたようにザビエルの中国使節計画は失敗に終わったが、海商の首領ディオゴ・ペレイラの狙いであった広州のポルトガル人虜囚解放のための折衝は、こうしてインド管区長バレトに引き継がれたことになる。


最終的には1555年、バレトの交渉により、広州の牢にいたポルトガル人のうち少なくとも三人が解放された。


バレト自身の書簡によれば、彼は二度広州へ行き、一回ごとに一か月滞在している。
一度目は龍ゼン香を、二度目は保釈金1500パルダウを持参した。
保釈金は複数のポルトガル人からの貸付と喜捨でまかなわれた。

バレトの交渉は、おそらくディオゴ・ペレイラの要請に応じたもので、保釈金の大半はディオゴによって用意された可能性があると考えられる。


・その後、アルメイダは日本に向かい、同(1555)年晩夏、平戸に上陸し、“霊操”をするために豊後へ行き、イエズス会に入会する。

1555年末、バレト一行はランパカウで越冬する。


1556年7月、バレト一行は府内に入港する。一行にはガスパル・ヴィレラ神父、ギリェルモとルイ・ペレイラの二修道士がいたとされているが、メンデス・ピントも含まれていた筈である。
(結果として、インド・ゴアを出発から2年3カ月が経過していた。


次回[その3]では、以上三つの事項について、私の思うところを書かせて頂きます。


〈つづく〉

[参考図書]

商人と宣教師 南蛮貿易の世界            岡 美穂子著 東京大学出版会
南蛮医アルメイダ 戦国日本を生きぬいたポルトガル人 東野 利夫著     柏書房
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯 パチェコ・ディエゴ著   中央出版社





 


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by GFauree | 2015-11-22 07:49 | ルイス・デ・アルメイダ | Comments(0)





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〈伝説の名医修道士〉



ルイス・デ・アルメイダ
の名前は、小説『出星前夜』の第一行目に「伝説の名医修道士」として出てきます。
『出星前夜』は「島原の乱」を題材にした、飯嶋和一の作品です。

「島原の乱」の七年前、寛永七年(1630年)の春、主人公 外崎恵舟(とのざき けいしゅう)はフランシスコ会の修道士ガブリエル・マグダレナと出会います。

「七十年前に、有馬領 口之津港にやってきたルイス・アルメイダ以来、噂や伝承では何度も聞いていたが、彼らが起こすという『奇跡』というものを恵舟は目のあたりにした。」

「その(マグダレナの)慈悲にあふれた清廉な人柄と、分け隔てのない献身的な治療は、天よりの使者そのものだった。彼の手によって生命を助けられた日本人は数えきれないほどである。」

言うまでもなく、ガブリエル・マグダレナのモデルは、七十年前の「伝説の名医修道士」ルイス・デ・アルメイダでしょう。

アルメイダは、ポルトガル船貿易商人として蓄積した莫大な財産を持ってイエズス会修道士に転じ、医師としての知識や技術を医療と病院建設・運営に注ぎ込んだ人物として知られています。

また、彼の入会時の“持参金”は、病院経営のみならず、日本での布教開始後間もなかった会の活動そのものを支えたという面もあったようです。

その他、彼が新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)であったことに絡み、医師の免許を持っていながらなぜ祖国を遠く離れて生きようとしたのか、貿易商人として成功しながらなぜ聖職者へ転身しようとしたのかなど色々と謎の多い人物でもあります。

まずは、比較的記録の多い、来日してイエズス会に入会したあたりから、彼の足跡を辿ってみようと思います。




〈インドでト-レスに会っていたアルメイダ〉



1552年
は、フランシスコ・ザビエルが離日しインドへ戻った年の翌年ですが、この年に、アルメイダはポルトガル船々長ドゥアルテ・ダ・ガマの共同経営者として、ガマの船で鹿児島に着き、平戸を経由してコスメ・デ・ト-レスに会うべく山口に向かっています。

アルメイダがリスボンからゴアに着いたのが1548年の秋ごろで、ト-レスを含むザビエル一行が日本に向けゴアを発ったのが1549年4月ですから、アルメイダとト-レスはゴアで会っていた可能性があるのです。



〈全財産を慈善事業と布教活動に提供したアルメイダ〉




1555年夏
、ドゥアルテ・ダ・ガマの船が平戸に着き、その船にアルメイダが乗っていました。彼はこの時三十歳であり、自分の人生の進路をはっきりさせたいと考え、イエズス会の“霊操”と呼ばれる精神修養を行うために豊後へ向かいます。

“霊操”を行っていたとき、アルメイダは豊後において飢餓と貧困による嬰児殺しの悪弊が横行していることを知ったようです。彼は、見棄てられた孤児の収容施設の開設を申し出ます。

この後、アルメイダはイエズス会に入る決心をします。入会する前に、貿易商人として蓄積した自分の全財産のうち、一部を豊後における慈善事業つまり孤児の収容施設(後の病院)に、残りを布教の維持のために使われることを前提にイエズス会に引き渡したということです。

ところが、施設に収容した乳児に牛乳を与えたことが、当時の日本の食習慣に合わなかったため、「赤子を畜生同然に扱っている」とか、「外国人宣教師が赤子の生血を吸っている」などの噂が立ったことや、また運営にあたったミゼルコルディア(慈悲の組)の信者の体力負担が過重になったことなどによって、孤児の収容施設は約1年後に廃止のやむなきに至ります。



〈“人生の師”インド管区長ベルショ-ル-ル・ヌ-ネスの来日〉



1556年7月
、イエズス会インド管区長ベルショ-ル・ヌ-ネス神父とガスパ-ル・ヴィレラ神父及びギリェルモとルイ・ペレイラの二修道士が府内に到着しました。

このヌ-ネス神父は、日本の食事や生活環境に順応できず三カ月で日本を去ったのですが、元々はアルメイダが“人生の師”と仰いだ人物であったことを採り上げて、前回ザビエルとト-レスに関する記事の[その4]で、「世の中、わからないものだ」などと軽率にも書いてしまいました。

ところが、ヌーネス神父がインドのゴアを出発したのは1554年4月ですから、出発からなんと2年3カ月を費やし、日本に着いた時には心身ともに疲れ果てていたという事情があったのです。

他人のせいにしてはいけないのですが、「長崎の人」の著者パチェコ・ディエゴ氏はそんなことにはまったく触れずに、ヌ-ネス神父に対して批判的な口調で書いていますので、うっかり信じ込んでしまいました。イエズス会士の歴史家の仰ることは、例え同じイエズス会士に対する批判であっても、気を付けなければいけないという良い(悪い)例だと肝に銘じなければなりません。

このヌ-ネス神父の長旅には、ザビエルや、貿易商としてアルメイダより遥かに格上だったと思われるディオゴ・ペレイラや、アルメイダ自身も絡んで、もっと複雑で興味深い事情があることが分りましたので、次回[その2]でその事情を説明させて頂くつもりです。



〈病院の開設〉



孤児のための施設は廃止せざるを得ない事情があったのですが、その後も北部九州の争乱の収まる気配はなく、社会不安の中で苦しむ病人を見て、アルメイダは病院開設の必要性を痛感したのでしょう。ところが、病院開設には、宗麟配下の重臣や社寺の神官・僧侶の猛烈な反発や妨害があり、それを乗り越えて領主宗麟の認可を得る必要があったのです。

どのような工作によって領主宗麟の認可を得たかについて具体的な記録はありません。ただ、戦わずして九州一円の覇権を手にしようとした宗麟の戦略にとって、アルメイダがもたらした貿易の利益こそ、将軍足利家に貢ぐ多額の献金の資金源として最も重要なものだった可能性があります。

1557年、このような困難を克服しながら病院は開設され、次第に収容する患者も増していきました。ところが、1560年7月、豊後府内に入港したマヌエル・メンド-サの船便で、「医療禁令」の通達がイエズス会本部から届けられた、とされています。



〈医療禁令〉



この「医療禁令」というのは、1558年、イエズス会本部で行われた「最高宗門会議」で決議されたもので、「聖職者の地位にあるものは、人間の生命に直接かかわる医療施術、生死の判決に関わる裁判官(法律家)の職についてはならぬ」という特命であった。

聖職者は、死すべき宿命をもった人間の魂の永遠の救済こそが真の職務であって、現世での肉体の生死に関わる医療行為に携わったり、生殺与奪の権をもつ裁判官になったりしてはならぬというのが、この禁令の主旨であった。

「医療禁令」によって、アルメイダはじめイエズス会士たちは、府内病院から一切手を引き、あとは日本人の医療従事者に任せた。しかし、日本人の医療従事者の技量や評判は悪く、病院は次第に衰退して行った。

以上が、東野利夫著「南蛮医アルメイダ」(p.171~172)に書かれている内容です。


私は、この「医療禁令」について、以前にどこかで読んだことがあるような気がして、色々探してみたのですが見あたりません。また、「人間の魂の救済こそが、聖職者の真の職務なのだから、現世での肉体の生死に関わる医療行為を行ったり、人の生殺与奪の権をもつ裁判官に成ったりしてはいけない」という理屈は、一応、筋が通っていると思うし、これも読んだことがある気がします。

けれども、1558年イエズス会本部で行われた『最高宗門会議』という部分に私は違和感を感じているのです。



〈『最高宗門会議』という名称について〉



まず、『最高宗門会議』という名称は「いかにもそれらしい」のですが、本当に、そんな会議があったのかどうか、私は疑問を感じています。

ウイリアム・バンガ-ド著「イエズス会の歴史」(原書房)に次のようなことが書かれています。

「イグナティウスは1556年7月31日に死去した。イグナティウスの死後2年間、『総会』が招集されなかったが、1558年6月に20人の荘厳誓願司祭がロ-マに集まり『総会』が招集された。」

当時、最高の議決機関は総会でしょうから、『最高宗門会議』ではなくて『総会』なら話は分かります。『最高宗門会議』という「いかにもそれらしい」言葉の元の言語での名称を知りたいところです。


〈「医療禁令」について一言も触れていないパチェコ・ディエゴ氏〉


イエズス会士である歴史家パチェコ・ディエゴ氏は自著「長崎を開いた人」(中央出版社)の中で、この「医療禁令」について一言も触れていません。

ただ、「府内の病院はもう彼がいなくても困らなかった」と書いてあるだけです。

私は、以前にその部分を読んだとき、それを「自分が育てたポジションに安住させない」というイエズス会の方針の現われと考えて、人使いの粗さは現代企業並みだと思ったりしたのですが、パチェコ・ディエゴ氏が「医療禁令」に触れていないことには、何か別の意味があったのかも知れないと、今は思います。



〈「医療禁令」はアルメイダの病院に対する妨害だったのでは、それとも、イエズス会内部以外の場所から出されたものだったのでは〉



中西啓著「長崎のオランダ医たち」(岩波新書)によれば、
アルメイダは、1559年11月頃、インド・ゴアのコレジオの修道士やコチンのコレジオ長ヌネスにあてた書簡に「病院経営に関する援助を受けたい」と書き送っていたということです。

こういう連絡で、アルメイダの病院の成功がイエズス会内でも知れ渡り、妨害が入ったのではないかということをまず思いました。なにしろ、何処の組織でも自分が成功したときに、まず気を付けなければいけないのは、仲間の嫉妬・羨望です。

また、そもそも、聖職者が医療行為に従事したり、裁判官職に就くことに疑義が呈されるとしたら、それは、イエズス会内の聖職者に対するだけでなく、他の修道会も含めたカトリック教会全体の問題だった筈であり、そうであれば「医療禁令」が出されたのはイエズス会以外の場(例えば、ロ-マ法王庁内など)であったのではないか、とも考えます。



〈開拓伝道士アルメイダ〉


病院から手を引いたアルメイダは、1561年初夏の頃から、「開拓伝道士」としての活動を開始します。

それは、過労のため病床に伏すとき以外は、各地を転々として布教活動に没頭する生活です。訪れた土地の名前と洗礼を授けた人の数だけを羅列しても、“生ける車輪”と呼ばれた彼の活動ぶりを表わし尽くすことは出来ないでしょう。

そこで、ここでは、この時期の彼の活動の中で代表的なものを抽出してみることにします。


〈薩摩布教〉


1561年
、薩摩の泊(とまり)に停泊中だったポルトガル船の船長マヌエル・メンド-サが、「布教活動の自由を約束するから、宣教師を常駐させて欲しい」旨の領主島津貴久の書簡を託されて豊後に来たため、アルメイダはト-レスから薩摩行きを命じられました。

薩摩に着いたアルメイダは島津貴久と対面しましたが、期待した反応は得られませんでした。ただ、貴久の依頼に応じて、ポルトガル貿易船を誘致するためのイエズス会インド管区長宛書簡を翻訳したようです。


〈横瀬浦開港〉


1562年
、大村領主純忠を訪れるようト-レスから指示があり、アルメイダは薩摩から豊後に戻り横瀬浦に向かいます。

横瀬浦にはポルトガル船が入港しており、純忠からは今後もポルトガル船を常時入港させるための条件が提示されました。

1.横瀬浦の数カ所に教会を建て、これに収入を与えるために周囲2レグア(12キロ)の土地と農民を教会に供出する。
2.横瀬浦には宣教師の許可なく異教徒を居住させない。
3.ポルトガル船と貿易する商人に対しては十年間、税を免除する。

ト-レスも豊後から横瀬浦に赴き、今後ここに布教本部を置くことを決定する一方、アルメイダを豊後の大友宗麟のもとに派遣し、宗麟の理解を求めています。

宗麟からは、ト-レスに早期に豊後に戻って欲しい旨の伝言があったとのことですが、
ト-レスが去れば、もはや、数多の経済的利益をもたらすポルトガル船が豊後に寄港することがないことは自明のことでした。



〈当時の九州の情勢の概観〉


アルメイダは当時の九州の情勢を次のように分析しています。

「九州には、最も強力な領主が三人いる。
第一は豊後の大友氏、第二は薩摩の島津氏、第三が有馬の領主義直である。」

アルメイダは、有馬の領主を味方に引き入れるために数回訪問しました。
義直は、自領内の有力な港(口之津、島原)を布教の拠点として、ポルトガル船が来航することを希望していたということです。

1563年に、大村純忠が受洗しました。
(有馬義貞の受洗は1576年、大友宗麟は1578年です。)



〈横瀬浦の焼打ち〉


1563年8月
、横瀬浦は純忠の義弟・後藤貴明によって焼打ちされます。

1564年、有馬の領主義貞からの招きを受けて、ト-レスはアルメイダを派遣します。
その年の夏、ト-レスは有馬領内の口之津に布教本部を置き、3年後には2~3艘のポルトガル船が入港するようになりました。



〈福田沖の合戦〉


1565年
、ポルトガル船が大村領福田に入港します。
横瀬浦に入港しようとしたのですが、港が壊滅していたため平戸に向かったところ、平戸にいた宣教師がその船を福田に誘導したのです。

平戸領主松浦隆信の水軍と堺商人の大型船が福田浦を襲い、ポルトガルの黒船二隻が応戦し『福田沖の合戦』が繰り広げられましたが、襲撃側が敗退しました。

福田港に駆けつけたアルメイダは、イエズス会の委託投資の財貨を処分するとともに、大村氏・大友氏・有馬氏などイエズス会を支持する領主たちに有利な取引条件を指示したと考えられています。



〈宗麟への軍事援助と戦争調停〉


1569年
、大友宗麟は決戦の年を迎えます。
中国、山口を支配した毛利元就が北九州に進出しようとし、薩摩の島津や肥前の竜造寺も攻撃の機会を狙っていました。

まず、大友と毛利の決戦は、イエズス会の命運を決する重大な意味を持つことから、絶対に宗麟に勝たせなければならないとの考えがあったでしょう。アルメイダは、その2年前から大友氏の火器弾薬の調達をしていたと考えられています。

「良質の硝石(火薬)を他に渡さず、自分のみに与えること」や「既に送られた大砲が船の沈没で届かなかったため、大砲を再送すること」を要請する宗麟の海外在住司教たち宛の書簡を仲介したのは、アルメイダだと思われます。

アルメイダが宗麟との密談後大内輝弘を訪問し、その後、輝弘が宗麟から授けられた七千の兵で、毛利軍の後方周防(山口)を攻撃したために毛利軍が退却し宗麟が勝利した戦闘もあります。

また、大友勢の侵攻を中止してくれるように純忠から懇願されたト-レスの指示によって、アルメイダが宗麟のもとに駆けつけ、宗麟とその臣下の武将たちに、大村領への攻撃をしないように根回しをしたこともありました。


〈新布教長カブラル着任〉


1570年6月
、長くアルメイダとコンビを組んできたトーレスに代わる新任布教長フランシスコ・カブラルが着任します。カブラルは、アルメイダが成し遂げてきた数々の経営上の貢献に全く無理解な態度を示します。

1571年9月頃から、アルメイダの足取りが消えてしまいます。その後3年間、書簡など一切の史料が欠如しているのです。何らかの理由によって書簡が紛失したことも考えられます。

島原・天草地方の布教活動に従事していたとの推測もありますが、堅固な組織であればあるほど、外側からは計り知れないところがあるのが普通です。イエズス会だけが例外であるという根拠はありませんから、何か特殊な事態が発生していたのではないかと、私は思います。


〈司祭叙階と他界〉


1579年、アルメイダは巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノによって、他の3名の修道士と共にマカオに送られ、翌年1月、ついに司祭に叙階されます。(1555年のイエズス会入会から25年後です。)

その年6月、新司祭たちは長崎に帰着しますが、同時にマカオを発った多数のジャンク船が大量の武器弾薬と食糧を積んで口之津港に入っています。有馬領を攻略していた龍造寺隆信は、この武器弾薬を受けて優勢に転じた有馬軍によって駆逐されたということです。


それから3年後、天草河内浦(現在の河浦町)の茅葺きの貧しい住院で、アルメイダは、“生ける車輪(ヴィヴァ・ロ-ダ)”と呼ばれた生涯を閉じました。



〈つづく〉



次回[その2]では、来日する以前のアルメイダがどのような人たちと、どのような環境で生きていたのかを考えてみたいと思います。


[参考図書]

南蛮医アルメイダ 戦国日本を生き抜いたポルトガル人    東野利夫著    柏書房
長崎のオランダ医たち                   中西 啓著   岩波新書
長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯   パチェコ・ディエゴ著  中央出版社
教会領長崎 イエズス会と日本               安野眞幸著 講談社メチエ
キリシタンの里                      遠藤周作著   中公文庫






























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by GFauree | 2015-11-08 14:10 | ルイス・デ・アルメイダ | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。